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の続き
「心が叫びたがっているんだ」を語るにあたって、最も欠かせない部分。それは学園パートではなく、家庭でのシーンにあると思う。
意外に思ったはずだ。学級会議で突然歌い出した成瀬に対するクラスメイトの人間的にまっとうすぎるリアクション。そしてそもそも成瀬のような生徒がいじめられていないクラスという環境。最初の印象は「やさしい世界」そのものだった。
しかし一方で、私はこのクラスの環境について、全くのファンタジーだとも思わない。私自身、近い環境は経験したことがあるからだ。私は高専という5年間同じクラスで学生が生活をし、工業系ということでオタクばかりが集まった中で学生生活を送ったことがある。それがちょうどあのクラスの環境に似ていた。いわゆるリア充やスポーツマン、根っからのオタクなどその中でもカテゴリは存在していたものの、それぞれに学園ヒエラルキーが適用されるのではなく、お互いに棲み分けを行うような形で折り合いをつける。結果、異分子的な存在に対しても特に働きかけることもない一方でいじめのような状況は発生しない(しなかったと思っていると付け加える)。
おそらく「ここさけ」の舞台の学校も、近いような環境、学力的にステロタイプに表すなら、偏差値が高いほうではある一方で、エリート校と言うほどではない奇跡的な案配といったところなのだろうと想像した。
ともかく、「やさしい世界」的に描かれた学校のシーンは、とても淡泊なものとなった。これはいじめ描写を除外することでその他のドラマに描写を注ぐためだったのだろうと思う。(本当は少し違うと思うのだが、後述する)
そのドラマとは当然青春ラブストーリーもあるが、それよりも重要なのは家庭のシーンだったと考えている。
まずは描写も直接的でわかりやすい成瀬の家庭について説明する。
まず、女手ひとつで子供を養うために母親が就いた仕事が「保険の勧誘員」というところ。ある程度年齢がいった女性が中途で採用される職業で、比較的安定しており生活が成立する収入を得られるものとして、典型的なものだ。彼女らの仕事は半歩合制であることが多く、望む収入によって仕事の量が変わってくる。夫婦共働きなら昼間だけつとめれば良いが、一般的サラリーマン並みを一人で稼ぐとなると残業は当たり前で、劇中のように帰りが遅くなることが多いだろう。
そして、母が在宅していない時、成瀬一人で自宅にいるときの「明かり」の付け方。あれもものすごく写実的だ。リビングのうちシステムキッチンの明かりだけつけて最低限の明かりを確保するだけ。ひどくリアルだと感じた。これは単に成瀬の暗い性格を表す演出というだけではなく、親が出かけており子供一人で留守番をしている光景として、典型的なものだと思う。電気代を節約して家計に貢献だとか、そういうことでは恐らくない。単に子供一人にとって、一軒家が広すぎるからだ。どうしても明かりは最低限となり、家全体で見たとき、点々と明かりがぼんやりとついているような状態になるのだ。何も片親だった人だけでなく、夫婦共働きの子供だった人なら思い当たるところがあるだろう。
車の音やインターホン、他人や親の気配を感じてびくりと身構えるあの感じも、そのものを写し取ったかのような正確さだと思う。
片親の親、あるいは子。共働きの親なら胸が張り裂けるような描写であっただろう。
登場人物のうち、自宅の描写があるのは成瀬と坂上だけだが、坂上が昔ながらの一軒家の形式に対して、成瀬の家が異なっていることはすぐ気づくところだと思う。
彼女の家はいわゆる分譲住宅だ。幼少期の描写ではぽつんと一軒成瀬の家だけが建っていたところから、現在では周囲に家が立ち並んでいるところをみると、成瀬の父親は転勤族であり、新しくできた分譲住宅に飛びつくような形でやってきた新参者だったのだと想像できる。
