はてなキーワード: 映画字幕とは
また途中までしか見てないけどね。
■九州弁は若干分かりにくい
まず九州弁がガチすぎて、じっくり読んでも?となることが多い。
「このキャラは、イライラする的なことを言ってるんだろうな」といった具合に何となくは伝わってくる。
■致命的な個所
字幕は一瞬で読み取れないといけないはず。映画字幕などでも良く話題になるテーマだと思う。
字幕文章の意味が一瞬で分からないと、ついじっくりと字幕を読み返してしまう。
「どこに逃げればよいんだ?」といったことを相談しているシーンでは、
せっかく、まがまがしい怪物が美しいグラフィックで描かれているのに本当に勿体ない
■思ったこと
日本人もダウンロードしているというのはそうだが、日本人がアップロードしているというとそれは違う
割れ文化を支えているのは外国人であり漫画村が仕入れていたファイルも多くが海外発のもの
電子書籍販売の世界化で日本で購入し自炊するという手間はなくなったし
むしろ自炊が必要な電子書籍化されていないコンテンツは割れで流通することもなく利益が守られていることが多い
あと海外コンテンツが日本で割られて日本語化されるなんてことは、ここ10年で全くといっていいほど無くなったことも付け加えたい
少し前まではインディーズRPGの日本語パッチや映画字幕の日本語ファイルが割れとともに流行っていたが、逮捕案件となりほとんどなくなったし
趣味の一環として映画字幕を翻訳する、と言っても、そんなに難しいものではない。
DVDによっては耳の不自由な人向けの全セリフ入り字幕が入っているのでヒアリング能力は要らないのだ。字幕はテキストファイルではなく画像ファイルで入っているのでOCRが必要だが、試行錯誤していくうちに認識率の高いフリーソフトも見つかった。似た文字が多いから時々手動認識すら間違えることもあるし、稀に字幕そのものが間違っていることもあるのだけど、google検索すれば一般的な単語は「〇〇では?」とサジェストされるので、知識が少なくても誤字修正可能になる。IT技術とバリアフリー万歳である。まあ全ての海外DVDがバリアフリー対応ではない、というかそこまで字幕が入っているのは自分の興味のある国では1ブランドしかないのだけれど、その1ブランドが最大手なので全然困っていなくもある。
さて、そうしてIT技術に頼ったところで、翻訳に一番困るのは「固有名詞」である。大体の場合、辞書にはそれらは載っていないのだ。とは言え登場人物の名前はそのままカタカナにしてしまえばいいから、เมย์ไหนはそのまま「メイナイ」にしてしまえばいいし、ป๋องはポンでいい(本当はポングなんだが日本人には最後のグはたいてい聞こえない)。เฟมはフェームで済ましてしまっていい、とかやっていると登場人物にเฉดとฉัตร、カタカナにするとチェットとチャット、1文字違いかよ!みたいなことも出てきてさてどうしようか一瞬迷うがフィクションの固有名詞はなるたけ変えないのが自分のポリシーだからそこは趣味に走ってそのままにして問題ないことにしている。
問題なのは例えば実在の芸能人とか、店の名前とか、車種とかそういうやつだ。字幕にするのはだいたい現代が舞台の恋愛映画、早い話がトレンディドラマだ。そういうところでは現地の観覧者なら確実にわかる固有名詞が山ほど、"ストーリーに絡まない、どうでもいい話題"として出てくるのだ。
おそらくここで「バード・トンチャイ」とカタカナ表記したところでその国で1,2を争うスーパー芸能人の名前を把握できている人は少ないだろう、ましてTik Kanyaratと言われてそれが男か女か分かる人すら何人いるというのだ。Liab duanという場所は自分も知らない、知らないがカラオケが楽しめる場所として有名らしい。Club FridayというTV番組がどの層にウケているのか、ホンダから日本のブランド名を変えて「JAZZ」という名の車が出ていることはどのくらいわかるのか、もうさっぱりわからない。
わからないので、今やっている字幕翻訳に関してちょっと聞いてみた。具体的には先週から1週間ほど、首都にあるデパートの名前をカタカナ表記したものが何のブランドかわかるかTwitter上でアンケートしたのだが、7割以上の人が「何のことだかさっぱりわからない」との回答だった。これら高級デパート、ガイドブックには必ず書かれている有名デパートにも関わらずなのだ。まあ、現地駐在で働いているか年数回も同地に旅行に行くようなマニアでなければそんなものかもしれない。
