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はてなキーワード: 普遍とは

2018-08-14

anond:20180814021922

哀しいとは思わないな

増田が許容量の広い男だったのは良いことだが、それを普遍化させようとするのは邪悪だと考える

その同調厚手殺される側の人間だっているだろうと言うところにも想像を広げておきたい

狭いアパートピアノさせてたら階下の住人に殺された酷い事件があって

これだけ聞けば犯人まじクソなんだけど、聴覚過敏の障害餅だったって判明したことがあった。

そういう病人にも我慢を強いる同調圧力へと容易に転化しかねないので、増田には同意できないよ。

2018-08-09

無職としての学問

 特に文系において、大学研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。

* * *

 研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。

 例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるもの生活はすべて僥倖支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。

 このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日日本においても、同様である。むしろ人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識たからに他ならないが——に直面している極東島国の方が、研究生活を取り巻く環境過酷であるといえるだろう。

 博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しか低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である

 日本より恵まれ研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単であるしかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマ選択制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである

 当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである

 ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクスそもそも学歴のなかったピエールプルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在であるしかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである

 尤も研究者も所詮人間であるからして、研究のものの「客観性」や科学位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。

* * *

 さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである

 収入がないなどもっての外であり、亡命収監失踪放浪なども、家庭生活とは相容れないものである

 歴史を顧みれば、自死発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。

 できれば平穏無事に、昭和時代理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。

 しか今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームマイカーも持たず、年金制度破綻を前に怯えながら年老いるのである

 もしあなた結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナー無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。

 さら子供がいるとすれば、当然あなた研究生活放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれいるかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)

 多くの研究者たちにとって、結婚出産研究生活首にかけられた縄である

 女性研究者の研究生活性別役割分業的発想や家庭生活に対する支援パートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別役割分業的発想や金銭支援パートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。

 いずれにしろ他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである

 だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である穂積陳重来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するもの定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である

 しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。

 その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。

 実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである

 当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。

 あるいは「家庭」という理想像の崩壊高齢者二人世帯や単身世帯シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体空虚ものになっているという批判があるかもしれない。

 しかし反面で、なお結婚出産経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚出産を前提とした私的領域生活モデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。

* * *

 収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。

 では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。

 前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。

 後者方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラー炭水化物摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活否定しかない。

 研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。

 そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである

 家事労働ワークライフバランス長時間労働問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大であるワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないか低賃金かつやることのない中途半端余暇をもたらすだけである長時間労働改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである

 とにかく、家庭生活の求めるもの根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである

* * *

 では、解決方法は何か。家庭生活問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働女性が支えるという構図が出来上がった。

 しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族から支援収入不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。

 もし家庭生活に関与してから研究生活継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からリソース調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)

 ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソース調達である大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達個人能力に帰せられることで、研究能力とは別にそれに取り組む環境規定されてしまうということである

 この二つの問題解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。

 どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである

 アカデメイアリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティ形成されていたはずだ。修道院のようなものである

 いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なもの国外へ出て行ってしまっている。もう最後タイミングである

 いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。

いや、それとももう、研究生活を諦めるべきなのか。

2018-08-05

anond:20180805140815

女性だけの場所じゃないの間違いだろ

妊娠した女性男性が「自分たちができること」をやるだけなのに対し

女性というかお前は「選挙男性の場」と決めつけるだけなのかよ

自分無力感普遍化させるな

2018-07-24

anond:20180414201932

シン・ゴジラ」に「ステレオタイプな人型」しか見つけられない(多くの観客の)死んだ感性こそが、元増田の一番批判したい点だろう。

「過剰演技」こそが気持ちの悪い誇張に過ぎないものではないのか。そんなのが「ステレオタイプではない人間性の発露」だと思っているのだろうか。そういうリアリティの欠如をなんとかしたくて、庵野は、過剰演技を避け「お涙頂戴の家族恋人ハートフル脚本」を避けて、「ごく普通の人たちのいる普通社会ゴジラがくる話」を描いたんだよ。「シン・ゴジラ」はむしろ元増田理想の一つの現れた形だろう。

