「通底」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 通底とは

2020-06-08

anond:20200608201202

性的消費という単語意味はよく分かりません。この言葉は、あまり英語圏では見ないため(日本語訳と原語がかけ離れているのかもしれません)、性的搾取以上によくわかりません。もしかしたら日本まれ言葉なのかもしれません。

一応、性的販促/Sex sells (女性、たまに男性、の性的魅力による商品ないしメッセージ等の販促)あるいはそれを是として推進する性的消費主義/Sexual consumerismなんて言葉もありますが、それでしょうかね?

せっかくなので、同じようによく使われる上、ある程度定義も見つかる性的搾取という言葉についても解説したいと思います

性的搾取/Sexual exploitationという言葉は、特に近年の乱用により様々な意味付与され、具体的な定義をすることは難しいです。

しかしながら、ある程度の基本ラインは維持されております

性的搾取基本的意味(基本形)は「他者の性を利用して(不当に)利益を得ること」です。ここでいう利益金銭のみを指すのではなく、性的満足なども含まれます

具体例を挙げますと、

強制的(騙したり、地位を利用したりすることも含まれる)に売春従事させる

強制的ポルノ従事させる、あるいは演者許可を得ずにそれを流通させる

リベンジポルノ

盗撮映像流出販売

児童売春、およびそれを保護者/監督者が看過、許可、ないし奨励する

児童ポルノ

などです。

基本形に対して搾取者の地位/立場濫用を加味する場合も多いです。「自身地位/立場濫用であって、他者の性を利用して利益を得ること」

多くの場合児童性的搾取/Child sexual exploitationにおいて地位立場意識されます。多くは保護者、少なくとも大人という、子供よりパワーのある存在によって、それが為されるからです。

その性質上、児童性的搾取児童虐待/Child abuseの一形態として扱われます

法的、国際的議論において性的搾取という場合、これを指すことが多いです。

具体例を挙げますと、

児童との性交

児童売春、およびそれを保護者/監督者が看過、許可、ないし奨励する

児童ポルノ

などです。

国連性的搾取という言葉意味定義しています

国連定義性的目的での(相手の)弱い立場、力の格差あるいは信頼の濫用行為またはその試みである他者性的搾取から金銭的、社会的または政治的利益を得ることも含まれるがこれに限定されるものではない。Any actual or attempted abuse of a position of vulnerability, differential power, or trust, for sexual purposes, including, but not limited to, threatening or profiting monetarily, socially or politically from the sexual exploitation of another.

後段は分かりにくいかもしれませんが、例えば児童売春場合あっせん行為もまた性的搾取になるということです。


上記の3つはかなり似通っていることがわかると思います。これらはある程度明文化された領域(法令や国際条例等)で用いられる定義なので、差が少ないのですね。

これらは主に実在人間に対して使われますが、児童ポルノ(二次)等も児童への性的搾取を推奨する物として規制されることがあります

ちなみに、話は変わりますアメリカにはExploitation fiction/filmという言葉があり、エログロドラッグ背徳系のB級作品に使われていました。


さて、上記定義日本ネット界隈でカジュアルに使われている性的搾取とは、どうも違うような印象を受けます

考えてみましょう。基本ラインはおそらく通底しています。「他者の性を利用して利益を得ること」でしょう。

エロい絵で、褒められたり、それを売って金銭利益を得る

性的表現で購買意欲を誘う

などです。

さらに付け加えるなら、アンチポルノフェミニスト的な観点悪魔合体しているように思われます

性的表現により女性蔑視を助長することで、家父長制というイデオロギーを存続させるという利益を得ている

・性産業従事者はすべて強制されている(本人が自分意志従事していると考えている場合でも)

・"性的"という言葉レンジが非常に広い(例えば、キャサリンマッキノンは女性が抑圧されている描写があればそれはポルノであると述べました)

まとめると、性的搾取定義の基本ライン踏襲しつつ、被搾取者を非実在存在にまで拡張させ、さらに"性的"および"強制"という言葉を非常に広くとったものが、日本ネット界隈でよく使われる"性的搾取"と言えるのではないでしょうか。

性的社会的あるいは政治的利益を得るための創作物(フィクション)中の表現であって、視聴者あるいは読者の主観に基づき"性的"である判断されたもの、およびそのような表現を含む一連の創作物

※これはあくまで私の考えた定義に過ぎず、私の観測範囲依存していることをここに記します。

設定改変が分かってるメディアミックスを観るための準備運動



 観たら絶対自分は怒るだろうなと分かっている映画がある。原作小説がとても好きで、映画化の際に「そこは変えちゃ駄目だろ」と思うような根底の部分にドひどい改変をされた映画だ。予告CM開始3秒でそれが分かったので公開当時は絶対観ないと決めていたし、観るような気分になる日が来るとは思ってもみなかった。

 しか最近、「公式との解釈違い」のような文言を用いて苦しむ人々をよくSNS上で目にするようになってその映画存在を思い出し、いい機会だから観てみようかなと思った。何かコンテンツとの付き合い方における知見を得られるかもしれないし。原作版を大事に思いつつも、派生版も楽しんで愛せるような人間になれるならなりたいし……。

 観た後では感情が大きく動いて今の気持ち100%は思い出せないだろうから、観る前に今抱いている改変ポイントについての思いを書きとめておく。

 (ひとつその映画について鑑賞前から確実に言える腹立たしい点は、原作者が亡くなった途端にその映画が作られ、「映像化は不可能と言われていた名作が遂に!」みたいな売り文句付きで世に出された事だ。映像化を何度も断ってきていた作者だから余計に……今までは作者が止めていた設定企画を、もう止める者がいない+追悼とか言える勢いから好き勝手にやっただけではないのかと思う。せめて存命中の公開なら「作者はこの映画化を了承したんだな」と思えたし、そうしたらきっと作者は何かしらのコメント映画へ寄せるだろうから、それを見られればもうそれで良かった。原作レイプ(こんな言葉があったのを久々に思い出した)を通り越して屍姦みたいだ。大切な人の墓に立小便をされた気分だ。)

 映画タイトルは『悪童日記』と言う。原作小説も同題だ(海外文学の中では普通によく知られてる方だと思うので、勿体ぶった言い方をしてしまって少し恥ずかしい)。

 十年以上前、私は好きな作家たまたま雑誌でこの本に言及するのを読んで、高校夏休み中に手にとったそれに首ったけになり、ひと夏の間何度も何度も繰り返し読んで過ごした。だからこんな、映画を観るのに支障をきたすほどに思い入れが強くなってしまったんだと思う。

 しかそもそも映画化されたものをこき下ろしたい訳ではなく、映画映画として楽しめる作品にするためには原作からの多少の改変もやむを得ないというのは充分承知の上だ。だからこの作品についての改変もなんとか納得したいという思いから、今自分は何に納得いっていないかを整理して考えたく、文章に起こしている。

 (このカッコ内は余談なのでとばしてくれて構わないが個人的に、映画化された作品映画原作の順でふれた方が大抵の場合はどちらも楽しめるように感じる。原作映画の順だとカットされた箇所や改変部分が気になってしまって映画100%楽しめない事もままある。例えば私は『ジュラシック・パーク』に映画から先に入ったおかげでスピルバーグのあの映画メチャクチャ最高不朽の名作だと思っているが、もしも原作小説を先に読んでいてファンだったら、そこまで手放しで褒められたかは分からない。映画原作では構成人物もかなり別物だからだ。原作ではティムレックスティムの方がしっかり者の兄でレックスは足ばかり引っ張る幼い妹だし、Tレックスは二頭いて小さい方がかなりチャーミングだし、グラン博士最初から子供に優しいし、ハモンドさんはかなり嫌な感じの爺さんでコンピーに集られて無残に死ぬのだ。)

 改変箇所について書いていきたい。

 映画の予告から分かる改変箇所は主に「父親存在」「日記帳というアイテム出自」だ。私はこれがこの物語においてかなり重要パーツだと思っているので、予告CM開始3秒で見られる改変にガタガタ白目をむき憤死する羽目になった。

 原作小説主人公双子少年)の一人称「ぼくら」で書かれた日記形式をとっている。彼らが母親に連れられて小さい町の祖母の家に疎開してくる所から話は始まる。詳しいあらすじが知りたい人は原作wikihttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E7%AB%A5%E6%97%A5%E8%A8%98)でも見てくれ。ラストまでネタバレされてるから気をつけて。別にあらすじを知らなくてもこの文章を読むのに支障はないと思う。そういうふうに書けていることを願う。

 父親云々の話に戻ろう。

 主人公家族について、母親は冒頭から登場するし、すぐに主人公たちを置いて行ってしまうがその後、他の男の赤ん坊を連れて二人の前に現れ、どうこうなるくだりがある。二人が母親に対して色々思いを抱いていることが分かるような描写もある。

 描写があるという事は、書き手である主人公双子がそれを必要だと判断したという事だ。詳しくは後述するがこの日記はそういうルールの元で書かれている。主人公が無関心もしくは不必要だと判じたものは書かれず、必要ものけが書かれる。例えば作中の時代設定は戦争なのだがそれが一体いつの戦争なのか、年号国名地名人名などの固有名詞ほとんど出てこない。<大きな町><さな><解放者たち>などの言葉しかからない。関わる人々も名前はなく、ほとんど代名詞役職あだ名などでしか呼ばれない。双子自身名前も出てこない。彼らは大抵はあんた達、時に祖母からは雌犬の子などと呼ばれる。

 父親は出てこない。ラスト数頁まではほとんど。

 「父親の不在・不干渉」が、この小説(というか作者であるアゴタ・クリストフ作品はわりとどれも)に通底するテーマひとつだと私は思っている。そして出てこないということはそれは「書かない」という姿勢主人公たちの無関心を示しているのだから映画にも変にひっぱり出してほしくなかったのだ私は。しか作品の根幹である日記に関する部分で。一原作ファン気持ちを言わせてもらうならば。

