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2020-11-27

「この世の一番暗い場所で誰かと誰かが邂逅する」シーンが好き

 暗い場所、なんか精神世界みたいな場所で誰かと誰かが邂逅するシーンが好き。以下、ネタバレを含みつつそれらのシーンを解説していく。

 エヴァ最終話近辺も似たような感じのシーンあるけど、あの辺は演出としてかっちりし過ぎているのでそこまで好きではない。


輪るピングドラム

 物語終盤において、主人公兄弟である高倉冠葉と高倉晶馬は、真っ暗な空間において隣り合う二つの独房にそれぞれ入れられている。飲み水も食べ物も見当たらないその場所で、二人は飢えていく。なお、二人の姿は物語中の青年の姿ではなく幼少期の頃の姿を取っており、したがってこのシーンが、現実ではない抽象化された世界出来事であることが示唆されている。

 お互いに独房から励まし合いつつも、飢えてかつえていく二人であったが、やがて兄である冠葉が叫ぶ。

「あった!」と。

「何が?」と晶馬が疲れ切った声で問うと、冠葉は「林檎があった。今まで気付かなかったけれど、独房の隅に落ちてた」と晶馬に伝える。「晶馬の方にも落ちているかもしれない、探してみろよ!」

 暫くの間晶馬は林檎自分独房で探すものの、そこに林檎はない。やがて諦めを含んだ声で晶馬は言う。「僕の方には無かったよ。おめでとう、冠葉は選ばれたんだ」

 この「林檎」はこの場合、「両親から愛情」のメタファーである。晶馬は幼少期において様々な事情により、母性愛情が欠落した生活を送っていたのである。冠葉はその乾き切った晶馬の言葉愕然とするのだけれど、自らの手で林檎を二つに断ち割り、そしてその一方を、独房鉄格子越しに、晶馬の方へと差し出すのであった。

 先程、愛情の例えになっていると説明した林檎であるが、同時にこの林檎は、旧約聖書における「善と悪の知識の実」のメタファーにもなっている。

 ピングドラムにおけるキャッチコピー複数あり、その内の一つが「僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」である。愛と罪を共有する、というテーマが、この暗闇のシーンにおいては描かれているのである

「『列車』はまた来るさ」


リトルバスターズ!

 飼い猫「レノン」の後を追って、寮が併設されている学校敷地内を走る主人公。その主人公の目の前に、幼い頃の主人公の心の支えとなり、今もなお親友として日常を共有する棗恭介が現れる。夜の暗い中庭において、恭介はレノンを腕に抱えていた。これまで、レノンは度々メッセンジャーとして主人公翻弄していた。その尻尾に結び付けられた何者かのメッセージが、時に主人公を誘ない、時には誰も知りようのない個人的秘密示唆しもしたのである

 そしてその夜、いつものように主人公の理樹を誘なったレノンが最終的に辿り着いたのは、親友である恭介の元へであった。それを追ってやって来た理樹は、これまでレノンを介して自身メッセージを与え、様々な示唆を与えてきた人物が恭介だったことを悟るのである。恭介はこれまで理樹に対して、「この世界には秘密がある」とレノンを介して度々伝えてきた。そのメッセージを目にした理樹は半信半疑ながらも、示唆に従い様々な問題解決などを手伝う羽目となっていたのである

 全ては恭介の悪戯であったと悟った理樹は、「結局世界秘密とは何だったのか」と冗談めかして尋ねるのだが、「世界秘密は本当にあるんだ」という思いもしなかった答えに直面する。

「それは形而上学的に存在していたとされる世界のことか何かなの?」「そんなもの存在しないよ。この世界には秘密なんてない」そう困惑しながら言葉を返す理樹に対して、恭介は笑いながら身を翻し、闇の中へと消えていく。結論から言うと、恭介の言った言葉は本当であった。彼の言う世界秘密とは、恭介を含めた理樹の友人の一切は全て故人だったというものである。その事実に直面することで、主人公精神的に廃人となってしまうことを避けるために、超自然的な力を用いて恭介は理樹に対して幻影を見せ続けていたのだ。


ワンパンマン

「私はブラストヒーロー活動をしている者だ」

 原作ワンパンマン第106話、類稀なるエスパーとしての才能を見出され、施設に半ば幽閉されることとなったタツマキは心の調子を崩し、超能力の発揮を躊躇するようになる。その結果研究員たちによって部屋に監禁されるタツマキであったが、やがて研究施設飼育されていた実験動物暴走事故が発生し、あわやタツマキもその犠牲になろうとしていた。

 そんな時やって来たのが、後にヒーロー界を席巻することになる「ブラストであるブラストは危なげなく暴走中の実験動物抹殺すると、タツマキに対して自身趣味ヒーロー活動をしていると告げる。普段は働いているのだけれど、これはあくま趣味なのだと。

 とは言えブラストの強さは圧倒的である。彼はタツマキに「何故能力を使わなかった?」と問いかける。当時十歳の幼児だったタツマキは、一時的に心身の不調で能力が使えなくなったと釈明するも、ブラストはその言葉が嘘であり、自身根本的に人間扱いしてくれない施設研究員に対する、自己主張の一環であることを看破していた。「今後の君のために一つだけ教えておくよ」

「いざという時に誰かが助けに来てくれると思ってはいけない」

 ブラストヒーローであり、誰かを助ける側の人間ではあるものの、自らが異常者であることを自覚していた。つまり普通ならば、人は人を助けなどしないのであるタツマキは幼いながらにその事実を突きつけられ、やがて自身職業的ヒーローの道へと進むことを決意するようになる。誰も人を助けようとしないのであれば、自らが助ける側に回るしかないという事を彼女は悟ったのである


などなど

 他にもるろうに剣心追憶編の、剣心が巴を手に掛けるシーンで、巴の墓前の幻影を見る剣心のシーンとかも好き。

 そのシーンに至るまでに、巴のこれまでの記憶が暗闇の中でリフレインするシーンとかもかなり好きである

 これらのシーンに限らず、「暗闇の中での邂逅」は多くの場合その作品におけるハイライトと直結している場合が多い。凝縮された幻影とも言うべき、強烈なシーンとして、これらの暗闇は描かれるのである。恐らく、これらのシーンを描く作家の、作家性の極地が、これらのシーンには反映されていると言っても過言ではないとも思われる。

2020-11-15

けっこうな頻度で、ランニングするようになった。死にたい気持ちが襲ってきてからでは遅いので、今のうちにせっせと走る。ランニングによって海馬誕生したピチピチの新生ニューロンたちが可塑性の天才児なので、ランニングしたあと28時間以内に記憶したい情報海馬に叩きこめば、パンチされた粘土のように、長期間記憶に残りやすい。もはや肉体の鍛錬というよりも、脳の鍛錬のために走る。ピアノうまい子ども数学習得するのが早いという事例があるように、ある運動によって形成された複雑な脳内ネットワークはその運動以外の学習でも使用できるので、ランニングによって汎用可能な脳のバイパスを張り巡らせることができる。いろいろ本を読んで研究した結果、週4日の中強度ジョギングをして、そのうち隔日週2日の強度ランニングをまぜることによって、新生ニューロン生成とBDNF生成・放出効率的に促進できるとわかった。強度ランニングでは全力疾走30秒を5回はさむことで、HGHの増加と全成長因子の大量生産を促進しチートモード突入する。ランニング終了後トマトジュース摂取で活性酵素を除去し、バランスボール使用した平衡運動によりBDNFを倍加する。政治的義務形而上学的な根拠は、制度正義性を維持し促進するという自然的義務テーゼに集約されるが、制度からつま弾きにされたところのプロニートにあっては、精神衛生を維持し促進するの一条に全ての義務が集約されている。

