はてなキーワード: 自殺率とは
「先生がいなかったら今、自分はいない」強制わいせつで逮捕され命を絶った練馬中学教師「本当の顔」
https://news.yahoo.co.jp/articles/dabe79b860ef167f072ecaf8cb24f989d984be27
さも本当に良い先生で強制わいせつの実態はなかったとでも言わんばかりの記事だけど、
他の生徒から慕われていたとしても特定の生徒にとってはそうじゃなかったという事なんていくらでも有り得るし
逮捕当時のマスコミの報道がやり過ぎだったとしても(と言ってもそんな報道記憶してないけど)それで自殺してしまったら
自殺したら事実関係を検討する事もできないし、死ねば仏、死んだ人を叩くのは良くないという事で済まされてしまう
https://news.yahoo.co.jp/articles/49af2f42ad71930d9687a10c7bff4f930b749382
公務員になれる資格があるって言われたほうがよっぽど「権利」感あって喜ぶ人多いと思う
「生まれた瞬間から自分は人権という権利を持っていて、だから自分にはその価値がある」
なんて本気で思える弱者ってどれだけいるの?
人権という考え方は、社会的強者は好むけど、弱者には実際受け入れられていない
「生まれた後に、自分の努力の結果、権利を主張できるようになった」という形にしないといけない
そのハードルを可能なかぎり下げることが、弱者を救うことにつながる
具体的にいうと、義務教育を終えた人は公務員になれるという形がいいと思う
でも「あなたはその仕事につける権利があって、あなたが必要で、給料を払う」という建前が重要
「あなたは人権がある。だから無職でも生きる資格がある」はやっぱまずいと思う
外国人に対しても同じ。中卒認定試験に合格すれば日本の公務員になれるという形にする
「外国人にも人権がある」ではなく、「試験に合格したから当然だ」という方が
体から黄金を出せる特徴のせいでその手の犯罪には狙われやすい面もあるけど、
でも黄金を出せるが故に基本的には国やら世間からは大事に扱われて、
統計的に見ても黄金が出せない非黄金人種と比べて例えば自殺率やらは野垂れ死に率は圧倒的に低いし、承認も得やすいからか幸福度だって高い
黄金出せる能力だけで人生乗り切ろうと思えば過酷な資本主義世界の競争から離れて生きていくことも一応可能で、
それは非黄金人種には基本的には与えられてない選択肢なので本音としては結構羨ましがられている、でもそのせいか出世欲みたいなのは平均的に低くて管理職割合みたいな社会的な地位みたいな部分は低かったりする
学歴が中卒とかだったり仕事ができなかったりしても黄金が出せるだけで最低限の保証されることが多くて、
その手の低スペ黄金人種は非黄金人種から見ると「あーこいつ黄金出せなかったら野垂れ死んでるんだろうなぁ……」みたいに思われてたりする
そもそも論だけど、女と男が本当の意味で平等になったら、困るの女の方だぞ。
男女の自殺率の差を見れば明らか。
基本的に男の方が打たれ弱いのもあると思うが、男の方が精神的にしんどい立場を多く請け負っている証拠でもある。
男女平等になるってことは、それを女性も平等に請け負わなければいけないことになる。つまり女性の自殺率が跳ね上がるってことだ。
まぁそうなったらまた男に迫害されているとかいって更なる待遇を要求するんだろうが。
あと、女性の社会進出によって、女性の不倫機会が増えて、男女既婚者が不倫に走る確率って割ともうそんなに差がないの知ってるか?
男女平等になって女性の社会進出がもっと増えれば、女性の不倫率は今よりもっと増えるわけだ。
そうなったらお前らお得意の
>そのフィクションが原因で犯罪を起こしたとしてもそれは個人の資質の問題であるとすべきだ、
横だが。
まあたぶんレスバ相手の言い方も悪いのだが、検討違いの話をしているね。
・フィクションの影響力は恐らくあるが、その影響力は比較的少なく、かつ短期間で消える。(ジャッキー映画を見ると誰もがカンフーの真似をしだすが次の日にはやめる)
・フィクションの影響を1とすれば、親や友人や生まれつき影響の影響力が100ぐらいあるので、実質的にフィクションの影響は無視できる。
こういう話になっている。
これを雑に言えば「フィクションの影響はない(実質的に)」となって、それがネットに広まってるわけ。
君の批判は、フィクションの影響の「ある」と「ない」しか考えてない、影響の大きさを考慮してないので、言ってることが検討違いになっている。
いじめられて死ぬ=ストレス環境におかれると自殺率に影響が出る と言う話は、親や友人や生まれつきの個性の影響よりも、影響力が少ないとは言えないので、フィクションの影響の話とは全然話が異なるね。
徴兵制は一つのたとえであって、例えば女性専用車両でも男性の身体労働の結果得られる財産からの剥奪であるので、身体性への侵害である。もっと言えば、保護義務が八っ制するような仕事で、治安能力に明らかに性差があるにもかかわらず同一賃金が罷り通ること自体、女性の男性の身体性への収奪である。
otoan52 "放っておけばいずれヒトに至る" じゃあ独立した個人として扱い、合意がなくなったんだから取り外しちゃえば、となる。この理屈だと着床できなかった受精卵に死体遺棄適用?論理的なフリをしても党派性バレてるぞ。
このブコメはバカすぎて眩暈がするが、この程度の党派性で物を言っている女が多すぎる。
maruX 自力で針金や編み針で中絶しようとして死ぬ女性が出たり嬰児殺が増えたり子供が不幸な環境に置かれることなど1ミリも考えずにプロライフこそ人権重視とかマジで何を言っているのだろう