シン・ゴジラ」における「人間性」は、過剰演技でなく徹底的にディテールとして表現されていた。深夜の掃除であるとか、おにぎりおばさんであるとか、崩れていく家の中で避難準備する家族であるとか、逃げ遅れた老夫婦だとか、汚れたシャツだとか、ラーメンどんぶりであったりとか…etc。中心人物矢口自体スーパーヒーロー(過剰なキャラ)ではなく、目の上のたんこぶ的な閣僚たちがゴジラに一掃されたらあっさり錯乱して一晩中歩きづめで無口でヒステリックになったりする「ただの青二才」(普通の人)で、非常事態から中心にいるけど当然そんな彼に全部を任せられないので仕事人らが周りを固める体制になってる、そこに(フィクションなりの)リアリティが生まれているわけで、カヨコや泉はもとより、里見(後継総理)、財前(「仕事ですから」の自衛隊の人)みんなが「それぞれの思惑で」矢口に協力していることは、普通映画を見てたら十分感じ取れるように描かれていたと思うよ。何より、ラスト近くで尾頭が「よかった…」と漏らす笑みに、「ステレオタイプではない人間性」を感じ取れないとしたら、相当どうかしてる。それらの演出が「肌に合わない」というならまあ好みの問題で済むが、こういった演出をまるで無視して「全員が指導者命令に従って機械のように動く」というのは、それこそ味の濃い「過剰演技」に慣らされたあまりに底の浅い物の見方ではないかと思う。

増田は、まず自分感性自体がどうかしてる可能性をもう少し疑った方がいいのではないかと思う。「普遍化された演出」によって駄目になったのは、新作映画の方ではなく増田感性の方ではないか

2018-06-29

「続きを表示」「次へ」が心底うざい

日本ニュースサイトや(中身転載)ブログ殆どに装備されてるアレがもう嫌。

最初のページはヘッドラインにも満たない情報しかなくて、あとは広告広告広告広告リンクだけ。

とにかくリロードロードさせて広告費稼ぎたいのはわかるけどあからますぎる。

この手のサイト有用情報/転送量の比率ものすごく低くて空虚すぎる。

最近日本ネットサイトほとんどがこれ、アフィカスと呼ばれる層が普遍化しすぎてる。

2018-06-28

anond:20180628153110

そんなもんは世間認識の匙加減ひとつやんけ

今の世の中が絶対普遍に正しいわけやないんやで?

2018-06-25

anond:20180625141722

同じくです。

思考停止気味の人も多いですからね。

もっとも、妥当に見える結論に飛びつきやすいというのは、場所人種時代を超えて普遍法則だとすると、まあ人のこと笑えないというか・・・

そういう意識持っているか、だけがいかも。

2018-06-24

anond:20180624114250

芸術作品で考えてみなよ

大学生が好みで適当審査した内容が、

本来芸術作品評価と一致すると思う?

本来評価」なるもの観測不能なので、それと一致するかどうか判断すること自体不可能

 

そして、その審査活動価値はあると思う?

その価値って誰にとっての価値

誰にとっても共有されるべき普遍価値というものを私は観測できないので、「誰にとって」をつけないで価値あるかないか判断することができない

 

そもそも価値があるかどうかの問題じゃなくて「容姿だけで選んだら、誰が優勝するか」という話だよね?