 以下は物語終盤のネタバレとなるので、知りたくない人は読まない方がいい。

 原作の終盤、国境付近にある双子(主人公)の家に、国境を越え亡命したいという一人の男が訪れる。双子その男自分たちの父親だと気がつくが、父親は二人が自分の息子だとは気付かないまま、亡命の協力を頼みこむ。双子はそれを承諾する。国境までの間には地雷があちこちに埋まっているし、軍の見張りもある。双子は彼に地雷が埋まっていない道筋や、見張りの目の外れる時間帯などを教える。

 亡命決行の日、父親国境へたどり着く前に見事地雷を踏み抜いて死ぬ。すぐにその足跡の上を双子の片割れが辿り、その死骸も踏みつけて国境を越え、亡命を果たす。地雷国境と平行して並べられている。一度爆発した地雷国境を結ぶ線上にはもう地雷は無いので、先に一人立てるのが最も安全亡命のやり方だ。

 原作小説ではこの場面がラストだ。一人は父親の死骸を踏み越え国境の向こう側へ渡り、一人は残ってそれを日記に記録する。父親殺しと、それまで一心同体のようだった双子別離が同時に強く印象づけられて終わる。

 それなのに映画ではどうして、別れる息子達に日記帳を与えるような父親像に変え、それを受けて日記を書く子供たちに設定したんだ? 原作では双子自分たちの稼いだ金と自分たちの意志で紙と鉛筆を買い、自分たちの定めたルールの元で事実だけを、ただ必要と思われた事だけを淡々と記録し続ける。彼らは感傷感情は不必要とし、そういったウェットなものが取り払われ切り詰められた文体はこの作品の特長の一つだ。彼らの考えのもと自発的に書かれていくそ日記こそが『悪童日記』という作品となっているのだから日記帳というアイテムとその経緯は何というかかなり……成り立ちの部分ではないのか? この作品の根幹において、重要位置を占めるはずだ。

 それが映画はいきなり、別れる父親から最後プレゼントという陳腐でウェットなしろものとなる。双子は父の言いつけを守り日記を書き出す。制作側はそこに何の違いもないだろうと思ったのかもしれないが、違うのだ! と言わせてもらいたい。強く。

 日記帳は、それにものを書き続けるということは、戦時下に父とも母とも別離し粗暴で抑圧的な祖母宅に身を寄せねばならなくなった主人公双子が、初めて自分たちで選び獲得した、何かそれこそ父親教師代わり(彼らは学校にも行かない)のような、「この世界で生き抜く上で己の力になり、時に導いてくれる(と彼らが信じ掴んだ)モノ」だ。繰り返しになるがそれを「彼ら自身が」、彼らの面している世界であるところの小さな町で、そこの文具店で「身銭を切って」獲得した点が肝心なのだ。この話は平たく言えば庇護されない子供たちが、彼らの対峙する厳しい世界の中で、自身の力で何とかやっていこうとする物語からだ。

 「父親から与えられた道具」では過ぎ去りし想い出のよすがであるばかりか(感傷双子がつとめて日記から排除してきたものの一つだ)、それが上の者から与えられたという性質上、彼らにとってただの環境の一つに過ぎない。それでは全く意味が違ってしまう。そうでは無いのだ。彼らは道具がたまたま得られたから書くのでは無く、もちろん父親に言われたから書くのでも無い。書くことは彼らが生きるために必要で、だから彼らは道具を求め、書いた。「書くこと」自体彼らの周りには教えてくれる者がおらず、二人は一冊の聖書を使って独学で読み書きを学んでいった。

 「彼らが巻き込まれしかなかった環境に逆らって、初めて自分で望み獲得したモノ」であったはずなのだ、この日記帳は。「書く」という行為は。そういう意味合いがあったのだ、原作の中では……。

 そしてこれは作者の生い立ちや創作の源泉とも重なることが多いので(この作品を含めた彼女作品群は半ば私小説と呼べるものが多い)、私は映画でこんな改変をされた事について作者の気持ちを思うと、勝手にやり切れないものを感じてしまう。作者はもう亡くなっており、死者が尊重されないのは彼女作風からするとむしろ合っている事なのかもしれないが……。

 とりまとめて言えばまだ子供な上にただでさえ不自由が多い戦火の中、それが主人公たちにとっての武器であり糧であり強く生き抜くためのモノだった日記帳が、映画ではまるで父親から受け取った愛みたいなものに、ともすれば別れた父親を想って書かれているようにも受け取られるものすり替えられてしまった。かなりアイデンティティぶっ潰れではないか? どうしてそんなことをしたんだ? この日記は彼らの「書く」という意志のもとの話でしかないのにその根本を摘み取り別な物に置き換えたのは何故? 映画を観れば何か納得できる答えは得られるだろうか。頼む、納得させてくれ! 煽りではなく心からそう思っている。

 観たら本当にメチャクチャ怒り狂ってしまうかもしれないので心の準備をするためにいくつか映画レビューを読んだのだが、映画では日記帳パラパラ漫画が描き込まれている描写があるという。パ……パラパラ漫画!? と二度目の憤死をした。あの全ての無駄を省き贅肉を削ぎ落としたような原作文体淡々事実の記録しかしない所に物語的にも大きな意味が込められている事を知っているはずの制作側はどうしてそんな付け足しを? 主人公(ひいては作者)が定め、遵守してきたルールを踏みにじるような真似を……どうして……。

 

 もちろん、映画化された事によって現代日本の読者から想像もつかないような、主人公たちが生きた当時の暮らし風土感覚などを凄いリアリティで感じられる事などについては大変嬉しく思う。そういった映像表現についてはきっと素晴らしい映画であるだろうと感じられるのだ、予告からだけでも。

 主人公双子を演じる少年たちのビジュアルも、原作から受ける印象そのままと言っていい。もうそれだけでも十分以上のものだし、納得出来ない点があっても他に目を向けて感謝して観れば良いのだ……と思えるようになるまでに何年もかかってしまった。映画が公開されたのは2013年のことだ。

 私は本当にこの映画を観て納得したいし、納得出来なくてもそれはそれで良かったと思えるようになりたいと本気で願っているが、どこまでまっさら気持ちでこの映画を受け止められるかが分からない。願わくばこの物語に関する記憶を消して映画を観られたら、その後で初めて原作を読めるのなら、とても幸せなことだと思う……。でも、それは無理な話だ。

 だから私はこれから記憶思い入れも抱えたまま歯を食いしばってでも全部観て、自力で噛み砕いて納得するしかない。きっとそれはこの先の自分にとって有意義ことなんだろうが、こんな文章をジタバタ書いて整理しないと腹がキマらない位には苦しいものがあった。長くなってしまったが、読んでくれた方は本当にありがとう

 せめて映画ではラスト父親ちゃん地雷で惨たらしく死んで、主人公はその死骸を踏んづけてくれるんだろうなあ!? などとうるさく言いながら観ることにする。そういう観方でもしなかったら多分無理だ。その後言える感想があったら追記する。怒り狂っていたらすまない。

☆いきなり管を巻きまくってしまったが、小説悪童日記』はマジの名作の上にアッと言う間に読めるので、気が向いたら是非読んでみてほしい。もし面白かったなら続き(『ふたり証拠』、『第三の嘘』)もある。全三部作で、全て読むと分かる構成が本当に、本当に素晴らしいんだ。

2020-05-18

anond:20200518171315

もともと小説書きで近年は作品分析ばかりしてるものだ。

基本的キャラスカスカになる以前に、お前が何やりたいか決めてないかキャラが出てこないんだよ。

何百もの作品を論評してストックしているが、悪い作品は大体テーマがない。

これを訴えたい、こうしたいというテーマがあればそれに見合ったキャラは出てくる。

以前ラノベ書きが最終選考まで残ったなんて増田が透過されていたが、そいつは設定が全てだと言っていた。

俺はこれに異を唱えたい。面白い作品作品通底するテーマがある。テーマが一番で設定は二番、三番くらいだ。

では仮に二番目があるとすればなにか。それはシナリオラインだ。

テーマシナリオが決まれば、自ずとそこで動かしやすキャラや動けるキャラは決まってくる。

それまでキャラ記号書きで良いくらいだ。いわゆるAさんBさんでいい。

ただしこの書き方は毎話盛り上がりを持ってくるコメディや、毎話クライマックスを持ってくるラノベ的な話には不適当だ。

テーマの出し方は簡単だ。

例えば自信がない主人公を用意する。そうすると主人公動機自動的自身を持ちたい、になる。

いわゆる「物語の中で銃が登場したならば、それは撃たれなければならない」に近い。

すると自動的になぜ主人公は自信を持ちえなかったのか、という設定まで浮かんでくる。

ちなみにこれは小テーマで、大テーマ必要だ。大テーマとは「物語として何を訴えたい」か。

故にラノベなどの大テーマ皆無の作品には適用しにくいと書いた。

ラノベの大テーマはどんな層を狙ってどんなニッチジャンル開拓たかであって、社会的心理的哲学的テーマを含めにくい。

それでもキャラ起き上がらない場合ぼんやりと「自信がない」設定だけ作り、上記で作ったテーマと設定でこのキャラがどう振る舞うのかを数ページ遊びで書くこと。

こうした試運転キャラがくっきりしてドライブがかかる。

あとはそれを利用して本編を書けばいい。

ラノベアニメ的なキャラ作りで小説を書きたい、という要望なら知らない。

その系列テンプレの中で使われてない属性を探すし行かない。

そもそもテンプレってのは本来中核の動機や悩みの上にかぶせるとキャラ感がまして面白い、程度のものしかない。

テンプレが軸になってる今のキャラは奇妙ではあるんだよ。

2020-05-08

カフカは百年前に「この世は生きにくい」と書いた

anond:20200507171805

元増田意見には全面的共感している。

皆さん、カフカ読んだことありますか?

『変身』読んだことありますか?

『城』読んだことありますか?