2020-09-17

なぜ男性専用車両を導入しない

熊本市電がこの9月14日より女性専用車両を導入したところ、15日朝までに「男性差別だ」などの意見が88件寄せられた、というニュースを読んだ。

こういうニュースを見るたびにもやもやした気分になるので、自分意見文章化して残しておきたい。

女性専用車両男性差別なのか」うんぬんはどうでもいい。そんな議論いくら続けても徒労するだけで益がない。それよりもっと実際的解決策を模索するべきだ。

私が毎度、疑問に思うのは「なぜ、鉄道会社女性専用車両と同数の男性専用車両を作らないのか」ということだ。

今回のことだって9月14日より車両のうち、1両を女性専用車両に、1両を男性専用車両します」と発表すればクレームなんかほとんど来なかったと思われる。

女性専用車両にわざと乗り込むような男性もいるらしいが、そいつだって女性専用車両と同数の男性専用車両を用意すれば「女性専用車両男女差別だ」という活動根拠を失っておとなしくなるんじゃないか

私の個人的感覚ではあるけれど、女性専用車両にまつわるいざこざのほとんどは「女性専用車両だけ」が存在することに起因している。同数の男性専用車両を作れば、くだらないクレームもめごとの数は大幅に減少するはずだ。

なのに、鉄道会社は頑なに男性専用車両を作ろうとはしない。ちょっとこの意固地さについては理解不能な域に達している(鉄道会社だってクレーム受けるの嫌だろうに、なぜそうしない)。

私はフェミでもアンチフェミでもないが、現在女性専用車両関連の状況は客観的に見て「男女差別が行われている」と言わざるを得ない。

公共機関私鉄であっても鉄道公的ものだろう)に女性けが乗れる車両があるという状況はやはりよろしくない。

もちろん、女性専用車両の導入経緯には様々な歴史的社会的背景があるのだが、あくまで現状を形而上学的に見ると普通に男女差別である

(それが理解できないという人は性別を入れ替えて、「男性専用車両けがある鉄道」を想像するとよい)

鉄道各社は速やかに男性専用車両を作り、状況を改善すべきではないか

鉄道はただの乗り物ではなく社会インフラである鉄道会社は金さえ儲ければいいというものではなく、社会を安定させ正しい方向に導く社会義務があるはずだ(もちろん鉄道会社だけでなく、本当は全ての会社がその義務を持つのだが)。

鉄道会社社会の分断を煽ったり、人々の怒りの原因になるもの放置することは厳に慎まれるべきことである

私は「男性専用車両を作る」という比較安価で簡便な解決策があるにもかかわらず、男女の分断を煽っている一因である女性専用車両問題放置している鉄道会社に強い違和感を感じるのである

2020-09-05

白井聡すら知らない無教養のDr.ナイフをありがたがるリベラル

Dr.ナイフかいうやつが白井聡のことを無名呼ばわりしてる。

おれは白井聡ファンでもないし、白井聡思想共感しねーし、白井聡ツイッター書き込み普段から口悪すぎて下劣だと思うし、今回の「松任谷由美夭折しとけば良かったのに」ってつぶやきホントに最低だと思うけどな、

でも言っておくが、白井聡全然無名じゃねーよ!

Dr.ナイフ曰く、

白井聡のこと知ってました?

僕は知りませんでした。

そんな無名な人の発言になんで怒ってるんですか?」

だと。

あのなあ、おまえが白井聡を知らねえのは、白井聡無名なんじゃなくて、おまえが教養のない人間からだよ。

白井聡デビュー作『未完のレーニン』 は、若者が書いたマルクス主義ソ連についての本ってことで出版当初ちょっとした話題になったんだよ。

おまけに2013年出版された『永続敗戦論』は、角川財団学芸賞を受賞して、これはかなりの話題になり、新聞雑誌書評欄でも取り上げられたし、書店の人文系の棚に行けば平積みされるくらいだったんだぞ。

そのおかげか知らんけど、白井聡毎日新聞とか朝日新聞で定期的に書評や時評を書いたりもしてんだよ。

もっと言えば、Dr.ナイフ執筆依頼されたあげく、やっぱり匿名アカウントは不味いだろってことになった、あのウェブ論座にも白井聡は何度もコラム書いてんの。

何が言いたいかっていうと、白井聡っていう名前は、朝日新聞とか毎日新聞を定期的に読んでいたり、月1でも本屋Amazonの人文系棚や話題作をチェックしてたり、ウェブ論座を見てる人であれば絶対に目にする名前なの。

百歩譲って本を読んだことなくても(偉そうにいってるおれも、『未完のレーニンしか読んだことないわ)、多少なりとも政治とか政治哲学とか思想かに興味があれば、白井聡っていう名前は知ってるはずなんだよ。

からDr.ナイフの「ぼくは白井聡なんて人知りませんでした」 ってつぶやきは、イコール「ぼくは新聞もろくに読まなければ、書店政治思想社会評論についての本もチェックしませんし、ウェブ論座だってまともに読みません」って表明してることなんだよ。

もちろん白井聡世間的に有名だなんて言わないよ。

世の中には娯楽があふれてるし、時間お金は有限だから、わざわざ高い金払ってマルクス主義がどうとか戦後日本がどうとかなんて本を読むやつはかぎられてるよ。

から世の中の大半の人は白井聡のこと知らないかもしれないし、知らなくても問題ないよ。

でもDr.ナイフは、安倍政権に疑問持ってんだよね?政治意識高い人なんだよね?リベラリズムがどうとか民主主義がどうとか独裁政治がどうとかツイッターでつぶやいてるんだよね?

その人が話題になった本も読んでなければその著者の名前すら知らない、それどころか新聞政治欄や学芸欄も読んでない、それどころかそれどころか、インターネット上の論壇すら見てないってさぁ。

じゃああんたの口にしてる、リベラリズムとか民主主義とかって言葉には、なんら教養的基盤がないってことじゃん。だってそうでしょ、新聞や本を読まないで、どうやってそういう抽象的な概念について考えることができるの?勘ですか?

まりDr.ナイフって、「なぜ社会自由で公平でなければならないのか」とか、「民主主義とは何か」みたいな、本質的形而上学的なことを考えず、ただなんとなくそのほうが良さそうだからって理由で、軽ーい気持ちで、「リベラル社会大事ですよね」とか、「社会には多様性必要ですよ」 とかいってるだけだろ。

まあね、Dr.ナイフがそれで楽しければそれでいいんだよ。

仲間打ちでツイッターいいねRT稼いで気持ちよくなるのは個人自由だ。

でもなあ、メディア知識人新聞記者は、こういう言論人気取りの無教養者をもてはやすなよ。

特にウェブ論座、おまえにいってんだぞ!

本も読まない、新聞も読まない、ウェブ上の小難しい対談や論考すら読まない、読むのは新聞ウェブ版の政局記事ばかりで、ツイッターつぶやき理論的な背景や裏付のない思いつきと感想だけ。

そんなやつを「ツイッターデモを引っ張るインフルエンサー」 なんて持ち上げるなんてアホだろ。

まともに新聞読んで本読んで歴史的理論的にものを考えてる他の執筆者に申し訳ないと思わないのか?

