はてなキーワード: 近いうちにとは
先日彼女と、とある彼女の悩みについて話をする機会があったのだが、話の終盤で「お前の言っていることは間違ってはないが、共感力がない」と怒られてしまった。
彼女曰く、特に自分との話を通じての「解決は求めていない」そうだ。
その日の別れ際には「人間味がない」という軽い人格否定までされる始末である。
その後、自分なりに本件について思いを巡らせてみた。
今回の件はいわゆる、「解決脳」と「共感脳」の差異によるすれ違いである。
会話の中で、男性は問題を解決したがる「解決脳」を持つ傾向が強く、女性は相手からの共感を求める「共感脳」を持つ傾向が強いってやつ。
自分は会話の中で、相手の悩みを解決する方向で無意識に話を進めた結果、それが相手が求めていた反応ではなかった。
これについて色々ネットで調べていると、以下のポストがヒットした。
妻が外出先で他人から理不尽に怒鳴られる災難に遭い、帰宅後夫にそのことについて話したところ、「そういう人いるよねー」「気にしてても仕方ないしはやく忘れなよ」という返事をされ、妻が怒り出すという内容である。
https://x.com/11yc4/status/1628335494248673281?s=20
妻の言葉に対して「はやく忘れなよ」という解決方法を提示した「解決脳」の夫と、「つらかったね」と言ってほしい「共感脳」の妻の対立構造であり、今回自分が遭遇した件と同じ構造である。
本ポストを自分が初めて見て抱いたとても正直な感想であるが、夫に多少同情してしまった。
確かに、「はやく忘れなよ」という趣旨の発言は余計な感じがするが、「そういう人いるよねー」は、相手を否定しない、夫なりの寄り添いの言葉だという認識だったため、軽くショックだった。
しかし、私の反応とは裏腹に、妻に同情する声が大半であり、夫に対しては非難の嵐である。
反応者の層が偏っていてこれらの意見が世論を代表するものでは必ずしもないのであろうが、中々の恐怖である。
ちなみに、自分と同じ感想(「そういう人いるよね-」という夫の発言はある種の共感なのでは?という感想)を持って本ポストにコメントしている人もいたのだが、「お前の共感性は欠如している」「夫はそこまで考えてねーよ」といった素晴らしい反論コメントがいくつかついていた。
この後も色々ネットの海を彷徨いながら自分なりの考えを整理していたのだが、どうにもこの手の話題については、「じゃけん解決脳側は気をつけましょうね~」的な論調の意見が多く、男側の擁護をする声は少ない。
正直男側からしてみたら超理不尽な話だと思うんだけど、世の中の男性は皆耐えているんでしょうか・・・?
この件を男女逆にすると、「女との会話の中で男の納得いく解決方法が見つからなかったので男が不機嫌になった」ということになり、当然男はやべーやつ認定されてしまうのだが、
「男との会話の中で女が期待する共感の言葉を投げて貰えなかったので女が不機嫌になった」というのは平気でまかり通るのだ。
男には厳しい時代であるなーというのが正直な感想だが、こういうことを言うとまた「共感性の欠如ガー」と言われてしまいそうだ。
そんなこんなで一通り思いを巡らせてみたものの、本件についてはモヤモヤが残る結果となった。
職業柄もあり、理にかなわない事が嫌いで許せない性分なので、どうしても物事を理論チックにあれやこれや考えてしまい、
「共感脳」側の主張は理解できるものの、その主張で「解決脳」が割を食っているように見えてしまう。
が、人と付き合う以上、これぐらいの理不尽は目をつぶって歩み寄るスキルがないとダメなこともあるだろう。
苦しい部分もあるが、頑張って割り切ろうと思う。
続き
その後、何人もの弁護士と話しまして「非常に有利」「相手(中国籍の男性)にできる事は少ない」と言っていただいたもの、「裁判に勝っても差し押さえできない」「そもそも彼の中国の住所にいるの?」「その住所は本物?」と、実質、泣き寝入りするしないと言われています。私はもう生活もできません。守るべきものも守ることができません。
脅迫行為に関しても警察に相談していますが、日本の警察がどこまで対応してくれるかわかりません。きっと、誰も私を助けてくれません。恐らく私は近いうちに、もう生きてないと思います
この件に関して「これがチャイナリスクだ」「これが中国人のやる事だ」と言う方も言うかもしれせんが、そういう問題ではなく、彼の手口を使えば、誰でも同じ被害にあう可能性があり、私がいなくなった後でも、誰かの役に立てればと情報を残せればと思います。
この件に(以下同文なので省略)
最後になりますが、私が脅迫に負けて命を絶ったとしても、唯一の心残りは家族です。どうか助けてくれる方がいましたら、助けてください。
エイレーン
私夢を見たの。
銭湯に行く夢。
ずばり銭湯に行く夢。
お師匠さんが私の頭の上に手をかざして、
そして、
潜在能力が引き上げられた私は
目を開け立ち上がり、
おお!私にもまだこんな力が残されていたのか!ってなるの。
さらに、
私が修行中にさらに負荷を加えるためにリストバンドの重りを付けていたものを外すの。
ドサッ!ドサッ!
