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はてなキーワード: アナロジーとは

2021-04-29

anond:20210429012626

40億というのは「世界の半分」ってこと。

世界の半分がCovid-19で死んだらお前の勝ちだよ。

の子供はほんとにアナロジーがわからない。

アナロジーを使うという授業をしてないから、というが、そんなもんかね?

2021-04-10

anond:20210409152336

何か既視感があると思ったが、「宮崎勤事件オタク叩き」だった。古すぎる話で悪いが。

その事件からアナロジーで言えば、「得体のしれない存在」だからレッテル貼りが起こる、ということなんだと思う。

宮崎勤の部屋の床を埋め尽くす大量のビデオ映像が強烈で、「こんな異常な趣味人間思考回路がわからない」という反応が起こり、その後オタク叩きが始まった。

当時「オタク」は今と比べて全く市民権がなく、コミュニケーションをとろうとしない得体のしれない奴らだった。

人は得体の知れないもの自然と恐怖心を持つ。排斥されるのは当然といえば当然の反応だったのかもしれない。

ということで、弱者男性も「得体の知れない」存在を脱するために、何かアクション起こす必要があるんじゃないのかと思うが、どうでしょう

増田に書き込んでても埒が明かないよね。

オタク市民権を得るうえでは何がよかったのかなぁ。すごい長い時間かかったと思うけど。

例えば、岡田斗司夫みたいに名前を出して主張することなのかな。

ただ、オタクの例と根本的に違うのは、オタクは「趣味」の話であって、弱者男性は「社会問題」の話なので、「いいね」と共感してもらって同じ趣味人口を増やすっていう話じゃない。

「救済されるべき社会問題を解消してきた例」を探すとすると、「LGBT」とか「ハンセン病」の方が近いか

これも誤解による差別を晴らすのに長いことかかった例だが。

そっちの例で言っても、「得体の知れない」状態から脱却するためには、誰か実名で困難さをアピールするしかないような気がするね。

2021-03-31

anond:20210331132404

226って政治腐敗に対して軍の一部が蜂起したのであって、むしろアナロジーでいえば自民党支配下226再現が起きるべきなのだ

2021-03-16

コロナワクチン安全神話原発安全神話

https://anond.hatelabo.jp/20210315160051 を受けて。

暴論アナロジー椎名林檎みたい)という自覚はある。

福島以前の原発事故リスクについての議論と同様に、コロナワクチンの長期リスクについて、感情論議論にフタがされすぎではないかという点について。

共通点

1) 社会的要請が強い
2) リスク専門家判断する
3) 一部のリスクは「科学的に」対処されている
4) 一方で、未知のリスク存在する
5) 専門家には、利害関係があったり、圧力がかかる