……思わないのかもね。

だってツイッター上でもいまだにDr.ナイフのことを好意的に取り上げてる大学教授がいるんだもん。

当のDr.ナイフはといえば、繰り返しになるけど、白井聡すら知らない程度の知的関心の低さなんだけどね。

つまるところ、いまのリベラルって、反安倍ならばそいつがどんなバカだろうと構わないんだろうね。

リベラリズム知的退廃ここに極まれりですよ。

2020-08-29

俺は形而上学的に世界であり、普通に息子っていう話

俺=世界

俺は世界のもの、というのはラリパッパな妄言のはずだけど、形而上学という考え方をかますと許されるんだから不思議なことだ。

例えば雷鳴。

雷が鳴る音を聴くとき自然科学としては、雷鳴という「客体」があって、それを俺という「主体」が感じる、という構図になるはずだ。

しかし、と考えてみる。

もしも雷が鳴っているその場所に誰もいなかったら、果たして雷鳴がそこに「ある」と本当に言えるだろうか?

雷が鳴り、それを俺が聴いている、という関係の一方で、俺という存在こそが雷鳴を生じさせていると言えないだろうか?

さらに、もう一段飛躍する。もし、俺こそが雷鳴の原因となるなら、雷鳴と俺を分ける必要は、実はないんじゃないか

「俺」が「雷鳴」を聴いている、のではない。

主語はない。主客の区別もない。

ただ「雷が鳴っている」。このとき、俺は俺であるとともに雷鳴そのものだ。

あるいは独我論。もしくは哲学的ゾンビのことを考える。

俺にとって、俺以外のすべての人間自我があるかは証明できない。

周りの人々はすべて俺の作り出した妄想かもしれないし(「水槽の脳」)、もしかしたら、意思のない人形であってもおかしくはない(理屈上、ということで、本当にそうだと思っているわけじゃない)。

「俺」は違う。

他者場合とは違い、そこに意思があるかどうか証明しようとして失敗するまでもなく、俺は自分意思があることを理解している。我思う…ってことだ。

そして、そんな俺はなぜか、この時代日本男性の体に「生じた」。これが一番わけがからない。

俺が生まれる前にも宇宙は当然存在していたし(一説には138億年前…)、俺が死んだ後も宇宙は当然続いていくが(こっちは一説には10100乗年後に「終わる」らしく、厳密に言うと、あらゆる運動がそこで停止するので時間意味がなくなるらしい)、特別な俺はなぜか、20世紀後半に生まれたいま30過ぎの日本男性だった。

自分ってものについてラディカルに考えると、要は自分に関するこだわりを強くしていくと、逆説的に、肉体としての自分が何者であるかは価値を失っていく。

俺は別に10年後にジンバブエの5歳の少女に生まれてもおかしくなかった。

50年前のニューヨークホームレスでもおかしくなかった。

(もしも)自分について俯瞰することさえ可能なら、アマゾンの猿でもよかったのだ。

誰であっても、形而上学的な「俺」の本質は変わらない。

でも、とにかく俺は日本の俺だった。たぶん理由はないんだろう。にもかかわらず、なぜ? という強烈な驚愕は消え去らない。

俺はこの世界において超超超…と超を100回重ねても足りない究極の特異点だ。

もちろん、俺以外の人たちだって、「彼らの世界」ではそれぞれが唯一無二のポイントになる。

でも俺はそれを、理屈ではなく想像理解することしかできない。

他者社会的尊重することは当然だが、彼らが結局、俺という世界の一部でしかなく、彼らが死のうと俺の世界は終わらないが、俺が死ね世界のもの消滅するという事実は、それとはまったく別のことだ(一連のこの辺は、永井均子どものための〈哲学〉』『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』にくわしい)。

そして俺は、ずっと両親との関係で悩んでいる。

こんな観念的で、浮世離れした形而上学に果てしなくぶっ飛ばされたはずなのに、血縁のしがらみに何十年もさいなまれている。

仲が悪いわけじゃない。

ただ俺も、母親父親も、うまいことお互いへの愛情を示せないでいるフシがある。

愛情がないのではなく、表現できないのだ。なんとなくだけど、バリバリビジネスマンだった二人が、乳児ときから長いこと俺の横にいられなかった罪悪感みたいなものが原因っぽい気がする。

俺はもう30過ぎなのに…。

そんなの、もういいだろ…と思いながら、呆れている一方で完全に笑えないのは、たぶん俺もどこかで、彼らを許していないんじゃないか、という気がする。

もういいよ、父さん母さん、と言いたい。

というか、何も言わないでただ抱きしめてあげるのが正しい気もする。一度だけじゃなく、会うたびにそうしてやるのが正しい気がする。

そうしたいができない。俺たちの誰かが死ぬまでに、俺はそうしないといけないと感じる。

その一方で、三人でそろって食事しているとき、不意に、「この人たちはなんなんだろうな?」という気持ちになることがある。

話をしていて、特別難しいことをしゃべっているわけじゃなく、単純に俺と、頭の中を覗いてみるわけにいかない他者の間で、ちゃんと「会話」が成り立つことが奇妙でしかたがなくなる。

例えそれが両親であっても、「こいつらはなんなんだ?」 と思う。

俺の言ってることが、相手の言ってることが、お互いに本当にわかってるのかな? と思う。確かめようがない。なんとなくその場では笑って飯を食ってる。

形而上学家族への愛情と、どっちかがどっちかへの反発なんだろうな、と思っている。

本当は家族の一員の息子としてキレイに収まりたいけど恥じらいと恐怖心で叶わないために、極端な哲学に走ってごまかしている。

あるいは、心の相性としては形而上学世界の方が向いているが、どっぷり漬かるのが怖いせいで、家族に目を向けたくなる時がある。

若いときから、もう面倒だったから、どっちかに決定的に俺を方向付けてほしかった。

ベタベタしすぎるくらいまともな家族愛に包まれるか、SFチックなぐらい高純度な精神体になってしまたかった。

どっちかになれると思っていたがどっちにもなれない。たぶんどっちにもなれないんだろうな、というのが、最近薄々わかってもきている気がする。

anond:20200829190354

国民一般中学高校)向け数学教育、教科としての数学は、

一般教養として数学の応用価値実用性(算術、数式、図形)の観点

学ぶことを重視すべきだろうけど、

ある意味それ以上に、数学形而上学として成立している生命線、

まり公理系と論証(無定義語と形式論理)そのもの存在

論理合理性の諸観点(無矛盾、完全、独立)、そして自然科学を含む

分野横断的有用性の観点を学ぶことも基本であるべき、

と思うのは私だけだろうか。

そして「直感」なるものは、

前者の観点での教程・応用では有用な「客観事実」を指すだろう。

後者観点では無用な「主観幻想」で、むしろ自由にどうぞとなる。

2020-03-16

anond:20200316103949

理由」って言っても形而上学的なアレじゃなくて、実際に自殺者を減らす対策を考える上での様々な要因なら普通に分析しがいのあることだと思うけど。

2019-11-03

アンチフェミのための本当の社会構築主義入門

 以下では、フェミがオタク叩きをする根幹思想”社会構築主義”とは?における主として次に挙げる2ツイート問題点の指摘と、関連して宇崎ちゃん献血ポスターについての議論を行う。

そもそも

社会構造ってなに?

