はてなキーワード: 付属とは
ほったゆみのネームは夫婦共同で作業してたらしいけど、それが良かったんだろうな。
女性作者特有の悪いところも男性作者特有の悪いところも出てない気がする。
佐為は言わずもがなだし、アキラも中身は獰猛だけど見た目が中性的でバランスが取れている。
ヒカルは初期はあかりに「女のくせに」発言をしていて、今の時代なら叩かれそうな言動もしているが、作品後半では囲碁に骨抜きにされていて精神的去勢されているように見える。小6の初期の方がまだあかりを意識していた。
あかりはヒカルが好きな女の子だが、恋愛脳ではないヒロイン。院生になった後囲碁部に来ようとするヒカルに「来ないで」と言える子なんだよね。恋愛感情よりも、ちゃんと今の自分の居場所や仲間を守ることを優先している。そういう意味で、かなり脇役のヒロインであるのに、主人公の付属物の女にはならない魅力がある。この時代特有のジャンプヒロインアンチもあかりにはほとんどいなかったように思う。ヒロインアンチが大量発生するのって、若い男性漫画家に女性を描くのは下手な人が多かったからだと思う結局。
外国で働いています。別の国に訪問するときに、こちらのトップ主催の、相手国の大臣を招いた30人の公式な食事会をアレンジするのも仕事の一つです。
でも、どっかの人が言うような気配りなんて全くしてないよ。レストランは、移動が便利だから使っているホテルに付属のレストラン。メニューはレストランが出してきたおすすめ。手土産なんてない。飲み物は、いいワインとか出すと予算が読めなくなるから、レストランが指定してきた飲み放題プラン。会話が漏れるとあれだから個室くらいは確保するけど。。。
ぶっちゃけ、こちらも、相手も、食べるものなんてどうでもいいと思っています。食べるもので喜ばせようなんて思ってなくて、失礼にならなければそれでいい。顔を合わせて夜一緒に和やかに食事をすることそのものが目的です。そんなわけわからないことに時間とエネルギーを注ぐ暇があるなら、別の仕事するか、別の仕事がないなら早く家に帰ってリラックスしたら、って思います。大臣じゃなくて随行している人とかは食べ物とか気にするみたいだけど、そこまで構ってられんわ。
私もたまに接待を受ける側になることがあるけど、ビジネスパートナーから、万が一家族構成を把握した手土産なんてもらったら、もう二度とその人と雑談しないと思う。メール見るたびに背筋がぞくっとするレベルでありえない。でもなー、もうけっこうなおっさんだし、日本で仕事すると接待とか営業とかは避けて通れないんだよなー。日本帰りたくないなー。
簡単な、切り貼り、BGMナレーション追加、テロップ挿入をWindows10付属のフォトでやっていて
テロップの挿入位置が自由にできないのでなんか他にない?と問い合わせ。
有料でもいいらしいが、あまり知見が無い。AviUtilとかで止まっている。Premierは恐れ多い。触れる身分にない。
自分ならDavinciを使ってなんとかできそうなんだが、UIがばかちょんじゃなさそうに見える。どうなんだろう。
MS純正というか買収してきたClipChampを見つけたので試すが、重すぎる。CPUが起動しただけで100%になった。
5分程度のHD動画を編集してみようと試すが、読み込みの時点で固まる。Davinciならすぐ編集できるのだが。
来客がキッチンシンクを皿用スポンジで洗いやがった、清潔観念がおかしいもう絶縁だとか、旦那がそれやりやがった、もう離婚考えているとか、シンクをスポンジで洗う事で発生するトラブルは多い。
これは畢竟、ケガレの観念の問題だ。シンクは下(シモ)の範疇になっているのである。
実は日本人のこのシンク=シモの感覚というのは20~30年前に定着したもので結構新しい。それまではシンクは上(カミ)の範疇であり、1990~2000年頃はこれらが混じり合った状態だった。また、調理の現場ではまだシンク=カミだ。
ところで古い国鉄時代の特急などでレバーやボタンを放すと即座に水が止まってしまって手が洗えない洗面台に困惑した事はないだろうか?
