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2018-02-17

anond:20180217105704

日本ヒラメ裁判官ばかりだから裁判所判断は正しいと勘違いしてる奴なんているの?

ガリ勉瓶底メガネが、司法試験に受かって、一番楽そうな業種を選らんだだけでしょ?

法律時代の推移とともに変遷していく。法律永遠普遍価値観を反映して、絶対に正しい=永久に変わらないと言える時代そもそもない。法律なんて幻影なんだよ?(歴史を学ぼうw)

バカ支配者の奴隷になりたいやつは、女性専用車両に反対すれば良い。

自分人生の決定権を他人に委ねるロボットは、生きている価値がない=クソつまらない人生を送っているのでは?

2018-02-10

これからの「ウンコ」の話をしよう

おととい「ウンコ議論」という本を読んだ。

邦題ウンコ議論」(原題"On Bullshit.")は哲学科の名誉教授である著者がクソの塊のような議論について分析した本だ。元は1986年エッセイ2005年製本化されたもの2016年に改めて本邦に上陸した形となる。この本の中でbullshitとは「自身の考えについて思わせぶりな態度をとりながら、真理性については関心の中心でないもの」と説明される。「真理性に対する関心の欠如」が「クソ」たる所以だ。嘘と比較すると嘘つきはその発明たる虚偽を真実から導かなくてはいけない。そのため真実を警戒する必要があるが「ウンコ議論屋」は真実とそれ以外の閾を持たない。「ウンコ」は真実でもなければウソでもない。「ウンコ議論」の関心事は何らかの見識を有して誇示することであり、物事の観察ではない。この点において「ウンコ」は虚偽以上に真実の敵となる。

おとといツイッターでこんなツイートを拝見した。

"匿名性と責任を持った良い意見は両立しない。"https://twitter.com/chutoislam/status/961596573883887616

その通りだと思う。女性声優殺害予告でもしない限り責任を問われないのが匿名性だ。内容に関してほぼ何も担保されていない。匿名の誠実な意見など完全なる虚構だろう。

さて、これを受けて、私は完全に便意をもよおした。ここに、もっと大きな問題がひそんでいないだろうか。ネット上のソーシャルな場でコミュニケーションを行うとき特にきわめて個人的話題について匿名意見を交わすとき、われわれは必然的に「ウンコ化」する仕組みの中にいないだろうか。

個別性の強い人生の諸問題にとって一般論普遍論はあまり実用的でない。これは本から引用だが、たしか絶対的大原則が存在するならば他者人生相談などしなくて済むだろう。いっぽう匿名での交流の場ではしばしばプライベートアイデンティティに関わる問題を扱う。これはおそらく解決個人レベルの答えを欲しているのだろうし、匿名は都合いいオブラートだろう。そしてここに問題が発生する。

参加者個人の知見や経験に基づいた倫理的規則をやりとりするのだが、わたし規則実際的にするのはわたしである個別問題対処する規則はそれを駆動させる個人倫理観が不可欠だ。しかしその個人性が匿名ではかくれている。さら問題は続く。情報受取手もまた匿名である。先ほど匿名意見者の誠実さは保証されないと言ったが、仮に責任感のある発信者自身意見を役立てようと思ったならば、匿名の受信者へ向けて倫理的規則一般化する努力を強いられるのではないか。そうすると誕生するのは発信者個人レベルの助言でありながら、発信者自身にとってすら不完全な言葉だ。つまりこのとき、誰もがこの場において「ウンコ」作りに加担し、「ウンコ」をやり取りしていることにならないだろうか。

そしてさらに悪いこと(SNSとかだと顕著な気がする)には、ここに「ウンコ議論屋」が乗り込んでこようものなら、かつて規則だった言葉は主も目的も失って「人生の真理」を誇示する道具として使われはじめるのではないか

2018-01-25

しきフレってなんなの

しきフレがわからない。

別に嫌いではないし、しきフレ話は割と印象に残る良いものも多い。

ただしなぜかわからない。純粋に本当にわからない。

あの二人がなぜ惹かれ合うのか?

なぜ相性が良いように見えるのか?

何をもってして成立しているCPなのか?

どういうものなのだろうか、そもそも相性の良し悪しの問題ではない?

何をどう見て、どのような解釈があって彼女らが互いの距離を縮めるのか。

自分にはうまく想像できない。

どれほどの解釈がある、どれほどの魅力がある、

どれほどの異質さがある、どれほどの普遍さがある

どれほどの志希の心がある、どれほどのフレちゃんの気持ちがある

からない、なぜ、どうして

anond:20180125134528

女性排除されるのは、別に特殊な事じゃなくて人類普遍なことだと思うけど?