その重さ約2トン。
ってそれは潜在能力!
たぶん
私の憶測に隠れたり見え隠れたりしている銭湯欲がふつふつと文字通りお湯のように湧いて出てきているのよ。
銭湯行こうかなー!って
それこそ帰宅中駅を降りて下車して2分で飛び込める、
まさにサトウのごはんをも彷彿とさせるぐらいの便利な立地にあったんだけど、
残念だわ。
そんでね、
その夢は
初めて行く銭湯で
のれんに私は暖簾に腕押しで大将やってる!って言いたいところだったけれど、
夢なのでそんな自由自在に動き回ることも出来ず
ただただ暖簾に書いてある営業時間が読めて14時からオープンとのこと。
夢の中ではもう回転していたわ。
それこそ私は夢の中だったので入店時に飛び込み前転することすら忘れていたけれど、
気持ちはそう心の中では飛び込み前転を忘れることなく入店したの。
なんか500円玉をだしていくらかお釣りが返ってきたからそのぐらいの値段だったのね。
そして脱衣所。
ロッカーが無いの。
みんな床にカゴもない感じの床にカゴすらもなく床に脱いだ物とかに持つとかが、
とりあえずの個人個人の領域の持ち物かなって分かるような形でギュッと固められておいていて、
お財布とかは番頭さんに預けておこうかなーって思ったの。
そこで目が覚めたのよね。
本当にリアリティーのあるリアルな銭湯の夢でリアルに行きたくなっちゃったわ。
これは行かねば!って
私がその近くの行動圏内にあるみかんの花咲く丘公園前駅の駅前の商店街にある銭湯はなくなってしまったものの、
他にはまだ遠くに歩いてはいけない距離ではないぐらいの距離の銭湯が何軒かあるから
そこも巡って行っていたところなのでそこにして行ってみようかなぁーって。
もう番頭さん私の顔忘れちゃってるかも知れないぐらい久しく行ってない季節なのよね。
ちょうどさ、
こないだ足が浮腫んで困っている話をして
サウナにでもかーんと行って汗流すために浮腫み解消の糸口になればって思っていた矢先の3本の矢も薪にして焼べたいぐらいお湯を温めるべくその銭湯に行かなくちゃって、
そこで終わっていた私の思いを
沸き上がるお湯のように!
追いつかないぐらいな追い炊き家庭風呂は
圧倒的湯量とパワーと温度をも持ち合わせる迫力があるのよね。
そしてそして
文字通りお湯を贅沢に文字通りの湯船の湯を湯水のように使う!って
ああーそう思うと
やっぱり贅沢わよね。
銭湯って。
だいたい感謝!
