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はてなキーワード: 行間とは

2019-04-21

原作付きのアニメに苦言を呈すると、行間文章意図も読めないキチガイがすぐにわいて出寄る。

繁華街のまちなかで、通りすがりのやつに唾吐くのと何が変わらんの。そういうのキチガイっていうんやで。

ここもTwitterと変わらんな。一応ID個人場所もってるだけTwitterのほうがましなのか。程度の問題だけど。

どこいってもキチガイがいてたまらんよ。

2019-04-15

anond:20190415084727

行間から「本当は交流してえええよおおおお」って声が聞こえる

本当にそう思ってると、それが当たり前で書き出すことはないんだぜ

別に自分を出さなくても交流はできるよ

2019-04-10

行間広すぎるやつwwwww

お前のは行間どころかページをまたいでるんだよ!!!

2019-04-06

anond:20190406131516


 

緊急寄稿

「令和」から浮かび上がる大伴旅人メッセージ

品田悦一

 

 新しい年号が「令和」と定まりました。典拠文脈を精読すると、〈権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない〉という、おそらく政府関係者には思いも寄らなかったメッセージが読み解けてきます。この点について私見を述べたいと思います。なお、この文章は「朝日新聞」の「私の視点」欄に投稿したものですが、まだ採否が決定しない時点で本誌編集長国兼秀二氏にもお目にかけたところ、緊急掲載のご提案をいただいて寄稿するものです。

 

 「令和」の典拠として安倍総理が挙げていたのは、『万葉集』巻五「梅花歌三十二首」の序でありました。天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府長官大宰帥)だった大伴旅人が大がかりな園遊会主催し、集まった役人たちがそのとき詠んだ短歌をまとめるとともに、漢文の序を付したのです。その序に「于時初春令月、気淑風和」の句が確かにあります。〈折しも正月の佳い月であり、気候も快く風は穏やかだ〉というのです。これはこれでよいのですが、およそテキストというものは、全体の理解と部分の理解とが相互依存し合う性質を持ちます一句だけ切り出してもまともな解釈はできないということです。この場合テキストは、最低限、序文の全体と上記三二首の短歌(八一五~八四六)を含むでしょう。八四六の直後には「員外思故郷歌両首」があり(八四七・八四八)、さらに「後追和梅花歌四首」も追加されていますから(八四九~八五二)、序と三八(三二+二+四)首の短歌の全体の理解が「于時初春令月、気淑風和」の理解相互に支え合わなくてはなりません。

 

 さらに、現代文芸批評でいう「間テキスト性 intertextuality」の問題がありますしかじかのテキストが他のテキスト相互に参照されて、奥行きのある意味を発生させる関係に注目する概念です。当該「梅花歌」序は種々の漢詩文を引き込んで成り立っていますが、もっと重要かつ明確な先行テキストとして王羲之の「蘭亭集序」の名が早くから挙がっていました。この作品書道の手本として有名ですが、文芸作品としてもたいそう味わい深いもので、「梅花歌」序を書いた旅人知悉していただけでなく、読者にも知られていることを期待したと考えられます。「梅花歌」序の内容は、字面表現された限りでは〈良い季節になったから親しい者どうし一献傾けながら愉快な時を過ごそうではないか。そしてその心境を歌に表現しよう。これこそ風流というものだ〉ということに尽きます。「蘭亭集序」の語句構成を借りてそう述べるのですが、この場合、単に個々の語句を借用したのではなく、原典文脈との相互参照が期待されている、というのが間テキスト性の考え方です。「蘭亭集序」は、前半には会稽郡山陰県なる蘭亭に賢者が集うて歓楽を尽くそうとするむねを述べており、ここまでは「梅花歌」序とよく似ていますが、後半には「梅花歌」序にない内容を述べます。人の感情は時とともに移ろい、歓楽はたちまち過去のものとなってしまう。だからこそ面白いともいえる。人は老いや死を避けがたく、だからこそその時々の感激は切なく、かついとおしい。昔の人が人生の折々の感動を綴った文章を読むと、彼らの思いがひしひしと伝わってくる。私が今書いているものも後世の人にそういう思いを起こさせるのではないか……。

 