固有名詞は現地のローカルブランドに限らない。アニメ「Ben 10」は日本ではカトゥーンネットワークで放送されているアニメの主人公の名前でありアニメの名前でもあるが、そう言われただけで日本人のどのくらいの人がそのアニメを思い出せるだろうか。そう考えてみるとあの映画会社の映画には「スーパーサイヤ人」とか「ドラえもん」とかいう言葉が何のエクスキューズもなく入り込んでいて、それだけでどれだけ現地の人にそれらが受け入れられているかがわかる。レベルの差はあれ現地では「Ben 10」もその枠に入っているわけだ。
ちなみにその辺が野良英語字幕だとどうなっているかというと、だいたい無視されている。デパートの名前は服飾店のブランド(クリスチャン・ディオールとかな)に完全意訳されてたりした。日本で売られている数少ないDVDに付いてくる正規の日本語字幕もそういうのはやっぱりきついらしくて、現地アルファベットの勉強法をなんとか英語風に訳したら「現地のことをわかってない、ひどい」とAmazonレビューで酷評されたりもしている。自業自得とはいえあれは可哀想だ。こちらは、別に売ったり配ったりするものじゃないし、調べてなんとなく理解もしたから基本的にはあまり気にせずにそのまま残すのだが、流石に「JAZZ」は「フィット」に書き換えたし、Club Fridayは「週末のメロドラマ」にしたり、「Tik Kanyarat」は「ワイドショーの旅番組(そういう番組のMCなのだ)」にしたりした。なんだよこんなのもわからないのかよと粋がってみても、自分が知らないものもいっぱいあってそれらは適当に書き換えてしまうのだ。
映画オリジナルの固有名詞は固有名詞で困ったことがある。そう名付けた理由があったりするのだ。เมย์ไหนは実はเมย์ ไหนと分かち書き可能で、固有名詞としてだけでなく「どのメイだよ?」という質問文にも読める。しかもストーリーでは、犯人探しをしている主人公が「犯人はメイだ」と言われた時にそう質問しかえして「なんだお前知ってるのか」と納得される重要なギャグシーンに使われるのだ。本職の字幕なら「どのメイだよ?」という字幕に「メイナイ」というルビを振るのかもしれないけれど、テキスト字幕でルビを振るのは難易度が高い。なので同じ響きの駄洒落でごまかした。勘弁していただきたい。
趣味の一環で映画字幕の翻訳をしていると、どう訳せばいいのか困る例によく会う。
趣味の一環だから15文字制限とか1文字1秒とかそういうクオリティまで気にする必要はないんだけど、アニメの野良英語字幕みたいに※つけて注釈いれまくるのもなんか野暮ったい。いや実際非英語映画の野良英語字幕に「※そうだよ、同じアジア人に見えるけどこのひと日本人だよ、名前でわかるだろ」(英語意訳)って書かれたの見たときは萎えた。
英語字幕は英語字幕で大変なんだろうなとは「君の名は。」の入れ替わった外見滝君の一人称変化が全部"I"にしかならなかったことで気がついた人もいると思うけど、やっぱり人称と言うか人の呼び方というのはそれぞれの地域で頻繁に使われているだけに少しでも違えば違和感生じるしその違和感はなるたけなくしたい。
พี่(ピー)という言葉がある。英語字幕だとMr.にすることが多いのかな。年上の人の名前の前につけて敬称として用いる。単体でも呼びかけとして用いる。状況によって訳語が変化するのは面倒なんだけれども、状況に応じてふさわしい訳語があるからそれほど迷わない。例えば学園ものの映画で名前付きで呼びかける際には「○○先輩」同様に単体なら「先輩」、相手がお店のおばちゃんなら「すみません」で済む。
これと対になる言葉があって、น้อง(ノーン)って言葉がある。年下の人の名前の前につけて丁寧語として用いる。単体でも呼びかけとして用いる。こっちも単なる呼びかけなら簡単だ。OLが若い店員を呼び止めるなら「すみません」で十分通じる。問題は学園ものの映画で上級生が後輩を呼ぶ際にどう訳すかだ。英語字幕ではこれ、訳す際には無視してることが多くて、単体で使う場合も名前呼びに変更していることがままある。うんそれもありっちゃありなんだが、できればあんまり意訳的なやりかたはしたくない、というのが趣味の一環であるからこそのこだわりでもある。