その結果が女性の寿命の長さであり、自殺率の低さであり、幸福度の高さであり、公益サービスの受益率の高さである。その「女権のみ」しか見ない態度がここでは糾弾されているのである。
フェミニズムを巡る疑念、糾弾、齟齬の根幹は、結局はそれが「女権のみ拡張主義」であるのが普遍的な人権思想に根差しているのかによる。「○○のみ拡張主義」はナチズムが「アーリア人の権利のみ拡張主義」であったように最悪の結果をもたらすし、それによって公共が左右されることはファシズム以外の何物でもない。
この種のフェミナチたちは、誰かが対抗理屈(と言うか対抗屁理屈)を発明するとそれに群がって考えもせずに多用し始めるが、これが問題であるのは、「○○のみ拡張主義」で公共を左右しようとする試み自体がナチズム/ファシズムとして糾弾されるべきだからであって、常に公共への働きかけは普遍的な人権思想に基づく公共の福祉の調整でなければならないからである。
つまり普遍的な人権思想に根差して、公共の福祉の調整と言う観点に基づかない権利主張はすべてファシズムなのであって、他者に対する人権弾圧である。
これが「女権のみ拡張主義」「ならば男性は男性で自分たちで男権を主張してください」の人たちが言葉の正確な意味合いにおいて社会害悪であり、積極的に排除されなければならない根本的な理由だ。また、これが世界の主流派フェミニズムが急いで、ユニヴァーサリズムに方向転換しようとしている理由でもある。
ナチズム下においては、人権の定義が大きく制約されることになった。通常の殺人の範囲に含めないことでユダヤ人の大量虐殺は可能になったのである。
従って、アフターナチスの世界で求められるべき「人間」とは定義が恣意的な意図によって左右されない絶対性によって規定されるべきであろう。死刑廃止運動とはまさしくこの観点から為されている。死刑囚の人権擁護のためではなく、「人間」の不可侵性を守ろうとする思想である。死刑廃止運動においては、このことを理解しているリベラルが中絶の問題になれば、まったく態度を翻すのは理解しがたいことである。
人間の定義には政権やイデオロギーの恣意性に基づく冗長性があってはならないのであって、アプリオリに絶対的なものでなければならい。
現在は、胎児は「全身が母体から出てからが人であってそれ以前は物」と言う考えが主流であるが、これは恣意性そのものの定義である。例えば頭部のみが出ている段階で、赤ん坊をナイフで刺せば器物損壊罪で、1秒後に全身が出たところで刺せば殺人罪と言うのは科学的な説明がつかない。物体それ自体は同じだからである。栄養従属体であるかどうか、つまりは臍の緒でつながっているかどうかであれば、帝王切開をするかしないかでも他者による恣意性が入り込むことになる。
1秒前までは物、1秒後は人間、と言う科学的なアプリオリに基づかない恣意性から脱却するためには、結局のところ受精卵に人間性を求めるか、少なくとも胎盤への着床後にそれを求めるしかないのであって、理屈の方は中絶禁止派の方が科学的には通っている。
「女の体は女の物」
「私の体の決定権は私にある」
と言う人たちは、徴兵制によって徴兵されて死を強制されて来た男性兵士たちのことを考慮してみた方がいいと思う。彼らもまた、同じことを言いたかっただろう。現在、徴兵制があるかどうかは問題ではない。それがあり得る政策として現在も許容されているということが問題なのである。そしてこれは、同時に、「女性のみが男性のリソースに負担をかける形で体育成績で優遇されている」「女性のみが需給法則・雇用の自由に逆らって男性の機会リソースに負担をかける形で男女雇用機会均等法がある」「女性のみが男性の権利を侵害する形で女性専用列車がある」「女性のみが男性の税金雇用機会に負担をかける形で女性センターがある」等など数え上げればきりがないが、最終的には男性の身体性を毀損する形で、公共の福祉の観点から調整が図られているのだ。その結果が著しい性差が偏った寿命格差、幸福度の差、自殺率の差であっても、許認されているのである。
つまり、利害が対立する局面において、他方の損失が生存に負荷をかけるような重篤性がある場合は、「女性がこの社会により適合性を持たないのは男性のせいでは無いが」、公共の福祉の観点から調整が正当化されるのである。
それが市民社会なのであって、中絶問題はつまりは女性が、他者の利益のために公共の福祉を成立させる自己犠牲を受け入れられるかどうかが問われているのである。
女性の身体の自由性、女性の心身の健康もかなり人権的には重篤なレベルの権利ではあるが、それが胎児の生存権に優先され得るかどうかが問題になっているのだ。
「胎児だから人間ではないので胎児の人権それ自体が存在しない」
という主張は、既に見たようにアプリオリなものでも無ければ科学的根拠に基づくものでもない。恣意性に基づいていると言うこと自体、批判されるべきであるが、恣意性に基づいているのであれば別の恣意性によって動かし得るものなのである。そしてこれを免れ得ないので、中絶賛成派は、アプリオリな定義と科学に基づく議論には決して深入りをせずにただ相手をキチガイ呼ばわりしてそれでおしまいにするのだ。
女性の身体の不都合と胎児の生存権、どちらを優先するかは人権思想に基づくのであれば、後者とせざるを得ないのである。なぜならば私たちは二度とユダヤ人を人間の定義から外した恣意性に戻ってはならないからである。
フェミニズム主流派が言うように、フェミニズムがヒューマニズムの一形態であるのであれば、ここが女性が人権思想を本当に尊重し得るのか、市民社会のプレイヤーとして相応しいのかどうかが問われる試金石になるだろう。他者の生存権を尊重できないようであれば、フェミニズムはイコールの関係においてナチズムに他ならないのである。
そんな風潮のせいで戦う強さを持てない男の自殺率が高いのではないでしょうか