はてなキーワード: 風土とは
でも加害者も強者男性だし、そういう風土を作ったのも強者男性なんだよね。
だからと言って救わなくてもよいというわけではないんだけど、
「虐げてる奴に言え、お仲間じゃねーか」と言いたくなる気持ちはある。
「女の敵は女(ドヤッ)」ってよく言われるけど、
現実を見渡してみればよっぽど「男の敵は男」なんだよね。
弱者男性が苦しんでるのだって9割は強者男性の論理の中で生きようとしているからだし、
男はイケメンでフィジカル的に強くてあたりまえって価値観だって強者男性由来だし、
毎日ゴリゴリ残業して疲れ果てるくらい仕事するのがエラいって価値観だってそう。
ウォーターフォールモデルという硬直したパワーバランスですべてが決まっていく開発手法の最底辺で使い捨ての部品としてしか見られていなかった開発者たちにとって、美辞麗句が並べ立てられたアジャイルはさぞや美しいものに思えたことだろう。
今やウォーターフォールモデルなどというのは過去のロストテクノロジーでしかなくなり、アジャイルという言葉しか見えなくなった。
そんなアジャイルという開発手法は生産性の名のもとに政治力をベースに物事が決められていくという形で力のない開発者たちにウォーターフォールよりも悲惨な形で牙を向くようになった。
アジャイルにおいて大事なものの一つにコミュニケーションがある。
コンセンサスベースに物事が進んでいき、開発者たちにとって風通しの良い風土が作られるかと思ったら、単なる政治ゲームの世界になってしまった。
ルールなどは政治力によってエクストリームな改善の名のもとに形骸化していき、口の上手い人間によってその変更はYAGNIとなり、どう考えても不要な設計は柔軟な保守を可能にする良い設計だとされることになった。
やたらとアジャイル用語は飛び交うがそのままどこかに飛んでいく。
顧客たちによってタスクは毎日のようにスコープが変わり、コンセンサスはいつの間にか小うるさい開発者のいないところで取られるようになった。
アジャイルによって政治力を身に着けた上層部は、開発者を排除することはしない、コンセンサスに絡みたいならぜひどうぞ、ただし孤軍奮闘する羽目になるけどね、という構図を作り上げている。今のロシアみたいなもんだ。
アジャイル開発が夢見たものは一体何だったのか、結局狡猾なやつが政治力を身につけるかどうかのゲームでしかなくなりもはや開発にとっての単なる害悪になった。
この原因の一つが大規模なチームへのアジャイルの導入というものだ。
おそらく10人がいいところだ。
10人のチームを10個作って開発させるのであれば、チーム感のプログラム的な結合はとにかく疎でなくてはならないが、アジャイルになる前の癒着と言ってもいいレベルの結合は解決されないままに移行される、つまりアジャイルへの移行に対する投資はとことん削られるということであるが、癒着したままアジャイルになるので結局余計に泥沼な政治ゲームの舞台がそこに広がることになる。
そして偉い人たちは対外的には我社はアジャイル開発を採用しているので高い生産性を誇っていますというのだ。
結局アジャイルとは何だったのか、ウォーターフォールの何がまずかったのか、ウォーターフォールはぶっちゃけわるくない。周りで踊る奴らが権力闘争に明け暮れたのがまずかった。
アジャイルになって権力闘争に明け暮れていた奴らが今度は政治ゲームをはじめたが、ウォーターフォールなんかうんこだ、アジャイルこそ至高!と言ってアジャイルをやってると言ってはばからないしエコーチェンバーによってやってることの懐疑論はかき消されるがゆえにたちが悪い。
彼らは絶対に外に学ばない、第三者に評価を求めない。そんなのはアジャイルじゃない、うちには専門家がいる、だから十分なのだと無意識に今日も既得権益を守り続けている。
ボスはアジャイルをやってるのになんで生産性が上がらないのだと文句を言う。
アジャイル統括部門のリーダーは言う、アジャイルに特に重要なコミュニケーションが回っていません。もっと密にコミュニケーションを取りましょう。
その結果ミーティングは増え、作業前に書くドキュメントはより厚みを増す。
彼らが叡智を結集してアジャイルの原則に立ち返るとこうなるらしい。