その優勝に価値あるかないかじゃなくて。

容姿だけで選ぶなら、誰が優勝するかは評価する個人個人構成依存するのでモデル体型が優勝するとは限らない、が結論ですね。

2018-06-22

anond:20180622172729

消費って言い方は全然しっくりこないんだけど

白人ブルースやるな的なノリで変に普遍化されると私達の文化が変質するからやめてくれって気分はまぁわからんでもない

2018-06-12

何でも数学記述できると思ってるカス理系はそれで宇宙人とでも交信してみろよ

所詮人間しか通じないクソローカル言語ですあばばばばばばばちょ

普遍なんかねえんだよクソがボケ

2018-05-29

懐かし語りはやはり楽しい

人類普遍快楽なのかもしれん

2018-05-28

anond:20180528085739

結局戦争正義考える人達と平和のための戦争をしなければならないという人類普遍問題に落ち着くのか。人間ってつまらんなあ。

2018-04-16

anond:20180416142651

著作権法は神でなく人が決めたルールに過ぎず万物普遍定理などではない

漫画を金儲けの道具に悪用してる漫画家や出版社反省するべき

2018-04-14

anond:20180413223900

まずシン・ゴジラに言えよ

役人自衛隊も全部がステレオタイプな人型で生きてる人間がいない

戦国自衛隊で和子と叫びながら落ち武者がりの農民と戦って死んだ隊員やコイツらの兄ちゃんになると約束したんだと言って離脱する人がいなくて

全員が指導者命令に従って機械のように動くのが気持ち悪かった

KYとか空気を重視して明文化しない土着ルールが横行する国なのにドラマでも映画でも最近日本産の実写は人間が描かれない

おくりびとも苦悩や葛藤が美化された作られた価値観があからさまで寒々しい

アニメ漫画物事単純化してしかもそれが普遍定理であるかのように宣伝して回ったせいだと思ってる

漫画村の毒に毒を持って制されてほしい

漫画が消えてまた数十年経てば桜桃みたいなのが今度は小説でなく実写で出てくるはずなんだ

2018-04-12

アキネイターって陳腐化したよな

昔は、くっそマイナーキャラも知っててすげー、あれだけのヒントでわかるのすげーみたいなすげーだったけど、

今や特定段階まで質問を投げかけてくるだけの存在になってしまった。

が、アキネイターはアキネイターというツールというだけで普遍存在のはず。

なんてことだ、変わってしまったのは使う人間、我々だったのか…

2018-03-07

人間というコンテンツ相対的低下問題友達問題

コンテンツ面白くなりすぎたおかげで

友人や恋人などという「人間」の魅力が相対的に落ちた

人間自体の魅力は昔から普遍だ、あくま相対的に落ちただけだ

 

結果的友達欲しいなーとか思っても

実際に付き合ってみるとそれほど面白くないという不都合な真実に気づいてしま

返って一人で趣味に興じたくなる

普通人間は実況動画バーチャルYoutuberのような「プロの友人」に敵わない

 

とは言え体験型コンテンツは相変わらず人間が居たほうが面白

実は近年は体験型コンテンツが伸び盛りだ

そう考えると、体験型趣味に加えるか否かで「人間に魅力を感じるか」がだいぶ変わってくるだろう

チキささというアセクシャルの質の悪いアライについて

https://twitter.com/c_ssk/status/970995446662377473

"「ショイプ・オブ・ウォーター」を見たアセクシャル友達が「(恋愛映画なのに)理解できたの?」って言われた話が本当につらくて、今これを書くだけでちょっと泣きそうなんだけど、こういうことを問われるのは常にマイノリティだけなんだよね。お前だって半魚人と付き合ったことないだろ!!"

https://twitter.com/c_ssk/status/970995641299042305

"シスヘテロ恋愛ものを見て感動した非シスヘテロは「わかるの?」と問われたり、「わかんないでしょ」と決めつけられることさえあるのに、シスヘテロの観客がLGBTの話に感動したら「これはLGBTの映画じゃない」とか言い出す。いい加減にしろよ。物語剥奪するな。"

チキささの「アセクシャル友達」が文字通り「理解できたの?」と言われたのかどうかは不明だが、そのアセクシャル友達と「理解できたの?」発言人とは一定信頼関係があったことは予想できるし(日ごろからアセクシャルであることを誰彼構わず触れ回ってるなら別だが)、真相は「デルトロといえども恋愛至上主義から自由ではないんだねぇ」「アセクシャルならこの残念さよくわかるよね」という発言アセクシャル側が同意を求められ、たまたまデルトロ好きだったから(日頃の主張も忘れ)不快になった、という程度の話なのではないか

そもそも、ある物語が住む地域人種宗教も違う人々をも感動させるのはそこになんらかの普遍的な要素があるからで、「内観」という、人間情動理解する唯一の手段を働かせるという意味での共感性があるからである。かつての権威づけされた芸術作品には貧困層などは排除されており、その作者やその作品の同時代人たちが考える「人間基本的な条件」が現在よりよほど狭く設定されていたことが普遍の描き方に反映してしまっていた。しかし、現代では大衆化されさまざまなマイノリティ性を含んでもなお、そこに普遍を描くことができ、物語製作は豊かなになってきている。