双方とも百年以上前に書かれた小説で、それぞれ男性の生きにくさについて書かれています

これらの内容は非常にシンプル

まり、「辿り着きたい場所にどうしても辿り着けない」、ということ。

このようなテーマ長編審判』の作中に登場する掌編、『掟の門前』にも表れていて、これまたカフカを語る上では重要な箇所です。ちなみに、この『掟の門前』について軽くあらすじを述べると、

ある男が「掟の門」の前に辿り着く。

その男は、門番に対して「入れてくれ」と乞う。しかし、門番は決して首を縦に振らない。

門番は言う。「この門をくぐれば終わりという訳ではない。この門の中にも更に門番がいる。更にその門をくぐれば更に門番がいる。屈強な門番達だ。それが繰り返される」

男は門番自分を入れてくれるよう、何年にも渡って乞い続けるが、結局男は門の中に入ることはなく、その命を落とす。

これが基本的カフカ世界観です。

どうしても辿り着きたい場所に辿り着けない。

全力で何かをしようとしても、それは叶えられない。

百年以上前に、彼は現代桎梏の骨子を把握していました。これは現代にも通底する観念です。

百年かかっても問題解決していません。

しろ部分的には悪化してさえいるでしょう。

ブクマカの皆さんは、百年来の問題解決するために、どうすればよいと思いますか?

2020-03-09

ゲーム面白さは「未来」にある

ゲーム面白さ談義

以前増田にてゲーム制作増田猛虎弁だった)と面白さの要素とは何かという話になった。自分はとりあえず面白ゲームには繰り返し要素がある、とだけ返しておいた。しかし繰り返し要素が必ずしも面白さに直結しないのは自明で、繰り返すから飽きられるゲームと、繰り返したくなるゲームの違いは論じることができなかった。

実のところ、ゲームの繰り返しを行う上で脳内では「試行錯誤」が繰り返されている。何を当たり前のことを、と思うかもしれない。しかゲームにおける試行錯誤を更に還元すると「着地点/完成」を探している自分がいることに気づく。例えばハクスラRPG場合プレイヤーは沢山の装備や魔法職業を取捨選択して最適解を探す。言ってみれば安定するかどうかを探していると言っても過言ではない。なぜならこの鉄則は全てのゲームに当てはまるからだ。格ゲーもそうだ。格ゲーコマンド入力フレームリーチディレイなどを頭に叩きこんで安定して勝てるパターンを作り上げてゆく。パズル連鎖を頭に叩き込んで最も安定して高得点を出せるかどうかを練り込んでゆく。



未来とはなにか

ゲーム面白いと言えるシンプルな要素がある。それは「未知」だ。人は未確定で未知なるものを探求する脳の構造をしている。とりわけこれは狩りに必要だったらしく、やはりゲーマー殆ど男性である断じてジェンダー論に帰結するつもりはない)。未知のものを安定させる間が面白さになっている。曰くどう立ち回るか。曰くどう早解きするか、どうすれば早くアイテムを回収できるか。どうすればイベントが進行できるか。このときプレイヤーは未知を楽しみながら未来の着地地点を夢想している。この夢想が更にプレイへの希望をもたせることに一役買っている。まるで人生設計のようだが、実のところ未来への希望を抱いて確定できる「かも知れない」チケットを購入する時点で人生はまさにゲームである

となれば次なる問題は自ずと浮かび上がってくる。ゲームバランスだ。



ゲームバランス

ゲームバランス基本的にな何が破綻せず、何がノーマライズされているかを突き詰める作業ではないかと考えている。いわゆるバランスだけに絞れば出てくるアイテム能力も平均的なものにならざるを得ないし、一点突破させるには他の強さも並列して上昇させなければならない。実はこの問題には解決策がある。破綻した強さに弱点をつけるのである。これを国内で有名たらしめたのはかのFFシリーズだ。FF画期的な要素の一つとして弱点属性なるものがある。これは完全にじゃんけんになっており、いずれかが一方的に強いわけではない(もっとホーリーフレアなど規格外の無属性存在するが)。この完璧ではないもどかしさが重要である。数あるカードゲーをプレイした人はわかるかも知れないが、壊れカードには必ず致命的な弱点が存在する。弱点は完璧性の欠けであり、未来を夢見るプレイヤーにとってできうる限りの完璧を目指すきっかけとなる。ここで多くのプレイヤーが夢中になるのである完璧ではない現状に多くのプレイヤーは満足せず、何がしかの補助手段で弱点を埋めようとする。しかゲームバランスが優れたゲームはその補助も渋い仕様になっており、そう安々と運用させてくれない。

かくしてプレイヤースキルが上昇してゆく。

だが一方で、やりこまないタイプの人もいる。例えばバイオで一周すれば無限ロケランが手に入ると聞かされても、イージークリアすれば十分弾薬も足りるだろうという心境の人たちだ。



ストーリー

こうした人たちの楽しみとは、ゲームに一度きりだけ没入できる演出や飽きるまでの操作感、そして何よりストーリーだろう。

ストーリーは未知に対する動機の一つとなる。プレイヤーはまだ見ぬ着地点であるエンディングに向かってひた走る。少なくともゲームという体感する分野においてストーリー体験して消化する最も大きな要素の一つだ。しかし多くのゲームシナリオがメインではない。あくまでもその世界プレイヤーが何をするかが主軸になる。したがってシナリオクリア後、前述の彼らはゲームパッドを床においてしまう。なぜなら彼らにとってシナリオの完結はゲームという体感世界における完成形であり、それ以上のやりこみ意味を感じられないからだ。実はこの問題には以下のような仕組みがある。

例えばプレイヤーが一周目をクリアして隠し要素が姿を現したとしよう。この場合隠し要素を観るためにプレイヤーゲーム性のみならず「シナリオを含めて」続きをプレイすることになる。この隠し要素の方向性はとても大事だ。なぜなら新しい要素があることと、今までやりこんだ高難易度版が敵配置を変えて登場する、などでは意味が変わってくるからだ。後者場合基本的にはやってもやらなくても知ってることだらけであるし、前者の場合未知は残されている。また、マルチエンドのゲーム場合でも別ルートは未知であり、多くのプレイヤー分岐を試したくなってしまうだろう。

まとめるならば、ゲーム面白くしたいならば、「完成形に向かって未知を突き詰めようとするが、実際には完成形などない」状態を作り出すことだと言える。先程は人生に似ていると言ったが、この感覚習い事にも通底する。プレイヤー学校会社から帰ってきて、学習効率の良い箱庭でまるで仕事のような成長を楽しんでいるのだ。

わざわざである。この体験学習現実世界のロールプレイでもある。

2020-02-26

初々しい感性だの言っても、わしのほうが詳しいとか抜かす知識偏重の連中が潰しに来る。

結果的に古い知識通底するかもしれないが、感性としては新しい作品は潰される。

例えば最近80年台っぽいファッションを街でよく見かけるが、古い人からすればあれは単なるパクリしかない。

ところがリファインが多くの人によって成功すると、それは80年台の頃より洗練されたものとして再登場する。

若い人にこちらができることは、〇〇の焼き直し、と釘を差すことではない。

焼き直しを新たな感性でやったらどうなるのかを見守ることだけだ。

2020-02-25

anond:20200225172100

トレンドがあるのは理解できるけど、20年前の絵と通底してる"オタクが喜ぶアニメ絵"だと思うけどね。そこまで別物じゃないと思う、俺はね

2020-01-27

種族レビュアーズ、共生多様性物語

種族レビュアーズは「共生」「多様性」の物語だ。そういうと笑われる風潮があるようだが、私はそう思う。単行本キンドルで一気買いして、感動すら覚えた。

あらすじを軽く説明すると、人間エルフ獣人天使が、各種族サキュ嬢(風俗嬢)についてレビューするというもの

私が一番好きな登場人物台詞は、「この世界にはパネマジ(※)が必要ない、絶対にどこかの種族が気に入ってくれるから」だ。

パネマジとは言わずもがなパネルマジックのことで、現実世界での風俗用語。嬢が自分を良く見せるために紹介画像では加工しまくりで、実際に会うとガッカリするというアレだ。この世界にはそれがない。なぜなら、あまりにも多様な価値観があるから

象徴的なエピソードとして出てくるのが、人間は500歳のエルフが好き、エルフは50歳の人間が好き、というやつ。「若さ」ということが基準にはなっているのだが、その尺度が全く違うのである。いうて「若さ」を基準にしてるんだろ?それが現実世界ミソジニーとどう違うんだよ?と言われてみれば、全然違う。「若さ」が一本の定規で計られる世界と、百本の定規で計れる世界ではまるで違うじゃないか。百本の定規で計れる「若さ」なら、誰か特定の人を抑圧したりしないだろう。

私が特に好きなエピソードがある。単眼娘の回だ。単眼の村では、目が大きければ大きいほど美しく、価値があるとされていた。そのために、目が小さい(しかし「人間」という種族からすると普通)の娘は、自分に非常にコンプレックスを抱いていたのだ。そして、異種族レビュアーズに、匿名で、単眼娘の店をレビューしてくれるよう依頼する。そこで彼女は学ぶ。「目が大きい」だけが唯一の価値基準ではないことを。単眼娘は「異種族は目の小ささを気にしないというのは本当だったのですね!?」と喜んで飛び跳ねる。「好きな人間に告白する勇気が出ました!」と。

「“違う”ことは救いなんだよ」というのが物語通底するテーマなのだ。ある集団においてもし無価値とみなされても、違う集団では全然違う見方をする人がいる。はてなー大好き「ある場所無能扱いでも転職したら大活躍」なダイバーシティだ。

買春テーマだけれど、そのような職業を本人たちも全く卑下することがないし、男たちもサキュ嬢を蔑むことは全くしない。そういう意味で、現実世界買春売春とはまるで違うのだ。

「○○が作者なんだから、そんなこと考えるだけムダ」「お察し」という意見もある。しか作品が作者の意図を超えうることが、そのような解釈を許容しうることが物語醍醐味だ。物語を「作者の意図」なんていう狭い場所に閉じ込めておく必要はどこにもない。

しかに私も、ヒロインメイドリーちゃんへのセクハラが酷いなど、部分部分で気になる場所はある。主人公のみなさん、風俗嬢に向けるのと同じだけの真摯さをヒロインにも向けてよ!とさえ思っちゃう。(しかしこのツッコミおかしい)

今後、出てきたら嬉しいのは、サキュ嬢達からの逆レビューだろうか。「この種族の客は嬉しい」「この種族は嫌」みたいな。たしかに「評価するもの/されるもの」という非対称性は気になるところだが、そのような荒・欠点は多々ありつつも、これは「共生」と「多様性」を謳った物語だ。

2020-01-21

ニトリCM 回答編

https://anond.hatelabo.jp/20200118002721

この記事を書いた元増田です。なんかえらいことになった。

たくさんのコメント、少数ながら同意など、本当にありがとうございます

いくつか質問が寄せられているようだし、これだけ賑わせてしまたからには説明責任はあると思うのでいくつか答えさせていただきたいと思います

記事を読んで不快になった方や、謎は謎のままがいいという方はUターンを推奨します。

これかな?→ https://www.youtube.com/watch?v=4ZUEHc64l-U

まさにこれです。この記事リンクを貼ると万が一バズってしまったときに謎のアクセス集中が起き、総本山(ニトリ)に激震が走らないかという危惧があったのだが、その結果がこれだよ!

