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2018-01-05

anond:20180102130531

琥珀さんルートや桜ルートが好きで、かつFGOシナリオがそれと同様に面白い」という人です。

当方PLUS-DISCからなので元増田氏の言う古参寄りではあると思うのですが、琥珀さんと桜の物語が好きで、当時回りに全く理解されなかった事もとてもよくわかります。また「ガチャ」やカジュアルソーシャル的消費要素には否定的であり、その部分がゲームの主軸ではない(特にマルチプレイや対人などバトル要素)事で続けているプレイヤーでもあります

以下、FGOや各作品ネタバレにある程度触れている部分があります

HFの呪縛と「その先」の模索

数々のインタビューを見ると、奈須きのこ氏はHFがユーザーの多数に受け入れられなかった事を失敗だと思っている節があります(劇場版パンフでも話を変えようという話題があったはず) それがCCCでの桜の復権を目指したテーマ性と描かれ方(別の悪を提示したのは賛否あると思いますが)であり、FGOでのマシュ・キリエライトに繋がる要素の一つでもあるように思うのです。また、彼女Fate無印でのセイバーと対になるプロットのあった没サーヴァントであり、DEEN版のアニメ化で設定が固まったなど、Fateと共に歩んできた裏のキャラクターでもあります

そこから見た場合FGOのマシュの立ち位置は、ある種HFのリベンジとも言えるものです。彼女は魔術の名家によって実験体となるべく作られたデザインベビーであり、教えられた目的のために生きる事が全てとして成長しました。そして、オムニバス的な物語が進む中、やがてゆっくり人間性を獲得し、物語終盤では「人の生きる意味」を自問し、迷い、答えを出す所まで到達します(その真骨頂奈須きのこ氏が直接書き下ろし第一部6章~終章です)

彼女と対になるのは主人公ではなく、物語ナビゲーターであるロマニ・アーキマンです。彼もマシュ同様特異な生まれ人生選択権を持たなかったものの、「既にその問題を克服した」人物であり(結果として他の問題を抱え込みましたが)、その意味でマシュを導く鏡のような先達であり、テーマ性におけるナビゲーターでもあります

これらは明らかに"ロボット"である衛宮士郎や、間桐桜喪失と救済の物語など、HF(及び重ね合わせとしてのhollow)のリバイバルリベンジと言えるデザインですが、そこに新しい要素が入り込みます。それが「主人公(プレイヤー)」です。主人公マスターという価値担保されているものの、(空の境界黒桐幹也やEXTRAの岸波白野にも全くキャラクター性で敵わないほど)個性の弱い傍観者です。善性の象徴としてマシュとの絆を育み心の支えにはなっても、プレイヤー選択肢が彼らの生き方を変化させる事も無く(ストーリー分岐が無いので)、傍観者であり第三者、という位置付けのまま物語は進みます

そして物語最後第一部の結末では、hollowにおけるスパイラルラダーとブロードブリッジの再演の中、主人公を残し彼らは生きる意味の答えを獲得して死亡します。ですが、物語はそこで終わりません。彼らの人生、生きる意味の獲得をずっと見てきた主人公(プレイヤー)が、彼らに"続き"を託されるのです。彼らから貰った「命の答え」を声高に叫ぶ選択肢と共に。それはHFと重ね合わされながら別の物語として成った結末…「遊んでいるあなた」にその先を託す、「あなたは、彼らの人生肯定して良いのだ」という、かつてHFを支持しながらも「評判」にかき消された、私たちへの救済のようにも感じられました。

完成した物語俯瞰して答えを出すという行為は、hollowアンリマユのような「主人公」の形でもあり、バゼット・フラガ・マクレミッツが前に進んだ源泉でもあります。かつて主人公プレイヤーを重ね合わせる事ができず、数多のプレイヤー登場人物を「理解できなかった」とされたまま完結していた作品は、形を変えたその先で別の答えを模索したのだ、と、そう思いました。

…また、CCCでも結末において「キャラクター人生肯定する」選択ができる構造にもなっており、FGOはその表現さらに詰めた形である、とも考えています

連載型ゲームソーシャルゲーム

ここからは余談です。

奈須きのこ氏らはいわゆるソーシャルゲームについて、一般的な対戦や収集を軸としたバトルゲームではなく、リアルタイム性を重視した連載型ゲームとして語っている部分が多く見られます。かつてのWEB連載版空の境界さらに戻ると氏がノート小説を書いていた原体験に繋がるのでは、とも思いますが、2016年年末ツイッターが盛り上がっていたのは完全にその手法の先にあるものであり、インタビューなどで何度も言及されている「漫画雑誌のような」「今追いかけている人にフォーカスした」展開方法の、その最終回の見せ方に他ならない作りでした。それは「見せ方も物語体験に入る」という考え方、「Fate」においてUBWとHFが段階的にプレイする方式になっていた考え方の先でもあるのでしょう。

このリアルタイム演出手法過去エイプリルフールでも定期的に模索されていた効果の高い方法であると同時に、追いついていない・時間の合わない層を強く失望させる作りでもあります。そこに複数ライターによる(プレイヤーの受け取り方も含めた)シナリオの当たりハズレ、新たな更新を待つ期間、そしてこの作品の見せ方に本当に必要だったのか今では疑問とも思える(3分縛りの話を見るに何も考えずに入れてそうな)ガチャ要素も含めると、一概に物語を取り巻く環境全てを肯定しにくい作品とも言えます

はいえ、この連載型ノベルRPGとも言えるシステムが非常に希少であるのは確かで、バトルゲーム主体ソーシャルゲーム文化の中で個々のユーザーがそれをどう受け取るかが、このゲーム価値付けになっていくのだと思っています

二十七祖と言えば

4章でプライミッツ・マーダーの話が出てきた時はまさかと思いましたが、本当に出てくるとは…

2017-12-27

そんなにハッピーエンドがいいの?

 色んなアニメ時代わず)見てて、なんかバッドエンドの作品が少ないなぁと感じる。もっとバッドエンドのアニメが見たい。ジョージ・オーウェルの「1984年」みたいな終わり方の作品無いのかな。

バッドエンドとハッピーエンド

 出来不出来のバッドエンドじゃなくて、悲しい結末の方のバッドエンド。バッドエンドの作品は「どうしてこんなことに…」とか「どこで選択を間違えたんだ」「あの時のあれはフラグだったんだ…」みたいな余韻を楽しむのが好き。一方ハッピー・エンドは「いろんな困難もあったり、選択を間違えたりしたけれど、とりあえず良い結末になってよかった」みたいに感じてしまって、そういう余韻を楽しむ気が起きないのが寂しい。ハッピーエンドもバッドエンドも、最後登場人物未来に思いを馳せる」という余韻は共通なのだけれど、それは作品を何度も見返すようなモチベーションに繋がりにくいところがあるので…。

なんでバッドエンド少ないん?

 アニメマンガラノベ原作として採用している事が多いけれど、そもそもマンガラノベハッピー・エンドの作品が多いのかも。ターゲットの年齢層が比較的若年で、彼らにはシリアス作品あんまり受けない、みたいな傾向があるんだろうか。以前アニメトークショーとあるプロデューサーさんがおっしゃってたのは「アニメは明るい話からシリアスな話になると視聴率が下がる傾向にある」だそうで、アニメを見る人の多くは「観てて楽しいアニメ」を求めているのかな。

マルチエンディングゲームとバッドエンド

 「クロノトリガー」「ディスガイア」「アーマード・コア」「Fable」「フォールアウト」なんかを遊びながら思春期を過ごしたのだけれど、こういうゲームのエンドはよくハッピーエンドともバッドエンドとも言えない感じの終わり方があって、「ほんとにこの終わり方でいいの?」とプレイヤーに訴えかけることで、何周も遊びたくなるように出来てる。ハッピーエンドもなくはないけど、それは大抵「あらゆるルート攻略した人へのご褒美」みたいな形で用意されていて、一発で到達するのが難しい仕様なことが多い。そういう原体験を持ってるがゆえに、アニメハッピーエンドを迎える度「えー、一発でそのルート引いちゃうの?」と思ってしまうのかもしれない。

ハッピー・エンドじゃない作品(バッドエンドじゃないものもあるけど)で好きなやつ

 

機動戦士ガンダム0080ポケットの中の戦争~(1989)

 30年位前の作品。アルを演じる浪川大輔少年の演技がグロテスクに映える。登場人物がみんな身勝手で、とても悲しくなる。続編ではないけれど、DVDBD発売時のCM演出がとても救いのある内容で、思わずガチ泣きしてしまった。

『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』 スぺシャルPVバンダイチャンネル公式

 

攻殻機動隊 S.A.C. 2ndGIG(2004)

 郷田超法規的措置しなかったらバッドエンドだった。かといって良い結末を迎えられたわけでもなく。

 

〈物語〉シリーズ(2009~)

 「人生に劇的なことを期待してはならない」とは貝木泥舟台詞だけれど、喜劇とも悲劇ともいえない結末を迎えるのが西尾維新作品の好きなところで、特にしのぶタイム」「なでこメドゥーサ」「傷物語3部作」がとても良い。いや、悪い結末なのだけれど。

 

くまみこ(2016)

 「どうしてこうなった」「ゆっくりバッドエンドに向かっていく物語」「幼女を愛でるアニメの皮をかぶった社会風刺」違う意味でもバッドエンドなのだけれど、それに目を瞑っても悲しい結末を迎えた作品田舎創生をテーマにした作品ハッピーエンドが少ない印象。

 

結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-(2017)

 近年まれに見るバッドエンド。劇場版として公開された作品だけど、映画館で観た人たちはどうなってしまったのだろうか。1期に至るまでの2年間に思いを馳せると非常に趣深い。

 

クズの本懐(2017)

 ろくでもない恋愛の末に以下略音楽先生女優遠野なぎこに見えて、まだまだ受難が続きそうな感じが良い。いや悪いんだけど。

 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(2017)

 最後花火大会開けにおける学校シーンの解釈によってはバッドエンドではないのだけれど、あれはおまけみたいなもんなので。ちょっと調子に乗っちゃった子どもちょっとマセた子どもの間に、何もなかった物語

こう見ると、続編で救済される作品って結構多い?

 

 教えてよ、素敵なアニメの終わり方

 

追記

 

 ブコメトラバ全部目を通してます。まず、お礼をば。こんな与太話に付き合っていただいて本当にありがとうございます。ここまで多様な作品を教えていただけるとは…。あとで可能な限り観てみようと思いますありがとうございます

 

mur2 そこにくまみこを入れてほしくない。

 くまみこ原作をまだ読んでいないのだけれど「これ、作者に『これそういう作品じゃねえから!』って怒られないんだろうか?」って思いながら観てた。なので原作買おうと思ってる。

 

yuatast 高山文彦さんがお好きなのかな

 高山文彦脚本作品が好きなのか、好きな作品脚本たまたま高山文彦なのかまだ分からないので、一通り観てみようと思う。「アリスと蔵六」(ハッピーエンドはいいぞ。

 

paradisemaker バッドエンドって作るの簡単だけど、「観てよかった」と思わせるのが難しいんだよね

 正直言って、ゆゆゆなんて観なければよかったとか思ってる。とても好きだから勇者の章も観るけど。

 

minoton 主人公側の活躍でいったんイベント解決するが、本質的問題は残る体の "ビターエンド"が好み。エンターテイメント性とリアリティが両立できるから

 俺たちの戦いはこれからだ!は続編も作りやすいしとても合理的なので、作品の数はバッドエンドよりも多いはず。がんばって探してみる。

 

liposo メリーバットエンドとかぞくって来て好きだけどアニメじゃ記憶にないな。

 こんな技法があったとは。教えていただき感謝

 

key_llow 20二次創作畑のオタクを続けて辿り着いた結論は「バッドエンドは物足りなかったらいくらでも自分たちで作れるけど、推したちを幸せにしてやれるのは公式しかいない」です。ご査収ください。

 逆転の発想。たしかにそうかも。そういう伏線を貼る作品ならなおさら楽しめそう。「Anotherだったら死んでた」メソッド

 

LuneC「長編ラストは必ずハッピーエンドでなくてはならない。読者にそれだけの時間つき合わせたのだから作者には読んでよかったと思わせる義務がある。しか短編なら後味の悪いもの自由に書ける」Jeffery Deaver