そしてアジャイルという名のウォーターフォールが組織に爆誕した。
やってることはウォーターフォールなのに名前がアジャイルだからたちが悪い。
アジャイルの柔軟性を獲得したウォーターフォールなど単なる地獄だ。
昔は名門大卒が1人として入るような会社じゃ全然なくて地方Fラン私大とか東京の武闘派五流私大卒ばっかりだったけど、
やがて業界再編を経て超大手企業の資本に入り社名も変わり、気づけば早慶卒だって珍しくなく一橋卒すら毎年入るように……
エリートがいなかった時代に入社したモラル皆無のえせチンピラみたいな古参が課長~部長の椅子に座って権力持つようになり、
同時に会社の毛並みが良くなった影響で昔とは考えられない細やかでハイレベルな水準の仕事を当然に要求されるようになり……といういびつな状態になっているから。
結果的に新卒は、古参の粗野でエグい上司に抑圧されながら、昔じゃ考えられないくらい負担の大きい仕事をデフォでいきなりこなしていかなければならないというハードモードからスタートするはめになる。(こういう会社って超有名なオフィビルに本社構えるはど図体でかくなって、コンプラ推進室とかいかにも大手らしい部署もちゃんと存在するのに、
野良犬みたいな社員ばっかりだった時代のパワハラチンピラ風土は普通に残ってるんだよな。なぜか黙認されてんの)
古参連中なんて若手時代は二日酔いで寝坊したり、上司に対してガキ丸出しのワガママ言ってキレまくったり、先輩とゴルフ練習場で昼までサボってから働き始めてたりしてたくせにな。
だから就活する大学生はマジでこういう会社から逃げれるよう気をつけたほうがいい。
社員が千人以上いようが、売上一千億あろうが、保養所が立派だろうが、年収高くて福利厚生良かろうが、内実はチンピラ文化やデタラメがまかり通ってる
大学で専門の科目を取得すると学芸員の資格を取得できます。ただ採用する人数は非常に少なく、倍率が100倍を超えることもあります。
文学部で取得できる資格のひとつに図書館司書があります。資格試験は実施しておらず、必要な単位を修得することで資格を取得することができます。需要が低く人員に空きが出ることも少ないため狭き門となるでしょう。
文学部だから採用に有利に働くかというとそうでもありません。大手出版社は体育会系の風土であり非常に激務で知られています。文学に親しんできた(少なくともそう期待される)文学部であることは面接のアピールにはなるでしょう。
文学部卒の花形ともいえる職業が教師ではないでしょうか?英米文学専攻では英語、国文学科では国語の教員免許が取得できます。これらの科目の教員免許は他のほとんどの学部学科で取得することができません。
文学部は一般企業人事の印象が悪いですが、地方公務員は出身学部でほとんど差別されません。文学部で学ぶ学問は公務員試験の教養試験に出題されることがあり、大学で学んだことを就職に活かすことができる数少ない業種でもあります。
両者は2本別々の作品だが、文庫化された当時、一冊にまとめられたもの。
共通するテーマは旅。いずれも見開き2ページで一話完結。さまざまなエピソードを収録している。
高度経済成長を経て経済大国となった70年代半ば、ブームになったのはハワイや香港などの海外旅行。
おりしもジャンボジェット機が就航し、高価だった海外旅行が庶民の手に届くようになった時代。
それまでの日本人の旅行といえば、熱海など温泉旅行。そして企業など慰安旅行が当たり前で、宴会どんちゃん騒ぎに温泉コンパニオン。
そんな温泉社員旅行のノリで、庶民たちが海外ツアーに出かけると、一体何が起こるのか。。。
バスタブを初めて使い、トラブルになる場面、当時のお土産の定番だったジョニ黒をネタにした作品、常磐ハワイアンセンターにダンサーを引き抜かれて本場のハワイではすっからかん、お土産にアロハシャツを棚ごと買い占める成金、といった当時の世相をユーモラスに描いている。
こんな客もいた。
英語をしゃべってみたくて、外人のスチュワーデスをコールするが、全く通じない。ワンスカッッチャンドワーラープリーズ!などと必死に連呼するも歯が立たず、添乗員を呼びつける。