そこでまもなく彼女の意図しない密告により、両親の関係は決裂してしまうことになる。母親は子供を養うために働きに出るしかなく、自動的にご近所づきあいは破滅的に。地域性というバックボーンがない新参者のために、塞ぎがちになった成瀬に対しても「近所のガチンチョ」だとか、「面倒見の良いおばちゃん」のようなケアは存在しなかった。
建物一つの描写をとっても、このように彼女が今に至るまでで、そうなってしかるべきであったという状況が、写実的に示されているのだ。
この状況は、成瀬本人にとってはもちろん、母親にとっても過酷だ。母は成瀬に対して辛く当たるひどい親として描写されてはいたが、彼女の立場に立ってみれば、同情を禁じえない境遇といえるだろう。
坂上家で成瀬の母が「娘がおしゃべりで電話代がたいへん」なんて見栄を張っている描写もあったが、恐らく彼女は仕事場でも同じ嘘をついている。
典型的な母親のつく仕事である「保険の勧誘員」という職場において、子供の話題というのは避けて通れないものだろうから。
「心が叫びたがっているんだ」という映画。うわっつらはありきたりで平和な青春ラブストーリーであるが、このように少し掘り下げるだけで緻密で残酷な描写がちりばめられている。
しかしこれだけではない。行間に隠されてはいるが、物語の読解に重要なもう一方。勝るとも劣らない残酷な描写がある。
それはもちろん坂上の家庭環境だ。
坂上は父方の祖父母の元で生活している。そこは父親の実家であり、本宅でもある。しかし父親は家には寄りつかず、事実上は別宅みたいな扱いになっている。坂上の両親も成瀬の家庭と同じく離婚しており、母親が居ない片親の環境。子供の世話は父の両親、坂上からすれば祖父母に任せっきりだ。
以上が物語上で語られ、描写された内容ほぼすべて。祖父母が居ると言うことで、成瀬の家とは異なり暖かい明かりに包まれており、表面上とても平和に描写されているし、事実、平和なのだろうと思う。
しかしこれらの「行間」には、特に現役の父親にとって、致死量のカミソリが仕込まれているのだ。
それは、直接的には描写されない坂上の父親の影を追っていくことで明らかになっていく。
まず、成瀬が初めて坂上の家を訪れたとき通された父親の部屋。あれで一気に、坂上の父親の像がはっきりする。
普通の一軒家に見える家屋の二階に突如出現する、完全防音の音楽室。典型的な趣味人の部屋だ。防音設備など普通のサラリーマンでは考えられないような出費を伴うものだ。そもそもがあの家自体、広大な土地がある北海道において「坪庭」など、まさに道楽者そのものだと言える。※坪庭というのは家屋の中に四角く切り取った庭をこしらえたもの。本来は土地の限られた京都などのような所でふさわしいものだ。
そこから推測できる父親像はつまり、かなりの収入を得ている人物。さらに推し量ると恐らく音楽関係の業界人。それも相当名の高い人物と考えられる。
坂上は幼少期いやいやピアノを習わされた。しかし次第に夢中になり、ピアノに専念したいから私立校に進学するのはいやだと母親の勧めを突っぱねることになる。彼を擁護する父親、反対する母親。それが坂上の両親の離婚の原因になったという。しかし言葉の上では確かにそうかも知れないが、少なくとも現代の日本において離婚はまだそこまで軽々しいことではない。子供の進路についてもめることはどこの家庭でもあることだし、私はそこまで致命的な問題ではないと思う。
恐らく坂上の母親は、その件がきっかけで堪忍袋の緒が切れたのだ。家庭を顧みず、父親ではなく趣味人としてしか生きない男に。
男の片親。子育てを彼の両親に一任して自分は仕事に専念する。頼れる両親の健在な父親にとって、至極妥当な選択かつ、リアルなものに感じる。恐らく音楽の業界人ならば、仕事は都心のことが多いだろうし、それは当然家庭にほとんど寄りつかなくなるだろう。それに、当人にしてみれば、苦言を言う妻という存在がなくなり、以前よりよりいっそう父親の任を感じることなく趣味の延長のような仕事に没頭できるようになったのだ。坂上の祖父母はとても温厚だ。孫相手だというのもあるだろうが、坂上父のこれまで推察した人物像から考えれば、彼もまたこの二人に甘やかされて育ったのだろう。