 物語が長くなるほどに主要な登場人物が悲しい経験を重ねたとき、その経験量に応じて「救い」が最後にあって欲しいなぁ、とは思う。救いがあればバッドエンドでも良いのだけれど。救いのあるバッドエンドて。

 

twikkun ひたぎエンド最後は最高だったよなぁ……あの余韻たまらんわ 僕と友達になってよ

 例には挙げなかったけれど、大好きな終わり方の一つ。いわゆるダークヒーローモノのバッドエンドって、良いよね。

 

deep_one 「バッドエンドの作品が少ないなぁと感じる」いや、全くそう思わない。というか、そのタイムスパンでなぜコードギアスとかが入ってないんだ?単に視野が狭いだけだろう。

 そう。実は以前最近のアニメはおもんないって言ったじゃん、嘘つき! 的なアレを書いたのだけれど、アニメをよく観るようになって1年とちょっとくらいなので、まだまだ観てない作品が沢山あって分からないことだらけなんだ。ここ1年ちょっとで観たのはせいぜい120作品くらい。なので、もっと色んな作品を知りたくて、この与太話を書いた。ちなみにコードギアス近いうちに観る。

 

REV 「バッドエンドの作品は「どうしてこんなことに…」とか「どこで選択を間違えたんだ」「あの時のあれはフラグだったんだ…」みたいな余韻を楽しむ」 けもフレのことですか

 はい12話はバッドエンドになるのを期待してました。ごめんなさい。ちなみに実際の12話は大好きです。

 

nomitori ハッピーエンドがいいというよりもあんまり作品に引きずられたくないというか、感情を揺さぶられたくないという思いが年々強くなってきた。これが老いなのかな…

 感情を揺さぶられるあの感じが大好きでバッドエンドを求めているフシはある。ちなみにそういう作品は大抵観ててくっそ辛いので、「大好きだけどサムネでさえ二度と見たくない作品」とかがあったりする。「四月は君の嘘」とか。

 

全部に返信できなくて心苦しいけど、こんなかんじ。

2017-12-02

anond:20171202212542

かに

男性ヘイト原体験フェミニズムに走った女の場合セクハラとか痴漢に反対する意見を言う男性に対して変な噛みつき方するやつがいるな。

男性ヘイターにとっては痴漢が世の中からなくなってくれることよりも、目の前で頭を下げた男の頭をハンマーで砕いた方が快感なのかもしれない。

2017-09-29

https://anond.hatelabo.jp/20170928225756

湘南新宿ライン

田舎民だが、横浜から渋谷まで1本で、しかもなんかよくわからない裏道(海沿いではないということ)を使って感動した記憶原体験のように染み付いている。

2017-09-22

日本学術会議声明新潟県への宣戦布告である

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1153261

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20170921/ddm/016/070/003000c

あとシノドスフリーライターレポートもあったが、どれも「医術と呪術混同する両論併記をやめよ」という趣旨確認できる。

林智裕についてもそうだが、「これ以上福島県の健康被害について口をはさんではならない。それは差別だ」という論旨であり、

林氏は心無い中傷県民が傷ついているという批判の中で「呪い」という言葉を使っていた。

本来は全文を読むべきだろうがまず書いておく。

壊滅的な被災のなか、復興への向けて頑張っている人が悲観的な話を聴くのがつらく、実際に精神を病むこともあるだろう。

そうした福島県民を始めとする東日本大震災被災者の皆様の気持ち自然であることは認める。

しかし、隣県の新潟県では原発事故についての検証委員会始動しだしたところである

本職が医師である米山隆一牽制する文章と言ってよい。

私自身、なぜ「子供たちの未来」云々が危険視しようが安全視しようが登場してきており、政治的支配欲が出ているようで非常に不快だし、

泥流による放射線健康被害から本来定住すべきではない場所だと言われてむっとしたこともあるが、

新潟県知事選当時、県内在住の反原発から「お前は本当に福島県民か?」というような差別発言は聞かれなかった。

インターネット上で選挙運動訴訟活動を行っていることを明記した人物限定した話ではある)

現在在日コリアン念頭外国ルーツある人物へのヘイトスピーチ違法化された。

この前例に則り、学術会議への異論福島県へのヘイトスピーチとして違法化され、

最終的には検証委員が全員逮捕されることになるだろう。

事実在日朝鮮人沖縄人への民族差別アナロジーとして、福島県民への差別説明するレトリック存在している。

このような議論被差別民族への想像力の欠如と思われるかも知れないが、対策法で最も懸念されていた問題点である

いじめ偏見等の被災者への差別は続くだろう。

しかポストコロニアル当事者性を強調することで国や東電構造責任が看過されてしまうことはないのか。

実際に被災した地域を二度と同じことを繰り返さないよう防災観点から引用検討することすら差別呪術であり、

野蛮な攻撃とすることは学問権威化であり、自由を害することである

こうした声明が突き付けられた以上、このような論理は粗雑過ぎると一県民として明白に考えざるを得ない。

過激発言を繰り返したとされる泉田裕彦知事も、

2007年中越沖地震での放射能漏れ原体験として上げられている。岩手県震災瓦礫の件はここを改めて意識してほしい。

チェルノブイリ福島第一よりも安全という発言海外への県の農産物輸出戦略の一環である

国際的観点から見て廃炉出来ていない原発チェルノブイリに比して安全だと言えるのか。

ショッキング発言だったかとは思うが、公人として県政運営のなかで必要見解だったのであり、

過激さをもって差別発言と断じることは不公平であり、思いとどまってほしかった。

(不幸にも彼は権力基盤上、排外主義扇動している自民党からしか国政候補立候補できなかった。これは彼を被災者レイシストと断ずる根拠になりうる)

私の知る限り、泉田知事被爆が疑われる人物意識的差別的な県政を行ったという情報はない。

四期目を断念した後自ら原発屋根を作った云々という恩着せがましい発言をしているが、

撤退理由であるフェリー問題は船を売りつけた韓国企業東京電力からの度重なる広告出稿を受けた新潟日報と結託しており、

県は二度と船が取引できないと脅迫していた点もある。

そのような形で追い込まれ撤退した人物が、悪いことばかりしたわけではないという弁明はある程度必要なはずだ。

このような極めて強引なかたちで引きずり降ろされた人物に、撤退後まで完全に無難言動を求めるのは酷すぎる。

県民代表が、極めて不自然に引きずり降ろされたなか、このような声明を出すこと意味想像していただきたい。

民主政治自由言論に対する脅迫であり、圧力のものである

学会権威を持って検証委は怖気づいてはならない。

6年間の学術会議議論を覆すなら、検証委員会も相応の規模の時間人員を掛けて検証を延長すれば良い。

2017-09-19

イケメンの姉

姉はイケメンだ。かなりぶっとんでるし、ちょっとどうかと思うような行動に走ったりもするけど、総じてイケメン性格姉妹正反対。私は人見知りで、基本的にいつもおどおどしている。今までいろんな局面で何度も姉に助けられてきた。そんな姉への感謝気持ち綴りたい。

まずは小学校入学式のこと。

うちは母が早く亡くなってる。私が5才になる年に喉頭癌でこの世を去った。姉は私より11才上で、私が小学校に入った年にはすでに高校生だった。

そんな姉が、私の入学式に母の代わりとして参加してくれたのだ。その時のスーツ姿がとても素敵だった。人指し指に緑色翡翠指輪をはめていて、それは母の形見だと教えてくれた。入学式の時の写真を見返すと、やはり姉は保護者の中で一人だけ幼げに見える。

姉は高校ではかなり目立っていた。たまに雑誌にも出てた。エルティーンという十代向けのファッション誌で、モデルみたいなことをしてた。私はまだ小学校に入りたてで、そんな姉を芸能人だと思い込んでいた。そのうちテレビにも出るんだと思ってた。その予想はのちに別の形で実現するんだけど、その話はあとに回そう。

姉はふだんはあまりエルティーンを読ませてくれなかった。小学生にはふさわしくないエロい特集が多かったのだ。そんな雑誌にちょくちょく載る姉の姿に、私は幼いながら、妖しい憧れのような感情を抱いていた。

父は土建業を営んでいたが、この頃には経営が苦しくなっていた。それまではずっと絶好調で、姉は何の疑いもなく「うちは金持ちだ」と信じ切っていたらしい。でもそんな幸福時代はあっけなく終り、父は一気に萎れてしまった。母に先立たれて、経営も傾き、悲嘆にくれる日々。父がお酒に溺れ始めたのはこの頃だ。それでも父は姉を私立大学に入れた。娘の教育は疎かにしない、それは母の遺言でもあったそうだ。

二つ目感謝は、このころの話。

当時、私がまだ9才の時。姉が私をあるイベントに連れて行ってくれた。姉の大学友達の中に、ひとりだけ9才の私が混ざるという、かなり無茶な形だった。野外で開催されるテクノパーティ。でもそんな詳細はすべてあとから知ったことで、当時は右も左もわからないまま、姉に連れられて、ただついて行った。そこはまさにカオス空間だった。広大な森林のいたるところで人々が踊り狂っていた。真夜中にトランス状態で踊り狂っている大勢大人たち。あの光景が私の音楽原体験になってしまったのは、なんかちょっとまずい気もしている。

夜、私は姉と並んで芝生に寝転んだ。遠くではドンドンという無機質なテクノビートが鳴っていた。私と姉はふたりで夜空の星を眺めながら話した。その時に姉がとつぜん言ったのだ。

ママはもういないけど、私がお姉ちゃんとお母さんの両方をやるから

後年、姉にこの話をしたら「そんなくさいドラマみたいセリフ言うわけない」と全否定した。でも私は完全に覚えている。ありがとう。あの言葉にどれだけ支えられたかからない。

三つ目は、話自体がかなりぶっとんでる。

私が中2の時、父の会社が潰れた。全てを整理しなければならなくなり、家族は家も失った。私たちアパート引っ越した。父はもはやアル中の一歩手前みたいになっていた。

姉はすでに大学卒業していたが、就職はしていなかった。なんと、カリスマキャバ嬢になっていたのだ。当時の某歓楽街ではかなり有名な存在で、テレビ取材も受けていた(冒頭に書いたテレビ出演の話はこれのことだ。ちなみに姉はこの後にもまた別の形でテレビに出るのだが・・・)。姉は客に媚びないSっぽいキャバ嬢という設定で、何度か深夜番組に出ていた。それはけっこうサマになっていた。

姉は家では父にハッパをかけ、とりあえず一労働者に戻って建築現場で働くことを勧めた。父は最初経営者という立場にこだわり、かたくなに拒んでいたが、やがてしぶしぶ従った。

ここから急展開が訪れた。カリスマキャバ嬢としてのブームが一段落して、父もどうにか社会復帰できたというタイミングで、姉がいきなり海外留学してしまったのだ。なぜこのタイミング?と思ったけど、どうも男絡みのようだった。色恋沙汰なら、もう誰が何を言っても無駄だ。姉の留学先はコスタリカだった。

姉は私に銀行カードを託した。「本当にやばくなったらこお金を使いなさい」と姉は言った。さらにもう一点、「絶対に父には秘密にすること」姉はそれだけ私に言い残して、さっさと異国へ旅立ってしまった。当時、私はまだ中2だった。おいおい、母親の代わりをするって話は?