 「梅花歌」序には、人生の奥深さへの感慨は述べられていません。続く三二首の短歌も、〈春が来たら毎年こんなふうに梅を愛でて歓を尽くしたいものだ〉(八一五)やら、梅の花は今が満開だ。気の合うものどうし髪に飾ろうではないか〉(八二〇)やらと、呑気な歌ばかりが並んでいるのですが、そしてそれは、旅人大宰府役人たちの教養の程度を考慮して、「蘭亭集序」を理解したうえで作歌することまでは要求しなかったからでしょうが旅人自身は「蘭亭集序」全体の文脈をふまえて歌群を取りまとめました。その証拠に、上記「員外思故郷歌」は

  わが盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまたをちめやも(八四七)

   ……わたしの身の盛りはとうに過ぎてしまった。空飛ぶ仙薬を服用しても若返ることなどありえない。

  雲に飛ぶ薬食むよは都見ば賤しきあが身またをちぬべし(八四八)

   ……空飛ぶ仙薬を服用するより、都を見ればまた若返るに違いない。

というのです。人は老いを避けがたいという内容を引き込んでみせている。

 しかも、ここには強烈なアイロニーが発せられてもいる。旅人にとって平城京はもう都でないのも同然で、「都見ば」という仮定自体が成り立たなかったからです。

 

 都はどうなっていたか皇親勢力の重鎮として旅人が深い信頼を寄せていた左大臣長屋王――平城京内の邸宅跡から大量の木簡発見されたことでも有名な人物――が、天平元年つまり梅花宴の前年に、藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の画策で濡れ衣を着せられ、聖武天皇皇太子呪い殺した廉で処刑されるという、いともショッキング事件が持ち上がったのでした。この事件は後に冤罪と判明するのですが、当時から陰謀が囁かれていたでしょう。旅人もそう強く疑ったに違いありませんが、遠い大宰府にあって切歯扼腕するよりほかなすすべがなかった。『万葉集』の巻五は作歌年月日順に歌が配列されているのですが、梅花歌群の少し前、天平元年のところには、旅人藤原房前に「梧桐日本琴」を贈ったときのやりとりが載っています事件は二月、贈答は十月から十一月ですから、明らかに事件を知ってから接触を図ったのです。〈君たちの仕業だろうと,察しはついているが、あえてその件には触れないよ〉〈黙っていてくれるつもりらしいね。贈り物。はありがたく頂戴しましょう〉と、きわどい腹の探り合いを試みている――あるいは、とても太刀打ちできないと見て膝を屈したとの見方もありえるかと思いますが、とにかく、巻五には長屋王事件痕跡が書き込まれている。

 

 巻五だけではありません。巻三所収の大宰少弐(次席次官小野老の作

  あをによし寧楽の都は咲く花のにほふが如く今盛りなり(三二八)

は、何かの用事でしばらく平城京滞在し、大宰府に帰還したときの歌でしょうが、『続日本紀』によれば老は天平元年三月、つまり長屋王事件の翌月に従五位上に昇叙されていますから、たぶんこのときは都にいて、聖武天皇から直接位を授かったのでしょう。すると、大宰府に帰った老は事件後の都の動向を旅人らに語ったと考えられる――そういうことが行間に読み取れるのです。また巻四には、長屋王の娘である賀茂女王大宰府官人だった大伴三依との交情が語られていて、三依は事件に憤慨しながら大宰府に向かったようです(五五六)。さらに巻六。歌を年月日順に配列する中で天平元年に空白を設け、直前に、長屋王嫡子事件ののさい自経した、膳王の作を配しています(九五四)。

 これらはみな、読者に長屋王事件喚起する仕掛けに相違ありません。偶然の符合にしては出来すぎている。

 

 「梅花歌」序とそれに続く一群の短歌に戻りましょう。「都見ば賤しきあが身またをちぬべし」のアイロニーは、長屋王事件を機に全権力を掌握した藤原四子に向けられていると見て間違いないでしょう。あいつらは都をさんざん蹂躙したあげく、帰りたくもない場所に変えてしまった。王羲之にとって私が後世の人であるように、今の私にとっても後世の人に当たる人々があるだろう。その人々に訴えたい。どうか私の無念をこの歌群の行間から読み取って欲しい。長屋王を亡き者にした彼らの所業が私にはどうしても許せない。権力を笠に着た者どものあの横暴は、許せないどころか、片時も忘れることができない。だが、もはやどうしようもない。私は年を取り過ぎてしまった……。