今の彼は、もう一度独身貴族を楽しんでいるような感覚でいるかも知れない。「お子さんいるんですかぁ?信じられなぁい」なんて言われたりして。
父親が習わせたピアノで、坂上は母親を失うことになった。少なくとも表面上の因果的には。
しかし恐らく、父はそれについて罪の意識は抱いていない。そもそも、ピアノを教えたことが正しかった、間違っていたの葛藤すら抱いていないと思う。
ピアノを習うことは彼にとって当然だからそうしただけのこと。彼は自分が息子に与えた影響というものを全く意識していないのだろう。そもそも、父親としての自覚が希薄だから。
息子の坂上自身について考えてみよう。公式サイトにおいての彼のキャラクター紹介はこうだ
まるで平凡で人畜無害な子供のような説明になっているが、本編を見れば明白なとおり、事実とは真逆だ。
まずクラスでの立ち位置。無口でエアー的に振る舞う様は説明の通りではあるが、実行委員に選抜されたあと、坂上は学級会議の司会を堂々とつとめている。それを受けてのクラスメイトの態度、そして平時からのDTM研での扱い。これはいわゆる「表立って目立つタイプではないが一目置かれてるタイプ」の生徒のそれだ。成瀬や仁藤を除いても、もう一人や二人くらい、彼を思っている女子がいてしかるべき立ち位置に彼は居る。これは上で説明した彼の家柄によるものと考えることもできるが、彼の振る舞いを観察すれば、なんとなく推測できるところがある。
まず、その人格が常軌を逸している。言うなれば英雄的なところ。
完全に異常者である成瀬に対して、彼は最初から一切、一ミリも物怖じすることなく接した。普通にできることではない。彼の異常性というか、異端、あるいは抜きんでた人格を表していると思う。
「やさしい世界」のクラスメイトも成瀬に対して差別的な態度はとっていなかったものの、進んで接触するようなことはそれまでしなかった。
そのハードルを素知らぬ顔で乗り越える。というより、彼自身の異常性のためその特別さに気づいていないだろうところ。彼が一般人とはかけ離れている描写だと思った。
そして音楽の才能。
彼は「作曲はできない」と謙遜してはいるものの、ミュージカルの曲目において、それぞれのシーンを象徴する完璧と言える選曲を行った。そして即興でクラシックのマッシュアップさえしてみせたのである。それも、もう一つの結末の案を成瀬から聞いてたった数秒の逡巡の後にだ。才能があると言うほか無い。
つまりそこに集約される。クラスから一目おかれ、常人離れした振る舞いをし、音楽の才能がある、彼はいわゆる「天才」である。
ここで先ほど挙げたシーンに立ち戻ることができる。
「あこがれのお城」での彼の涙の理由について。
彼はもちろん、彼が説明するとおりの理由で涙した。「坂上拓実」と連呼する彼女の言葉に聞き入りながら。
奇しくもミュージカルの最終幕の歌詞をなぞらえるように、音の上では名前を呼んでいるだけのそれが、「愛しています」と聞こえてくるその芸術性に感じ入って涙したのだ。
言葉はその意味を越えて話し手の気持ちを投影するものなのだと。
あの切迫した状況においてである。天才の感受性と言うにふさわしい。
さて、彼の父親は誰だったか。
音楽業界において有力な人物である。彼もまた、音楽の天才と言えるのだろう。こんな自覚が希薄な男でも、坂上にとって彼は間違いなく「父親」であった。
彼の影響下の元、彼と同じ家庭環境に育まれ、坂上は父親の人格をしっかりと継承しているのである。いくら自覚がなくても、子供は親の影響を受けて育ち、それらを継承してしまう。
ところで、ここまで一切触れることはなかったが、仁藤の人格についても考えよう。
チア部のリーダーで責任感が強い。ラストのミュージカルで急遽代役を務める事になったときの態度からも読み取れるように、背負い込み、気負いすぎる性質を持っている。
私には彼女がある人物に重なって見える。