預金は600万円だった。コンビニATMで残高を見た時、足が震えた。私はこわくなって、すぐにカードを机の引き出しにしまい、鍵をかけた。それは中2の私に背負える額ではなかった。

そのまま中3になり、受験の時期を迎えた。姉がいなくなってからというもの、家の中はめっきり暗くなっていた。父は働いてはいものの、お酒の量がどんどん増えていた。親子の会話もほとんどなくなっていた。学校でも、私の家が落ちぶれたという噂がうっすらと広まっていて、なんとも言えない惨めな気分だった。姉の600万だけが心の支えだった。まだ大丈夫、うちにはこれがある、そう言い聞かせながら日々を送っていた。とかいいながら、カードからお金を引き出す勇気なんてまるでなかった。私は根っからの小心者なのだ大金を前にして、完全に怖気づいていた。どうしても心細くなって、ひとりで布団をかぶって泣く日もあった。勉強にも身が入らず、だんだん授業がちんぷんかんぷんになっていった。高校に受かる気がしなかった。この時期は私の人生いちばんしかった頃かもしれない。

そんなときに、姉が帰ってきた。まるで私の危機を察するみたいに。姉は予告もなく、いきなり家に現れた。あの時、姉を見た瞬間、私の全身にぐわーっと広がった強烈な安堵感が忘れられない。自分いかに姉を頼りにして生きているのか、骨身に染みて分かった。

姉のコスタリカでの日々は、それだけで一冊のルポルタージュが書けるぐらい強烈だった。でも私がここに書くのはちょっと無理だ。筆力が足りなすぎる。姉はコスタリカ日本人恋人暮らしていたのだが、やがてその男と別れて、現地でスペイン人と付き合うことになった。交際から数日後に、ふたりパナマに小旅行に行ったら、国境を渡るバスから彼がいきなり逃亡してしまった。理由はわからない。ともかく姉は一人にされてしまった。それから姉は執拗警察の取り調べを受けたりしつつ、どうにか事なきを得て、家に帰りついた。後日、彼が麻薬組織幹部だということが発覚した。姉はそんなこと何も知らなかった。彼がなぜ逃げたのか、どこに逃げたのか、全てが謎に包まれていた。

そういう話が他にもたくさんあるんだけど、とても書ききれない。とりあえず姉は無事に日本に帰ってきた。そしてコスタリカでのエキサイティングな日々を迫力満点に語ってくれた。私はなんだか自分の悩みがバカらしくなってきた。受験不安だとか、ほんとに小さなことって気がしてきた。姉に相談したら「勉強しろ」と言われた。2秒で話が終わってしまった。銀行カードをいちども使わなかったと言ったら「あんたらしいね」と笑った。姉が相変わらず人差し指翡翠指輪をしていたので、私は「お母さんの指輪だ」と言った。姉はそっけなく「あれウソだよ」と言った。「蛍火の墓を見て、適当でっちあげた」「マジで!?」「うん」私は脱力した。

それから受験勉強に身をいれて、私は無事に第一志望の高校に受かった。姉は父の酒浸り生活も、きびしくたしなめた。父は何だかんだ言いながら、姉には従う。酒の量を控えるようになり、少しずつ生気を取り戻していった。やがて昔の仲間と一緒に、また小さな会社を発足させた。最近土建以外にも手を広げて、高齢鞭打ちながら、建物管理資格勉強なんかをしている。

姉はコスタリカで築いた人脈を駆使して、某国大使館アルバイトをするようになり、そこで能力を見込まれて、正規職員になった。大使館について詳しく知っているわけではないけれど、私は漠然と「超エリート仕事」だと思っていた。姉のイメージとはどうしても結びつかなかった。最初に聞いた時は、女スパイ組織に潜入しているような姿が頭に浮かんでしまった。

姉の最後テレビ出演は、この大使館バラエティ番組取材を受けたときだった。姉は有名な芸人さんにおいしくいじられていた。姉は完全にキャラ変して、シャイで生真面目な妙齢職員を演じていた。「あなた、かなりの箱入り娘でしょ。男性経験も少なそうだな」芸人さんがそんなようなことを言って、姉をからかっていた。姉は恥ずかしそうに両手で顔を隠した。『かわいぃ~』みたいなテロップが入った。いやいやいや、と私は全力でテレビに向かってつっこんでしまった。

そんな姉も、長く勤めた大使館をやめて、今はスペインバルオーナーマネージャーとしてバリバリ働いている。ほんとはここにお店のサイトリンクを貼って、微力ながら宣伝したいんだけど、それをするには姉の許可を得なくちゃいけない(というか、こんなの宣伝にならないか)。

ちなみに私は普通に高校を出て、短大を出て、今はOLだ。ほんとに波風のない人生。何から何まで姉とは対照的だ。そのうち私にも、めくるめく冒険の日々が訪れるのだろうか。

結局、姉への感謝はたくさんありすぎて、とてもここには書ききれない。何でこんなことを書こうと思ったかというと、このあい何気なく実家で昔のアルバムをめくっていたら、幼い頃の姉の写真を見つけたから。3才ぐらいで、まだ私が生まれる前。姉は母の腕に抱かれていた。泣き出す直前みたいな、絶妙な仏頂面。姉を抱く母の人差し指には、緑色翡翠指輪が光っていた。なんだ、やっぱり形見じゃん。本当だったんだ。きっと照れくさかったんだろう。いかにも姉らしいと思い、うれしくなってしまった。それで姉への気持ちをまとめてみようと思ったんだけど、うまくまとまらなかった。無理もない、姉自身がまとまってないんだから

2017-06-09

中学生エロい

それは私が中二で性に目覚め始めた頃。

当時ネットとかは無く、エロいものを得るには、道に落ちているエロ本を拾うか、ヌードが載っている一般誌を買うか、危険を冒して自販機の成人雑誌を買うしか方法がなかった。

しか本屋一般誌を買うのは恥ずかしいし、ましてや人に見られない様に夜中に外出して自販機本を購入する事なんて出来なかった。

そういう事でムラムラした日々を送っていたのだが、ある日学校の昼休みに衝撃的な光景を目にしてしまった。

クラス美少女(俺基準)2人が机一つに向かい合って座り、互いの肩に顎をのせて、眠っていたのだ。

更に2人がキスをしていたという噂も耳にした。

まあ今にしてみれば、10代の女の子同士がベタベタする事に特別意味はないらしいし、噂は噂に過ぎないのだが、非常に興奮した私は帰宅後、2人のあられのない姿を想像した。

だが、そもそも知識は無いし、興奮しているから考えがまとまらない。

そこで2人がどんなことをしているのかを紙に書き出してみる事にした。

いわば自家製エロ小説である

小説は満足する出来で(俺基準)、調子にのった私は、他にもアイドルグループメンバー同士が色んな事になってしま小説などなども書いたりした。

しかし私は迂闊な事にそのアイドル小説を机の上に放置していて、親に見つかってしまった。

親には注意され、その小説が戻って来ることはなかったが、その後も見つからない様にして、小説は書き続けた。

しかし、それは中三のある日、突然止まったのである

開き直った私がヌードグラビアが載った一般誌を購入したかである

妄想産物よりも現実ヌード

かくして小説家(?)生活は終わった。

でも原体験である百合思考現在も続いている。

やっぱ原体験って大切だね!!


追記:

>それだけの百合原体験をしておきながら、なぜヌードグラビア如きで創作をやめたのか。そこが理解できない

中学生の書いた文章ゆえ、想像力貧困稚拙だったので、ヌードグラビアに負けたのです^^;

なお、ネット時代になって、芸能人エロ小説を扱ったサイトが出来たので、そこに百合系のを3,4本投稿したことがあります

どういうシチュエーションでどういう風に絡むかというのを考えるのは考えるのは楽しいので、機会があったらまた書いてみたいけど、今のネット上に発表するのは無理ですね^^;

叙述トリック申し訳ないけど、考えてません。

最初から男子中学生を前提に書いてます

×あられのない

あられもない

申し訳ない。

2017-04-13

http://anond.hatelabo.jp/20170413081416

小中学生の頃って、みんなと異なる点をみつけては、

「こいつ ○○なんだってー」

騒ぎ立てて、場合によってはいじめに発展するケースが何度もあった気がする。

そいう原体験が「隠してないと何されるかわからん」という抑圧を発生させてしまうのかなと思った。

2017-01-05

戸田奈津子尊敬されるための唯一の方法

インタビュー字幕翻訳者戸田奈津子さん「エッ?と思う字幕は、どこかおかしいの」

https://www.buzzfeed.com/eimiyamamitsu/interview-with-natsuko-toda?utm_term=.bhpJ8y62dK#.pf3GDwzR2e

 

を読んだ。全体的には一方的自己弁護を垂れ流すだけの提灯記事だが、インタビューという性質上これは仕方のないことなのだろう。この記事の良い点は、戸田奈津子という人の見当違いな自己顕示欲を浮き彫りにしているところだ。

 

「叩く扉もなかった」字幕翻訳という仕事に、その道の第一人者に直接食らいつくようにして取り組んでいった前半生は感動的でさえあるし尊敬もしよう。しかし一人前として仕事を任され、一定の地歩を固めつつあった頃には、質的研鑽よりも量的なアピールに重きを置く仕事ぶりだったことがよく分かる。

 

それは時代というか当時の映画産業要請でもあって、戸田個人責任を帰すことも出来ないだろうが、何度も立ち止まるチャンスが有ったにも関わらず、過剰な自信に満ちた「職人魂」みたいなもの自分を虚飾したい一心で、本質的には作品奉仕するべき字幕翻訳者のあり方を歪めた自己像を描出し、直そうともしなかった。それがこのインタビュー記事表現されている「字幕翻訳女王」の実態だ。彼女はことあるごとに「文字数自由だし調べ物にもゆっくり時間をかけられる文芸翻訳とはわけが違うのよ」式の言い訳師匠発言の一部を都合よく切り取ったものだ)をして、質を犠牲にしてることを棚に上げて早業自慢を繰り返すが、この記事もまさにその例を一歩も出ていない。ほとんど馬鹿の一つ覚えだ。

 

せっかく日本一名の売れた字幕翻訳者になったんだから個人の早業を自慢するよりも、字幕質的向上のために制作・配給側が用意する時間予算の拡充をアピールするのが筋なんじゃないのか? と私などは思うのだが、そんなことは自己否定になりかねないのでできない。映画や観客より自分大事からだ。徹底して裏方仕事に向いてない性格なのに(だからこそ喰らいついていけたとも言えるが)、なぜか字幕翻訳者なっちゃった人で、その上根っからダンピング体質なんである。広く「第一人者」と呼ばれるものの最悪の事例として歴史に記録されるに値する人物だろう。

 

戸田字幕の具体的な問題点については、今ではある種のネットミームと化していて、山のように検証を綴ったページがヒットするので、ここでいちいちあげつらうことはしないが、この記事を読んでそれらガッカリ字幕根本的な原因を確信できた気がする。戸田奈津子自身映画作品に対する理解力が低いのだ……というのはあまりにも失礼なので、観客(想定読者)の理解力を低く見積もりすぎ、と留保つきで言うべきなのかもしれないが、とにかく画面に映っているもの脚本に対する読解力が低い翻訳をしてしまっている。軍事用語や「指輪物語」の専門用語に通じてないせいで勝手流に造語ちゃうみたいなことは、専門の監修者をつければ(それさえ不服のようですが)済むことだが、理解が浅いまま手癖で字幕をつける悪癖についてはせめて直そうとする姿を見せてほしいと思う。

 

どんな作品であれ受け手によって読み出せる情報量は変わるものだが、戸田字幕はその理解力の設定が最小限になってるみたいな字幕なのだ。そんなとこを端折ってしまったら、まるで子供の頃に見た「大人映画」のように途中で筋が追えなくなるだろうな、と思うことさえある。一通りセリフが聞き取れるとか、背景知識も揃っているような人間が見ると「エッ?」となるような訳を乱発してしまっているのである。これは映画字幕という表現媒体のものの制約なのだろうか? 単に投下すべきコスト時間人員)をケチってるだけじゃないのか? なにしろ理解力が乏しいゆえにかえって回りくどい表現をして、大切な字数を浪費している例さえあるのだ。単にこなした本数が多いから下振れが記録されているだけと擁護することも出来るが、それを言うとかえって早業自慢の露悪性が強調されるというものである

 

そして戸田字幕に感じる理解力の低さ、雑さの遠因が、このインタビューでは明らかにされている。ただの映画ファンとして、「作品ファン」としての経験を積まずに映画を見まくった原体験が、映画を十分理解せずに、ざっくりと筋がわかれば(たまにそれにも失敗する)いい、という仕事を次々とこなすことを良しとする「映画字幕女王」を産んだのだ。それは映画というもの立ち位置が変わってしまった現在には全くそぐわない態度であると私は思う。

 

