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はてなキーワード: 恣意性とは

2020-08-24

理系だが人文系学者の主張の恣意性を知りおののいてる

やれと言われた勉強以外一切やらずに無知教養なまま大学卒業した。

語学以外の文系単位なんて10も取らなかったと思う。

から文系学者が何やってるのか全然知らなかった。


で、最近まり無知教養だと人間との会話が成立しないことに気付き、本とか読みだした。

ちくま文庫とか講談社学術文庫とか中公文庫とかそういう系の。

それで思ったんだが、人文系学者が書く本、めちゃくちゃ親切じゃん。サイエンスライターはともかく理系学者が書く本は死ぬほど不親切なのに。


でも、親切で分かりやすものは、分かりやすいように情報が切り取られ体系立てられた恣意的ものだ。

そりゃあまあするする頭に入ってくるが、それお前どうなのみたいな主張が多すぎる。

そもそも結論があり論理があるというか、真実の究明よりも持論の証明目的に喋ってると言うか、へー、それが学問なんだ、みたいな。

正しいものが正しいんじゃなくて、偉い先生が言うそれっぽいことが支持されてる状態死ぬほど驚いた。


いや法学とか工学とか実学系はあれだが、理学部文学部ぐらいは真理の究明を目指してくれたっていいのに。

っていうか、工学部が兵器作るのは一発アウトなのに、文学部左翼とズブズブなのは良いんだ。

文系アカデミック世界、全スルーで生きてきたので、適当に足を突っ込んでみてあまりのあれさにおののいている。

そんなもんなの?

2020-04-29

コロナで図らずも社会学ジェンダー学界隈の恣意性がはっきりしたな

そんなの自殺数で分かってたじゃんと言うのは置いといて、

コロナでは明らかに男のほうが死にまくってんのに、自称男女平等論者はだんまりだよな。

現に可哀想被差別者である黒人に関してはそこそこ盛り上がってんのに、男性と言う視点には絶対にならないよな。そりゃそうだよな。だって男はお前らが大好きな可哀想被差別者じゃないもんな。

災害で(男性比較して)年寄が多く、筋力も弱い婆さんが多く死んでると言うことですら「差別だ!」と喚く界隈が、コロナバッタバッタと男が死んでることにはだんまりなのはほんとに笑うわ。

2020-02-09

フェミお気持ち連呼しとるけどさぁ

フェミ議論ってさぁ

であるがゆえに

気持ちが不当に害されていること

それがいちばん問題であるってのが

前提だからさぁ

「お前のお気持ちじゃねえか」

って指摘したところで、

「そうですけど?」

「今はじめて気づいたの!?驚愕)」

「男たちの前時代的な無自覚に呆れる」

ってなるに決まってるじゃん?

恣意性排除マナーの土壌から

お気持ちじゃねえかって指摘して

勝ち誇ったつもりになってもさぁ

議論の出発点が違うんだから

ちょー不毛じゃん

お気持ち議論しちゃいけないのは何故かっていう

わかりやす理由をいっこきめてさぁ

お気持ち暴走しちゃったやついたら

そいつになげかけるっていう

そういう理由をさぁ

繰り返し口酸っぱくして言うほうがいんぢゃね?

2019-11-14

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件

日本大学特に文系学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系学者達は自分たち存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。

だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端研究専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン一般特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系研究基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。

パンドラの箱が開いた

本題に入ろう。最近、1つの書評論文東大言語学研究室発行の紀要に出た。

田中太一日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=53475&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

書評された本は『認知言語類型原理』(京都大学出版会)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2

著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学准教授中野研一郎先生

 

普通書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後ちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。

こうすればあなた博士になれる

一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分オリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。

そして博士論文原稿は、3~5人の審査委員審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文大学に提出していいか審査する二次審査最後論文が完成し、大学に提出された後、博士学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。

ミサト:おめでとう!

アスカ:おめでとう!

レイ:おめでとう。

シンジ:僕はここ(アカデミア)にいてもいいんだ!

研究人生のフィナーレではないが、1つのピーである。こうやって研究者の能力お墨付きを与えるのが大学存在意義の大きな一部分だ。

要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学准教授になったようだ。周知の通り、大学終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。

 

博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生2014年度に京大を定年退官して、2015年から中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。

日本語に主語目的語、態、時制、格、自動詞他動詞はいらない?