ニトリ広報「あれ? なんか再生回数伸びてる…」

そうこれを恐れているのよ。でも今のところネットニュースになったりみたいな騒ぎにはならなかったようで胸を撫で下ろした。

なんかもう1万回再生行ってるが俺が初めて見た3日前はせいぜい2000回だったような気がするけどそれとこれの因果関係は気にしないことにした。

記事への反応の中の指摘にもあるように、おそらくこのYouTube動画は時期が来れば消えるだろう。

そうなったあと、CMの内容を知らない人が一体どんなCMだったのか永遠の謎をさまよう事態になり、たとえ真実に辿り着いても、それを知った瞬間の失望を考えるととても哀れになる。

そもそもこれ女性なのか? うーん、女性かなぁ……

いやどう見てもお姉さんでしょうこれは…間違いない。

いや間違いがあると俺が困る。いろんな形の愛があっても構わないとは思っているが、こんな俺でも開きたくない扉はある。たとえもし間違いだとしてもその事実は俺が墓に入るまで俺の耳には入れないでくれ。

自我の無さ、人形感がポイントかな?

プルプル動いているのでワイヤーアクションだろうかな。人が人形役割を強いられていることに、触れるところがあるんだろうね

正鵠を射た指摘だ。マネキンを使うのではなく、血の通った生身の人間人形のように捉えているところが良い。

ソファに着地した瞬間にわずかに体が揺れて人間らしさが現れるところが、頑張って人形してるなと思えてポイントが高い。

正直言ってちょっとわかる。道具にされている感というか、なすがまま感というか、自分の"役割"を受け入れてる感というか。

なんというか、ほんと、ありがとう…でも無理しないでねホントに。

俺の性癖を振り返ると、現実ではありえない非現実的なシチュエーションに置かれている女性という通底するひとつテーマがあって、そのシチュエーションが謎であればあるほどツボを刺激されるようだ。

もしかして時間停止ものとか好きですか?

時間が止まる企画AVに近い感覚なのかな

モノによります。たとえばこれなんかすごく良い。

https://youtu.be/jdJZ31SSimg

Twitter時間停止AVというものが流れてきたんだけど、なんか違った。それは、「時間を停止しますよ」と企画として断っているから、なるほどそういう話なのねと脳が納得して完了して冷めてしまう。

それに対しこのニッセンCMは、何の説明もなく香里奈が停止していたり、香里奈が増殖してワチャワチャしている。この荒々しい世界観が素晴らしい。

同一人物が増殖するというのはフェチとして有名なのでわざわざ触れないが、増殖は特殊シチュエーションとして非常にポイントが高い。

たぶん例のニトリCMよりはわかりやすいと思う。ニトリとかニッセンとか家具フェチってわけではないよ。これで答えになったのかな。

ラピュタで上空からゆっくり下降してくるシータパズーキャッチするシーンはどう思いますか?

ラピュタかあ。いいよね。普通に好きですよ。期待に応えられず大変申し訳ないが、特に下半身が反応したりはしない。

こうした質問があるのは当然だと思う。あんCMでムラムラしたとか言ってたら、女性がふわりと下りてくるのに興奮する特殊性癖と思われても仕方あるまい。

しか空から女の子がってシチュエーション唐突だ。しかし、ペンダントの石が光り輝いたことで空を飛べたというのは絵として十分な説明になっており、話として納得できるので、特に俺のフィルターに異常は起きない。

ちなみにラピュタで一番好きなのはシータムスカのところから救出するシーンです。無駄一般感性アピール

動画を観た感想増田、変形フェチだろ。

かに変形というのもやはり非現実的なシチュエーションとしてポイントが高い。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm28454420

このCM女性がぞうきんをかけているとスーッと掃除機がけに移行していくさまが、妙に機械的な動きをさせられていて実に良い。

これも十分いいのだが、これと別に、細身の普通女性掃除機をかけているとぞうきんがけに移行した瞬間モーフィングで力士に変身するというバージョンがあって、その動画が残っていないのが返す返すも悔やまれる。力士のぞうきんがけのようなパワフルさをもった掃除機というコンセプトは理解できるが、女性自身の体を力士に変身させられるというあまりありがたくはない役回りをさせられているところに強く心を突き動かされたものだった。

さっきから質問の答えになっていない気がしてならず大変申し訳ない。

さっきから例に挙がるものが全部CMだと言われそうだけど、CMアピールの塊だからそれだけ注目を集めることしてくるからCM危険よ。

ソファベッドいい気がするけど布団どうするの問題がね

見た事ないCMだったけどこの増田きっかけで商品に興味を持った。露出って大事やね。

このベッド欲しいな。掛け布団を片しておく空間を用意しないと駄目だけど。

お世話になってしまっといてアレなんだけど、家のスペース的にこのソファベッドは買えないかなぁ。同じ寝る&座るなら俺はコタツ派です。最後にしつこく一般感性アピール

sonzincさん

あなたは何も悪くないよ!いつかは貼られると思ってたから気にしてないよ!てか第三者が貼るならともかく俺本人が貼ると必死でキメェなと思ってたからむしろありがたいよ!

2020-01-02

anond:20200102144612

矛盾してない

たかだか300万やら100万で小物の中堅議員に対して動くのに5000万プラスアルファ総理案件やら何万人も被害出してるジャパンライフ案件に動かない特捜

ゴーンとケリーといった外国人だけ大捕物と長期勾留しておいて同じく私的流用してたと発覚した西川にはお咎めなしという検察の態度はまさに通底してると言っていいだろう

2019-11-14

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件

日本大学特に文系学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系学者達は自分たち存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。

だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端研究専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン一般特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系研究基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。

パンドラの箱が開いた

本題に入ろう。最近、1つの書評論文東大言語学研究室発行の紀要に出た。

田中太一日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=53475&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

書評された本は『認知言語類型原理』(京都大学出版会)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2

著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学准教授中野研一郎先生

 

普通書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後ちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。

こうすればあなた博士になれる

一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分オリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。

そして博士論文原稿は、3~5人の審査委員審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文大学に提出していいか審査する二次審査最後論文が完成し、大学に提出された後、博士学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。

ミサト:おめでとう!

アスカ:おめでとう!

レイ:おめでとう。

シンジ:僕はここ(アカデミア)にいてもいいんだ!

研究人生のフィナーレではないが、1つのピーである。こうやって研究者の能力お墨付きを与えるのが大学存在意義の大きな一部分だ。

要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学准教授になったようだ。周知の通り、大学終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。

 

博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生2014年度に京大を定年退官して、2015年から中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。

日本語に主語目的語、態、時制、格、自動詞他動詞はいらない?

さて、超大物お墨付き博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからいかパス。3節「日本語に存在しないとされるものから見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分から引用がある。

日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリ妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。

(『認知言語類型原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)

昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579

主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型原理』は、ミニマリスト断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。

「音象徴」の名の元に蘇る亡霊

これは熊倉千之氏の「音象徴理論に基づいているそうで、熊倉氏は、

膠着語にかんして、「イメージイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。

(これも田中 2019: 309から禁断の孫引き

熊倉千之 (2011)『日本語の深層〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』東京: 筑摩書房.

とのこと。

近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性原理否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣名前は、音と意味関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴基本的オノマトペ擬音語擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかあくま傾向性言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、

「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。

知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、

「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)

と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴

日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)

そうだが、書評子は、ここに鋭く矛盾を見て取る。

この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである同音異義語存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)

かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、

日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味機能通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)

と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。

そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、

1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年帰国後、東京家政学院大学教授1999年金城学院大学教授2007年退職

[wikipedia:熊倉千之]

という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学言語について言語学界とは関係なく自由思索著述をしている人のようだ。そういう独自言語論を唱える文学思想研究者はよくいるけど、普通言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型原理』もその類の本だったなら、東大言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ

驚愕の主張の数々

他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。

日本語では論理的命題を表すことができない」(田中 2019: 305)
日本語は英語を含む近代ヨーロッパ標準諸語に翻訳できず、また近代ヨーロッパ標準諸語も日本語に翻訳できない」(中野 2017: 268)
科学数学物理学化学生物学法学経済学歴史学社会学言語学等)」と称せられるものの全ての言説は、日本語で書かれている限り、「日本語(やまとことば)」の論理によって、「客観的であるとする言語論理的根拠を維持できないのである。当然のことながら、この本自体も、日本語で書いている限りはその陥穽から逃れることができない。」 (中野 2017: 268)
日本語の「伝聞」というコミュニケーション様態においては、伝えられる内容は、伝える者によって「主体化」されており、したがって、その「主体化」された内容の真偽判断に関わっては、「権威」が必要となる。伝える者に「権威」が伴っていない場合、伝えられる内容は真と判断されない。」(中野 2017: 16)

しつこいようだが、これで5年前に京大博士号が取れたのだ。

ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!

ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後激辛書評論文大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型原理』は、博士論文審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た

2019-11-04

甘えた気持ち

他人の再投稿を指摘すれば他人より優位な立場から影響を与えられる

他人相手にしてもらえる

すべて誤った甘えた想定だ

本来はGOSMIAであるものGSOMIAと呼んでも差し支えないとたかをくくる知的怠惰に考え方が通底している

2019-10-24

2019-09-16

故郷を思い出したので自分語りしてみる。

ふと生まれ育った町の情景を夢で見て、多少思うところがあったので気持ちを書き留めようと思う。

静かな入り江からさな漁船が海の彼方へ消えゆくような、そんな夢だった。

最近よく見かける「田舎で非知識階層に囲まれて育ったけど、地元に馴染めずなんだかんだで都会に出てきて過去ホームタウンを思い返すたびに多少絶望する」という散文的な自分語りであることを先に断っておく。

ただの個人経験であり、エスノグラフィのようなものだと思って読んでもらえれば嬉しい。

この日記結論はこうだ。

かに東京人間想像することも出来ないような社会」が日本のどこかには必ずあって、学ばないことが規範と化して社会再生産されているということ。

自分東海地方の海沿いの寂れた漁師町に生まれた。

名古屋まで電車で1時間半以上、文化的施設といえば聞いたことのない演歌歌手がたまに来る小さな市民ホールと、小さな本屋が2軒あった。

2軒の本屋万引き被害額が大きすぎて自分が町を出た後に潰れた(跡地はセレモニーホールという名の葬式場になった)。

1時間に一本しか電車のこない駅から伸びるメーンストリートで今でも開いている店は、年金暮らし年寄り趣味でやっている畳屋と宝くじしか無かった。

街中でスーツ姿の人は見たことがほとんどなかったし、そもそも人が出歩いている記憶すらない。

家族母親と母方の祖母のみ。

高卒で一度も町からたことのない母親は、漁師相手にする場末スナックで働いて自分を育てた。

同じ町で漁師をしていた父親フィリピンパブ出会ったフィリピーナに入れ込んで、小学2年生くらいの頃に母親離婚した。

それより前には「キミの父親不倫をしているんだ」と小学校の同級生母親から聞かされた。

相手は近所に住んでいた太ったおばさんだったので、あんデブとなぜだろうとその時は疑問に思ったけどすぐに忘れた。

最後父親と会ったのは、父親が家を出て半年後くらいに小遣いをやるからと呼び出された紫煙で視界の悪い雀荘だったと記憶している。

その後は行方不明で、風の噂では今はマニラに住んでいるらしい。

こんな家庭環境は、東京自分が属するコミュニティでは聞かない。

なぜそんなことにわざわざ触れたかというと、自分の家庭は何も特別ではなく、周囲を見渡せば程度の差はあれどどこもそんなものだったから。

親が大卒同級生なんてクラスに1割も居たかという感じだったし、自分が通った地元中学校には200人くらい同級生が居たがそのうち大学に進んだのは20人くらい。

自分博士まで進んだが、マスターレベルですら聞いたことがない。

あとで詳しく触れるが、そもそも勉強をするとか考えること自体忌避するという一貫したスタイルがあらゆる局面通底していた。

さて、シングルマザーの家庭はクラスに3割は居たし、両親が揃っていても母親父親違いの兄弟姉妹が居るなんて話も珍しくない。

世代職業漁業水産加工町工場自動車修理で、小中学校教諭公務員の子息は格の違いを醸し出すスーパーエリートの家庭扱いだったし、家も小綺麗だった。

スーパーエリート以外は、トタンの壁が海風茶色く錆びて、汲み取り式のトイレから伸びる煙突の先がクルクル風で回っている文化住宅か、古民家カフェを思いきりボロボロにしたような都内なら廃屋だと思われるような家に住んでいた。

町工場に勤めている人たちで指が無くなったなんて話もよく聞いたし、どこそこの家が生活保護受給とかという話もよく聞いた。

クラスメートが学校を翌日休む理由が、その前に起こした暴力事件家裁に呼び出されているからとかもよくある話だった。

そんな彼らが余暇にすることといえば、スナックフィリピンパブギャンブルセックスくらいしか聞いた限り思いつかない。

かに、成人した兄がいる同級生の家に遊びに行った時には、真昼間から居間同級生の兄と派手な格好をした若い女性がセックスをしていたし、パチンコ屋には毎朝人が並んでいた。

ギャンブルパチンコ電話投票する競馬が主流だったが、甲子園の季節になると地元暴力団が元締めをする高校野球賭博流行っていた。

暴力団偽ブランド品も売りさばいていて、軽自動車スウェット姿だけど鞄は高級ブランド(偽物)という出で立ちの女性をよく見かけたものである

まぁこんな感じでつらつらと思いつくまま挙げてみたが、自分身の回りで溢れていたのは、キーワードでいえば貧困、性、暴力ギャンブルだった。

そもそも大人たちがそんなスタイルだったので、子供達も似たような社会フラクタル図形のように構成していた。

小学校の頃には駄菓子屋コンビニでの万引きが横行していて、後に刑務所に入るような子供たちはその時代からすでに盗んだタバコを吸って、やっぱり盗んだバイクに乗っていた。

暴走族(ゾク)に入って大人たちを殴ったり大怪我するほどのゾク同士の喧嘩をする中学生たちが小学生のヒーローで、ゲリ便が出る時のような音を撒き散らすバイクに皆憧れていた。

そんな時に暴力的な彼らは、異質な存在排除することが大好きで、異質とみなされた同級生は徹底的に排除された。

小学6年生のとき教室に入ったらメガネをかけている子が素っ裸で椅子に縛り付けられて頭にバケツを被らされていた。

メガネは弱いもの象徴で、勉強議論をするような人間排除対象だった。

文革かって感じ。

反対に、野球が上手いか、足が早いかケンカが強ければヒエラルキーの上部に君臨できる。

動物的に強弱を判別できることがそのままヒエラルキーの源となっていたし、意思合意感情とその時の雰囲気で決まっていた。

そして中学生になると、今度は成績が良い人が排除対象となる。

真夏に水を飲まずに走りこんで泣きながら試合に負ける部活に打ち込むことがすべてに勝り、もしくは非行に走ることがある種の中学生らしさであるというコンセンサスを伴って正当化されていた。

授業中には廊下自転車が走り、思い出した頃に校庭に暴走族野良犬があらわれる。

トイレにはタバコの吸い殻が落ちているし、たまに窓ガラスは割られていた。

教師はたまに殴られたり、殴り返したり、車を壊されたりしていた。

一方で登校している生徒にとっては、校則フーコーパノプティコンも真っ青な規律自動化させるもので、髪型男子坊主女子は肩まで。

他にも細かい校則がたくさんあって、破れば容赦無く教員から殴られる世界だったし、皆が一緒であることを望んでいたので、逸脱すれば容赦無く告げ口されていた。

校則を破らなくても、目立てば排除対象になりうるので、いつしか自分も誰かが見張っていると意識して、いかに溶け込むかを重視するようになっていた。

そして積極的に学んだり考えることが嘲笑対象であったので、そこでもやはりセックスしたことがあるかとか、バイク知識があるかとか、そういう分かりやす尺度ヒエラルキー構成されていた。

授業中に教師から指名されて小難しい答えを言ったり、発音記号通りに英単語発音しようものなら3日は真似をされてイジられるのは御多分に洩れず自分地元も同じだった。

テスト期間は早く帰れるので皆喜んで下校後に遊ぶレベル勉強に対する姿勢で、将来は男子工業高校女子商業高校に通ってそのあとのことは何も考えないのが一般的だった。

ここまでは自分ライブで触れた15歳くらいまでの環境の話で、せいぜい15年くらい前の話だ。

はっきり言えば、そのような環境はまっぴら御免だし、そんなところで自分の子供を育てたくはない。

ただ、地元の話は中々難しい問題はらんでいる。

ここからは冒頭に述べた「社会再生産」について触れたい。

さて、経緯は知らないが、自分幼稚園の頃にIQテストを受けた。

そのあとに、あなたの息子は知能指数が高いから相応の教育を受けさせてあげてくださいと園長先生から母親コメントをもらったらしい。

大学のことすらよく知らない専門学校卒の母親だったが、自分都内海外の全寮制の学校小学生のうちから預けようとした。

だが、当時の自分はこともあろうに泣き叫んで拒み、結局は地元に残ることを選んだ。

当時のことはよく覚えていて、理由友達と離れたくなかったから。

その時に知りうる限りの世界を取り上げられることに対する極端な不安が何よりも勝っていて、母親は息子の気持ちを優しくも汲み取って折れた。

ただ、結論からいえば、自分結果的に完全に故郷を捨てた。

小学校に上がった時、小1か小2くらいの頃から、本を読み始めた。その頃に三島由紀夫島崎藤村やら、古い作品から新しい作品まで縦横無尽に慣れ親しんだ。

早朝に登校して空いた時間や、ジャンケンで負けて押し付けられた図書委員時間図書室でひたすら本を読んだ。

そのうちに、自分生活する社会根本的に異なる社会、つまり学び、考えることが重要であるという社会存在することを知った。

哲学思想系の本はもちろんのこと、西洋美術画集建築写真集に心を揺さぶられたし、マーラーCDを初めて聞いた時の感動は死ぬまで忘れないと思う。

めちゃイケを好むふりをして、自分加藤周一の羊の歌に感銘を受けて、とりあえず東大に行こうと中学の頃には考えていた。

そして周囲に迎合しつつも高校に進んだ。いわゆる地方公立トップ校だった。

他にも理由はあったと思うが、中3の時には成績が良いという理由ものを隠されたり上履きにガムが入っていたこともあった。

通っていた高校地元から電車を乗り継いで1時間は掛かる。

入学から1ヶ月もしないうちに、明らかに新たな社会社会階層自分は組み込まれたと自覚した。

同級生の親の職業は、医者弁護士会計士大企業社員ばかりだった。

誕生日には名古屋デパートの上層階のレストランだったり、どこぞで伊勢海老を食べるだのとそんな話もたまに聞いた(成金的な家はあまり無かったけど)。

彼らの親は旧帝国大学出身はざらにいたし、兄が東大、今はオックスフォード留学中とかそんな話も当たり前にあった。

幼い頃からピアノバイオリン書道バレエスイミングなんかをやっているのがマジョリティだったし、週末に美術館やコンサートホールに足を運んだという話も決してレアな話ではなかった。