多くの人が週末には何かしらの映画を見て、学生なんかは金の続く限り映画館に入り浸って、それ自体が楽しみで、何度かに一回面白いものがあったら儲けもの、といった時代はとっくに過ぎ去った。多少荒っぽい仕事があっても、「まぁそんなこともある」と納得してすぐにまた映画館に足を運んでくれる観客は絶滅危惧種と言っていい状況で、「とりあえず筋の追えるものを今週中に」みたいな品質でつけられた字幕を使う理由ほとんどないと言って良いんじゃあるまいか。なにもタコツボ化したマニアけが字幕翻訳者理解不足を責めているのではない。字幕スクリプト情報量100%伝えろという不可能要求しているのでもない(そんなことを言ったら、原語が完全に理解できても伝わらない部分は常にある)。娯楽が多様化する中で、金と時間を使うに値する丁寧な仕事競争できているか問題なのだ

 

そもそも多くの映画は長い時間をかけて作られるものだ。製作に着手してから数年かかることはザラだし、驚くべき短期間で撮影が終わったというような作品でも、原作を読み込んで脚本化するのに何十年もかけていることだってある。そしてそれを待つファンも何十年越しで待っていることだってある。それだけの労力と期待を集めて公開される作品最後工程に、パッと見の印象を伝えるので精一杯みたいな字幕がついていて良いのだろうか? 日本人英語力の向上には役立つかもしれないが、自分で聞き取れるようになったからといって問題が無くなるわけではない。「自分は内容がわかっても、あまりにも作品無理解字幕がつけられていることに耐えられない」という作品ファン心理考慮せずに仕事を続けることは、今や娯楽の王座から落ちて、比較的嗜好性の強いものになった洋画ファンには悪印象しか与えない。それに洋画ファンだけの問題でもない。どんなジャンル仕事であっても、雑な仕事というのはそれに初めて触れる者に「なんとなく面白くないな」という印象を与えてしまものである。それを防ぐために必要なのは、十分な準備期間と作業時間を用意することによって得られる翻訳者の深い作品理解だ。翻訳者に十分な時間リソースが与えられ、一つの作品に使える労力を拡大することのほうが誰にとっても良いことなのではないか? すべての原因を「文字数の制約」や「納期の短さ」に帰することが出来るという甘ったれた足かせを自慢できればそれでいいのか?

 

戸田字幕映画理解力の低さが、意図的に設定されているものではないと疑う理由がもう一つある。戸田字幕翻訳単独作業である理由として、「セリフ言い回しリズム統一するのに余計な時間がかか」るということを挙げている。そんなことを言っていたら、作中でセリフ言い回しリズムを敢えて変えることで、登場人物心理的変化や場面転換を表現する映画原理的に字幕に乗らないことになる。これほど馬鹿な話はない。「こいつは最終的に悪ものになるやつだから最初は丁寧にしゃべってても荒い口調で統一しとくのが親切」みたいな字幕が付けられた映画を、誰が見たいだろうか? 一つ一つの映画作品性質をよく理解しないまま、ちぎっては投げみたいな仕事を続けてきたせいで、どんな映画も同じような構図に当てはまるよう訳すのが当たり前になってしまっているからこそ、セリフ統一感があることが「透明な字幕」の必要条件だという勘違いを起こしてしまうのだろう。映画が転調したときには字幕も転調するのが「透明な字幕」で、そのためには複数視点必要になることだってある。脚本演出意図を読み違ったまま、理解をし損なうことは避けられないからだ。いつまでも「一人の字幕翻訳者が短い期間で理解できた範囲」としての映画字幕が作られ続ける状況を肯定することは、この人の取るべき道ではない。それは決して映画のためにはならない。

 

ロード・オブ・ザ・リング」の第二作以降は、原作翻訳者スクリプトの全訳を事前に行った上で、それを参照して戸田字幕作成し、改めてチェックを受けるという体制が敷かれたようだ(インタビューではその経緯をまるっきり無視していて、結果的に監修者の仕事を貶める傍若無人ぶりが表れている)が、これに似たことが常識的に行われるように働きかけしているんですよ、といった風のアピールをするほうが、「第一人者」としての尊敬を集めるのではなかろうかと私は思う。

  

現在洋画の年間公開本数は80年代末以来の第二のピークを迎えている一方、戸田仕事は当時の1/5近くまで減っている。文芸関係に限って言えば50歳ごろに確立した仕事のペースを守っている80歳なんていくらでもいるので、年齢のせいばかりでもないだろう。その事自体戸田翻訳者待遇改善に取り組んだことの証左だと弁護することも出来るかもしれないし、実際にセリフ聞き取りながら見て「ここをこうやってまとめるのか、上手いなぁ」と思える翻訳者が増えてはいるので、まぁ戸田奈津子問題ある訳というのも、そろそろ過去の話だよね……と最近は思っていたのだが、私はこのインタビューを読んで気が変わってしまった。やはり早いとこ全面的に後進に道を譲って、ご自身字幕翻訳質的向上のために翻訳者待遇改善する言論を起こされるなどしたらいかがだろうか。それが名の売れたものの使命と思ってはもらえまいか。いい年してよいしょインタビューに答えて、自分の大ポカで迷惑をかけた監修者の名誉を傷つけるような非道言い訳を垂れ流している場合ではない。

 

さら早業自慢を封じられるのは、自己認識からすれば転向に映るかもしれない。ひょっとしたら一気に老け込んじゃうかもしれない。しかし、昔よりずっと観客同士の横のつながりが強くかつ広範囲で、作品についての情報も手に入れやすい今だからこそ、字幕翻訳要求される水準が上がっていることを認識し、それに適切に対応するように送り手たちに働きかけをする姿は、映画ファンの心に強い印象を残すはずだ。個人的な快刀乱麻の仕事ぶりを自慢するのはもうやめて、業界全体で作品の質に貢献する、充実した作業環境を残せるよう声を上げる好機なのではないか。それでこそ「字幕翻訳女王」としての尊敬を集められるのではないか。今のままではせいぜい良くて「時代の徒花」といったところである

2016-10-23

http://anond.hatelabo.jp/20161023001754

保育園保育士さんに促されて、

無理やり鬼ごっことかやってる集団に混ぜられたのが苦痛だった。

彼女たちからすると、いつも一人で絵本を読むか積み木崩しをやるだけという態度がめんどくさかったのだろう。

しかも時たま女の子やおっとりした子にちょっかいかけたり、

昼寝やおやつ時間に抜け出したりとナチュラル問題を起こす子どもだった。

人に合わせることはめんどくさいことなんだという気持ちを抱いた原体験はそのころにあるだろう。

今もやはり本を読んでクリエティティを持て余し、人をからかって規範的な生活にそぐわない態度で生きている。

それは長年積み重ねて熟成された自分感性従順な結果であり、

そんな風にしか振る舞えない不器用さの現れでもある。

保育園幼稚園で求められるのは社会性だけなのだ

走るのが速かろうが、物知りだろうが、ルックスがよかろうが、立ち回りが悪ければ良しとされない。

そしてそれをジャッジするのは管理者である保育士さんである

幼稚園に通うのをやめたというタモリエピソードに妙なシンパシーを感じる。

媚びる相手ぐらいは自分で選んで生きて行きたい。

2016-10-20

駅乃みちか】また話題になってる公共萌え絵問題についての考察

萌え絵エロいエロくないか不快不快じゃないか、見る人の感性がまともかまともでないか?みたいな話の先に決着点は絶対にない、ということをまず最初宣言しておこうと思う。

なぜなら上記の内容は全て見る人の主観から一歩も出ないから。

歴史文化、なんかの単語で置き換えたとしても、それは実は何にも説明していなくて、実は主観多数決のようなものしかない。

その辺の話は一旦置いておこうと思う。

ではここで何を論じたいか?というと、メインでは、なぜ不快と感じる人がいるのか、という問題かな?

絵画の裸婦像はエロくないとか、グラビア写真ならまだ許せる、でも萌え絵不快でたまらない的な声も多い。

そのへんをちょっと掘り下げてみようと思う。

俺の個人的な幼少の体験を書くと、

小学生くらいの頃、美術室で裸の絵とか像とかがあって、掃除時間とか図工の時間とかにそういうのを見ると、なんとなく気恥ずかしいような、なんでこんな物があるんだろう?という感覚はあった。

親と一緒に入ったレストラン、というか居酒屋っぽいところで、ポスター水着お姉ちゃんビールジョッキ持ってるのも、なんか意味がわからなくて不思議に思った。

地下街看板に裸のお姉ちゃん写真があるところがあって、まあ芸術的なんだろうけど、前を通る時にどうしていいかからないような感覚があった。

これに近いような経験って、誰にでもあるんじゃないだろうか?

もう少し大きくなると、家族で見てた映画テレビでのベッドシーン

気まずくなる瞬間あったよね。

これがエロへの不快さの原体験と言えるような気がする。

まり萌え絵写真か像か、とかに関わらず発生する感情である

この辺の感情って、まとめるとこうだと思う。

写真であれ映像であれ絵であっても、今その場の人がしていい格好・振る舞いじゃないと違和感が生じる」

その違和感は、気恥ずかしさであることも、目のやり場に困るという気持ちや、または不快である人もいると思う。

これはもう、「公共の場でやるな」主張と概ねかぶる

ただ、萌え絵問題はこの原体験に加えて、もう少し別の要素も絡んできていると思う。



10年近く前だと思う。

俺も健全若者で、綺麗なお姉ちゃんアイドルも好きだった。

しかし、用事東京に行った時、ホームに入ってきた電車が、アッキーナラッピングカーだったとき、なんだかすごい不快感を持った。

別にエロい格好でもなかったと思うし、宣伝の内容も見ていないし記憶にない。

あの宣伝ラッピングが、吉永小百合とか松嶋菜々子上品に写ってる宣伝なら、特に何も思わなかったろう。

でもアッキーナラッピングカーはなんか違った。

萌え絵不快問題はこれに近いと思う。


当時のアッキーナは、水着で毎週のようにグラビアを飾るほしのあきとかと違って、純正グラビアアイドルじゃなかったと記憶している。

あんまりテレビも出ないか素人っぽさがあって、そして当時18歳くらいだったと思う。

なのでなんとなく、東京若者文化象徴としてのエロさ、みたいなもの見出していたと思う。渋谷の援交女子高生みたいな?

からこそ、グラビアアイドルの見せるための綺麗なエロさじゃない、クラス女の子エロさみたいなものがあった。

そもそもエロとは何か?

それは、自分の延長上で性的行為連想されるかどうか?じゃないだろうか。

洗練された女の子より、素人っぽいAKBが受けるのも、「そこにリアルエロさ」があるから

例えば、桐谷美玲ドラマ打ち上げお酒飲んでいる写真が出てきたとしよう。

それともうひとつAKBギリギリ成人くらいの子が、AKBコスチュームで、ドラマ打ち上げお酒飲んでいる写真が出たとしよう。

どちらがえろいか?っていうと、たぶんAKBだ。

なぜなら、AKBって枕やってんじゃないの?とか、俺もうまく仲良くなればやれるかも、的な欲望対象になっているから。

それに対して桐谷美玲は、綺麗すぎてリアル欲望を見出せない。大好きなんだけどね。

まりだ。

真実不快なのはアッキーナじゃなかった。

自分オナニーを見せつけられた感覚不快だったんだと思う。



萌え絵問題はこの辺に当てはまる。

あの辺の萌え絵が、女性身体的特徴を誇張して描いていることに関しては反論はないと思う。

その誇張を、自分の身近なエロと結びつくのかどうか?が最大の焦点と思う。

女性女性身体的特徴を誇張表現された時、真っ先に結びつけるのは間違いなく自分身体だと思う。

その自分身体に関して、誇張された部分に周囲の人間が全員注目しているかのような気分になるのが、不快感の元と思われる。

身近という意味では、男だってそうだろう。

自分の嫁が女性身体的特徴を際立たせるような格好をした写真を、昼間仕事中にいきなり会社の壁に貼られたらものすごく不快になるに違いない。

それは延長上に自分セックスがあるから

グラビア写真芸術的裸婦像は、たぶん自分セックスを想起させないのが大きな違い。



そろそろまとめよう。

萌え絵に限らずなんだけど、女性身体表現を見て、不快に感じるかどうかは、チェックポイントがあるように思う。

1. その状況・ポーズ・構図等の意味を正しく理解できているか理解できないと不快に感じるケースが多い。

2. 強調された特徴が、自分セックスの延長上に結びつくのか結びつかないのか?結びつく人は不快

3. その絵を見る状況が、セックスを受け入れられる状況か否か。2を満たしていてセックスしたいと思えない状況で見ると不快

4. あと、身体的特徴を強調しすぎると不気味の谷差し掛かって不快


考察するに。

オタク萌え絵エロく感じないのは、その女性の絵を自らのセックスの延長上に結び付けられないからではないか

または、自分セックスパートナーとの身体的特徴があまりにもかけ離れている人。

あ、童貞は延長上に思えないってはなしじゃないよ!!