さて、超大物お墨付き博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからいかパス。3節「日本語に存在しないとされるものから見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分から引用がある。

日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリ妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。

(『認知言語類型原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)

昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579

主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型原理』は、ミニマリスト断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。

「音象徴」の名の元に蘇る亡霊

これは熊倉千之氏の「音象徴理論に基づいているそうで、熊倉氏は、

膠着語にかんして、「イメージイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。

(これも田中 2019: 309から禁断の孫引き

熊倉千之 (2011)『日本語の深層〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』東京: 筑摩書房.

とのこと。

近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性原理否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣名前は、音と意味関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴基本的オノマトペ擬音語擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかあくま傾向性言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、

「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。

知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、

「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)

と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴

日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)

そうだが、書評子は、ここに鋭く矛盾を見て取る。

この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである同音異義語存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)

かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、

日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味機能通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)

と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。

そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、

1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年帰国後、東京家政学院大学教授1999年金城学院大学教授2007年退職

[wikipedia:熊倉千之]

という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学言語について言語学界とは関係なく自由思索著述をしている人のようだ。そういう独自言語論を唱える文学思想研究者はよくいるけど、普通言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型原理』もその類の本だったなら、東大言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ

驚愕の主張の数々

他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。

日本語では論理的命題を表すことができない」(田中 2019: 305)
日本語は英語を含む近代ヨーロッパ標準諸語に翻訳できず、また近代ヨーロッパ標準諸語も日本語に翻訳できない」(中野 2017: 268)
科学数学物理学化学生物学法学経済学歴史学社会学言語学等)」と称せられるものの全ての言説は、日本語で書かれている限り、「日本語(やまとことば)」の論理によって、「客観的であるとする言語論理的根拠を維持できないのである。当然のことながら、この本自体も、日本語で書いている限りはその陥穽から逃れることができない。」 (中野 2017: 268)
日本語の「伝聞」というコミュニケーション様態においては、伝えられる内容は、伝える者によって「主体化」されており、したがって、その「主体化」された内容の真偽判断に関わっては、「権威」が必要となる。伝える者に「権威」が伴っていない場合、伝えられる内容は真と判断されない。」(中野 2017: 16)

しつこいようだが、これで5年前に京大博士号が取れたのだ。

ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!

ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後激辛書評論文大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型原理』は、博士論文審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た

2019-10-17

積極的自由消極的自由字面だけで誤読マン多すぎて嫌になる

anond:20191016163058だけど、ちょっとブコメ誤読マン多すぎない? なんで? 3つくらい具体例を示してるのに何でそういう理解になるの?

こんな基礎的概念をいちいち説明するのアホらしいんだけど、消極的に~をやりたくないっていう自由消極的自由積極的にやりたいことやる自由積極的自由ではありません

行動を制約されず好きなことをできるのが消極的自由で、そもそもその行動のためのリソースを得られる、自由物質的基盤を手に入れられるっていうのが積極的自由です。

自由に書きたい本を出版したい! 国家検閲されたり出版禁止されたりしたくない!」という要求消極的自由を求めているいっぽう、

「確かに検閲はないけど紙の値段高すぎて自由出版できる状況じゃないじゃん! 政策的介入してもっとお値段下げてよ!」というのは積極的自由を求めている。

「好きなところに住みたい! 強制移住なんてさせられたくない!」というのを問題にするのが消極的自由で、

「確かに住居選択の自由保証されてるけど特定エリアしか水道引かれてなくね? 実質的に選ぶ自由がなくね?」というのを問題にするのが積極的自由

お小遣い範囲でならどんな本を買ってもお母さんは関知しません」が消極的自由で、

「でもお小遣いが月額500円じゃ新潮文庫も買えないじゃん! せめて3,000円ちょうだい!」が積極的自由

「好きなイラストポスターに描いても検閲されない日本自由の国!」は消極的自由保障されている状態だけど、

「でも好きなイラスト自由に描くためには画材を買うお金がいるよね。イラストレーターの給料が安くて自由に絵を描けない……」という状態ならば積極的自由が損なわれている。

「どんな性教育をしようが親御さんの自由です」が消極的自由で、

「でも事前に歪んだ情報が入ってくるような環境だと私がやりたい性教育ができなくなる」というのは積極的自由を求めているわけ。

こう並べれば、なんで消極的自由の方が重視されるべきか、なんで元増田要求積極的自由とみなされるか、ってのもわかるでしょ。

積極的自由重要だけど、それは消極的自由のほうが重要だって認めた上での話でしょ。

現代自由主義では、消極的自由保護だけだと実質的自由が制約された状況(=積極的自由がない状況)が改善されないので、積極的自由保護していくべきだと主張することが多いし、私もそれを支持する。