彼らと出会ってとかく感動したのは、好きだった本や芸術の話を初めてリアル人間とできたことだった。

そして何より彼らは、自身解釈や、見解を示してくれたし、自分のくだらない議論にも向き合ってくれた。

もちろん性やギャンブル暴力ワンピースの話もたまにはあったが、それ自体享受するだけでなく、思考対象としても話題を取り上げることががあった。

高校以来、自分は学び、思考する人しか存在しないかのように振る舞う社会に身を置き続けている。

今にして思えば、もっと早く外の世界に出た方が良かったのではと素直に思う。

ただ、当時の自分には、その選択肢はなかった。

なぜなら、受動的に与えられたその社会自分のすべてだったから。

母親母親であるように、生まれ育った社会は生まれ育った社会であって、代替がきかない。

自分たまたま自分が立っていた社会と違う社会を知りうるきっかけを子供の頃に得たから今があるのであって、その機を逃せば一生地元に居ただろう。

なぜなら、考えることや知ることを拒むことが規範となる社会では、外の世界があるということ自体を知りようがないのだから

自分は考えることも、こうして頭の整理をすることも好きだ。

パチンコ新台や、友達奥さん不倫をして旦那相手と殴り合いの喧嘩をしたとか、そういう動物的な話題を「それ自体」をただ消費する社会に少なくとも自分は興味がない。

もちろん、そういった社会自分経験したような)を否定する理由はどこにもない。

ただ、自分故郷を捨てたように、その社会に残るのは、その社会適応しきった人々である

有り体にいえば、将来の選択肢存在すら意識できないのが自分体験した社会であり、どのような選択肢があるのか獲得しようする営みそのもの封建的否定される強い構造を伴っている。

からこそ、自分田舎はいつまでも同じ姿を留めることに成功しているのだと思う。

もちろん、その社会自体が恐ろしいぬるま湯であり、外には異なる社会存在することを予期している人も稀にはいることだろう。

幼い息子を外の世界に出そうと考えた母がそうだったように、おそらくそれに気付いた時に自身好転させるにはあまりにも遅い場合が大半である自分は思う。

そして、自分は今更何があったとしても、地元の彼らと交流することはできないし、するつもりは一切ない。

それくらいに共通言語がもはや異なっている。

母はもう二度と戻ってくるな、お前の居場所はもうここにはないと電話口でことあるごとに言う。

一方で、開成筑駒から東大に進んだ都内組は何も捨てることなく、安定的自分が望んだ社会享受してその上に今も生活を営んでいる。

それは誰でもそうであるように、最後最後に拠り所となり得る自らの地域的なアイデンティティをきちんと持っているということである

自分依拠すべき地域地元)を自己実現と引き換えに失ったのであって、願わくば我が子には地元を与えるか、もしくは地元がなかったとしてもサバルタンとなり得ない思想的な土台を築いて欲しいものである

そして同時に、自らの強みは故郷がない事であり、海外に出ることも辺境の地に赴くことも、自分さえ許せば可能となり得る。

今朝の夢に現れた、小さな漁船はきっと自分自身だったのであろう。

2019-08-11

anond:20190811011918

貴殿問題意識(女体のほうが価値が高い)は、さら敷衍すると(貴殿はそこまで言ってないが)「女体は尊い野郎の肉体はバカにして笑い物にできる」という話になるわけで

それって、淫夢くそみそはギャグネタにされるけど、百合は笑い物にし難いという問題通底しているような気がする

2019-07-19

努力できるのも才能」というあるあるコメント

最近自己効力感についての本を読んでいる。

沢山のケースの言及があるのだが、大体、背骨みたいな通底する論説があって、

「高い自己効力感は、チャレンジングな姿勢に結びつき、良くない状況にも強く、結果に反映する」

「低い自己効力感は、チャレンジを避け、逆境に弱く、その結果同じ状況に甘んじる」

という感じだ。

これ、実験して統計取った結果、こんな感じでした、だから研究者思い込みでは多分無い。


で、「ん?」と思ったのが、

「高い自己効力感をもつものは、失敗した時に、原因を『努力不足』『外的環境の方が悪い』と捉える」

「低い自己効力感をもつものは、失敗した時に、原因を『能力不足』と捉える」

という一節だ。

これ、けっこう繰り返しでてくる。

まり低い自己効力感は失敗の原因は「そもそも自分成功資格はなかった」と考える、

自分のやった事の結果は、変わらない、または急には変わらないもの支配されてる」

と思ってるって事だ。


ここで出てくるのが、「努力できるのも才能」というコメントだ。

まあ「環境」が有利に働くってのはあると思うよ、たとえば、子供の頃から努力する、そのうえ自分努力や失敗をバカにしないメッチャ良い友達が側にいるとか、親がいい感じに努力を褒めてくれるとか、奇跡的に学校先生が当たりだったとか。

あるっていうか、結構だな。

でも、問題はそれに恵まれなかったときに、「努力できるのも才能」、つまりそもそも自分成功に向けた努力を出来ない人間から成功への資格が与えられてなかった」って捉えちゃう事だと思う。


成功への扉を開く特性には頭の良さと性格の側面があって、それぞれ遺伝するのは確からしい。

しかし、頭の良さはIQに含まれ空間認知能力法則性を見つける力こそ結構高い影響力で遺伝する(70%ほど)らしいが、言語能力はそんなに遺伝しない(遺伝しても18%)らしい。

空間認知能力なんて、特別職業につかなきゃ、なんに使うよ。

もっと大事なのは性格

性格まあみんなでちゃん研究した特性として「外向性」「協調性」「誠実性」「神経症傾向」「開放性」があって、どれも高いもので50%そこそこしか遺伝しないそうだ。

で、「努力」にかかわるのは、「誠実性」←物事をコツコツやるの性格特性で、こいつは頭の良さをぶっちぎるくらい成功に関わっているらしい。


これ、俺の実感にも一致してて、後輩何人か教えてて、「コイツ才能ねーなー」って奴がいたんだけど、こっちが言った事とにかく頑張るの。

そのうち、仕事で結果出し始めて、数年を経てよりデカ仕事会社ステップアップしてったよ。

5年くらいかかったけど。

で、そいつ教えて俺は「才能・頭の良さ原理主義から開放されたね。


で、「努力できるのも才能」論なんだけどさ、さっきも言った通り、資質では50%なのよ、いきなり0%で産まれるなんてほぼほぼいから、環境自分の行動で上手くやりゃ無い目のやつでも60〜80は行けるのよ。

からとりあえず「努力できるのも才能」みたいなの、簡単に言っちゃうのやめてさ、諦め悪く「努力スゲーじゃん、超リスペクト!」って言ってくれる環境を探したりさ、なんか、何でも良いや、お菓子食べるの我慢して3ヶ月で体重500グラム減らしてみるとかさ、自分が誰かの努力を見たら、「努力スゲーじゃん、超リスペクト!」って言ってみるとかさ、そういう所から始めた方が良いとおもうよ、ホント

2019-06-22

anond:20190622011600

ホリエモン年金デモ参加者disって永江一石や田端同調してたけど、この増田言い草とも通底してるね。

不道徳で、怠惰で、攻撃的で、能力も才能もない、そういう奴らを救おうと思う奴はほとんどいないってのはまさにその通りだよ。

自助努力痕跡が見えない人間を許せないんだろな。

ただ、綺麗事を撒き散らして状況の打破になんら貢献しないお花畑連中よりかは

てめえでどうにかしろ!って檄を飛ばす気骨あるこういうオッサンの方が頼りがいはあるね。

なんやかんやお節介焼きな人も多いし。

2019-05-18

anond:20190518010625

へぇ、その維持した社会とやらで、生きてる人が全然しあわせじゃなくても、その社会を維持する必要があるんだね!

さすがに、今がすでに幸せじゃない人は考えることが一味違う。私は今幸せから自分幸せより社会維持を優先される世の中にはなってほしくないなーと思うよ。

ちなみにそういう思想って共産主義にも通底するね。あとはね全体主義がまさにそういう思想だね。資本主義下における自由主義社会ではそれは無理だよ。

2018-12-09

ガンダムNTあるいは福井ガンダムに対する主立った批判反論について

やあ (´・ω・`)

ようこそ、ズィージオンの泡沫拠点みたいな腐った地獄の底へ。このヘリウム3サービスから、まず飲んで落ち着いて欲しい。

機動戦士ガンダムNTは見てくれたかな? 機動戦士ガンダムUCは? それはよかった。

うん、まるで中立的タイトルをしておいて、実は福井信者側の一方的エントリなんだ。済まない。仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。

でも、このスレタイを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない「ああ、こいつ富野信者中立的立場ナラティブ見に行ったのかな?と思って開いたブログ普通に福井こきおろしててゲルググのトサカに来た可哀想なやつなんだな」みたいなものを感じてくれたと思う。

殺伐としたガノタ界隈で、そういう気持ちを忘れないで欲しい(もっとサツバツとしてんじゃねーか)

そう思って、この増田を立てたんだ。

(といっても真面目に多くの人に読んでもらいたいわけではないというか、書いているうちに気持ちが落ち着いてしまったため、増田に投げ捨てているというほうが正しいかも)


Q1:ガンダムどうしてこんなオカルトになってしまうん?