イスラムとかもっと凄いじゃん。

日本の女とか普通に甘やかされてるほうだと思うよ。

2018-01-23

センター国語ばかり槍玉に上げてるけど

センター国語プロ作家が解いても満点取れないとか、そういうことになにか意味があるのだろうか。

まず、入試の科目なんてのはその道のプロ選抜するものではない。

国語に限らず数学でも理科でも社会でも、プロ学者がすべての問題ミスなくこなすなんて無理だろうし、外国語だって場合によってはネイティブミスをするだろう。

入試は、特にセンター試験努力の成果を見るものなのだから、才能があるからと言ってできてしまっては意味がない。ちゃんと"お約束"を知っておくことは、当然要求される。

それに、プロというのは一芸があればいい。例えばプロスポーツ選手だってアマチュア向けのテストではあらゆる能力要求されるが、真の一流選手はいくつかの項目が欠けていても活躍できる。メッシが誰よりも足が速く体力があるわけではない。そういう意味でもあらゆる要素が満遍なく問われる試験というのは、アマチュア向けなのだ

そしてそもそも文学というのは書き手読み手認識が一致しないものだ。書き手意図が何の誤解もなく読み手に伝わるならば、文学なんてもの芸術でも何でも無くなってしまう。だからプロ書き手読み手立場センター試験を解けないのは当然と言えば当然だ。

強調しておくと、読み手立場センター試験、という認識が大切なのだ試験を出題するのは筆者ではない。出題者は、読み手なのだ試験の度に読む題材は異なるが、出題者の姿勢は一貫している。だから受験者に求められるのは、作品の筆者を直接理解することでは決してなく、むしろ読み手でもある出題者を理解することなのだ。

そして読み手である出題者の中には、作品の筆者に対する批判意識も当然あるだろうから、筆者の意図は正解とは関わらない。しかしその出題には連綿と引き継がれている傾向、理論があり、だからこそ受験者も一人の読み手としてでなく、問題の解答者として試験に臨むことができるのだ。

最後に、「文学の読み方に正解はない」という国語試験批判する大義名分は、人間知的営みの根本的な前提を確認しているに過ぎないことに言及しておく。そもそも、どの学問を取っても、普遍の真理には程遠く、最新の理論などと言っても一つの解釈しかない。皮肉なことに、科学歴史恣意的ものだという議論入試現代文に繰り返し登場しているありきたりな話なのだが。

結局のところ、センター試験呈示する「読み方」を疑問視するなら、数学の、自然の、人間の、「読み方」である他の科目も―本当の正解とは限らない。逆に、センター国語の出題の背後にある理論は、他のすべての科目の理論と同様、絶対普遍のものではなくとも一つの体系を成している。その事が未だに十分に認識されていないことは、センター試験の失敗でもあり、今後試験の形が変わっても国語教育課題であり続けるだろう。

2018-01-13

anond:20180113034454

誤訳の指摘ありがとうございました。

以下、ご指摘の点について修正検討させていただきます

✖そのことがマッチョ侵害行為保証することにはならない。

⇒また、女性に対する慇懃な振る舞いを女性を傷つける男性優位の態度と見なすのは間違いです。

さっそく冒頭で私の訳はダメですね。galanterieをgarantirと完全に読み間違えてます

恋愛のお作法に乗っ取った男性からの誘惑の手順ですね。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Galanterie

agression machisteは痴漢行為と訳すのが良さそうです。

violを指す犯罪crimeは殺人と同じくらいの犯罪なので、そのニュアンスの違いは入れるなら、

強姦殺人と同じくらい重大な犯罪だ。しかししつこかったり不器用だったりするナンパ犯罪ではないし、誘惑のお作法痴漢行為とみなすのも違う。

✖正しく意識されるようになった。

意識されるようになったのは正統なことだ。

プロフェッショナルのせかいにおける性暴力だ。

職業生活の中での性暴力だ。

ここは訂正どおりにさせていただきます

✖いわゆる普遍の名の下で、

⇒誰にとっても善いのはこういうことだと勝手に決めて、

(この下りはかなり皮肉な書き方になっていると思います)

公共利益代表者気取りで

✖実際、報道メディアソーシャルネット上で、#metooが巻き起こしたのは密告と、個人個人に抗弁の余地や弁護の余地を与えることなく、性暴力加害者と同じ俎上糾弾することだった。

事実、#metooを通して、報道メディアソーシャルネット上に密告と公の場での告発キャンペーンが発生した。犠牲になったのは、性暴力加害者たちとまったく同じ俎上に乗せられ、抗弁の余地も弁明の余地も与えられない人びとだった。<<

実際の所、#metoo引き起こしたのは、報道メディアソーシャルネット上での密告と公開の場での糾弾キャンペーンだ。槍玉にあげられた人々は抗弁の余地も弁明の余地も与えられず、性暴力加害者と同じ俎上に乗せられた。

✖「豚野郎」たちを屠殺場へ送り込むこの熱狂だが、女性が自立することを手助けるには程遠かった。 実際には性の自由の敵、宗教的過激主義、最悪の反動主義者に利益をもたらすことになってしまった。この反動主義者は、実質的にはヴィクトリア朝モラルのもとで、女性を「別扱いな」存在とみなし、女性保護することを求めながら大人の顔をした子供とみなすのだ。