原発はどうなったか

アメリカ原発安全基準日本へ導入された。

しかし、日本環境地震津波)に合わせた災害対策は十分に行われなかった(「地震津波が同時に来ることは想定していなかった」)。

電力会社等の専門家には、利害関係からリスクを十分に調査する動機づけがなかった(リスクが見つかれば原発が止まり、採算が取れない)。

福島以前に、「原発には本当にリスクがないのか」という問題提起をすれば、下記のような議論が行われていた。

このため、「原発には本当にリスクがないのか」という問題提起論点がズラされ、日本国民は、「原発災害対策が不十分である」という本質にたどり着くことができなかった。

原発安全神話化された結果、地震津波により、原発事故が起きた。

コロナワクチンはどうなりうるか

海外治験実験を終えたワクチンが輸入された。

専門家会議は、ワクチンの長期リスク判断するように求められるが、当然、長期の治験実験をやる時間はない。

日本は、諸外国経済活動再開に遅れを取るわけには行かない。

専門家会議は、おそらくあっても僅かであろう長期リスクには目を瞑り、「コロナワクチン安全である」と発表する(させられる)。

結果、長期リスクや、ワクチン流通オペレーションミスについての議論にはフタがされ、リスク徴候は見過ごされる。

可能であったはずのリスク管理がなされず、大規模な事故が起きる。

コロナワクチンには長期リスクがないのか」という問題提起をすれば、下記のような議論が行われる。

コロナワクチン安全神話化され、必要リスク対処ができず、事故が起きる。

何をするべきか

原発事故の原因は、専門家意思決定過程にあった。

まり専門家からといって、利害関係者が意思決定を行ってしまっために、リスクが見過ごされた。

実際、事故反省として、原子力規制委員会経産省から分離・設立された。

アナロジーで考えるなら、日本国民は、まず、コロナワクチンリスク評価が行われている意思決定過程を改良するべきだ。

現在組織構成では、専門家会議が、その内部で、集団免疫獲得と経済活動再開の両方のバランスをとりながら意思決定を行っている。

妙な話だが、コロナワクチンリスク可能な限り科学的に評価すべき組織が、同時に、日本経済活動再開の責任も担っている。

経済活動再開を停止することは目に見える損失であるため、経済活動再開ありきで、コロナワクチンリスク過小評価した意思決定に陥りやすい。

例えば、コロナワクチン政策に対する批判的な立場責任組織を作り、専門家会議との議論国民に公開することで、真のリスク対処し、事故を防ぐことができるのではないか

2021-03-03

AI, VR, 仮想通貨, IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」

当時高校生だった私は3.11のその年に福島県大学(会津大学)に入学しました。あれから10年も経ってしまったので、私のごくプライベートなことについて書きます

あと、匿名性は低いです。匿名ダイアリーなのにごめんなさい。

3月11日

2011年3月11日に、私は茨城県博物館の中にいた。高校卒業式が終わって、車の免許を早々にとったらしい友人と二人、車で博物館にきていた。地震とき、私は吹き抜けの空間の中心にいて、長い振動の間、博物館全体のガラスは轟々と鳴り響いていて、「ああ、私は、今日が命日なのだなぁ」と人々の動揺の中、思った。

実際にはガラス耐震性能が高かったので、館内にはけがはいなかったようだった。

信号機の止まっている、徐々に昏れていく道を、車中でほとんど会話もなく急いで帰った。急いで帰ったけれど、通常の2倍以上もかかって家についた。

私は地震の直後、2ちゃんねるに張り付いていた。「福島原発やばいらしい」そんな書き込みを見て、いよいよ日本は終わったんだ、と私は思った。

私が高校生の頃、世界原発事故ドキュメンタリーが大好きだった。チェルノブイリスリーマイル島東海村。「原子力」という尋常ではないエネルギーが生身の社会に取り込まれて、人間の内側におとずれるということに私はなんとも言えないグロテスクさを感じて、親や友達気持ち悪がられながらも読んでいたのだった。

当時、特にJCOの臨界事故NHKドキュメンタリーは何度も読み返したものだった。事故が起きた時、「出奔した原子力」に対しての(政治的・肉体的・精神的)人間の無力さ、弱さのコントラストがあまりにもどぎつく、生々しく顕れていたからだった。

私は地震が起きて、一、二日後にはリビングこたつ占拠して、こたつのど真ん中にデスクトップPCを置いて、情報官気取りで気象シミュレーションをみたりしていた。そして、家族にも協力してもらい家中シャッターを閉めた。それくらい、当時私は怖かったのだと思う。

震災直後、福島県大学入学した

私は震災の年、福島県大学入学した。私の地元同級生にも福島県大学入学する予定だった子がいたが、辞退したらしかった。大学入学式は遅れて執り行われた。ガイガーカウンターを買った方がいいかな、とか、「あそこには近づかない方がいい」とまことしやかな噂を聞いては少し怖いな、という思いが常に頭にあった。

しかし、入学してみると、その話はなんとなくしてはいけない話に思えてきたのだった。それはその土地に長く住んでいて動くことができない人たちには、惨い話であるからである。私もいつの間にか、放射線の話はしてはいけない気がして、話題にするのをやめた。すると、怖いという感情もいつの間にか薄れていった。

しかし、時々、放射能汚染される夢を見ていた。これはつい福島県を離れる少し前まで見ていたのだった。

私の当時住んでいたアパートには窓の近くにベッドがあって、その窓の外には何年も取り込み忘れたバスマットが干してあった。私の覚えている夢では、実はそのバスマットは大気中のチリや雨に放射性物質たっぷりまれていて、そのバスマットの線量が高くて、実は私の身体が蝕まれていて……という夢であった。何年もそのバスマットを干しっぱなしにしてしまったのは、もしかしたら、そういうことに対する無意識的な恐れから触りたくなかったのかもしれない。

長年大学でくすぶっていた

私は、大学特にパッとした研究もできないでいるのに何年も何年も大学にいた。でもそれが良かったのかもしれない、と今では思う。福島県という土地に「土着」して、私なりの感覚放射能の感じ、特にその怖い感じの中に居たということが。

私はもともと怖い思想の持ち主だと思う。正しいと思ったら、それに突き進んでしまう。人の感情も、中学生くらいから読まないように生きてきてしまったため、無視する癖がついてしまっている。だから原子力という「科学技術コントロールから外れた状態」の中に当事者として生きた、というのは私が、私の歴史にとって重要ことなである。もちろん、日本にいたら誰だって当事者なのだが、私は福島県に住まわず当事者と思えるほど賢くない。

核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」= 「AI, VR, 仮想通貨, IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」