A1:富野ガンダムのZから逆シャア(あと一応Vも)がバリバリオカルトだったんやで。またナラティブの話の筋は「富野ガンダムの一時期のオカルトは一体なんやったんや?」と問う側面もある。


Q2:シャアの反乱からF91までの30年間大きな戦争はなかったのに、福井サンライズ勝手戦争だらけにしようとしよる

A2a:マフティー20年前首都テロを仕掛けたんですけど戦争カウントされませんでした」

A2b:オールズモビル「我々はここ数年で二回戦争をやりましたがカウントされませんでした」

A2c:時期は違うけど参考までにデラーズ「観艦式潰してコロニー落としたんですけど後者事故扱いされました」

A2d:というように「大きな戦争」の基準ガバガバすぎるため、正直割と大丈夫だと思う(おい)。もちろんマフティー動乱は戦争というには小さすぎるのでテロ扱いだろうが、言い換えるとそれぐらいの規模ならよいということになってしまうし、とにかくオールズモビル戦役の扱いが際どい。


Q3:サイコフレームやらNT流行らなくなったのはF91までに大きな戦争がなかったんでNT概念が風化したからや、なんでそこ踏みにじって「サイコフレーム封印の切欠になる事件が〜」とか言い出すんねん

A3a:隕石一個動かすレベル現象を、”愚”民どもが30年ずっと解析も模倣もせず放置して風化ってのはやっぱ厳しい気がするんですがそれは(小並感)

A3b:あとこれは反論というよりこじつけなのだが、「市井では廃れたが各軍、各企業の一部では密かにNT研究は続いていた」という(それ自体福井以前からある)解釈を重視すると、意外とUCナラティブ問題ない気はする(強引小並感)。結局ユニコーン無双は一部の局地戦で発生したに過ぎず、多くの一般市民が(正確に真相を)目撃した事例ではないから、市井NT神話衰退を食い止めてはいないのではないか。もちろん一部報道や(宇宙世紀内の)オタク共がユニコーン存在活躍にある程度は触れているとは思われるし、その結果噂程度に真相が広まってもいようが、世間にどこまでインパクトがあったかというと微妙であろう。たぶん宇宙世紀内のミリオタ共も「サイコフレームがそんなイデオンみたいな力出す訳ないだろwww 架空戦記www」「っせーなじゃあこのアクシズどうやって動かしたんだよテメェ!!」って言い合って、周囲からキモがられてるに違いない


Q4:なんかダ・ヴィンチインタビューで「F91以降ニュータイプはいない」とか意味不明なこと言ってるで福井

A4a:お前さっきQ3で自分で風化言うてたやんけ!!!(ごめんなさいこれはちょっと言いたかっただけです)

A4b:批判側の典型的まとめサイト意図的誤読。当該のインタビュー普通に読めば「世間的にNT存在に関する話題ほとんど消え去った」であって「NT能力を持つ人間がいない」ではないのは明白。

A4c:ただこれはもう福井擁護ではなく余談になってしまうのだが、もともとNT論は「ジェリドはどうなんやジェリドは」「サイキッカーってなんやねん、NTちゃうんか」みたいな謎もあって割とガバい。そのためマジでF91以降NTおらんやんって暴言も全く通らないわけではないような(通すのが良いわけではないにせよ)。「カミーユ級を(真の)NT言うんならシーブックは(レベル高低的にも健全的にも)NTとは言わへん」「ウッソはNTというよりスペシャルやないんか?」みたいな過激意見もなくはないし(F91時代はみんな一種NTなんや!っていう人見たときは流石に度肝抜かれてしまいましたが……∀時代の話じゃなくて……?)


Q5:新訳Zで肉体を持った健やかなNT像が示されたのに、福井はまだそんなところにいるの?

A5a:「まだそんなところにいるの?」ではなく「そんなところを無視すると、新訳ファが拉致されて強化人間にされるんよ」という悪意の問題

実を言うとナラティブ批判するために新訳Zを持ち出すのは、福井を憎むあまり富野の最新動向を無視することになるので富野信者は気をつけた方がいい。というのも、新訳Zは「肉体と生活を傷つけられ、健やかさを奪われた人々はどうすればいいのか」という視点を欠いた、ゆとりNT論あるいは富裕層NT論となっているため。「シロッコみたいな傷つけるやつ片付けよう」だけで止まっており、「手遅れ」や「傷つけるのは特定悪人ではなく社会構造」といったケースに対応しているとは言い難い。富野本人はGレコですでにこの課題あるいはそれ以降に挑戦している(厳密には∀の時点で萌芽はあるし、もっといえば強化人間はもともとそうだったわけだが、では新訳でのフォウとロザミィの扱いはなんだったのか)。「人を家畜のように扱ってはいけない」とは言うが、ナラティブには手遅れで家畜にされてしまった人達物語という側面もある。

余談だが、このあたりはAGEオルフェンズ、AOZ黒兎の火星組にも通底する部分があり興味深い。三者が上手にやっているかというのは議論あるにせよ、である。また新訳Zにある意味隣接しているはずのクロボン系もまた、この生活貧困問題には新訳Zより常に切り込んでいる。

A3b:またこれはちょっと勘違いされているケースが多いかもしれないのだが、厳密に言うと福井側も肉体の放棄を手放しで賞賛している(できている)わけではなく、「遠い未来にある姿としてはそうなんやけど、いま無理してそれになろうとするのはアカンで」という風に言っている。ナラティブはまさにこの無理に関する話であったことと、先達としてバナージが結局肉体に戻って来たことに注意されたし(特に原作ではカミーユの真似して体貸そうとしたら幽霊disられてやめる、というくだりがあり分かりやすい)。


Q6:長谷川クロボンNTry

A6a:よく引き合いに出されるクロボン系列であるが、実はUCナラティブと言っていること自体はそこまで乖離してなかったりする(『しかもっと長い長い年月をかけて、いつか人は”NT”に進化するでしょう』)。どちらかというと現存するNTに対し周辺技術含めての評価(長谷川「現NTなんか山道12km歩くだけやん」福井サイコフレーム使えば1000km歩けるで。めっちゃ危険やけど」)と、目の前の困難に立ち向かう際のスタンス差(福井「例え戦争連発を止めることができなくても、今ここで人間が止めようと努力して、未来に祈ることは無駄ではないんやで。そのことを証明するためにちょこっと1000km歩く危険デモンストレーションもしとこ」長谷川「今ここで戦争連発をせめて100年だけでもガチ止めるべきだし、そのために人間努力のみならず結果を出すべきなんや。1000km歩く危険デモンストレーションは——どうか手をお貸しにならないで——決着は0〜12km歩く人間達だけでなんとかせなあかん」)が対立の主である

から実は、福井長谷川は確かに対立軸にあるものの、それは同じ棒の両端だと考えた方が良い。無論そこで右がいい左がいいという対立は大きいにせよ。黒歴史という自己責任人災に対して祈るしかなかった人々を見捨てないのが福井、手近な資材で立ち向かうよう人々を陣頭指揮するのが長谷川、という乱暴な要約でいいかもしれない。(黒富野人災はお前らのせいだ!と丁寧に説明し、白富野人災だけではない人の魅力を描き、Gレコ富野は「そういや白だと魅力描くのに専念し過ぎた、人災の具体的な説明対処はまだやる余地あるな」という境地)

A6b:すみません反論になってませんねこれ……。具体的に人々救済のために奔走する長谷川クロボンの方が面白い好きだという意見は多いにあると思う。

A6C:これも反論でなく補足だが、幽霊ネタ長谷川ガンダムでも時々やっており、「富野ガンダムを真面目にリスペクトすると割とオカルトに向き合ってしまう」というのは割と福井長谷川とも共通してそう。(向き合い方の問題ではあるにせよ)


Q7:サイコフレーム光速移動なんやねん

A7:エンジェルハイロゥも分解後光速移動してるからええんちゃうか(小説版)


Q8:サイコフレーム時間操作なんやねん

A8:根拠出典はアムロララァの「人はいつか時間さえ支配することができるさ」やろ(まぁさすがにここで怒る気持ちはわかる)


Q9:サイコミュ技術そんな凄いんならエンジェルハイロゥのあの中途半端な性能なんやねん

A9a:いやあれとんでもない性能でしょ(小並感)

A9b:眠らせるだけやなくてもっと気合い入った洗脳や全滅できるやろ、という意味ならば、クロボン幽霊の「もともと暴動鎮圧用だった」ので(あとで高性能化したとはいえ)設計レベルではそこまで気合い入った威力設定してないんじゃないか、っていう感もある


Q10:話してんのは幽霊やない、残留思念や!

A10a:ごめんなさい、これはちょっとトピ主が用語理解ちゃんとできていなくって「幽霊残留思念なにが違うんや……?」ってなってます。単にあの世がないとか鳥に輪廻転生はしないとかい意味なのだろうか。

A10b:自律思考する魂ではなく、死亡時点の意志キャッシュデータである、という意味なのかもしれないが、これはこれで意味のある差なのかどうかちょっとからない(強いAI弱いAIの差みたいな感じ?)

A10c:たぶん本気ではなくネタだと思うのだが「NT洞察力で相手思考完璧洞察しているだけ(残留思念は受信側脳内残留説)」という話を見かけたことがあって、ええ……「(脳内)ララァはいつでも会い(妄想)に行けるから」は辛すぎるんちゃうか……?とドン引きしたことはある。ゲームオタクゲイナー君でさえ恋した相手NPCではなく生身の女だったというのに。


Q11:閃ハサまで福井担当すんのは嫌

A11a:ごめんそれはトピ主もちょっと思った。

A11b:一応現時点だと、サイコフレーム封印事件云々はUC2の方メインで、閃ハサは流石にそっちには(一部設定を繋ぎやすくするだけで)持っていかないのではないかとは思っているが……。

A11c:そもそも福井以前にベルチルと映画ちゃうやん問題小説の内容そのまんま映画にできるんか(できたとしてもアニメとしてテンポおもしろいのか)問題どうするんだろうか。ベルチル問題はあえて原作ママンにして「別に映画ともそこまで乖離しとらんやろ?」とか厚顔無恥フルアーマーしていいと思うんだが、無理だろうか。


Q12:人の褌でスモー取ってるのが許せん!