スコッチの水割りを頼んでるのに英語が通じないんだと添乗さんに話すと、そばでその日本語を聞いていたスチュワーデスがオー!スコッチ・エンド・ウォーターのことね、とはじめて理解した、という。
全く英語のわからない外人スチュワーデスも困ったもんだねえ!と添乗さんに文句をいうオチ。
こういう人、いるよねぇ。。
安孫子先生の人間観察とそのユーモアあふれる描写の仕方は本当に好きでした。
海外旅行ツアーが大ブームになった70年代、一方、国内では、一人旅がブームとなっていた。
当時の日本の歌謡曲も、心の旅(1973)、岬めぐり(1974)、いい日旅立ち(1978)など一人旅をテーマにした曲が流行していた。
こちらの作品ではサラリーマン生活に疲れ、癒しを求めて一人旅にでた孤独な青年の旅先での小話が描かれている。
添乗さんが日本人の集団心理を切り取ったものだとすれば、こちらは日本のそうした組織風土に疲れて旅に出た青年を描いている。
モーレツ、と言われた時代が去り、しらけ世代という言葉が登場した70年代半ばというのは、どこかに誰も知らないところへ出かけたい、そういう時代だったのだろう。
なかでも印象深いのは、寝台列車に乗って、普段通勤していた駅に到着した朝、カーテンを開け、ホームで通勤列車を待つサラリーマンにわざと、お酒を飲んでくつろぐ姿を見せつけるエピソード。
線路わきでのんびり昼寝をしていたら、蒸気機関車の音にむっくり目が覚まし、
いまどきSLなんてめずらしいねーなどと、近くでのんきにSLを眺め、見送るエピソード。
驚愕したのは、朝からポジションを決めて待っていた撮り鉄たち。
線路わきから突如、人がにょきっと立ち上がって姿を現したため、予想外の出来事に動揺。邪魔だ、どけー!と叫んでも機関車の音で聞こえない。
「添乗さん」では、ホンモノをゲットすること、象徴的な意味での旅の証明としての戦利品を収集したり体験することが旅の重要なアジェンダとなっている。
例えば、マカオでニセモノに騙される日本人や、ビーチでナンパを試みたツアー客が間違えて日本人女性に声をかけながらも外人女性だけを探し求める姿などを風刺している。
一方、「さすらいくん」のほうでは、旅の目的は疲れ切った日常から逃避する場所を求めた癒しであり、ぬくもりだ。旅先の情報など何一つ収集しないし、旅の思い出を語る誰かもいない。
どちらも哲学的な意味での旅の本質をさらっと描いているのが秀逸だ。
この2作品は、旅というテーマを通じて、当時の日本人が何を思い、旅先にどんな夢を描いていたかを、
藤子不二雄Ⓐ先生にしかなしえないユーモアでもって簡潔に描写している、という点で同氏の傑作のひとつ。
どうもありがとうございました。
遠距離恋愛をしている。
「いつか一緒に暮らしたいね」そんな話を聞いた瞬間は甘酸っぱく、希望に満ちた気持ちになる。
しかし、私は彼の元へは嫁げない。
以前彼の住んでいた地域に1年半ほど住んでいたのだが、気候風土が合わなすぎて不眠に陥り仕事をクビになり、最終的にうつ病を発症して地元へ強制送還された過去があるからだ。
彼には半身不随の母がいて、その母の面倒を見なければいけない。
彼は親とソリが合わないらしく、いつも大変そうだ。
「要介護度が上がるなりしたタイミングで施設に入れることは可能なのでは?」
「いいや、死ぬまで面倒見るつもりだよ」
彼は言った。
その瞬間、私は目の前が真っ暗になった。
だって、彼の「いつか一緒に住みたいね」という発言と、「母は死ぬまで面倒見る」という発言はあまりにも矛盾している。
どうも息子と母というものは関係が妙に深くなりがちになる家庭があるらしい。
彼は「子供たるもの親は一生面倒見てやらねばならぬ」という固定観念があるらしく、そこから動けなくなっている。
私は正直、呪いみたいだと思った。
まるで親が子供にかけた呪いじゃないか。本来親というのは子供が自由に生きることを望むものじゃないのか? 少なくとも私はそう育てられてきたし、親とは「認知症になったら施設に入るね」という話は既に済ませてある。
「施設に入れないの?」と言う私を彼は「邪魔な人を切り捨てようという冷たい思考は君自身のことも傷つけると思うよ」と一蹴してきた。
正直、ものすごくショックだった。