場合によっては、比較衡量のうえで、大きな積極的自由を獲得するためにささやか消極的自由犠牲にすることもありえるだろう。

でも、原理原則としては、消極的自由の方が積極的自由よりも重い。

最初増田でも書いたように、国は俺に六本木ヒルズに住めるだけのカネを補助すべきだ、と主張したら頭がおかしい人だろう。この場合、俺が六本木ヒルズに住むための物質的基盤は保障されていないので、俺には六本木ヒルズに住む積極的自由がないことになる。でも、それを問題だと思う人なんているわけがない。

しかし、もしも、合法的居住家賃も毎月きちんと払っているのに、国が俺を六本木ヒルズから追い出したらどうか? それはひどい、住居選択の自由侵害している、国家権力の横暴だ、とみんな怒るのではないか。これは俺の消極的自由侵害されている状態で、それは多くの人に不公正だという感覚を抱かせるだろう。

多くの場合は、六本木ヒルズじゃなくて義務教育とか女子教育とか最低限の住居とかそういったものが賭け金になっているから、積極的自由必要だ、と主張されることが多いんだけど、こういう極端な例を考えてみると、消極的自由原則的に保護されないといけないけど積極的自由はまあ程度問題だよなという話になる。つまり消極的自由の方が重い。

これが消極的自由積極的自由の違いだ。行動や動機積極的消極的かなんてこれっぽっちも関係ない。

なので、

いや、なんとなくおかしいというか、例示の文脈恣意性を感じる。献血にくる人を増やしたいから人気漫画コラボするって献血のあれは、どっちかと言ったら積極的自由って概念に入れるのが正確じゃないかと。

まり公的機関性的イラスト掲示したいと思う積極的自由は公の場で性的イラストを見せられたくないという消極的自由に劣後するわけね。筋の悪い議論

お色気イラストで客を呼びたい、なら積極的自由に、子供環境性的刺激を持ち込まないで欲しい、なら消極的自由になるような(´-`)既特性なんかも考えると視点によってがらりと変わるよね

詭弁原理原則としては同意するが、当該問題への適用が雑。掲示は明らかに他者広報(干渉)する目的でされているか積極的自由ともいえるし、これを差別表現とする立場なら見ることを強制されないのは消極的自由

アホかこいつ公共の場所で性的表現披露したいって方が積極的自由範疇だろ、猥褻絵画を見たくないがなんで積極的自由の追求になるんだ

積極的自由消極的自由”解りやすく言うと「やりたい放題やる」自由と「遮断したい」自由ね。でもそれ精神年齢とかで個人差あるモノだから間尺合う人とだけ付き合いたい

このへんのコメントは軒並み、問題文を理解していませんね、零点、でおしまい漢字は正しく書けてるみたいだから部分点はあげようかな。

追記

anond:20191018033934

ていうか現実問題積極的自由を実現するのって非効率だしものすごいリソースがいるよね。

幸福追求権を幸福権に変えることが可能かどうか考えてみればわかる。

義務教育なんて積極的自由の最たるものでしょ。日本社会における消極的自由を実現するためには日本語の読み書き能力とか日本社会についての基礎知識とか計算能力とかそういったもの必要で、それを叩き込む――つまり自由を実現するためのリソースを与える――のが公教育役割

言論の自由実践するためには表現を世に問うための読み書き能力必要だし、職業選択の自由実践するためには望みの職業に就くためのスキルとかが必要だよね。

政府批判をしても逮捕されない、自由に好き勝手言える、といった消極的自由保障されたって、日本語の読み書きが全然できない人とか日本社会の仕組みを全然知らない人とかは実際問題としてその自由を使いこなすことができないじゃん。だから最低限の消極的自由だけじゃダメ積極的自由必要なんだよ――というのが現代自由主義では割と受け入れられている考え方だと思う。

積極的自由恩恵は俺もお前もこの社会に生きるほとんどの人が受けているんだよ。

ただ、上で書いたようにあくまで程度問題。「女だから十分な学力を持っていても医者になれない」とかは直接的に職業選択の自由侵害されてるから問題になったけど、そもそも大学に行けるほどの教育を受けてないか医者になる道が最初からなかった、というのが問題視されることは少ない。医者になる気があって能力もある人間性別理由に選ぶ機会を奪われるのは消極的自由侵害から絶対にあっちゃいけないとみんな考えてるわけだけど、医者になれるだけの能力を育てる機会を持てなかったかそもそも選ぶ機会そのものがなかったというのは積極的自由が欠如していたということだから問題になりにくい。でもこれも直接的に奪われるのとは違った形で自由を持っていないともいえるよね。ではどこまで国家が介入するべきか? どのくらいの不自由までに国家責任を負うべきか? というのが、現代自由主義でよく議論される点。

我々法学徒は民法最初に出てくる「悪意」で、あっこの世界字面字面通り読むと単位がもらえないんだなーと理解する(理解できないと単位を落とす)が、一般人はそういう洗礼は受けていないので

文学部卒ワイ「なるほど~~~~~~~知らなかった~~~~~~~」

誰かも書いていたが、下手に理解できる日本語なのがいけない

英語でもnegative libertyとpositive libertyだからこれ以外に訳しようがないんだよね……

句点毎に改行入れるのはわかるけど読点に改行入れる人って(´・_・`)しかも全部の読点に入っている訳でもなければ、句点との差や話の区切りの見やすさにつなげる訳でもない

流石にこの文章を読んで読点での改行の意図をご理解いただけないのであればずいぶんと日本語の読解力が、その、なんというか、必要最低限に届いておられない方なのだなという感想しか湧いてこないですね……

前の記事でもこの記事でも増田自身程度問題とわかっていながらその線引きを増田正義における絶対的に正しいものと仮置きして喋ってるように見えるからいかんのでは?

程度問題って書いてるのは「積極的自由をどこまで保障すべきか」なんだけど私そこの線引きに関して何か断言したっけ? 義務教育絶対保護されるべき積極的自由だと主張したけど、そのほかの論点では特に断言とかしてないよね。

まあ、「何が消極的自由で何が積極的自由か」とかそういう話では線引きした上で断言したけど、私そこに関しては「程度問題」って言ってないよね。大丈夫? ちゃん日本語読めて議論の流れ追えてる?

2019-08-03

anond:20190803140114

展示の内容に恣意性はあるかもね

その点では左翼側も批判されていいのかもしれないけど

しか問題あくまで展示内容が不適切かどうかでしょう

本来それらは個々の作品の論評から具体的に論じられなければならないもののはず

現状の批判は、そこを指摘できずにあいまいなまま雰囲気糾弾してる人がほとんど

なんとなくこんなのアートじゃないとか、こんなの認めないとか

そういうふんわりした理由政府が口を出すことまで正当化してるネット言論レベル低いと思うね

2019-07-16

anond:20190716091847

それ、もはやプログラム側の問題だけど、恣意性はたらきそうだよなぁ

2019-05-15

anond:20190515113805

「41歳無職が中2から」の下りに込められた恣意性

産経ってこんなもんだろ

2019-04-30

昭和と令和に送る平成育ちの感覚

感覚の話なので事実とは一致しない。

そもそもあくま個人の感想です、というべきところあえて平成世代全体のように見せかけちゃお(←非道)。

1.景気は回復しない、二度と良くならない

アベ政治景気回復したと嘘をついているとかい問題ではなく、平成は一度たりとも景気が回復したことはない。

かろうじて降下が一時的に止まり、結果として雇用回復したが、抜本的な解決はされたことがない。

昭和好景気だったのはやたら強大な外需欺瞞(バブル)のおかげであり、今後二度と再現されない。

内需に頼るには少子化以前から人口が足りないか、逆に目指す豊かさや経済規模が大きすぎる。

しか人口が増えると今度は水や緑といった資源が足りず滅亡するし、豊かさや経済を小さくするというのは単純に生命生活近代以前レベルまで戻し脅かすということに他ならない。