あと逆に。

過剰にエロさを感じる人は、強調されている部分にコンプレックスを持っている人。

周囲にそこを見られている、と思うくらいの自意識がある人。

自意識かはおいておいて、痴漢によくあったり、男性に不信感を持っているような女性なら、周囲の男性から自分がこんな風に見えてるんだ的なショックと不安感があるんでしょうね。

そりゃ不快だ。



それから最後に。

萌え絵を通して、オタクテンプレな像をすけて見る人がいる。

オタク嫌いな人ほど、わざわざ絵の向こうにオタクを見出す。

そして嫌いなオタク攻撃しようと萌え絵批判をする、って構図もある。

これはヘイトスピーチというか、オタクを低く見たいコンプレックスの表れのような気もする。

こういうのはなんか、話す価値がない。




まあ、なんだ。

不快不快じゃないかおかしいかおかしくないか、を論じることに意味はない。

不快に感じる人が一定数いるのが事実

全く何も感じない人も一定数いるのも事実

どっちが変とか正しいとか麻痺とかじゃない。

正当性マウンティングはもうお互いにやめましょう。

主催者としては、不快な層が一定数いるなら、やっぱりなんかしら必要じゃね?

と言って締めます

2016-09-10

君の名は。」の東京至上主義死ぬ気持ち悪い(追記有)

君の名は。」を観た。映画としては面白かったが、監督東京至上主義的発想がにじみ出ていて気分の悪い作品だった。以下ネタバレこみでどこが気持ち悪かったか書く。


まず、三葉が飛騨に住んでいるのに東京の話ばかりするところが気持ち悪い。飛騨は一応岐阜の一部であり東海地方であるテレビ名古屋ニュースが入るはず。ならば、まず三葉が向かうべき都会は東京ではなく名古屋のはずである。もちろん、東京名古屋では都市の規模に明確な差があるけれど、「カッフェ」はたくさんあるし雇用も最低限はある。実家の様子を見に行くことを考えれば名古屋就職するという選択肢も考えられるはずで、そこがすっぽり抜け落ちているのが不思議だ。小説版では三葉が名古屋のことを「大きな田舎」と表現する場面があるらしいが、当たり前だが飛騨よりは名古屋のほうが何倍も都会だ。三葉たちが困っていたのは「カッフェ」がないこと、雇用がないこと、訳のわからない因習があることだ。それらから逃れるためだけならば東京ではなく、岐阜市なり名古屋市なり富山市なり近くの地方都市に引っ越せばいい話である。(岐阜富山雇用が少ないかもしれないけれど)三葉が「田舎」を脱出したいという気持ちはわかるが、その向かう先が「東京」である必然性は感じられなかった。

次に、三葉たち糸森村の若者たちが最終的に三人とも上京するというのが気持ち悪い。繰り返し書くが、三葉たちが「田舎から脱出するなら名古屋に引っ越すという手段もある。それなのに三人が三人とも東京に出てくるのはなぜなのか?また、百歩譲って名古屋飛騨と同じレベルの「大きな田舎」だとして、「田舎」に彼らが残らなかったのはなぜか?糸森が消滅したとして、その地元愛着があるなら欠点はあれど飛騨に残るという考え方も抱けたはずだ。特にテッシーは親父が土建屋でその跡を継ぐという選択肢も考えられたはずであり、岐阜就職することもできたはず。東京に行った三葉と地方に残ったテッシーという対比もできたのに三人とも上京してしまうというのが腑に落ちなかった。

そして、彗星が墜落したあとの三葉とテッシー夫婦以外の糸森町民の姿が描かれないのも気持ち悪い。町は半分くらい吹っ飛んだが避難完了したはずで、三葉の妹やおばあちゃん、親父さんは生き残ったはずである。それなのにせいぜい三葉の親父さんが週刊誌に載ったことがわかるくらいで妹やおばあちゃんの後日談はない。あたか彗星によって三葉たち以外の糸森町民は抹殺されてしまたかのようだった。また三葉たちは生き残ったが、糸森という文化彗星墜落によって消滅してしまった。これは瀧が過去を改変する前も後も実は変わっていないように思えた。田舎文化田舎に残った人たちを瀧は実は救えていないのではないか

(そもそもおばあちゃんや妹は生き残ったのかという疑問もある。ラスト付近で瀧が彗星被害について振り返ったとき、彼は「突然の避難訓練によって、奇跡的に『ほとんど』の町民が生き残った」といった。この言葉からわかるのはあの彗星墜落によって少なからず死者が出ていたということである。その死者の中にテッシーの親父や三葉パパや四葉が入っていた可能性も後日談が描かれなかったから十分ありうる。神社土建屋といった「田舎因習」の象徴である彼らを監督は観客にはわからない形で彗星で消し去ってしまっていたのかもしれない。)



自分意見を整理すると以下の二つ

①「君の名は。」の世界には「東京」と「ど田舎(=飛騨)」しか存在しないのが気持ち悪い。地方都市存在無視している。

若者たちは必ず「東京」へ行かなければならず、彼らが抜けだしてしまった「ど田舎」は描く必要がないという思想気持ち悪い。東京は必ずしも「地上の楽園」ではないし、若者たちが抜けだしても飛騨に残った人たちの生活は続いている。「田舎」は「東京」へ向かう若者たち踏み台ではない。

この二つは監督の「東京至上主義から出てきているのではないか東京以外に日本に都会はなく、あとは全て「田舎である。「都会(=東京)」は素晴らしく、「田舎(=東京以外)」はくそったれであり、若者は必ず上京しなければならない。自分は新海監督のファンではないので彼が今までどういう映画を撮ってきたかよくしらない。だけど、「君の名は。」を自分なりに解釈するとこういうメッセージがあるように思えて仕方ない。そしてこの発想は「東京以外」にすむ自分としては非常に気持ち悪い。セカイ系だなんたら言われてる人らしいがその手の批判もむべなるかな、と思ってしまうような映画だった。



・追記

一部ブコメに返信


「miruna 軽井沢田舎ボンボンにはTOKYOあんキラキラに見えるんだよきっと。ファーストフードの豊かさを無視してブルジョア高校生がクソ高いカフェお茶してトラットリアバイトするんだから。」

これは全くその通りだと思います自分がなんでこんな増田を書いたかというと恐らく新海監督は長野のご出身(それも関東圏にかなり近い)なので都会=東京なんですよ。彼の原体験にはど田舎長野)と都会(東京しかない。近くに札幌福岡名古屋のようなそこそこ都会な都市がない。だから地方都市をぶっ飛ばし若者がみな東京にすい寄せられていく話を書いたんだと思います。でもそれは福岡名古屋札幌のほうが東京より近いエリアでは微妙事情が違ってくるはずなんですよね。だから本当はご自身出身である長野東部舞台にされたほうがしっくりくると思います

「Phenomenon あんだけ飛騨を美しく描いてるのにその解釈②はないんじゃない」

この点については「星の降る夜に”『君の名は。』(ネタバレ) - 私設刑務所CHATEAU D'IF http://chateaudif.hatenadiary.com/entry/2016/09/09/232626」というエントリー自分以上にわかやす解説しています

新海誠本人の田舎への郷愁景色のみで、ヒロインの言う「都会に行きたい」、東京大好きが本音というところだろうか。彗星には世界が滅びる鬱映画メランコリア』的な破壊衝動も感じる。人が死ぬ必要さらさらないけれど、場としての田舎は滅び去れ! 災害描写3.11メタファーなのだが、滅びるのが予言通り、みたいな乱暴さもあり、ババアの教えや伝統芸能が、街が救われることプラス自分恋愛のために存在した、というのはすごいナルシシズムだ。 ”

ヒロインや友人ら主要登場人物はみんな東京へと去り、親以上の世代のその後は語られないあたり、まさに「親殺し」の物語であったとも言える。”

メランコリア」は未見なのでよくわかりませんが、自分は「君の名は。」を観て「アクシズが墜落してしまった逆襲のシャア」みたいな映画だなあ、と感じました。人は死ななかったわけですが、彗星の落下自体「奇跡」回避できなかったということは、実はかなり絶望的な映画なのではないか、と。彗星の落下は自然現象ですが、その落下を設定したのは監督自身です。彼には田舎人間若者以外)を全て抹殺したいという願望があったのでは?少なくとも私は田舎に対する愛着は感じられませんでしたね。

とにかく自分事実誤認四葉彗星の死者数)をたくさんしているということもわかったので、もう一度見返したいと思います。そしたらまた追記を書くかも

2015-11-27

東京に出たいと思うようになった原体験

僕が上京したいと思うようになった原体験中学時代にあると思う

当時オタク世界に浸かり始めた僕の住んでいた地域では民法が2局、フジ日テレしか映らなかった(今もケーブルテレビに加入しない限り2局のままだが)

当然深夜アニメなんてまったく観れないので

書店で取り寄せてもらっていた月刊アニメ雑誌の中にある「○○アニメ化!」なんて記事は遠い世界のものだと諦めていた

テレビ東京系列放送」という文字を悔しい思いで見ていた

今のようにネット上で気軽にアニメが見れるサービスは普及していなかった、もしくはあっても知らなかったし、我が家スカパーにも入っていなかった

そんな日々を送る中購読しているアニメ雑誌ひとつ記事が目に飛び込んだ

「○月○日、深夜26時より『フジテレビ系列』で放送開始」

やったぞ!フジテレビならうちの県でも映る!

もうかれこれ15年くらい前の話になので正確に覚えてはいないが

そのアニメ別に原作が好きだったわけでもないし、内容に興味があったわけでもない

しかし、僕はこのアニメのファンになろうと決意した

アニメ雑誌ネットで話題になっているあのキャラやこのキャラの「現物」を見ることができなかった僕にとって、そのフジテレビ系列てで放送する深夜アニメは、(オタク)社会自分を繋ぐ蜘蛛の糸のような儚い希望だったのだ

で、迎えた放送当日

だいたい予想つくと思うけど

新聞テレビ欄に載ってなかったのを「アニメから載せないんだろう」と超解釈して夜更かししていた僕の目の前に突きつけられたのは

本日放送は終了しました」の画面だった

その後「いや…全国の小学生が夢中になったポケモンデジモンですら再放送しかやってなかったじゃないか…きっと一週遅れでやるに違いない」

としばらくテレビをチェックするも一向に放送する気配はない

そしてうちの県ではこのアニメはやらないんだと気づいた時僕に残ったのは強烈な憎しみだった

うちの県で放送してくれないフジテレビアニメ会社?側に対する憎しみもあったが

それ以上にフジテレビ電波に乗って確かに来ているはずのアニメをあえてカットする地元に対しての憎しみが強かった(現実的にはそんな単純な理屈ではないが当時の僕にはそう感じられた)

このクソ田舎には僕のような気持ち悪い異端を許容できないのだ

田舎の枠からはみ出すものを望むことは許されないのだ

そう言われている気がした

その反面簡単にオタクコンテンツを浴びるように触れることができる東京には

僕みたいなキモヲタでも存在を許される場所として強烈な憧れを抱くようになった

あのときの想いは、見きれないほどの深夜アニメ放送されている東京関西に住んでも、ネットアニメ見放題の時代になっても、そしてなんだかんだで地元に戻ってきてアニメなんかまったく観なくなった今でも残っている

アニメ経済効果無視できなくなり、町おこしアニメなんか作ってアニメに媚びたり

放送してないアニメ映画田舎ではまずありえないほどの観客動員数を記録しブッチギリ映画ランキング一位をとっていたりするのをみて

「ざまあみろ」

という気分になっている

(そもそも15年前だったら県内の映画館では例のアイドル映画は放映されることはなかっただろう)

…とまあ長くなったけど

とにかく僕の「東京コンプレックス」といってもいい東京への憧れは

いろいろな原因があるけれど、大元をたどればこのとき経験なんじゃないかと思う

2015-11-09

http://anond.hatelabo.jp/20151109130808

子供のことから基本的にはトラウマか抜きで、

相手が「リョナ」と言われてもなんのことかわからない人なのに「リョナとはなんであるか」を説明しなかった

パターンだけだと思うけど、

東京とは何であるかを説明しないかぎり東京ウォーカーの表紙を見せるのは虐待」とは言われないと思うんだよね。

まりそこには「性的コンテンツはそれが何であるかを説明しなければならないほど悪いものである」という前提が隠れているんだけど、

その前提自体根拠がないという。

リョナは少なから暴力行為が入るから暴力はいけないよ」とは説明する必要がある。

しか性交悪事でも犯罪行為でもない。

避妊はしないといけないよ」?