だから私はそんな夢を見たんだわ。
そこは朝からやっているというパワー系のコンビニの営業時間7時から23時までをもしのぐそれなんてセブンイレブンって言っちゃいたいような営業時間の銭湯があるにはあるけど、
人がパンパンなのよね。
それ以来行けてないけれど
今は事情が変わっている二乗のべき乗を思うほど状況が変化しているかも知れないので、
あと事務所のもう一軒近くにあるところは夕方からオープンだけど人も少なくて普通の銭湯だからこっちも穴場かも知れないわ。
でも海外のインバウンドのお客さんがもし多かったらっても思うし、
まあ暖簾を勇気を出して腕押しして大将やってる?って勢いで飛び込み前転して入店するぐらいの勇気は必要かも知れない。
夢の中で私に力を与えてくれたお師匠様の私の銭湯能力が無駄になってしまうわよね。
銭湯に久しく行ってないのでこれは予知夢だと言うことの逆夢か正夢か分からないけれど銭湯の意識は無意識のうちに感じ得ていたものなのでやっぱりいざ行かなくては行けない山脈に向かってヤッホー!って叫ぶのよ。
よし!
近いうちに行くぞ!って
思うけれど、
行けたら行くようにするわ!
行きたいという気持ちはあるのよ!
うふふ。
あっさりとでもその存在感のあるタマゴの味を堪能できる味わい。
私は本当はタマゴサラダで溺れたいほどの味わいを楽しみたいわけなんだけど、
なかなかそうはいかないタマゴ事情もあるのは分かっているのよ。
でもその状況の中でも
絶え間なくタマゴサンドイッチやこのタマゴサラダパンを供給し続ける生産体制にはあっぱれよね。
またストック買ってこないと!
と忘れないように買い物リストに記し記ししておかないとね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。
私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。
同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。
同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。
佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。
馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。
ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。
元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。
なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。
10.おわりに
これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。
大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。
ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。
ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。
この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)
文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。
〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。
改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。
註
(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。
(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。
(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。
(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。
(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37
文春に書かれてたことが事実かどうか知らないので、それについてはここで書く気はない。
それとは関係なしに、松本人志がここで芸能界から退場するのは悪いタイミングではないとおもう。
松本人志が好きだ。中学生の頃はごっつええ感じにドハマりして、VISUALBUMも他のライブVHSも観た。
発明将軍もDXもガキの使いもひとりごっつもワールドダウンタウンも好きだった。
今でも水曜日のダウンタウンやクレイジージャーニーは毎週観ている。
好きだけど、いや好きだからこそ、ここらへんで退場してほしいと願っている自分もいる。