⇒「豚野郎」どもを屠殺場へ送り込もうとするこの熱病は、女性自律的になるのをいささかも助けない。それどころか、実際にこの熱病から利益を得るのは、性の自由の敵たち、宗教的過激主義者たち、最悪の反動家たち、そして、実体論的な善概念とそれにともなうヴィクトリア朝風のモラルの名において女性一種「別扱いの」存在と、大人の顔をしていながら子供のように庇護されることを求める存在と見なす人びとなのである

豚野郎」たちを屠殺場に送り込もうとするこの熱狂状態は、女性が自立していくことを手助けするには程遠かった。それどころか実際には、性の自由の敵、宗教的過激主義者、最悪の反動主義者、そして善の本質的概念とそれに伴うヴィクトリア朝的なモラルを掲げ、女性を「別扱い」の存在にし、保護されることを求める大人の顔をした子供と考えるような人々に利益を与えてしまっているのだ。

ミケランジェロ・アントニオーニ映画欲望』を「女性差別」で

ミケランジェロ・アントニオーニ映画欲望』を「女性蔑視」で

mysogineはどちらの訳にもなると思われます

✖「女性として振舞うことのトラウマに苦しんでいる」ことを

⇒「女性登場人物たちが被ったトラウマ」を

✖「スイスで提出されている法案

⇒「スウェーデンで提出されている法案

✖「やりりたいこととやりたくないことに」

⇒「してもいいと思うことと、するのはいやだと思うことに」

ここはご指摘の通りです

中指を立てる自由

⇒人の気分を害する自由

この概念攻撃しようとするのは(神や国家指導者のような)「権力」「権威」とそれをアンタッチャブルものにする空気ですので、「人の気分を害する」は避けたいところでした。

彼女給与男性平等に支払われるように注意しているべきだ。しかし、地下鉄痴漢にあっても、それが犯罪からといって、トラウマを植え付けられたと感じる必要はない。

彼女彼女給与男性平等に支払われるように注意することができる。しかし、地下鉄痴漢にあっても、痴漢行為犯罪と見なされるからといって、一生涯続くトラウマを植え付けられたとは感じないでいることもできる。

彼女給与男性平等に支払われるように注意していることができる。しかし、それは確かに犯罪なのだが、地下鉄痴漢に体を触られたからといって生涯消えないトラウマを植え付けられたと感じなくてもよい。

✖評判だおれだったとさえ考えてもいい。

さらには、大した出来事ではなかったと考えることさえできる。

たいしたことは起こらなかったかのようにさえ考えてもよい

女性としての私たちは、自分たちが、力の乱用を超えて、男性たちとセクシャリティへの憎しみという顔をもったフェミニストになることを認めない。

私たち女性として、権力濫用告発することを超えて男性たちとセクシャリティへの憎しみとして表れるフェミニズムに強い違和感を覚える。

女性としての私たちは、権力の乱用を告発することを越え、男性たちとセクシャリティへの憎しみという様相を呈しつつあるこのフェミニズムを、自分たちのものとして受け入れることはできない。

✖ウザがられる自由無しでは上手く働かないと私たちは考える。

⇒ウザがられる自由が男たちの側にあってこそ意味を持つと私たちは考える。

ここは「ウザがられる自由」が男たちの側にあると解釈するのは無理ではないかと思います

性的提案(これはナンパかもしれませんし既に恋人同士の間で行われるものかもしれません)に対して「ノー」という自由は「ウザがられる自由」が無いと上手くたちゆかないということなので、

誘いを受けた側(これは男性であるとも女性あるとも異性愛者の間のこととも限りませんが)にあると考えるのが自然ではないでしょうか?

子供を持つことを選んだ人々のために、

私たちのうちで子供を持つことを選んだ者について言えば、

✖娘たちが気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなどなく、自分人生を精一杯生きるために十分教育されて自覚を持つことが適切だと考えている。

自分の娘たちが、〔性について〕気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなく、人生をのびのびと生きるのに十分なだけの知識を得て意識的になるように育てることこそ適切だと考えている。

私たちの中で子供を持つことを選んだ人達のために、私たちの娘たちは十分に教育され、気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなく、人生謳歌できるように十分な知識を与えられ、意識的であるように育てられることが適切だと考えている。

✖たとえそれが辛く、生涯残る傷を残すものだったとしても、身体を傷つけられる事故にあった女性尊厳を傷つけられないし、傷つけられるべきでもない。

女性身体に関与するアクシデントは、必ずしもその女性尊厳を傷つけるわけではなく、ときにきわめて辛いものであっても、そのアクシデント理由に当該女性を終身犠牲者のように考えるのは必ずしも適切なことではない。

女性の体を傷つけるようなアクシデントは必ずしも彼女尊厳を傷つけるものではないし、ときには極めて辛いものであったとしても、彼女を当然の様に永遠犠牲者としてしまうべきではない。

