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はてなキーワード: 営為とは

2022-02-15

anond:20220215092605

元々(特に現代アートなんて資本主義営為のものなのに、今更そんなこと言われてもねって感じ

2021-12-17

人生ってマジでなんなんだよ

とにかく労働が多すぎるし、そこに目を瞑ることが仮にできたとしたって、病気とか事故とかそういうイヤ〜な要素はかなりある

しかも避けられない 

コンテンツとして、間違いなく「万人受けする」とは言えないだろこれ

俺はこのコンテンツめちゃくちゃ嫌いですよ

メイン部分が本当に受け付けない

自由意志やるかやらないかを選べるなら、絶対にやらないと断言できる

他人に勧めるか?と言われたら、絶対に勧めない 

人生を始めるかどうか迷ってる人がいたら、本当にやめておけ!というと思う

で、俺、これ勝手に始めさせられてんだよな

マジで納得がいかない

カンタンにやめられるならまだ許せたし、もうとっくにやめてるだろうけど、実際やめるのも結構難しい

昔一回やめようとして失敗してそこそこの騒ぎになったし…

なんかこう、「客観的に見て好みが分かれるうえにメチャクチャ長いコンテンツを、他人強制的摂取させて、やめることは許さない」みたいな構造なわけじゃないですか

ひどくねえか?

せめてやめさせてくれよ

俺もういいよこれ

飽きたとかじゃなく、シンプルにつまんないし嫌いです not for meです

いいところが何ひとつないとは言わないし、好きな人がいるのもわかるし、好きな人は楽しんでたらいいんじゃないかと思います

でも、俺はやめたいですし、他人強制的やらせるもんではないと思います

本当に頭おかしいですよ

勝手他人を巻き込んで、降りることも許さない、そんなのが当たり前に許されてる営為ってほかにないじゃん

お茶はいかがですか?」で合意の大切さを学ぶ、みたいな動画あったじゃん

完全にアレなんだよな

俺は口に無理矢理お茶を注ぎ込まれて、やめてくれ、こんなのは飲みたくない!つってんのに、社会のものが「お茶はおいしいものなのだから、飲みなさい、飲まないことは悲しいことだ」みてえなことを言ってくる

そんなバカな!

やりたくないことを無理やりやらすなよ

ホントに頼みます

2021-11-21

ここ最近の子供を見て気づいた。ブサイクとブスは結婚できない。

ここ最近の子供、10~18歳ぐらいの子供を見て気づいた。

全然ブサイク、ブスな子供自分たち時代よりも減っているということだ。

圧倒的に減っている印象がある。

まり、これは、社会的に、「ブサイクと、ブスの遺伝子が淘汰されている」ということだ。

の子どもたちも、あるていど格好いいしかわいい。

どうしてこんな事になってしまったのだろうか?

ある程度美男美女でないと子孫を残せないという社会的な淘汰が圧倒的に進んでしまったのだと思う。

これは進化論的な結果だろうか?

種の多様性という観点からすると、かなりヤバいと思っているし、何より「ナチ優生政策をいつの間にか社会が受け入れてしまった」

という敗北の証でもあると思ってる。

昔はそもそも、そういうブサイク、ブスであっても、お見合いおばさんがそれなりに相手の満足できるように相手を探して引き合わせて結婚まで話を持っていったのだが、そういう救済策もない。

そもそも社会全体が、「結婚して家庭を持ち子孫を残す」という人間としての当然の営為にたいして、あまりにも高いハードルを掛けすぎている。

これは外見だけではない。給料も、時間も、親としての義務についてもである

年収600万以上ある普通男性

という婚活女性言葉があるが、アレは常識がないと思いつつ、しかし、「東京結婚してあるていどの文化資本キープできるボーダーライン生活を送るとなると、それぐらいはほしいよな」ということも理解できるのだ。

少なくとも、偏差値が60以上の人間でないと真っ当な親としては認められない社会であると思う。

つのまにか、自然社会優生政策を取ってしまった。

ブサイクブスと貧乏人は結婚するな」になってしまった。

自由恋愛も大いに結構だが、同時に、ブサイクとブスに貧乏人が子孫を残せないという社会になってしまたことには非常に危険性を感じている。

これは、リベラル的な価値観も、結局のところつきつめれば優生政策になってしまったのだと思ってる。

こういうことを言うと、「女をあてがえってことか」と言われるが、そうではない。

ルッキズムから弾かれた男女や貧乏人がが、家族を持って子孫を残すという機会が、社会的に異様にハードルが高くなっていたという話をしているのである

2021-11-01

大阪府民に同情する。

 自分は反・自民党人間なんだけれど、現在居住地安倍晋三地元である。我が身のために自分の考えを日頃は表には出さないが、選挙の度に非・自民党政党候補者投票している。しかし、蟷螂之斧である

 そんな自分営為とは裏腹に、はてブユーザーの中に多数存在するリベラルの人々からは、安倍晋三地元暮らしているというだけで我々山口県民は十把一絡げにされ、罵詈雑言の標的にされてきた。というか、現在進行形で今も標的にされている。彼らは「安倍晋三地元にも反・自民党派や反・安倍派の有権者存在する」という想像力を発揮することは無い。彼らは自動的に「安倍晋三地元住民リベラルの敵」と見做す。

 現在は、維新議席を増やしたために大阪府民が、はてブコメント罵詈雑言の標的とされている。それを見て、自分は心の底から同情している。大阪府民にも、反・維新派の有権者存在するはずなのに。

 彼らの理屈は「自民党維新跋扈を許したのだから山口県民や大阪府民が相手ならば幾らでも罵詈雑言を浴びせても構わない」というものである

 ちょっとだけ想像してみて欲しい。アル・カイダISIL武力支配している地域暮らしている人々に対して、あなたたちは罵詈雑言を浴びせるのか?武力による支配を受けているわけではないが、非力な少数派が蟷螂之斧の営為を続けながら暮らしているという意味では、我々も同じである

 反・自民党かつ反・安倍晋三自分だが、はてブコメント山口県民や大阪府民を口汚く罵る人たちを見ると、自民党安倍晋三を見る時よりも遥かに強く、どす黒い感情を抱くようになりつつある。

 反自民党や反維新の闘いを続けているのは、我々地域住民有権者たちである。その気持ちを踏みにじって、十把一絡げにして罵詈雑言を浴びせるのを今すぐ止めろ!

2021-09-24

およそ4割の女性の胸は揺れている

松戸市Vtuber戸定さんの動画問題になっていますね。松戸市、割とご近所ですので、気になっております

特にはてなではおっぱいが揺れてるぞってことが問題になってますよね。おっぱいなんて普通は揺れないのにわざわざ揺らすな、みたいな話が結構言われてます

https://anond.hatelabo.jp/20210920015426

 

でも、おっぱいが揺れるのってそんな特別なことだったっけ?と思ったので、

ちょうど街へ出て1時間ほど暇をつぶす機会に恵まれましたので、実際のところ女性の胸は揺れているのかどうか、見てきました。

 

(こんなキモいことをやる(やった)にあたり、自分スタンスをはっきりさせておくと、胸部の揺れについて、好きか嫌いかでいうと、私は非常に好きと言えると思います。例えばポルノビデオ作品や、あるいは妻との実地の行為において、営為最中に胸部が激しく揺れたりするのを見るのは非常に昂奮いたしますし、そのような直接的な話でなくとも、ブラトップなどを着用した妻が前を通り過ぎた際に「オッ揺れたな」などと感じ、情欲が盛り上がってくることなどがあります。)

 

観察の方法

駅前コーヒーショップの窓側カウンターから路上を通過するすべての女性認識できる人の胸部を観測しました。

次のような人は計測から除外しました。

男性

乳児幼児

・胸部、服装髪型、相貌のいずれにおいても女性男性判断のつかない人

「胸部が揺れたかどうか」については、判断の難しい場合は揺れてない方に倒しました。「オッ揺れてるな」と感じる場合のみ揺れ確認としてカウントしています

 

結果

観測した女性 100人

胸部の揺れが確認できた女性 37人

とりあえず100人で数えるのをやめました。あんまり窓の外を凝視してるのも不審なので

 

考察とか

37%、多いとも少ないとも取れる数字ですけれども、10人の女性が歩いてたら3人ぐらいは揺れてるんじゃないかということなので、元増田でいうように、「非日常」というほどでもないですね。もともと私が抱いてた印象とも合うような気がします。

まあでも、上記増田は「できるだけ揺れないように暮らしている」ということでしたし、集計にあたって、女性属性をいちいち記載する時間はなかったのですが、確かに、胸部の目立つ女性であっても、全然揺れてないなって感じの人はいました。

そして、完全に印象ですが、若そうに見える女性の方が、揺れる率は少なかったと思います。たぶん。

ありていに言えば、おばあちゃんおっぱいは揺れてることが多かったと思います

とは言え、派手目な格好の若い女性とか、若いママさんがゆるい服をぷるぷる揺らしながら歩いてるのも確認しましたので、まあ、やっぱ、非日常というほどでもないのかもしれません。

 

そんで、そもそもの話で、しか私自身の感想なっちゃうんですけど、しかもこんなことやった後で言うのもなんなんですけど、胸が揺れてるのって、ニュートラル状態で見てたら、あんまりエロく感じないですね。

少なくとも私は、知らない女性の胸が歩くたびにちょっとプルンて動くのをみても、ふくらはぎがプルッとするのとあんま違いは感じないです。そんなに期待したほどでもなかったなという、新たな発見でした。

「乳揺れ」っていう語感とか、おっぱいが揺れているぞ!おっぱいが!って強く意識したらまあエロいこともないんですけど、前提としてその人を好ましく思ってないとなかなか難しいみたいです。

おっぱいが揺れるの、好きだと思ってたんですけど、単に妻が好きなだけだったみたいですね(照)

 

    

……で、ひるがえって問題になってるVtuber戸定さんの交通安全動画で胸がたゆたゆするやつ、見ましたけども、そりゃあ可愛い女の子の胸がたゆたゆしているわけなんで、エロいと言えばエロいとは思います

でもまあ……このぐらいはしょうがないんじゃないかと思いました。Vtuberの人ってやたらとぴょんぴょん動くし、揺れてもしょうがないんじゃないのって感じです。

 

結論として、アニメとかVtuberの胸が揺れるのをなくすべきかっていうと、私は揺れてたっていいとは思ってるんですけど、でも難しいですね。私も娘がいる身ですので、例えば妻とか、あるいは今後、高校生とかなった娘が外で胸をタプタプさせながら歩いていたら、ちょっと嫌だというか、やめなさいぐらいは言っちゃうと思いますし、それが他所の娘さんならいいんか?って話ですもんね。

 

なんかあんまりまとまらなかったです。

とりあえず、久々に街に出たので面白かったです。では。

2021-07-06

サッカー選手差別発言フランス在住作家

 フランス人サッカー選手フランス語日本人/アジア人差別する発言したことに関して、フランス在住の日本人作家が「これは差別発言ではない」と擁護していた。これを擁護した理由は、彼が「仮想的(ヴァーチャル)フランス人」になりきっているからだろう。

 昔から日本では「仮想的(ヴァーチャル)外国人」になりきって「日本/日本人ダメだ。ただし『ヴァーチャル外国人である自分例外とする」というスタイルで、自分たちが棄てた日本日本人を腐すビジネスを行う人間がいる。例えば、外国人結婚してパートナー出身国移住し、日本人向けに「ダメ日本人とは異なり、X国人はこんな素敵な生活を送っている」的な日本書籍を出して小銭を稼ぐタイプ人間である

 万葉集には、桜を詠んだ歌よりも梅を詠んだ歌の方が多い。それは、梅を愛でることが、当時の先進国であった中国大陸文化だったかである。実は、昔から日本人舶来信仰が強いのである。それでも万葉人たちは、大陸文化に憧れる一方で、日本列島に生きる自分たち自身文化を、自らの手で作り出そうとする気概も持ち合わせていた。しかし、現代仮想的(ヴァーチャル)外国人は、そうではない。日本ダメな部分を何とかするべき当事者としての責任を持つことや、日本改善する為の具体的な営為に携わる泥臭い努力を、彼らは好まない。それよりも「ダメ日本/日本人のことを罵ったり嘲笑する」ことの方を好む。言うまでもなく、その方がラクからである

 仮想的(ヴァーチャル)外国人としての思考の持ち主は「日本死ね!」が流行語大賞に選出されれば快哉を叫ぶし、外国人による日本人差別発言に関しては「これは差別発言ではない」と擁護したりする。こんな彼らの根底に有るものは何かと言えば、仮想的(ヴァーチャル)外国人としてのショーヴィニズムと、それに加えて、没落国/発展途上国人間相手ならば何をしても/言っても許されるという強烈な差別意識である。私は、このような仮想的(ヴァーチャル)外国人としてのショーヴィニズムを“盲目的愛異国心”と心密かに呼んでいる。

 最近よく「もう日本は没落し始めた国なのだから、その国民である日本人も何かを言う資格は無い」的なことを言う人間を、はてなブックマークでも見かけるが、こういう人間仮想的(ヴァーチャル)外国人の一つの例と言えるだろう。これも「日本ダメになったのは自分以外の日本人責任である」という考え方である

 さて、人間は大なり小なり、他者差別する欲求を持つ。とはいえ少し知恵が身に付くと、己の差別意識をそのまま表明することは、社会的に良ろしくない振る舞いであると(よほどの愚か者ではない限りは)学習する。その時、真っ当な人間たちは、差別をしない方向に努め始めるが、他方では、何とか理屈を付けて合法的(?)に差別欲求を満たしたいという明後日の方向に努力する人間も現れる。そんな彼らが編み出したのが、仮想的(ヴァーチャル)外国人になりきって、日本/日本人馬鹿にすることで、己の差別欲求を満たす手法というわけである。「日本日本人を罵ったり嘲笑することは、差別ではない。何故ならば、言っている自分日本人から」という理屈である

 「これは嘲笑罵倒ではなく、自嘲的な批判である」「ダメ日本/日本人を何とかしたいと思っているからこそ、敢えて汚い言葉を使うのだ」という論法も頻繁に用いられる。そんな彼らの言う「ダメ日本/日本人」に、彼ら自身が含まれることは決して無い。彼らの中では、あくまでもダメなのは「彼ら以外の日本人である。また「日本を良くしたいから汚い言葉を使う」とは言うが、その汚い言葉使いを、彼らが属しているつもりになっている、仮想母国であるX国を相手に使うことは無いと言っても過言ではない。欠点の無い国や過ちを犯したことの無い国は存在しないのだから、従って、彼らの精神的・仮想的(ヴァーチャル)母国に該当するX国も、日本と同様に汚い言葉で罵ったり嘲笑しても構わない筈なのだが。

 件のフランス在住作家や、彼のサッカー選手擁護鵜呑みにしていた人間たちも、仮想的(ヴァーチャル)フランス人になろうとしているようである。それだけならば、別に彼らの勝手から好きにすれば良い話ではあるのだが、しかし彼らのしていることは、畢竟「おフランスダンナ。あっしは他のニホンザルと違って、ダンナのすることに逆らいやしませんからね。あっしのことを、他のニホンザルと同じに扱わないで下さいね?あっしはダンナと同じく『フランス人』ですからね?」という阿り以外の何物でもない。ビリーアイリッシュのC-word発言映像に対して「自分アジア人だけど気にしない」と、彼女に阿るコメントをする日本人アジア人が多数いたのも、これも同じ動機である

 日本人(アジア人)としてのダメな部分に、きちんと当事者として向き合っていないから、いざ日本人(アジア人)差別に遭遇した時に「これは差別ではない!非日本人(非アジア人)に生まれ変わった現在自分が、アジア人差別なんかに遭うはずが無い!」と現実逃避する羽目になるのである

 X国の部分をフランス以外の国に入れ換えれば、同じことをしている人間は沢山いる。貴方の周囲にだって、一人や二人はいるだろう。そういう人間は、件のフランス在住作家と同じ轍を踏む可能性が有る。気をつけた方が良い。

2021-04-22

セックスダサい」魂が必要

セックスダサいじゃないですか

クサイ・キタナイ・キケン3Kで、動きはみっともないし、知性のかけらもねえし、虫でもできるカスみたいな営為

漢字の「四」を理解できるサルはいないが、セックスできるサルは無数にいる

愚かで野蛮な行為なんだ 基本的

本能に逆らうなってのはおかし

本能に従って生きるのが偉いんなら、みんなマジメ腐って労働なんかに従事してるはずがない

カスタマーなり上司なりをぶん殴って、机をひっくり返して外に走り出すのが本能だろ 

こんな晴れた日に狭苦しいオフィスに閉じこもって画面ばっか見てんのはあきらかにだって話になるわけ

人間本能と訣別する方向性を選んだ

なのにセックス固執しているのは異常だ

やめましょうよアレ

チョー気持ち悪いし、ダッセェよ

2021-03-29

「何日でも語れる」←ウソをつけ〜っ!

かなり好きなもんでも、3時間もあればかなり語り尽くしてしまうだろ

語るのって難しくないですか?

あれかな、漫画とかだったら、現物を1ページ1ページめくりながら解説感想を加えていくのを「語る」つってんのかな

そんなんズルでしょ それだったら俺ぁ、ポケモン全然詳しくないが、名探偵ピカチュウについて3〜4時間は語れることになる

本編を使うのは「語り」じゃねえ

己のパッションのみで突っ走るべきでしょ

で、「何日でも語れる」とき

絶対無理なんだよな 一日の長さをナメるなよ

いくらでも歌えるぞ〜ッ!って気持ち一人カラオケなんかに行っても、5〜6時間あればかなり満足してしま

歌なんて一曲あたりの消費時間がそこそこあるものでもそうなんだ

脳髄から言葉を絞り出す営為100%の「語り」行為を、そうそう何時間も続けられるワケがないです 何日なんてもってのほか

とにかく盛りすぎなんですよね

2021-03-19

表現の自由について

https://anond.hatelabo.jp/20210318185716

これを見落としててレスポンスが遅れた。

 

 

素晴らしい。あなたのことが大好きだ。

元増田擁護する人達は、彼のヤバさを理解してない

 

 

ブコメレス元増田擁護してる人達の多くが、派閥的な「敵/味方」の判定をして味方側だとみなしたからか、

元増田が言ってることの過激さに気づいてないように見える。

 

元増田の主張は、おそらくウマ娘ファンの多くの認識とも、

同人活動二次創作擁護する人々の一般的見解とも違ってると思う。

もう一度元のエントリをよく読んで、みなさん本当にこの増田の言い分に乗っていいのか、

改めて考えてみたほうがいいんじゃないかしらん。

"

全く持って完璧あなたの読解は正しい。

その通りです。

私はエクストリーム表現の自由戦士なんです。

あなたのようにちゃんと読んでたらわかるよね。

 

から見ればキモオタたちは全然表現の自由活用度が緩い。

私の見解キモオタたちの見解全然違いますし、

私がキモオタについて語ってる部分は、彼等とスタンスの異なる他者の視座から「彼らはこう見えるよ」つってます

国語の点数低い馬鹿が「勝手オタク代表してるのがよくない」とか言っててうんざりしました) 

 

 

失われたら、ファンのほうも公式の「お願い」なんか無視して

あらゆる毀損表現を尽くしたっていいって言ってるんだよ。

表現の自由の本義に立てばそうなりまさーね。

そういうことをする必要があるのかは別問題として。

 

 

一次権利者にお願いされようが何されようが二次利用原則的に「なんでもあり」で、

いまウマ娘がそうなってないのは〈たまたまウマ娘公式面白くて人気があって

ファンに好感を持たれてるからファンに対して特権的な「お願い」権を持ってるんだ、

人気あるゆえの特別扱いなんだ、と言っている。ヤベーじゃん。

やべーよ?

 

 

一方で、ブコメへの追記反論の部分を見てみると、突然「土地を人に駐車場として貸す」「契約書」という例え話が出てきたりもする。つまり元増田も、心の中ではこれが権利者と利用者関係、何かについて権利を持つ側と利用する側の関係であることは薄々理解してるんだけど、このエントリで「フェミ表現規制派は俺たちに好意的じゃないから、俺たちもお前らの『お願い』は聞いてやらん」というストーリーに沿って話を進めるために、その核心には徹底して触れないようにしてたということ。最後ポロリしちゃったけど。

あらここは残念。

あのさあ、どっちを権利者に例えてるかわかってる?

キモオタ側よ?

 

まりここで言ってる権利とは。

サイゲームス著作権じゃありません。

キモオタ表現の自由の方です。

 

ほんとは書きたくなかったけどそこは注釈まで入れたのに

私がヤバイと気づいたあなた誤読してしまったのはとても残念だ。

 

  

オタクウマ娘公式のお願いを聞く理由」が「権利者と利用者の力関係」にあるのはみんなわかってる


でも、この「権利を持つ側と利用する側との力関係」こそが「オタクウマ娘公式のお願いを聞ける理由だってことは、多くのウマ娘擁護派にとっても自明の話でしょ?

彼らの自認としてはそうなんだろうけど

表現の自由の本義としてはそういう論理ではないし

彼らの行動だってよくよく見ていくとその自認と実態が違うと思うよ。

 

 

といった内容が多数ある。御説ごもっともで、自分もこのことが「お願いを聞く理由」の根本にあると思う。でも元増田は、ウマ娘コミュニティ公式への反応の根底にはこの著作者利用者権利関係があることを認識しつつ、あくまで「そうではないことにしたい」のね。著作物二次利用という行為につきもの権利関係力学をわかっていながら、あたかもそれが存在しないかように、純粋公式オタク好意的関係性にもとづいて、オタクの側が「お願い」を聞いてあげているかのように書いてる。これって、明らかに増田自己欺瞞でしょ。

私の欺瞞とはなんでしょうか。

表現の自由著作権の下位ではありません。

百歩譲っても緊張感のある相克関係にあります

 

そして欺瞞はむしろキモオタさんサイドにありますよ。

著作権者のお願いがあったのに二次創作やり続けた例なんかごまんとあります

自分意識してるかどうかは別として、彼等は自己説明ほど行儀がよいわけではない。

  

(または、もしかしてしかすると、元増田二次創作という営為に伴って同人界がず〜っと抱えてきた権利関係をめぐる緊張感や危機意識について全く理解せず、「表現の自由は全てに優越する」と考えてる、マジモンの「表現の自由戦士」だという可能性もあるけど、それはそれで皆さんお困りでしょう。)

判断がおそい。

 

 

もし元増田が「コンテンツ二次利用権利者のお目こぼしのもとで成り立ってるグレーゾーンで、『お願い』を無視し続ければより厳しい使用規制が課せられたり、コンテンツ自体供給されなくなっちゃ危険があるから、みんなそれを避けるために『お願い』を遵守してる。そうした権利関係のない第三者からああしろこうしろと『お願い』されるのとは状況が全く異なる。それを『態度が異なる』と笑うならどうぞご自由に」と(他の擁護派の方々と同じような)模範解答を言ってれば、多少の揶揄あてこすりをされる余地はあっても、主張の筋道自体には文句のつけようがなかったと思う。

私は別にオタク権利のためにモノ言ってないからそういう答弁どうでもいいんです。

なんどもそういってるよね。

そもそも私が今回興味持ったのはフェミニストの認知で、キモオタについては枝論です。

一度もキモオタを弁護するとか守護するとか言ってねーぞ。

 

 

何重にも地雷を孕んだ主張をゴリ押ししている。これにウマ娘ファンのみなさんは「そうだそうだ」と乗っちゃっていいのか?という話。

ただこれじゃ当たりやじみてるのでキモオタ名誉のために言っておくと

キモオタ側っぽいidの人たちの方が「こいつなんか変だぞ」「俺たちと違うぞ」って気づいてる反応をしてる人が多かったと思う。

フェミニスト側の人は完全に私をキモオタ弁護人キモオタ代表だと思ってる(そんなこと一度も言ってないし内容もそういうじゃないの読めばわかるのに)レスポンスばっかりで

やはり相対的認知能力低いのはキモオタサイダーではなくフェミニストサイダーだと思いました。

 

単にフェミニストが嫌いな人は私に乗れても

オタク立場や進退を考えてる人は私に乗るのを躊躇や留保してたんじゃないのかな。 

 

 

後半について

あなたはやっぱり著作権表現の自由の上位だと思ってるのでそこではっきり立場が別れる。

あなた著作権に諂うぞ笑いたけりゃ笑えという論理は力の論理であって自由論理とは違う。

 

たぶんあなたステートメントの方がオタクに支持されるものではあると思う。

こうやって書いてみて皆さんのレスポンス拝読して、なんだろう、

私はフェミニストよりもキモオタよりもだいぶサヨク度が強いんだろうなと自覚できました。

ありがとう。 

2021-03-18

元増田擁護する人達は、彼のヤバさを理解してない

ブコメレス元増田擁護してる人達の多くが、派閥的な「敵/味方」の判定をして味方側だとみなしたからか、元増田が言ってることの過激さに気づいてないように見える。元増田の主張は、おそらくウマ娘ファンの多くの認識とも、同人活動二次創作擁護する人々の一般的見解とも違ってると思う。もう一度元のエントリをよく読んで、みなさん本当にこの増田の言い分に乗っていいのか、改めて考えてみたほうがいいんじゃないかしらん。

元増田はどんなことを言っていたのか

元増田の主張の核となるのは:

ウマ娘公式好感度信頼度が高いから、オタクもふわっとした公式のお願いに従っている

②彼らは人気者ゆえに特権的な「お願い」権がある

③人気者ゆえ多少スジの通ってない横着なお願いも聞いてもらえる

という理屈

その「お願い」を聞くかどうかはあくまオタク側の裁量判断だけど、〈ウマ娘公式は〉面白いし、評判を落とす事件もなくて好感度が高いから、公式の「多少スジの通ってない、聞かなくてもいいお願い」をオタクも聞いてやっているんだ、ということ。フェミ表現規制派の「お願い」は聞かないが、ウマ娘公式の「お願い」は聞いてやる。それは〈ウマ娘公式が〉ファン好意を持たれているからにすぎない。もしその好意が失われれば、ファンウマ娘公式の「お願い」に付き合う義理はない、ということ。

まり元増田は「オタクウマ娘公式のお願いなら聞ける」理由は、権利者と利用者権利関係考慮しているからではなくて、権利者と対等(または優越的)な立場にある二次利用者や鑑賞者側が、あくまで「権利者への好意」にもとづいて、本当はどれだけやっても構わないことをあえて手控えているかのように語ってるわけ。具体的には:

だってウマ娘公式のお願いなんて聞かなくてもいいんだもの

「お願いはお願いでしかない」

「この状況下、別にウマ娘同人誌エロく描こうがグロく描こうが殺そうが馬刺しにして食おうがなんでもありでしょ?」

とまで言ってる。勇ましい。でもこの主張って、ウマ娘やその他の同人コンテンツファンにとって本当に味方といえるんすかねえ。だって公式が何かポカやってファンからの「好意」が失われたら、ファンのほうも公式の「お願い」なんか無視してあらゆる毀損表現を尽くしたっていいって言ってるんだよ。一次権利者にお願いされようが何されようが二次利用原則的に「なんでもあり」で、いまウマ娘がそうなってないのは〈たまたまウマ娘公式面白くて人気があってファンに好感を持たれてるからファンに対して特権的な「お願い」権を持ってるんだ、人気あるゆえの特別扱いなんだ、と言っている。ヤベーじゃん。

一方で、ブコメへの追記反論の部分を見てみると、突然「土地を人に駐車場として貸す」「契約書」という例え話が出てきたりもする。つまり元増田も、心の中ではこれが権利者と利用者関係、何かについて権利を持つ側と利用する側の関係であることは薄々理解してるんだけど、このエントリで「フェミ表現規制派は俺たちに好意的じゃないから、俺たちもお前らの『お願い』は聞いてやらん」というストーリーに沿って話を進めるために、その核心には徹底して触れないようにしてたということ。最後ポロリしちゃったけど。

オタクウマ娘公式のお願いを聞く理由」が「権利者と利用者の力関係」にあるのはみんなわかってる

でも、この「権利を持つ側と利用する側との力関係」こそが「オタクウマ娘公式のお願いを聞ける理由だってことは、多くのウマ娘擁護派にとっても自明の話でしょ?

たとえば id:aa_R_waiwai さんがブコメで張ったURL http://doujinsokuhou45.com/archives/8925157.html では、元増田エントリに対して、擁護派の多くが

原作者絶対

表現自由著作権による制限は違う」

「そこで戦ったりしたら表現自由が潰されるかもしれんから

二次創作の可否は著作権法上の問題からウマ娘から関係ない」

と書いてるし、元増田へのブコメでも、増田擁護する立場から(実は擁護になってないんだけど)、

権利者が言うなら最大限擁護するよ」

「いうこと聞かないと飯の種が奪われるか奪われないかの違い」

権利から要請なんだから従うか訴えられるリスクを背負うかの2択で普通は前者を選ぶってだけの話」

「そらそうやろその気になればコンテンツ自体取り下げれる立場なんやし…」

著作権あるからそりゃ当然よ」

権利者とクレーマー立場の違い」

といった内容が多数ある。御説ごもっともで、自分もこのことが「お願いを聞く理由」の根本にあると思う。でも元増田は、ウマ娘コミュニティ公式への反応の根底にはこの著作者利用者権利関係があることを認識しつつ、あくまで「そうではないことにしたい」のね。著作物二次利用という行為につきもの権利関係力学をわかっていながら、あたかもそれが存在しないかように、純粋公式オタク好意的な関係性にもとづいて、オタクの側が「お願い」を聞いてあげているかのように書いてる。これって、明らかに増田自己欺瞞でしょ。

(または、もしかしてしかすると、元増田二次創作という営為に伴って同人界がず〜っと抱えてきた権利関係をめぐる緊張感や危機意識について全く理解せず、「表現自由は全てに優越する」と考えてる、マジモンの「表現自由戦士」だという可能性もあるけど、それはそれで皆さんお困りでしょう。)

もし元増田が「コンテンツ二次利用権利者のお目こぼしのもとで成り立ってるグレーゾーンで、『お願い』を無視し続ければより厳しい使用規制が課せられたり、コンテンツ自体供給されなくなっちゃ危険があるから、みんなそれを避けるために『お願い』を遵守してる。そうした権利関係のない第三者からああしろこうしろと『お願い』されるのとは状況が全く異なる。それを『態度が異なる』と笑うならどうぞご自由に」と(他の擁護派の方々と同じような)模範解答を言ってれば、多少の揶揄あてこすりをされる余地はあっても、主張の筋道自体には文句のつけようがなかったと思う。でも実際は、元増田は「二次利用はなんでもありだが、ウマ娘公式オタク好意を持たれているから、オタクのほうも彼らの『お願い』を聞いてやってる。でもフェミニストや表現規制派はオタク好意を持っていないし持たれてもいないから、オタクにも彼らの『お願い』を聞く義理はない」という、何重にも地雷を孕んだ主張をゴリ押ししている。これにウマ娘ファンのみなさんは「そうだそうだ」と乗っちゃっていいのか?という話。

そういうお前はどうなんだ

自分は、著作物に対する著作者の諸権利には二次利用者の表現自由優越する要素が確実にあると思う。だから著作権を持つコンテンツホルダーに対して二次利用者が配慮を示すこと自体は、何らおかしなことじゃない。「コンテンツに対する権利を持ってる人達ガチで怒ったらどうなるかわからいから、謙抑的にやりましょう」というのは二次利用者としてごく常識的判断だし、自分だって似た状況が発生したらフツーに相手の「お願い」に従うし、何ならゴロニャンする。日頃「表現自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい

それはコンテンツホルダーの権利との関係でそうするのが当然だと思うからで、間違っても「あいつらのお願いに従うかどうかはこちらの腹ひとつだが(何だったらエロく描いたりグロく描いたり○したり馬刺しにして食うこともできるんだが)、あいつらには好感を持っているし、我々の評価を落とすような事件も起こしてないから、今はその〈お願い〉を聞いてやってるんだ。テメーらはそうじゃないだろ!」なんてことを第三者に向かって言わない。

だってバカみたいじゃん。

anond:20210317235416

2021-03-01

必読書コピペマジレスしてみる・自分オススメ41冊編(2)

戻る→anond:20210301080105

倉橋由美子聖少女

まり男性女性がとは言いたくないのだが、女性作家の描く知的早熟少年たちというのは、エルサ・モランテの「アルトゥーロの島」なんかでもそうなんだが、男性が描くときはまた違った魅力を発する。サリンジャー知的論理的自分を追い詰める子供たちとはまた別の硬さがあってよい。新城カズマサマータイムトラベラー」の高度に知的でありながら情緒は年相応な少年少女もいい。

さておき、これは近親相姦お話なのだが、印象に残っている描写は次の通り。主人公たちの仲間に大食漢の男がいて、しばしば生肉弁当の代わりに食らっている。回りの女子生徒たちも面白がって彼に餌付け(?)していたのだが、ある女子生徒がブルマーを入れていた袋の中に隠していたウサギを、生きたままで彼に与えた。血まみれで凄惨な場面でありながらも、大食漢は実においしそうに平らげていた。

例の文学少女から薦められて読んだことでも思い出深い一篇。

ミラン・クンデラ存在の耐えられない軽さ」

頭が良くてモテる男が主人公なのでいけ好かないモテること、たくさんセックスすることこそが人生の目的になっているような奴は理解できない。なんか知らないやつにいきなり人の部屋をのぞきまれ、「お前の人生にはエロスが足りない!」と叫んで出ていかれるような気分がする。しかし、これもまた祖国を追われた人間が、知性と皮肉現実適応しようとした姿なのかもしれないのだ。

それと、この本で感謝しているのは、さまざまな政治的活動に対して感じていた居心地の悪さを、「キッチュ」をはじめとしたさまざまな言葉言語化してくれたことだ。ポリコレを正しいと信じているのに、そこにあるどうにも解消できない居心地の悪さが気になる人が読むといいんじゃないかな。

あとは頭が良すぎて、多くの人が無視したり忘れていたりしていることが見えてしまい、幸せになれない著者みたいなタイプが読むと幸せになれそう。イワンカラマーゾフとか御冷ミァハみたいに、頭が良すぎて不幸になるというか、自分の知性をどこか持て余してしまタイプキャラクターが好きだ。

メアリーシェリーフランケンシュタイン

死体から作られた怪物がただただかわいそう。容貌醜悪なだけで化け物として追われ、創造主からも拒絶された彼の孤独を考えるだけで悲しくなる。まったく同じ理由で「オペラ座の怪人」も好きだ。どちらも間違いなく殺人者ではあるのだけれども、容姿馬鹿にされたことがあるのなら共感せずにはいられないだろう。関係ないけど、オペラ座の怪人ヒロインから振られたことを受け入れられたのって、やっぱり正面から振ってもらったからだよな、と思う。音信不通フェードアウトされたら怨念はなかなか成仏しない。

それと、これはSF的な感覚かもしれないが、人間離れした(時としてグロテスクな)姿を持つ存在が、非常に知的であるというシチュエーションがとても好きで、その理由から後述の「時間からの影」や「狂気山脈にて」も愛好している。

ロード・ダンセイニ「ぺガーナの神々」

架空神話ショートショート形式で述べられていく。ただそれだけなのにこんなに魅力的なのはなぜだろう。彼の作品基本的に短く、しょうもないオチ作品も割とあるのだけれども、時に偉大で時に卑小な神々の物語は、壮大な架空世界に連れて行ってくれるし、すぐ隣に隠れているかもしれない小さな妖精魔法も見せてくれる。

テッド・チャン「息吹」

あなたの人生の物語」とどっちにするかやっぱり迷った。映画メッセージ」の原作が入ってるし、増田で盛り上がってるルッキズムテーマ作品だってある。だが、寡作な人なのでこの2冊しか出していないし、片方が気に入ったらきっともう片方も読みたくなる。

表題作は、意識を持ったロボットのような存在がいる宇宙お話なのだけれども、そのロボット自分の脳をのぞき込んでその複雑な仕組みに心を打たれる。そして、世界を観察することで、何万年も経てばこの世界は滅んでしまうことを悟る。人間とは全く似ても似つかないロボットたちだが、やっていることは人間サイエンス、真理の追求という営みと本質的には同じだ。何かを知ろうとする営為の尊さについて語っている。得られた知恵で、自分たちも世界もいつかは終わってしまうと知ることになろうとも、知識を求める崇高さは変わらないのだ。

イワンセルゲーヴィチ・ツルゲーネフ「初恋」

学生時代自分女性に冷たくされる文学が好きだった。からかわれたりもてあそばされたり馬鹿にされたりする作品のほうが好きだ。そのほうがリアリティがあったから。寝取られ文学が好きなのもそれが理由だし、谷崎潤一郎作品も同様の理由で好きだ。

自分馬鹿にしていた少女が突然しおらしくなり、自分に近づいてくる。いったいどうしたことか、と思って期待しながら読んで、絶望に叩き落されるがいい。

イサク・ディネセン「アフリカの日々」

ライ麦畑」でホールデン少年が感動した本。アフリカ植民地で暮らす女性視点からその生活を書いている。友人のイギリス人が亡くなったとき、まるで故郷をしのぶかのように墓が深い霧に包まれたシーンがとても美しい。

個人的には、当時の基準からすればアフリカの人々に対して丁寧に接しており、評価も概して公平であるように感じた。ところどころ「有色人種特有の」といった表現があったり、アフリカ前近代社会とみなしたり、古い進歩史観は見られるし、植民地支配者側から視点批判的に読まなければならないが、色眼鏡比較的少ない観点に心を動かされてしまったのは事実だ。

植民地時代アフリカって、宗主国以外の人もたくさんいたこともわかって面白い。当時は英領東アフリカだが、そこにはスウェーデン人もいればノルウェー人もいる。古くから貿易相手としてのインド人だっている。独立後、彼らは日本人満州朝鮮半島台湾などから引き揚げたように、撤退したのだろう。植民地について理解するためにもおすすめ

J・R・R・トールキン指輪物語

はまった。十代の頃にとにかくどっぷりとはまった。今でも表紙のエルフ文字を使って誰にも読まれたくないことをメモするレベルではまった。

かに話の展開は遅い。重厚に過ぎる。設定を語るためのページも多い。しかし、この長大小説を読むことで、開始数ページで読者をひきつけなければならない現代小説からは得られない、長い旅をしたという実感を得られるのは確かだ。小説家には良き編集者の助言は必要だが、今のように急ぐ必要のなかった時代もあったことは忘れたくない。

中島敦「狼疾記」

李陵」や「弟子」や「山月記」じゃなくてなんでこれなのか、という声もするのだけれど、自意識過剰文学少年の思っていることをすべて言語化してくれているので推さずにはいられなかった。十代の頃の感受性は、何よりもこうしたものを求めていた。親の本棚にこれが積んであったのは幸運だった。

これは「三造もの」と呼ばれる中島敦私小説的の一つであり、世界の滅亡や文明無意味さに対する形而上学的な恐れや不安意識の片隅にある人間なら確実に刺さる内容だ。最後説教パートもさほどうっとうしくない。なぜなら、きっと文学少年文学少女たちは、その言葉無意識のうちに自分に投げかけてきたからだ。