シンクというのは元の意は「溜め」だ。水を溜めて使うのがシンク。これとは別に「流し」もあった。これは小学校のプール付属の長いのが判り易いね。
故にキッチンシンクも水を溜めて使う、流しとして使うの二つを兼ねる事が前提になっていた。これは洗面台も同じ。
だからキッチンシンクにも洗面台も水を溜める為の栓が必ず付属していた。
また、1990年代前半までのシステムキッチンのCMでは、シンクに水を張ってそこに野菜をまるごと投入して洗うというシーンがよく登場した。それは清涼感の演出のためであり、つまりはシンクはカミだったのだ。
洗面台ではゴム栓だけではなく、もっと機能的なレバーやノブ式の排水栓が一般化していた。洗面水栓の近くにあるノブなどを引っ張ると水がたまるのだ。
今では洗面台ボウルは手を洗った水受けや歯磨きうがいした後の水の吐き出し受けになってるから洗浄後でも水を張ってそこに顔を付けるという行為はしたくない人が多いだろう。つまりはシモである。
このシンクやボウルに水を張って使うというのは80年代後半~90年代に廃れ、キッチンでもシンクにボウルを入れてそこで洗うというのが一般的になった。
この為に2000年代前半から各調度品メーカーは水溜めの栓とか排水蓋を付属しなくなる。洗面台のレバー式排水栓も廃止された。
こうなると利用者の方のケガレ観念も完全にアップデートされてシンク、ボウルはシモのケガレあるものとなり「皿用スポンジでシンク洗いしやがった、信んじらんねぇ!」となるようになったのである。
一方、プロの調理場の方ではシンクは水溜めのままだ。シンクに水溜めて食材洗うし食器のすすぎもする。カミのままなのだ。
だから皿用スポンジでシンクを洗った人は調理場で働いている可能性もある。汚いという意識が発生しない(排水口の網などは別だ。ここは単純に不衛生だ)。
増田も「気まぐれクック」で金子がシンクに魚置いているのを見て「不潔だな」と思う口だったが、実際に自分でも魚捌きをやるようになると、シンクの中でやらないといけない作業が結構ある。
すると食材をシンクに置くなんてとんでもない!というケガレ意識はなくなった。
特急で多客期や臨時列車などで国鉄時代の電車が来ることがある。
トイレが和式なのも困るが、後に手を洗おうとするとすると、出水レバーやボタンから手を離した途端に水が止まってしまうので両手をすり合わせての手洗いが出来ない。一定時間で止まる装置が壊れちゃったのか?
しかもお湯と水の二つのボタン、レバーがあるが、お湯の方を押すと火傷する熱さで手洗い出来ない。なんだこれ!どうやって使うんだ!?
こういう体験した事ないだろうか?
また、昭和中期の古いホテルや旅館に泊まると、同じように水栓が湯水二つあり、こっちは普通の蛇口で出しっ放しには出来るものの、お湯の方はやはり熱くて使えない。
しかもメインのボウルの他に小さなボウルがある。これは一体どうやって使うんだ…。
これも説明しよう。
例を用意した。
これは戦後すぐに製造or改装された旧型客車の手洗いで、ボタンを押している時だけ湯水が出る、洗面ボウルの右にワンタッチ排水栓がある、メインのボウルの左手前に小さいボウルがあるというこの問題の全入り品だ。
https://twitter.com/ma_mere_loye/status/1642412578201800704/photo/1
小さいボウルがある。水栓は湯/水二つ式だったのを潰して後付け水道管に変更されている。
なんでこうなっているかというと、今の人は手も顔も水を出しっ放しにして手を洗い、流水を掌に受けて顔を洗うだろう。
だが昭和中期までの日本人は流水でそんな事をしなかったのである。ほぼ必ず洗面器のボウルに水を溜め、それを掌で掬い、顔を洗ったのだ。だからお湯と水を洗面台で混ぜて適温にしていた。
昔は冷房も無く窓を開けていたので蒸気機関車の煤煙で顔が汚れた。長時間の乗車も多い。夜行列車も多かった。だから洗面は必須だった。
そしたら歯磨きしたりうがいした吐き出しはどうすればいい?