A12a:逆に富野はもう古い褌脱いで次のステージ行ってる(繰り返すが新訳Zよりもっと先行ってるんで注意)からそっち追えばいいやんけ、と簡単に思っているのだが、そうはいかないだろうか。

A12b:かつて「ペンタゴナは永野にくれてやった」という富野発言があったらしいが(ソース不明)、同じように「宇宙世紀前半は福井に、後半は長谷川にくれてやった(あるいは積極的にくれてやったわけではないが好き勝手にやってろ)」と、サンライズバンダイ経営層だけでなく富野本人が思ってそう……というのはうがちすぎか。


Q13:せめてパラレルしろ

A13a:現状だとしてもあまり意味がないのでは?(時系列的に直接重複するパラレル作品がないと、大抵のガノタからパラレルいうてもシリアル解釈不可能やないやん」程度に思われてしま危険性が高いため。つまり原作オリジンとはちょっと状況が違う)

A13b:上記には、結局パラレルにしてもUC2自体F91に繋ぐ気があるためという側面もある。ZZをばっさり斬り捨てた新訳Zという前例もあるにはあるが、あまり斬り捨てていくとその亡霊を背負った外伝が出てきて話をさらにややこしくしてしまうので注意は必要だぞ(なんせUCの背後にいるものの一部は、まさにそのZZの亡霊である)


Q14:サイコフレーム封印したのになんでF91に積んでるんや

A14a:条約は破る物。(割と冗談抜きで、南極条約ガン無視NBC兵器抱え込むような宇宙世紀人たちが封印を守るとは思えない。もちろんUC2で示されるであろう危機に瀕して「使いすぎはやめよう」にはなるのだろうが、「適量や代替(ネオサイコミュ)ならいいよね!」という麻薬みたいな思考回路に落ち着くのではないか)

A14b:あとF91サイコフレーム搭載はホンマ公式なんかな、ってのちょっと気になるんですよね。最近曖昧になってきたみたいな話もあるのと、そもそも初出ソース(寡聞にして知らないのですがどこでしたっけ)からしてうっかり無断で書いちゃった程度なのではないかという気もしている。EB大図鑑には書いてなかったはず(こういう文脈でEBをソースにするのは普通は鼻で笑われるところなのだが、やっぱ現在も隠然とした影響力は残っているのと、F91時代はむしろ割とオフィシャルに食い込み気味だったという事情もあり、一応参考として挙げても怒られないと思う)


まだまだ左右どちらも色々あると思いますが、本トピはここまでということで。君も自分だけのガノタ憎悪を育てよう!!(育てるな)

2018-11-17

ゲーマー向け

PCとかヘッドセットとかスマホとか椅子とか、何であんな感じなの?

何と言って表現すればいいのか分からないけど、何となく全体に通底するあの感じ。無駄に光る蛍光緑な感じ。

ゲーマーはああいうのがカッコいいと本当に思ってるの?

マジで? カッコ悪くない?

 

いわゆるゲーム機PSとかSWITCHとかDSとかWiiとか、そういうのはわりとシンプルスッキリしててカッコ悪いとは思わないんだけど

何でPCとかその関連になるとゴテゴテガチャガチャピカピカしてんだろう

2018-10-12

anond:20181012104058

ムスリム女性が肌を隠すのは「美しいもの晒し男性性的に刺激するのはよくないから」で、むしろ今回のキズナアイ騒動なんかに通底する発想だぞ。

2018-10-10

萌え」と「エロ

http://koshian.hateblo.jp/entry/2018/10/09/184510

こうして当事者である男性オタクたちは「萌え」と「エロ」が違うものだということに気づいていく。それは少女無垢性への憧憬であり、無垢少女への自己同一化であり、無垢存在に受容されることそのものであった。

一方多くの女性オタクたちは「萌え概念の導入において、おそらく「既存のもの名前がついた」という感覚だったのではなかろうか。彼女らが求めていたもの、それもやはりエロではなく「関係性」であった。鉛筆消しゴムがいたらその2者の関係性を妄想して2時間は過ごせるという女性オタクは少なくない。そこにエロが含まれることも少なからずあるが、それは彼女らにとってスパイスのようなものだろう。スパイスの効きまくった料理が好物でしょうがない人も少なからずいるのではあるが。



こちらのブログ記事を頷きながら読んでたんだけど、いまひとつ腑に落ちないところがある。

萌え」と「エロ」は全く違うものなの? 記事では少なくとも切り離せるものだと解釈されているようだった。猫や無邪気な子どもを見たとき可愛いさと通底するというのはよくわかるんだけど…

コメントに、純粋だった「萌え」に「エロ」が途中で混ざったので、それを抜き去って「尊い概念になった、というような意見があった。ナルホドと思ったんだけど、でも「シコい」もまた「萌えからまれ言葉だよね。

2018-09-15

銀河英雄伝説 Die Neue Theseレビュー

適当な書き場所が見つからなかったのでここで

様々な酷評ネットを覆っているが、致命的だと感じた部分を何点か。

(多くの方が酷評してるキャラデザはアリだと思っている。キャラクター社会歴史を描くただの駒なのだ。それでも石黒版ではキャラ描写が秀逸で魅力的だったことは確か)

艦隊戦の描写不足

メカCGになり、数万隻の艦隊を描く作画上のハードルはかなり下がったはずだと期待していた。実際に描かれたのは普通SFありがちな芯の感じられないデザイン戦艦重厚感、巨大感をまったく見せずに軽快に動き回り、戦術深淵を感じさせない異常なハイテンポ戦闘であった。雰囲気が軽薄すぎる。

数万隻がダイナミックに関わる作品上の見せ場のはずが艦隊の遠景描写も近景描写も全く石黒版に及ばない。

クラシック音楽による重厚BGMも、耳に残らないありがちなものに置き換えられてしまった。虚空に伸びる無数のビーム描写も消え失せ、もはや苦痛しかなかった。

根本的にスケール感、質量感、雰囲気を描くことに失敗している。そのうえでSFとしてよりリアル、あるいは盛り上げるにはどうするべきかという改善を試みた形跡がまったく無い。

②背景美術の軽薄さ

前述の戦闘雰囲気にも通底した問題だが、社会文明文化生活、どのような世界キャラクターたちが生きていてどんな雰囲気が漂っているのか、セリフに出さずとも背景1枚で多くを語ることが出来る。石黒版はそのあたりも実に巧みで、数百年続いたゴールデンバウム王朝頽廃や、戦争疲弊制度社会麻痺していく同盟を実によく描いていた。

残念ながら、新作では帝国同盟ともに最近アニメSFありがちなものとなってしまった。同盟側は比較現代社会に近いので新作の方向性としてこうしますよ、というのであれば受け入れられなくもないが、帝国側の描写悲惨のもの西洋建築文化に詳しいスタッフがいなかったのか?というくらい軽薄な、なんちゃってヨーロッパミスマッチSF、安っぽい貴族趣味的豪華さが同居した地獄となっている。貴族近世的な文化と高度な星間社会との落差を石黒版では見栄え上は完全に近代文明を感じさせない方法で乗り切ったが、新作ではどっちつかずの半端な描写となっている。

③単純に尺が足りてない

これは多くの方が言及しているが削りに削って再構成した石黒版でさえアムリッツァまで15話かけている。新作は12話かけて直前まで到達。尺が足りない。全く足りない。足りてないのを何かで補うわけでもなく、必要描写をばっさりカットしていき、①や②で述べたようにそもそもすべてが軽薄。もちろん①や②が改善されないまま15話かけても駄作扱いだっただろう。(多くのひとが言うように世間的な評価にはキャラデザも当然影響している。私はあまり気にしないだけである)

大事な順に書いたので、①さえまともなら、他がグダグダだったとしても楽しんでみていたと思う。せっかくCGいくらでも艦隊戦出来るのに活かせてないのは本当にツライ。そういう意味ではガンダムジオリジンはかなりうまくやっていると思う。艦隊戦やメカ描写に並々ならぬこだわりを注いでいることがよく伝わってくるし、アニメ版のガンダムを良い方向でリメイクしている。(オリジンオリジンアニメ化であって厳密にはリメイクではないという意見ももちろん承知している)

2018-08-23

anond:20180823120337

女だけの街インフラ整備問題通底するが、私達は利益だけ享受する!

肉体的にキツイことや辛くて嫌なことは全部男に投げとき解決だ!今までの報いだ!と考えてる。

これも、普通に女だけでインフラ整備出来るだろ、と言ってたのに

いや男がいなきゃ出来るわけない!!!と騒いでた男がいただけだよなあ

んで面倒臭くなったから「あーはいはいんじゃ男がやりゃいいんじゃねーの」と適当に言った人がいただけなのを

鬼の首取ったように「女は男に頼ろうとしている!!!!」ってやってるだけ

「女に頼られたい」自分の願望を「女が男に頼りたがっている」と置き換えたがるいつものやつ

ツイフェミの最終目標

男という性別によって得られる利益:被る不利益=7:3

女という性別によって得られる利益:被る不利益=3:7

だったと仮定して、まずはどちらの性も利益不利益が5:5になることを目指し、

それ以降は互いの性で共闘してゆくゆくは性別による利益不利益が無い社会にしていこう、

ってのが男女平等概念だと思うのだけどツイフェミ系は違うんだよな。

女という性別によって得られる利益:被る不利益10:0

ツイフェミ系は明らかに↑を最終目標にしてる。

これまで女という性別によって得られてきた利益が少しでも目減りすることを極端に嫌うし、

男性が被ってきた不利益に関しては徹底的に見て見ぬ振りするか、「元々そんな不利益存在しない!」

と突っぱねて、性別を超えた相互扶助は頑として行わないんだよな。責任を負わず権利だけ求める。

果ては「そいつ個人努力が足りない!」とか言い出す始末だ。

自分が同じ文言を言われたら烈火の如くブチ切れるくせにな。

女だけの街インフラ整備問題通底するが、私達は利益だけ享受する!

肉体的にキツイことや辛くて嫌なことは全部男に投げとき解決だ!今までの報いだ!と考えてる。

で、仁藤夢乃電車の話みたいにいざ困った事態になるといけしゃあしゃあと男の庇護を求める。

要はピーピー鳴き散らかして餌を運んできてもらうのを待ってる雛鳥と変わらないんだよな。

雛鳥(子供)なら可愛らしいんだけど、大の大人がこのざまじゃ目も当てられんよな。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん