って長々能書きたれなくても、このシェイクスピア学者のひとのツイートに尽きるんだけどさ。
https://twitter.com/Cristoforou/status/1083954729388920833
でもインターネットを見てみれば、「『ハムレット』でハムレットはお父さんを殺した」級のチャランポランな解釈があふれている。
なんでだろう。
それはたぶん読解を解釈と、さらには解釈を二次創作と取り違えているからだ。
ハードコアな作品だと筋がないものもあるけれど、大衆に向けて発信されるものはだいたいわかりやすいプロットへと還元される傾向にある。
プロットは要するにアクション=目に見える事実の積み重ねであって、
普通に読んでいけば誰々が何をしてどうなったかの顛末を取り逃すことはない。
たとえば、『ハムレット』を普通に読んでいたら wikipedia の「あらすじ」欄にある以外の展開は読み取れず、間違っても「ローゼンクランツとギルデンスターンがハムレットを巡ってコイン投げの賭けをしていた」なんて言い出しはしない。
物語を読めない人というのは私たちの想像以上にこの世に溢れていて、このレベルで間違える人もときどきいるけれど、まあ少なくともあなたは間違えない。
で、やっかいなのは、プロットの「展開」には「目に見える事実」以上のものも含まれていることだ。
あるキャラのセリフがどういう意図で発されたのか、その身振りにはどういう意味が込められているのか(あたりまえだが、それらは作者自身の意図からは切り離されている)。
特にふせったーなんかでは、ある一場面を切り取って過剰なまでにそこに説明をつけようとする人たちがいっぱいいる。
そういう人たちの「解釈」は一見もっともなように思われるけど、実はちゃんと作品と照らし合わせるとトンチンカンだったりする。
なぜなら彼らの「解釈」は作品内部の文脈を無視したものであるからだ。
頭からケツまでテキストを精読して、その流れと内部のロジックを過不足なく把握せねばらない。
個別の物語内部にあるリソースを分析するのが読解であり、それらを用いて家を建てるのが解釈だ。
しかし、ここに狡っ辛い読者がいる。
狡っ辛い読者はあ外部からトラックで建材を積んで物語世界へやってきて、地盤や風土に関係なくあらかじめ設計されたデザインに基づいて家を建てようとする。
勘違いしないでほしいが、解釈のレイヤーにおいては外部から持ってきた知識や材料を使うのは犯罪ではない。
批評とはそもそも物語世界と外部である我々の現実を橋渡しする行為であり、そこにはもちろん物語世界外部の知識や理論が使われる。
狡っ辛い読者は物語内部のロジックを無視し、プロットを曲解し、事実をゆがめる。ありていにいえば、自分の読みたいように読む。その歪んだ見方をあたかも物語そのものであるかのように謳う。
彼らにとって物語とは自分たちから見える世界の従属物でしかない。他者が書いたものであるにもかかわらず、彼らはそこに他者を見出そうとしない。
そんなものは解釈ではない。解釈ではないのだが、不思議なことに今のインターネットでは解釈としてまかりとおっている。
序盤で「二次創作」だと言った気がするが、考えてみると二次創作者たちに失礼なものいいだったかもしれない。
ではこうした狡っ辛い読者たちの行うおぞましい「解釈」をただしくどう言い表すべきなのだろう。
「解釈は自由だ」という紋切り型の裏にはある不文律が隠されている。
きちんと物語とプロットを認識したうえで成り立つのが解釈であり、評論であり、批評だ。
その基本のキさえできないなら、評論や解釈に手を出すべきではない。
saebouさんってジョーカーの映画についてもまともな批評してたと思うけど、漫画やアニメの話になると途端にめちゃくちゃになるのなんでだろう
自己肥大のために学歴を積んだから
おれはsaebou先生を尊敬しているが、学術上の活躍はあまりよく知らない、ブログとか読んでかじった程度なのだが、尊敬している点は、自分の前に立つ人間に片っ端から斬りかかるよう...
どうしたんだ急に
読解と解釈の難しさを指摘してみたつもり