 

 これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人メッセージなのです。テキスト全体の底に権力者への嫌悪と敵床心が潜められている。断わっておきますが、一部の字句を切り出しても全体がついて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛烈に皮肉っている格好なのです。もう一つ断わっておきますが、「命名者にそんな意図はない」という言い分は通りません。テキストというものはその性質上、作成者意図しなかった情報を発生させることがままあるからです。

 安倍総理政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。一つは、新年号「令和」が〈権力者の横暴を許さないし、忘れない〉というメッセージ自分たちに突き付けてくること。二つめは、この運動は『万葉集』がこの世に存在する限り決して収まらないこと。もう一つは、よりによってこんなテキスト新年号の典拠に選んでしまった自分たちはいとも迂闊(うかつ)であって、人の上に立つ資格などないということです(「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました)。

 

 もう一点、総理談話に、『万葉集』には「天皇皇族貴族だけでなく、防人農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌」が収められているとの一節がありました。この見方はなるほど三十年前までは日本社会の通念でしたが、今こんなことを本気で信じている人は、少なくとも専門家あいだには一人もおりません。高校国語教科書もこうした記述を避けている。かく言う私が二十年かかって批判してきたからです。安倍総理――むしろ側近の人々――は、『万葉集』を語るにはあまり不勉強だと思います。私の書いたものをすべて読めとは言いませんが、左記の文章はたった一二ページですから、ぜひお目通しいただきたいものです。東京大学教養学部主催の「高校生のための金曜特別講座」で語った内容ですから高校生なみの学力さえあればたぶん理解できるだろうと思います

 

【記】

品田悦一「万葉集はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか。」(東京大学教養学部編『知のフィールドガイド分断された時代を生きる』二〇一七年八月、白水社

2019-03-18

anond:20190318153249

俺もそう思うというか、説明されていない部分は各自想像するのも楽しみの一つと思うんだけどw

特に最近は「作品の中にすべての要素が説明されていなければならない」信者たちが行間も読まずに作品を叩くので、気軽に(良い意味で)なんちゃってSFっぽい作品が出てこないのが歯がゆい

日本文学行間を読ませる。洋文学ありのままを読ませる」

なんて事をさ、「物語には全ての内容を入れておかなければならない」と主張する連中がよく持ち出すけどさ。それ、勘違いしてるぜw

文学ありのままを読ませるってのは、別に洋書物語中で全ての内容を表現しているか行間を読む必要が無いからじゃなくて、むしろ説明が不足していて行間を読みようがなくて突っ込めばキリがないかありのままを受け入れるしかないってそういう意味なんだって

ていうか日本語に訳されている本って、少なくとも相当なレベルで「意訳」されているものだし、さらに「超訳」で訳者日本人に読ませるために原書に書かれていない事を追加して補うみたいな事をしている物もあるわけで。

ゾンビランドサガのライブ最高だった

はじめに

私はこれまでライブライブビューイングも行ったことなかったんだが、画面越しでは何度か見たことがあった

そういうアニヲタ結構居るんじゃないだろうか

メディア話題になりがちな陽のヲタクとか、声優好きなヲタクとかではない、「それ以外」のヲタクはかなり多いと思う

理由は長くなるので省くが、ゾンビランドサガはそういう層のヲタク結構刺さったらしい

これまでのアイドルアニメ好きとはちょっとズレた層に刺さった

これは5chやTwitterを1クール以上観察して感じたことだ

※もちろんアイドル好きオタクにも刺さったが、全体の割合体感少なかったと思う

アイドルアイドルアニメについて議論するシーンでも「他見てないか分からん」が多数派だった

 

から今回が最高だって言っても、Twitterで5万ツイートされトレンド入りしたとしても、他のライブと比べてどうたったかという答えは出づらいと思う

でも、視点を変えれば今回は「アニメの一部として」最高だったんだと思う

普段ライブを見ないような人達が最高だったと言っていたら、その理由しか考えられない

 