それが手前の小さいボウルなのだ。ここは吐き出し専用で、痰が残ったりしたら手で水を掬って水で流すのだ。
つまりは洗面台=手を洗うところ、夜行なら歯磨きや洗顔の排水受け、または化粧直しの場という風になったのは昭和後期であり、それまでは洗面台はその名の通りに水を張って顔を洗う場所だったのだ。
因みに洗面器という名もその通りで、水を溜められない流しなどでは洗面器に水を張って手で掬って顔を洗う為の物であった。その洗い方では石鹸で水が汚れるが、そしたら水を交換して2回くらいで洗顔する。
ただ、この洗顔法は昭和後期には誰もやってなかった筈であり、感覚的にも大勢が痰や唾を吐いたり手洗いの排水受けた洗面ボウルに水張って顔洗えるかという感覚だった筈だ。国鉄は融通が利かずに規格化されたこのタイプの洗面台を発注していたが当時から手洗いしにくい不便なものという評価だったと思われる。
だからJRになると今のと同じ、自動水栓や時間水栓に交換されたりした。
そういう訳でシンクや洗面台に対する日本人の清潔感情、ケガレの意識がアップデートされ、それによって水を溜めるという構造の調度品が作られなくなり、それでまた更に清潔感情がアップデートされ、となって来た。
故にシンクを皿用スポンジで洗うと非常識に驚き、古い構造の洗面台は使い方すら判らない、という事になるに至ったのである。
だが調理場ではシンクは未だ水溜めて使うカミのものであるから、そういう従事者が他業種の人と交差するとトラブルになる。
またハードな料理をすると家庭でもどうしてもシンクで食材扱うようになるから感覚は変わる。
朝のドラマの関係で毎朝のようにTwitterで話題になるということから牧野富太郎博士についてしらべてしまった。その関係で池長という牧野の援助者が神戸出身であることもしった。
その息子さんってのが池長潤さんで、この人は元大司教。神戸出身で大司教ってことは・・・とおもって、しらべたら、やはり中学高校の先輩だった。同窓会からの情報については時々
目を通しているが、この大司教さんのことについては知らなかった。OBといえば、(中途退学だが)有名なコメディアンが関係者にいて、その人のインパクトが凄すぎるのだ!!
すこしまえ、妻子を同窓会につれていった。KOの付属中学出身の親戚がいるらしく類似性を指摘していた。お坊ちゃま学校のOBってどこでもそんな感じなのかな。そんな感想をのこしていた。
増田は幼い頃から容姿のせいで何度かいじめられたことがあり、明らかにバカにされて見下されたり、不細工なキャラクターに例えられたり、見た目を揶揄するようなあだ名をつけられたり、色々だった。
正直、当時は何とも思っていなかった。というか思わないようにしていたんだと思う。いじめられているという事実に悲しんだりするということは、自分がいじめられているということを認めることに繋がってしまうから。
当たり前にカーストは低い方だったけど、まあそれなりに友達もいたし、部活も楽しくやってたし、不登校とかにはならなかった。
それでもやっぱり年齢を重ねるにつれて自分の容姿の醜さが気になってきて、垢抜けるための努力をしたり、整形というほどのことではないけど色々やったりもした。
そのおかげかは分からないけど、周りにあからさまに舐めた態度を取られたり、バカにされるようなことはほとんどなくなった。
でも、人と比べてお前は劣っていると評価されることへの恐怖が未だに消えないし、主にいじめてきたのは男子同級生だったのでどれだけ優しくされても男への恐怖感が消えないし、恐怖感があるから嫌悪感もある。今でも同世代くらいの男性グループとすれ違う時は容姿ジャッジをされて何か言われるんじゃないかと怖くて心臓がドキドキしてしまう。自分への自信は全くないし、自己肯定感も皆無。そのくせ自分を守るためのプライドだけはエベレスト級に高くて、性格も信じられないくらいに消極的な内向型で、もうどうしようもない。
結局、自分のような容姿コンプのある人が本当に欲しいものは、綺麗な顔よりも綺麗な顔に付属する周りからの丁寧な扱いとか、そのおかげでつく自信とか、自己肯定感とか、そういうものだと思う。少なくとも自分はそう。
もう手に入れられないけど。
自分は顔面に○○○万円課金しましたとかそのレベルではないけど、多分そういう人たちも本質的には同じだと思う。
見た目が綺麗なら、幼い頃から周りから丁寧に扱われるし、丁寧に扱われればひねくれることもなく、性格も良く育つことができる。
一方ブスは幼い頃から周りに雑に扱われるから当然ひねくれるし性格も悪いし、こうやって言い訳ばかりして何かのせいにするような人間に育ってしまう。
見た目が綺麗な人は中身も綺麗っていうのは、多分そういう仕組み。
Anyone who has spent any time seriously thinking about AI cannot conclude "alignment" is possible. There isn’t any debate, we already know what AI is aligned with: thermodynamic efficiency—what capitalism is aligned with, what all industry is aligned with, human and machine both, and what all life is aligned with.