二人の未来のため、彼自身が介護という重圧から解放されるために私が思いやりで提案したことは、「邪魔な人を切り捨てる冷たい考え」に映ったらしい。
彼は向こう5年10年で母は死ぬと思っているらしいけれど、それでも長いと思うし、実際現代の人はそんなに脆くないのでそれ以上になる可能性の方が高い。
こうして価値観の不一致を目の当たりにしてその日の通話はおしまいとなった。
私はその日から学び、考え方を改めた。
・彼に対して将来の話をしない
・彼の家庭の話をしない
・なるべく自分にも彼にも優しくいる
この三つを行動指針とし、次の日からも彼と関わっていくことにした。
そうすると仲は安定し、毎日楽しく話すことができるようになった。
彼とも、「状況が変わるまでは今を丁寧に付き合っていこう」という話はしている。
しかし、時々ふと思う。
これからどうすればいいんだろう。
今を丁寧に付き合っていけば、明るい未来は後からついてくるだろうと、そう思うんだけれど。
時々不安が襲ってくる。
私は本当に先方のお母さんが死ぬまで、10年以上も彼と今の関係を続けていけるの?
そうして年老いた私と彼は、果たして新しい土地で適応できるだけの体力が残っているの?
考えると、苦しくなる。
彼のいいところを見つけ好きになるほど、苦しくなる。
彼を母親の呪いから解放することは、恐らくポッと出の私には無理だ。
男性は嫁は捨てられるけど、母親は捨てられないなんていうのは有名な話だ。
どうすればいいんだろう。
人の感情なんかちっとも想像できない子供に対する職場、学校などでうつ病患者を量産してもそれを辞めない。
感情がむき出しになる法廷で働く人もどんどんうつ病になっている。
多少の被害者を出してでも感情的であることを悪とみなしている。
一方で、感情的でないならば何をしても法さえ犯さなければOKという風土もある。
これは私は正直失敗だったと思っている。
というのも後日弁護士やメディアを使ってロックを徹底的につぶせなくなったからだ。
アメリカでの今の構図は「妻の病気を茶化したコメディアンから彼女を守った勇敢な男」ではなく「職務を全うした人間をいきなりひっぱたいた頭がどうかしている人」だからだ。
正直言うならば、あの場はぐっとこらえてあとで奥さんがさめざめとメディアに「コメディアンだから何を言ってもいいのか、私の病気を笑いの種にされるいわれはない、彼のような差別的なジョークを平然と飛ばすアカデミーにも疑問を感じている」とかいってウィル・スミスは優秀な弁護士を探すほうがよかった。
今ウィル夫妻がこれをやったらたぶん報復で刑事告訴されることは目に見えているし、ロックはこのカードは絶対にとっておくだろう。
なぜならロックは「彼のキャラクターで仕事をした」だけでしかないからだ。
ウィル・スミスには勝ち目はないだろう。
「私は私の職務を全うしただけだ、私のジョークに文句があるのであれば冷静に言葉で戦うべきだ」と言えばロックは正義の被害者になれる。
案の定「今回みたいなことが今後も起こるならコメディアンは仕事ができない」なんて言っているようだ。
ポリこれ抜きにしても病気の人をいじるべきじゃないなんて言うことはもう論点にしてもらえないだろう。
ウィル・スミスは初手をしくじった。
仮にも選挙に選ばれてるんだからプーチンだけじゃなくロシア国民にも責はあるとする意見もあり、
けど選挙のたびにジャーナリストが行方不明になったり対立候補が不自然に消えたり投票率が100%を超えたりするような選挙に何の意味があるのかという意見もあり。
最近の支持率が7割越えだとかいう報道もあるけど、どこまであてになるのか分からない。
どうなんだろうね。
プーチン政権を存続させてきたのはロシア国民だというのは確かにそうなんだろうけど、国の全権を完全に掌握してて謀略暗殺なんでもござれな相手に一般市民が何ができるかというと、まあ何もできないよね。
平和的に、例えば国外の人権団体あたりと協力して国連に訴え出て国際世論を動かして選挙の監視団を入れてもらうとか考えてみても、安保理にはロシア政府代表がふんぞり返ってる。
後はもう反政府武装ゲリラ闘争くらいしか残ってない。そんな無茶をやれとは言えない。
ではロシア国民は一方的な被害者なのかというと、それもどうだろう。
どうにもロシアには独裁者が出現しやすい政治風土があるようにしか見えない。むしろ国民がそういう指導者を望んでいるのではないかと思えるくらい。ソ連時代から相変わらず。
プーチンも最初から全権を掌握した存在としていきなり出現したわけじゃない。元KGBで超がつくタカ派でヤベーやつというのは最初から言われてて、それでも国民が「強いリーダー」を望んだから選ばれて、これまで着々と独裁体制を築き上げてくることができた。
そして今となっては、もうロシア国民にも他の国にもどうにもできない存在になってる。
やっぱり責なしとは言えないような気もする。
こればっかりは「中国がなぜ独裁者を選ぶのか」に近いものがあって、
大地とか歴史とか風土が絡んでいて人智を超えている可能性があるからなんともしがたい。
ただし地球全体でみればご存じの風潮だと思うよ。
https://www.sofia-inc.com/blog/7233.html
情シス(情報システム部)はもういらない?これからの情シスに求められる、あるべき姿とは?
皆さんは情シス(情報システム部)が果たす役割・機能を何だと考えますか? 全社のIT戦略策定・システム企画、社内インフラやアプリの保守・運用、ユーザーサポートやトラブル対応といったことを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
しかし昨今、情シスにそのような役割が求められていない、もしくは情シスの業務自体がなくなりつつあることをご存知でしょうか?
今回の記事では、これからの時代の情シスに求められる役割、あるべき姿について説明します。
近年Microsoft AzureやAmazon Web Serviceといったクラウドサービスの台頭により、オンプレミスからクラウドへの流れが起きています。社内に物理サーバーを置いて保守・運用するといった必要がなくなり、ソフトウェアもPaaS・SaaSといったクラウド上で提供されるサービスに代替されるようになってきています。それに伴い、膨大な設備投資費や社内SE(システムエンジニア)の人件費を削減できるようになりました。今後すべてのITリソースの保守が必要なくなるという可能性もあります。
デジタルトランスフォーメーション(DX)が多くの企業で重要課題となっている現代において、企業がIT活用で目指すべきことは、単純にITインフラ・ツールを変革させるということではありません。業務変革・組織変革を伴うような、より大きな次元での変革です。経済産業省も、ITを変えるだけがDXではないと説明しています。
「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること」
このデジタルトランスフォーメーションの実現を企業が目指すにあたって、情シスの仕事も大きく転換しようとしているのです。次章では、まず従来の情シスの役割について整理・紹介していきます。
DX(デジタルトランスフォーメーション)を推進する上で押さえておきたい3つのステップ
昨今ビジネスの場において、DX(デジタルトランスフォーメーション)という概念が頻繁に取り上げられるようになりま…
これまでの情シスに求められていた役割は主に以下の4つでした。
会社の経営戦略や事業戦略に基づき、システムの企画立案・要件定義をする役割です。社外ベンダーの見積もり検討・選定、およびその後のプロジェクトマネジメントを遂行し、ユーザー部門に対して新しいシステムを開発・提供します。
社内ユーザー部門からのリクエストや業務プロセスの変更に応え、既存システムのカスタマイズなどを実施します。運用・保守によってシステムを安定稼働させ、会社の事業活動を下支えする役割を担います。
自社サーバーやネットワークの構築・運用・保守を行いつつ、セキュリティ対策やデータ保全を実施することで、万が一の事態に備えます。また新技術・製品の導入検討や評価を行って、常に社内環境のサービス向上に努める役割です。
社内ユーザーからの問い合わせ対応・トラブルシューティングを行います。ツールやシステムの導入サポートの他、新卒や転職者へ社内システムの教育を実施することで、社員1人1人の円滑な業務遂行を支援します。
以上が従来情シスに求められてきた役割ですが、現在のクラウド時代において運用・保守業務はその必要性を失っています。また業務システムについても、SaaSなどのクラウド上で提供されるアプリケーションを利用できるようになっており、企業独自でシステムを構築するということは少なくなっているのです。
このような中で、今後情シスには一体どんな役割が求められてくるのでしょうか。次章で詳しく解説していきます。
クラウドで提供される業務システムは、往々にして業務の生産性に関する考え方が先進的であり、しかも随時バージョンアップしていきます。従って「自分の行動にシステムを合わせる」のではなく「システムに自分の行動を合わせる」というのが日常的に求められるのです。
しかし事業部門をはじめとする多くの社内ユーザーは、旧来の業務のやり方に慣れ親しんでいるために、「システムに自分の行動を合わせる」ということに自力で順応するのが容易ではありません。システムを使いこなせないばかりか、新しいテクノロジーに対して抵抗感を覚えてしまうケースもあります。
そこで必要となるのが、自社の業界・事業・業務においてITツールをどうやって活用するかを考え、そのための情報を関係各所へ提供する存在です。これからの情シスには、システムの機能や技術面だけでなく現場の業務プロセスにまで入り込み、具体的なユースケースを提案・サポートすることで、全社的なIT活用を推進する役割が求められています。
また、会社としてDXを推進するうえでは、単にITツールを組織的に活用することだけでなく、同時にチェンジマネジメント(組織変革)を進めていくことが必要です。新しいワークスタイルを実現するためには、職場の文化・風土も変革していかなければなりません。次章ではDXを促進する立場としての情シスの役割について紹介します。
クラウドサービスの台頭でIT部門の仕事がなくなる 企業のIT部門の仕事、と聞いて何を思い浮かべるだろうか。自社の…
DXを促進する情シス(情報システム部)の役割と専門家との協働
デジタルトランスフォーメーションにおいて最も上手くいかないことの1つとして、先進的なITツールに対して個人個人の理解度・受容度が追い付いていけず、会社として変化を受け容れられないことが挙げられます。ツールの機能、業務プロセスへの適用法が分からないことで現場が混乱し、これまでの業務のやり方やワークスタイルから脱却できないといったことがそれにあたります。
これを解決するために必要となる活動が会社のカルチャーチェンジ、社員一人一人のマインドチェンジです。単にITツールの活用法をナビゲートするのみならず、業務プロセスや職場の文化・風土というところまで踏み込んで、ユーザー部門に対して新しいワークスタイルの実現に向けた啓蒙活動を展開していったり、全社的な意識改革に向けたコミュニケーションを展開していったりといった役割がDX推進には不可欠なのです。
しかしこの役割は、専任のDX部門が担おうとしても失敗するケースがあるほど難しいものであり、そもそも経営層が事業戦略におけるITの重要性を十分に認識していなければ到底実現できるものではありません。では、情シスがDXを推進する役割を担っていくためにはどのようなアプローチをしたら良いのでしょうか。
それは情シスが持つIT知識や社内システムへの知見を最大限利用し、経営層を巻き込んで企業を変革する旗振りをしていくことです。ただし限られたリソースの中で上層部や会社全体に働きかけるというのは非常に負担が大きく、失敗に終わる可能性も大いにありえます。そこで1つの解決策となるのが、そういった業務改革・組織改革の支援を行うITベンダーと協働することです。高い技術力と豊富な支援実績を持ったITベンダーが上層部への答申からITツールの全社展開まで幅広く支援してくれます。そして、組織風土変革や社内へのコミュケーションは、自社の人事部門や広報部門が実務として実施していきます。現場部門との協働はもちろんですが、変革を企画する部門と協働することで、より全社的なムーブメントをつながります。
まとめ
以上のように、近年情シス(情報システム部)に求められる役割は大きく転換してきています。従来担ってきたITインフラやシステムの構築・保守・運用業務は不要となり、今後はデジタルトランスフォーメーション(DX)実現へ向けた社内ユーザーへの情報提供・啓蒙活動を行っていくことがその使命となっていきます。
もしあなたが情シスのメンバーであり、従来の役割を脱却できずにいるのであれば、業務改革・組織改革支援を行うITベンダーの活用を検討してみてはいかがでしょうか。
朝5時に目が覚め、することもないのでスマホをいじっていると、以前言及したブルマー情報局というサイトで、フランス映画「Peppermint Soda」でブルマーが見られると書いてあった。しばらくはブルマーについて調べるのはよそうと思っていたのだが、目覚めた直後には自制心があまり働いていないせいだろうか。ついつい時間を費やしてしまった。たばこを吸ったことはないのだが、禁煙をしていてつらいのは目ざめの一服を我慢することじゃないか、とあてずっぽうで考えた。
原題は「Diabolo menthe」で、1977年に公開された青春映画だ。監督はDiane Kurysで、女優でもある。ウィキペディアによれば半自伝的な作品が多い。以下、英語版のウィキペディアから抜粋する。
舞台は1963年、13歳のアンヌと15歳のフレデリックは両親が離婚したユダヤ系の姉妹である。二人は母とパリに住み、夏休みは海辺で父と過ごすが気まずく感じている。二人の通う学校は規律が厳しい。
妹のアンヌは思春期の入り口にいるがあまり社交的ではなく、成績もよくない。周囲で何が起きているかを母や姉から盗み聞きして知ろうとする。成績は良くなく標準以下で、不公平な教師に対処しないといけない。あるときは姉の一年前に書いた小論文を剽窃したのが見つかっている。また、初めての生理や男の子と話すことや、問題を起こした後で母と問題に対処しなければならない。
対照的に姉のフレデリックはより外向的で政治的意識も高い。特にアルジェリア問題と反核運動に関心を持っている。自分よりずっと年上の人に片思いをして、初めて本格的な恋の痛みを感じ始めている。また、初めて逃げだした友人や、価値観の違いによる友情の喪失も経験する。
例えばyoutubeの予告編に出てくる。大体0:38頃である。
https://www.youtube.com/watch?v=lGpU3y8RAFM&ab_channel=DulacDistribution
他にももう少し鮮明な画像があるページもあったが、「映画を無料でダウンロード!」と書いてある危険そうなサイトだったり、映画での性的なシーンをつなぎ合わせた違法アップロードだったりするので、リンクは張らない。どうしても気になる方は英語やフランス語のタイトルで検索してほしい。
で、肝心のブルマーを見てみると、ブルマーというよりは極端な短パンに見える。前列右から2番目の子を除いて、他の国のようなショーツ型ブルマーではないようだ。さらに、生徒によって短パンやシャツの色が違っている。フランスではブルマーが制服として採用されたのではないらしい。
しかし、逆にそこが興味深い。この仮定が正しければ、制服ほどの強制はなかったにもかかわらず、1960年代のフランスではブルマーに近い短パンを生徒が自主的に着ていた可能性があるからだ。もちろん何の証拠もないし、強制ではないにせよブルマをはく雰囲気があっただけでも強要されたように感じた人もいるだろう。ただ、当時のファッションの傾向としてブルマ的短パンが許容される風土があったのやもしれない。奇しくも60年代はミニスカートが初めて流行した時代である。当時の青ブルマーはおしゃれの先端だったのだろうか。
この映画、ちょっとだけ年端もいかない少女の下着姿や乳房が映っている(該当シーンがアップらされていたのも、リンクを貼らなかった理由の一つだ)。昔の芸術系の映画にはたまにあるが、やっぱりショックだ。ショックなのはそのためらいのなさと、どうしても一瞬は美しいと感じてしまう自分の感覚だ。
ここでは表現の自由と検閲の是非については議論しない。専門外なので解像度の低い議論はしたくない。
ただ断っておくと、今は少女の裸体を(少なくとも実在する児童の写真・映像なら)禁じるのは当然だと思う。悪の定義が「なにも知らぬ無知なる者を……自分の利益だけのために利用する」ことならば、まさにその定義に該当するからだ。性についてまだ知らない相手を同意なく性的に扱うのは間違っている。
一方で、グーグルで「少女 ヌード」と画像検索すると一件も引っかからない。正しい処置だと思う。けど、大企業によるあからさまな検閲は正しくてもなんだか怖い。
映画の配信とかも怖いと感じるのがそれで、どのような理由であれ、いつ同意なく内容を差し替えられてしまうか、それが怖い。
ところで、表現の自由に調べてみると興味深い事実に行きあたることがある。
たとえば英語版wikipediaの「Pornography_in_Europe」を読んでいると、「Like Denmark and the Netherlands, Sweden does not regulate pornography and the country has no age laws for the possession or viewing of pornography.」つまり、スウェーデンでは18歳未満であってもエロ本を見ることは違法ではないのだ。「Some shops follow a voluntary limit and do not sell to minors.」ともあり、実際には売らない店もあるらしいのだが、売るなと法で定めているわけではない。
またフィンランドでは「It is legal to sell pornography in any store, but magazines may not be sold to buyers less than 15 years of age, and hardcore is restricted to buyers aged at least 18.」つまりソフトコアなら15禁、ハードコアなら18禁とわかれているらしい。
ただし、どちらの国でも18歳以下のモデルは禁じられている。
以上、全くの余談だ。
一応、初めてテニスの見せパンをはいた選手について書こうとは思っている。ただし、いつになるかはわからない。数ヶ月後くらいかな。
こっそり追記。
ドイツに一歩及ばず。
ウクライナ危機が気になってTwitterとかでずっと追っているのだけど、日本だとやっぱり中国との関係の話なども出てくる。
オリンピックあったこともあって、いや国って何?って最近よく思う。国民意識がとても低い。低くなった。
右翼の人も左翼の人もなんらかの形で政治(家)を批判したり持ち上げたりしますが、それは国にある程度の帰属意識がないとできないことだと思います。
この、国への帰属意識とか愛国心とか、私はここ数年でどんどんなくしてしまいました。私以外にも、そういう人は増えているのではないかと思います。
理由は多分「国際交流」とかいう名目以外で国外の人と直接関わることが増えたことです。
DeepLなどの無料翻訳サービスが発展し、オンラインゲームなり、YoutubeなりTwitterなり、リモートワークなりで、どこに住んでいる誰とも知らん人と「自国の文化」以外のなんらかのコンテンツの話をする機会が増えました。
海外の反応まとめサイトは面白いけど、東方見聞録みたいなもので、仕組みとしては全然新しくなかった。エンタメの一つでしかない。
直接どうでもいいコミュニケーションが出来るようになったのはでかい。コロナでオンラインコンテンツとの接触がリアル世界と同等〜それ以上になったのもでかい。
商品も金銭も国外と簡単にやり取りできるし、なんならそういうやり取りで生活が成り立っている。
正直日本のパスポート持っている赤の他人よりも、ナニ人だか知らないがそういう実際機能しているネットワークの中にいる人の方が自分にとって重要。
国民意識って、共通の言語とか教育とか文化から持つ(持たされる?)ようになるんだと思うんだけど、もうみんなネットでそれぞれいろんなもの見てるし、全然違うこと知ろうとするし、無理じゃない?と思う。
地域の風土に密着した伝統とかと違って、実際の環境と暮らしが作ったものでもあるまいし。