はてなキーワード: 有名人とは
数週間前の事、最近嫌なことが多く、癒しを求めてYoutubeを見ていたのだが、とある高校の部活の動画に映っていた一人の高校生が気になって仕方ない。
何かスーパープレイをしてすごくかっこ良かった!とかそう言うのではなく、ただ笑顔を見て可愛いと思っただけ。
これまで、有名人等可愛いと思う人はいたけど、自分と接点を持てるわけでも何でもないので(当たり前)ただ可愛いと思うだけだったのだが、
一般の人も閲覧できる部活の発表会(みたいなやつ)で見に行くことは可能であり、自分の承認欲求が強くなってる気がする。
しかもYoutubeなら有り得る、実は昔の動画で現在すでに大人だから...という事でも無い。
別に付き合いたいとかではなく、動画じゃなく実際に見たい。何かあった時助けになれる存在でありたい。出来れば一人で映ってる綺麗な写真が欲しい・・・
とここで、「あれ、俺気持ち悪いな」と冷静になる。割とやばい発想してるのも自覚する。
実際に発表会を見に行っても接点なんて出来るわけないし、会話どころかほぼ間違いなくこちらの事は認識されない。
ただ動画を見ただけだから、その子の性格や趣味も知らない。自分とは合わない性格だって全然あり得る。のに、容姿しか知らない人を気になってるというのは中々に気持ち悪いと思う。
少なくとも逆の立場だったら、写真下さいなんて言われたら不審者だと思うし、笑顔が可愛いなんて言われてもゾワッとしそう。自分でも思うのだから他の人も大体そうだと思う。
同い年で生まれてたらワンチャン友達くらいにはなれたかもとか、同じ部活に入ってれば部活仲間って事で色々話したりできたのではとか妄想しちゃうのだけど、
時が戻ることは無いし、その部活関連の経験全然ないし、そもそも住んでる都道府県違うし、100%あり得ない話過ぎて虚しくなる。そしてやっぱり気持ち悪い。
仮に実現したとしてもあくまでも気になっているのは高校生の若いその子であって、年をとってもずっと今の気持ちを維持できるかと言われると自信が持てない自分が嫌い。
それに自分が学生の頃、容姿で色々言われて凄く不愉快になって以降、人は見た目じゃなく性格で判断すると決めていたのに、普通に見た目だけで判断してしまってる自分が凄く嫌い。
そうは言っても記憶を無くすことは出来ず、動画を見て癒される日々。何度見ても可愛いし、全ての動きが可愛く見えてくる。というか実際可愛い。以下無限ループ。
年明けて少しして、ファンレターを送るのはどうだろう、と考えた。
けど、学校の部活ってそういうのじゃないよね。学校にファンレターなんて届いたら先生もびっくりするに違いない。
中身認して、動画で見たこの子の笑顔が~とか書いてたら流石に引くし、写真が欲しいとか絶対書けない。そもそもファンレターはファンが何かを要求するようなものじゃない。気持ち悪いどころではない。
その部活のファンクラブがあれば(無いけど)入ってると思う。その子のであれば猶更(絶対無いけど)。
とは言え少なくとも今は出来る限りの応援はしていきたいから、真面目に部活やってる人達に対して動機が不純すぎるとは思うけど、その子が卒業するまではその子とその部活動を応援していきたい。
さっき https://anond.hatelabo.jp/20230118105123 を投稿した者だが、サイコ女を特定する方法を書こうと思う。
さて、サイコパスと聞くと、私たちは通常男性を思い浮かべる。ハンニバル・レクターが良い例である。
しかし女性についてはどうか?今現在、匿名ダイアリーに女性のサイコパスが潜んでいる確率はどれくらいなのか?