3.11から10年が経って、私は福島県から遠い場所に住んでいる。今は遠くから考えることしかできない。

最近原子力、ひいては(科学技術についての論考を読んでいる。1950年台、まだラジオな世の中で、近未来的なもの技術とか科学が大きな期待を背負っていて、すごくキラキラしていたであろう時代、人々は核の技術に対して、今でこそ信じがたいが「核兵器の利用は良くないが、核の平和的利用こそ人類幸福につながる」と本気で思っていたようなのだ。多分、今でいうところの、テレビCMIT系企業がたくさん広告を打っていて、IT企業に勤めていることが一種ステータス少女漫画に出てくる男性IT企業勤め!)になっていて、AIすごい!VRすごい!仮想通貨すごい!IoTすごい!みたいなイケイドンドンな感じだったのだろうと思う。そんな時代、「核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」と指摘した人、ハイデガーがいた。今でなら、「AI, VR, 仮想通貨,IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」と言うのと同じことなである。今でなら炎上やむなし発言なのであるしかし、このアナロジーを単なる面白おかしアナロジーとしてだけで捉えていいか。彼は世の中の潮流とは全く違う発想を省察によってしたからこそ、核の平和利用危険性をかなり早く認識できた。

科学は考えない」

ハイデガーは「技術」について『放下』の中で、(科学技術に対して「その価値を認めつつ、それに対して否、と言う」 ―ーこの本のタイトルにもなっている、「放下」という態度が大事なのではないか、と言っているらしい。(まだ『放下』は直接読めていないので、「らしい」でごめんなさい。)

そして、彼は思考について、「計算する思考」と「省察する思考」とに分けて考えており、彼は「科学は考えない("Wissenschaft denkt nicht")」、科学計算する思考であって省察ではない=「考えていない」、というしかたで核の平和利用について否、と言ってみせた。

科学は考えない」

これは、理系立場仕事している者にとっては「耳が痛い」ことなのではないかしかし、耳が痛いからこそ考える価値があるのではないか

彼の言っていることを私は理解できる気がするのだ。科学進歩的に進んでいく。その「ひたむきに進んでいく」ということが「科学は考えない」と彼が言う理由なのではないかと私は思う。何か、ある方向に、引っ張られるように「進んでいく」。立ち止まる者は厄介者として排除される(Publish or Perish)。ハイデガー技術批判するだけではない。もちろん価値を認めつつ否定するという態度を彼は実践している。私も技術がなくなったら困る。方向音痴の私はGPSが無くなったら、地図が無くなってしまったら、とても狭い世界を生きることになってしまう。だから難しい、ある意味矛盾の中を生きなければならない。

私について

私は、実は博士過程を休学した。プライベートも荒れてしまったし、閉塞感でいやだったし、どうしても、論文が書けなかったのだ。

私は小さい頃から哲学が好きだったらしい。「最近哲学系の本を読んでいるよ」と昔の友人たちにいうと、みんな「よく哲学的な話してたもんね」と言ってくる。

でも、私が文系に進学しなかった理由が、「確かなものが何もないと怖い」という恐れからであったし、国語がとても成績が悪いし、理系ってなんかかっこいいとか思ってたのもあって、ずっと理系研究室で研究していて、哲学とか諸々の教養ほとんどないのだ。

哲学最近やってる」と言うと大半の人に苦い顔をされる感じがする。「中二病が抜け切っていないな、こいつ」と言いたげなそんな感じ(笑)。おそらくそれは哲学に「生産を止める」作用があるからなのではないだろうか。無意味で、ある意味破壊的な作用が。

以前、こんなことがあった。課外活動で何人かで集まってスマホアプリを作ろう、となったときに、誰かが「xxさん(有識者らしい)から教えてもらった方法で、xxという仕方でブレーンストーミングすると良いらしい」と言った。私は「なんでその方法でなければならないの?」と、ある意味チームの士気を下げるようなことを言ってしまったのだ。こういう「そもそも論」(哲学)というのは「生産を止めてしまう」。イヤな感じに水を差す。だからまれる。

しかし「生産を止める」という行為が実は重要なのではないか。世の中的に、「生産的=いいこと」という認識がある。生産を止め続けないことがそれほどいいことなのだろうか。これこそが、ハイデガー批判するところの「考えない」態度ではないか。「より幸せに、より便利に」を目指すために科学技術を信じて、生産生産生産、とひたむきに努力してきた末の原発事故ではないか

昔の時代原子力は「兵器として利用されることはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられていた。

今の時代も同様に、情報技術生命科学が「非倫理的に利用されるのはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられている。「再生可能エネルギーでなら、持続可能社会が実現できる」とも信じられている。

もし、「なぜ地震大国原発つくったらヤバイという今ではあたりまえの認識を持てず、当時誰も水を差す人がいなかったのだろう?」と考える人がいるならば、なぜ、現代においてもその人が水を差す人にならないのかが不思議なのである。だから、私はあえてこうして水を差す、ということをしてみたい。

ということで、私の全然論文を書けていない「生産しなかった」大学時代も、この哲学的態度の実践とみなしてこの文章を締めくくることにする。

2021-02-06

anond:20210206132841

意味不明な推論だ

虐殺につながる動機がない

民族虐殺被差別民族は長期的にも減らない

しろ増えるから起きるんであって

勝手に減っていくもの虐殺する意味はない

アナロジーにもなってないよ

2021-01-05

anond:20210105172049

2020-12-07

anond:20201205155542

「でも私はぶつかられた!」とか「ホミおじの話してるんだけど」とか言ってるおフェミバイアスを指摘されているのに気付かないのだろうか

あんたらが「ぶつかってくるホミおじ」だと思ってる人の何割かは多分一般男性だぞ

まあ自分認識したくない事実には気付かんのだろうねえ

「前を見て歩かない女性」のアナロジーですな

2020-11-04

今更ながら数学ゾンビ

一々数式の意味強制して考えさせる教育はクソと前置きはしておきます

ただはてブとか増田現代数学では意味重要視しないって言ってる人達結構見てゲンナリした

特定性質を持った単なる点の集まりを図形としての意味を持ってると考えたりするひとは幾何に関して珍しくもないし

そういう考え方をした方が命題とか考えやすい面もあるのにな

別にこれは幾何に限った現象でもないし立場としては

掛け算の単なる代数演算の左・右に意味見出してる人達と大して変わらないと思う

現代数学抽象的な記述もするからこそ自由意味を見出す事は出来るし見出す事自体は悪くなく

アナロジーなんかも考えたり出来て役に立つ事もある

最後に繰り返すけど一々数式の意味強制して考えさせる教育はクソです

2020-09-20

anond:20200920005134

フェミニズムの影響があろうがなかろうが、最終的に創作物を改変する方が圧倒的に悪い」

改変 = やってはいけないこと

そのアナロジーおかしいでしょ。

叩く方は悪くない。叩かれて折れた方が悪い。って言っているように見える。

2020-08-02

黒瀬陽平合同会社カオスラによるハラスメントについて」について

例の文章を読んで、細かい点かもしれないが、どうしても気になったことがあるので書く。

トーン・ポリシングと言われたら困るので最初に書いておくが、ハラスメント告発横槍を入れるつもりは毛頭ない。

しろ逆に、あの文章の本旨であるハラスメント告発ではなく、いわゆる「不倫」に関する問題クローズアップされることを恐れるがゆえに、次のことを指摘しておきたい。

立場の不均衡」や「非対称性」といった語は、パワハラの背景を説明する用語として一般的に用いられているはずだ。

しかし、ハラスメント告発する目的で書かれたあの文章では、「不倫」における既婚者と未婚者の関係にもこれらの語が用いられている。

これでは文脈的に、「不倫」における既婚者と未婚者の関係を、ハラスメント加害者被害者関係類比的なものとして捉えるアナロジーが成立してしまう。

まりあ文章では、ハラスメント告発するための論拠である立場の不均衡」や「非対称性」といった語を、「不倫」という別の事柄を捉えるために「転用」してしまっていることで、文章としてハラスメントと「不倫」の問題混同され、結果としてハラスメント告発する意図が弱まっている印象を受けるのだ。

たとえこの事案においてハラスメントと「不倫」が複合体をなしていようと、あくまハラスメントハラスメントであり、「不倫」は「不倫である

ハラスメント批判するには、両者は峻別されなければなるまい。

ハラスメントと「不倫」が混同されてしまうのは、ハラスメント告発する当事者にとっても本意ではなかろうと思って、書いてみた。

2020-07-21

宇宙宇宙をつなぐ数学 - IUT理論の衝撃」の感想

Amazonレビューなどに書くと過去レビューから身バレする可能性があるのと、わざわざ別アカウントを作ってまで批評するほどのものではないと思ったので、こちらに書きます

初めに断っておきますが、本稿は別に加藤文元先生人格や業績などを否定しているわけではありません。また、IUT理論やその研究者に対する批判でもありません。「IUT理論が間違っている」とか「望月論文査読体制問題がある」などと言う話と本稿は全く無関係です。単純にこの本に対する感想しかありません。

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加藤文元先生の「宇宙宇宙をつなぐ数学 - IUT理論の衝撃」を読みました。結論から言って、読む価値の無い本でした。その理由は、

ほとんど内容がない」

この一言に尽きます数学書としても、一般書としてもです。

本書の内容と構成

本書は、RIMS(京都大学数理解析研究所)の望月新一教授が発表した数学理論である、IUT理論宇宙タイミューラー理論)の一般向けの解説書です。

1~3章では、数学研究活動一般説明や、著者と望月教授交流の話をし、それを踏まえて、IUT理論画期的であること、またそれ故に多くの数学者には容易には受け入れられないことなどを説明しています

4~7章では、IUT理論の基本理念(だと著者が考えているアイデア)を説明しています技術的な詳細には立ち入らず、アイデア象徴する用語フレーズを多用し、それに対する概念的な説明や喩えを与えています

8章がIUT理論解説です。

まず、数学科の学部3年生以上の予備知識がある人は、8章だけ読めばいいです。1~7章を読んで得られるものはありません。これはつまり「本書の大部分は、IUT理論本質的関係ない」ということです。これについては後述します。

各章の内容

1~3章は、論文受理されるまでの流れなどの一般向けに興味深そうな内容もありましたが、本質的には「言い訳」をしているだけです。

IUT理論が多くの数学者に受け入れられないのは、従来の数学常識を覆す理論から

望月教授が公開された研究集会などを開かないのは、多数の人に概要だけを話しても理解できないから。

などの言い訳が繰り返し述べられているだけであり、前述の論文発表の流れなどもその補足のために書かれているに過ぎません。こういうことは、数学コミュニティの中でIUT理論懐疑的人達説明すればいい話であって、一般人に長々と説明するような内容ではないと思いますもっとも、著者が一般大衆も含めほとんどの人がIUT理論懐疑的である認識して本書を書いたのなら話は別ですが。

4~7章は、「足し算と掛け算の『正則構造』を分離する」とか「複数の『舞台』の間で対称性通信を行う」などの抽象的なフレーズが繰り返し出てくるだけで、それ自体の内容は実質的説明されていません。

正則構造とは、正方形の2辺のように独立に変形できないもの

対称性とは群のことで、回転や鏡映などの操作抽象化したもの

のように、そこに出てくる「用語」にごく初等的な喩えを与えているだけであり、それが理論の中で具体的にどう用いられるのかは全く分かりません(これに関して何が問題なのかは後述します)。そもそも、本書を手に取るような人、特に1~3章の背景に共感できるような人は、ここに書いてあるようなことは既に理解しているのではないでしょうか。特に6~7章などは、多くのページを費やしているわりに、数学書に換算して1~2ページ程度の内容しか無く(誇張ではなく)、極めて退屈でした。

8章はIUT理論解説ですが、前章までに述べたことを形式的につなぎ合わせただけで、実質的な内容はありません。つまり、既に述べたことを並べて再掲して「こういう順番で議論が進みます」と言っているだけであり、ほとんど新しい情報は出て来ません。この章で新しく出てくる、あるいはより詳しく解説される部分にしても、

複数数学舞台対称性通信をすることで、「N logΘ ≦ log(q) + c」という不等式が示されます。Θやqの意味は分からなくてもいいです。

今まで述べたことは局所的な話です。局所的な結果を束ねて大域的な結果にする必要がありますしかし、これ以上は技術的になるので説明できません。

のような調子で話が進みますいくら専門書ではないとはいえ、これが許されるなら何書いてもいいってことにならないでしょうか。力学解説書で「F = maという式が成り立ちます。Fやmなどの意味は分からなくていいです」と言っているようなものだと思います

本書の問題

本書の最大の問題点は、「本書の大部分がIUT理論本質的関係ない」ということです(少なくとも、私にはそうとしか思えません)。もちろん、どちらも「数学である」という程度の意味では関係がありますが、それだけなのです。これがどういうことか、少し説明します。

たとえば、日本には「類体論」の一般向けの解説書がたくさんあります。そして、そのほとんどの本には、たとえば

素数pに対して、√pは三角関数特殊値の和で表される。(たとえば、√5 = cos(2π/5) - cos(4π/5) - cos(6π/5) + cos(8π/5)、√7 = sin(2π/7) + sin(4π/7) - sin(6π/7) + sin(8π/7) - sin(10π/7) - sin(12π/7))

4で割って1あまる素数pは、p = x^2 + y^2の形に表される。(たとえば、5 = 1^2 + 2^2、13 = 2^2 + 3^2)

のような例が載っていると思います。なぜこういう例を載せるかと言えば、それが類体論典型的重要な例だからです。もちろん、これらはごく特殊な例に過ぎず、類体論一般論を説明し尽くしているわけではありません。また、類体論一般的な定理証明に伴う困難は、これらの例とはほとんど関係ありません。そういう意味では、これらの例は類体論理論的な本質を示しているわけではありません。しかし、これらの例を通じて「類体論が論ずる典型的現象」は説明できるわけです。

もう一つ、より初等的な例を出しましょう。理系なら誰でも知っている微分積分です。何回でも微分可能実関数fをとります。そして、fが仮に以下のような無限級数に展開できたとします。

f(x) = a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + ... (a_n ∈ ℝ)

このとき、両辺を微分して比較すれば、各係数a_nは決まります。「a_n = (d^n f/dx^n (0))/n!」です。右辺の級数を項別に微分したり積分したりしていい場合、これはかなり豊かな理論を生みます。たとえば、等比級数の和の公式から

1/(1 + x^2) = 1 - x^2 + x^4 - x^6 + ... (|x| < 1)

両辺を積分し、形式的にx = 1を代入すると

arctan(x) = x - x^3/3 + x^5/5 - x^7/7 + ...

π/4 = 1 -1/3 + 1/5 - 1/7 + ...

のような非自明な等式を得ることができます。これは実際に正しい式です。また、たとえば

dy/dx - Ay = B (A, B ∈ ℝ、A≠0)

のような微分方程式も「y(x) = a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + ...」のように展開できて項別に微分していいとすれば、

Σ((n+1)a_{n+1} - Aa_n) = B

  • a_1 - Aa_0 = B
  • (n+1)a_{n+1} - Aa_n = 0 (n ≧ 1)

よって、

  • a_{n+1} = Aa_n/(n+1) = A^n (B + A a_0)/(n+1)! (n ≧ 0)

a_0 = -B/A + C (Cは任意の定数)とおけば、

  • a_n = C A^n/n! (n ≧ 1)

「e^x = Σx^n/n!」なので、これを満たすのは「y = -B/A + Ce^(Ax)」と分かります

上の計算正当化する過程で最も困難な箇所は、このような級数収束するかどうか、または項別に微分積分ができるかどうかを論ずるところです。当然、これを数学科向けに説明するならば、そこが最も本質的な箇所になりますしかし、そのような厳密な議論とは独立に「微分積分が論ずる典型的現象」を説明することはできるわけです。

一般向けの数学の本に期待されることは、この「典型的現象」を示すことだと思います。ところが、本書では「IUT理論が論ずる典型的現象」が数学的に意味のある形では全く示されていません。その代わり、「足し算と掛け算を分離する」とか「宇宙間の対称性通信を行う」などの抽象的なフレーズと、それに対するたとえ話が羅列されているだけです。本書にも群論などの解説は出て来ますが、これは単に上のフレーズに出てくる単語注釈しかなく、「実際にIUT理論の中でこういう例を考える」という解説ではありません。これは、上の類体論の例で言えば、二次体も円分体も登場せず、「剰余とは、たとえば13 = 4 * 3 + 1の1のことです」とか「素因数分解ができるとは、たとえば60 = 2^2 * 3 * 5のように書けるということです」のような本質的関係のない解説しかないようなものです。

もちろん、「本書はそういう方針で書く」ということは本文中で繰り返し述べられていますから、そこを批判するのはお門違いなのかも知れません。しかし、それを考慮しても本書はあまりにも内容が薄いです。上に述べたように、誇張でも何でもなく、数学的に意味のある内容は数学書に換算して数ページ程度しか書かれていません。一般向けの数学の本でも、たとえば高木貞治の「近世数学史談」などは平易な言葉で書かれつつも非常に内容が豊富です。そういう内容を期待しているなら、本書を読む意味はありません。

繰り返し述べるように本書には数学的に意味のある内容はほとんどありません。だから、極端なことを言えば「1 + 1 = 2」や「1 + 2 = 3」のような自明な式を「宇宙宇宙をつなぐ」「正則構造を変形する」みたいに言い換えたとしても、本書と形式的に同じものが書けてしまうでしょう。いやもっと言えば、そのような言い換えの裏にあるもの数学的に正しい命題意味のある命題である必要すらありません。本書は少なくとも著者以外にはそういうもの区別が付きません。

本書の続編があるなら望むこと

ここまでネガティブなことを書いておいて、何食わぬ顔でTwitter加藤先生ツイートを拝見したり、東工大京大に出向いたりするのは、人としての信義に反する気がするので、前向きなことも書いておきます

まず、私は加藤先生ファンなので、本書の続編が出たら買って読むと思います。まあ、ご本人はこんな記事は読んでいないでしょうが、私の考えが人づてに伝わることはあるかも知れませんから、「続編が出るならこんなことを書いてほしい」ということを書きます

まず、上にも書いたような「IUT理論が論ずる典型的現象」を数学的に意味のある形で書いていただきたいです。類体論で言う、二次体や円分体における素イデアル分解などに相当するものです。

そして、IUT理論既存数学との繋がりを明確にしていただきたいです。これは論理的な側面と直感的な側面の両方を意味します。

論理的な側面は単純です。つまり、IUT理論に用いられる既存重要定理、およびIUT理論から導かれる重要定理を、正式ステートメント証明抜きで紹介していただきたいです。これはたとえば、Weil予想からRamanujan予想が従うとか、谷山-志村予想からFermatの最終定理が従うとか、そういう類のものです。

直感的な側面は、既存数学からアナロジーの部分をより専門的に解説していただきたいです。たとえば、楕円曲線のTate加群が1次のホモロジー群のl進類似であるとか、Galois理論位相空間における被覆空間理論類似になっているとか、そういう類のものです。

以上です。

加藤文元先生望月新一先生、およびIUT理論研究・普及に努めていらっしゃるすべての方々の益々のご健勝とご活躍を心から祈り申し上げます

2020-07-17

何事も、センスの無い奴は駄目

以下、センスという言葉字義通りの意味、つまりテクニカルな要素に先立つ感覚的な要素の意味で用いる。

センス知識技術に先立つ

これは考えてみれば当然だ。

たとえば力学質量や速度などの概念理論的に定義されるから存在するわけではなく、それに対応するもの感覚認識として存在しており、理論はそれを上手く反映したモデルなのだ

いくら数式の変形が得意でも、速度という概念日常的な感覚として理解できていなけれは、力学理解することは不可能だろう。

もちろん、知識によって補強されるセンスもある。たとえば電磁気学概念の多くは、力学概念アナロジーであるから力学を正しく理解していることが、ここでいうセンスに該当する。

なお、センスというのはプラスアルファ特別な才能ではなく、必要条件に過ぎない。

どうしようもなくセンスが無い人たち

センスの無い人には話が通じない。だから困るのである

彼らは、自分理解できないことを話し手説明のせいにしたがるが、ほとんどの場合、彼らのセンスが無いのである

普通の人に何かを系統立てて説明する場合、以下のような手順を踏めば、よほど前提知識が足りていない場合を除いて、おおよそ通じる。

  1. それを考察する経緯、それによって解決される問題などを示す
  2. 一般的原理解決法を示す
  3. 具体的な状況への適用例や、注意すべき事項・例外などを示す

2番目と3番目は入れ替えても構わない。これは演繹的に考えるか、帰納的に考えるかの違いであり、どちらか一方が優れているというものではない。

およそどんな分野にも、異常にセンスのない

奴は存在して、奴らは、どんなに言葉を変えて説明しようが、具体例を示そうが、たとえ話をしようが、絶対理解しない。

何せ、センスの無い奴は上の工程のどの箇所も、特に(1)すら理解していないからだ。奴らはたとえば、「2次方程式を解くのは1次方程式を解くよりも難しく、別の方法必要になる」というところからまず理解していない。こういう奴らに平方完成とか教えても無意味である

よくある勘違い

教育ナイーブ幻想を抱いている奴は、適切に教えれば誰でも理解できると思っている。特に、分からない原因を突き止めて改善すれば分かるようになると思い込んでいる。たとえば、微分法で接線の方程式が分からないのは、2点を通る直線の方程式の立て方が分からいからだ、とか。

もちろん、これは原理的には正しいのだろうが、ほとんど現実的ではない。おそらく、小学校低学年まで遡らないと、そういう原因を解消することは不可能だろう。

センスの無い奴に欠けている能力

センス問題を感じる奴の多くに欠けていると思うのが、言語的なセンスだ。

たとえば、プログラミングを教えていると、「ソースコード」や「オブジェクト」という言葉意味が分からなかったとか、フィードバックしてくる奴が結構いる。もちろん、一部はやる気が無くてそういうことを書いているのだろうが、数が多いので実際にそういう奴はいるのだろう。

普通の人はそんな感想は抱かない。その話の中でそれらの語が何を指しているのかは明らかであるし、そもそも「それらの語の厳密な定義を知らなくても内容は理解できる」ということは分かるからだ。

このレベルの話で、そういう人たちが各々納得する説明を考えていたら、何も教えることはできない。

2020-07-16

anond:20200716125858

アナロジーに乗っかって答えると、

金を運ぶやつが病原菌かもしれないが、感染るとも決まっていなければ、その病気が致命的とも限らない。

壊死は、もうし始めていて、拡大を抑えるフェーズに移行していて、こちらは致命的かもしれない。

2020-06-06

anond:20200606233502

自分らだけ損してるみたいなアホらしいアナロジーばっかりだな

2020-03-14

anond:20200314090900

この人が述べていることは

歳をとって人生経験やさまざまな思考方法が身につくと

丸暗記しただけでは「なぜそうなるのか」の筋道構造がわからないことでも

迂回した思考や他の物事とのアナロジーによって「なぜそうなるのか」が

理解・納得できるようになる

――ということではないのだろうか

そうであるとすれば

単に「何でも1度勉強を中断・放置すれば数日後にはわかる」

などという便利な話ではなく

あらかじめ物事筋道構造を考える思考を身につけていたり

勉強している内容の近接領域の別の課題にも興味を持ったり

していなければ無意味だと思う

元増田は本当に「数日おいたらわかっちゃう才能」の持ち主かも知れんけど…)

2019-11-02

anond:20191101132056

なんでそこで恋愛アナロジー持ち出すかが分からんのよな。

好きな人の親なら敬意は持つし、声優もどちらかというとキャラの持ち物よりは親だと思うが。

俺もそういう意味では好きになった作品クリエイターには敬意を払うよ。

2019-11-01

渋谷は谷

文字通り渋谷は谷だ。宇田川渋谷川に代表されるいくつかの川に削り出された地形、その底にあるのが渋谷の街なのだブラタモリ渋谷あたりの地形の断面図を見たことがある方も多いのではないだろうか。

谷というのは清流ばかりが流れ込む場所ではない。雨が降れば澱やら泥やらが流れ込み堆積する。

こと渋谷には面白いアナロジーが成立する。きらびやか若者文化ばかりでなく、時々はゴミみたいな文化若者が流れ込んできて明け方まで滞留している。

渋谷というのが時流に敏感な街であるからには、いずれ起こる革命渋谷からまらないはずがない。その時諸君青山あたりで高みの見物か、それとも我々とともに戦車を横転させるのか。今のうちに考えておいて欲しい。

2019-09-07

行動主義心理学10分で理解する

はじめに

行動主義はJ.B.Watsonが最初提唱した心理学哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。

しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義自称している行動主義者は現代はいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。

そこで、行動主義誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。

Watson の行動主義

行動主義は、Watson が 1913 年に提唱した。

Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学対象客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。

当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。

Watson が反対したのは、Wundt の方法である人間自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能事象関係研究対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。

また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代身体性を重視する心理学認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。

さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。

注意しなければいけないのは、Watson の行動主義立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判歴史的な批判以上の何物でもなく、現代科学議論ではない。

では、行動主義を自認する現代研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である

Skinner の徹底的行動主義

Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。

Skinner は、科学目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。

徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学重要対象であるとはっきりと述べている。

逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明である。心的な活動実在するし、それ自体研究対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。

ただし個人見解としては、行動分析学ほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。

行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。

(1) 「反応」を運動パターンとして定義するのではなく、「どんな結果事象を引き起こすのか」から定義する機能主義
(2) 人間の営みを超えた真理探究ではなく、行動の予測制御という現実的有効性の上昇を目指すプラグマティズム
(3) 仮説構成体・仮説群から研究演繹するのではなく、実験結果から法則抽出する帰納主義

なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人いるかもしれない。

Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータ必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係データの蓄積を重視した。

まりあくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。

ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。

また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。

Skinner と同時代の行動主義 (新行動主義)

Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。

ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくま歴史的な展開として捉えるべきである

Guthrie

Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学研究対象客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。

Hull

Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数挙動の変化により行動の予測に挑戦した。

Hull の研究問題点は、いたずらに潜在変数いくらでも増やせてしまい、理論肥大化する危険はらんでいるためである特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論必要か?」という論文理論研究批判していているのだが、Skinner が批判たかったのは Hull の心理学だったのである

Tolman

Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。

Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である

現代視点で見ると、認知心理学下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。

ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義立場からすると方法論的行動主義立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義なのだ

なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象研究をする。公的事象操作 (実験条件) を通じて、内的事象定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である

Skinner 以降の展開

1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。

Heyes の機能文脈主義

Skinner の行動分析学プラグマティック科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパースジェームズデューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。

Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学目的である予測制御寄与しないと考えたことも一因である

Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。

具体的には、「態度」を測る質問研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。

このような、伝統的な行動主義比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学自由主義化」であると述べている。

少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である

また、機能文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。

行動主義科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。

これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造プロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。

Baum、Rachlin の巨視的行動主義

巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。

(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」

Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。

巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性行動主義心理学分析単位であると主張している。

まりミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロ環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である

行動主義心理学目的予測制御に置くならば、結局はマクロ記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。

(2) 内的出来事の導入の拒否

Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。

彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである

このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである

Staddon の理論的行動主義

Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学必要であると考えた。その点は、実験結果から法則抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である

行動主義心理学目的は、予測制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズム表現」の位置心理学位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。

Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくま心理学レベルでの記述である

ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。

Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析単位とするかは、それ自体研究立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉表現している。

それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである

また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカル議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。

一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義認知心理学を分ける特徴の 1 つであるしかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。

おわりに

以上、行動主義 100 年の歴史簡単に振り返ってみた。

色々なアイデアはあるものの、基本的現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学議論として行動主義批判したければ、Skinner を相手にするべきである

行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解責任基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。

個人的には、アンチ信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワーク出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。

2019-08-10

フーコー言葉と物、二の三「世界限界」を読んだ。

アナロジー実在するものと結びつき、別の相似が支えてそれを支えるのは別の相似、、というので、世界の別のものと結びつけるほかないという意味で別のところに究極の答えがあるわけではないという意味限界がある。多分

合理性近代人が自己特性として至上のものと考えてるけど、占卜も博識も同じ解釈学だった。シーニュと相似者があるだけ。シーニュソーニャは似てるけど関係ない。勉強哲学はやはり分かりやすくて良い本だったんだな。

2019-07-14

anond:20190714224111

あれは遺伝的な自閉症家系物語だよ

そのまま描くと生々しいから、狼のアナロジー表現しているんだ

インド狼少女伝説もつながっているね

父親療育を受けないまま育ち、水に飛び込んで死亡

母親難関大学に受かったけど衝動的な人生設計により中退するしかなくなる

長女→クローズド人間社会の中で生きていく道を選ぶ

長男個性を生かし、野生児として山で生きていく道を選ぶ

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