ウラジーミル・ナボコフロリータ

膨大な知識と華麗な文体を背景にして、あらゆる性的な乱行を正当化してしまうのがナボコフ作品の一つの特徴である。語り手ハンバート・ハンバートは十代前半の少女を性の対象とする中年だ。自分初恋の思い出がどうこうとか述べているが、それだって言い訳だ。

しかし、この作品はただの小児性愛者の物語ではない点が油断ならない。少女ロリータはただ性的搾取されるだけの存在ではなく、自ら性の冒険に乗り出す。清純で清楚な少女という幻想は、最初からハンバート夢想の中にしか存在しない。ハンバートにはロリータ内面や考えなど最初から見えていなかったし、見ようともしてこなかった。

ただのスキャンダラスな本ではない。これは一人の身勝手男性心理の解剖である

新美南吉「屁」

ごんぎつね」の作者として知られるが、こんなふざけたタイトルの話も書いている。しかし、これは「自分は常に正しい、正しく道徳的であらねばならない」としてきた子供挫折を描いた小説であり、この社会弱者にあらゆる責任を擦り付けている様子を全く卑近話題から告発した話なのだ自分がした屁の責任かぶらされた、いつも屁をこいている少年への同情と軽蔑は、僕らの弱者への姿勢のものじゃなかろうか。

短いし、青空文庫で読めるのでオススメ

https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/3040_47823.html

仁木稔「グアルディア」

遺伝学の発展が少し早かったパラレルワールド未来舞台にした愛憎劇であり、変身ヒーローものでもある。ただのSFと違うのは、さまざまな文化が変容を受け、再解釈を受けて受容されることまでもプロットの一部として組み込んでいるところだ。さらには疑似科学陰謀論社会関係も描いている。今、読まれてほしい作家の一人だ。

仁木稔作品は僕の好み、ストライクど真ん中なんだけど、世界史や文化史、自然科学物語論の素養がないと(かじるレベルでいい)作者の構想を味わい尽くすのが難しいので、滅茶苦茶売れる作品にはならなそうだというのは認めざるを得ない。現に舞台ラテンアメリカ日本人になじみが薄いし、シリーズの別の作品中央アジアだ。それでも、伊藤計劃と並んで、社会学なんてつまらないって誤解を解いてくれた大きな恩がある作家だ。早くこのシリーズ最新刊が出ないか、今か今かと待っている。

イザベラ・バードイザベラ・バード日本紀行」

明治一年日本都市から農村を実際に歩いて見聞した手記である。率直に衛生状態の悪さやはびこる迷信批判している箇所はあるものの、その率直さが当時の日本がどんなだったか身びいきなしに教えてくれる。現代日本人が近隣の、例えば東南アジア諸国を見聞して不満がる、偽ブランドの横行や衛生状態の悪さ、家畜との同居や騒々しさなどが明治日本ではごく普通だったってことは知っておいていいと思う。

著者は北海道にも足を延ばした。アイヌ民族について日本人よりも好意的に描いている場面もある。しかし、当時の西欧人の感覚でよくわからないのだが、「粗野な外見だけどとても優しい目をしている」と褒めた民族のことを、別のところでは「将来の可能性を閉ざされ民族である」と書く点だ。もしかして、かつての人々が持っていた、文明と野蛮の間にある壁・差異イメージは、僕らが直観するよりもはるかに深刻な差別意識内包した、強固な偏見に根差しものだったのかもしれない。単純な軽蔑どころではない、もっとひどい無理解に基づいた恐ろしい何か。同じように、キリスト教によってこそ日本の悪習は絶えるという発想がどこから来たのか。そういうことを考える意味でもおススメしたい。

ハン・ガン菜食主義者」。

とても面白かった。父の暴力を遠因として、あらゆる動物的なもの嫌悪するようになった妹と、ただやり過ごすことで生きてきた姉を軸に描かれた三連作。壊れた夫婦描写に優れる。

妹は最後には精神を完全に病んで、何も食べられなくなるのだけれども、彼女が持つ植物になりたいという妄念が、本当に精神病の患者さんを観察したんじゃないかってくらい、細部にリアリティがある。

姉はおとなしいのだが、自分はただ忍従し、やり過ごしてきただけで、自分人生を全く生きていなかったのだと、夫の裏切りによってやっと気づく。夫は夫で、そのおとなしい妻に対して息苦しさを感じている。他の家庭のように、怒鳴り散らしてくれたらどれほど楽か、と嘆くのだ。

韓国ってよく叩かれているけど、日本と同じように家族のしがらみとかとかで苦しむ描写が多いので、意外とわかりやすい気がする。

進む→anond:20210301080225

2021-02-11

音楽を体系的に語れるのが羨ましい!

クラシック音楽最近話題だけど、クラッシック畑の人々の音楽の語り方は本当にカッコいい

○○派とか□□以前とかxx世紀とか、そういうワードポンポン出てくる

さすがクラッシュク、古典というだけあって、やっぱ蓄積ってもんが違うのかもしれない

いや、でもクラッシュクーだけじゃなくて、ジャズとかロックでもそういう語り方してる人はいるんだよな

コルトレーンナンチャラの絡みが云々、このバンドUKの影響を強く受けていて云々……

たぶん、どんなジャンルだろうとその気になれば体系的にツラツラ語ることはできるんだろうなと思う

クラッシュバンディクー畑の人が特にその傾向が強いだけだ 

俺もアレができるようになりたい……と思いつつ、全然できる気がせん

リバティーンズザ・ストロークスフォロワーで、Reptiliaをカバーしたのがバンドとしてはじめての活動だったらしい!みたいな、瑣末な知識しかない

ストロークスガレージロックリバイバルバンドだ!っていうのはストロークスファンとして知ってるが、他のガレージロックリバイバルバンドは知らんし、そもそもリバイバルじゃないガレージロックのことも全然知らん

最近iTunesのおかげで聴く曲の幅が広がったけど、ひとつバンドへの掘り下げは浅くなってしまった

アルバムを通しで聞くのはよほど気に入ったやつだけ……なのはからそうだけど、一度も通しで聴きすらしないことが増えた

気に入った単曲のつまみ食いばかりしていて、繋がりみたいなものを把握できてない

つか、クラッシュバンディクー趣味の人たちってどうしてるんだろう?

アルバム(?)を通しで聴く、みたいな営為クラッシュ万ディクーでやると相当キツイイメージある

個人的に好きな歌モノ、ペルゴレーシさんのStabat Materなんかも、三曲聴くと眠りの世界に誘われてしま

そもそもクラッシュ万事休す、というか管弦楽曲、生で聴いてすら眠くなるからなあ

昔相当うまいオーケストラ演奏会行ったとき、かなり感動し、もっと聴きたい!と思いながら寝るという謎の体験をした

あれどうやったら集中しつづけられるんだ?

いや、まあその辺は語り方には関係いか

とにかく、体系的に語りたいんですよね

なんとかできねえかなあ

2020-11-08

ATSUGIの件はもうフェミニズムじゃなくて良心範疇では

追記:いくつかご指摘頂き、恥ずかしく反省した点もありましたので追記します。

他の不快広告謝罪の事例

教えていただいた方、特に anond:20201108030121 の方有難うございます。私がガチ寡聞無知というだけでした。ごめんなさい。勉強します。

ワニの話のときは正直言って「ないわー」と思ってた側です。作家さんのことはかわいそうだなと思っていました。とくにレビューとか攻撃はしておりませんが、ダブスタと言われればそれまでかもしれません。

性的かどうかではなくインモラルどうかという切り口にすれば議論が発展したかもしれませんとも思いました。私は無知なので話せませんが…


食べログAmazonレビューにも攻撃的なものはたくさんある

それって飲食店作家謝罪しまたか?その攻撃的なレビュー適当ですか?ということを言いたかったのですが…適当とお考えならそれはそれでよろしいのでは…

攻撃的なレビュー普遍的ものであり、ATSUGIイラストレーターも甘んじて受け入れ謝罪するべきである」と仰りたいのでしょうか。悲しいですね。

anond:20201108024607 あらん限りは言いすぎですね。おっしゃる通りです。ごめんなさい。


not for you です

id:grdgs悪口は駄目」と曖昧倫理的問題を頻繁に提示するミソウヨダブスタを指摘したら、「強すぎるのが駄目」と曖昧ゴールポストを動かした。卑怯者だな。「明文化」も口癖のくせに / 卑怯者は増田宛てじゃない

id:porquetevas 倫理的問題言及して批判してる人も多くいたのに(自分企業倫理的に問題ありと思ってる)そこ無視した前提で語り始めるのは何なの

前置きの通り、「倫理的には問題ないけど、不快マーケティングだね!」と評していた方々についての文章ですので、「倫理的問題がある」とお考えならば特に関係のない文章かと思います。他の文章をお読みになったらいかがでしょうか。

前置きで倫理基準問題にしている人もいる、とも書きましたよね。

ちなみに最後に述べた通り、これは「私が悲しい」というお気持ち文章ですよ。倫理の話ではなく。

コメントを訂正頂いたようですので反映しました。ゴールポストを動かすのはよくないですよね。同意します。繰り言になりますが、批判感想自由だと思います

追記おわり




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anond:20201107053636

これのブコメ読んでぶわーってなったので書きました。マーケティングのほうの話です。もう宴もたけなわからまれいかもしれませんが。

前置き

今回の件はこれまでの性的表象をめぐる議論とは様子が異なっていて、まず批判する主体が実際に購買している層であったということ。次に、これまでの曖昧な(というのは露出度等の客観的基準に拠らない、という意味です)性的表象への批判ではなく、私たちの好みではない」という批判感想)が主体であったこと。これは倫理的問題ではなく、個人としての感覚動機主体であることを示しており、これまでの議論とは一線を画したものだと思いました。そして、これまでのような曖昧倫理基準に基づいた批判を展開する方は得てして少数派だったように見えました(書きながらTLを見ていたらそうでもない気もしてきましたが)。ということで以下の話は、ATSUGI広告使用された表象倫理的には問題ないものの、購買客層を不快にさせるものであるという前提で進めます

私はこの状況を見て、ATSUGIやらかしたね、謝るのも仕方ないね、これでシャンシャンだね、としばらく感じていました。しかしやはり少し違うのでは?と思ったその感想等を以下に書きたいと思います


マーケティング的な理解について

さて、私が最初この一件を仕方ないと捉えていたのはこういう意図によるものです。

ATSUGIはこれまでの客の好みを間違い、客を怒らせた。客は怒り、個人的かつ否定的感想を述べた。これに対してATSUGIは、それまでの顧客層に見放されないため、という資本主義的な理由によって自発的謝罪した。その謝罪の内容は「不快にさせたため」という理由によるものであった。それは商慣習上通常の営為であり、なるべくして収まった。彼等はマーケティングを間違えたのだ。


しかし、本当にそうでしょうか?


不快さへ対する謝罪妥当

上記の考えに至ってからしばらくした本日、私はこうも考えました。これがほかの性的表象ジェンダー無関係マーケティングだったらどうだったでしょうか、と。他のテーマでも不快広告というのは多分にあり得ます。「広告 不快」でGoogle検索すると、うっとうしい広告の事例が多く出てくると思いますしかし、これらの企業謝罪まで出しているでしょうか。

これらの企業には彼らの広告不快に感じる顧客候補を引き留める理由がないか謝罪などのアクションをしないのだ、そういうことがまず皆さんの頭に浮かぶかと思います

それではなんらかのアクションをとり、広告不快と感じた顧客を引き留めたい場合について考えてみましょう。ジェンダー性的表象以外で。ありますか?考え付きますか?広告不快にさせてしまった、失敗したと思ったら、きっと何食わぬ顔で次のキャンペーンからテイストを変えるなどの施策を打っているのではないでしょうか。

性的問題以外で不快さを理由謝罪した事例を私は寡聞にして知りません。もし知っている方がいたら、誰か教えてください。もちろん企業不祥事にかかる謝罪は連日引きも切らないところですが、不快感が不祥事になった事例がありましたでしょうか。

不快広告を出したことに対する謝罪これがまず違和感を覚えた点です。


不快さに対する批判適当

もう一つの点に移ります

かにお客様を怒らせたのはマーケターとしては完全な失態です。謝罪して顧客に戻ってきてもらいたくなるのは自然心理でしょう。

翻って消費者視点を移して考えてみたいと思いますATSUGIのラブタイツに関するSNSマーケティング後、この件に対する既存購買層から批判感想が爆発的に増加しました。ここで皆さんに聞きたいことがあるのですが、これらの批判感想の表明は適当と言えるでしょうか?

もちろんTwitter上の批判非難感想自由にあるべきです。これまで愛用してきたATSUGIブランドが全く違うテイストになり、憤懣やるかたないこともあるかもしれません。しかし、タイツについてはATSUGI以外にも多くのメーカー製造販売していますタイツ供給問題になることもない。いろいろなテイストブランドがある。かに選択肢のあるこの状況でなぜ、ラブタイツキャンペーンにここまでの批判否定的感想)が集中するのでしょうか。倫理的には問題がない広告にも関わらず。

私が今回後になっておかしいと感じたのは、フェミニズム性的表象主体客体に関することではなく、SNSによる国民レビュアー状態消費者第一主義とそこから発生したコメントスクラムです。だってそうじゃないですか?オキニブランドが嫌いになってきた、そしたら普通は黙って他のブランドに乗り換えるのがこれまでの通常の購買行動です。

レストラン対応が悪かったら、あなた情報サイトにあらん限りの攻撃的なレビューを書きますか?今回の件はそれを集団的にやられていた状態だったのではないですか?