フランシュシュ中の人)という存在

そもそも、このアニメライブ押しの方針がなかったのか知らないが、歌って踊れる声優は半分と言った所だった

その割に難度は高く、楽曲を収録する際にも音楽担当に何度もリテイクをうけながら作ったらしい

視聴者も「実際にライブやる用じゃないよね」という感想だったと思う

歌うだけでも何度もやり直しを食らう楽曲を、経験が乏しい人が激しいダンスありのライブで歌うのは相当厳しいだろう

しか練習期間は仕事の合間の3,4ヶ月程度しかない

からファン声優ライブはおまけとか記念程度に思っていたと思う、少なくとも私はそう思っていた

12月に行われたサイゲフェスは実際にそのくらいの出来だったし、ファンも内情を理解して「みんな頑張っていたな」という感じの感想だったと思う

それでもアニメそもそも素晴らしかったのと、「頑張っていた」のがアニメ内のフランシュシュと被っていたので十分感動的で好評だったのだけれど

 

そんな中で、今回のライブ

今回のライブはそんな初々しさまみれの状態で行われた、初単独ライブだった

ファンの間では「ライブには何を持っていけば良いのか」「何を着ていけば良いのか」「立つのか座るのか」「サイリウムは買えば良いのか」「どこで買えるのか」「いつ行けば良いのか」と言った初心者丸出し質問が相次いだ

ほとんどがライブビューイング参加だったからというのもあると思う

明確に回答できる者も少なく「俺はこうする」「周りに合わせる」などという腹の探り合いに発展しているのは面白かった

 

当初BD購入者先行抽選で、1000人の箱で行われる予定だったこライブは、アニメの人気によってライブビューイング69劇場の追加が決まり

その後あにてれでの生配信ビリビリでの中国配信まで決まった

運営の柔軟な対応によりファンはこぞって応募し、ライブビューイングはほとんど満席だったらしい

※ちなみに私のBD抽選落選ほとんど皆落選してた(倍率10倍位?)

 

次元の壁を超えるライブ

蓋を開けてみたら、想像を遥かに超えた出来だった

一言で言えば「アニメ再現度の高さ」がすごかったのだと思う

アニメを見ているのか、声優ライブを見ているのか一瞬わからなくなるくらい、というのは言いすぎではない

 

歌声アニメで聞いたそのものだった

ダンスアニメで見たそのものだった

衣装アニメで見たそのものだった

ファンや歓声がアニメで聞いたそのものだった

演出アニメで見たそのものだった

彼女たちの努力アニメで見たそのものだった

チームワークがアニメで見たそのものだった

それを、ストーリーを追いつつ、ストーリー順にやっていく

違うのはせいぜい髪の色と次元くらい

これは錯覚する

完璧実写化がそこにあった

 

思えば伏線はあった

本作のキャスティングキャラクター中の人が似ているように作られている

演技も「できるだけ素に近く」のようなオーダーを受けるくらいで

まり中の人が素で全力を出しても「キャラっぽくなる」わけだ

そして3ヶ月前の、まだ慣れていないパフォーマンスも、思えばまるで本編第三話のようだった

 

でも伏線はあっても現実アニメじゃない

普通は他の仕事がある中、3ヶ月そこらでそんな完璧にはならない

皆そう思っていたはずなのに、彼女たちはやってのけた

しかも作中の曲をほぼ全部やった、3ヶ月前より7曲増え計9曲ある状況で、「すげぇ本物だ!」というくらいまで仕上げてきた

その「行間」がモロにアニメと被ってしまって、1曲目から勝手に涙が出てきた

誰かが「こんなのアニメの続きじゃん」とか言ったが、よもやそんな、昨日までなら一笑に付したであろう世迷い言を首肯する日が来ると思わなかった

 

元々作中の楽曲はよく練られている

「泣けば良いのか笑ったら良いのかよくわからないアニメ」と評されるだけあって

アイドルっぽい曲というよりは、友情努力勝利生き様死生観家族愛応援のような感情を揺さぶる曲が多い

一定パフォーマンスが出せたら、感情を激しくシェイクするようなポテンシャルを持っていたのだが、それが完全に発揮されていた

 

と、この時点で十分絶賛するレベルなんだが、あと何点か追加ポイントを挙げたい

 