自分の周りでは下級生のことを呼ぶ時に「〇〇後輩」っていう言い方は見たことがない。最近のマンガではそういう言い方をしている人が見受けられなくもないけれども、どちらかと言うと違和感のある喋り方をするキャラのセリフに多い印象もあっておそらく逆の意味で意識して使わせているような気もする。名前についている場合は下級生が女性であることを考慮して「〇〇ちゃん」とした。たぶん男性なら「〇〇くん」でいいような気もするがどちらも若干幼い(相手との年が離れすぎている)印象がある。年下を意識している場面だからそれでいいのかもしれないがそこまでこだわらず「〇〇さん」でいいのかもしれない。そういえば昔のドラマとか少女漫画では年下女性にも「〇〇くん」と呼びかけている人がそれなりにいたがあれは今違和感の意味で許される使用例なのか気になる。
ちゃんとした解決が着いていないのは単体で相手の名前を省略しているときだ。いろいろ考えた結果、「君(きみ)」にしてみた。男性がこれ使う場面だったので、若干キザな雰囲気になったんじゃないかと思わなくもないが、ほかにいい呼びかけを思いつかなかった。勘弁していただきたい。
ちなみに英語でMr.に当たる言葉は別にもう一つあって、これも単体で「あなた」という意味に使われる。だから現地で怪しい呼びかけを受ける時にはミスター、ミスター言われるのかと合点したが真実がそうなのかは定かではない。
気落ちさせては悪いので、言葉が足りなかった部分をフォローしておくと、
背景描写は2~3話と話数を重ねるごとに、劇的に改善しています。
良いところまで行っていると思います。
主人公の背景ストーリーのネタバレは、過度に恐れる必要はないと思います。
つまり、次回予告レベルのさわりやほのめかしでも十分おもしろいし、
そもそも数コマ、数ページ見せた程度で語りきれるほど薄っぺらくもないですよね?
キャラは掘れば掘るほど面白くなるので、カードとしてうまく使っていいと思います。
セリフの数は、悩ましいところですし、マンガによって文字数の幅もかなり違いますが、
映画字幕では1秒間に4文字が限界というルールがあるようです。
よかったら参考にしてください。
「文字数は減らしても必要な情報は削らない」言い回しは必ずあります。
「短いは正義」です。
また、あなたの力量なら、文字ではなく「絵(仕草)で語る」方法もあります。
読者視点は、色々あると思いますが、今のあなたのターゲット層的には、
ふらっと来た人が「作品知識0」で、「斜め読み」しても理解可能か、が一つの指標になると思います。
3話までの成長が目覚ましいので、期待しています!
【インタビュー】字幕翻訳者・戸田奈津子さん「エッ?と思う字幕は、どこかおかしいの」
https://www.buzzfeed.com/eimiyamamitsu/interview-with-natsuko-toda?utm_term=.bhpJ8y62dK#.pf3GDwzR2e
を読んだ。全体的には一方的な自己弁護を垂れ流すだけの提灯記事だが、インタビューという性質上これは仕方のないことなのだろう。この記事の良い点は、戸田奈津子という人の見当違いな自己顕示欲を浮き彫りにしているところだ。
「叩く扉もなかった」字幕翻訳という仕事に、その道の第一人者に直接食らいつくようにして取り組んでいった前半生は感動的でさえあるし尊敬もしよう。しかし一人前として仕事を任され、一定の地歩を固めつつあった頃には、質的な研鑽よりも量的なアピールに重きを置く仕事ぶりだったことがよく分かる。
それは時代というか当時の映画産業の要請でもあって、戸田個人に責任を帰すことも出来ないだろうが、何度も立ち止まるチャンスが有ったにも関わらず、過剰な自信に満ちた「職人魂」みたいなもので自分を虚飾したい一心で、本質的には作品に奉仕するべき字幕翻訳者のあり方を歪めた自己像を描出し、直そうともしなかった。それがこのインタビュー記事で表現されている「字幕翻訳の女王」の実態だ。彼女はことあるごとに「文字数は自由だし調べ物にもゆっくり時間をかけられる文芸翻訳とはわけが違うのよ」式の言い訳(師匠の発言の一部を都合よく切り取ったものだ)をして、質を犠牲にしてることを棚に上げて早業自慢を繰り返すが、この記事もまさにその例を一歩も出ていない。ほとんど馬鹿の一つ覚えだ。
せっかく日本一名の売れた字幕翻訳者になったんだから、個人の早業を自慢するよりも、字幕の質的向上のために制作・配給側が用意する時間や予算の拡充をアピールするのが筋なんじゃないのか? と私などは思うのだが、そんなことは自己否定になりかねないのでできない。映画や観客より自分が大事だからだ。徹底して裏方仕事に向いてない性格なのに(だからこそ喰らいついていけたとも言えるが)、なぜか字幕翻訳者になっちゃった人で、その上根っからのダンピング体質なんである。広く「第一人者」と呼ばれるものの最悪の事例として歴史に記録されるに値する人物だろう。