「買ってやっているのだからどのような苦言も受け入れるべきだ」そう思っている人は今回の批判者の中に本当にいませんか?これは妥当な商慣習だと本当にそう言えますか?


なぜ倫理的問題はないと考えている人が多いにもかかわらず、ここまで炎上(そう書いて差し支えない状態だと思います)したのか、それは「こういうセクシャル表象については攻撃的な意見を表明していい」という意識の表れではないでしょうか。そうでなければ皆が皆「気持ち悪い」「不快」と声をそろえて言うことがありますか。そんなに気軽に使っていいものでしたでしょうか、「気持ち悪い」という言葉は。

なんとういかコロナ禍におけるタレント自殺率とかを思い出しますね。具体的な名前は出しませんが、SNSで事あるごとに話題に出されるタレントの心労を思うと、なかなか厳しいものがあります。今回の騒動に似ている個所もなくはないと思います


まとめ

まとめます。再度申し上げますが、批判感想自由です。それを受けてATSUGI謝罪したことについても外から口を差し挟むことではありません。それでも本件を広告問題として考えてみると、商慣習上不条理なほど叩かれ批判され「気持ち悪い」と罵られている。

それは多勢が「不快である」という言説を束になって浴びせ、「不快にさせてごめんなさい」と謝罪ATSUGIから引き出したということに他なりません倫理的には問題がないにもかかわらず)。加えてこれを是として顧みない方がTwitterはてブ上にすこぶる多い。この構図がマジ悲しいなって思って書きました。おわり。


てかこれ、フローチャートの人の言っていることと似通ってますし、理路の増田追記で補足してますね。すみませんanond:20201107191444

あとマーケティングマーケティングっていうのすごく違和感マーケティングだと意味広すぎでは…?広告って言おうよ。

2020-09-11

逆に精神的に健康作品コンテンツについて考えてみた

前回はこちら 

https://anond.hatelabo.jp/20200911202150

精神的に不健康作品コンテンツの例として、青年向け漫画も取り上げる予定だった。もつあきさんと無望菜志さんと朝凪さんを取り上げようと考えていた。

迷った挙句に書かないことにした。男性しか読んで楽しめないものは書くべきではないと考えたからだ。かといって、私がボーイズラブ世界に足を踏み入れるわけにもいかず。

その代わり、ブクマコメント要望のあった、精神的に健康コンテンツを取り上げてみようと思った。

各編ひとつずつ選んで紹介する。ひとつにつき1000字程度。たまにネタバレをする。

漫画

火の鳥

 久しぶりに読み返して、精神的に不健康作品ってそもそもどんなものなのか?と自らに問いかけることになった。

 これは面白い。「何も聞かずに読んでみて!」と無条件で人に勧めることができる数少ない漫画だ。

 火の鳥。生き血を飲むと不老不死になる。彼女(?)は人間世界を見守っている。たまに人間に捕まえられて血を取られたり、稀に自分から血をあげることもある。その血を巡ってドラマが繰り広げられる章編もあれば、そもそも生き血を飲みたいという展開のない章編もある。

 精神的に不健康描写が数多くある。不老不死テーマなだけに理不尽な死も多い。エロもあるし、グロもある。昔の漫画なのでよくない言語表現もある。

 でも、読んでいるうちに何が何だかからないまま時間が経って、読み終えると心が静かになっている。何も考えられない。心が作品に持っていかれる。

 前々回の記事で、『完全なる経営から読み取ることができる、精神的に健康人間要件として以下の5つを挙げた。

 ・今の状況をありのままに捉え、不確実な状況でも耐えることができる

 ・創造的やユーモアがある

 ・自分自分に関わる人間幸福を願う

 ・夢中になれる物がある

 ・自分能力を惜しげなく発揮している

 火の鳥に出てくる主要人物は、このいずれかを必ず持っている。持っていないこともあるが、成長とともに持つようになる。

 どのシーンも主人公に厳しい。安息の時はない。あったとしても理不尽に打ち砕かれる。各編の主人公には欲しいものや、なりたいものがある。それらを目指して戦い続ける。

 彼らが生の終わりを迎えた時、死の跡には必ず何かが残っている。

 精神的に健康/不健康作品を分かつものは、破壊創造バランスなのだと思う。精神的に不健康作品コンテンツは、最後は何かが崩壊して終わる。対して、精神的に健康作品というのは、最後に何かが創造される。

 物語過程で、登場人物が絶えず営為を繰り返している。だから読者の心に爪痕が残る。

アニメ

プリキュアシリーズ

 精神的に健康になりたいのなら、土日の朝にやっているアニメを見るのが近道かもしれない。

 人として正しい道へと導いてくれる作品が多い。

 プリキュアはその筆頭だろう。プリキュア作品を見た児童は、正しい人格の在り方や、仲間のために何をしてあげればよいか、敵に対してはどのような態度で接すべきかなど、社会生活を営むうえで大事なことを学べる。

 大人が視聴すると、忘れかけていた大事なことを思い出させてくれる。

 今やっている『ヒーリングっどプリキュア』だと、15話がよかった。のどかラビリンがあることをきっかけに喧嘩となり、冷戦状態になる。なんというか、リアルなのだラビリン問題行動を起こすきっかけも、のどかが怒った理由も。ケンカ中の態度も。

 イザという時にケンカ裏目に出てしまう。信頼関係がなくなったせいで〇〇に失敗する。

 ラテ仲介によって二人は仲直りするのだが、これもまたリアルだ。現実でも、こんなやり取りを見たことのある人がいるのではないか

 創作世界に生きている人間を、現実に生きているように描く。これができるのは一流の作品だ。当たり回はいくらでもある。騙されたと思って是非視聴してほしい。

(余談)

 大人児童向けアニメを見ても面白くないという意見もある。特に作画児童向けアニメというのは、1年間放送する関係で1話当りの予算が少ない。作画がよくないイメージが強いのではないか

 その点は安心だ。ハートキャッチプリキュア!の辺りから予算が上がっている(ような気がする)。それまでのプリキュアシリーズというのは、月に一度は作画が崩れてプリキュアの顔がおっさんになるという事態が生じていた。

 いい時代になった。ただし弊害もある。スタッフお気に入りプリキュアが贔屓されるようになった(※今は特定キャラが贔屓されることはない)。個人的意見になるが、キュアムーンライトの変身時の作画枚数が少ないのは、キュアサンシャイン変身バンクを盛大にするために暴走したスタッフのせいだと思っている。

 プリキュアシリーズがたくさんありすぎて選ぶのがしんどいと思われた貴方には、私が選んだ大人向けのプリキュアを紹介させてもらう。作品紹介は最小限に留めている。

 ★ハートキャッチプリキュア!2010年

  キャラデザは子ども向け。物語シリアスファッションショー回にスタッフの愛を感じる。

 ★スイートプリキュア♪2011年

  本物の友情を描いている。硬派で軟派。中学生なのに色気がある。

 ★ドキドキ!プリキュア2013年

  男の子向け? 保守寄りの価値観ベースにしている。お笑い描写に定評がある。

 ★Go!プリンセスプリキュア2015年

  誇りや気高さ、心の強さを描いている。みんな大好きキュアトゥインクル

 ★魔法つかいプリキュア!2016年

  少女友情がメイン。スイプリに比べれば甘々な感じ。最後の方は泣ける。

ゲーム

・かたわ少女

 フリーゲームだ。一時期話題になったので知っている人もいるだろう。

 主人公ヒロインは、病気障害を持っている。主人公である中井久夫は、ある時に心臓であることが判明し、30まで生きられるか怪しいという状態物語スタートする。

 ヒロイン障害は様々だ。目が見えない子、話すことができない子、足がない子、手がない子、火傷のある子……。

 この作品の、いったい何が精神的に健康なのかといえば、キャラクター同士の人間関係の深みを追体験できることだ。

 外国人の有志が作ったゲームなので、そのあたりの深みはとんでもない。愛情で繋がるシーンが感動的なのと同じく、信頼が消えるシーンもまた同じくらいの衝撃で心を抉ってくる。

 笑美のルートがよかった。外国人から見たとき模範的恋人同士ってこうなのかな、というのが伝わってきた。個人主義秘密主義を貫いていた笑美が、心の弱さを久夫に見せられるようになる過程に癒された。

 テキスト量が凄まじいゲームなので、ホームページを読んで感じるものがあった子をプレイするのがいい。

 ゲーム編の番外作品として、高橋邦子シリーズを挙げる。

 某動画サイトではお馴染みのシリーズであり、2011年頃までは定期的に動画投稿をしていた。

 このシリーズは、各作品制作時期によって印象がてんで異なる。

 初期の作品は見るに堪えない。まさに精神的に不健康だ。理不尽な死は基本であり、人権侵害を地でいっている。実際に見てみるのが一番早い。

 時代を経て作風は変化する。

 初期に投稿されたのは、邦子子どもの頃に作ったと思われるものだ。キャラクターはとりあえず雄叫びを上げ、とりあえず戦闘突入し、とりあえず死ぬ。そんな作品しか言いようがない。ただし、作者のセンスが飛び抜けているので結果的面白いストーリーになる。

 邦子大人になってから作ったと思われる作品は、初期のものとはまるで違う。理不尽な死が基本であるのは変わらないが、以下の特徴が挙げられる。

ユーモア意識している。特にセリフ回し。

視聴者テンションの変化を読んでプロットを組んでいる。ハリウッド映画研究している。

・真面目でひたむきなキャラが無残な死を遂げるのが減った

 現在新規作品がアップされることはまずない。

 高橋邦子大人になってしまったのだと思う。新しめの作品を視聴すると、このことがよくわかる。

 精神的に若くないと、ああい作品を作るのは難しい。例えば、会社員として適合してしまうと、そっち方面アイデアが湧いてこなくなる。

 邦子作品をまた見てみたい。

小説

百年の孤独

 1967年に発表されたガルシア・マルケス長編小説

 これまでに30ヵ国語以上に翻訳され,1000万部以上を売ったとされる。架空の町マコンドの創設から、その滅亡に至るまでのブエンディア一族歴史が描かれる。

 ブエンディア一族は、みな自らが決めた使命や、本能のままに生きている。長生きした者もいれば、短命だった者もいるが、誰一人例外なくキャラクターが濃い。

 キャラの立ち方について、「根が明るい」とか「聡明」とか「向こう見ず」とか、そういう言葉で表すのではなく、具体的なエピソード表現している。

 読了後は放心状態になる。静かな気持ちの中で、この本を選んでよかったという感慨を得ることができる。

 大衆向けの作品でありながら純文学でもある。思わず吹き出ししまうシーンもあれば、「お前ここで終わるんか…」みたいに物悲しいシーンもある。

 一番のおススメは文章だ。一文字文字読書中の脳に突き刺さる。以下の例はほんの一部だ。

 屋敷のなかが恋であふれた。アウレリャノはその恋心を、初めも終わりもない詩にうたい込めた。メルキアデスからゆずられたざらざらの羊皮紙や浴室の壁、自分の腕にまで詩を書きつけた。あらゆるものに、変身したレメディオスの姿を認めた。午後二時の睡魔をさそう風のなかのレメディオス薔薇の穏やかな息遣いにつつまれたレメディオス、蛾の浮いた静かな水時計のなかのレメディオス明け方パン匂いにただようレメディオス。いたるところにレメディオスがいた。永遠に変わらぬレメディオスがいた。 P.73

ホセアルカディオが寝室のドアを閉めたとたんに、家じゅうに響きわたるピストルの音がした。ひと筋の血の流れがドアの下から洩れ、広間を横切り、通りへ出た。でこぼこの歩道をまっすぐに進み、階段上り下りし、手すりを這いあがった。トルコ人街を通りぬけ、角で右に、さらに左に曲り、ブエンディア家の正面で直角に向きを変えた。閉っていた扉の下をくぐり、敷物を汚さないように壁ぎわに沿って客間を横切り、さらひとつの広間を渡った。大きな曲線を描いて食堂テーブルを避け、ベゴニアの鉢の並んだ廊下を進んだ。アウレリャノ・ホセ算術を教えていたアマランタの椅子の下をこっそり通りすぎて、穀物部屋へしのび込み、ウルスラパンを作るために三十六個の卵を割ろうとしていた台所にあらわれた。

「あらぁ大へん!」とウルスラは叫んだ。 P.142~143

 モンカダ将軍は起きあがって、シャツの裾でべっこうの分厚い眼鏡をふき、次のように言った。「恐らくね。しかし、わたしが気にしているのは、銃殺されるかどうかということじゃない。結局のところ、われわれのような人間にとっては、銃殺自然死と変わらないんだから」。 P.172

 真ん中の描写は、マジックリアリズムという。

 現実世界ではありえない現象を何度も何度も描くことで、読者に対してこういう世界なんだなと思わせる。慣れてしまうと、どんな不思議な情景が現れても自然に読める。この小説マジックリアリズム極致にある。