実際の生活では、ほとんどのサイコパスは発見されずにいる。女性のサイコパスについて議論したり、ニュースや映画で見たりすることはほとんどないため、私たちは男性のサイコパスほど彼らを見抜くことができない状況だ。これは女性のサイコパスは必ずしも男性のサイコパスと同じような外見や行動をしていないからである。
サイコパスは人格障害であることを心に留めておくことが重要である。そのため精神病に分類され、そのような病気の多くは男性と女性で異なる症状が現れる。
例えば、私たちが通常心臓発作から連想する症状(胸痛、左腕のしびれ、発汗)は、男性に最も多く見られる症状である。女性が心臓発作を起こすと、息切れや吐き気など、異なる症状を経験する傾向がある。
暴力的なサイコパスにおける動物虐待や「成功した」非暴力的なサイコパスにおける表面的な魅力など、サイコパスのステレオタイプな兆候は、男性のサイコパスの方を偏見的によく表している。
女性のサイコパスは、しばしばより暴力的でない徴候を示す。その結果女性のサイコパスは発見されない可能性が高くなる。
女性のサイコパスを見分けたいのであれば、女性のサイコパスが男性とはどのように違うのかを知る必要がある。
1. ナルシシズムの違い
全てのサイコパスはナルシシズムが高い。つまり彼らは自分が周りの人よりも優れていると考えている。しかしこのナルシシズムがどのように表現されるかは、男性と女性で異なる。男性のナルシストは自画自賛を叫ぶ傾向がある。ソーシャルメディア上で自分の業績や優位性を自慢する傾向がある。彼らは自分があなたより優れていることを面と向かって言う。
女性のサイコパスは違う。彼女らはナルシスト的な傾向についてより隠蔽的である。彼女らは、面と向かっては笑顔であなたを褒めるが、陰ではあなたより優れていると考えている。
2. 攻撃性の違い
男性のサイコパスは攻撃性を行動で示す傾向がある。彼らは身体的暴行を加えたり、動物を虐待したり、暴力的な犯罪を犯したりする。男性のサイコパスは暴力的な行動をとる可能性が高いので、捕まって収監される可能性が高い。
女性のサイコパスは、レーダーをかいくぐって行動するのに長けている。というのも攻撃性を関係的に示す傾向があるからである。嫌いな人間に関するゴシップを広めるようなことをする。正気かどうか疑われるほどのガスライティングを行う。彼女らは自分の言いなりになるようにあなたを操ろうとしている。もしあなたが拒否すれば、彼女らは自分自身を傷つけると脅すこともある。人間を操る達人であり、それはちょうどアニメ「オーバーロード」の王女のようなものだ。
結局のところ、その違いはこうなる。男性のサイコパスはパンチを放ち、女性のサイコパスは陰口を叩く。
ではもし人生に女性のサイコパスが潜んでいるとわかったら、どうすればいいのか?
最初のステップは、連中を見分けることだが、これは思っている以上に難しい。ほとんどのサイコパスは精神病質で、荒れ狂う殺人者ではない。ほとんどの人は心理学者が「成功したサイコパス」と呼ぶ人たちであり、CEO、医者、弁護士、有名人(これらはすべて、サイコパスの割合が高い職業)である。人生にサイコパスがいたとしてもそいつがあなたを殺す可能性は低い。
しかし悪いニュースもある。彼女らはあなたの人生を惨めなものにし、それほど目立たない方法であなたに害を与える可能性が高い。
実際のところ、サイコパスを変えるためにできることはない。サイコパスであることは選択ではなく、脳に組み込まれたものである。
例えば人々が苦痛を与える画像や不道徳な行動を見たとき、サイコパス(男性も女性も)は、非サイコパスと比較して、感情を制御し処理する脳の部分である扁桃体の活動が減少していることがわかる。
このことはサイコパスが他人の苦しみに無関心である理由を説明している。
ある意味サイコパスは脳の感情回路、特に対人感情を扱う部分の病気である。
ではあなたの身近にいるサイコパスを説得して変えることができないとしたら、どうすればいいのか?
残念ながらサイコパスをゲームで打ち負かす唯一の方法は、ゲームを拒否することである場合が多い。
連中がこちらに与えた餌を食べないこと。
そして万策尽きたら、連続殺人犯の映画に出てくる被害者と同じようにするべきだ。
つまり...逃げろ!