新旧アイアンフリルサプライズで出たこ

これは流石に「マジか」と呟いてしまった

だって本編に少ししか出ていない、2期があれば確実に絡むだろう重要存在ではあったが「まさかさないだろう」と思われていた

そのBDしか付いていない楽曲は評判がよく、「出たらいいのに」とはよく言われていたが、練習もかなり必要なわけで・・・

しかもそれに対してファンが「まるで本当にトップアイドルが来た」かのような反応でこれまたアニメと被る

何で君たちBDしか付いていない曲で乗れるんだ、ああ全員BD購入者だった

訂正:アイアンフリルの曲はCDに付いてたんだった

 

作中と同じように「アンコール最後の曲」をやったこ

ファンが居なければ成立しないネタというのは割とあると思うが

これほどまでに本編と綺麗に被るネタは見たことがない

まんま本編じゃないか

こういう、大体100点だなというラインさらに乗せてくるのはゾンビランドサガらしい、多方面から出るアイディアを何故か上手く昇華できてしまっている

 

今回、数曲がフル初お披露目だったこ

かなり歌詞をこだわってくるタイプだったので脳の処理が追いつかなかった

眼の前のライブと、歌詞と、本編とが脳内グルグルグルグルしていた

 

「これからもっと飛躍していきたい」という声優フランシュシュの状況が

本編のフランシュシュと被っていることも面白かった

同じスピードで完全再現していったら絶対面白い(ちょっと追い越しちゃったけど)

 

今回のライブ成功記事になったのだが、作中と同じような写真の構図で記事にしているところがいくつかあった

演者ファンどころか、メディアまで一緒に再現に加担しているのがとても楽しい

 

ライブビューイングは場所依存が激しかったらしいが

私がいた新宿ではめちゃくちゃ盛り上がった

あとやっぱ音響がいい

夜の部は家で見たが、5割り増しで良かったと思う

実況スレ楽しいんだけどね

 

まとめ

まだ語りきれていないが一旦ここまで

とにかくここまでアニメのものライブは見たことがなく、ひょっとしたら今後もないかもしれない

(でも次は佐賀でやるらしいから、また一歩アニメに近づくかもしれない。最後に一つ足りないとしたらたえちゃんだね)

 

全体を通して、とにかくライブの作り手から作品愛を感じた

衣装も極力アニメに合わせるし、「どういうストーリーの中での歌か」という文脈大事にしていた

セトリストーリーのものだし、ファンを巻き込んでストーリーの一部にしてしまうのは上手いなと思った

この求心力はやっぱり本編ありきなんだと思う

 

しませてくれた関係者感謝

お前まじ伝説やん

 

なおライブBDで発売される予定

昼の部最高だったから見て

 

参考

https://zombielandsaga.com/event/detail.php?id=1070824

 

__

 

ところで田中美海はここ最近プリパラWUGとゾンサガで同時にアイドルしてたってマジ?

さすが天才子役(ちがうか)

To my Dearest、指先まできれいだった、2番難しすぎワロタ

2019-03-17

論理的思考だとか行間読みって情報が足りないとできない時もあるよね

あるよね?

2019-03-12

anond:20190312143012

…?

横だけど、この人は一体行間から何を読み取っているんだ?