 時間のある人は図書館で手に取ってみよう。時間のない人はほしい物リストに放り込もう。

YouTube

フェルミ研究

 イラスト形式人生に役立つ知恵を提供している。あなた動画を見たことがあるかもしれない。

 このコンテンツも、高橋邦子と同じく、作者が人間的な成長を遂げたタイプだ。

 初期の頃は、インターネット上の疑問やネタを集めて電撃ランキングやその他まとめ的な成果物を作り、電ラン子というキャラクターに解説させるスタイルだった。

 だが時を経て、そういったランキングで使うテーマや疑問、ネタを自らの手で作り出すようになった。

 そこまで珍しい作風ではない。ほかにも、「ネタざんまい」や、「これ本当かも」、「アシタノワダイ」、「セカイノフシギ」など、イラスト形式日常・非日常の疑問を解説するページはけっこうある。

 フェルミ研究所が、類似コンテンツよりも抜きん出ているところ――精神的に健康な要素というのは、ひとえに笑いだ。

 他に比べて、フェルミ研究所が一番笑えるし、絵も可愛いし、ネタ豊富だ。他のコンテンツは、ストーリーの傾向がシンプル意味で「精神的に不健康である

 一応はディスる内容なので、どのコンテンツがこういう内容で精神的に不健康である~といった具体的な説明はしない。

 一般的な傾向として、ストーリーが語られる中で不幸になるキャラ存在している。そんな、不幸になった人物ラストに描くことで、視聴者に「ざまあみろ」という感情を吐き出させる。

 精神的に健康人間は、そういったコンテンツを好まない。再生ボタンを押したとしても、臭いを感じた時点でページを閉じる。

 フェルミ研究所にしても、初期~中期にかけてはやりたい放題やっていた感がある。

 恋愛を扱った回だと、童貞を煽るようなナレーションを連発したり、女性キャラ恋愛に挑んで失敗した男性辛辣セリフを吐いたりしていた。

 今では、そういった描写は少ない。むしろ恋愛に挑む若者応援するような作品を作るようになっている。

番外編(R-18

スミヤ

 青年向け漫画活躍している。性別非公表一般的エロ漫画に比べて絵が独特なので見たらすぐにわかる。

 ここで取り上げる理由は、その物語性にある。

 男女別の作品を好む傾向として、「男性シチュエーション萌え女性人間同士の関係性に萌える」というのがある。

 スミヤ作品には、そのいずれも在る。

 このふたりはこういう関係で、あの時こんなことがあって、だから今はお互いにこう思っている、といった情報さりげなく挿入されている。読者はこれから行為をする者同士の気持ちを知ることができる。

 では、肝心の行為をしているシーンはどうかといえば、これがまた…略

 はてな匿名ダイアリーなので、あまり詳細に書くことはできない。一般的男性であれば満足できる。「スミヤでは抜けない」といった意見もあるが、漫画をよく読んでいないからだ。

 肉々しいタイプの絵柄ではないので、作中の行為だけを見て興奮するのは難しい。ふたり関係性を理解したうえで楽しむのが筋といえる。

 男性向けのエロ漫画において描かれる女性というのは、実は女性ではない。女の姿をした男だ。最初は嫌がっているものの、性的な興奮によりスイッチが入り、快楽に抗えなくなる。最後は自ら求めるようになる――愛よりも肉を優先せざるをえない。それが男だ。

 スミヤ作品純愛が多い。ふたり愛情を描いたうえで行為表現する。最初愛情がない時もあるが、ラストではお互いに何らかの感情が芽生えたことが示唆される。

 それらに触れて、多くの感情を得ることができた。もちろん、他の作家からも得られるものは多かったけれども、ここでスミヤを紹介したのは、「これって男性から女性からウケるんじゃないのか?」と私が勝手に思ったからだ。面白くなかったらごめんなさい。

2020-08-17

anond:20170815104950

漱石はなあ、組織に馴染めんやつ、時代遅れアスペ……その他もろもろの「はみだし者」の心のよりどころになる文章を山のように生み出したんや。それだけでなく、「なんでそうなるのか」「どうしたらええんか」について、誰よりも早く考え、真面目に悩み、胃潰瘍で血を吐くほど苦しんで苦しみ抜いて書き続けて死んだんや。すごい人なんやで。

そもそもな。文学というのは、「形のないものに形を与える」営為なんや。こいつのおかげで、人の抱える人生への悩み、生きづらさみたいなもんに少しだけ形を与えることができて、それは心理学的に言えばめちゃめちゃ大きい社会的な「癒やし」効果になるんや。漱石がやったのはそういうことになる。端から見れば、ただ「小説を書いてた」だけやろな。漱石がもともと建築家になるつもりやったって知っとるか。けどなあ、友達に止められたんや。「夏目くん!残念ながら日本はまだまだ二等国や。君が思うヨオロッパみたいな建築ができるまで、まだまだ100年はかかるな。建築はまだ早い」てな。「それよりな。夏目くん。文学や。文学で、人の心に千年残る巨大建築を打ち建てたまえ(ニヤリ)」夏「ガーーーーン!」…………てなもんや。単純やな。でも、ほんまにそれだけのことをしよったんやこいつ。すごいやつやで。

もちろん、漱石がおらんくても、他の誰か、何かがその役割を果たしたやろな。でも、それは彼が歴史的に果たした仕事価値を少しも減らすものではないんやで。こいつは少なくとも、100年後も読み継がれる小説を書きよったんや。こいつが苦しんで苦しみ抜いて「ことば」を生み出したおかげで、他の誰かが少しだけ救われたりしたことが積み重なって、そんで今があるんや。大げさに言えば、イエス・キリストが「人類原罪を背負って死んだ」つーのも、ゆうたらそーゆーことになるな。ほんま偉いやつやで。

まりな。漱石を読んで救われた人が、次の世代にその勇気を引き継いで拡大して、科学発見を成し遂げたり、すごい曲を作ったり、童話を集めたり、そんでもって、それで育った世代映画をつくりドラマを作りアニメを作り……と、まあ、そんな風に物事はつながっているかもしれんのやで。せやから漱石を読んだことがなくても、あんたは漱石のおかげで少しだけ楽に生きることができているんかもしれんのや。「漱石読んだことあるぅ?」は確かに、しょもないマウントかもしれん。そうゆう奴にはな、「漱石のどこがすごいんか説明して?」と返してみ。そんで、ここに書いてあることの半分も理解してないようなら、結局のところ、これ読んだあんたの方が少しだけ漱石価値を分かってるってことになるんやから安心してええ。

もし、ここに書いてあることの数倍、そいつが語ったらどうするかって? そんなもん、そいつ友達になったらええやないか。そんで諦めて漱石読んでみ。なかなか面白いもんやで。

2020-07-22

オタクジェンダー規範に関する研究を読もう

twitterでたまに、男オタクは女や非オタク男と比べて「男は仕事、女は家事」のような性別役割分業を支持する割合が高く保守的である、という結論の棒グラフが回ってきているのを見かける(例:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/phanomenologist/status/1228500960588124163)。あれはしばしばフェミニストによって「男オタク女性蔑視の表れ」のように引用されるが、そもそもどういう文脈で出てきた棒グラフだったかちゃんと確かめた人はいるのだろうか? そして、あのグラフをめぐって学者同士の意見対立していることはどのくらい知られているのだろうか?

ということで、以下であのグラフが出てきた文脈を紹介してみるよ! なお、増田は男オタクだけど、統計とか専門外だよ!

あの棒グラフの出典は、社会学者北田暁大による若者趣味に関する研究の一節である北田 2017: 291)。だがもちろん研究というものはそれだけで完結するものではなく先行研究の積み上げた文脈のもとに成り立つものだ。そして北田(2017)が特に目の敵にして批判しているのが、心理学者山岡重行による研究である山岡2016年単著において腐女子心理学的に分析し、腐女子恋愛観だけでなく彼女たちに向けられたイメージについても論じた(山岡 2016)。

山岡研究はどう評価すればいいのか難しい。確かに興味深い点が多く、たとえば2015年時点でもオタクに対する否定的イメージ存在し、そのなかでも腐女子は同じオタクから否定的に見られているということを学術的に明らかにしたこと山岡 2016: 99, 132)などは、オタクあいだでは公然事実とはいえ一定の意義があるだろう。しかし一方で、男オタク腐女子は相性が良いんだからもっと恋愛すればいいのにというようなアドバイス大きなお世話というかソバイスの極みであり、腐女子心理について質問調査のみに基づいてものを言うのはいいとしてもBL作品構造を論じる上でテキストクリティークを欠いていることは理解しがたい(山岡 2016: 229-230)。山岡データに基づく研究重要性を主張するが、物語構造などの質的な面に踏み込むのであれば、数字で示されたデータだけでなく様々なテクストに当たって読み込むという人文学的な手法採用する必要があるはずだ。心理学実証研究としては面白いが、実証以外の部分で余計なことを言い過ぎている、という評価をするのが最も良いだろうか。

では、それを批判した北田研究はどのようなものなのだろうか。実はこれ、読んでみるとわかるがかなりのツッコミどころの塊なのだ

まず、北田がこの調査で用いた方法論について確認してみよう。北田依拠しているのは、2010年練馬区1988年1990年まれの男女に対して行った調査である。つまり2020年現在アラサーに対して10年前に行われた調査に基づくデータである。このデータは、北田が中心となっている若者趣味についての共同研究の一環として採られたものであり、北田(2017)が収録されている本に収められた他の論文も同様にこのデータを出典としている。

北田は、東浩紀(2001)のデータベース消費論に依拠しつつ、男オタクの消費が東の言うようなデータベース消費である一方で女オタクすなわち腐女子(ここ、「ん?」と思う人が多いだろうけどとりあえず脇において続きを読んでほしい)の消費が関係性消費である、という先行研究提示される図式を踏襲する形で分析を進めていく。当然、ではこの論文で言う男オタクと女オタクってのはどんな集団を指すんだ、腐女子かどうかはどうやって決めるんだ、という操作定義が求められるわけだが、北田がどんな定義をしているのかを以下で見てみよう。

北田はまずオタク操作定義を示すが、この時点で首を傾げてしまう。たとえば「ライトノベルが好きだ」という質問はいいとして、「マンガきっかけでできた友だちがいる」や「アニメきっかけでできた友だちがいる」という項目は、そりゃそれに当てはまるオタク大勢いるだろうがコンテンツきっかけでできた友人がいるかどうかはオタクとしての本質に何も関係ないよね? もちろんこの研究では若者趣味というテーマを掲げていて、趣味人間関係がどう連関しているかという点も研究対象に入るわけだからそういう質問項目が悪いわけではないのだが、それをオタク定義に使われると困惑するほかない。やめてください! 友達がいないオタクもいるんですよ!

そして北田は、上記のような質問定義した「オタク」を更に「二次創作が好きか否か」で分類する。つまりオタクを「二次オタク」「非二次オタク」に区分し、それをさらに男女で分けるわけである。そしてこの「二次創作好き」というのを定義する指標として「マンガ二次創作(同じ登場人物で、原作ストーリーとは違うストーリーを考えたり読んだりすること)に興味がある」(北田 2017: 270)というのを持ち出している……えーっと、これだと、銀河英雄伝説』も『炎の蜃気楼』も『東方』も『アイドルマスター』も原典マンガではないので当てはまらないのではないか? この調査の後にヒットした『ラブライブ!』も『艦隊これくしょん』も『刀剣乱舞』も『ユーリ!!! on ICE』も、いずれも原作マンガではない。仮に私が当時練馬区に住んでいてこんなアンケートを渡されていたら、「私が買っているのはアニメ作品二次創作なんだけど……」と回答に悩んでいたことだろう。「作品」「コンテンツ」とでも言い換えれば済むところをなぜ「マンガ」と表現したのか理解に苦しむ。ゲームを全部ファミコンと呼ぶおかんかよ(この喩えもいい加減古くなってきたな……)。

さらにこの調査は、「二次創作が好きな女性オタク女性二次オタク)」と「二次創作が好きではない女性オタク女性二次オタク)」を区別しているが、肝心の二次創作の中身については区別していない。つまりBL同人を読んでいようが男女カプの二次創作をしていようが「女性二次オタク」だし、商業BL一次創作同人専門の読み手二次創作に手を出していなければ「女性二次オタクである。つまりこれは、二次創作が好きなオタクを析出することはできても、本質的に腐女子を析出できる調査ではありえない。もちろん同じことが男オタクにも当てはまり、女キャラ無駄淫乱になって男相手にサカる同人誌も女キャラ同士がプラトニックイチャイチャする同人誌も同じ「二次創作である。種つけおじさんレイプ百合区別できない質問項目をもとにデータベース消費と関係性消費の対立みたいなこと言っていいのかな……いやダメでしょ。

だが北田定義おかしさはこれに留まらない。彼はなんと、「二次創作好きでオタク度の高い女性を『腐女子』という言葉でまとめあげることにはもちろん問題がある。二次創作好きとBL好き、やおい好き、女オタクなどの差異を孕んださまざまな概念が交差する地点に『腐女子概念存在している」としつつも、便宜的に「『二次創作好きで、オタク尺度が高位2層である女性』を、操作的に腐女子と」定義している(北田 2017: 307)。はぁ???