そういう問題でもないでしょ?

しかし、多くのリョナラー原体験子供向けの特撮ヒーローだったりするんだから皮肉というか何というか。

2015-11-02

その時僕はこう思った。CMU実装の時。

テイルズの時に出た、経験値をDLCで買うと言うシステム。これは僕のゲーム人生ではかなりの衝撃でした。

その界隈でも、かなりの議論があったと覚えています

この時僕の心に出来た、言葉にし難い、矛盾も沢山はらんだ、未だに答えが出ていないもやもや

それまでは時間をかけてしか稼げなかった経験値を、現金で一瞬で買う。時間お金で買えてしまう。

今までのゲーム人生その物の否定、考え直し、時代の変化、価値観の変化、もやもや

それは僕を含め、そんな考えをする人にとってはそんなレベル事件だったと思います

から公式チート公式RMTとまでの受け止め方をしました。

時間をかけての攻略が、僕のそれまでのゲーム体験でした。

そして楽しかたから、そのやり方こそが僕のゲームに対する姿勢になったのかもしれません。

僕にとってのゲーム原体験は、如何にやり込みしゃぶり尽くすか、かもしれません。

から多分、価値観駄菓子屋で悩んでいたその時のままだとおもいます

自由に出来る金額が大きくなったとしても、僕にとってこの種のゲームの基本はそれなんだとおもいます

それをある意味否定しかねなかった、もやもや

アイドルメアドは買わないと。

ドック拡張しないと。

おはようガチャさないと。

伊藤園お茶は飲まないとだし、コンビニローソン

最初に手に入れるためのお金は、そもそもそれは…、この辺は言い出したらキリがない戯れ言ですが。

イングレスリアル課金、凄いですよね。時間もかかる。なんてシンプルストイックゲーム

いろんな方面にかけるものが無いと出来ないプレイが沢山、何とエキサイティング

極論ですが、素ならキー1つ回すには5分。お金じゃ買えない時間をかけて、始めて手に入れることが出来るコモンアイテム

今までは、それを限られたインベントリでやりくりするのがこのゲームの、私なりの醍醐味の一つでした。

大きなイベントの時は、仲間に頼み、預けました。又いままで貯めたそれを、消しました。なんて潔いよい決断!最高にハイな瞬間!

CMUでそれに変わる物を手に入れる。

何故かあの時のもやもやが再び、今一番大好きなゲームに生まれた瞬間です。

ストアが開いたら普通にCMUを手に入れるでしょう。

多分それがこれから普通のやり方だから

でもあの時の、もやもやは、多分消えないかな。

2015-10-27

インターネット革命技術

何週目の議論かっつう話だけれど、改めて思う。インターネット革命技術だ。

90年代半ば、大学の電算室で初めてインターネットを知ったときの衝撃は今もはっきりと思い出せる。あの日あの時あの場所で、自分は将来この道に進むのだ、と、夢でも希望でもない、漠然とした確信があったのを覚えている。デジタルと言えばゲームだけ、キーボードなんて触ったこともなかったのに。この時、さして大きくもないただのブラウン管に表示された文字に、興奮で背筋が震えた。文字通り背筋が震える経験をしたのはこの時が最後じゃないか。

その原体験があって、かれこれ 15 年以上ずっと Web世界仕事を続けている。インターネットが本格的に普及していく真っ盛り、その中に身を置けたことは幸せだった。きっと爺さんになって、歴史の語り部的な感じで色々しゃべりたくなるんじゃないかな。

産業革命当時、技術者としてまさにその中で技術を牽引していた人達の中は、きっと同じような高揚感をもった人もいたんじゃないか、と、ふと歴史にも思いを寄せる。

2015-10-05

本当は恐い「ここさけ」 つづき

http://anond.hatelabo.jp/20151005175917

の続き

核家族ホラー」としての「ここさけ」

「心が叫びたがっているんだ」を語るにあたって、最も欠かせない部分。それは学園パートではなく、家庭でのシーンにあると思う。

意外に思ったはずだ。学級会議で突然歌い出した成瀬に対するクラスメイト人間的にまっとうすぎるリアクション。そしてそもそも成瀬のような生徒がいじめられていないクラスという環境最初の印象は「やさしい世界」そのものだった。

しかし一方で、私はこのクラス環境について、全くのファンタジーだとも思わない。私自身、近い環境経験したことがあるからだ。私は高専という5年間同じクラス学生生活をし、工業系ということでオタクばかりが集まった中で学生生活を送ったことがある。それがちょうどあのクラス環境に似ていた。いわゆるリア充スポーツマン、根っからオタクなどその中でもカテゴリ存在していたものの、それぞれに学園ヒエラルキー適用されるのではなく、お互いに棲み分けを行うような形で折り合いをつける。結果、異分子的な存在に対しても特に働きかけることもない一方でいじめのような状況は発生しない(しなかったと思っていると付け加える)。

おそらく「ここさけ」の舞台学校も、近いような環境学力的にステロタイプに表すなら、偏差値が高いほうではある一方で、エリート校と言うほどではない奇跡的な案配といったところなのだろうと想像した。

ともかく、「やさしい世界」的に描かれた学校のシーンは、とても淡泊なものとなった。これはいじめ描写を除外することでその他のドラマ描写を注ぐためだったのだろうと思う。(本当は少し違うと思うのだが、後述する)

そのドラマとは当然青春ラブストーリーもあるが、それよりも重要なのは家庭のシーンだったと考えている。

女の片親モデル成瀬

まずは描写も直接的でわかりやす成瀬の家庭について説明する。

彼女の家庭環境描写は直接的かつリアルだ。

まず、女手ひとつ子供を養うために母親が就いた仕事が「保険勧誘員」というところ。ある程度年齢がいった女性が中途で採用される職業で、比較的安定しており生活が成立する収入を得られるものとして、典型的ものだ。彼女らの仕事は半歩合制であることが多く、望む収入によって仕事の量が変わってくる。夫婦共働きなら昼間だけつとめれば良いが、一般的サラリーマン並みを一人で稼ぐとなると残業は当たり前で、劇中のように帰りが遅くなることが多いだろう。

そして、母が在宅していない時、成瀬一人で自宅にいるときの「明かり」の付け方。あれもものすごく写実的だ。リビングのうちシステムキッチンの明かりだけつけて最低限の明かりを確保するだけ。ひどくリアルだと感じた。これは単に成瀬の暗い性格を表す演出というだけではなく、親が出かけており子供一人で留守番をしている光景として、典型的ものだと思う。電気代を節約して家計に貢献だとか、そういうことでは恐らくない。単に子供一人にとって、一軒家が広すぎるからだ。どうしても明かりは最低限となり、家全体で見たとき、点々と明かりがぼんやりとついているような状態になるのだ。何も片親だった人だけでなく、夫婦共働きの子供だった人なら思い当たるところがあるだろう。

車の音やインターホン他人や親の気配を感じてびくりと身構えるあの感じも、そのものを写し取ったかのような正確さだと思う。

片親の親、あるいは子。共働きの親なら胸が張り裂けるような描写であっただろう。

登場人物のうち、自宅の描写があるのは成瀬と坂上だけだが、坂上が昔ながらの一軒家の形式に対して、成瀬の家が異なっていることはすぐ気づくところだと思う。

彼女の家はいわゆる分譲住宅だ。幼少期の描写ではぽつんと一軒成瀬の家だけが建っていたところから現在では周囲に家が立ち並んでいるところをみると、成瀬の父親は転勤族であり、新しくできた分譲住宅に飛びつくような形でやってきた新参者だったのだと想像できる。

そこでまもなく彼女意図しない密告により、両親の関係は決裂してしまうことになる。母親子供を養うために働きに出るしかなく、自動的にご近所づきあい破滅的に。地域性というバックボーンがない新参者のために、塞ぎがちになった成瀬に対しても「近所のガチンチョ」だとか、「面倒見の良いおばちゃん」のようなケア存在しなかった。

建物つの描写をとっても、このように彼女が今に至るまでで、そうなってしかるべきであったという状況が、写実的に示されているのだ。

この状況は、成瀬本人にとってはもちろん、母親にとっても過酷だ。母は成瀬に対して辛く当たるひどい親として描写されてはいたが、彼女立場に立ってみれば、同情を禁じえない境遇といえるだろう。

上家成瀬の母が「娘がおしゃべりで電話代がたいへん」なんて見栄を張っている描写もあったが、恐らく彼女仕事場でも同じ嘘をついている。

典型的母親のつく仕事である保険勧誘員」という職場において、子供話題というのは避けて通れないものだろうから

「心が叫びたがっているんだ」という映画。うわっつらはありきたりで平和青春ラブストーリーであるが、このように少し掘り下げるだけで緻密で残酷描写がちりばめられている。

しかしこれだけではない。行間に隠されてはいるが、物語の読解に重要なもう一方。勝るとも劣らない残酷描写がある。

それはもちろん坂上の家庭環境だ。

男の片親モデルの坂上

坂上は父方の祖父母の元で生活している。そこは父親の実家であり、本宅でもある。しかし父親は家には寄りつかず、事実上は別宅みたいな扱いになっている。坂上の両親も成瀬の家庭と同じく離婚しており、母親が居ない片親の環境子供の世話は父の両親、坂上からすれば祖父母に任せっきりだ。

以上が物語上で語られ、描写された内容ほぼすべて。祖父母が居ると言うことで、成瀬の家とは異なり暖かい明かりに包まれており、表面上とても平和描写されているし、事実平和なのだろうと思う。

しかしこれらの「行間」には、特に現役の父親にとって、致死量のカミソリが仕込まれているのだ。

それは、直接的には描写されない坂上の父親の影を追っていくことで明らかになっていく。

まず、成瀬が初めて坂上の家を訪れたとき通された父親の部屋。あれで一気に、坂上の父親の像がはっきりする。

普通の一軒家に見える家屋の二階に突如出現する、完全防音の音楽室。典型的趣味人の部屋だ。防音設備など普通サラリーマンでは考えられないような出費を伴うものだ。そもそもがあの家自体、広大な土地がある北海道において「坪庭」など、まさに道楽者そのものだと言える。※坪庭というのは家屋の中に四角く切り取った庭をこしらえたもの本来土地の限られた京都などのような所でふさわしいものだ。

そこから推測できる父親像はつまり、かなりの収入を得ている人物。さらに推し量ると恐らく音楽関係業界人。それも相当名の高い人物と考えられる。

坂上は幼少期いやいやピアノを習わされた。しかし次第に夢中になり、ピアノに専念したいから私立校に進学するのはいやだと母親の勧めを突っぱねることになる。彼を擁護する父親、反対する母親。それが坂上の両親の離婚の原因になったという。しか言葉の上では確かにそうかも知れないが、少なくとも現代日本において離婚はまだそこまで軽々しいことではない。子供の進路についてもめることはどこの家庭でもあることだし、私はそこまで致命的な問題ではないと思う。

恐らく坂上の母親は、その件がきっかけで堪忍袋の緒が切れたのだ。家庭を顧みず、父親ではなく趣味人としてしか生きない男に。

男の片親。子育てを彼の両親に一任して自分仕事に専念する。頼れる両親の健在な父親にとって、至極妥当な選択かつ、リアルものに感じる。恐らく音楽業界人ならば、仕事都心のことが多いだろうし、それは当然家庭にほとんど寄りつかなくなるだろう。それに、当人にしてみれば、苦言を言う妻という存在がなくなり、以前よりよりいっそう父親の任を感じることな趣味の延長のような仕事に没頭できるようになったのだ。坂上の祖父母はとても温厚だ。孫相手だというのもあるだろうが、坂上父のこれまで推察した人物像から考えれば、彼もまたこの二人に甘やかされて育ったのだろう。

今の彼は、もう一度独身貴族を楽しんでいるような感覚いるかも知れない。「お子さんいるんですかぁ?信じられなぁい」なんて言われたりして。

父親が習わせたピアノで、坂上は母親を失うことになった。少なくとも表面上の因果的には。

しかし恐らく、父はそれについて罪の意識は抱いていない。そもそも、ピアノを教えたことが正しかった、間違っていたの葛藤すら抱いていないと思う。

ピアノを習うことは彼にとって当然だからそうしただけのこと。彼は自分が息子に与えた影響というものを全く意識していないのだろう。そもそも、父親としての自覚希薄から

息子の坂上自身について考えてみよう。公式サイトにおいての彼のキャラクター紹介はこうだ

本音を言わないエアー少年

まるで平凡で人畜無害子供のような説明になっているが、本編を見れば明白なとおり、事実とは真逆だ。

まずクラスでの立ち位置。無口でエアー的に振る舞う様は説明の通りではあるが、実行委員選抜されたあと、坂上は学級会議の司会を堂々とつとめている。それを受けてのクラスメイトの態度、そして平時からDTM研での扱い。これはいわゆる「表立って目立つタイプではないが一目置かれてるタイプ」の生徒のそれだ。成瀬や仁藤を除いても、もう一人や二人くらい、彼を思っている女子がいてしかるべき立ち位置に彼は居る。これは上で説明した彼の家柄によるものと考えることもできるが、彼の振る舞いを観察すれば、なんとなく推測できるところがある。

まず、その人格常軌を逸している。言うなれば英雄的なところ。

完全に異常者である成瀬に対して、彼は最初から一切、一ミリも物怖じすることなく接した。普通にできることではない。彼の異常性というか、異端、あるいは抜きんでた人格を表していると思う。

「やさしい世界」のクラスメイト成瀬に対して差別的な態度はとっていなかったものの、進んで接触するようなことはそれまでしなかった。

そのハードルを素知らぬ顔で乗り越える。というより、彼自身の異常性のためその特別さに気づいていないだろうところ。彼が一般人とはかけ離れている描写だと思った。

そして音楽の才能。

彼は「作曲はできない」と謙遜してはいものの、ミュージカルの曲目において、それぞれのシーンを象徴する完璧と言える選曲を行った。そして即興クラシックマッシュアップさえしてみせたのである。それも、もう一つの結末の案を成瀬から聞いてたった数秒の逡巡の後にだ。才能があると言うほか無い。

まりそこに集約される。クラスから一目おかれ、常人離れした振る舞いをし、音楽の才能がある、彼はいわゆる「天才である

ここで先ほど挙げたシーンに立ち戻ることができる。

「あこがれのお城」での彼の涙の理由について。

彼はもちろん、彼が説明するとおりの理由で涙した。「坂上拓実」と連呼する彼女言葉に聞き入りながら。

奇しくもミュージカルの最終幕の歌詞をなぞらえるように、音の上では名前を呼んでいるだけのそれが、「愛しています」と聞こえてくるその芸術性に感じ入って涙したのだ。

言葉はその意味を越えて話し手気持ち投影するものなのだと。

あの切迫した状況においてである天才感受性と言うにふさわしい。

さて、彼の父親は誰だったか

音楽業界において有力な人物である。彼もまた、音楽天才と言えるのだろう。こんな自覚希薄な男でも、坂上にとって彼は間違いなく「父親」であった。

彼の影響下の元、彼と同じ家庭環境に育まれ、坂上は父親の人格をしっかりと継承しているのであるいくら自覚がなくても、子供は親の影響を受けて育ち、それらを継承してしまう。

父親の業からは逃れられない。これが一つ目の「ホラー」。

割れていてほしい最後の卵

ところで、ここまで一切触れることはなかったが、仁藤の人格についても考えよう。

チア部のリーダー責任感が強い。ラストミュージカルで急遽代役を務める事になったときの態度からも読み取れるように、背負い込み、気負いすぎる性質を持っている。

私には彼女がある人物に重なって見える。

それは成瀬母親だ。彼女は頼れる両親がいなかったのかもしれないが、どちらにしろよそに頼ることなく、女手一つで子供を育てる選択をした。再婚もせず、もちろん育児放棄することもなかった。

彼女もまた、責任感が強く、背負い込み、気負いすぎる性質を持っているといえるだろう。

一方坂上はといえば、父親としての役目を全うできない道楽者の生き写しである

ここまで考えると想像せずには居られなくなる。

彼らが結ばれ、子供をもうけるようなことになったとき、待ち受けている結末について。

これがもう一つのホラー

そうならないと信じたい。

交流会を通しての経験から何かを得、成瀬や田崎のように坂上もまたその業からぬけだすことができるのだと。

下衆の勘ぐり

以下は蛇足になる。

ここまで残酷で緻密な描写ができる監督脚本家というのは何者なのだろう?と考える。もしかしたら、彼、あるいは彼らもまた、過酷な家庭環境で育ったのではないだろうか。そうでもなければ、ここまで緻密な描写など不可能なのではと思えてならない。

そして劇中の「やさしい世界」としてのクラス部活でもクラスでも一目置かれる坂上の立場

彼は過酷な家庭環境もつ一方で、その救いを学校生活に見いだしていたのではないだろうか。

さらに推し量るなら、彼の担任教師高校教師しからぬ立ち振る舞い。そして文化祭の主役という立場を、スケープゴートとしてしか捉えない大人びた生徒達。彼の原体験は、大学生活にあったのではないか(あるいは高専?)と想像してしまった。

そして家庭シーンの原体験成瀬と坂上の家庭の合いの子。きっと彼は「坂上と仁藤」の間に生まれたのではないだろうか。

そして彼は「父」になることを恐れているのだ。

さいごに

ここまで書いたが、実は以上の内容、ほとんど筆者である私が気づいたことではない。

私はこの映画を、友人たちと連れだって見に行ったのだけれど、そのうちの一人の境遇がまさに、「片親という家庭環境で育ち」「現在父親」というものだった。

彼はその境遇故に、この映画行間に仕込まれ凶器すべての気配を感じ取り、とても傷ついていた。一方で私ともう一人の友人といえば青春ラブストーリーとしてみていたので平和ものだったが。

彼は「もう二度と見たくない」とは言っていたが、その理由を聞いていくうちに、「心が叫びたがっているんだ」という映画全体像を捉えることができた。私はこのことにとても感動したので、彼にぜひブログポストするように勧めたが、とてもできないということだったので、許可を得てこの文章を書いている。彼の現在の家庭は幸いにして、父親である彼と母親、両方かけることない家庭を築けている。(今のところ)

しかし彼の反応を観察するに、とても子を持つ親に勧められる作品とは言いがたいのかも知れない。

下衆の勘ぐりが正しいとすれば、この作品はつまりサマーウォーズ対抗軸、家庭という環境、父、母という存在否定し、子供学校などの社会でその人間性を開花させていくものだと説いたものなのだから

事実子供である成瀬に対して救済はあったが、彼女の母にそれはなかった。ミュージカルのシーンは母への救済と取ることもできなくはないが、今の私には罪と向き合い自分の無力さに泣き崩れる母親に見える。

ともあれ、ここまで読み解いてみてつくづくこの映画凄さ、恐ろしさを感じる。

青春ラブストーリー」としても、「核家族ホラー」としても、核心の部分をすべて行間に潜め、合致する感性を持つ人、あるいは何度も繰り返し視聴した人が、ここまで深く読み解くことができる作りになっていることがだ。

「心が叫びたがっているんだ」は傑作というほかない。

2015-06-20

いじめって誰もが通る道だよね?

小学校中学校高校いじめにあっていた。


でも、いつもいじめにあっているわけではなくて

ローテーションで回ってくる感じ


基本はしか

で、悪口は聞こえるように言ってきたりとか

あとはまあ、基本一人ぼっちだよね


いじめ相談をした友達に次の日いじめグループに全部バラされていたこともあるし

わたしの知らないところで遊んでいたり交換日記していたり

帰る時間はわざとずらされたり


って書いてみたけど

記憶を消したのか、これぐらいのことしかされていないのか

まりいじめに関する記憶が思い出せない


こんなのいじめじゃないよ

っていう人もいるけれど

当時は相当傷ついていたし、学校にも行きたくなかったなあ

いついじめターゲットになるかわからないから

でも、いじめって誰もが通る道だと思っているし

今の歳になってあえて取り上げる話題でもないと思っていて

ましてや原体験とかにもなっていない

ということはたいしたことをされていないからかもしれない


けれど、なんかよく「いじめにあってた」という話を聞くと

そうなんだって思って、わたしだけじゃないんだと思うと同時に

もしかしていじめの大小は別としてほとんどの人があってるんじゃないかと思うんだけれど

実際どうなんだろう

2015-06-18

酒鬼薔薇矯正され社会復帰したけどぶっ壊れたままだ

絶歌を読んだ。

この本はあの酒鬼薔薇本人が書いただけあって、ぶっ壊れた部分と、理解可能な部分がごちゃまぜに同居して読むのは疲れる。おすすめできない。

ぶっ壊れたままというのは、出所後も基本的他者への関わり方が分かってない点と、パニックに陥ったとき暴力衝動が抑えらていない点だ。さらっと描写される他者への無関心とあたりまえのように描かれる暴力描写に、とてつもない違和感を覚える。

それでも矯正されたというのは、出所後はそういう自分の弱点を認識して、他者をなんとか理解することで社会に関わっていこうという意思を感じるから。14歳の頃にはそういう姿勢はなかったと思われるので、これは矯正プログラムの成果だろう。ただ彼にとっての社会復帰とは、正解を探す作業なのだ職場の人にお茶を勧められ休憩しようと言われても「喉乾いてないからいいです」と断るのは「間違い」だと認識して正していく、それが彼の社会復帰の方法だ。その方法はやはり普通感覚社会生活とは違うので、更生していると思う反面、そのぶっ壊れ具合に衝撃をうける。

酒鬼薔薇根本的になぜあのような凶行に自分が及んだか分かっていないようだ。

理性のたがが外れて、性的衝動殺人衝動自分の行動が支配されてしまった。なぜそうなってしまったのか、自分ことなにわからない。だから理解したい。自分自分理解したい。

理解したいから、何度も何度も自分記憶を掘り起こす。何度も思い出すうちに記憶は強化されていく。過去のシーンは安っぽい比喩と装飾にあふれているが、美しく描写されるのは記憶の中の自然であり他者だ。酒鬼薔薇基本的自分関係ないものへは無関心を貫くが、自分を無条件で受け入れてくれる他者場所には強い愛情を感じる性質がある。そうしてそれを美しいものだと認識している。だから自分を受け入れた美しいものケレン味たっぷりに飾り立てて描写する。それは記憶の掘り返しが何度も繰り返され強化された証拠だと思われる。だって酒鬼薔薇が美しく描写したタンク山とか池は当時の報道で何度も観たけど、なんてことはない風景だったもの

逆に自分のことは徹底的に醜く汚いものとして描写される。美しい他者と醜い自分、この断絶が凶行の原因だと認識しているようだ。そんなこと言われて誰が納得するだろう。また文中、他の文学作品から引用が多数あるがそれも自分を知る手がかりだ。自分記憶を掘り返し、また文学作品自分投影することで、なんとかして自分理解したいのだ。

自分理解することで心の安定を図りたい、というのがこの手記を書くモチベーションになってることはたしかだろう。ひどく利己的で、被害者感情逆撫ですることは確かだけども、もともと自意識しかないぶっ壊れた人間なのだ。今の他者理解しようという姿勢矯正プログラムの成果でしかない。

ところで、この本で笑うべきでないのは十分分かっているが、どうしても笑ってしまった箇所がある。

それは彼が捜査員や検察官カウンセラーといった大人たちに最後まで内緒にしていたという、彼の中で性衝動殺人衝動が結びついた原体験だ。

小5のとき最愛バーチャンを亡くした彼は思い出に浸ろうと入ったバーチャンの部屋で電マをみつける。電源を入れ興味本位で股間に当てた彼は今までにない快感に身を震わせる。小5の彼は電マオナニーで気絶するほどイクという壮絶な精通体験を得たのだ。それはバーチャンの死と深く結びつき、性的快感と「死」が関連付けされてしまったのだ。その後も電マオナのとりこになり、その行為は強く死を意識させる冒涜的な行為であったので、それが猫殺しの時にもイッた原因になったと彼は自己分析してるのだ。

・・・・・電マオナて。そりゃ隠したくもなるよなあ・・・

この本から教訓を得られることがあるとすれば、電マは年頃の男の子の手の届かないところに保管しなければいけない、ということだろう。

2015-06-17

最近少女漫画親族死にすぎじゃね?