声優の櫻井孝宏さんの醜聞がまた流れてきた。15年という期間もあるけど前の記事も含めて女遊びが下手だな~と思った。なのでオッサンの独り言だが正しい?女遊びの仕方を書くわ
店に行って高い金払って美人と遊んでアフターでヤる。これが昭和から延々と続く女遊びのスタンダートだ。店は利益が出る限り客を全力で守ってくれる。香川照之さんの件で反論があるかもしれないが記事を見る限りあれは店的には手打ち済みでホステスの暴走である。あのホステスは今後も得られたかもしれない金と夜の世界を全部失った所か今生きているかも分からない。
逆に店に金を落とさないのに良い思いだけしようとすると店は容赦なく牙をむいてくる。アンジャッシュ渡部が良い例。ちゃんとお店にも金を落とせばあんな事にはならなかっただろう。向こうがべた惚れでもしない限りは店を通しての付き合いにしよう。その限りは自分自身の不注意以外で問題は一切起きない。
なお余談だが女性の美醜と金額は比例している。格安で美人とか夢なので美人と遊びたければ金を積もう。安けりゃそれなりどまり。あと安いと中身もそれなりなので事故が起きる確率も高い。安全は金で買うもの。
夜の世界のプロじゃなく一般人との場合、もう最初に意思の確認をしよう。極論を言うなら「お前はセフレだよ。本命居るよ。それでも良いなら付き合うよ」と聞くのだ。99%はNOと言って終わりだ。だから一般人より金が全てのプロが楽だ。
ただイケメンや有名人だとYESと言われるかもしれない。でも定期的に確認をしよう。最初はそうだったけど心変わりするのが男女問わず世の常だ。セフレじゃ満足できない、本命になりたいと言い出したら別れるタイミング。ちゃんと自分の線引きは持っておこう。
揉めて最悪本命にもバレて大変なことになるかもしれないと思うかもしれないが、冷静に淡々とそれでいてスパッとやると意外と女性側も切り替えて次に進んでくれる。自分の都合の良い感じ、あわよくば続けようとか思うと揉めて相手が暴走する。
とにかく冷酷に話す。それでいてケチるな。安い物とかならあげろ。そこそこの金額も含めての要求されたら弁護士に相談。素人の示談とか無駄。ちゃんと平均予算に抑えてくれるし相手が暴走したら0円&請求のボーナスチャンス。意外と女性も妥協してくれる。
そして別れたら全て捨てろ。手紙、メール、LINE履歴、連絡先等々全部。また連絡とるかもとか思うと駄目。二度と会わないくらいの気概で。ここも欲出すと失敗の原因。
ちなみに心中とかで包丁出されたら即交番か警察署な。恥や外聞より命大事。なので夜間に警らに出て無人にならない交番をチェック。警察署もチェック。というか別れ話のベストスポットはお互いの家ではなく喫茶店かファミレス最強。水やドリアかけられても死ぬことはないし女性も人目を案外気にする。落ち着いた場所とか絶対ダメ。
今は晩婚化しているが遊ばれて結婚逃したとそもそも結婚逃してたは別れる際の話し合いでだいぶ違う。
ナマ絶対ダメ。安全日はキャバ嬢の誕生日並みに嘘。基本ゴム有。最後外出しとか海外ではとか全部忘れろ。女性の気持ちが変わる一番のタイミングは妊娠だ。現実は島耕作ほど運よく行かない。マジで手切れ費用の桁が変わる。ピルやおろさせるのは後の話し合いで不利になるので安全第一
ここまで書いておりなんだが家庭を第一にしよう。だいたい修羅場は本命や妻からだ。逆にそこをないがしろにしなければ疑念を持たれて興信所に相談とかはまぁされない。子供もいるなら子供優先。女遊びの頻度はだいぶ減るだろうがそれで相手が離れたら儲け儲け。
今日、東日本大震災の日を気仙沼で過ごした方の投稿を見てふと思い出したことがある。
LINE交換をする際にアドレス帳に誕生日を登録することがよくあったり、QRコードでLINEを交換すると自分で設定した誕生日がそのまま向こうにも登録されることから相手に自分の誕生日が伝わることが多々あったのだけれど、私が2011年3月11日に産まれたことを伝えると、皆口を揃えて「震災の日!?」と驚いたような反応をしていた。