言うまでもなく、腐女子の全員が二次創作に興味を持つわけではなく、二次創作に興味を持つ女性オタクの全員が腐女子でもないのだから(男女CP百合の愛好者はどうすればいいんだ)、この段階で北田研究対象を正確に捉えられていないことがわかる。BLが好き」という質問項目を入れてないのに「腐女子」の操作定義なんてできるわけないだろ! この問題については山岡からtwitterでツッコまれているほか(https://twitter.com/yamaokashige/status/1131363111636615168)、「興味」と「嗜好」を区別すべきだとも批判されている(山岡 2019: 21)。妥当な指摘だろう。意地悪なこと言うけどさ、これを注に放り込んでるのって悪意ありますよね?

さらに、男オタクに関しても、「二次創作好きオタク男性ディープ男性オタク」(北田 2017: 294)と記述している。当たり前だが二次創作にはたいして関心もないがディープオタクはいるだろうと言わざるを得ない。声優のおっかけを熱心にやっているオタクディープオタクではあるかもしれないが二次創作が好きなオタクとはいえないだろう。

総じて、北田研究は、オタクとしてディープであるか否かとか腐女子であるか否かといったことを、すべて「二次創作が好きか」で測ろうとしている。だがそれはとんでもない勘違いである二次創作好きな人ディープオタク腐女子であることとの間にはある程度の相関関係はあるだろうが、あくま論理的には一対一で対応しているわけではないのだからディープオタク定義したければ注ぎ込んだ時間やカネや知識量を、腐女子定義したければBL趣味の有無を、それぞれ尋ねるべきだったのだ(特に客観的な測定が困難な「ディープオタク」と違って、腐女子かどうかは「BLが好きだ」という項目を入れた上で性別と組み合わせれば一発で判定できるのだから、ここで手抜きをしているのは許しがたい)。

少なくとも山岡の著書にはパッと見で「おかしいぞ?」と思うような操作定義あんまり見当たらなかったのに、北田論文操作定義はパッと見でもわかるツッコミどころが多すぎる。これもうどんグラフ出されても信用できないでしょ。データの処理とか以前に操作定義おかしいんだもん。

で、北田にさんざんdisられた山岡は別の著書(山岡 2019)を発表して北田反論している。個人的にはその議論はおおむね妥当であるように思えたので、詳しく知りたい人は山岡(2019)を読むか、彼のtwitterを見てほしい。私は統計とか詳しくなくて、前提となっている操作定義おかしさは指摘できても、標準得点に差があることは「対極にある」ことを意味しない(https://twitter.com/yamaokashige/status/1125940271298990080)とか、このへんはまったく気づかなかったので。

最後に、北田山岡のどちらの研究おかしい、と思ったポイントがあるので言及しておく。

北田データ練馬区若者から採ったものであり、山岡データ都内複数私立大学学生から採ったものである。つまり東京圏居住しているか、通える距離に住んでいる若者データに偏っており、さら後者大学生のみのデータとなっている。これが血液型性格判断の話であればいいかもしれないが(よくないけど)、オタク文化拠点東京などの大都市に集積していることと、就労等によって趣味との関わり方が変化すること、そして趣味学歴が及ぼす影響を考えると、東京圏若者」のみに焦点を合わせて「オタク」の全体像を論じることは適当ではない。そこで集められたサンプルは、オタクコンテンツが身近に溢れていて可処分時間が多く学歴も高いオタクサンプルに過ぎず、オタク代表例とも若者代表例ともいえない。

とはいえ、では他にどういう調査のやりようがあったのか? というと、思いつく計画がどれも高額の研究費を要求するものになってしまって個々人の研究ではなかなか厳しい。少なくとも、東京だけでなく日本全国(最低でも、大阪札幌などの東京以外の大都市圏)からサンプルを抽出することは必要だろうし、そのサンプル調査には大勢非オタクも引っかかる以上はサンプル数もそれなりのものにする必要があるだろうし……こういう大がかりな質問紙使った研究ってやったことないかイメージ湧かないんだけどどんくらい金かかるんだろう。

それと、北田山岡統計データを重視しているので、あえて質的研究には踏み込んでいないのだろうが、それでもやはりいずれの研究当事者の言説分析を欠いていることは大きな欠点であろう。オタク自分たちについて膨大な自分語りを残してきており、それを悉皆調査すべきだとは無論言わないが男オタク腐女子自分たちのことをどう語っているのかも踏まえた上で論じられればなお良かったんじゃないかな。もちろんそれは大規模な質問調査並にめんどくさい手続きであり、代表性とかどうやって保証するんだ、という感じではあるのだが、せめてオタク自身の手になる非学術的な文献はもっと多く引用されていてもよかったのではないか。それは一歩間違えば大塚英志(2018: 136-140)が指摘するような当事者営為無視した簒奪的な研究にもなりかねない、と思う(もちろん彼らは文化のものを論じているわけではないので、文化を論じる研究者に求められるほどの慎重さは要求しなくてもいいとは思うが)。

いやでもやっぱりこれ北田(2017)のほうがひどいわ。山岡(2016; 2019)の操作定義を見てると、彼自身オタクではないにせよ、趣味によってつながる人間関係のありようみたいなのを肌感覚でわかってるって感じがするけど、北田定義トンチンカンなんだもん。もしわかった上でやってるならクソだけど、仮に本気でああい定義を持ち出してきたんだとしたら、それはもう根本的に趣味でつながる人間関係がどんな感じなのか肌でわかってないってことだよね。趣味人としてのリアルからかけ離れすぎてるんだよな。

あと北田研究がひどすぎるからって社会学全般が悪く言われないといけない理由はないので念のため。北田研究別に社会学者なら誰もが参照してしかるべきみたいな位置づけのそれではないので……

追記

よく分からんのだが、その北田氏の研究がいい加減なものだとしても

2007年練馬区若者においては、漫画アニメが好きで二次創作を好む男が

それ以外と比べて保守的男尊女卑傾向だ、って事はとりあえず事実、って事になるのでは

anond:20200722104112

これ、回答の平均値じゃなくて標準得点を元にしたグラフなのよ。標準得点をもとにそんなこと言えるか? って山岡批判してるからそれ読んで(https://twitter.com/yamaokashige/status/1126035720122953729)。

ワイが間違ってたわ。言えるっぽい。すまん。

続きはanond:20200722142616で。

文献一覧(あいうえお順)

2020-06-14

anond:20200614185914

こんだけ頑張って書いたんだからちょっとくらいイキってもいいですか?いいよ。

昨今のインフルエンサー概念興隆に伴って、SNS動画配信サイト情報発信啓蒙活動を行う人々は増えてきており、上っ面だけキラキラさせた目を引くようなサムネイル視聴者の下世話な感情に訴えかけるどぎついタイトルコンテンツバンバン打ってPVフォロワーリツイートチャンネル登録者再生回数稼いで私たちソーシャルメディアプロモーションドクターズは世の中をより良くしていってます!みんな応援してね!あっどうもどうもホニャララ医さん、ご無沙汰してますぅ↑↑↑↑↑いや〜あの動画めちゃくちゃよかったっすねぇ〜、なかなかバズっちゃってるんじゃないですか?そうだ、今度一緒にコラボ企画やりましょうよ、えっ!ホニャララ医さんってナンタラ医さんと繋がりあるんですか!?私あの人の隠れファンで、ええ、今度飲む時に紹介してくださいよぉ、ガハハハハワハハハハ、みたいな、大学卒業したのに部活動サークル活動内輪ノリが抜けきってないまま人前に出ちゃってますけど本当にそれでええのんかと思わされる医者も目立ってきていますよね。

もちろんこの人たちも半分趣味でやっているところがあるのでしょうし、予防衛生の概念ますます重要視されてきています。華々しいエンタメの裏側じゃないですけど、依然として厳しい状況におかれている病院現場では熱心に診療活動をされているのだと思いますしかし、どうも私には、彼らとrei氏のやっていることにあまり差異がないように思われるのです。(念のため付け加えておくと、こうした情報発信は私の領域ではない、私には私にしか解決できない他の問題があるという信念のもとに働いておられる方もいることは充分承知しております。)

理解能力に大きなばらつきがあるたくさんの人たちに向けて情報を送り届けるときに必ず立ち現れてくる、分かりやすさと厳密さのどちらに重きをおくか問題は、永遠にして普遍的課題でありますが、おもしろおかしくて覚えやすキャッチーコンテンツは瞬間的な消費には耐えたとしても長期的には多くの面で弊害を生じさせるのではないか、と私個人は考えています。ただでさえ医者は人々に対して権威的上流知識階級であるという印象を持たれているのですからあんまりにもあんまり情報発信批判しこそすれ、発信する側に加担してしまうのは、職業倫理よろしくないと思います医療従事者は自身潜在的パターナリズム意識的であるべきだ。迂遠な言い方になってしまいましたが、つまり、本職の医者積極的糾弾していくべきrei氏の文章をなんでただの医学生の俺が糾弾しているんだよ、おかしいだろ。だって2018年から存在しているrei氏のツイッターアカウントは6万フォロワー超えてんだよ、何個も何個もツイートをバズらせてて、しかも今流行りの発達障害に関するライフハック本をKADOKAWAから出そうとしていて、それで日本全国に30万人近くいる医者の誰も知りませんでした今初めて存在を知りましたって、んなわけあるか。6万フォロワーあるある芸人なんて全然有名人じゃねーよとおっしゃるのであれば俺は振り上げた握りこぶしをそっと下ろすしかないが。そりゃインターネット論客みたいな、能力が及ばなくてアカデミアにも進めずかといって地域根付くこともできなかったしょっぺえしょっぺえ小物を相手にするのは常識を備えたまともな大人がやることじゃないかもしれないけどさ、時代は少しずつしかし確実に変わりつつあって、インターネットに居場所を持つ人はどんどん増えてきてるわけ。そういう状況下で、いい加減なことを無責任に言い散らかすような存在無視しちゃいけなくなってきてるんだよ。自分医者として働いてて、患者が「僕チー牛顔なんで〜、モテないんすよね〜、やっぱ先進国の女はチー牛顔を求めてないし〜」なんて言ってきた場合、どっから説明したらいいか頭抱えちゃうでしょ?増田キレすぎワロタとか草生やしたり冷笑する暇あったらその廃用症の脳細胞に鞭打ってちょっとくらいは想像してくださいよ。こんだけ俺のパーソナリティを開示してるんだからさ。今のうちに意味不明な言説の芽は叩き潰す。そういう感じのモチベーションで書きました。ここまで言えばわかってくれますか?今のインターネットの、目も当てられないくらいの、情報汚染リテラシーの欠如、質の悪いコンテンツの氾濫、尊き価値創造営為へのリスペクトを失った盲目消費者絶望ですよ、絶望。あぁ、もうさ、これ書き始めたの土曜日で、そっからほぼぶっ続けで書いてたらもう日曜日が終わっちゃいそうなんだよ。このnote以外にも、頻繁にrei氏は論文を紹介するnoteを書いていたり他のアカウントにこんな論文もありますってリプライを送っててさ、もうやってらんないよ。どうしたらいいの?誰か教えて。

あーあ、柄にもなくID真っ赤にして怒鳴り散らしてしまった。もっと優しく温和な人間になりたいナ。そろそろ試験勉強に戻らないといけないので、それでは。

2020-04-22

anond:20200422191106

あなた自分の言ってることあんまり理解してないでしょ?

あなたが羅列したものの中でかろうじて進化に関連があるのは「家族の子育てに参加する個体」だけね。

血縁の子孫は当然自分とも遺伝子を共有してるわけで、その子孫の適応度を高めることに協力するインセンティブがあるし、血縁者の繁殖に協力する遺伝子が生き残る可能性はある。

でもその説で行くと「生殖も巣立ちもしない一人っ子」はホントになんの存在意義もないことになるけどいいのか?(笑

生殖も巣立ちもしないおじさん・おばさん達、甥や姪の成長をサポートするために自分独身でいるのね。だから結婚しないんだ。スゴーイ(棒

  

そのほかはホントに出鱈目の数珠繋ぎで呆れるわ。なんかもっともらしい単語意味理解せづにくっつけてるだけだろ。

種内競争活性化で同種の生き物の淘汰圧進化に関与してる?なにそれ?その理屈ちゃん説明できる?

次世代に生き残る個体にとって、同種の他個体は他種の競争者やその他の環境要因(気候、植生、捕食者・獲物の密度等)と淘汰圧として何の違いもないぞ。

したがって「種内競争(者)」の存在進化の方向に何らかの影響を持つと考える根拠は何もない。

生殖しない個体自身に至っては次世代に残らないんだから当然進化に何の影響もないぞ。

  

そもそも進化というのは、生き残り・生殖成功した個体の子孫の頻度が世代を追って高くなるという現象であり、そこには「何かを生み出す営為」も「意味のある "Trial and Error"」もまったく存在しないぞ。

結果として「生き残った者」も「その他大勢」も単なる結果であって、「進化」や「その他大勢」が「適者」を生き残らせようと意図したり、生き残らせるために存在したり、生き残らせる役に立ったわけではないし、進化が適者を生み出すための Trial というわけでは絶対にないぞ。

生き残るべくして生き残った個体は、たとえ「その他大勢」が全く存在していなかったとしても生き残っていたぞ?なぜ「その他大勢」に意味があると言える?