子どものころはたけし城とか平成教育委員会とか世界まる見えとかを見ていて、当時たけしはすでにピークは過ぎていたんだろうけどそれでもおもしろくて、バイク事故を起こしたときは心から復帰を願った。
そんなおもしろいたけしの姿を知っているからこそ、今の姿は見ていられない。
ぜんぜんおもしろくなくて、そもそも何を言っているのか聞き取れない。たけしが衰えたのもあるけど、それ以上に時代が変わって取り残されてしまった感じがある。
でも、それはしかたない。衰えは誰にもやってくる。
見ていられないのは、たけしが言った言葉に対して、他の出演者が一生懸命笑ってあげて、たけしはそれに気づかずに「おれもまだまだやれるな」という顔をしていることだ。
つらい。
完全に裸の王様だ。
欽ちゃんは90年代にはもう完全にコメディアンとしては時代についていけていなくて、子どもながらに
「この人、周りが持ち上げているから昔はすごかったんだろうけどぜんぜんおもしろくないな」と感じる人だった。
今、その欽ちゃんのポジションにビートたけしがいて、近いうちに松本人志がそうなりそうになっている。
いや、すでになりかけている。
すべらない話とかIPPONグランプリとかキングオブコントの審査コメントとかは特に顕著で、彼のぜんぜんおもしろくないコメント(ダジャレレベルのコメントも多い)に対して、周囲が一生懸命笑ってあげている。
そりゃあ全盛期だって打率十割ではなくて外すことはあったけど、昔だったら浜田が無視したり睨んだりしていたのを、今は後輩芸人が一生懸命笑ってあげている。ああ、こうやって裸の王様って作られていくんだなあと悲しくなる。ビートたけしもたけし軍団がいたから余計にそうなっちゃったんだろうなあ。
今後もどんどん衰えは加速していくだろう。
60歳にしてはすごいことやっているとはおもうけど、彼も衰え、時代も変わり、実力と周囲の持ち上げ方はさらに乖離していくだろう。
歳をとっても役割を変えて活躍する人はいっぱいいるけど、ビートたけしや松本人志のようにカリスマ性があって「最後のシュートはおれが打つ!」っていうタイプだと何より本人がそれを許さないだろう(明石家さんまも)。
上岡龍太郎のように自分で引き際を決められたらかっこいいけどそれも実績がある人ほど難しいだろうから、今回の騒動はいい引き際なのかもしれない。
老醜をさらす前に引退して「すごい芸人だったなあ」と惜しまれる存在になってほしい、と昔からのファンとしてはちょっと思っている。
久々に会った友人。近況や思い出話から最近見ているYouTubeの話になった。友人が勧めてきたのは「どっこい翔平チャネル」。おれはこう言ったザ・YouTuber的なチャネルは疎く、存在すらしらなかった。
何が面白いのと尋ねると友人は説明が難しいから、とりあえずみてほしいとだけ言ってきた。試しに数話みてみたが、彼が言語化に苦しんでいたのがよくわかった。
どっこい翔平は歌舞伎町の現役有名ホスト。YouTubeを始めたきっかけは詳しくはわからないが、現在は新人・若手ホストの悲喜交々な生態を撮り続けている。どっこいさんは近いうちに独立するために、ホストを採用して教育しているようだった(最近の配信はまだ見てないので、もうすでに独立してるかもしれないが)
ホストクラブが採用する新人はどれもこれも、アレな人物ばかりで、常識はずれの行動言動を面白がるのが、どっこい翔平チャネルのメインディッシュである。成人を迎えているのに、挨拶ができないとか、歯を磨かないとか、風呂に入らないとか、カラコンを数日にわたって外さない、先輩のアドバイスを全く聞かないとか、はっきりいって何処かがずれている。
おれはこの動画を見た時に「何かこんな感じのお笑いを消費したことあるな」と感じた。視聴直後は気づかなかったが、それはとある伝説の深夜番組と同じ種類の笑いであった。
「働くおっさんシリーズ」をご存知であろうか。松本人志が素人のおっさんたちを連れてきてお題を与える。普通であれば番組として成り立たないのだが、不思議とおっさんたちが化学反応を引き起こして、ゴールデンの番組では発生し得ない笑いが生まれた。まずおっさんたちがどこから発掘したのかわからないほど、アレな人々だった。おっさんたちはプライドが高く笑い物にされるのは嫌であり、少しでも自分をまともに見せようと取り繕うのだが、ナニカが漏れ出てくる。「アレ」とか「ナニカ」と抽象的な表現を繰り返してしまっているが、実際言語化が難しいのだ。気になる人はなんらかの手段でご覧になることをお勧めする。
どっこい翔平チャネルは、働くおっさん劇場から多分に影響を受けたのではないかと予想してしまうほど似ている。視聴中に「面白い→果たしてこういう人たちで笑うのは良いのだろうか?→こういう人たちってなんだ。それこそ差別ではないのか」といった罪悪感と肯定が交互に現れるのだ。今後もファンとアンチを生み出し続けるであろう。
ただ、働くおっさんはおっさんたちをピエロとして消費するだけで良かったが、どっこい翔平は彼らを一人前のホストにしなければならない。どっこいさんを擁護すると彼はとても教育熱心であり、指導中に展開するホスト論は筋が通っていて結構面白い。アレな人物たちがどうしても目立ってしまうのだが、見込みのある若手もたまにはカメラの前に現れて、彼らがどっこいの指導を受けてスクスク育つ様子もコンテンツとして充分に満足度が高い。