2019-03-05

anond:20190305185108

悪いけど、警察言葉の方から読み取れる行間部分全無視でこの応答書いてるんだとすると増田自体が「ちょっとおかしい」と思われるぞ。

少なからずもう少し意図を汲めよ……

2019-03-01

anond:20190228125223

まで読んだ構文は行間だけを抜き出してちょっと脚色して返すのが作法

2019-02-24

自分仕事レベルに誰もついてこれない

別にそんな大した話ではない。

当方エンジニア

冷やかしでGAFAスカウトを受けて、3社受かるぐらいの能力はあるから……世界的に見てもきっとレベルは高い方に入るんだろう。

別にプログラミングが出来るとか、ディープラーニングができるとか、ビジネスを拡大してくとか……そういうのじゃないんだよ。

人それぞれ専門もあるし得手不得手もあるだろうしね。

ただ、ちょっとドキュメントを書く時にも、これじゃお客さんわかりにくいから、こう書かないといけないよな、とか

ソースコードでも、ここは行間が詰まってるから見にくいよな……とか、わかるじゃん。

なんで資料作らせて上の行と下の行で微妙に色が違うんだよとか、フォントサイズが違うとか。

別に能力が求められるとかじゃなくって、ちょっとした気遣いというかなんというか、人間として必要最低限っていうか。

そういう細かいところは指摘したくない。

本当に。本当はもっと本質的な話がしたい。

なんだけど、そのあたりをキッチリしてる人を見たことがない。

もう姑みたいな指摘ばっかりするのは嫌なんだ。

お客が馬鹿なのは良い。金払ってるし。いくらでも何度でも丁寧に教えるし。

けど、同僚や部下・上司頭が悪いのは耐えられない。

人と働くのに疲れた

自分自分一人でなんとかなる範囲で生きていくしかない。

2019-02-21

発達障害の妻と結婚して思うこと

発達障害アスペルガーADHDってのは、個人個人で違うから一概にいえないんだけど

妻と暮らしてて思うのは、行間を読めない、ちゃんと言わないと理解できない、雰囲気を読めない。

ってところが強い。

から言葉キャッチボールに気をつける。

これは健常者含め誰にでも気を付けなきゃいけないことだと思う。

ツーカーや察しを人に期待しちゃ駄目。

ところが妻は自分気持ち言語化することは苦手で、さらゼロイチ思考が顕著で、自分雰囲気を察することはできないが健常者ならできるはずという純粋な期待をもっているようだ。

まり発達障害の人に曖昧な指示を出しちゃいけないということは言われるが、逆にあっちは曖昧な指示をだしたり、雰囲気を察して欲しいオーラを出す。

言語化が苦手なんだから仕方ないが、

発達障害の人と接するときにはそこに寛容になろうということはあまり言われていないと思う

anond:20190221102929

増田は「以心伝心」を知らないのかな?

例えば増田京都旅行したとき喫茶店コーヒーを注文したところコーヒーの代わりにお茶が出てきた。これはどういう意味だろうか?

これは考えなくとも分かることだよね。「増田はんみたいなワイルドな方をうちのお店でおもてなしなんてありえまへん! もっと増田はんを認めてくれる店に行ってくりゃんせ」ってことだよ。

そのことは、言葉にせずともお茶を出された時点で増田の頭の中にカッコつきで流れている<テレパシー>だよね。

超能力でも不思議なことでもなんでもないんだ。言葉言葉の中に行間というメッセージがあるように、人と人とのコミュニケーションにはテレパシー普通に存在しているんだよ。

増田上司の人もきっといろんな場面でテレパシー飛ばしていたのさ。でも、増田はそれを受け取れなかった。

からその上司の人も遂にに言ってしまったんじゃないかな?「増田は〇〇も知らないのか?」ってね。

増田アンテナ角度とかが悪かったって事だよ。これは反省しなきゃね。

高校ときの知り合いが自己啓発系にハマっていて

facebookに「イメージすると美肌になりますイメージ大事!」とか「音が入っている水を飲んでいます!」とか「セミナー認定されました!仲間が最高!日々成長!」とかなんとかを書いていて、なんだか物悲しい気持ちになっていました。

行間から、説得や議論で変わるレベルじゃないことは伝わってくる。残念です。

ただ、もう一方で、俺は「気持ち悪いなぁ」「いいぞいいぞ、もっと気持ち悪い話をアップしろ」「奥さんと別居してるのか。まあ、そうだろうな」とニヤニヤしながら楽しんでもいます

残酷物語を、気持ち悪く、怖がっていた俺は、心のどこかで「面白いもっと酷い目にあえばいい!どんどんセミナーに金を突っ込め!」「俺はあんな風に洗脳されなくてよかった」と感じているのです。

すまない。ヨシヒロくん。

2019-02-16

関係性を志向するファンダムのこれから 前

 本稿では、現在の「ファンオタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品概念グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブ言葉として用いる。拡散多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。

1【現代オタクデータベース消費から脱却する】

日常系が売れるのは「関係性」を読み取れるから

 「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数女性キャラ日常生活描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメ2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的ドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみらき☆すた」(2004)や、なもりゆるゆり」(2008)などが代表的ものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語想像して消費することができるからなのではないだろうか。

・「行間を読む」相関図消費の“複雑さ”への萌え

 関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティ担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D3D二次元アバター現実の肉体の動きとシンクロトラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそもYouTuber」の動画には前提とされる物語世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナキャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。

そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNS動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物画像投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダー次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。

まり、「実在人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系関係性」が、液晶内のキャラクタバター動画配信という形態の手軽さにより、オタク関係性消費への志向次元を超えてさらに加速していくと予想できる。