「その他大勢」はただ存在したという事実があるだけで、どこにも意味はないぞ。

まるで「進化」や「その他大勢」に意味があるというようなセンチメンタリズムは見当違いで、進化というものに対する誤解を助長するだけのものだぞ。

anond:20200422160753

生殖しないまま死ぬとしても、群れの中で子育てに参加する生き物だっている。たとえば狼の群れは家族生活して、結婚してない年長の兄、姉みたいな存在もいるんだよ。そういうわけで、彼らは明らかに次世代再生産」に関与してるよね。また、たとえ「一匹狼のはぐれ者」であっても、種内競争活性化させることで、次世代生産をする他の同種の生き物に対して淘汰圧として関与する場合だってある。進化に関与しないとはとうてい言えない。

そもそも進化自体が、多様性の中における「適者生存なのだから、「万の無駄打ち」の上に「一つの当たり」を生み出す営為だ。結果として適者とならなかった「その他大勢」も、種としての膨大なTryErrorの一つであり、意味のある存在だよ。あなた意見は完全に的外れだ。

2020-02-16

anond:20200216141132

このシリーズ個人的に辛かったのは以下の事柄

テレビ

テレビが何かわからない。いや、わかるんだけど、例えば古いテレビと今のテレビ全然形違うじゃん。

昔のテレビの足はなぜ四つ足ですらっと長いのか? 昔の真空管や配電の機械ってとっても重い。それをすらっとした木製の四つ足で支える意味がわからないし、薄型で軽量になった今こそ細い足で支えるべきなのに、実際にはどっしりとしている。

そして大抵テレビというと番組付属する。「テレビ見る」はテレビを見るという意味ではない。テレビ番組を見るということだ。そしたらテレビテレビではない。ではテレビはなんなのか? そして、今はパソコンスマホテレビ番組見るんだが、私たち営為としては「テレビを見る」という営みと質的差異はない、あるいは少ない。わけがからなくなって俺はテレビ朝日を見る、とかネットフリックスを見る、永谷園CMを見るとか、かならず具体的なものをさすように言語表現するようになった。

手書き

これの意味がわからない。手で書く、という意味はわかる。一般的には印刷を用いないで書くことだろう。

ところが、たとえば砂浜に尖った流木で書くのは手書きか? 指で砂に字を書くのは手書きか? と考えるとわからなくなってくる。この二つ、似てるけど営みとしては異なる。

前者は流木書きで後者手書き(あるいは指書きといってもいいかも)とするべきで、そしたら鉛筆ペン文字を書くことはは手書きじゃないんじゃないのか。より手で書きうる手段があるのに手書きってのはおかしいんじゃないのか。

筆で書くことを手書きというか? 多分いう。文字だったら。抽象的な前衛書画は?

パソコンは手で打っているか手書きじゃないのか。この文字は俺の手で書いてる。

もう手書きという日本語は全く信用ならなくなってしまい、仕事では、手筆を以ってする、ゲルインクで書いた書類atok作成した文章みたいな日本語表現している。

印刷物の校正は頭がスッキリする。手書き校正メモ、と、印刷された本文、とは意味合いとしてスッキリ弁別されている。仕事がわかりやすい。ずっとやっていたい仕事だ。

2020-01-27

なんで俺たちって必要以上に犯人探ししちゃうんだろう

武漢の新型ウイルスニュースを見ていると、新種の病気なんだからある種どうしようもない部分がある。

だけれども、すぐに中国対応日本対応、あるいは特定為政者風邪をひいてしまった特定の誰か、旅行者悪者にして語りがちだ。

感染はただただ自然営為だが、そこに過度に人間責任があるように語られる。

もちろん対応の中でやっちまった人もいるかもだが、そんなものネットで論ってもしかたがない。防疫に直接はなんらも寄与しない。

と頭で思っていても、ついつい「こいつ何やらかしてんだ」みたいに心では思ってしまうところがある。

ネットに書いたり煽ったりはもちろんしないんだけど。

こういう心理の持ち方を改善していくにはどうしたらいいんだろ。

2020-01-16

すぐに元に戻さな

消しゴム落としても拾わない

学生時代消しゴムを机からよく落としていたのだが拾わなかった。

なんでかというと、文字を間違えたら拾えばいいわけで、それまでは消しゴムの出番がないからだ。

もちろん掃除などの時間が迫れば拾うべきだろうが、それまでに誤字は出来するのでそこで拾えばいい。

ところが友人が先に拾ってしまう。申し訳ないのでいつも上記説明するのだがなかなか難しい問題だ。

皿を洗わない

皿を洗わない。なんでかというと、もうあと何回かは確実に使えるからだ。

一番洗わないのは茶碗で、ご飯を食べきった後は乾燥しており衛生的にも問題ない。

汁椀も洗わない。乾燥してるなら問題ない。特に箸も洗わない。乾燥しているからだ。

なぜこうなるかというと、皿を洗うのが面倒だからだ。

そして洗剤も節約できるし時間節約できる。1週間くらい洗わない。

同じ理論バスタオルにも援用できる。特にバスタオル問題で、一回だけで洗濯するのは無駄であると考えている。

容量が大きすぎるのだ。だから5回使ってから洗濯する。8回くらいでもいいかもしれないと思っている。

ここでの観点は、乾燥しているか? と不衛生が過ぎ体調を崩さないか? という2点だ。

場合によっては軽く水洗いで済ませて継続して使用する場合もある。

ファスナーを閉めない

なんでかというと、開けて、物を入れて、閉めて、開けるからだ。

それなら閉める必要がない。また開けるからだ。

特に、上に向いて開いているバッグやカバンは、重力関係で内容物が溢れることはない。

ということでファスナーを必要以上に閉めることは時間無駄であると考えている。

ファスナーを閉めないとなんらかの問題をきたす場合は、ファスナーを閉めるべきだ。

一方で、ズボンのファスナーは閉める。なぜなら見られた場合不快感を与える場合が多いからだ。

比較問題で、カバンが開いていても不快感は低いが、パンツズボンから中身が見えていたら不快に思う人は多いだろう。

こうした観点問題ないと思うもの判断は30年以上生きていて基準を設けている)は開けたままにしている。

最悪、家の鍵も閉めなくてもいいのではないかと思う。なぜならまた開けるのは確実だからだ。

そして、泥棒がいるとして、私の家がピンポイントで施錠されていないことを認知することが極めて困難だからだ。

必要以上に除雪しない

積雪地帯では時間のある人々が異常なほどに除雪を尽くす。

そういう人は大抵イルミネーションとかしている。

それはいいとして、雪はやがて解けるのだ。そんなものに過度の労力を割くことはない。

これと関連して、寒冷地であっても手袋を装着しない。帽子も。またすぐ脱ぐからだ。ただし、寒すぎる場合は一考の余地があるだろう。

洗濯物を畳まない

洗濯はする。衛生的に。ただそれを畳まない。なぜならすぐにまた使うからだ。

晴れ着やおしゃれな服などはしまうけれども、日常で使うものしまわない。

本にしおりを挟まない

本にしおりを挟むという営為は、文化的所作という観点を除けば全く愚かな行為だ。

なぜなら挟んだ後またとるからだ。そしてまた挟む。さらにいうと、読了すると挟まなくなる。

そもそもどこまで読んだか覚えてないのならば、それはそこまでちゃんと本の内容を覚えていないからそうなるわけで、しっかり本の内容を理解しているのであればしおりがなくても続きを読み続けられるはずだ。

ちょっと手前から助走しながら新しい箇所を読み進めることもあるだろう。むしろその方が理解が進むのではないか

こうした観点からしおりの弱点はもっと見直されてもいいだろう。

1階に住む

日々階段エレベーターで移動するのは時間がかかる。その時間有意なこと、あるいは妄想や休息ができる人であれば問題ないだろう。

だが多くの人は、自室と地上との行き来において、活動も休息もできないぶら下がり状態時間を過ごしているのではなかろうか。

それならば1階に住むべきだ。家賃も数千円安いことが多い。自室との行き来の時間も、数千円安家賃も、積み重ねが効いてくる。

ただし、治安問題で2階以上に住みたい人も多いだろう。その場合のこの限りではない。自分で考えて生きればいい。

観覧車に乗らない

遊園地は恐ろしい場所だ。かつて施川ユウキが初期の漫画コラム欄で確か書いていたと記憶しているが、遊園地は出発点とゴールが同じ場所になる遊具が多すぎる。

観覧車ジェットコースターメリーゴーランドなど、行って帰ってくる遊具が多く含まれている。

これは問題である位置が変わらない。初めからそこにいて、ただ佇立して止まっていればいいのだ。時間無駄である

ただし、途中の景色や興奮を楽しめるのであれば遊園地面白い場所だ。この観点判断するとよい。

では何をしているのか?

全力でゴロゴロしたりオナニーしたり友人や恋人と過ごしたり、論文書いたり講演の準備したり読書したり、元に戻す(元に戻る)必要性のないジャンルのことを優先してやったほうがいい。

2019-12-02

anond:20191202095105

間違いを見つけることは人間という動物が呼吸や歩行と同じぐらい得意なこと。

知性皆無の営為だよ。

知性がないからそこから先に進めない。

2019-10-22

解釈」の名のもとに行われる誤読について

って長々能書きたれなくても、このシェイクスピア学者のひとのツイートに尽きるんだけどさ。


https://twitter.com/Cristoforou/status/1083954729388920833


でもインターネットを見てみれば、「『ハムレット』でハムレットはお父さんを殺した」級のチャランポラン解釈があふれている。

なんでだろう。

それはたぶん読解を解釈と、さらには解釈二次創作と取り違えているからだ。


基本的には物語には筋がある。

ハードコア作品だと筋がないものもあるけれど、大衆に向けて発信されるものはだいたいわかりやすプロットへと還元される傾向にある。

プロットは要するにアクション=目に見える事実の積み重ねであって、

普通に読んでいけば誰々が何をしてどうなったか顛末を取り逃すことはない。

たとえば、『ハムレット』を普通に読んでいたら wikipedia の「あらすじ」欄にある以外の展開は読み取れず、間違っても「ローゼンクランツとギルデンスターンハムレットを巡ってコイン投げの賭けをしていた」なんて言い出しはしない。

物語を読めない人というのは私たち想像以上にこの世に溢れていて、このレベルで間違える人もときどきいるけれど、まあ少なくともあなたは間違えない。


で、やっかいなのはプロットの「展開」には「目に見える事実」以上のものも含まれていることだ。

あるキャラセリフがどういう意図で発されたのか、その身振りにはどういう意味が込められているのか(あたりまえだが、それらは作者自身意図からは切り離されている)。

言語によって明確に説明されていない部分。

そこを私たちは奔放に「解釈」しがちだ。

特にふせったーなんかでは、ある一場面を切り取って過剰なまでにそこに説明をつけようとする人たちがいっぱいいる。

そういう人たちの「解釈」は一見もっともなように思われるけど、実はちゃん作品と照らし合わせるとトンチンカンだったりする。

なぜなら彼らの「解釈」は作品内部の文脈無視したものであるからだ。


物語をきちんと読解するのは実はむずかしい作業だ。

からケツまでテキストを精読して、その流れと内部のロジックを過不足なく把握せねばらない。

個別物語内部にあるリソース分析するのが読解であり、それらを用いて家を建てるのが解釈だ。

しかし、ここに狡っ辛い読者がいる。

狡っ辛い読者はあ外部からトラックで建材を積んで物語世界へやってきて、地盤風土関係なくあらかじめ設計されたデザインに基づいて家を建てようとする。

勘違いしないでほしいが、解釈レイヤーにおいては外部から持ってきた知識材料を使うのは犯罪ではない。

批評とはそもそも物語世界と外部である我々の現実を橋渡しする行為であり、そこにはもちろん物語世界外部の知識理論が使われる。

だが、繰り返すが、それはあくま解釈レイヤーにおいて。

読解段階で物語世界無視するのとは話が違う。


狡っ辛い読者は物語内部のロジック無視し、プロット曲解し、事実をゆがめる。ありていにいえば、自分の読みたいように読む。その歪んだ見方をあたか物語のものであるかのように謳う。

彼らにとって物語とは自分たちから見える世界従属物でしかない。他者が書いたものであるにもかかわらず、彼らはそこに他者を見出そうとしない。


そんなもの解釈ではない。解釈ではないのだが、不思議なことに今のインターネットでは解釈としてまかりとおっている。

序盤で「二次創作」だと言った気がするが、考えてみると二次創作者たちに失礼なものいいだったかもしれない。

二次創作原作世界尊重してこその営為からだ。

ではこうした狡っ辛い読者たちの行うおぞましい「解釈」をただしくどう言い表すべきなのだろう。


解釈自由だ」という紋切り型の裏にはある不文律が隠されている。

解釈の前段階である読解は不自由だ」。

きちんと物語プロット認識したうえで成り立つの解釈であり、評論であり、批評だ。

その基本のキさえできないなら、評論解釈に手を出すべきではない。

逆にいえば、そこさえクリアできれば遥かに豊穣で自由世界に手が届くのだ。

恐れるな、だが謙虚に、だよ。ワトソンくん。

2019-10-13

anond:20191013115023

在宅評論家にそんな知的営為ができるわけないじゃん

ロジハラやめろや反民主主義やぞ

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