はてなキーワード: 陥穽とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/beatangel/n/n0cfb0cbe8c71
heaco65
こういう人はモテたいんじゃなくて横にモテる女を連れることで憧れのホモソ村に入れて欲しいんだよね だからホモソ村の男が好きそうなモテ女が好き ブスの地味女が横にいてもホモソ村の皆様に認めて貰えないもんね
このホモソ批判を書いているはてなブックマーカーheaco65さんがどんな人かは一切知らんけど、このコメントだけで間違いなく女性だと思う。男性ならどの方向の人生を過ごしてきた人であれここまでホモソーシャル的なものの解像度が低いということは無いから。
「モテる彼女が通行手形になるホモソ村」なんて一体どこにあるのかという話。ホモソ的な男達が気にすることは徹頭徹尾おのれの能力。子供の頃は腕力や運動神経、大人になれば仕事の能力。その面でイキれる人間なら「交際相手がどんな人か」なんてことは問われんし、逆に能力がまだまだなのに車だの女だのの”持ち物”だけ頑張りましたなんて男は一番バカにされたりいじめられたりするのがホモソの世界。
彼等が競い合い認め合うのは「こんなすごい仕事をした」とか「こんなに稼げるんだぞ」というところで、車・女・腕時計なんていうのは自分の能力の後に付いてくる”形”に過ぎない。競争に勝てることお金を稼げることが重要なのであって、そのお金で何を買うかはわりとどうでもよく、重要なのは己の仕事の能力と成功。
大人しいオタク男性代表みたいな赤松健先生ですら若い頃の一時期テストステロン溢れるファッションスタイルに変身したことがあるけど、先生を組の若い衆みたいないでたちに駆り立てたのはもちろん仕事での大成功。ラブひなだけで凡百の漫画家の人生20回分ぐらい稼いでるから。
こんな例に挙げるのは申し訳ないけど、芸人の陣内智則が超格上大物女優と結婚した時、彼の”格”は上がった?全然でしょ。むしろ跪かんばかりの披露宴などして「情けない男」扱いになってた。
結局離婚して「縁起悪い」「祝儀返せ」といじってもらいながら仕事を頑張ってポジションを築き、前妻と比べればまるで知名度の無い10歳くらい年下の女子アナと再婚した今の陣内智則の方がずっと男としての格は上がってる。
小室圭が日本で一番お姫様な女性の婚約者になったとき、彼の”格”は上がった?全然。逆にバカにされまくっていたでしょ。「お姫様のお父様のコネで勤め先やら諸々配慮してもらっても無能で資格も取れないらしいぞ一生ヒモかよw」のような扱いだったよね。
彼が一転認められるようになったのは米国でついに資格を取って結構な年収を稼げるようになり降嫁した奥さんに不自由させず立派にやっていく実力を見せてから。「お姫様を手に入れた」時点ではむしろバカにされていて、仕事の能力や扶養能力が出てきたところで認められてる。
(ここでの”格”とは全て、あくまでホモソ的な価値観の中での「男の”格”」の話。)
そもそもとして、オスというのは「自分のメス」を見せびらかすインセンティブがあまりない。だっていいことないでしょ。
自分の格は周囲に証明した自己の能力で決まっているんだから、変にきれいな彼女や奥さんを見せびらかして「こいつ、能力(格)以上のいいメスを囲ってるな」なんて周りに思わせても災いにしかならない。聖書にすらきれいな妻を隠す男の話が出てくる。現代で一番男尊女卑的だと言われるイスラム国の戦士達はどう?セクシーなモテる妻を見せびらかしてる?逆でしょ。妻を家の奥深くに置きたがり、その美しさを隠すように命じてる。
男達はホモソ的になるほど男尊女卑的になるほど「女子供は取るに足らず」という態度になり、女は被保護者、家政婦、子を産む資産になる。あまり一人の彼女に入れあげてるような男はむしろ心配されるし、やけにキレイで奢侈な女と結婚する男はもっと心配されたり「こいつ結構バカなのかも」と疑われたりする。まして、付き合う女で自分の格が上がったり格上グループに入れてもらえたりなんてことは男の世界にはありえない。
残る問題は上で見たはてなブックマークの分析が一体何から生じたか。
heaco65
こういう人はモテたいんじゃなくて横にモテる女を連れることで憧れのホモソ村に入れて欲しいんだよね だからホモソ村の男が好きそうなモテ女が好き ブスの地味女が横にいてもホモソ村の皆様に認めて貰えないもんね
https://b.hatena.ne.jp/entry/4745493109321036975/comment/heaco65
主張の要点は以下の通り、
・横にモテる異性を連れることでのみ入会を許されるエクスクリューシブな同性集団が存在する
・その同性集団においてはパートナーがモテない異性だとそれだけで認めてもらえない
男性ホモソーシャル集団が全くこのようなものでないことはすでに上で見てきた。ではこのコメントの分析は一体なんなのか?パートナーによって自分の地位が引き上げられる傾向がある、パートナー見せびらかし欲がある、これは明らかに男ではないけどじゃあ何について語ってるんだろう?
交際相手・結婚相手のステータスを自分の身分のように扱う話、それらを同性と張り合う話は男性の話としてよりも圧倒的に女性の話としてよく聞く。世の中には夫の学歴・勤め先・収入で互いを格付けしマウントを取り合うお母さんの界隈というものもあるらしい。(男が同性相手に同じことをやれば心底見下されて「ヒモ?笑」「で、お前の実力は?」と言われて終わり。)
そうして考えてみると、自己の能力で直接競うことの少ないメスにとっては、「自分の子の父親は集団内で高い地位のオスである」とか「自分と子の庇護者は大変に力がある」とか同性に対して誇示していくことのインセンティブは大いにあるのよね。少なくとも猿やライオンの世界ではメスとその子の運命・待遇はわりと子の父親の力や地位次第。つまり女性性なる本能が野放図に強化された集団は彼氏自慢・夫自慢の旦那マウントワールドになるのでは。男性性が疾走したときのホモソワールドの写し鑑として。
heaco65さんのホモソ批判が実は女性内メスザルワールド由来の話だったとしたら、それは女性として同性集団のメスザル面を見て来た経験知ぽくね?しらんけどさ。で、経験知ならそれは軽んぜられるべきでないものの、メスザルとオスザルでは欲望も行動も異なるでしょ。メスザル行動そのまま投影してホモソ批判すると上で見たようなわけわからん感じになるのでは?
自分の属性の欠点を他者に投影して罵るのは批判というより自身のコンプレックスの吐露や八つ当たりであって。
別に特定の一人の人をどうこうではなく、このガバガバな批判コメントが人気1位になってしまう社会の空気はどうなんやという話。配偶者を自慢したりマウントし合ったりそれで自分の格まで決定したりという、どちらかと言わなくても女性性でしかないもので男のホモソ批判をして一体何がどうなるの。
こんな乱暴無検討な「批判」が通ってしまい人気1位まで取ってしまうことの背景には、ある種の道徳的傾斜、「男性批判・ホモソーシャル批判は正義である」という傾斜があるのでは?ホモソーシャルが重大な社会問題だって言うならそれこそ慎重に厳密な観察と健闘が必要な筈なのに、「正義」側である男叩きは厳しい反論がつきにくいからこんなのが一位になっちゃうって言うそういう空気。
(あとreiって人、確かに一種異様さは感じるけどホモソ志向ではなくね?)
もしもheaco65さんが男性だったら増田の負けだから大笑いしてもらって構わないしそう申告してほしい。
「文壇バー!」というアホみたいな反論がトップコメになってるけど、君達は話を理解してんのか?
その村は「モテる彼女がいると入村できるホモソ村」じゃないでしょ?「高い筆力とそれによって勝ち得た社会的ステータス(つまり自分の実力)によって入村できる村」でしょ?
実力を認めあった男同士の村で、実力になびいてきた女をポケモンみたいに使って遊んでる、って話なんだからその例じゃあ全く反例にも反論にもなってないじゃねーか。
勤勉に日本語勉強してるグエンさん(来日3年目)とかの方がお前らより日本語読解テストいい点とると思う
同人版というか、ネットに上がってる1コマのやつはそれなりに追ってたんだけど、ヤンマガ版は読んだことなかった。なんか話題になってたので4巻まで。けっこう面白かった。
平野啓一郎によると、小説における述語は主語充填型とプロット前進型の2つがあると言う。主語充填型述語とは「○○は孤独を好んだ」のように人物を説明する。プロット前進型述語は「○○は海辺を歩いていた」のように具体的な行動を表し、プロット――つまり物語を前進させる。
『月曜日のたわわ』に限らずラブコメというジャンルが陥りやすい陥穽として、物語が進まない、という事が挙げられる。まず、ラブコメにおいて主人公とヒロインがくっつくには障害を乗り越える必要がある。『かぐや様は告らせたい』であれば「互いに好意は持っているのに相手に告白させようと小細工を弄してしまう(素直になれないの亜種)」が、『めぞん一刻』であれば「ヒロインが死別した夫のことを忘れられない」がそれぞれ障害となる。基本的に物語はその障害を解消する方向に進むが、決定的に解消してしまうと主人公とヒロインがくっつき話が終わってしまうので、それを出来るだけ引き延ばそうとする。すると今度はふたりの関係性がちっとも進展しないので状況に代わり映えがなく飽きが来てしまう。これがラブコメにおける陥穽である。平野の分類に従えば主語充填型述語だらけの小説、ということになろうか。この失敗をした有名作として『ニセコイ』が挙げられるだろう。
ヤンマガ版『月曜日のたわわ』はこの問題を巧みに回避する。『たわわ』における「障害」は主人公の規範意識だろう。大人として、先輩として、あるいは先生として、彼女に手をだすことは許されない。その規範意識が、ヒロインとくっつくことの障害として立ちふさがる。ヒロイン側も好意はあれど恋未満という事情もあるのだが、より決定的なのは主人公側の規範意識であり、結果としてアイちゃんや後輩ちゃんの物語はサスペンドされ続ける。この2人対し、プロットを前進させ続けるのが前髪ちゃんのエピソードである。
前髪ちゃんは初登場時から先生に強い恋愛感情を持っている。だけでなくそれを隠そうとしない。「(制服に包まれた自分の胸を見せつけながら)先生のはここにあるんだから ダメだよ よそ見しちゃ」とアピールまでする。前髪ちゃんは何故そこまで先生を好きになったのか。物語は時間軸をふたりが出会った過去に戻し、現在に向かって関係性の変化を丁寧に綴る。最初はただの担任だったのが親しい先生になり、好意を持つ男性へと変化し、「付き合ってあげてもいいですよ」とさりげなく好意をアピールし始める。前髪ちゃんは成績が良く大人びていて状況を見てうまく立ち回れる「賢い」キャラだが、そんな彼女が手を変え品を変えしても先生の規範意識は崩せず、ついには「好きって言って!」と普段の冷静さを失って迫ってしまう。このように、前髪ちゃんのエピソードは彼女の恋心が大きくなっていくことでプロットが常に前進しており、アイちゃんや後輩ちゃんのエピソードとは一線を画する。逆に言うと前髪ちゃんのエピソードがあるからアイちゃんと後輩ちゃんはサスペンドさせていられるんだし、逆もまた然りだろう。そもそもヒロインが複数人体制であることが互い互いを補って、『月曜日のたわわ』という物語を飽きさせないためのシステムだと言える。
ところで前髪ちゃんのエピソードでフックになっているのが、「高校生」という存在が持つ「時限性」への言及だと思う。前髪ちゃんは良く「今素直になればたっぷり2年半楽しめますよ?」とか「わたしがこの制服着てるのもあと数ヶ月だよ?」といったことを言う。これを見て思い出すのが安達哲の『キラキラ!』である。
好きな女のコに夢を見てのめりこんで
できない能力だよ
なぜ高校生活は輝いているのか。あるいは輝いている、というふうに描き得るのか。それは子どもでも大人でもないその期間がたった3年という時限的なものだからだろう。人によってはそれが「楽園」になるし、人によっては「呪い」となるかもしれない。しかしいずれにせよそれが時限的であることには変わりがない。
前髪ちゃんはしばしば「時限性」に言及する。それは前髪ちゃんの恋心が高校生である今だけのものかもしれないよ、という脅しとして機能する。前髪ちゃんはとても魅力的で、先生にもその想いに応えることができればどんなに良いだろうという気持ちがある。でも彼の規範意識がそれを許さない。といった何やかんやがあってあのラストシーンに至るのである。
前髪ちゃんのエピソードは他の2者に比べて胸に響くのだが、それはこういった掘り下げによるものだろうと思う。
というわけでけっこう面白かった。前髪ちゃんのエピソードが決着を見たことでプロット前進型ヒロインがいなくなりこっからどうすんのかなという感じはある。後輩ちゃんは同窓生のメガネさんのおかげでまあまあ掘り下げが進んでいてこっからに期待できるがアイちゃんはシリーズ全体のヒロインなのでお兄さんとの関係が進むのは最後だろう。そこまで読者を飽きさせずにサスペンドさせられるのか興味深い。
まぁ、50代以上が回答者の61.9%を占める調査の解釈としては面白いかもしれませんね。
憲法改正の必要有無についてのロジスティック回帰の結果でも、30代から50代までの年齢変数がプラスに有意→現役世代は改憲が必要と回答しがちなので、この調査の回答者の多数を占める高齢者が改憲に反対している、という解釈ができますね。
そうだよねえ…確かにそう思うしそう思いたいよね。じゃあ公式にある男女年層別の表を見てみようか。
第11問 憲法第9条は、戦争を放棄し、戦力を持たないことを決めています。あなたは、この第9条は、日本の平和と安全に、どの程度役に立っているとお考えですか。リストの中からお答えください。
男18-29 | 男30代 | 男40代 | 男50代 | 男60代 | 男70以上 | 女18-29 | 女30代 | 女40代 | 女50代 | 女60代 | 女70以上 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
非常に役に立っている | 26.4 | 27.5 | 26.8 | 31.8 | 31.3 | 37.0 | 29.2 | 25.3 | 30.2 | 30.8 | 26.5 | 25.7 |
ある程度役に立っている | 52.7 | 56.5 | 51.4 | 45.8 | 49.0 | 47.0 | 60.8 | 61.2 | 56.3 | 51.8 | 56.2 | 49.5 |
「あまり役に立っていない」「まったく役に立っていない」「わからない、無回答」は面倒なので省略。でもこれで十分でしょう?
どの世代でも平和に役立ってると答えている層がなんと最低でも7割はいるわけです。
あと面白いのは女性の中だと70代以上が75.3%で一番低いことかな。「高齢者が改憲に反対している」のにね。まあこれは「わからない、無回答」がずば抜けて多いからなんだけど。
第12問 あなたは、いわゆる「戦争の放棄」を定めた第9条を改正する必要があると思いますか。それとも改正する必要はないと思いますか。
男18-29 | 男30代 | 男40代 | 男50代 | 男60代 | 男70以上 | 女18-29 | 女30代 | 女40代 | 女50代 | 女60代 | 女70以上 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
改正する必要があると思う | 20.9 | 29.7 | 36.6 | 32.3 | 36.8 | 26.7 | 16.9 | 19.1 | 26.5 | 21.4 | 22.7 | 13.0 |
改正する必要がないと思う | 65.5 | 56.5 | 53.0 | 53.2 | 50.3 | 63.0 | 62.3 | 57.9 | 57.1 | 58.5 | 57.8 | 57.7 |
例によって「どちらともいえない」「わからない、無回答」は省略。
意外じゃないですか?9条改正賛成派は40-60代に多い、って。「必要がない」と答えている最多が男女ともに18-29代で、「必要ある」と答えている2強が40代と60代。「高齢者が改憲に反対している」はずなのに男性なんて60代が一番賛成派多いんですよ!
ネットでリベラルは高齢化進んでいて若者からの支持を失っていると書かれるわけで、まあそれは必ずしも間違っているとは言えないのだが、しかしそれを何もかもにも応用できると考えて安易に若者は改憲賛成、高齢者は改憲反対って括りにしていると衝撃的なデータなんじゃないかなー。
ただ実は改憲そのものへの賛否と9条改正への賛否は年齢層別の多寡の傾向がまたちょっと違ったりするのでそのあたりも影響してるかもね。
まあそもそも2017年調査での9条改正必要性に関する質問に関しては全体でも25.4%vs57.2%と圧倒的に不要派の方が多かったんで年齢層別の傾向とか言ってわざわざ表にする必要もないけどね。ちなみにロジスティック回帰云々言及してくれた改憲必要性についての質問では全体でも改正派の方が多かったり。でも今回は9条についてだからこっちのデータを参照すべきだよね?
さて、それを踏まえた上でもこんなデータ意味ないと言う方法が無いでもないです。
(1) 2017年は安保法案関連のゴタゴタを引きずってるから参考にならない
これは元増田でもちょっと書いたけどまあ言う人もいるかもね。実際、2021年に行われたNHKの調査では9条改正について必要28%、必要はない32%、どちらともいえない36%という感じだった。だから、2017年はおかしかった。9条が平和に役立つと言うのは日本国民が共同催眠にでもかかっていたに違いない…。って話だけど、一番低い1974年の調査でも66%は役に立っていると答えているのでまあそういうことです、はい。でも今すぐにやったら66%すら切ることができるかもしれないよ!
これ個人面接法なんだよね。つまり前回の衆院選と同じことが言えるってワケ。対面の世論調査に保守派は非協力的、リベラル派は協力的。で、結果的に偏りが出るってやつ。ただ、あそこまで世論調査が乖離したのは前回の衆院選が初めて(?)だし果たして2017年の調査に対しどこまで適用できるものなのかって問題は残るよね。もちろん衆院選より前からもそういう現象があることは知られていたらしいけどもあそこまで大外ししたのは珍しいからね。
少なくとも9条改正の質問については「『戦争の放棄』を定めた」と書かれていることで侵略戦争否定部分まで改正する質問だと勘違いされたのではないかという言い方もできなくもない。個人的にはさすがにそれはって思うけれども…。でも例えば同じく2017年の調査にも関わらず憲法9条に自衛隊明記することへの賛否を問うと基本的に賛成派が多くなるのですね。まあ、「わからない」って項目を入れた毎日の調査だと反対派が多くなるけど拮抗してるよね。おかしいなあってなるよね。勘違いというのはさすがに国民を馬鹿にしているかもしれないけど印象の違いでコロコロ意見が変わる人が多いのかもしれないし、単に同じような答えを選択するにしてもニュアンスが違うということなのかもしれない。これだから世論調査って扱いが難しいし、国民に確固たる政治信条があると考えると陥穽に嵌るんだよなっていう。
ただ、平和に役立つか否かの質問についても質問の仕方がおかしいってなるかというと別に…って感じはあるよね。今の話題は9条改正の賛否よりそっちだからなあ。
異常な興奮を求めて集った、七人のしかつめらしい男が(私もその中の一人だった)態々わざわざ其為そのためにしつらえた「赤い部屋」の、緋色ひいろの天鵞絨びろうどで張った深い肘掛椅子に凭もたれ込んで、今晩の話手が何事か怪異な物語を話し出すのを、今か今かと待構まちかまえていた。
七人の真中には、これも緋色の天鵞絨で覆おおわれた一つの大きな円卓子まるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台しょくだいにさされた、三挺さんちょうの太い蝋燭ろうそくがユラユラと幽かすかに揺れながら燃えていた。
部屋の四周には、窓や入口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅まっかな重々しい垂絹たれぎぬが豊かな襞ひだを作って懸けられていた。ロマンチックな蝋燭の光が、その静脈から流れ出したばかりの血の様にも、ドス黒い色をした垂絹の表に、我々七人の異様に大きな影法師かげぼうしを投げていた。そして、その影法師は、蝋燭の焔につれて、幾つかの巨大な昆虫でもあるかの様に、垂絹の襞の曲線の上を、伸びたり縮んだりしながら這い歩いていた。
いつもながらその部屋は、私を、丁度とほうもなく大きな生物の心臓の中に坐ってでもいる様な気持にした。私にはその心臓が、大きさに相応したのろさを以もって、ドキンドキンと脈うつ音さえ感じられる様に思えた。
誰も物を云わなかった。私は蝋燭をすかして、向側に腰掛けた人達の赤黒く見える影の多い顔を、何ということなしに見つめていた。それらの顔は、不思議にも、お能の面の様に無表情に微動さえしないかと思われた。
やがて、今晩の話手と定められた新入会員のT氏は、腰掛けたままで、じっと蝋燭の火を見つめながら、次の様に話し始めた。私は、陰影の加減で骸骨の様に見える彼の顎が、物を云う度にガクガクと物淋しく合わさる様子を、奇怪なからくり仕掛けの生人形でも見る様な気持で眺めていた。
私は、自分では確かに正気の積りでいますし、人も亦またその様に取扱って呉くれていますけれど、真実まったく正気なのかどうか分りません。狂人かも知れません。それ程でないとしても、何かの精神病者という様なものかも知れません。兎とに角かく、私という人間は、不思議な程この世の中がつまらないのです。生きているという事が、もうもう退屈で退屈で仕様がないのです。
初めの間うちは、でも、人並みに色々の道楽に耽ふけった時代もありましたけれど、それが何一つ私の生れつきの退屈を慰なぐさめては呉れないで、却かえって、もうこれで世の中の面白いことというものはお仕舞なのか、なあんだつまらないという失望ばかりが残るのでした。で、段々、私は何かをやるのが臆劫おっくうになって来ました。例えば、これこれの遊びは面白い、きっとお前を有頂天にして呉れるだろうという様な話を聞かされますと、おお、そんなものがあったのか、では早速やって見ようと乗気になる代りに、まず頭の中でその面白さを色々と想像して見るのです。そして、さんざん想像を廻めぐらした結果は、いつも「なあに大したことはない」とみくびって了しまうのです。
そんな風で、一時私は文字通り何もしないで、ただ飯を食ったり、起きたり、寝たりするばかりの日を暮していました。そして、頭の中丈だけで色々な空想を廻らしては、これもつまらない、あれも退屈だと、片端かたはしからけなしつけながら、死ぬよりも辛い、それでいて人目には此上このうえもなく安易な生活を送っていました。
これが、私がその日その日のパンに追われる様な境遇だったら、まだよかったのでしょう。仮令たとえ強いられた労働にしろ、兎に角何かすることがあれば幸福です。それとも又、私が飛切りの大金持ででもあったら、もっとよかったかも知れません。私はきっと、その大金の力で、歴史上の暴君達がやった様なすばらしい贅沢ぜいたくや、血腥ちなまぐさい遊戯や、その他様々の楽しみに耽ふけることが出来たでありましょうが、勿論それもかなわぬ願いだとしますと、私はもう、あのお伽噺とぎばなしにある物臭太郎の様に、一層死んで了った方がましな程、淋しくものういその日その日を、ただじっとして暮す他はないのでした。
こんな風に申上げますと、皆さんはきっと「そうだろう、そうだろう、併し世の中の事柄に退屈し切っている点では我々だって決してお前にひけを取りはしないのだ。だからこんなクラブを作って何とかして異常な興奮を求めようとしているのではないか。お前もよくよく退屈なればこそ、今、我々の仲間へ入って来たのであろう。それはもう、お前の退屈していることは、今更ら聞かなくてもよく分っているのだ」とおっしゃるに相違ありません。ほんとうにそうです。私は何もくどくどと退屈の説明をする必要はないのでした。そして、あなた方が、そんな風に退屈がどんなものだかをよく知っていらっしゃると思えばこそ、私は今夜この席に列して、私の変てこな身の上話をお話しようと決心したのでした。
私はこの階下のレストランへはしょっちゅう出入でいりしていまして、自然ここにいらっしゃる御主人とも御心安く、大分以前からこの「赤い部屋」の会のことを聞知っていたばかりでなく、一再いっさいならず入会することを勧められてさえいました。それにも拘かかわらず、そんな話には一も二もなく飛びつき相そうな退屈屋の私が、今日まで入会しなかったのは、私が、失礼な申分かも知れませんけれど、皆さんなどとは比べものにならぬ程退屈し切っていたからです。退屈し過ぎていたからです。
犯罪と探偵の遊戯ですか、降霊術こうれいじゅつ其他そのたの心霊上の様々の実験ですか、Obscene Picture の活動写真や実演やその他のセンジュアルな遊戯ですか、刑務所や、瘋癲病院や、解剖学教室などの参観ですか、まだそういうものに幾らかでも興味を持ち得うるあなた方は幸福です。私は、皆さんが死刑執行のすき見を企てていられると聞いた時でさえ、少しも驚きはしませんでした。といいますのは、私は御主人からそのお話のあった頃には、もうそういうありふれた刺戟しげきには飽き飽きしていたばかりでなく、ある世にもすばらしい遊戯、といっては少し空恐しい気がしますけれど、私にとっては遊戯といってもよい一つの事柄を発見して、その楽しみに夢中になっていたからです。
その遊戯というのは、突然申上げますと、皆さんはびっくりなさるかも知れませんが……、人殺しなんです。ほんとうの殺人なんです。しかも、私はその遊戯を発見してから今日までに百人に近い男や女や子供の命を、ただ退屈をまぎらす目的の為ばかりに、奪って来たのです。あなた方は、では、私が今その恐ろしい罪悪を悔悟かいごして、懺悔ざんげ話をしようとしているかと早合点なさるかも知れませんが、ところが、決してそうではないのです。私は少しも悔悟なぞしてはいません。犯した罪を恐れてもいません。それどころか、ああ何ということでしょう。私は近頃になってその人殺しという血腥い刺戟にすら、もう飽きあきして了ったのです。そして、今度は他人ではなくて自分自身を殺す様な事柄に、あの阿片アヘンの喫煙に耽り始めたのです。流石さすがにこれ丈けは、そんな私にも命は惜しかったと見えまして、我慢に我慢をして来たのですけれど、人殺しさえあきはてては、もう自殺でも目論もくろむ外には、刺戟の求め様がないではありませんか。私はやがて程なく、阿片の毒の為に命をとられて了うでしょう。そう思いますと、せめて筋路の通った話の出来る間に、私は誰れかに私のやって来た事を打開けて置き度いのです。それには、この「赤い部屋」の方々が一番ふさわしくはないでしょうか。
そういう訳で、私は実は皆さんのお仲間入りがし度い為ではなくて、ただ私のこの変な身の上話を聞いて貰い度いばかりに、会員の一人に加えて頂いたのです。そして、幸いにも新入会の者は必ず最初の晩に、何か会の主旨に副そう様なお話をしなければならぬ定きめになっていましたのでこうして今晩その私の望みを果す機会をとらえることが出来た次第なのです。
それは今からざっと三年計ばかり以前のことでした。その頃は今も申上げました様に、あらゆる刺戟に飽きはてて何の生甲斐もなく、丁度一匹の退屈という名前を持った動物ででもある様に、ノラリクラリと日を暮していたのですが、その年の春、といってもまだ寒い時分でしたから多分二月の終りか三月の始め頃だったのでしょう、ある夜、私は一つの妙な出来事にぶつかったのです。私が百人もの命をとる様になったのは、実にその晩の出来事が動機を為なしたのでした。
どこかで夜更しをした私は、もう一時頃でしたろうか。少し酔っぱらっていたと思います。寒い夜なのにブラブラと俥くるまにも乗らないで家路を辿っていました。もう一つ横町を曲ると一町ばかりで私の家だという、その横町を何気なくヒョイと曲りますと、出会頭であいがしらに一人の男が、何か狼狽している様子で慌ててこちらへやって来るのにバッタリぶつかりました。私も驚きましたが男は一層驚いたと見えて暫く黙って衝つっ立っていましたが、おぼろげな街燈の光で私の姿を認めるといきなり「この辺に医者はないか」と尋ねるではありませんか。よく訊きいて見ますと、その男は自動車の運転手で、今そこで一人の老人を(こんな夜中に一人でうろついていた所を見ると多分浮浪の徒だったのでしょう)轢倒ひきたおして大怪我をさせたというのです。なる程見れば、すぐ二三間向うに一台の自動車が停っていて、その側そばに人らしいものが倒れてウーウーと幽かすかにうめいています。交番といっても大分遠方ですし、それに負傷者の苦しみがひどいので、運転手は何はさて置き先ず医者を探そうとしたのに相違ありません。
私はその辺の地理は、自宅の近所のことですから、医院の所在などもよく弁わきまえていましたので早速こう教えてやりました。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点ついた家がある。M医院というのだ。そこへ行って叩き起したらいいだろう」
すると運転手はすぐ様助手に手伝わせて、負傷者をそのM医院の方へ運んで行きました。私は彼等の後ろ姿が闇の中に消えるまで、それを見送っていましたが、こんなことに係合っていてもつまらないと思いましたので、やがて家に帰って、――私は独り者なんです。――婆ばあやの敷しいて呉れた床とこへ這入はいって、酔っていたからでしょう、いつになくすぐに眠入ねいって了いました。
実際何でもない事です。若もし私がその儘ままその事件を忘れて了いさえしたら、それっ限きりの話だったのです。ところが、翌日眼を醒さました時、私は前夜の一寸ちょっとした出来事をまだ覚えていました。そしてあの怪我人は助かったかしらなどと、要もないことまで考え始めたものです。すると、私はふと変なことに気がつきました。
「ヤ、俺は大変な間違いをして了ったぞ」
私はびっくりしました。いくら酒に酔っていたとは云いえ、決して正気を失っていた訳ではないのに、私としたことが、何と思ってあの怪我人をM医院などへ担ぎ込ませたのでしょう。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点いた家がある……」
「ここを右の方へ一町ばかり行くとK病院という外科専門の医者がある」
と云わなかったのでしょう。私の教えたMというのは評判の藪やぶ医者で、しかも外科の方は出来るかどうかさえ疑わしかった程なのです。ところがMとは反対の方角でMよりはもっと近い所に、立派に設備の整ったKという外科病院があるではありませんか。無論私はそれをよく知っていた筈はずなのです。知っていたのに何故間違ったことを教えたか。その時の不思議な心理状態は、今になってもまだよく分りませんが、恐らく胴忘どうわすれとでも云うのでしょうか。
私は少し気懸りになって来たものですから、婆やにそれとなく近所の噂などを探らせて見ますと、どうやら怪我人はM医院の診察室で死んだ鹽梅あんばいなのです。どこの医者でもそんな怪我人なんか担ぎ込まれるのは厭いやがるものです。まして夜半の一時というのですから、無理もありませんがM医院ではいくら戸を叩いても、何のかんのと云って却々なかなか開けて呉れなかったらしいのです。さんざん暇ひまどらせた挙句やっと怪我人を担ぎ込んだ時分には、もう余程手遅れになっていたに相違ありません。でも、その時若しM医院の主が「私は専門医でないから、近所のK病院の方へつれて行け」とでも、指図をしたなら、或あるいは怪我人は助っていたのかも知れませんが、何という無茶なことでしょう。彼は自からその難しい患者を処理しようとしたらしいのです。そしてしくじったのです、何んでも噂によりますとM氏はうろたえて了って、不当に長い間怪我人をいじくりまわしていたとかいうことです。
私はそれを聞いて、何だかこう変な気持になって了いました。
この場合可哀相な老人を殺したものは果して何人なんぴとでしょうか。自動車の運転手とM医師ともに、夫々それぞれ責任のあることは云うまでもありません。そしてそこに法律上の処罰があるとすれば、それは恐らく運転手の過失に対して行われるのでしょうが、事実上最も重大な責任者はこの私だったのではありますまいか。若しその際私がM医院でなくてK病院を教えてやったとすれば、少しのへまもなく怪我人は助かったのかも知れないのです。運転手は単に怪我をさせたばかりです。殺した訳ではないのです。M医師は医術上の技倆が劣っていた為にしくじったのですから、これもあながち咎とがめる所はありません。よし又彼に責を負うべき点があったとしても、その元はと云えば私が不適当なM医院を教えたのが悪いのです。つまり、その時の私の指図次第によって、老人を生かすことも殺すことも出来た訳なのです。それは怪我をさせたのは如何にも運転手でしょう。けれど殺したのはこの私だったのではありますまいか。
これは私の指図が全く偶然の過失だったと考えた場合ですが、若しそれが過失ではなくて、その老人を殺してやろうという私の故意から出たものだったとしたら、一体どういうことになるのでしょう。いうまでもありません。私は事実上殺人罪を犯したものではありませんか。併しかし法律は仮令運転手を罰することはあっても、事実上の殺人者である私というものに対しては、恐らく疑いをかけさえしないでしょう。なぜといって、私と死んだ老人とはまるきり関係のない事がよく分っているのですから。そして仮令疑いをかけられたとしても、私はただ外科医院のあることなど忘れていたと答えさえすればよいではありませんか。それは全然心の中の問題なのです。
皆さん。皆さんは嘗かつてこういう殺人法について考えられたことがおありでしょうか。私はこの自動車事件で始めてそこへ気がついたのですが、考えて見ますと、この世の中は何という険難至極けんのんしごくな場所なのでしょう。いつ私の様な男が、何の理由もなく故意に間違った医者を教えたりして、そうでなければ取止めることが出来た命を、不当に失って了う様な目に合うか分ったものではないのです。
これはその後私が実際やって見て成功したことなのですが、田舎のお婆さんが電車線路を横切ろうと、まさに線路に片足をかけた時に、無論そこには電車ばかりでなく自動車や自転車や馬車や人力車などが織る様に行違っているのですから、そのお婆さんの頭は十分混乱しているに相違ありません。その片足をかけた刹那に、急行電車か何かが疾風しっぷうの様にやって来てお婆さんから二三間の所まで迫ったと仮定します。その際、お婆さんがそれに気附かないでそのまま線路を横切って了えば何のことはないのですが、誰かが大きな声で「お婆さん危いッ」と怒鳴りでもしようものなら、忽たちまち慌てて了って、そのままつき切ろうか、一度後へ引返そうかと、暫しばらくまごつくに相違ありません。そして、若しその電車が、余り間近い為に急停車も出来なかったとしますと、「お婆さん危いッ」というたった一言が、そのお婆さんに大怪我をさせ、悪くすれば命までも取って了わないとは限りません。先きも申上げました通り、私はある時この方法で一人の田舎者をまんまと殺して了ったことがありますよ。
(T氏はここで一寸言葉を切って、気味悪く笑った)
この場合「危いッ」と声をかけた私は明かに殺人者です。併し誰が私の殺意を疑いましょう。何の恨うらみもない見ず知らずの人間を、ただ殺人の興味の為ばかりに、殺そうとしている男があろうなどと想像する人がありましょうか。それに「危いッ」という注意の言葉は、どんな風に解釈して見たって、好意から出たものとしか考えられないのです。表面上では、死者から感謝されこそすれ決して恨まれる理由がないのです。皆さん、何と安全至極な殺人法ではありませんか。
世の中の人は、悪事は必ず法律に触れ相当の処罰を受けるものだと信じて、愚にも安心し切っています。誰にしたって法律が人殺しを見逃そうなどとは想像もしないのです。ところがどうでしょう。今申上げました二つの実例から類推出来る様な少しも法律に触れる気遣いのない殺人法が考えて見ればいくらもあるではありませんか。私はこの事に気附いた時、世の中というものの恐ろしさに戦慄するよりも、そういう罪悪の余地を残して置いて呉れた造物主の余裕を此上もなく愉快に思いました。ほんとうに私はこの発見に狂喜しました。何とすばらしいではありませんか。この方法によりさえすれば、大正の聖代せいだいにこの私丈けは、謂わば斬捨て御免ごめんも同様なのです。
そこで私はこの種の人殺しによって、あの死に相な退屈をまぎらすことを思いつきました。絶対に法律に触れない人殺し、どんなシャーロック・ホームズだって見破ることの出来ない人殺し、ああ何という申分のない眠け醒しでしょう。以来私は三年の間というもの、人を殺す楽しみに耽って、いつの間にかさしもの退屈をすっかり忘れはてていました。皆さん笑ってはいけません。私は戦国時代の豪傑の様に、あの百人斬りを、無論文字通り斬る訳ではありませんけれど、百人の命をとるまでは決して中途でこの殺人を止めないことを、私自身に誓ったのです。
今から三月ばかり前です、私は丁度九十九人だけ済ませました。そして、あと一人になった時先にも申上げました通り私はその人殺しにも、もう飽きあきしてしまったのですが、それは兎も角、ではその九十九人をどんな風にして殺したか。勿論九十九人のどの人にも少しだって恨みがあった訳ではなく、ただ人知れぬ方法とその結果に興味を持ってやった仕事ですから、私は一度も同じやり方を繰返す様なことはしませんでした。一人殺したあとでは、今度はどんな新工夫でやっつけようかと、それを考えるのが又一つの楽しみだったのです。
併し、この席で、私のやった九十九の異った殺人法を悉ことごとく御話する暇もありませんし、それに、今夜私がここへ参りましたのは、そんな個々の殺人方法を告白する為ではなくて、そうした極悪非道の罪悪を犯してまで、退屈を免れ様とした、そして又、遂にはその罪悪にすら飽きはてて、今度はこの私自身を亡ぼそうとしている、世の常ならぬ私の心持をお話して皆さんの御判断を仰ぎたい為なのですから、その殺人方以については、ほんの二三の実例を申上げるに止めて置き度いと存じます。
この方法を発見して間もなくのことでしたが、こんなこともありました。私の近所に一人の按摩あんまがいまして、それが不具などによくあるひどい強情者でした。他人が深切しんせつから色々注意などしてやりますと、却ってそれを逆にとって、目が見えないと思って人を馬鹿にするなそれ位のことはちゃんと俺にだって分っているわいという調子で、必ず相手の言葉にさからったことをやるのです。どうして並み並みの強情さではないのです。
ある日のことでした。私がある大通りを歩いていますと、向うからその強情者の按摩がやって来るのに出逢いました。彼は生意気にも、杖つえを肩に担いで鼻唄を歌いながらヒョッコリヒョッコリと歩いています。丁度その町には昨日から下水の工事が始まっていて、往来の片側には深い穴が掘ってありましたが、彼は盲人のことで片側往来止めの立札など見えませんから、何の気もつかず、その穴のすぐ側を呑気そうに歩いているのです。
それを見ますと、私はふと一つの妙案を思いつきました。そこで、
「やあN君」と按摩の名を呼びかけ、(よく療治を頼んでお互に知り合っていたのです)
「ソラ危いぞ、左へ寄った、左へ寄った」
と怒鳴りました。それを態わざと少し冗談らしい調子でやったのです。というのは、こういえば、彼は日頃の性質から、きっとからかわれたのだと邪推して、左へはよらないで態と右へ寄るに相違ないと考えたからです。案あんの定じょう彼は、
「エヘヘヘ……。御冗談ばっかり」
などと声色こわいろめいた口返答をしながら、矢庭やにわに反対の右の方へ二足三足寄ったものですから、忽ち下水工事の穴の中へ片足を踏み込んで、アッという間に一丈もあるその底へと落ち込んで了いました。私はさも驚いた風を装うて穴の縁へ駈けより、
「うまく行ったかしら」と覗いて見ましたが彼はうち所でも悪かったのか、穴の底にぐったりと横よこたわって、穴のまわりに突出ている鋭い石でついたのでしょう。一分刈りの頭に、赤黒い血がタラタラと流れているのです。それから、舌でも噛切ったと見えて、口や鼻からも同じ様に出血しています。顔色はもう蒼白で、唸り声を出す元気さえありません。
こうして、この按摩は、でもそれから一週間ばかりは虫の息で生きていましたが、遂に絶命して了ったのです。私の計画は見事に成功しました。誰が私を疑いましょう。私はこの按摩を日頃贔屓ひいきにしてよく呼んでいた位で、決して殺人の動機になる様な恨みがあった訳ではなく、それに、表面上は右に陥穽おとしあなのあるのを避けさせようとして、「左へよれ、左へよれ」と教えてやった訳なのですから、私の好意を認める人はあっても、その親切らしい言葉の裏に恐るべき殺意がこめられていたと想像する人があろう筈はないのです。
ああ、何という恐しくも楽しい遊戯だったのでしょう。巧妙なトリックを考え出した時の、恐らく芸術家のそれにも匹敵する、歓喜、そのトリックを実行する時のワクワクした緊張、そして、目的を果した時の云い知れぬ満足、それに又、私の犠牲になった男や女が、殺人者が目の前にいるとも知らず血みどろになって狂い廻る断末魔だんまつまの光景ありさま、最初の間、それらが、どんなにまあ私を有頂天にして呉れたことでしょう。
ある時はこんな事もありました。それは夏のどんよりと曇った日のことでしたが、私はある郊外の文化村とでもいうのでしょう。十軒余りの西洋館がまばらに立並んだ所を歩いていました。そして、丁度その中でも一番立派なコンクリート造りの西洋館の裏手を通りかかった時です。ふと妙なものが私の目に止りました。といいますのは、その時私の鼻先をかすめて勢よく飛んで行った一匹の雀が、その家の屋根から地面へ引張ってあった太い針金に一寸とまると、いきなりはね返された様に下へ落ちて来て、そのまま死んで了ったのです。
変なこともあるものだと思ってよく見ますと、その針金というのは、西洋館の尖った Permalink | 記事への反応(0) | 22:33
舐めすぎている。野戦築城術といういうものは、単一機材によってのみ効果を発揮する物ではなく、地形を含めた総体を以て防御を行うにある。もちろん欧州大戦の塹壕戦を有刺鉄線が支えた側面は否定できない。しかし塹壕戦が戦車によって蹂躙されるまで誰にも突破できなかったのは、そのシステム全体が強固なものであったからだ。
有刺鉄線、というか鉄条網に期待されているのは敵歩兵の突撃妨害に過ぎぬ。あれで殺すのではない、あれで足が止まった連中を火力で薙ぎ払って殺すのだ。実際くぐってみるがいい。なるほど致命傷にはならないだろう。だが現実に痛みを前にすればそれが人間は死との二択であったとしてもなお怯む。肉体を痛めるという原始的な恐怖からは逃れられない。そして人間に覚悟があっても、人間に付随する衣服だベルトだ銃だ雑嚢だには覚悟がない、トゲに引っ掛かって主人の行動を制限する。ソンムで、パッシェンデールで、フランダースでヴェルダンでイーペルで、もたもたしていればタダの的。いや的ならばまだ狙ってくれるだけ人間的というもので、大体は広がった暴露面積に応じてなんだかよくわからぬ飛んできたものが確率で当たって、死ぬ。
しかるに鉄条網を単に突破するだけならば容易いことだ。毛布の一枚、戸板の一枚、それもなければ代わりに踏まれる犠牲的兵士の一人がおれば、か細いながらも突撃路の啓開は十分に可能である。で、そのか細い突撃路から侵入した兵士がどこまでたどり着けるのか。砲弾降り注ぐ無人地帯を踏破して、鉄条網を潜り抜けてようやくたどり着いて塹壕を一本確保したところで、その奥には予備陣地が控えている。そこをなお突撃する体力は、連合も同盟も有してはいなかった。いや無論、一部の突撃兵には出来た。しかし全体としては少数で、後続の連中には無理だった。人が人である以上、その貧弱な限度を超えることはできないのだ。
そして最大の特徴は、あれは針金で体積から見ればスッカスカである点だ。即ち、事前砲撃や射撃によってほとんど破壊されぬ。通常、陣地攻撃を行うならば事前に「耕す」と形容される程度には突撃路を砲撃によって確保する必要がある。塹壕は強固に作られても線だ。特火点は点に等しいが面積と破壊できる実態がある。砲弾は爆弾は確率の女神の気まぐれでいつかは当たって、それらは破壊される日が来る。しかし有刺鉄線は敷設された空間の中で実態が占めている体積はほとんどない。砲弾が降り注いでも柳に風、都合よく弾片がワイヤーを切ってくれることを祈るしかないがその確率は限りなく低い。つまり単なる鉄線であるがゆえに、これを確実に断ち切ることは火砲ではほとんど不可能だ。となれば突撃を開始してから銃弾ふきっ晒しの敵前において悠長に切るか、肉迫して特殊機材で吹っ飛ばすか、攻撃路を変更するか穴でも掘るか、犠牲を許容して尚踏破するかを迫られる。おまけに普通の阻塞とは異なり、攻撃側の身を隠してはくれず、銃弾砲弾は素通しで危険が増す。なお、変更した先は大体火力が集中しやすい死地になるので選ばれがちなのが犠牲的精神という訳だ。
ちなみに本邦で一番有名な戦訓は「爆弾三勇士」だ。かれらが爆弾で吹き飛ばしたかったものこそが有刺鉄線なのだ。ああいう特殊資材が要求される程度には、あれは厄介な代物なのだ。あの「爆弾」、バンガロール爆薬筒という。ほぼ専用の爆破機材だ。覚えて帰れ。
望外の高評謝するに余りあり。
ただし投稿子は無論本職でもなく、オタクとしての領分はむしろ航空、就中1000~2000馬力までのwarbirdsである。加えて早朝寝る前の勢いで綴った代物で、意図するとせざるとを問わず多数の陥穽があるはずだ。現にこの追記時に助詞程度ではあるが、第一段落から若干の修正を加えている始末である。ゆえに読者、殊にこの領域をご専門であろう諸賢の御鞭撻と補足、並びに御寛恕を賜れば幸いである。
またに未見の作品のご紹介は大変にありがたかった。投稿子はそれを覚えて巣に帰ろう。また何らかの巡り合わせがあれば、何処かで。
日本の大学、特に文系の学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系の学者達は自分たちの存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系の研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系の先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。
だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端の研究は専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン。一般・特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系の研究も基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。
本題に入ろう。最近、1つの書評論文が東大の言語学研究室発行の紀要に出た。
田中太一「日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型論原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313
https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2
著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学科 准教授の中野研一郎先生。
普通、書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後にちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評も酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンのフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。
一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である「博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大な論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分のオリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間の知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。
そして博士論文の原稿は、3~5人の審査委員が審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学の教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文を大学に提出していいかを審査する二次審査、最後に論文が完成し、大学に提出された後、博士の学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。
ミサト:おめでとう!
アスカ:おめでとう!
レイ:おめでとう。
研究者人生のフィナーレではないが、1つのピークである。こうやって研究者の能力にお墨付きを与えるのが大学の存在意義の大きな一部分だ。
要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ。日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本の大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校の先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学の准教授になったようだ。周知の通り、大学の終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。
博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学の博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学の博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学に就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生の師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型論原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本を代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生は2014年度に京大を定年退官して、2015年度からは中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文の審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査の主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。
さて、超大物お墨付きの博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからないからパス。3節「日本語に存在しないとされるもの」から見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分からの引用がある。
「日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリが妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである「日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。
(『認知言語類型論原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)
昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579
主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型論原理』は、ミニマリストの断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞/他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。
これは熊倉千之氏の「音象徴」理論に基づいているそうで、熊倉氏は、
膠着語にかんして、「イメージとイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。
とのこと。
近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性の原理を否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣の名前は、音と意味の関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴は基本的にオノマトペ(擬音語・擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかもあくまで傾向性。言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、
「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。
知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、
「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)
と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴は
「日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)
この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである。同音異義語の存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)
確かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、
「日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味・機能も通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本語 やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)
と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信と関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。
そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生や熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、
1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学、サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年に帰国後、東京家政学院大学教授、1999年金城学院大学教授。2007年退職。
という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学。言語について言語学界とは関係なく自由に思索・著述をしている人のようだ。そういう独自の言語論を唱える文学や思想の研究者はよくいるけど、普通の言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型論原理』もその類の本だったなら、東大で言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大の言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ。
他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。
ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的に文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ、英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!
ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後の激辛書評論文を大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型論原理』は、博士論文の審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!
もう終わりにしよう。書評の批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員の指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版社からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文の審査結果の要旨とほとんど同じ。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf
本論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式・文法カテゴリが創発する根源的理由の説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た
ホリエモンがtwitterを使ってありきたりな「お金がなくても人は幸福論」をさもその論がありきたりだと気づかないまま発信していたけど、一理はある。
人が感じられる現実は五感による。そしてお金は壁だ。人は何かを手に入れたり所属するためにふさわしいかどうかを勝手に決める。
文字に限らないのだ。
それまで蓄積してきた自分の五感から得た経験のストックから離れた経験をしたとき人には感動が起きる。
そこに一抹の真実はある。
しかし、これは十二分に才気あふれ、また高度な教育を身につけることのできた人間のものの見方だ。
正論だ。
これは間違いだ。
ダサピンクを嫌悪するあまり、本当にピンクを好む女性まで否定してはいけない、と。
ピンクを好む女性に「それは女性のステレオタイプだからやめろ」といえば、
フェミニストたちは「そのとおり、女性という全体像ではなく、個々の人格を見ろ」と声を上げたことだろう。
まったくの正論だ。
「女性」じゃなくて「キズナアイ」だし、キズナアイが生徒役をするのは「女性のステレオタイプ」じゃない。
「女性」じゃなくて「葵・喜美」だし、葵・喜美が際どい格好をするのは「女性の性的搾取」じゃない。
まったくの正論だ。
ひとりひとりのキャラクターを「個人」として見ているのに対し、
「個人」ではなく「女性」というイメージで捉えているということだろう。
いや、もっと直截に言うなら、
オタクは「キズナアイがそういう衣装を着ている」と認識しているとき、
フェミは「作者である男がキズナアイにそういう衣装を着させている」と認識してしまうのだ。
キズナアイの衣装をデザインしたのは女性だと主張しても無意味だろう。
多少の例外があったところで彼ら彼女らが考えを改めるわけがない。
現在のフェミはオタクコンテンツを十把一絡げに捉えて抑圧する。
仕方がないのかもしれない。
分かっていたところでなかなか防げるようなものではない。
我々にできることは何か?
根気強く訴えるしかないのだろう。
かつてのフェミニストたちのように。
「オタクは茶化すばかりで差別と真面目に向き合わない」「フェミは大上段に不快なものを排除しようとする」
「左翼は文句ばかりで対案を出さない」「右翼は差別主義者でデマばかり」みたいなやつって、
観測範囲が狭い(一部しか見てない)、認識が粗い(一部を全体だと錯覚する)、
複数の意見を一つの仮想人格に言わせる(藁人形論法)、といったやつの複合的な現象だけど、
これって誰が悪いというより人間の根本的な欠陥なんじゃないだろうか。
全体を観測するのは不可能だし、主語の大きさを間違えるのも、敵をひとまとめにしちゃうのも、人間の自然な錯覚、当然の心理だよ。
インターネットの発展によって巨大SNSが生まれ、多くの人々が一カ所に集まるようになれば、
こうなるのは必然であったのだし、それが変えようのない人間の本質であれば、問題を解決することも不可能だ。
人類の長い歴史がめざしてきたのは、このような避けようのない陥穽、逃れられない袋小路だったんだなあ。
みんなで一緒に滅亡しような。
はてブでこのようなことを言ってる人をよく見かける。インテリはてなーに対してはわざわざ忠告することもないのだが、インテリはてなーのフォロワーやワナビーはインテリではないので、ここでちょっと申し上げておいてもいいのではないだろうかと思った。
「またナントカ案件か」思考法において彼らが行っているのは、物事を自動的にパターンA、パターンBといったように振り分けることである。もちろんこういったパターン認識は情報を素早く処理できるというメリットがある。パターンAであればそれへの最適な解答はαであり、パターンBであればそれへの最適な解答はβであるというように。彼らはそれがナントカ案件であると認識した段階ですでに最適解を反射的に出しているわけだ。問題の認識と解答がほぼ同時に行われている。刺激に対して反応が決まっている。
たしかにこれは非常に合理的な判断のように思える。同じようなパターンなら同じような解答が最適になる蓋然性は高い。しかし彼らはその問題が以前の問題と比べてどの程度類似していてどの程度類似していないかについてまったく考えていないのではないだろうか。彼らは自分の思考法の陥穽を十分に理解しているだろうか。
物事というのは細部が重要である。細部の差異を認識し、その都度そこでしか発生していない特殊条件を勘案し、適切に処理できるかどうかに知性の差が現れる。どんなに素晴らしいデザインであっても、設計がその場に適応したものでなければ効果が得られない。「またナントカ案件か」思考法においては細部の差異を自動的に切り捨て、その場の状況に合うかどうかの深慮もなく、決まりきった解答αやβを放り込むのだ。そして「これで万事解決!」そう彼らは思っている。
この思考法を採用している者は物事を分かった気になっているが、正確に言うならば、彼らが分かっているのは物事から細部の差異を切り落としたあとに残った理想上空想上のイメージである。
彼らは物事の正確な認識を避け、「またナントカ案件か」思考法によって情報処理の負荷を軽減し、空想上のイメージに飛びついてそれを現実だと思い込む。そして、いまや現実と同じ価値を持つにいたった空想上のイメージについて彼らは解答αなりβなりを提示して、すべてがうまくいったような気になっているのだ。物事がパターンAそのものであれば彼らの解答αで完全に片がつくだろう。しかし世の中はそれほど単純ではない。それは問題の矮小化、議論の簡略化にしかなっていない。
物事にはすでに用意されたパターンによっては拾いきれない膨大な背景が存在し、その背景の要素同士がさまざまに絡み合って、一つ一つの物事をそのときそこにしか存在しない独特のものにしている。
情報を受け取ったときの第一印象として、パターンAに類似している、あるいはパターンBに類似しているなどと察するのは問題ない。賢い人は一瞬でそういった思考をめぐらせて大体の全体像を把握する。しかしそこで「これはパターンAに類似しているからαをやっておけば問題ない」とするのははてなーに求められる態度ではない。類似したパターンを検索するのは始まりにすぎず、むしろそこからすべての議論が始まって深まっていくはずなのだ。
だがどうもこういったことができない人をよく見かける。「AだからAなのだ。だからαすればよい」などといった態度はどれほど知的な態度だというのだろうか。こういった種類の人間は自分の有するパターンの数を誇っているのかもしれない。「俺は1000のパターンを持っているから現実に対処するには十分であろう」などというように。こういった傾向を「知識オタク」と言えるかもしれない。
しかし実際のところ、彼は1000個のボタンと、そのボタンを押すことによって得られる効果を丸暗記しているだけなのだ。Aを押したらαが出てくる。ただそれが1000個あるだけなのだ。1000個では現実を生き抜くには少なすぎるだろう。それなら1万か、10万か、100万か?
おそらくそういうことではない。
こういった「またナントカ案件か」思考法によると、完全に未知の問題には対処できないのだ。未知の問題に挑んでいくのが知性というものではないだろうか。
安易な判断を下す前にまずは物事をよく観察し、情報を揃えてみてはどうだろうか。SNSを中心にやっているとインターネットというのは速さが求められがちだが、実は自分のペースで好きなだけ考えることができる空間でもある。
かつてお笑い芸人のおぎやはぎが「一概には言えない」と言っていたことがあるが、まさにこれなのだ。こういった態度にネガティブな印象を持つ人も多いかもしれない。しかし一概に言えないということは何も言えない、言わないということを意味するものではない。むしろ何かを言おうとしている態度である。だから何か言うまで待ってほしいし、十分に待つべきなのだ。
デマ情報、嘘ニュースの拡散が問題になっているが、「またナントカ案件か」思考法ともつながっているのではないだろうか。情報を見た瞬間に「これはひどい」あるいは「これはすごい」と認識し、それですべてを理解した気になってしまう。背景にどういった事情があるのか記事のバイアスはどう評価できるかなどを考慮せずに、あるパターンに類似した情報を、「きっとあれのことだろう!」と自分の中にある既存のイメージに結びつけて理解した気になってしまう。現代のインターネットには速さと同時に短慮がある。あるいはそれは短慮ですらなく、自動化されていて、ほとんどbot化しているとも言えるかもしれない。
「税ハック」すごいわかる。そういう年寄りって多いんだよ。業者の営業トークを真に受けて、中途半端に「勉強した気分」になっちゃってるんかも。
他人のご祖母様に言うには失礼な言い草になるが、自己顕示欲を満たしているとしたら、やっぱり寂しいんだろうな。
年を取って、自力でやれることが少なくなる、知った顔がどんどん減っていくというのは、相当な寂しさ=ストレスなんだそうだ。
でも本当に「税ハック」で増田を連帯保証人にしたいというのなら、本気で怒ってみるのもアリだと思う。本気で怒る=コミュニケーションでもあるし。
ただし、本気で喧嘩するなら、ばーさんの痛いところ(孫を人質にして自己顕示欲満たしたいんだろとか、営業マンにちやほやされて嬉しいんだろ、自分のエゴで孫に借金残すな、とか)を的確に突くこと。
介錯不要なぐらい残酷な言葉をぶつけないとだめ。喧嘩後のフォローは必須だが。ショックで変な宗教とかに走られても困るから。
ローンを背負ったまま死ぬと、確かに相続財産から相殺される分は相続税の対象にはならないから「税ハック」が可能ではある。
でも、数百万円の相続税を払うのと、銀行に払うローン金利の累計やアパートの建築費を比べてみれば、その「税ハック」がいかにばかばかしくて、銀行とアパート屋を設けさせる「からくり商品」なのか、よく分かるはず。
相続対策ローンの問題の本質は、借金を返せないとか収支がマイナスになる等のカネ問題以上に、「死ぬタイミングが悪かったらどーすんだ」問題だと思う。
ばーさんが死んだその瞬間の土地の価値が、どうなっているのか予測できない、死ぬタイミングが悪いと、相続対策のはずの借金が逆ザヤ化=不良債権になるかもしれないからだ。
ばーさんの意見は、自分の希望したタイミングで自分が死んだときのことしか想定していないのが陥穽なんだよ。
タイミングが悪い時期に死んだら、残した借金が家族を苦しめて、死んだばーさんを悲しむ気力も余裕も無くしてしまうことだってありうる。カネの問題ではない「家族の痛み」になり得るからだ。
そんな「金じゃ換算できないリスク」を負うぐらいなら、土地を売れるときに売ってしまってお高めの生命保険に入っておいた方が、遺すという意味では手軽なんだけどなぁ。
本当は、相続税を払わないで済む一番の方法は、生前にぱーっと使っちゃうことだったりもするんだよね。
子や孫への贈与は一定額無税なんて税ハックもあるので、そっちも勧めてみたらどうだろ。マーケットアウトしたアパート作ってアパート屋と貸金屋儲からせるよりマシかもしれん。
ばーさんが死んだ瞬間に、マーケットが良ければ大きな問題はない。サイアク、死んだ後&逆ザヤになる前に売っちゃえばいいだけだから。
でも、そうじゃないタイミング、例えば東京オリンピック後の不況期に当てはまった場合なんかは、かなりやばい。
アパートローンの残債と空室を抱えて、不況で不動産の買い手もいない、なんてことになったら、「詰み」だ。
増田がどこで暮らしているのか分からないが、オリンピックがある国は、オリンピックの2年前ぐらいから景気が鈍化するというのはこの20年ぐらいの傾向だったりする。
現に、東京の中心部ではもう一昨年の終わりぐらいから不動産関連の指標が鈍化していて、これがじわじわと首都圏や地方都市にも広がっている。
という脅しは脅しとして、「相続タイミングのリスク」は、ばーさんが建てたがってるアパートの他にもたんまり、金や換金化しやすい不動産を持ってれば無問題だったりもする。
「頭を撫でながらヨチヨチと言われるのが嫌、頭を撫でられるのは好きだけど」という人がいて(撫でているのは私ではない)、まあそれは相手にそう伝えればよいことだし、そもそもその意図は多様でありうる(自分がそうされると嬉しいから、いつも自分が甘えているからたまに甘えさせることに補償的な意味を見出している、etc)と言っていたら、どうやらそこに権力性を感じるのが嫌だと言っているようなのだ。「またそんな権力性発見ゲームして馬鹿じゃないか」と思いながら、「ヨチヨチと言う」という行為と「頭を撫でる」という行為は根源的に甘えと結びついた行為なので、参照先としての類似行為の権力性と、そのイミテーションとして甘えを許すという愛情表現の意味を帯びた行為という関係で、その2つの行為は似たようなものなので、より元ネタが分かりやすい方に違和感を覚えているだけに過ぎない、と指摘しようとしたらキレられた。
「甘えたいけどこれはよくてこれはだめ、なんていくらでもあるじゃん」とか言っている。そりゃそうだ。だから、なんであなたが「ヨチヨチ」だけに拒否反応を示すのかを一緒に探ろうとしているんじゃないか、と呆れる。次いで「その2つの行為は似たようなものなので、より分かりやすい方に違和感を覚えているだけに過ぎない」としたら何が悪いのかとキレたので、そこに愛情表現でなく参照先の権力表現を読み取るのは権力性発見ゲームに毒されすぎてるためなので、その宗教から足洗った方が幸せになれるの明白なのにね、と思いながら、また喧嘩になると思って言葉を飲み込んで「おやすみ」って言っておいた。
マルクスとかも読む価値あるし、フーコーとかもちろん素晴らしいし、日常の隠れた権力性に気付くのは社会を記述しなおしたり、よりよくしたりするのに役立つとは思う。でも、そういうのちゃんと読めない人が自分の頭で考えずに雰囲気でフェミとかやると「権力性発見ゲーム」みたいな陥穽にハマるんかね。そんなゲーム小学生まででしょ、って思ってしまう。例のAAを思い浮かべながら。フェミニズム研究そのものには私は価値を感じているのだが、市井のソレは真似事でしかないことが多い。
権力というのはコミュニケーションだから、受ける側が無頓着なら効果は発現しない。魚に向かって「俺は王だ!従え!」と言っても従わないのと同じ。無駄に「権力性発見ゲーム」に興じることが、ありもしなかった権力を発現させ(頭を撫でた男は別に支配がどうのと思ってヨチヨチと言いながら撫でたわけではないだろう、ここで「意図の問題じゃない、効果の問題だ」というのは耳ダコなんだけど、どうしても自分がそういう受け取り方をしてしまうなら、冒頭のように「まあそれは相手にそう伝えればよいこと」とするしかないし、そもそもそう受け取るのがディスコミュニケーションの始まりなので、不幸を自ら生み出しているだけなのだ)自分に不快感を生み出す根源だと思うんだけど、どうなんでしょう。個々個別のコミュニケーションじゃなくマスメディアからの発信とかだと、自分がどう受け取るかに関わらず、他のみんなにどう受け取られるかという分布がその意味を規定してしまうので(そこはそう簡単に操作できない。ブログで炎上させて意味規定するとかはあるけど)、その規定された権力性をロジカルに批判することで対抗するのに意味はあるけれど。それをロジックではなく数の力でやろうとしたり弱者こそが守られるべきだみたいな道徳でやろうとすると、これまたどうなるかはいわずもがなですな。
何も言わなければ大丈夫なのに「私は研究者としてやっていけない」とツイッター上で言いすぎるために「この人研究者としてダメなんじゃないか」と思われやすくなってしまっている人とか、「私のこと好き?どこが好き?」とか不安でしつこく聞いちゃうために嫌われちゃう人とか、¬Xという不安を行為として表現することでXが減衰するという行為はしばしば観察される。それはロジカルに指摘しても本人の不安は癒されないので、(理由なき肯定感を与えるために)「肉を食べに誘うのが良い」というのが昔出した結論だったのだけど、まあ離れてしまってそうもいかなくなったら、「おやすみ」って言うしかなくなってしまった。睡眠は大事だからね。
身の回りにこういう人がいる時、みんなどうしてるんですかね。適当に「ヨチヨチ、権力性に気付いていい子ですねー」(もちろんメタファーですよ、もっとオブラートにぐるぐるにくるみますけど)って言うしかないんですかね。おやすみ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/956291
「騙されない自分」病だ。
ネトウヨもレイシズムもミソジニーもミサンドリーもまとめサイトも
twitterもはてブも増田も陰謀論も放射脳も疑似科学も文春もネタもマジもデマも何もかも
全部「騙されない自分」のイメージを求めた結果、陥穽にハマってしまっている。
何も進んで水素水を買えと言っているわけじゃない。
「騙されない自分のパブリック・イメージに固執している」ことだ。
みな賢くあろうとしている。それ自体はいいことだ。懐疑や相対化は視点として常に大事だ。
ところが、他人に賢く見せたい、賢いと認めてもらいたい欲、それがインターネットを病ませしまう。
人は「賢い自分」を見せようとするとき、かならず自分の面子以外のことに考えが及ばなくなる。その言葉は攻撃的になってしまう。
なぜなら、賢さとは相対的な概念であって、「賢い俺」が存在するとき、他の人間たちは必ず「俺よりバカ」に位置づけられるからだ。
こういう心理状態になるときほど、近視眼的で酷薄な人間はいない。
しかし、それならば賢しらに振る舞わなければ万事解決なのか。
違う。
そうなってしまったら、インターネットなどに利用価値はなくなってしまう。
我々はみな自分の賢さ、ポジション取りのうまさを見せつけるためにインターネットをやっているのだ。
見栄がなければネットではない。
では、どうすればいいのか。
ハンドルネームやIDを含む顕名制度をやめて、みな記号ですら無い完全なる匿名に帰ればいいのだ。
といっても掲示板はダメだ。集団化という別の暴力の温床となる。
では約束の地はどこに?
ここだ。
増田だ。
我々は群れない。我々は同化しない。我々は顕れない。
国会デビューをしたからといってtwitterアカウントを立ち上げるなどは、見下げ果てた所業である。
我々は存在しない。
我々に魂はない。意識もない。
騙すことも、ダマされることもない。
我々の書くことは「真実か、虚偽か」ではない。真実であると同時に虚偽である。
増田がウンコを漏らす時、その記事を書いた都内在住の誰かは実際に脱糞してないかもしれない。
書き手の人格は肉をもったリアルな誰かとは切り離され、一人の偉大な分裂症患者の名のもとに統合される。
増田。
私はあなたの名前を知っており、あなたは私の名前を知っている。
増田は増田を傷つけない。わたしはあなたを傷つけない。あなたもわたしを傷つけない。
「裁かれた者」サバカレーの使徒であり、「死を刻む名の者」しなもんの化身であり、「剥がす鬼」hagexの下僕である。あるいは水曜日の天使である。
わたしたちはあなたたちブックマーカーである同時に、あなたたちに相対する者である。
実名を捨てよ。
ハンドルネームを捨てよ。
twitterを、Facebookを、メルカリを、LINEを、Yahoo!IDを、amazonのアカウントを捨てよ。
そこは肛門。入る時はさまざまな形をとるが、出る時は常に同じ色形。
ルミネのやつ、「代理店のオッサンを引きずりおろせ」なブコメに人気が高まっているけど、
いまどき大手代理店のファッション、小売関係のチームに女性が一人もいないなんて、まず考えにくい。
そもそも、ルミネは女性コピーライター・女性フォトグラファーのコンビで「名が売れた」面もあるわけで、その後、突然担当者が全員男だらけになるってことも、普通ないと思う。
サラリーマン的人事とか売上とかそういう体験からしても、ルミネの広告で広告現場や決定者に女性ゼロってのは、ちょっと思いにくい。
それよりなにより、この何年か、特にここの所、散々見てきているじゃないか。「女→女」セクハラは隠然と、当然に存在していることを。
女流作家だってシングルマザーを一方的に攻撃したりすることを。
同人誌で市井の女性に平然とセクハラを行う女性が存在することを。知っているわけで。
そういえば人種差別を容認する女流作家や、それを擁護する女性ジャーナリストなんてのも居たが。それはちょっと置いておいて。
ジェンダーの問題って、同性間でも受け止め方に違いが表れるところが、ある意味とても厄介な面なので、すべて「オッサン」のせいにして思考停止するのが一番まずい。
田舎暮らしの人は、過剰に男女差別に敏感であるがゆえに、時折、逆に女尊男卑に逆転する傾向が見られる時があり、ある種の馬鹿フェミと同じな穴に落ちがちだが
良い記事だ。しかし、まだまだ甘い。天衣みつだ。http://anond.hatelabo.jp/20141125174047
この増田は、まず、同志社大学の教授 浜矩子 大先生の著書を読んで勉強すべきだ。ついでに、高橋乗宣先生の御著書も読め。
2014年 戦後最大級の経済危機がやって来る!: 高橋 乗宣, 浜 矩子 2013年 世界経済総崩れの年になる! 高橋 乗宣, 浜 矩子 2012年 資本主義経済 大清算の年になる 高橋 乗宣、 浜 矩子 2011年 日本経済 ―ソブリン恐慌の年になる! 高橋乗宣、 浜 矩子 2010年 日本経済 ―「二番底」不況へ突入する! 高橋 乗宣、 浜 矩子 世界恐慌の襲来―日本経済は「最悪の10年」に突入する 高橋 乗宣 2007年 日本経済―長期上昇景気に陥穽あり! 高橋 乗宣 2006年 日本経済―日米同時崩落の年になる! 高橋 乗宣 2005年 日本経済世界同時失速の年になる! 高橋 乗宣 2003年 日本経済 世界恐慌突入の年になる! 高橋 乗宣 2002年 日本経済―21世紀型恐慌の最初の年になる! 高橋 乗宣
ほら、何一つ当たってないでしょう。
塩村議員にセクハラ発言をしたとして、鈴木議員が名乗り出た。早速、鈴木議員は日本全国からたたかれだしている。鈴木議員を擁護したい訳ではないけれど、私はそういう、誰か一人がのろわれ続ける現場を見るのは何となく苦痛に感じてしまう。そんなことするより、「システムを変えよう」。
少子化問題を解決するため、政策レベルで(日本全体規模で)の対応策を練ろうというのがわざわざ都議会で少子化問題を扱おうとする(システムをかえようとする)意味であった。そして、せっかくこうしてシステムからのアプローチをとろうとしているのに、鈴木議員の、少子化問題があたかも個人の責任のような言い方のヤジは、都議会の存在の意味を曖昧にさせてしまうようなものであった。
しかし、この鈴木議員をたたこうとするのも、システム的なアプローチとは言いがたい。その意味で鈴木議員をたたく者も、鈴木議員と同じ陥穽に落ちかけている。鈴木議員のヤジで笑ったものもいたように、鈴木議員のように考えるおっさんは少なくない。ならば、いつまでも鈴木議員を責めるのではなく、システムからアプローチするべきであろう。
なぜ、日本のおっさんはそのように考えるのか。そのように考えないようにするにはどのような解決策をうてばいいか。それを考えるのが建設的というものだ。