テレビが何かわからない。いや、わかるんだけど、例えば古いテレビと今のテレビ全然形違うじゃん。
昔のテレビの足はなぜ四つ足ですらっと長いのか? 昔の真空管や配電の機械ってとっても重い。それをすらっとした木製の四つ足で支える意味がわからないし、薄型で軽量になった今こそ細い足で支えるべきなのに、実際にはどっしりとしている。
そして大抵テレビというと番組が付属する。「テレビ見る」はテレビを見るという意味ではない。テレビ番組を見るということだ。そしたらテレビはテレビではない。ではテレビはなんなのか? そして、今はパソコンやスマホでテレビ番組見るんだが、私たちの営為としては「テレビを見る」という営みと質的差異はない、あるいは少ない。わけがわからなくなって俺はテレビ朝日を見る、とかネットフリックスを見る、永谷園のCMを見るとか、かならず具体的なものをさすように言語表現するようになった。
これの意味がわからない。手で書く、という意味はわかる。一般的には印刷を用いないで書くことだろう。
ところが、たとえば砂浜に尖った流木で書くのは手書きか? 指で砂に字を書くのは手書きか? と考えるとわからなくなってくる。この二つ、似てるけど営みとしては異なる。
前者は流木書きで後者は手書き(あるいは指書きといってもいいかも)とするべきで、そしたら鉛筆やペンで文字を書くことはは手書きじゃないんじゃないのか。より手で書きうる手段があるのに手書きってのはおかしいんじゃないのか。
筆で書くことを手書きというか? 多分いう。文字だったら。抽象的な前衛書画は?
パソコンは手で打っているから手書きじゃないのか。この文字は俺の手で書いてる。
もう手書きという日本語は全く信用ならなくなってしまい、仕事では、手筆を以ってする、ゲルインクで書いた書類、atokで作成した文章みたいな日本語で表現している。
印刷物の校正は頭がスッキリする。手書きの校正メモ、と、印刷された本文、とは意味合いとしてスッキリ弁別されている。仕事がわかりやすい。ずっとやっていたい仕事だ。
辞書には「脚と天板を持つ台」という定義があった しかしお洒落なカフェで見るような壁から直接天板が生えているような机もあるし、 石を切り出して机にしたようなものも見たことが...
このシリーズで個人的に辛かったのは以下の事柄だ テレビ テレビが何かわからない。いや、わかるんだけど、例えば古いテレビと今のテレビ全然形違うじゃん。 昔のテレビの足はなぜ...
tableなら同じ問題は発生しないのかもな
辞書の定義でいいと思う。ちょうどいい言葉のない台も、思いつく範囲で一番机に近ければ机と呼んでしまうわけで、そういうのを机の定義に含めるべきじゃないと思う。
四本足で中国人が食べないもの全て