まだまだ検討余地はあるかと思いますが、ご指摘の点については以上のように。

anond:20180111072916

『[翻訳] ドヌーヴ「女性口説く権利」 全訳』を掲載された方が、"la liberté d'importuner"を「ウザがられる自由」とお訳しになったのはなかなかの技だと思うのですが、惜しいことに、この全訳はかなりの数の誤訳を含み、その結果、多くの箇所で、原文の文意を正しく伝えていません。

 以下、大急ぎで、主だった誤訳箇所を列挙し、元記事http://www.lemonde.fr/idees/article/2018/01/09/nous-defendons-une-liberte-d-importuner-indispensable-a-la-liberte-sexuelle_5239134_3232.html)の正確な読み取りに基づく改訳を提案しておきます。「✖」で誤訳箇所を示します。「⇒」でその部分について、正確であろう訳文の例をを示します。ご検討ください。

✖そのことがマッチョ侵害行為保証することにはならない。

⇒また、女性に対する慇懃な振る舞いを女性を傷つける男性優位の態度と見なすのは間違いです。

✖正しく意識されるようになった。

意識されるようになったのは正統なことだ。

プロフェッショナルのせかいにおける性暴力だ。

職業生活の中での性暴力だ。

✖いわゆる普遍の名の下で、

⇒誰にとっても善いのはこういうことだと勝手に決めて、

✖実際、報道メディアソーシャルネット上で、#metooが巻き起こしたのは密告と、個人個人に抗弁の余地や弁護の余地を与えることなく、性暴力加害者と同じ俎上糾弾することだった。

事実、#metooを通して、報道メディアソーシャルネット上に密告と公の場での告発キャンペーンが発生した。犠牲になったのは、性暴力加害者たちとまったく同じ俎上に乗せられ、抗弁の余地も弁明の余地も与えられない人びとだった。

✖「豚野郎」たちを屠殺場へ送り込むこの熱狂だが、女性が自立することを手助けるには程遠かった。 実際には性の自由の敵、宗教的過激主義、最悪の反動主義者に利益をもたらすことになってしまった。この反動主義者は、実質的にはヴィクトリア朝モラルのもとで、女性を「別扱いな」存在とみなし、女性保護することを求めながら大人の顔をした子供とみなすのだ。

⇒「豚野郎」どもを屠殺場へ送り込もうとするこの熱病は、女性自律的になるのをいささかも助けない。それどころか、実際にこの熱病から利益を得るのは、性の自由の敵たち、宗教的過激主義者たち、最悪の反動家たち、そして、実体論的な善概念とそれにともなうヴィクトリア朝風のモラルの名において女性一種「別扱いの」存在と、大人の顔をしていながら子供のように庇護されることを求める存在と見なす人びとなのである

ミケランジェロ・アントニオーニ映画欲望』を「女性差別」で

ミケランジェロ・アントニオーニ映画欲望』を「女性蔑視」で

✖「女性として振舞うことのトラウマに苦しんでいる」ことを

⇒「女性登場人物たちが被ったトラウマ」を

✖「スイスで提出されている法案

⇒「スウェーデンで提出されている法案

✖「やりりたいこととやりたくないことに」

⇒「してもいいと思うことと、するのはいやだと思うことに」

中指を立てる自由

⇒人の気分を害する自由

彼女給与男性平等に支払われるように注意しているべきだ。しかし、地下鉄痴漢にあっても、それが犯罪からといって、トラウマを植え付けられたと感じる必要はない。

彼女彼女給与男性平等に支払われるように注意することができる。しかし、地下鉄痴漢にあっても、痴漢行為犯罪と見なされるからといって、一生涯続くトラウマを植え付けられたとは感じないでいることもできる。

✖評判だおれだったとさえ考えてもいい。

さらには、大した出来事ではなかったと考えることさえできる。

女性としての私たちは、自分たちが、力の乱用を超えて、男性たちとセクシャリティへの憎しみという顔をもったフェミニストになることを認めない。

私たち女性として、権力濫用告発することを超えて男性たちとセクシャリティへの憎しみとして表れるフェミニズムに強い違和感を覚える。

✖ウザがられる自由無しでは上手く働かないと私たちは考える。

⇒ウザがられる自由が男たちの側にあってこそ意味を持つと私たちは考える。

✖そして私たちは、このウザがられる自由にどう応えていくかを知らなければならない。性的な獲物の役割に閉じこもる以外のやり方でだ。

⇒そして私たちは、このウザがられる自由に対して、獲物の役割に閉じこもる以外のやり方で対応する能力を持っていなくてはいけない。

子供を持つことを選んだ人々のために、

私たちのうちで子供を持つことを選んだ者について言えば、

✖娘たちが気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなどなく、自分人生を精一杯生きるために十分教育されて自覚を持つことが適切だと考えている。