アレな人物たちは、映すだけで再生数が上がる金のなる木かもしれないが、どっこいさんには勇気を持って方向性を変えて欲しいものだ。
娘が近いうちに同棲するかもと言うので、孫の顔が見たいから3Pしたいということを伝えたら、娘に親族の集まりにも二度と顔を出すつもりはないし実家に帰る頻度も減ると一方的に言われた。声を荒げてはいないけど今までの人生で溜め込んだ怒りをぶちまけたような感じだった。
それは怒りだったのかな。
結婚して子供が生まれて、という、そういう家族や親族がもつであろう期待に応えられない、という「親不孝」感というか、葛藤が
人知れずずっとあったはずで、その苦しみを自分が理解されてこなかったことのストレスとしては、とらえては来なかったと思う。
そう思うと、家族や親族に顔を出しにくくなる、というのは自然なことじゃないかな。
一方的に宣言する形になったもっとも大きな動機は、知らず知らずのうちに期待されるロールモデルによるストレスだっただろうし、
そこから決別する、だからもう期待しないでくれ、そしてお母さんに迷惑がかかるだろうからもう親族の集まりにも顔をださないよ、ということなんだろうと思える。
息子が近いうちに同棲するかもと言うので大人だしあんたの人生だから好きにすれば良いよ、ということを伝えたら、息子に親族の集まりにも二度と顔を出すつもりはないし実家に帰る頻度も減ると一方的に言われた。声を荒げてはいないけど今までの人生で溜め込んだ怒りをぶちまけたような感じだった。
親が望んでなさそうな道を子供が歩もうとするとき、その決別の思いが、
親や親族、あるいはふるさとに対して一時的に強い感情に形を変えてぶつけられたのではないかな。
親が子の幸せをずっと願っている、ということをひしひしと受け止めながら。
中原中也もそうだったし。
【追記】
最初は私たち両親にも反省点もはあるけど、こんな風に言わなくてもとか、ブコメにあるように「いくら親でも息子がゲイと気づくのは無理」とか「(成人してるのに)親に甘えてるんだ、八つ当たりだ」と思っているところがありました。
ただ、息子と同じゲイやセクシャルマイノリティの方でしょうか、
「常にマイノリティに配慮されて甘えた環境で生きてきたマジョリティ様」という言葉を見て、異性愛者である前提でコミュニケーションを取る私達両親を、息子がずっと我慢して空気を読んで受け流してきてくれたからこれまで平穏に、皆と一緒のどこにでもある家庭というのをやってこれたのだということを理解しました。
家の中だけでなく、息子は自分をゲイと自覚したときからずっとどこに行っても「ゲイだと知られたら笑われる、嫌われる」と不安と緊張の中で生活してきたこと、本来安心して過ごせるはずの家でもそれが続いていたであろうことを思うと息子の怒りや悲しみは至極当然だな、と腑に落ちた次第です。
わざわざ辛いこと、言いにくいことを高いハードルを越えて言わせないと息子の家での安心感が得られないという状況をつくっていたことは親として落ち度しかないです。しかも日常の私達の態度から、勇気を出してカミングアウトをしても息子が安心して過ごせる環境を得られるかは不透明だったと思います。
よく勇気を出して彼氏の紹介までしてくれたなあと思います、今となっては。
・これまでの言葉や態度でたくさん傷つけたこと、もしかしたらこれからも傷つけてしまうことがあるかもしれないことを謝罪
・親戚の集まりについてはたぶん息子に「彼女は?」とか親族の子どもを抱っこさせては「子どもは良いだろう?」みたいなことを言う親族がいるのでそこが行きたくない原因と思われるので行かなくて良いこと、時間が経って従兄弟たちに会いたいと思ったらいつでも取り計らうことを伝えた
・どんなときでも息子のことは大切に思ってるし、理解したいし、連れてきてくれた彼氏のことももう一人の息子と思って大切にしたいこと
などなどを送った
既読にはなりました。
返事が来るかはわからないけどそれでも定期的に息子へ思いを伝えていきたいと思います。
【追記おわり】
先週息子がゲイだとカミングアウトして彼氏を連れてきて紹介された。
親ばかかもしれないけど息子は割と見た目が良い方だと思ってたし、ほんとは彼女がいるんだろうなとか思ってたから青天の霹靂だった。連れてきた彼氏だという男の子は優しそうな純朴そうな子だった。
相手の男の子が帰ったあと、優しそうな良い子だったねと伝えた。
息子が近いうちに同棲するかもと言うので大人だしあんたの人生だから好きにすれば良いよ、ということを伝えたら、息子に親族の集まりにも二度と顔を出すつもりはないし実家に帰る頻度も減ると一方的に言われた。声を荒げてはいないけど今までの人生で溜め込んだ怒りをぶちまけたような感じだった。
思春期ですらあんなふうに親への怒りをあらわにしない子だったので、驚いた。今もまだ戸惑ってる。
・好きに生きるも何もゲイやマイノリティが好きに生きられないような社会に産み落とされている
・たまたま彼氏ができたから生きてるけど、そうでもなかったらこの世の中で生きていたいなんて思えない
・子どもがゲイとして生まれる可能性を一瞬でも考えたか?今みたいな社会で子どもが差別されながら生きることを一瞬でも考えたか?