まり、「人間なら異性に惚れるのは当たり前だよね」と条件づけられていた「普遍」は、現代の人々が同性愛者の存在を広く認知尊重するようになったことにより「同性に惚れるのだって人間だよ」というように拡張してきているのである

ここで「物語からマイノリティ排除するな」という訴えは要するに、「普遍」を描く際の人間の条件からマイノリティ排除するなということであり、「現代社会はアセクシャル排除している」という訴えは、ほとんど全ての創作物が謳いあげる「普遍」に性愛要素が含まれることを撃っているのである。その意義は大きい。「行け!稲中卓球部」で誤解から卓球選抜チームに入った前野が、実際には卓球の実力も熱意もないため、卓球の話ばかりする選抜チームの中で退屈さと疎外感から唐突に「サメの話しようぜ」と言い出す滑稽な場面があるが、アセクシャルにとっては行く先どこもに恋愛選抜チームが結成されている状況であり逃げ場がなく、前野とは違うのである

ここで「シェイプ・オブ・ウォーター」に戻ると、そもそも恋愛映画であるが登場するのは半魚人である。繰り返すが、人間には情動理解する手がかりが自分自身しかないため、動物けが登場する作品においてさえ、動物人間が化けたように子の死を嘆き、群れからはぐれれば孤独を感じるように描写される。これは「動物性の剥奪だ」と非難する事すらできるだろう。動物のことはわからないのだから勝手に当てはめるなとも言えるだろう。2008年ディズニー映画「WALL-E」は、荒廃した惑星でただ一体動くロボット主人公だが、その主人公物語中で「女性の」ロボット出会い彼女との性愛関係志向するようになる。遠い未来ロボットであってもヘテロセクシャルなのか! と当時ディズニー物語製作には大いに落胆させられたものである

シェイプ・オブ・ウォーター」も物語構造の核としてシスヘテロ恋愛しかなくこの種の批判は免れない。アセクシャルの友人が批判コメントを求められることはありそうなことだ。

チキささは「お前だって半魚人と付き合ったことないだろ!!」と言うが、半魚人と付き合ったことなくても、自身シスヘテ恋愛経験拡張して半魚人と付き合うことまで理解してしまえるのが「普遍」だし、そこに同時にアセクシャル排除したシスヘテ至上主義傲慢もあるのである

たまたまチキささとそのアセクシャルの友人がデルトロ贔屓なのかもしれないが(おそらく「パシフィック・リム」においてベケットマコ最後キスしなかったことを評価しているクチだろう)、「シェイプ・オブ・ウォーター」は批判するべき作品である

そもそもアセクシャルならヘテロ作品からないでしょ?」なんていう見解は圧倒的少数であり、アセクシャルが戦い、苦悩しているのは「やっぱりヘテロ恋愛には感動しちゃうよね。人を好きになること、これは人類不変の原理なんだよ」というような理路である。実際にそんなリプがついている。こんな藁人形叩きに近いツイートが大きな共感を得ているのは、シスヘテ至上主義の側がこのツイートに「救われている」からである。チキささは無能なアライであることを自覚するべきだ。

2018-03-02

労働者生産性なんか気にしなくていいんですと言いたげなクソブコメが集まる昨今、いかがお過ごしでしょうか

面白いのは右だ左だという対立には懐疑的旦那様方も経営者労働者対立普遍の真理として享有されていらっしゃることですかね

2018-02-22

[] #50-7「猫の生殺与奪権」

俺は他種の生き死に対して薄情な人間だとよく言われる。

実際、自分でもそう思っているし、それの何が悪いのかとすら考えていた。

だって命は平等じゃない。

平等だっていう人もいるけど、現実はまるでそうではないだろう。

同じ人間に対してだって、身内の死と、知らない人の死を同じようには思えない。

有名人の死だって、その人のファンだったら冥福を祈りたくても、さして関心のない人物だったらスルーする

同じヒト相手にその調子なのだから、他種に対する命の測り方はよりゾンザイだ。

ほとんどの人間が、皿に盛られた命の残骸に思いを馳せたりしない。

動物や魚を食べるのにも関わらず、イルカクジラとか種類によっては庇護したがる。

ベジタリアンだって植物に情を感じないし、感じていたとしても動物よりは軽いものであることを事実上認めている。

結局、人間推し量る命は普遍でもなければ不変でもない。

どう足掻いても、手前勝手ものしかないってことだ。

だったら、どうすべきか。

出せる答えはそう多くない。


「はあ……俺が飼おう」

俺は渋々といった具合にそう告げた。

みんな驚いていた。

俺の口からそんな言葉が出るとは思いも寄らなかったのだろう。

「ええ!? マスダ、猫が好きじゃないんだろう?」

「厳密には『好きでも嫌いでもない』だ。好きだからといって飼っていいとは限らないように、好きじゃないからといって飼っちゃダメとは限らないだろう」

「でも、他に動機がないじゃん。何で飼おうと思ったの?」

「まあ、強いて言うなら“情にほだされた”って感じかな」

実に勝手理由だ。

だが同じ“勝手”なら、自分の心に従ってマシだと思う方を選びたい。

この猫を人間の都合で殺すことはエゴだ。

だが人間の都合で生かすことも、結局はエゴだ。

何かと理由をつけて、そのエゴを避けられると思うほうが欺瞞なんだろう。

それでも答えを迫られるときがあるから人間はそのエゴと付き合っていくしかない。

そう開き直った俺は、その宿命に身を委ねたまでさ。

馬鹿なことを。その場限りの安易気持ちで、貴様はその猫を生かすというのか?」

「そういうことだな」

「他の猫も殺されそうになっているのを見かけたら、その度に同じ行動をするのか?」

「しないだろうな」

ウサクは呆れ果てている様子だった。

かにこの猫を一匹を助けたところで俺たちの自己満足しかなく、大した意味はない。

それを分かった上で出した、俺の結論だ。

「なんでそこまで、堂々と自分が身勝手人間だと公言できる?」

「まあ、“人間のサガ”ってやつなんじゃねえの」

こうして俺は、人間エゴによって殺されそうになっていた猫を、安易人間エゴでもって「キトゥン」と名づけたのだった。

思い返してみても、まるでドラマティックな話じゃないな。

今でも滞りなく飼えているのが、我ながら不思議だ。


…………

余談だが、俺たちの国では害獣ジパングキャットは、ジパングでは益獣らしい。

ウナギが増えすぎて邪魔なので、それを処理してくれるからとか。

ただ、最近ジパングキャットも増えすぎたので、天敵のジパングースを意図的に放って数を調整している。

猫を殺すほどの獰猛動物を野放しにしていいのかと疑問に思うかもしれないが、ジパングースは寿命が短く繁殖能力も低いため、放っておいたら勝手死ぬという算段らしい。

俺よりも遥かに開き直ったことしてんなあ。

「この国でもウナギが増えたら、キトゥンたちは害獣にならなくなるのかな」

この話をしたとき弟はそう言った。

希望的観測からそう言ったのだろう。

俺はキトゥンの背中を撫でながら、そっけなく答える。

「どっちでもいいさ。それは“俺にとって”重要なことじゃない」

俺たちは人間の枠組みの中でしか押し測れない。

動物相手にどう振舞っても、人間エゴであることを避けられないんだ。

せめてその選択に信念を持ち、相応の振る舞いをするのが関の山なんだろう。

(おわり)

2018-02-17

anond:20180217105704

日本ヒラメ裁判官ばかりだから裁判所判断は正しいと勘違いしてる奴なんているの?

ガリ勉瓶底メガネが、司法試験に受かって、一番楽そうな業種を選らんだだけでしょ?

法律時代の推移とともに変遷していく。法律永遠普遍価値観を反映して、絶対に正しい=永久に変わらないと言える時代そもそもない。法律なんて幻影なんだよ?(歴史を学ぼうw)

バカ支配者の奴隷になりたいやつは、女性専用車両に反対すれば良い。

自分人生の決定権を他人に委ねるロボットは、生きている価値がない=クソつまらない人生を送っているのでは?

2018-02-10

これからの「ウンコ」の話をしよう

おととい「ウンコ議論」という本を読んだ。

邦題ウンコ議論」(原題"On Bullshit.")は哲学科の名誉教授である著者がクソの塊のような議論について分析した本だ。元は1986年エッセイ2005年製本化されたもの2016年に改めて本邦に上陸した形となる。この本の中でbullshitとは「自身の考えについて思わせぶりな態度をとりながら、真理性については関心の中心でないもの」と説明される。「真理性に対する関心の欠如」が「クソ」たる所以だ。嘘と比較すると嘘つきはその発明たる虚偽を真実から導かなくてはいけない。そのため真実を警戒する必要があるが「ウンコ議論屋」は真実とそれ以外の閾を持たない。「ウンコ」は真実でもなければウソでもない。「ウンコ議論」の関心事は何らかの見識を有して誇示することであり、物事の観察ではない。この点において「ウンコ」は虚偽以上に真実の敵となる。

おとといツイッターでこんなツイートを拝見した。

"匿名性と責任を持った良い意見は両立しない。"https://twitter.com/chutoislam/status/961596573883887616

その通りだと思う。女性声優殺害予告でもしない限り責任を問われないのが匿名性だ。内容に関してほぼ何も担保されていない。匿名の誠実な意見など完全なる虚構だろう。

さて、これを受けて、私は完全に便意をもよおした。ここに、もっと大きな問題がひそんでいないだろうか。ネット上のソーシャルな場でコミュニケーションを行うとき特にきわめて個人的話題について匿名意見を交わすとき、われわれは必然的に「ウンコ化」する仕組みの中にいないだろうか。

個別性の強い人生の諸問題にとって一般論普遍論はあまり実用的でない。これは本から引用だが、たしか絶対的大原則が存在するならば他者人生相談などしなくて済むだろう。いっぽう匿名での交流の場ではしばしばプライベートアイデンティティに関わる問題を扱う。これはおそらく解決個人レベルの答えを欲しているのだろうし、匿名は都合いいオブラートだろう。そしてここに問題が発生する。

参加者個人の知見や経験に基づいた倫理的規則をやりとりするのだが、わたし規則実際的にするのはわたしである個別問題対処する規則はそれを駆動させる個人倫理観が不可欠だ。しかしその個人性が匿名ではかくれている。さら問題は続く。情報受取手もまた匿名である。先ほど匿名意見者の誠実さは保証されないと言ったが、仮に責任感のある発信者自身意見を役立てようと思ったならば、匿名の受信者へ向けて倫理的規則一般化する努力を強いられるのではないか。そうすると誕生するのは発信者個人レベルの助言でありながら、発信者自身にとってすら不完全な言葉だ。つまりこのとき、誰もがこの場において「ウンコ」作りに加担し、「ウンコ」をやり取りしていることにならないだろうか。

そしてさらに悪いこと(SNSとかだと顕著な気がする)には、ここに「ウンコ議論屋」が乗り込んでこようものなら、かつて規則だった言葉は主も目的も失って「人生の真理」を誇示する道具として使われはじめるのではないか

2018-01-25

しきフレってなんなの

しきフレがわからない。

別に嫌いではないし、しきフレ話は割と印象に残る良いものも多い。

ただしなぜかわからない。純粋に本当にわからない。

あの二人がなぜ惹かれ合うのか?

なぜ相性が良いように見えるのか?

何をもってして成立しているCPなのか?

どういうものなのだろうか、そもそも相性の良し悪しの問題ではない?

何をどう見て、どのような解釈があって彼女らが互いの距離を縮めるのか。

自分にはうまく想像できない。

どれほどの解釈がある、どれほどの魅力がある、

どれほどの異質さがある、どれほどの普遍さがある

どれほどの志希の心がある、どれほどのフレちゃんの気持ちがある

からない、なぜ、どうして

anond:20180125134528

女性排除されるのは、別に特殊な事じゃなくて人類普遍なことだと思うけど?

イスラムとかもっと凄いじゃん。

日本の女とか普通に甘やかされてるほうだと思うよ。

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