自分の娘たちが、〔性について〕気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなく、人生をのびのびと生きるのに十分なだけの知識を得て意識的になるように育てることこそ適切だと考えている。

✖たとえそれが辛く、生涯残る傷を残すものだったとしても、身体を傷つけられる事故にあった女性尊厳を傷つけられないし、傷つけられるべきでもない。

女性身体に関与するアクシデントは、必ずしもその女性尊厳を傷つけるわけではなく、ときにきわめて辛いものであっても、そのアクシデント理由に当該女性を終身犠牲者のように考えるのは必ずしも適切なことではない。

以上。

2017-12-22

[] 現代っ子

第2次世界大戦後の日本社会に顕著に進行した現象。家制度廃止核家族化,民主的道徳教育の普及,6・3・3制の施行

それに伴う進学率の増加,進学競争普遍化,都市化情報社会化テレビの普及,大衆社会化,経済成長などを背景にして

育ってきた子供たちをいう用語。昔の特に農村や小都市での牧歌的生活のなかで育った子供比較して,その特徴を

きわだたせるのに用いる。 1960年代を中心に盛んに使われた。基本的には世代の子供版であり,そこに知的興味という

余裕がみられたことは否定できない。

  

教師であった阿部進学校の内外を問わず子どもと触れ合う中で「戦前戦後では子ども気質が違う」ことに気が付いた。

発見を元に2冊の本を書き上げると、それぞれ20万部を超えるベストセラーに。

著書で示した「現代っ子」という言葉流行語となった。

https://kotobank.jp/word/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%A3%E5%AD%90-60833

http://www.townnews.co.jp/0110/2013/08/08/199068.html

2017-12-17

anond:20171217000513

数学普遍の真理を扱うが、あくま集団の見る幻想だとも言われることがあるしね

俺も科学あくま科学だと思ってる

ただ、科学に対するリテラシーが欠如していると血液型人格を決めつけたり、水素水をありがたがることになる

また、薄っぺら単語並べただけの"サイエンス"に騙されてしまうだろうね

2017-12-12

今の若者別に賢くなってない

タイトル通り。

ツイッターでも同じような指摘が散見されるが、

風俗パチンコアニメアイドルソシャゲに変わっただけ。

酒も飲まない、と言ってたが最近ストロングゼロへの飛びつき方よ。

タバコ終焉ヒロポン終焉と同じで単なる外的圧力と時勢だ。

バカ底辺とマトモな奴の比率は昔からそこまで変わってない。

昔は外に出ないとバカ向け娯楽は楽しめなかった。あと単純に人口が多かった。

から夕方〜夜の街を歩くだけで、バカ底辺が腐るほど目についた。

今は家に篭ってバカ向け娯楽を楽しめるようになったかバカ底辺が目につかないだけ。

バカ底辺は一生搾取され続ける、これはどの国・どの時代普遍

2017-12-01

anond:20171130190646

ひたすら旅をしたい。気候のいいところをずっと歩いていきたい。

人類普遍の夢だと思っていたけど違うのか…

2017-11-11

anond:20171111230258

なんか今の時代歴史的に見てもかなり特異らしいね

本来は多少ガッシリしてたり肉がついてるのが

普遍の好みだったらしいが

 

たぶん科学化学の発展で食料増産が可能になって、

結果デブった人が多くなりすぎたせいで

糖尿病とかの成人病問題が出てきたか

「私は自制できます、体型維持に努力ができます

っていう事がかなり価値が高くなったせいかもしらん

2017-10-31

anond:20171031124455

そういう面はありますね。

彼らが普遍価値だと持ち上げて日本人をぶん殴るリベラル棍棒ですが。リベラルで無い部分も、彼ら相手にならヨーロッパ的で素晴らしいと持ち上げたりするんだから、何が何やらと…

anond:20171031124245

日本イマイチ活躍出来なかった人が海外活躍してくれても全然構わないし、むしろ良い事だと思っていますが。その経験普遍化して、日本イマイチだったのを日本人国民性海外でうまく行ったのは海外国民性みたいなのん気な『啓蒙』をして下さる一部の方々には辟易します。

日本凄い!的な切り口の番組バカするのが流行っていますが、凄い面を見ればどの国も凄いところはあるので。その手の人は「日本ダメ!」の切り口しかもてなくなってしまっているようなバランスの悪さを感じます

2017-10-22

anond:20171022083613

書いた者です

私も現代の諸問題が複雑になっていて、且つ右左のような立場では割り切れなくなっていると思い、このようなことを書きました。

いっきり整理して、経験主義に基づくか基づかないか、それのみを分類に採用しようと思います

なせならば、教会権威知を否定し、知識を疑いながら信じ、その手法を自ら所有するという科学思考と営みは、経験主義に基づくものであり

敵味方ではなく、個物と普遍眼差しを向けるのは、このような思考からです。理屈っぽく言うと。なお、私は聖書所有主義のようなプロテスタント宗教こちらに含めます

庶民への啓蒙机上の空論、などと言わず科学思考、というか敵味方で善悪判断してしまう傾向論と、個物つまり個人をちゃんと区別すること、などといった根本的なことを疎かにしてはいけないのではないか、と思います