その後驚きは好奇心に変わるようで、どんな状況で産まれてどうやって震災を乗り越えたのかを矢継ぎ早に聞いてきた。
私はその度に申し訳ない気持ちになりながら「産まれは気仙沼ちゃう、大阪や。」と答えていた。
すると相手は突然興味を失い「んだらば」とか「なんだもねえ」とか言ってこの話を終わらせた。
他の誕生日の人は「〇〇と誕生日近いっちゃ!」とか「有名人で誰と誕生日一緒?」とか言われてるのを見ていたから、中学生だったこともあって毎度少しへこんだ。
これは大人たちも同様いやむしろ私にしてみればもっと冷たく感じられて、私が誕生日を伝えたあとに大阪出身であることを伝えると、「んだばえがっだべ」のような、震災の過酷さを身をもって知っているからこそ、知らない者を部外者として扱うようなニュアンスの反応がよく返ってきていた。
どう表現したらいいか分からないがとりあえず、私の身を案じて「危ない目に遭わずに産まれることができてえがっだべ」と言ってくれている感じではなかったのだった。
さっき読んだ投稿にもあった「しあわせはこべるように」という曲は転校先の学校でも毎年歌われており、その後黙祷を捧げるのがお決まりだった。
そんな空気だから、登校しても他の友人たちと全く同じようには祝ってもらえず、なんかしんみりした誕生日を毎年過ごした。
もちろん、誕生日ではなくて私自身の問題で友人たちのように祝ってもらえなかった可能性もあるかもしれないけれど、、、
それにしても、12歳になるまでの誕生日は周囲からの邪気のない祝福も含めてクリスマスと同じくらい明るく楽しい日だったのに、12歳からの数年間は全く違うものになってしまったと感じていた。
こんな体験を重ねるうちに、私は極力誕生日を他人に伝えないようになっていった。
最初から「大阪で産まれたので震災とは関係あらへん」と言えればいいのだが、誕生日を聞かれただけなのに「大阪産まれ」であることも自分から伝えるのは嫌な奴だと思われそうでできなかった。
当時すでに、東日本大震災の被災者のことを思えばこんな感情を周囲に吐露することも憚られるだろうという分別も流石につく年頃だったので、今までずっと誰にも話さずに生きてきた。
18歳からまた大阪に戻ってきたので、しばらくそんなことも忘れていた。
今日読んだ投稿で当時のことを思い出し、「震災がなければ一緒に大人になっていたかもしれない人の存在をふと思うことがある」といった主旨の文言を見て、「あの時の大人は私との会話の中でそういった人たちを思い浮かべてたんやろなあ」とひとり合点した。
なんとなく書き留めておく。
今日、阪神淡路大震災の日を神戸で過ごした方の投稿を見てふと思い出したことがある。
メアド交換をする際にアドレス帳に誕生日を登録することがよくあったり、赤外線通信でメアドを交換すると自分で設定した誕生日がそのまま向こうにも登録されることから相手に自分の誕生日が伝わることが多々あったのだけれど、私が1995年の1月17日に産まれたことを伝えると、皆口を揃えて「震災の日!?」と驚いたような反応をしていた。
その後驚きは好奇心に変わるようで、どんな状況で産まれてどうやって震災を乗り越えたのかを矢継ぎ早に聞いてきた。
私はその度に申し訳ない気持ちになりながら「産まれは神戸じゃないんです、東京なんです。」と答えていた。
すると相手は突然興味を失い「そうなんや」とか「なんや」とか言ってこの話を終わらせた。
他の誕生日の人は「〇〇と誕生日近いやん!」とか「有名人で誰と誕生日一緒?」とか言われてるのを見ていたから、中学生だったこともあって毎度少しへこんだ。
これは大人たちも同様いやむしろ私にしてみればもっと冷たく感じられて、私が誕生日を伝えたあとに東京出身であることを伝えると、「じゃあよかったな」のような、震災の過酷さを身をもって知っているからこそ、知らない者を部外者として扱うようなニュアンスの反応がよく返ってきていた。