2【やおい文化百合文化から読み解くオタクジェンダー格差

関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味

 前章で関係性消費への志向さら高まると予想したが、本章ではオタクジェンダー格差について女性向けジャンル男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態差異があるのだろうか。

もちろんHL(異性愛文化を扱う少女マンガ少年マンガにおいても恋愛友情ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BLGL文化ではそれ以外の登場人物関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉意味合いについて掘り下げ、BLGL同性愛ファン文化それぞれの特徴から考察してみたい。

・「腐女子特有の親密さ

女性オタク人文学社会学研究に関しては、特に腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的女性性的欲望解放」といった視座からの言説であった。特に腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全領域において、性的表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったもの存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在日本混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。

 今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からマイナスイメージ払拭しようとしたり、イベントSNSでの趣味スラングの共有による特殊連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティ特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物特性セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドレズビアン連続体、ホモソーシャル関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。

・「百合男子」はなぜ流行らなかったのか

 では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望コミケでのゆるやかなホモソーシャル交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツ受け手ジェンダーによって大きくそ意味合いが変化してしま場合があるからである。そして男性GL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別限定されていない。これはGLというジャンル男性けが消費することに対することが上記齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称流行ったのはBLというジャンル女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。

 また、百合コミュニティにおける異性愛忌避姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造腐女子ジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。

関係性消費によるジェンダー越境可能

 こうして述べてきたように、同性愛コンテンツファン構造は非常に複雑で特殊ルールの基に成立している。しかし、上記性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファン異性愛忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物消費者セクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊連帯プラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuber関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuber関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性ペルソナシス女性キャラクタがシス女性キャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象アニメ漫画においても進んできており、創作物受け手ジェンダー必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。

【続きと参考文献リスト

https://anond.hatelabo.jp/20190216024058

2019-02-15

anond:20190215113438

それって、前後対象が明確になる言葉が付いた場合でしょ

がっかり単体で使う場合独白なら自分自身、会話なら相手になってしまうよ

そもそも今回の発言は、がっかりの前に「日本が本当に期待している選手ですからねえ。」があるからがっかり対象がそれになる

そう思われたくないなら、がっかりの前に対象を切り替える言葉を入れるべき

がっかり単体で自分対象にしているなんて聞いたこと無いし、それってまさに悪しき行間を読む文化弊害でしょ

2019-02-13

anond:20190213122336

金メダル候補で、日本が本当に期待している選手なので、(まるで自分の身に起きてしまたことのように)がっかりしている。早く治療に専念して頑張ってもらいたい。また、元気な姿を見たい。

五輪についていえば)1人リードする選手がいると、みんなつられて全体が盛り上がるので、その盛り上がりが若干、下火にならないか心配している(それほど影響力をもった期待されている選手だった)」

そうなんですよ。激励でしかないんですよね。

アラフィフ自己防衛として、この辺の行間を虫食いにしない努力必要なんだってことを痛感しました。

2019-02-04

anond:20190204213856

行動で示せ

心の中で思ってるだけってのは全く意味ない

もっとも。そして全く同感。

ポイントは、その気持ちをどういう具体的な行動で伝えるか。僕が思う良い方法は、既に書いたように「しっかりと共感を示して彼女ハートをグッとつかめ。好きだという気持ちは、言葉行間視線で示せばいい。」ということ。

もう一つ加えると、さりげなく誉めまくれ、かな。

要するに、ひとことで言うと、その女を口説けよってこと。(告白するんじゃなくて)

anond:20190202191209

追記を読んだ。

急に電話かかってきて「○○の声聞きたくて、、、最近つらくてさ、、」とか言われても困る。好きだから

ってなんだよ。なんで困るんだ? そこは喜ぶところだろ。「チャンスだ!」と捉えるべき。

向こうはさぁ、「辛い時に聞きたくなるのはあいつの声だ。やっぱり自分にはあいつが必要なんだ..」とか思い始めてるってゆう兆候なんじゃないの? ここはしっかりと共感を示して彼女ハートをグッとつかめよ。(グッとじゃなくてジワジワでもいいよ)

で、好きだという気持ちは、言葉行間視線で示せばいいんであって、「告白」なんてしない方がいい。(中学生じゃないんだからさ)

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