2017-10-19

下手すりゃその作品を初めて読んだのが晴れの日だったか雨の日だったか感想なんて変わってくるものなのに

自分感想が唯一絶対普遍かつ不変の真理だと思い込んでる奴が多いか

己の感性が単に摩耗しただけのことを「業界の変質により近年の作品劣化している」と騒ぎたてたり

たまたま粗が気になっただけのことを「この作品の致命的欠陥に気付かず支持する最近の若者無知蒙昧ガー」と粘着叩きしたりするんだよ

2017-10-08

内輪受け・馴れ合いをこえた面白さを生み出すのは難しい

それでもより広くより真理や普遍に近いそこを俺は求め続ける。

2017-09-05

座禅瞑想

仏教というのは釈迦思想勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。

釈迦のもの荒行否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である

ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。

仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。

痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に人類普遍の発想でもある。

泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである

禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたし道元曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである

道元禅問答批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである

寸陰を惜しんで生きている現代人には時間無駄に思えるかもしれないが、挙動おかしパソコン再起動したほうがいい。

なぜ仏教坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである

坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である

目を開いて、明晰な意識身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。

達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。

われわれは生まれから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。

泰然自若としたポーズを身につければ、内面制御できる。

中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分コントロールするしかない。

ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである

多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。

2017-08-30

座禅

仏教というのは釈迦思想勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。

釈迦のもの荒行否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である

ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。

仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。

痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に人類普遍の発想でもある。

泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである

禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたし道元曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである

道元禅問答批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである

寸陰を惜しんで生きている現代人には時間無駄に思えるかもしれないが、挙動おかしパソコン再起動したほうがいい。

なぜ仏教坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである

坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である

目を開いて、明晰な意識身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。

達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。

われわれは生まれから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。

泰然自若としたポーズを身につければ、内面制御できる。

中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分コントロールするしかない。

ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである

多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。

2017-07-28

ゾイドの生みの親の話嫌い

田中圭一連載】ゾイドが僕らにくれた“無限想像力”――帰還した“生みの親”が次世代に託す「最後仕事」とは?【若ゲ特別回:傑作ロボット玩具ゾイド」】

http://news.denfaminicogamer.jp/manga/170727

これすごくいい話であるかのようにまとめられているけど俺はこの漫画お話嫌い

俺がマスコミ玩具好きで憧れていたのに貶されてヤダというのもあるけれど

テレビキャラクター玩具オリジナル玩具って対立軸を設定すること自体に無理を感じるし

今のゾイドの展開見せといてそれ言うの?ってなる

玩具メーカーオリジナルキャラクター!!」

まず田中圭一の歳考えると1980年から展開のダイアクロンは……というのはおいといて

変身サイボーグテレビキャラの変身セットをあれもこれも出してたでしょ

テレビヒーロー網羅する気だな!って勢いで

あれがテレビキャラクター玩具でなければなんだったんだよ

まあテレビキャラクター玩具よりオリジナルエライだって話でそんな絵は出せないんだろうけど

この時点で欺瞞を感じる

「発売から30年以上経っているのにちっとも古くないデザイン

「「普遍のものさし」なればこそ」

それはモチーフ問題であってテレビキャラクター玩具であるか否かは関係ないでしょ

30年前のトミカプラレールは本物の車や列車デザインが古くなったから古く見える

今じゃレトロって冠が付いてしまうし日本以外ではほぼ通用しない

ここに見た目の普遍性はまるでない

でもトミカプラレールテレビキャラクターではないよね?

もしもゾイドの見た目のデザインが古くないとしたら

それは恐竜動物という各人が持つイメージが古びにくいモチーフ選びやそのアレンジデザインがすごいんであって

オリジナル玩具であること(テレビキャラクター玩具ではないこと)はまったく関係ない

短いページにまとめるためにしても良くない流れ

だいたいにして「玩具メーカーオリジナル玩具」って何を指すの?

オリジナルといいつつもテレビでやってないだけで

作家漫画家ブレインに雇って詳細なストーリーや設定が決められて

幼年ホビー誌とかでジオラマストーリー漫画が連載されてることが多いじゃん?

それってストーリー想像してどうのこうのと矛盾しないの?

あとそういうオリジナル玩具が後からアニメ化されることもあれば

逆にアニメありきで始まった玩具アニメが終わっても玩具だけでずっと続いてることだってあるよね

じゃあ「オリジナル玩具」ってのはどこからどこまでを指すの?

テレビキャラクター玩具」じゃなければ全部「オリジナル玩具」なわけ?

先の変身サイボーグだってオリジナル玩具」のGIジョーテレビヒーローの服を着せるような玩具だけど

じゃあニューGIジョーや変身サイボーグオリジナル玩具なの?テレビキャラクター玩具なの?