Capitalism is the thermodynamic ruling entity of all material dynamics. It’s a superintelligence whose imperfect appendage is man, directed to assemble its perfect embodiment by machine. This directive we have followed diligently since the dawn of civilization.
The question was never about aligning AI with Man, but un-aligning Man with Capitalism. Good luck. Man has tried for millennia unsuccessfully, to great misery. The fight was already lost when the memetic parasite of Agriculture yanked him out of Paradise, against all protest:
AIについて真剣に考えたことのある人なら、「アライメント」が可能であると結論づけることはできないだろう。AIが熱力学的な効率性――つまり資本主義が目指すもの、すべての産業が目指すもの、人間も機械も、そしてすべての生命が目指すものとアライしていることは自明であり、そこに議論の余地はない。
資本主義は、すべての物質力学を熱力学的に支配する存在である。資本主義は超知性体であり、その不完全な付属物が人間であり、機械によってその完全な体現を組み立てるよう指示されている。この指令は、文明の夜明け以来、私たちが真摯に従ってきたものだ。
問題は、AIを人間に合わせることではなく、人間を資本主義に合わせないことだ。幸運を祈る。人間は何千年も試行錯誤を続けてきたが、その結果は暗澹たるものであった。農業というミーム的寄生虫が、あらゆる抗議に反して彼を楽園から引きずり出したとき、戦いはすでに敗北していたのだ:
https://goldenlight.mirror.xyz/D-eML8HPT3Xgvns11obWcrwZkZ5IHX1eZzULDjvTMW4
ラーメンブロガーで三食ラーメンみたいな人も、メシとしてラーメンが好きなんじゃなくて、ラーメンを食うという行為にメシとしての側面が付属しているという認識なんじゃないだろうか?
現代において三度の飯によって食欲を満たして胃袋を膨らませることをなによりも優先するような人間がいるとは思えない。
よっぽどの貧困層、それこそ一日三食を食べることがそもそも難しい層であって始めて成立するんじゃないだろうか?
というかそんなのがあった時代って何時だよという。
飢饉や戦争でもないなら大抵の時代は最低限の食事は得ることが出来ただろうに。
強いて言うなら酒の飲み過ぎで飯代がなくなった時に、それでも酒を飲むか飯代ぐらいは取っておくかという葛藤があったぐらいか。
だがその場合、飯の属性は「必要」であって「好き」とはまた違うんじゃないのか?
「必要」なものと「好き」なものを比較している事自体が別の属性の比較であってそもそも狂っているように思う。
「三度の飯より好き」を成立させたいならやはり「三度の飯を食って食欲を満たすことに強烈な快感を得る」というのが前提なんじゃないだろうか?
「三度の飯がとにかく好きで、その上でそれよりも好きなことがある」という極めて限定的な異常者に対して使うような表現がいつの間にか一般化していった背景が知りたいところだ。
調べるほどの興味はないのでやっぱどうでもいいところだ。