戸田字幕の具体的な問題点については、今ではある種のネットミームと化していて、山のように検証を綴ったページがヒットするので、ここでいちいちあげつらうことはしないが、この記事を読んでそれらガッカリ字幕の根本的な原因を確信できた気がする。戸田奈津子自身の映画作品に対する理解力が低いのだ……というのはあまりにも失礼なので、観客(想定読者)の理解力を低く見積もりすぎ、と留保つきで言うべきなのかもしれないが、とにかく画面に映っているものや脚本に対する読解力が低い翻訳をしてしまっている。軍事用語や「指輪物語」の専門用語に通じてないせいで勝手流に造語しちゃうみたいなことは、専門の監修者をつければ(それさえ不服のようですが)済むことだが、理解が浅いまま手癖で字幕をつける悪癖についてはせめて直そうとする姿を見せてほしいと思う。
どんな作品であれ受け手によって読み出せる情報量は変わるものだが、戸田字幕はその理解力の設定が最小限になってるみたいな字幕なのだ。そんなとこを端折ってしまったら、まるで子供の頃に見た「大人の映画」のように途中で筋が追えなくなるだろうな、と思うことさえある。一通りセリフが聞き取れるとか、背景知識も揃っているような人間が見ると「エッ?」となるような訳を乱発してしまっているのである。これは映画字幕という表現媒体そのものの制約なのだろうか? 単に投下すべきコスト(時間と人員)をケチってるだけじゃないのか? なにしろ理解力が乏しいゆえにかえって回りくどい表現をして、大切な字数を浪費している例さえあるのだ。単にこなした本数が多いから下振れが記録されているだけと擁護することも出来るが、それを言うとかえって早業自慢の露悪性が強調されるというものである。
そして戸田字幕に感じる理解力の低さ、雑さの遠因が、このインタビューでは明らかにされている。ただの映画ファンとして、「作品のファン」としての経験を積まずに映画を見まくった原体験が、映画を十分理解せずに、ざっくりと筋がわかれば(たまにそれにも失敗する)いい、という仕事を次々とこなすことを良しとする「映画字幕の女王」を産んだのだ。それは映画というものの立ち位置が変わってしまった現在には全くそぐわない態度であると私は思う。
多くの人が週末には何かしらの映画を見て、学生なんかは金の続く限り映画館に入り浸って、それ自体が楽しみで、何度かに一回面白いものがあったら儲けもの、といった時代はとっくに過ぎ去った。多少荒っぽい仕事があっても、「まぁそんなこともある」と納得してすぐにまた映画館に足を運んでくれる観客は絶滅危惧種と言っていい状況で、「とりあえず筋の追えるものを今週中に」みたいな品質でつけられた字幕を使う理由はほとんどないと言って良いんじゃあるまいか。なにもタコツボ化したマニアだけが字幕翻訳者の理解不足を責めているのではない。字幕でスクリプトの情報量を100%伝えろという不可能を要求しているのでもない(そんなことを言ったら、原語が完全に理解できても伝わらない部分は常にある)。娯楽が多様化する中で、金と時間を使うに値する丁寧な仕事で競争できているかが問題なのだ。
そもそも多くの映画は長い時間をかけて作られるものだ。製作に着手してから数年かかることはザラだし、驚くべき短期間で撮影が終わったというような作品でも、原作を読み込んで脚本化するのに何十年もかけていることだってある。そしてそれを待つファンも何十年越しで待っていることだってある。それだけの労力と期待を集めて公開される作品の最後の工程に、パッと見の印象を伝えるので精一杯みたいな字幕がついていて良いのだろうか? 日本人の英語力の向上には役立つかもしれないが、自分で聞き取れるようになったからといって問題が無くなるわけではない。「自分は内容がわかっても、あまりにも作品に無理解な字幕がつけられていることに耐えられない」という作品のファンの心理を考慮せずに仕事を続けることは、今や娯楽の王座から落ちて、比較的嗜好性の強いものになった洋画のファンには悪印象しか与えない。それに洋画ファンだけの問題でもない。どんなジャンルの仕事であっても、雑な仕事というのはそれに初めて触れる者に「なんとなく面白くないな」という印象を与えてしまうものである。それを防ぐために必要なのは、十分な準備期間と作業時間を用意することによって得られる翻訳者の深い作品理解だ。翻訳者に十分な時間とリソースが与えられ、一つの作品に使える労力を拡大することのほうが誰にとっても良いことなのではないか? すべての原因を「文字数の制約」や「納期の短さ」に帰することが出来るという甘ったれた足かせを自慢できればそれでいいのか?
戸田字幕の映画理解力の低さが、意図的に設定されているものではないと疑う理由がもう一つある。戸田は字幕翻訳が単独作業である理由として、「セリフの言い回しやリズムを統一するのに余計な時間がかか」るということを挙げている。そんなことを言っていたら、作中でセリフの言い回しやリズムを敢えて変えることで、登場人物の心理的変化や場面転換を表現する映画は原理的に字幕に乗らないことになる。これほど馬鹿な話はない。「こいつは最終的に悪ものになるやつだから、最初は丁寧にしゃべってても荒い口調で統一しとくのが親切」みたいな字幕が付けられた映画を、誰が見たいだろうか? 一つ一つの映画作品の性質をよく理解しないまま、ちぎっては投げみたいな仕事を続けてきたせいで、どんな映画も同じような構図に当てはまるよう訳すのが当たり前になってしまっているからこそ、セリフの統一感があることが「透明な字幕」の必要条件だという勘違いを起こしてしまうのだろう。映画が転調したときには字幕も転調するのが「透明な字幕」で、そのためには複数の視点が必要になることだってある。脚本や演出の意図を読み違ったまま、理解をし損なうことは避けられないからだ。いつまでも「一人の字幕翻訳者が短い期間で理解できた範囲」としての映画字幕が作られ続ける状況を肯定することは、この人の取るべき道ではない。それは決して映画のためにはならない。
「ロード・オブ・ザ・リング」の第二作以降は、原作の翻訳者がスクリプトの全訳を事前に行った上で、それを参照して戸田が字幕を作成し、改めてチェックを受けるという体制が敷かれたようだ(インタビューではその経緯をまるっきり無視していて、結果的に監修者の仕事を貶める傍若無人ぶりが表れている)が、これに似たことが常識的に行われるように働きかけしているんですよ、といった風のアピールをするほうが、「第一人者」としての尊敬を集めるのではなかろうかと私は思う。
現在の洋画の年間公開本数は80年代末以来の第二のピークを迎えている一方、戸田の仕事は当時の1/5近くまで減っている。文芸関係に限って言えば50歳ごろに確立した仕事のペースを守っている80歳なんていくらでもいるので、年齢のせいばかりでもないだろう。その事自体、戸田が翻訳者の待遇改善に取り組んだことの証左だと弁護することも出来るかもしれないし、実際にセリフを聞き取りながら見て「ここをこうやってまとめるのか、上手いなぁ」と思える翻訳者が増えてはいるので、まぁ戸田奈津子の問題ある訳というのも、そろそろ過去の話だよね……と最近は思っていたのだが、私はこのインタビューを読んで気が変わってしまった。やはり早いとこ全面的に後進に道を譲って、ご自身は字幕翻訳の質的向上のために翻訳者の待遇を改善する言論を起こされるなどしたらいかがだろうか。それが名の売れたものの使命と思ってはもらえまいか。いい年してよいしょインタビューに答えて、自分の大ポカで迷惑をかけた監修者の名誉を傷つけるような非道い言い訳を垂れ流している場合ではない。
今さら早業自慢を封じられるのは、自己認識からすれば転向に映るかもしれない。ひょっとしたら一気に老け込んじゃうかもしれない。しかし、昔よりずっと観客同士の横のつながりが強くかつ広範囲で、作品についての情報も手に入れやすい今だからこそ、字幕翻訳に要求される水準が上がっていることを認識し、それに適切に対応するように送り手たちに働きかけをする姿は、映画ファンの心に強い印象を残すはずだ。個人的な快刀乱麻の仕事ぶりを自慢するのはもうやめて、業界全体で作品の質に貢献する、充実した作業環境を残せるよう声を上げる好機なのではないか。それでこそ「字幕翻訳の女王」としての尊敬を集められるのではないか。今のままではせいぜい良くて「時代の徒花」といったところである。