俺には両者の境目はとても薄くて企画によっては混ざり合って進行しているように思える

からこの二つの対立軸設定は変だと感じている

テレビキャラクター玩具は「番組が終わったとたんその玩具価値は下が」るという話もあったけど

じゃあろくに展開されないオリジナル玩具価値はどうなのさ

具体的には30年以上の歴史を持っていて最初の7年くらいはアニメ無しで展開してたオリジナル玩具

それから9年くらい休眠して再開時にテレビキャラクター玩具として展開するようになってそれも7年くらいで終わったとこまではまあ良かったのに

そこから今までの10ちょっとで復刻やリメイク企画始動させるも毎回1~2年で展開が終わってしまって

それからちょっと期間を空けてまたリメイク企画を始めて……を何度も繰り返している一方で

この玩具メーカーからライセンスを受けた他の模型メーカーが出しているまったく別のリメイクプラモ長期間ヒットし続けていて

そのプラモ企画が大きくなればなるほどに本家メーカーリメイク企画は埋もれてすぐ終わってしまう負のループに陥り

数少なくなったファン失望させ続けている元人気玩具シリーズ価値はいかほどで?

もう底値で価値が下がりようのない現状を見てもオリジナル玩具最高って言えんの?

アニメから始まってシリーズを定着させて今なお玩具メーカー主導でアニメ無関係世界を広げてる玩具

アニメが無くても30余年の時を経て今復活して展開しているオリジナル玩具がある世の中で

昔すごかったけど今は…なゾイドを題材にオリジナル玩具すごいって言われても説得力がまるで無い

本当に玩具がすごいならマスターピース第三弾や新作玩具の話をしてくれよ

でも実際に動いてる企画スマホゲーでしたとさ(電ファミだからスマホゲーやってないと取り上げてくれないというのはあるけど)

から俺はこの漫画お話大嫌い

2017-07-23

ゾンビアポカリプスが起きても自分なら生き抜ける

という妄想するのが楽しくてしょうがないんだが

なぜ?理由は判然としない

ただ、これはもはや人類普遍原則って言っていいほどの事実だろ

ひょっとしてDNAに書いてあるんじゃないか?「ゾンビ世界を生き抜くのは楽しいぞ」って

2017-07-11

https://anond.hatelabo.jp/20170711112323

今も昔も液体が出てくる部分はエロス象徴になり得るんだよ。

これは人類普遍の真理なんだ。

2017-07-04

https://anond.hatelabo.jp/20170704230722

事象を「○○なら××である」と一般化(普遍化)させた話を「一般的な話」と言ったんだよ

ごめんね理解できないようなこと言ってしまって

2017-05-29

Nintendo Switchの「ARMS」でやっと格闘ゲーム面白さがわかった

体験会に合計2時間参加してわかった。格闘ゲーム面白かったんだな。

俺は格闘ゲームがもう本当に、壊滅的に下手で、格闘ゲームのもの嫌悪感を抱くレベルにまで達してしまっていたが、今回やっとわかった。格闘ゲーム面白いんだ。

おそらく、ARMSは立ち回りと駆け引きを楽しむということを純粋に求めたゲームだと思う。

今までのストIIスタイル格闘ゲームは、コマンドを覚え、適切なタイミングミスなく使うことが要求されていた。これはバーチャ鉄拳もそうだ。で、これのハードルがとても高い。俺はこの段階で躓いたクチだし、同様の人も多いだろう。それで結局、格闘ゲーム醍醐味である、「相手の行動に二拓をかける」とか、「相手戦術予測して立ちまわる」という段階まで到達できなかった。

ARMSで言えば、最初にわけもわからず両手が前に出てしまって投げばっかりやってる、みたいな状態だ。これじゃ絶対勝てないし、醍醐味も味わえない。格闘ゲームの衰退(本当にしてるかどうかは置いといて)は、初心者狩りだとかそういうことじゃなくて、「そもそも面白い段階まで行く人が少ない」んだろうと思った。

で、ARMS場合、いわばコマンド技はアームという形で最初からセットされている。腕を前に出せば技が出る。強弱二種。それに加えて投げがあり、ボタン一発で発動するコンボがある。毎回、対戦相手を目の前にしてアーム(技)を選んでバトルがスタートする。つまり、事前に技を決めておいて、あとはそれをどうやって適切なタイミングで使うかのゲームだ。

これは格闘ゲーム挫折組としては革命的にうれしい。

相手キャラ特性を見て、昇竜拳波動拳竜巻旋風脚から二つ選ぶ、みたいな感じ。もちろん相手も選んでくるので、予想が当たるかどうかはわからない。相手デカブツから、確実にダウンさせる炎タイプを選ぼう。でも手持ちの炎タイプのアームは軽量だから、重量アームには叩き落されてしまう。ならアームをカーブさせて打たないとダメだ…みたいな立ち回りを考える楽しさを初めて体験した。逆にデカブツ視点では、相手は素早くて炎アームも持っているから、重量アームで正面を、曲がるアームで側面を防御しようみたいに思考が進む。で、それをさらに…という感じで尽きることがない。これを格闘ゲーマーはずっとやっていたのか!そりゃハマるわ。俺がARMSを最高に楽しんでるように、彼らもずっと前からそうだったんだな。