というようなことを言われて、正直考えてなかったけどどんな子でも大切に愛していけると思ったから子どもをもうけたという話をした。
息子には、それは親が子どもに愛情を注げるかどうかの話であって、生まれた子どもが現実をどう認識するかは何も考えていない、子どもというモノがほしかっただけだと言われた。
返す言葉が見つからずどうしようかと考えてるうちに息子は帰っていった。(いま息子は一人暮らししてる)
生まれる子どもが病気や障害を持っているかもとかは考えたけど同性愛者の可能性はまったく考えてなかった。病気や障害があったとして、その子が今の社会でどんな辛い目に合うだろうではなく、親として常にサポートしよう、味方でいようとか自分の目線しか考えていなかったのは事実だった。
きっと息子にとって聞くに耐えないような差別的な発言や態度を何度も取ってたんだと思う。
こんな親と社会で今日まで息子が死を選ばなかったことと、素敵な彼氏に巡り会えていることは嬉しいことだと思う。
次息子に会えるのはいつだろう。
ラーメンTRYにもよく掲載される名店「トイボックス」に向かうことにした。
普通に向かってもつまらないので、浅草駅から降りてお店まで歩くことにした。
しばらく北上し、最後の交差点に差し掛かると、あまり見ないタイプの歩道橋があった。
その歩道橋は上から見るとブーメランの形をしている。そしてそのブーメランは3点で支えられていて、両端が道路脇に。そして接合部は交番によって支えられている。
その歩道橋を登った途端、僕は歩くのをやめて周りを見渡した。
まるで立てないほどの揺れを感じたからだ。
視線を泳がした先には、立ち止まり同じく視線を泳がせていたカップルがいた。2人は手を握り合っている。
暫くして地震ではないことに気がついた我々は、何事もなかったかのようにすれ違った。
歩道橋を降りて、改めてそのブーメラン型の歩道橋の全容を見渡すと、物凄く横幅が広いことに気づいた。そしてあまりにも古くなっている、
詳しく覚えていないが、パッと見た感じ5車線に跨っていた気がする。それにしてはとても造りが脆そうだった。
これは5分前の出来事だ。今トイボックスに並びながら書いている。
とても危険だ。
仕事中、サボれていれば悪くなかったが
そういうわけにはいかないらしい。
私が1時間でやったりしている。
そして、「人数増えたから楽になったよね」と言ってくる。
部下ができて楽できたことなんて一度もない。
わからない、できない、という。
そのコピペすら間違うので指差しして、左クリックと右クリックをしてもらう。
自分でやろうとすると「管理・教育業務を放棄している」と言われる。
私は「能力が低く、管理業務を放棄して、教えるのが下手で、仕事中ずっと遊んでいる」、と思われているらしい。
転職の意思を伝えたら、「お前は馬鹿でカスでクズでゴミで精神病で虚言癖で小学生で新人レベルで発達障害で精神障碍者で」と延々と怒鳴られた。
私にあてがわれたゴミたちは、何か聞かれたら、とりあえず私のせいにするらしい。
公務員は育休制度を利用する人が多すぎて現場が崩壊しているというのはもう有名な話と思うが、民間も育休推進がされているが、頗る評判は悪いし、他の人に皺寄せが来ないわけではないが、公務員のように現場崩壊までは行かない模様
なぜかというと管理職の間で目標未達でも知らねーよ、人事がクソだ、で結束してて、経営陣に対しても人事が導入した育休制度のせいで人が足りなくて目標未達になりましたよ、で経営陣と人事でこの状況どうするか考えろバカ!って姿勢で結束してるかららしい
公務員はどうだ?
人がかけても住民サービスの最後の砦になることが多いから欠員がいようが絶対にサービスを提供しないといけないから、上のようなある意味サボタージュ戦略が取れない
そのためサポートする側が過労で鬱になり永遠に欠員が発生するループになっている