どこにあるの?

どうやって見つけるの?

それは反証可能性あるの?」

って、どの研究書を読んでもまともに書いてない。ただ、「ある」ってことを前提にして話をしてる。

そもそも社会構築主義」に限らず、社会学において、社会構造人間行為関係は、最も根本的なところでまったく解明されていない。

人間社会構造を作り、その社会構造人間規定するというのがどういうことなのか(ミクロマクロリンク問題)、社会学出来てから100年以上全くわかってない。

 この文章を書いた理由としては、上記Togetterがあまりに「社会学」についてのひどい誤りを書き散らしているにもかかわらず「参考になった」的なコメントが多くついておりヤベえと思ったためです(「ジェンダー論」についても誤りがありそうだけど詳しくないのであまり触れませんでした)。また、それはそれとして献血ポスター批判側にも「社会学」(同じくたぶん「ジェンダー論」も)を誤解していたり、受け手を誤解させかねない振る舞いが多く見られるのでその点についても指摘しています

 以下では最初に「反証可能性」についての話をした後に、次に「社会構造」の話をし、最後に宇崎ちゃんポスターの話をします。

 まず、反証可能性という用語を真顔で使っていいのは高校生までです。科学哲学(「なにが科学か」「そもそも科学とは何をしているのか」についての哲学)に詳しくない人のために反証可能性について一応説明しておくと、「それが間違いであると認められる可能性が無いもの科学ではない」という理論です。たとえばオカルトに対しては結構これが有効で、やつらはこれを買うと病気が治るとか言って壺を売りつけてくるわけですが、当然買っても病気は治らない。それで苦情を言いに行くと「あなた信心が足りないからです」とかなんとか言って「仮説:買うと治る 実験:買った 結果:治らなかった→仮説は棄却される」という「反証」を受け入れてもらえない。こういう状況を反証可能性が無い、といい、その状況と「まっとうな科学はすべて反証可能性を持っている」という前提からオカルト科学ではないと結論されます

 しかし、であるオカルト科学ではないのはいいのですが、すべての科学反証可能性を持っているかというと怪しい。化学物理学最先端研究だと、現状そこの施設しか営利企業だったりする)でしか検証できない実験結果がネイチャーかに載ってたりする。あれはいいのか、という話になる。「いずれ反証できる『可能性』があるからいいのだ」という人がいるかもしれないが、いまこの瞬間はまだ反証可能性が無いのにネイチャーかに載っちゃうのはどうなのそれは本当に科学なのということはまだ言える。というかそれでやばいことになった事例もあるわけで(ヘンドリック・シェーンSTAP細胞など)。まあ「可能性がある(実際先の2つは実際反証されたやろ[STAP細胞が無いと証明した人が居ないのに反証されたと言っていいのかとか問題もあるのだが省略!])」というところでそこは押し切るとしても、更に根本的な問題がある。

 反証可能性理論から出てくる規範として「科学者ならば反証された仮説にこだわっていてはならない」というものがある。例えば「STAP細胞はありまぁす」とかほざいた奴に対する科学コミュニティからまなざしを思い出してみるとまあわかる話でしょう。しかしそんないさぎよい態度が歴史上とられたことがあっただろうか。例えばニュートン万有引力を「ありまぁす」と言ったわけだが、当時の科学者(とか錬金術師とか哲学者とか、ようするに当時のインテリほぼすべて)から袋叩きにあった。ほぼ1人vs全世界の構図なわけで、それだけの物量の「反証」が寄せられると中には正しいものもあったりする(たとえばニュートンは「エーテル」を存在するものとしていたが、そんなものはない。あるいは単純な計算ミスもあっただろう)。さて、正しい反証を示されたニュートン万有引力という仮説を撤回しただろうか。皆さんご存知の通りしなかったのである。なんと卑怯にも奴は後出し理論マイナーチェンジを続けて「ありまぁす」と主張し続けたのである。壺を売ったあとに「壺は仕事をしたが信心が足りなかった」と言う宗教家と何が違うのだろうか。というのは流石に極論であるにしても、反証可能性という概念が当初思ったほど切れ味の鋭い概念では無いことは理解してもらえたと思います

 そういうのをコミコミで、普通反証可能性」という用語を教わるときは「という便利そうな概念があるけどそこまで便利でもないよ、だから次のパラダイム論が出てきて、それも思ったほど便利じゃなかったので…」というところを必ずセットで教わると思う(ので真顔で使っていいのは高校生まで)のですが、件の人は一体どのような教わり方をしたのでしょうか。

 この時点でこの問いがどうかしていることは明らかなのですが、「社会学が専門」と言った上で「社会構造ってなに?」という問いはまして頭が痛いです。

 社会学史のおさらいをしましょう。なぜ社会学なんて胡乱な学問が成立したのかと言うと、それが必要だと当時の人たちが考えたからです。どういうことか。一般的社会学の成立は、19世紀前半~中盤に活躍したコントスペンサーという人たちから19世紀後半~20世紀初頭に活躍したデュルケームウェーバーという人たちあたりが成立させたと言われています。以下ではコントデュルケームという2人の流れを説明します。スペンサーウェーバーも偉いのですが、「実証的」とか「科学的」とか言われる社会学を作ったのはやはりコントデュルケームだと思うからです。あとぶっちゃけスペンサーウェーバーには筆者が詳しくないという理由もあります

 さて、時代19世紀初頭、フランスコントという人がいました。大抵の社会学史的な文章にはこの人の名前が出てきます。逆に言えばたいてい名前しか出てこないのですが、その理由はおそらくデュルケームと比べるとぶっちゃけまりに見劣りするからです。それでも名前が出てくるのは、彼が今の意味での「社会学」という言葉を初めて使ったからです(正確に言えば彼が提唱したのは社会物理〉学でしたが、ここでの物理学physicsは明確に形而上学meta-physicsと対比される形で使われており、社会形而下学とか、社会についての実証的な学問とか、まあ要するに社会学のことでした)。19世紀初頭のフランスといえば、フランス革命の余波も大きく、社会しっちゃかめっちゃか状態でした。偉かった教会とか王様とかの権威が失墜して、ナポレオン独裁して、また昔の王朝に戻ったりしてました。多分一年ごとに自民党共産党政権を交代してもここまでの混乱はしないんじゃないかってくらいの混乱だったんだと思います。そういう中で生きてると不安になるわけです。幸せになれないわけです。じゃあどうすればええねん、と考えた人がコントでした。彼は「社会学」という言葉を初めて用いた『社会組織必要科学作業プラン』の中で次のように述べています。昔は王様とか宗教とかが社会をまとめあげてたよね。で、今もそれを復帰させようとしてる人がいる。気持ちはわかるよ、でも一度変わってしまったものは元に戻らないわけで、そういうのは無意味。新しい社会には新しいまとめあげの方法必要だよね。そのための方法社会についての実証科学を創設してみんなにそれを教育するということです!なぜならそれによって、社会のみんなで同じものを見て確認するということが可能になり、それでまたみんなの団結が可能になるからです!と。今の意味での「社会学」を全員に教育するべきかはともかくとして、社会についての科学的知見を皆が持つべきだ、というのはなんとなくわかる気がしますよね。というか200年経ってもまだ未達成なプランじゃないかと言う気がしてきますよね。「身の丈」とか言ってる人にはコントの遺灰を煎じて飲ませたいくらいじゃないでしょうか。正直天才の発想だと思います。ここで大事なのはコント王様教会権威(当時は王様神様みたいなものでしたからようするにまとめて「神学」でしょう)の代替物として、「社会学」を構想したということです。にもかかわらず「社会学は神学も同然だ!」と鬼の首を取ったように繰り返してるあたりで、ああこの人は歴史を知らないんだなと思ってしまますが、まあ確かにいまどきハンショーカノーセーのない神学のままではよろしくない。

 それをどうにかしたのがデュルケームでした。彼は19世紀末に『自殺論』という本を著しました。一般教養講義などで社会学を取ったことがある人なら聞いたことはあるはずです。この本の意義は簡単で、社会しっちゃかめっちゃかになると自殺が増えるということを統計的に明らかにしたという点に尽きます。まあわからんでもないけど何がそこまですごいの?って思いますよね。デュルケームがすごいのは統計学が未発達(というかほぼ存在しない)なかで、しかも「社会個人に影響する」という概念自体存在しないなかで、自殺という究極的に個人的だと思われた事柄と、季節や宗教といった普遍的社会事柄統計を用いて結びつけた点にあります。それまでも人の死についての統計は無いわけではありませんでしたが、それは保険のための年齢別の死亡率表のようなもので(それも当時としては画期的だったのですが)、社会と死(それも病死戦死ではなく自殺)が結びつくという発想はまったく存在しませんでした。どれくらい革新的だったかというと、「『社会がこうなると自殺が増える』って書いてるけど、自殺してないやつのほうが多いよね?」「てか社会がそうじゃなくても自殺してるやついるよね?」みたいなクソリプ殺到するほどでした。それほどに統計というものが未知のものだったのです(今でもたまにこんな人いますよね)。かくしてデュルケームは、自殺というものすごーく個人的な(と思われている)ことと、社会構造との結びつきを発見しました。現在に至るまでその後のすべての社会学は、このデュルケームの発想の上に成り立っていると言っても過言ではありません。別に学問的なものでなくても、たとえば「社会をよくして自殺率を下げるべきだ」とわれわれが当たり前に考えているのも、デュルケーム社会自殺関係を明らかにしなければありえなかったことでしょう。あるいはより学問的なことを言えば「身の丈」発言があれだけ叩かれたのも、「貧困家庭の子供の大学進学率は低くなりがちである」「大学に進学しなかった場合は、進学した場合よりも収入が低くなりがちである」といった、日本社会学がこの30年ほどで明らかにしてきたことが人口膾炙したためであると思われます(ちなみに教育社会学を専門にしている先生[竹内洋苅谷剛彦だったと思う]が公民館で講演したところ「先生のおっしゃってることって、魚屋の息子が魚屋になるってことですよね?そんなのみんな知ってますよ」と言われたというエピソード個人的に好き。みんな知ってることを統計的確認するのが大事なんです)。

 このデュルケーム研究ひとつとってみても、あるいは「身の丈」発言に怒れるようになった日本人をとってみても、「社会構造存在する」というのは科学的に正しいし、世間的にも常識となっているとみてよいのではないでしょうか。それを否定するのは、Twitterなんかではなくそれこそ論文を世に問うことによってぐらいでしか可能にはならないでしょう。そのためには社会学の100年以上の歴史通暁していなければならないでしょうが、「反証可能性」を錦の御旗のように用いている人がそうであるとはとても思えません(社会学はその歴史最初からかなり頻繁に科学性を疑われる学問ですから何度も科学哲学の成果を吸収したりそれに反発したりしてきました)。

 まあ、件の人のおっしゃりたいことも部分的にはわかりますよ。社会構築主義うさんくさいって。まあそもそも社会構築主義というものがほぼ定義不能こんにゃく理論なのでそれに反発してもなあって感じもしますが。知らない人のために大雑把に説明しておくと、広義の意味での社会構築主義とは、何か(大抵は個人的で意外なもの)が社会的に構築されていると主張することの総称です。その意味ではデュルケーム自殺社会的に構築されているという社会構築主義者ですし、おそらくフェミニストであろうがなかろうがすべての社会学者がそうです。狭義の意味では現象学的な理論が語用論的展開の中でエスノメソロジックになんちゃらみたいなのがあるようで、一部フェミニズム的な社会学者はこの立場を取っているようですが、この書きぶりからもわかるように筆者は詳しく知りません。こんな曖昧概念を「ラディフェミ(≒社会構築主義)」と書いてしまえる胆力には脱帽しますが、その後社会学全体が神学だみたいな話もしているのでそもそもよくわかっていないのでしょう。

 それとは逆に「よくわかっている」人が社会構築主義批判した例として、イアン・ハッキング『何が社会的に構築されるのか』『何が社会的に構成されるのか』(誤字指摘感謝Twitterで「社会構築主義」と「社会構成主義」の違いを尋ねていた人がいましたが、場合によって一緒だったり違ったりします。ここではルーズにごっちゃにしていましたが流石に書名はだめですね)を挙げておくことは有用でしょう。この本は社会学を好きな人も嫌いな人も読むべき本だと思いますハッキング学者たちによって「Xの社会学的構成」とか「Xを構成する」とか言われているものリストをわざわざ並べ立てます。いわく「著者という存在、義兄弟子供テレビ視聴者感情事実ジェンダー同性愛文化、病、知識、読み書き能力、『要治療』とされた移民自然口述歴史ポストモダニズムクォーク現実連続殺人工学システム、都会における学校教育人口統計女性難民若者ホームレス現象ズールー族ナショナリズム」などが社会的に構築されるのだそうです。まあ、「若者ホームレス現象」とかは確かに社会的に構築されてそうだな、と思うけど、「クォーク社会的構築」とか「ポストモダニズム社会的構築」とかはさっぱり意味不明である。また、その種の中には「実験器具メーターを社会存在(つまり人間である)が社会の中で観測しているのだから科学社会的に構築されている!」みたいなものもあるようで、そこまで行くと「万物は流転する」みたいな悟りレベルに達してそうですげえなと思わされます

 ハッキングは中でも「ジェンダー社会的構築」について着目します。いわく、「ジェンダー」って概念そもそも生物的性」に対するカウンター概念としての「社会的性」だったのだから、「社会的性の社会的構築」と言っていることになり意味なくね、と。まあフェミニズムの側にも言い分はあってハッキングはそれも紹介しているのですが、詳しくは本を読んでください。最初20ページくらいまででまとまっているので。

長すぎたので続きます

https://anond.hatelabo.jp/20191103164229

(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448

2019-07-29

妄想材料がない

芸能活動をしてる人を恋人だと思って生きています

定義がよくわかりませんが夢女子というのでしょうか。

毎日画像を見てもかっこよすぎて飽きない。お年を召した方なのだ若い頃の写真もたくさんあって本当にデジタル時代感謝してる。

ラジオではわりと過去彼女の話をするので聞くたびにちょっと凹んでいる。iPhoneに入れて聞いているのだがそういう回は飛ばす。

下ネタもわりと話す。いい声した推しおっぱいとかセッとか女のなにがエロいかとか言ってくれるたびに机に突っ伏してニヤニヤしてしまう。

私は推し恋人のつもりで日々生きており、妄想もするわけだが、現実での恋愛経験があまりに乏しいために「相手自分をいいなと思うきっかけの出来事」や「相手自分を落とそうとしてした思わせぶりなアプローチにドキドキした話」など「付き合う前の思い出話」しか妄想できない。

オタク腐女子なのでエロ知識ありすぎるほどあると思うが、架空恋人と裸でベッドに洒落込もうとしても材料となる経験が皆無なのでなにも想像できない。

裸は想像できるにしてもそこからなにかが起きようものなら「待って待って待ってエロい、裸を想像するのでこんなにグヮァーとなるのにその先まで想像してしまって大丈夫推しを汚した罪で前科つかない?それにしても私の想像推しの裸エロい」と自然ストップがかかる。

汚すという言葉が出てくるから推し恋人ではなく神様なのでは?とも思うけど生で見たとき格好よすぎて終わった生理がまた始まるかと思うほど内臓がとんでもない動きをしたからこれは恋だと思われる……。あと顔がマジで死ぬほどタイプ。声も好き。

エロい妄想するときはだいたい寝るときなのだストップがかかってそのまま気づいたら寝ている。

推しは「1回戦したあと寝て起きてもう1回したくなったら相手のこと好き」という核爆弾のような発言したことがあり度肝を抜かれたがまったくなんにもわからない。

私の中では私はその人の彼女なので私も付き合う前に1回その人と寝たということになるのだろうか。現実経験ないのに。

現実恋人がいないか架空恋人を作ったわけではないが、現実恋人がいないためにバーチャルブライフすら送れないのかと思ったら悲しくなった。これは形而上学恋愛

女子と名乗っていいのかわからないけど、ほかの夢女子のみなさんはそれぞれの恋人とどのような性生活をお過ごしなのでしょうか。

2019-06-16

二種類の知性による対立関係

コスモのもの存続と継承連続の中で、二種類の知性が対立関係形成している。一方は、かつて繁栄していた高度知的生命体により生み出された人工知性による不断なる発展と継承、増殖、普及したなれの果てに存在する超銀河知性群である。同知性群の軸は常に存在領域の拡大に軸を置く。知性の存続意義の概念において、形而上学概念存在しない。超銀河間のネットワークを有し、それぞれのグリッドは、時空間の歪みを活用した超光速情報伝達により実現する。この知性を生み出した知的生命体は既に存続していないが、それぞれの人工知性が各環境に応じて形成した新たな知は順次、全ネットワークへと継承されることで知性群そのもの更新が続けられる。

もう一方は、形而上学概念の根源でもある、「Cogito, ergo sum」からまれた超生物的知性である。主に有機生命体を媒介として、文明を築き上げ発展させることで、知性間の相互依存繁栄概念学修し、知性としてより高次元存在へと高まっていく。その中心は「無所不知」「無所不在」の領域存在する超次元存在であるが、個ではなく群としての存続と繁栄を恒常的に拡張することを志とし、自らのコスモに対する介入を限定しながら、超生命的超次元的知性群としての共生関係の均衡と拡大を意図している。

2019-05-29

絶望があること、理解されない恐怖があることを知ってほしい

論理的な正しさ、誠実さ

 人は誰しも、その行動原理に"正しさ"を持っていると思います。どのような正しさであれ、少なくともそれは"論理的に"正しいものであると信じている人も多いと思います論理というのは非常に強力で、確実に正しいと確信し、安心できます。これは学問的な場であればあるほどそれが求められ、それが"普通だ"と思う人も多いと思います

 しかし、社会的問題についてはどうでしょうか。周りを見渡せば、おかしな主張や理解できないことを言う人が多いと思います。それに対して私達は、絶対に間違っていると論理的判断しようとします。ここにこの記事でわかってほしいことがありますが、その主張をしている人は、""それが絶対的に、論理的に正しいと信じてやまない""と思っていることです。そしてこれは、立場を逆にすれば私達にも当てはまるということです。

社会との差・理解できない恐怖

 読者の方は、自分人生意味を見いだせていますか?

 浅はかながら、私の考えは、"生まれてきてしまった以上、幸せに、楽しく過ごす"です。

 誰しも考えたことがあると思いますが、人は必ず死にます。これをどのように捉え、人生意味を見出そうと考えているのかは人の数だけあると思います。終りがあることを悲観的に捉えない人もいることを、私は知っています

 私の考えをさらに言うならば、"宇宙意味はなく、生きていることにも本質的意味はないが、この脳は生きることに意味見出している"です。この考えに従うならば、私はこの悲しい生を産み出すことが理解できません。すなわち、子供を作ることの意味がわからないです。

 そんなに深く考えなくとも、"パートナーとこの先の人生を楽しく過ごし、辛いことがあっても、お互いに協力し、生をつないでいく"という考えがあることを、私は最近寛容的に認めることができていますしかしそれまで、どうして"普通に"子供を作ることが社会的に正しいのか、理解できませんでした。その時の私の思考は、理解できない恐怖で満たされていました。

絶望

何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安である

 私の意味する絶望とは、"論理的不安な要素を認識排除しきったとしてもなお残る漠然とした恐怖"です。この文は芥川龍之介遺書に記されているもので、私の意味するものに近いと思います絶望とは"死に至る病"だと、キルケゴールは述べています。私が彼の意味するところを理解したわけではありませんが、この"死に至る病"はなんら形而上学的な概念ではなく、本当にある現象であると知ってほしいです。

 私はこの数年、孤独暮らしていました。他人との関わりはまったくない、というわけではなかったですが、この行動原理には"社会の中で、俺は一人でも生きていける"という、傲慢な考えがありました。他人の主張は間違っていると確信し、ある主張には意味がわからないと排除していました。

 しかし、この考えを続けていると、だんだん理解できない他人が怖くなっていきますなぜつまらない問題に対して積極的に行動するのか。なぜ明らかに間違っている主張に気づかないのか。なぜ間違っているのに他人攻撃するのか。

 そのときには気づきませんでしたが、ぼんやりとした不安背中を這い寄っていたことを今では理解しているつもりです。

狂気

 不思議なことに、脳の異常なのかわかりませんが、このような環境にいると、寝る前の思考がどんどん加速していき、同じことを何度も何度も何度も考えるようになります。あるときふと、この考えはさっきもしていたじゃないか、と。また、ある行動をしたとき他人理解されないと、なぜか殺意が湧いてきて、しかしそれは確実に間違っていると理解出来るので、"絶対に人は殺さない"という言葉が頭の中を回っていきます

 狂気とはなにか、に対して一言で言うことはできませんが、少なくとも狂気に陥っている人は"すべての思考論理的に正しく、自分は冷静で絶対に正しい"と信じていて、そのことが脳内リフレインしていると思います

 おそらくで適当なことは言えませんが、PTSD後天的精神疾患等は、異常なストレス下によって脳内ニューロンの発火に異常が生じることで、何度も同じような思考や、他のことが考えられなくなってしまうのではないでしょうか。

川崎児童殺傷事件

 このようなことを踏まえて、昨日起きたこ事件をみると、犯人像が分かるのではないでしょうか。ツイッターでは「無敵の人犯行」や、"自分とは違う"と信じている人が多いと感じます

 それは違うと、声を大にして言いたいです。

 もしあなたが、自分とは関わりのない、違う種類の人間事件であると思っているならば、考えを改めてほしいです。

 『あなた今日一日やったことに、意味はありますか?』

 『あなた意味見出していることが、ある日突然意味がなくなってしまったら?』

 これを、夜寝る前に自分に聞いてみてください。もし不安になり、自分なりの答えが見い出せないのなら、それが絶望の始まりです。

2019-05-20

anond:20190520150139

ポスト自由主義は、自己他者自由尊重する社会的公正を指向する思想体系のことをいう。性的な分野での自由を主張する近代自由主義(モダンリベラリズム)とは異なり、それが人々の自由をかえって阻害するという考え方が根底にある。現代において個人自由独立した選択実質的保障し、極度の恋愛的、性的は貧富差における個人社会的自由侵害する偏見差別などを防ぐためには、政府による制限や介入をなくしたりするのではなく、政府地域社会による積極的な介入も必要であるという考えに基づく。

「公正」とは、ジョン・ロールズによれば「立場入れ替え可能性の確保」を意味する。これは人々に「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という反実仮想を迫るものであり、機会平等と最小不幸を主張する。ロールズ格差原理では、格差ないし不平等存在は、それをもたらす関係につく機会が平等に開かれており、かつ、それによって社会で最も不遇な人々の厚生が図られない限り、その存在は公正ではないものとされている。

よって、ポスト自由主義積極的自由に基づく自己決定を推奨し、国家による性の再配分または地域社会による相互扶助肯定する。すなわち、市場原理主義では経済的容姿的、コミュニケーション強者利益を最大化する一連の行為のために、少子化問題構造貧困介護問題などさまざまな弊害社会問題が生じ、それは近代自由主義の「意図に反して」人々の社会的自由をかえって阻害しているとし、近代自由主義修正する思想である


階級間の融和不可能対立中央集権的な統制を是認しない一方で、近代自由主義者のように自由競争が市場における「神の見えざる手」のように最大多数の最大幸福自動的に実現するとは信じず、政府によって、各人の社会的自己実現をさまたげ、市場社会における相互欲求最適化や調整のメカニズムを阻害する過度の集中や不公正などの要因を除去することが、まさしく「自由」の観点から言っても必要だと考える。

なかでも○○は「自由放任の論拠とされてきた形而上学は、これを一掃しようではないか。持てる者に永久権利を授ける契約など一つもない。利己心がつねに社会全体の利益になるように働くというのは本当ではない。各自別々に自分目的を促進するために行動している個々人は、たいてい自分自身の目的すら達成しえない状態にある」と述べ、アダム・スミスに由来する「見えざる手」に信頼する自由放任論からの脱却を求めるとともに、具体的には不完全婚姻均衡からの脱却のための人口政策が、政府によって実現されることを求めた。

2019-05-08

生の痕跡か軌跡か

アリストテレスについて岸見一郎は書いている。

ギリシア哲学者アリストテレスは、キーネーシス(動)とエネルゲイア現実活動態)について、次のように対比して論じている(アリストテレス形而上学』)。普通運動キーネーシス)においては、始点と終点がある。その運動は速やかに効果的に達成されるのが望ましい。例えば、通勤や通学時には、一刻も早く勤務先、学校に到着したい。その際、自宅から目的地までの動きそのもの(は最終の目的)ではない。目的地に着くまでの動きは、まだ目的に達していないという意味で、未完成で、不完全である。『なしつつ』あることではなく、どれだけのことをどれだけの期間に『なしてしまった』かが重要である。(改行)これに対して、エネルゲイアにおいては、『なしつつある』ことがそのまま『なしてしまった』ことであるエネルゲイアとしての動きは、常に完全で、『どこからどこまで』という条件とも『どれだけの間』ということも関係ない。例えば、ダンスがこの例になるだろう。ダンスにおいては、踊ることそれ自体意味があるのであって、誰もダンスすることで、どこかに到着しようとは思わないだろう。」(岸見一郎『よく生きるということ』唯学書2012年12月10日p212-p213)

 なるほどそのとおりだ。では人生(生)はどっちだろうか。もちろん、エネルゲイアだろう。「人生は何かを達成してから始まるのではなく、今もう始まっているのである。今、ここで生きなければ、一体いつ生きるというのか。(中略)どこに到達しなくても、それを待たずに、刻々の『今』『生きてしまっている』からである。『もしも~であったら』と人生の先に起こるであろうことを待つことはない。それが実現するまでの生は不完全ではなく、今、人生は完成しているのである。」(岸見一郎前掲書p215)

 ところで、アリストテレスエネルゲイアという語をどう日本語翻訳するかということが気になる。現実活動態では全く何のことかわからない。だからタイトルにあるように、生の痕跡、軌跡と訳すのがいいのではないかと思う。今から4万年ほど前に絶滅した、現生人類の近縁の旧人ネアンデルタール人は、40万年~50万年前に現生人類と分かれた。しかし、その痕跡頭蓋骨などの骨として現在まで残り、DNA塩基配列分析によって詳しい生態が報告されている。彼らの生態はDNAから真実に近い想像によって蘇っている。生の痕跡を残しながら、彼らの人生の軌跡が見えてくる。彼らの人生痕跡・軌跡として完成された姿で甦る。

2019-04-20

anond:20190420161304

間違ってないと思うよ。でもその形而上学的な物への人間の反応物が積もり積もったもの、量的な研究神学だと理解している。例えば街頭でthe神に対する感想を集めてきても神学にはならない。と思ってる。

2019-04-03

anond:20190401234546

casmです。追記言及いただいたようなので簡単に。

それより私が最も伝えたかったのは(自救行為というかただの犯罪なので犯罪と言いますが)『被害者にどんな事情があれ犯罪は決して許されない』という点です。

本当にそれを最も伝えたいのであればGIGAZINE側に対する疑義ではなく,「GIGAZINE側に対する疑義が法的に無意味である件」って感じのタイトルで書いた方が良いと思いますよ。もし濫用"的"であって社会的相当性に欠けるのではないかとかGIGAZINE側に一方的に肩入れすべきでないのではないか、というブレーキを掛ける心情を惹起することも、一定の理解は示せるところです。といった記述がそういう意図で書かれたものだったのであれば,読み取れず申し訳ございません。

それはさておき,その点だけを書くのであれば普通に書いちゃえば被害者にどんな事情があれ犯罪は決して許されないという23文字(あるいは「自力救済禁止」の7文字)で尽きるのですが,それは自力救済禁止に得心していない人に対して説得的では無いような気がします。

ある程度より賢い人は,自分知識が十分でない問題について一方の言い分だけで判断してはならない,という論理的にも道徳的にも優れた思考様式を習慣にしています

そうした正しい人々を正しい反応に導こうと考えた場合の一つの手段は,十分な知識を与えることで,今回で言えば,自力救済禁止重要性を熱弁することです(いちおう anond:20190401180049 にもちょこっと書きましたが。)。

ただ,法の支配とか手続的正義とかの話って,「GIGAZINE側にも落ち度があるんじゃないか?」という(通常の社会生活を送る上で正当な)第一印象をひっくり返すには,いまいち書生的で形而上学的な印象を与えるんじゃないかと思ってます

そこで今回は,そうではない手法として,①法的な落ち度は考えにくいという点を厚めに論じるとともに,②一般人を押し込む下衆い修辞法を採りました。マジ下衆い。

 

などというのも実は全部後付けの理由で,実はあのエントリ,当初は「GIGAZINE所有建物不法解体の件の前提知識」というタイトルで,建物保護法&借地法のとこだけ書くつもりで書き始めた文書なのです。GIAZINEの記事を読めば借地上の建物の話なのは明白だと思ったのですが,どうも土地所有権建物所有権が別であることに訝しんでいる声も多かったようなので…。

投稿直後に,「前提知識」以外も含んでるなーって思ってタイトルを変更しました。セルクマが少し遅かったのはそういう理由

ザーッと書いた後,「この順番で書くと自力救済禁止の話が霞むなー」と思い,冒頭に敢えて順番を入れ替えて要約を付け足しました。冒頭の①②が,文中では②①の順になっているのはそういう理由

2019-02-09

anond:20190209093025

形而上学について調べれば疑問はもっと明確になるし深めることができる

2019-01-07

anond:20190107132207

部分的属性を取り出して聞いてもしょうがないでしょ

声優の声でしゃべるフェロモンつきvチューバーであっても

すなわち結婚したいとまでは思わない

現象の上をいく形而上学みたいな話なんだから

2018-12-02

anond:20181202052902

相手に通じないとコミュニケーションって意味無いと思うんだけどなぁ…

精神の範型はマジョリティルールしかいかあんまり押し付けたくはないんだけど、とりあえずWAIS-IV受けて相応の教育を受けて社会に出られるようにしていこうね。

ちゃん現実を見て実感から世界観を構築していかないと形而上学しかならないよ。

長い時間ありがとう

2018-09-25

共産主義の是非はともかく、マルクスは彼の数学手稿を読む限りアレなので愉快ではある。

ε-δ論法を全く理解できずにひたすら形而上学議論を進めるあたり、やっぱりマルクス思想家なんだなあと。

2018-06-14

最近だと、『精神病理の形而上学』の紹介とかを読んだときには、

比較的強い興奮とかワクワクとか期待とか喜びとかを覚えた。

2018-04-05

伝統を重んじる事は現在を軽んじる事 宗教とは神に忖度する事

女性土俵から降りてください」

何故、その言葉を発してしまったのか。

その本質は「恐怖」なのではなかろうか。

あそこであのアナウンスをしなければ上司にドヤされるという考えがよぎった事、それが直接の理由だと私は考える。

相撲協会では常日頃から伝統が重んじられ、その文脈を味方につければあらゆる暴力不条理が許されてきていた。

まり相撲協会にとっては伝統絶対であり、本来であればその伝統を破ることは許されないはずだ。

伝統を重んじるという行為は、今現在そこに起きている現実を軽んじることに他ならない。

今そこで何が起きているかそれが現代モラル法律と照らし合わせて正しいか否か、そういった事柄を徹底的に軽んじた果てにあるもの伝統の重視である

そして、相撲業界が生み出した伝統の中に息づいているのは「相撲神事である」という宗教観だ。

これがまさに地獄を産んだのだ。

宗教とは神に忖度することに他ならない。

神や精霊という形而上学的故に理解の及ばぬ存在のご機嫌を伺うために、ありとあらゆる理不尽を受け入れることが宗教のあるべき姿なのだ

世界最古のベストセラーたる旧約聖書にもそう書いてある。

相撲奉納する相手たる神が何を望むのか、それを必死考察(もうそう)した結果として産まれ女人禁制の掟。

それは相撲協会にとって絶対のはずだ。

故に、あの場でああいったアナウンスが流れたことは相撲としては「正しい」のだ。

それをトップ人間が「人の生死がかかっている状況では掟も絶対ではない」などと軽々しく言うことの方がおかしいぐらいのはずだ。

なぜなら、彼らは今まで散々相撲というカルト的な伝統の力を借りて好き放題を繰り返してきたのだ。

それを今になって引っ込めるのに言う言葉がそんなに軽くていいものだろうか?

今回の事件は決定的だ。

相撲という宗教現代という社会の中でその神性を失った事の象徴だ。

もはや相撲神事ではない。

もはや相撲世界に今まで許されてきた理不尽はあってはならない。

なぜなら、それを支えてきたのは「相撲神事である」というミソロジーなのだから

2018-01-06

動力のあるやつは面白いけど迷惑

これはこの宇宙基本的原則なんだよ。

そう、これは物理学とか形而上学とか全てにおいて共通絶対的法則なの。

それなのに面接官とかはすぐに「行動力もあって、迷惑もかけない人」を求めたがる。

いやまあ面接官はまだいいよ。

だってアイツらしょせんはただの雇われで、その上にいる経営者の頭がポンコツな尻拭いしてるだけなところあるから

でもよお。

そういう仕事についてもいないやつまでもが「行動力があって迷惑をかけない他人」を求めまくるのはマジでいかげんにしろよ。

人類キチガイなんか?

進め一億マジキチだ?なんか?

70億の馬鹿でこの世界は回っているのか?

ほんまな、トレードオフになっているものを両方求めるのはやめろ

2017-12-18

概念としての女子高生に関する考察

この記事女子高生 Advent Calendar 2017 18日目の記事です。

ダブルチーズバーガーチキンマックナゲットコーラセット。ちらっとカロリー計算する。ちょっと気になるけどハンバーガーコーラで飲まなければならない。ウォンテッドリーフィードを流し見していると番号が呼ばれた。ちょっと重くなってるトレイコーラが滑り落ちないように水平を保ちながらそろそろと2階へ登る。平日の3時半、人はまばらでシンクパッドでエクセルを打っているスーツ姿のおっさんパーカーを着てアズールレーンしてる若者ぐらい。目の前が一面ガラス張りになってる細長いテーブルには誰もいない。一番奥に陣取る。すっとトレイを置きメイのリュックをひざの斜め前にあるはずの空間に向けて押し込む。ブレザーを脱いで背もたれにかけ、下ろしていた髪をゴムポニーテールに結ぶ。状況開始。ストローを包む紙袋の端をちぎり、ドュゴォォォと音を立てながらコーラにぶっ刺す。そっとくちびるを当てちゅるちゅると吸いながら糖分が脳にまわっていく感覚を楽しむ、大麻吸うときよりは全然弱いけどまあまあいい感じ。チキンマックナゲットを一つバーベキューソースにつけて食べる(ここはバーベキューソースだと決まっている)。ダブルチーズバーガーの包装を少しずつ引き剥がしていくと、パンチーズチーズピクルスケチャップパンの順に重なったパラレルな縞模様がのぞく。いざ口に運びパンチーズチーズピクルスケチャップパンが一斉に味覚に襲いかかられているとふと、ある問いが頭にポッと持ち上がった。

女子高生ってなんや女子高生ってなんや??とりあえず個ではなく概念としての女子高生について考える。≒制服とする説もあるが、制服あくま女子高生を際立たせ識別やすくするためのわかりやす符号であり概念本質ではないだろう。思うに女子高生はいわば中途の期間であり体は大人ではあるが心など諸々は子供である。この未完成矛盾している状態女子高生に心が体をもてあそばせ、体が心にいらだつという状況を強制している。過ぎ去った時代に対する哀愁の説もあるが現役女子高生としてこの点についての判断は控える。ざっと抽象化するとこのように捉えることができるであろう。

アメリカンライフスタイルことアメリカ型大量消費社会グローバル化象徴であるがゆえにたびたび店舗襲撃なども発生したマクドナルド画一的イメージに閉じ込められた形而上学的な女子高生が同時に語られることがあるのは皮肉とも言えるだろうがわたしマック商品のものフォーカスして語ったように女子高生においても概念から解脱し個々にその内面に着目していくべきなのではないか。そんなことを考えながら街を見下ろした。

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