親族死ぬ→激しく落ち込む(原体験)→女の子出会う→立ち直っていく\(^o^)/単純

ちはやふる

綿谷 新(わたや あらた

永世名人を祖父に持ち、自身小学校1年生から5年生まで全国大会の学年別で毎年優勝してきた実力の持ち主。小学校卒業後は祖父の介護のために福井へ戻り、千早太一と離れ離れとなる。その後、祖父の死に関する出来事きっかけでかるたから離れる。

アオハライド

馬渕 洸(まぶち こう)

母親死ぬ

orange

成瀬 翔(なるせ かける)

東京から転校してきた少年。菜穂や須和達ともすぐに打ち解け仲良くなるが、どこか他人を寄せ付けない一面がある。転校初日に菜穂達と帰ることを優先し、母親との約束を断ったことがきっかけで母親自殺したことが自身にとっての最大の心残りとなっている。母親の死後は、祖母の自宅に身を寄せていた。

四月は君の嘘

有馬 公生(ありま こうせい)

生前に母と交わした最後の言葉は「お前なんか、死んじゃえばいいんだ」。その直後母が亡くなり、そのことがもとで演奏中に自分が弾くピアノの音が聞こえなくなるという症状を発症ピアノから遠ざかるようになる。

(一部wiki引用)



これは私が読んだ漫画だけでこれくらい。。。。

もう少し前の漫画だと砂時計とかとかもある。

もはやどの漫画で誰が死んだか分からん、、、、、

2015-05-17

http://anond.hatelabo.jp/20150517181206

俺なんかは中学生くらいの時に数学とか物理に興味があって、よくわからないままに変な微分方程式の本とかを買って読んでたんだけど、

大学同級生で親が大学教授の奴は「興味がある」って親に言ったら親がファインマン物理学全巻を持ってきて与えられた、とか言ってて(こういう奴らと渡り合うの)無理だろコレって思ったのが原体験に近い。

(俺が当時読んでた本は当然ほとんど身にならなかった)

2015-03-03

http://anond.hatelabo.jp/20150303215108

自分経験があるし、むしろその主催者側に立ったこともある人間だけど。まちづくりセミナーや企画イベント自体は良いと思うよ。いろんな立場の人たちを巻き込んで、定期的にやっていくべきだとも思ってる。

いろんな人たちの目線から地域課題が掘り起こされて、それをどう解決していくかの意見を出し合い、実現できそうなものは実際に実現するように動く、というのが、こうしたセミナー本質だと思っている。

初めて会った人たちなのに「今日からあなたたちは仲間です」とか「私たち最高!」みたいな雰囲気

イベント最初最後に「チェックイン」といって意気込みとかを一言ずつ輪になって言ってみたり。

原体験自分に聞いてみて、それが本当にやりたいのか考えよう」とかメンタルトレーニングみたいな感じ。

いろんなまちづくり系のセミナーに参加したけど、こんなことは経験ないな~。どんな講師(ファシリ)がやってるのか分からないけど。でも、そんな講師にぶちあたったのであれば、あなたの怒りも分かる気がする。自分も次は参加しない。

その場で思いついたアイデアなんかが、他の人のアイデアと積み重なっていって、その場限りで盛り上がるのはよくある話なんだけど、参加者アイデアを出しっぱなし、言いっぱなしで、「あー楽しかった」で終わってることが多いし、それじゃまったく意味がない。

まちづくりセミナーや企画イベントを盛り立てる側がやらなきゃいけないのは、場で出たアイデアを具現化して、最終的には参加者自らが実現・実行させることで、「自分たちがこの地域まちづくりにきちんと参画しているんだ」という課題認識と行動を植え付けること。ここに、業種や立場、年齢や性別を超えた地域活性化(この言葉嫌い)やまちづくりの基礎がある。

から、「それが本当にやりたいのか考えよう」とか言って、せっかくのアイデアをすべてぶち壊しにするような進行をする時点で、何か違うと俺は思うんだよね。

2014-10-16

それでも歌い続けるのをやめない

そもそも「歌い続ける」というテーマ普遍だよねって話。

「君がッ 泣くまでッ 殴るのをやめないッ」とは某ジョジョセリフだが、

そういえばマザーでも「歌をやめろ」ってギーグのセリフがあったっけ?

「わたしと共にマザーシップに乗りなさい」 「歌うのをやめなさい」 「歌を…やめろ」 「う、うたをやめろ!」 「うたをやめるんだ!」 「地球のむしけらども!黙れ!歌うな」 「うたを…」「やめろ!」

ユング原体験じゃないけどこういうのってあるよね。わからないって人は慎重に話を聞いてくれ。

断っておくが現実リアル混同するのは俺の主義に反する。

DQ8では全員で杖に向かって祈り1人でも死んだら祈りは中断される仕様だったし、

魔法詠唱が中断されると台無しになるという仕様は多くのファンタジー作品で共通している。

それがどうした?と思うかもしれないが、よく考えてみるとあまりに独特な仕様なんだよね。

1.祈りや歌を継続しなければ効果がない

2.一瞬でも途切れる(または条件から外れる)とリセットされる(=台無しになる)

3.祈りや歌を継続すると強大な力が得られる

この仕様が無批判に受け入れられて広まっているのは、単に都合のいい設定だからパクられているといったレベルではなく、

物事の真理を言い当てているからなのかもしれない。もう少しリサーチを続けてみよう。

卑近になるがPCアラートの類いを入れると集中力が途切れるから一切入れないって人がいる。

熟考中に話しかけられると考えてたことが木端微塵に大破するがごとくリセットされるという経験も皆様には数多いことだろう。

また百年の恋が一秒で冷めるとか、信頼を失うのは一瞬取り戻すのは一生という故事成語の通り、

詠唱わずかでも一瞬でも構成要件というか要件定義から外れると台無しになる。

ピアノの練習だって一日でも休むとすごく鈍るのは多くの人が経験しているだろう。

これでもまだ「抽象構造から偏在して当然」と思うだろうか?それとも精神重要性質を表していると思うだろうか?

現代社会多忙で突発タスク割り込みが多い。歌がすぐ途切れる時代といえよう。

そんな今、歌い続けることに如何ほどの意味があるのか、歌い続けるならどんな歌を歌うべきなのか?

それをみんなで考え始める時期に来ていると言えるだろう。

2014-09-21

一部を切り出されたと思われる半エロ動画の素性を調べる

原体験

昔、自宅に、おそらく兄のものと思われる、"お気に入り"シーンだけを複数タイトルからリッピングしたと思われるAVがあった。

女優名前らしきものは一応聞こえたのだが、何という作品から切り出されたのかは全く解らない。

比較最近になって、その女優名をある掲示板に書き込んで情報を募り、そこで提示された出演リストを片っ端から検索して、ようやく前半部のタイトルが判明した。

だが、後半部、明らかに違う女優が出ている部分は、手がかりがなさすぎて、20年経った今でもわからない。

ネット上には、どこかのAVイメージビデオアダルトゲームから切り出したり、pixivから(無断で)転載されたと思われるエロ画像エロ動画がたくさんある。

最近ではアフィリエイトプログラムの普及もあって、切り出し元作品についても言及していることも多くなったし、転載された画像画像検索で元サイトを探し出すことも難しくなくなったが

特に古い時代に切り出されたものは、そういう手がかりが乏しいことも少なくない。

そんな中、確かpya!だったかYouTubeだったか、そのあたりで見かけ、ダウンロードだけはしていた、おそらく何らかの作品から切り出されたある半エロ動画の素性を洗ってみた、という話である

内容

かなりグラマー女性が、ミッションスクール系のコスプレ? と思われる、身体にぴったりした白いシャツとチェックのプリーツスカート(マイクロミニ)、黒のサイハイソックスという姿でダンスを踊るというもの

最初の方から黄色い模様の入った下着がチラチラ見えるが、動画後半ではシャツまくり上げていた。

最初に見たものは、右下に「シコっていいとも」というウォーターマークが入っていたが、その後ニコニコで再発見したものには入っていなかったため、これは元作品とは無関係と思われる。

内容からの推察

AVならもっと直接的か、カラミにつながる映像にすると思われるため、非AVグラビアものイメージビデオからの切り出しと推定。この時点では出演者名は不明。

画像検索

イメージビデオであればサンプル画像マッチするかも知れないと思い、該当ビデオを何カ所かスクリーンショットを取って画像検索するも、完全に空振り。

手がかり入手

せめて誰なのかでもわからないと無理かと思い動画を見返した所、ニコニコの関連動画森下悠里名前を見つける。

そちらの動画と見比べ、似ていると判断森下悠里である前提とする。

キーワード検索

森下悠里ミニスカパンモロ等のキーワード検索をしてみると、いくつかのエロ画像紹介サイトで該当シーンが出てきているのを見つけた。

しかアフィリエイト等がなく、タイトルの紹介もないため、相変わらずどこからの切り出しなのかは不明。

とりあえずこれらのサイト検索結果から女性森下悠里であることは確定した。

再度画像検索

上記サイト掲載されていた画像で再度画像検索をかけてみるが、やはり空振り。Google画像検索はこういう探索には使えないと悟る。

サンプル画像で探してみる

DMM.comに移動し、森下悠里イメージビデオ作品検索。出てきたもののサンプル画像を次々と探してみるも、該当シーンやそれにつながると思われる画像は無し。

使用されているシーンはあまり長くない模様。レビューでの言及にも期待したが、それらしきものはなし。

サンプル動画で探して…

最早しらみつぶししかないと判断し、サンプル動画を片っ端から見てみる。(と言っても全部を見る余裕は無いので、シークバーでスキップしつつだが)

何本目かは忘れたが、見ていくうちに場面こそ違うが同じ服を着ていると思われるカット発見

再度そのサンプル動画を飛ばさずに見て、該当シーンが1秒にも満たない時間収録されているのを見つけた。

実物確認

動画を購入してダウンロードし、改めて場面を確認。この作品からの切り出しであることがようやく確定した。

結果

森下悠里の「恋愛神話(竹書房/2007年)。

感想

画像はともかく、切り出された動画から元ネタを探し出すのはこんなに苦労するのかと思った。

どこかでサンプル画像として出されていれば、画像検索の時点で判明した可能性は高いと思われたが、こういう短いカットから切り出されるとそれに期待できないのでかなり困る。

後で知ったが、Amazonレビューを見てみたら、それであることをにおわせる情報がちゃんと出ていた…

とりあえず、疑問は晴れたので、二重の意味ですっきりしたので良いこととする。

2014-07-10

彼女登山をしたがるのですが、諦めさせる方法はないでしょうか?

フェイク有り)

私と彼女は、大学で再開した小学生時代からの幼馴染みです。

当時、私はやんちゃ盛りで、彼女と一緒によく山登りをしていました。

彼女の中では、それは原体験として、根強く残っているようなのですが、

私としては、もう山登りみたいな子供っぽい趣味はこりごりだと思っています

けれど、彼女の父親がそういうことが好きな人だったこともあり、

彼女はやる気満々で道具などの準備をしています

私もそれにあわせて買い物などをしているのですが、正直乗り気ではありません。

第一、山登りなんて何も楽しくないと思います

どうしたら、彼女山登りを諦めさせることができるでしょうか?

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