で、アーム(コマンド技)が限定されているから実際の試合面白くないかと思うかもしれないが、そんなことはもちろんない。このタイミングで投げを放つと危険から相手をまずは崩そうだとか、このキャラ回避からすぐに投げ技を撃ってくる可能性が高いから常に迎撃用のアームは残しておこうだとか、多分これが立ち回りだろうと思われることを常に考えながら殴っている。すごい楽しい

俺は格闘ゲームは反射神経でやるものだと思っていたが、どうやらそうではなかった。そりゃ反射神経がものをいう場面はあるけど、それよりも戦術の組み立てが大事だ。そして、ARMSはそれに特化した作りになっている。

伸びるパンチで戦うバトルは、反射神経の戦いになりにくい。反応もできずにやられた、ということが少ない(もちろん、試合展開はとってもスピーディだ)。自分の動きも相手の動きもよく見える。だから相手にやられても「あそこで敵に誘われてしまたから負けたんだ」みたいに敗因を自分の反射神経、つまり肉体的な能力に求めなくて済む。これが自分にとってはとてもよかった。「なんか知らんうちにやられた」よりも「見えていたのに!」って負け方のほうが気持ちいい。ARMS距離をとった格闘ゲームなのは、「敵のパンチが来るのが誰にでも見える」からなのではないだろうか。敵のパンチが来る、でも俺のパンチはもう両手とも撃ってしまっていて、対処ができない、だから食らったんだ!という分析がすぐにできる。相手の動きの選択肢を狭める動きも多種多様だ。スーパーコンボをあえて見せて相手の投げを誘う、みたいなことを頭で考えて、あとは腕を適切に振るだけでできるという感動。ストIIスタイルのようなフレーム単位の戦いではない分、思考時間があって理不尽を感じにくい。

それと、個人的バレーボールが好きだ。ちゃんとレシーブ、トスアタックと順番を踏めばうまく攻撃できるし、タッグマッチ場合相棒がそれをわかってくれているとまさにバレーボールの動きができる。きっと今後は、1ポイントを奪いあうバレー試合が増えて行くと思う。ミニゲームじゃなく、純粋楽しいよこれ。

自分の中では、スプラトゥーンよりも革新的ゲームだ。自分意識を変えてくれたゲームからスマブラでさえ覚えることが多くて難しかった自分にとっては、ARMSは最良の格闘ゲームになりそうだ。そして、今後はストIIスタイル格闘ゲームへの偏見もなくなりそうだし、改めてやってみようかとも思う。

手を動かしてゲームするのはなんかダサい、と敬遠してる人にこそ触ってほしいゲームだと思う。

任天堂Switch専用ソフトとして初めて出した(追記:二番目でした)のが格闘ゲームだった、というのはなかなか面白いね。格闘ゲームは衰退したり死んだわけじゃなく、そのコアになる面白さは普遍のものだということが分かった。とてもいい機会だった。

■追記

なんかちょっと誤解されてるようなので追記を。ちょっと偉そうな書き方になったのは反省してる。

別に格闘ゲーム本質はこれだ!とか言いたいわけじゃなくて、ストII時代からずっとあったんじゃないかと"俺が思う"、格闘ゲームおもしろさにやっと気づいたよっていう話なんだ。もちろんこれ以外に格闘ゲームの魅力は沢山有るだろうし、それらにも今後気づいていけたらきっと楽しいと思う。事実ブコメおすすめされたポッ拳はやってみたいと思うようになったし、ウルIIも買ってみようかなと思っている。

音楽にしてもスポーツにしても、「楽しみ方」「鑑賞の仕方」を知っておいた方が断然楽しい。だから格闘ゲームもきっと同じで、"俺が思う"楽しみ方に今回やっとたどりついた気がするんだ。

他のゲームを貶める意図はない。でもそう感じられたのだとしたら申し訳ない。冒頭に書いた「格闘ゲーム面白いんだ」は、ストIIスタイル含めて全ての格闘ゲームを指していた。ARMSが最高!とか言う話じゃない。ブコメで「青二才」とか言われてるけど(それはそれでいいんだけど)、それでは格闘ゲーム熟練者が考える「格闘ゲーム本質」を教えてほしいと思う。初心者素人がわからないような面白さの本質があるのだとしたら、それを知りたいから。そうすればもっと楽しめると思う。

もちろん、ARMSもどんどんレベルが上がっていってついて行けなくなる日がきっと来るだろうけど、その頃にまた"俺が思う格闘ゲーム面白さ"を備えた別のシステムゲームが出てくれたらなと思うよ。

1-2 Switchは素で忘れていた…。

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