それは成瀬の母親だ。彼女は頼れる両親がいなかったのかもしれないが、どちらにしろよそに頼ることなく、女手一つで子供を育てる選択をした。再婚もせず、もちろん育児を放棄することもなかった。
彼女もまた、責任感が強く、背負い込み、気負いすぎる性質を持っているといえるだろう。
一方坂上はといえば、父親としての役目を全うできない道楽者の生き写しである。
ここまで考えると想像せずには居られなくなる。
彼らが結ばれ、子供をもうけるようなことになったとき、待ち受けている結末について。
そうならないと信じたい。
交流会を通しての経験から何かを得、成瀬や田崎のように坂上もまたその業からぬけだすことができるのだと。
以下は蛇足になる。
ここまで残酷で緻密な描写ができる監督、脚本家というのは何者なのだろう?と考える。もしかしたら、彼、あるいは彼らもまた、過酷な家庭環境で育ったのではないだろうか。そうでもなければ、ここまで緻密な描写など不可能なのではと思えてならない。
そして劇中の「やさしい世界」としてのクラス。部活でもクラスでも一目置かれる坂上の立場。
彼は過酷な家庭環境をもつ一方で、その救いを学校生活に見いだしていたのではないだろうか。
さらに推し量るなら、彼の担任教師の高校教師らしからぬ立ち振る舞い。そして文化祭の主役という立場を、スケープゴートとしてしか捉えない大人びた生徒達。彼の原体験は、大学生活にあったのではないか(あるいは高専?)と想像してしまった。
そして家庭シーンの原体験は成瀬と坂上の家庭の合いの子。きっと彼は「坂上と仁藤」の間に生まれたのではないだろうか。
そして彼は「父」になることを恐れているのだ。
ここまで書いたが、実は以上の内容、ほとんど筆者である私が気づいたことではない。
私はこの映画を、友人たちと連れだって見に行ったのだけれど、そのうちの一人の境遇がまさに、「片親という家庭環境で育ち」「現在父親」というものだった。
彼はその境遇故に、この映画の行間に仕込まれた凶器すべての気配を感じ取り、とても傷ついていた。一方で私ともう一人の友人といえば青春ラブストーリーとしてみていたので平和なものだったが。
彼は「もう二度と見たくない」とは言っていたが、その理由を聞いていくうちに、「心が叫びたがっているんだ」という映画の全体像を捉えることができた。私はこのことにとても感動したので、彼にぜひブログポストするように勧めたが、とてもできないということだったので、許可を得てこの文章を書いている。彼の現在の家庭は幸いにして、父親である彼と母親、両方かけることない家庭を築けている。(今のところ)
しかし彼の反応を観察するに、とても子を持つ親に勧められる作品とは言いがたいのかも知れない。
下衆の勘ぐりが正しいとすれば、この作品はつまり「サマーウォーズ」対抗軸、家庭という環境、父、母という存在を否定し、子供は学校などの社会でその人間性を開花させていくものだと説いたものなのだから。
事実、子供である成瀬に対して救済はあったが、彼女の母にそれはなかった。ミュージカルのシーンは母への救済と取ることもできなくはないが、今の私には罪と向き合い自分の無力さに泣き崩れる母親に見える。
ともあれ、ここまで読み解いてみてつくづくこの映画の凄さ、恐ろしさを感じる。
「青春ラブストーリー」としても、「核家族ホラー」としても、核心の部分をすべて行間に潜め、合致する感性を持つ人、あるいは何度も繰り返し視聴した人が、ここまで深く読み解くことができる作りになっていることがだ。
「心が叫びたがっているんだ」は傑作というほかない。
「心が叫びたがっているんだ」を観てきた。てっきり平凡な青春ものの作品だと思っていたら大間違い。一筋縄でいかない緻密な描写に裏付けられたとんでもない傑作だった。 この作品...
最後の章をぶつ切りにするところがホラーっぽくって非常に良い。
ここさけとやらを全然知らないんだが いわゆるリア充やスポーツマン、根っからのオタクなどその中でもカテゴリは存在していたものの、それぞれに学園ヒエラルキーが適用されるの...