どう表現したらいいか分からないがとりあえず、私の身を案じて「危ない目に遭わずに産まれることができてよかったね」と言ってくれている感じではなかったのだった。
さっき読んだ投稿にもあった「しあわせはこべるように」という曲は転校先の学校でも毎年歌われており、その後黙祷を捧げるのがお決まりだった。
そんな空気だから、登校しても他の友人たちと全く同じようには祝ってもらえず、なんかしんみりした誕生日を毎年過ごした。
もちろん、誕生日ではなくて私自身の問題で友人たちのように祝ってもらえなかった可能性もあるかもしれないけれど、、、
それにしても、12歳になるまでの誕生日は周囲からの邪気のない祝福も含めてクリスマスと同じくらい明るく楽しい日だったのに、12歳からの数年間は全く違うものになってしまったと感じていた。
こんな体験を重ねるうちに、私は極力誕生日を他人に伝えないようになっていった。
最初から「東京で産まれたので震災とは関係ありません」と言えればいいのだが、誕生日を聞かれただけなのに「東京産まれ」であることも自分から伝えるのは嫌な奴だと思われそうでできなかった。
当時すでに、阪神淡路大震災の被災者のことを思えばこんな感情を周囲に吐露することも憚られるだろうという分別も流石につく年頃だったので、今までずっと誰にも話さずに生きてきた。
18歳からまた東京に戻ってきたので、しばらくそんなことも忘れていた。
今日読んだ投稿で当時のことを思い出し、「震災がなければ一緒に大人になっていたかもしれない人の存在をふと思うことがある」といった主旨の文言を見て、「あの時の大人は私との会話の中でそういった人たちを思い浮かべてたんだろうなあ」とひとり合点した。
なんとなく書き留めておく。
エリート主義はポピュリズムよりもはるかに大きな民主主義制度への脅威である。
カナダから見ると、民主主義を重視する人は、フリーダムコンボイよりもダボス会議の方を心配する必要がある。
ダボス会議は、億万長者、大富豪、ハイテク企業経営者、政治家、有名人、官僚など、世界のグローバルエリート3千人が毎年集まる会議で、スイスアルプスの超高級でアクセスが困難なスキーリゾートで開催される。
1971年にドイツの経済学者クラウス・シュワブによって創設され、当初はビジネス会議として開催されていたが、シュワブの執拗な宣伝により、毎年開催される世界的なおしゃべり大会に成長し、愉快であると同時に憂慮すべきものとなっている。
滑稽なのは、世界のエリートがプライベートジェットや特権階級の繭から現れ、消費量を減らして二酸化炭素排出量を減らすことで地球を救う方法を説いていることだ。
しかし、一般人の暮らしぶりを全く理解しないエリートが、世界の問題の多くを自分たちが作り出したのだからそれを解決する方法も知っていると思い込むと、必然的に奇妙な政府政策につながる、恐ろしいアイディアの世界的インキュベーターなのだ。
例えば、パンデミックは、風力や太陽光発電で近代工業国を動かす「グレート・リセット」の理想的な瞬間だったという、彼らのばかげた考え方がある。
これは、いわゆる「グリーン」エネルギーに執着するあまり、エネルギー安全保障の重要性を忘れてしまったために、世界中の国々が今必死に化石燃料エネルギーを獲得しようと躍起になっている現在の現実とは対照的である。
一般市民の生活について何も理解せず、傲慢にも何がベストかを知っていると考えるエリートたちの年次総会を非難すべきであり、このエリートの関係者に対する疑いの目を向けて良いだろう。
近年のポピュリスト的、あるいは破壊的な政治運動のほぼ全てに共通するのは、こうしたグローバリズムに対する疑念である。 まともな人間は、こうした「グローバリスト」が自分たちの利益にしか関心がないとわかっている。