景気が良くなるという言説が存在する場合太平洋戦争時の大本営発表と同じようにしか見えない。

2.企業は悪だが倒す塩梅が難しい

そもそも非正規雇用が増えたり正規でも給料が減ったりしているのは景気のせいだったはずであり、

景気が回復していないのにその二点が改善されるわけがない。

もちろん多くの企業が不当に労働者搾取しているのは間違いないだろうから

企業側の景気は回復しているかもしれない(また非正規かどうかを問わず労働者搾取をすぐやめるべきである)し

正当な給料を払えない企業は淘汰されるべき。

ただ淘汰しすぎるとそれはそれで景気がさらに悪くなりはするので、

「されるべき」と「していい」の間のバランス感覚には難しい予感が横たわる。

韓国はい最低賃金を大きく上げた結果、企業が反撃して雇用のもの悪化させている。

我々いまの労働者自分給料生活を重視するあまり未来の第二次就職氷河期を生んで差別することが許されるのか、

一番悪いのは企業政府なのは間違いないが、正義側にだって舵取りの難しさは実在する。

3.日本は一体いつ技術先進国だったのか

日本周辺国に対し、平成を通じて経済でも軍事でも技術でも惨敗した(している)。

ところで知識人を自認する人ほど、技術惨敗については00年代中盤以降であるとか、

サムスンの躍進は日本冷遇した技術者を拾ったからだという言説が目立つ(偏見)。

これは日本批判しているよう見えて、その実はむしろ「昔、あるいは特定条件下では日本はすごかった」

といっているに他ならない。

冷遇技術者を回収しなくともいずれ韓国中国日本を越えたと何故言わないのか。

不況が始まった瞬間は技術敗北の始まった瞬間でもあるとなぜ認めないのか。

技術(と教育)は金が全てである90年代から00年代(というか今現在もだが)の技術科学に関する日本の業績は全て昭和の死骸か、たまたまである

4.平等実在する、悪意はその前ではなく横に実在する

昭和が終わって久しいにも関わらず、未だに人種や性、地域に関して様々な差別存在する。

しか平成差別者は多くが自分のやっていることは悪いこと、

少なくとも法律常識良識に反することである認識している(だから良識のものへの攻撃もするが、これについては後述)。

いささか注意して欲しいのは、「そもそも差別が悪いことだと思っていない」とは微妙に違うということだ。

本心では悪ではなく善だと思っていても、とりあえず誰か他者自分を悪呼ばわりしてくることを知識として知っている。

例えば最近しばしば話題になるセクハラ系の話題で、加害者自分のやったことを悪いと思ってないオジサン多いよね、というような話がある。

一方、平成加害者はとりあえず自分がやったことは悪である(悪呼ばわりされる)と自覚したうえで悪事を犯している。会見や裁判では「悪いと思わなかった」と嘘をつくかもしれないが。

要は速度違反違法薬物と同じである

これらは悲しく悪い話ではあるものの、「そもそも悪だと思っていなかった」という時代よりは少しだけ前進している。

希望がないわけではないと信じても問題ないのだ。努力と警戒が厳重に必要で、その負担が多いのは悲しいにせよ。

5.間違った怒りは実在する

最近よくこういう議論を見かける。

「どんなに正しい怒りでも暴走しては駄目」「いや、そういう言説こそが虐げられてきた人々を弾圧しているのだ」

しかし実際には、暴走以前にそもそも存在することそのものが間違いな怒りもあるのだ。

それはかつての私も含めたネトウヨであり、海の向こうで言えばトランプ主義者であり、ありとあらゆる差別である

割と何か勘違いされている気がするのだが、大抵の差別はへらへら笑いながら嗜むものではなく「怒り」そのものである

虐げられてきた人々の怒りについて、暴走云々という議論があるのは難しいがそれ自体は悪い話ではない。

しかし我々(義務感でこう書いておく)にはそもそも議論」を許してはならない。本来我々は一切の議論を許されずさっさと滅びなければいけないのだ。

怒っていい人と怒ってはいけない人の線引きは明確に存在しなければならない。

だって我々は、人種にも性別にも地域にも宗教にも囚われず、意志によってやっているのだから(なので線引きは差別にならない。微妙なところだがここはゴリ押しした方がいい)。

ただ具体的な線引き作業はどうしても人の手を借りねばならないため、恣意性脆弱性解決できないのだが…なんとかしたいところである

(余談だが「音楽政治を持ち込むな」という言説について、散々ネトウヨがそう言っていたのにゆずだかなんだか右傾ソング歌っててあいつら矛盾してるぞ、

左派の人々がよく批難している場面を見るものの、正直批難している場合ではない。

批難するにはあえて「音楽政治を持ち込むな」に同調する必要があり、しなかったか相手が同じ土俵に立ってしまったのだ。

これは「構造的な意味で批難できない」か、もしくは「自爆攻撃」すべきだったのである。もちろん後者はありえないが…)

6.性については功罪どちらも

様々なコンテンツの展開により、性の多様化についてはかつてよりある程度知られるようになった。

もちろん昭和時代(あるいはもっと前)から性多様コンテンツは色々あったわけだが、それが継続さらに量が増えた(と推測される)のは平成の良い点として挙げていいはずである

迂闊に知られない、広めない方がよかったのではないかという向きもあろう。が、法律などいくつかの面で進歩がないと関係者生活に支障が生じることや、

多様性の動きは相手が広まらなくても存在しうる(激化するしないはあるかもしれないが)ため、どのみち回避困難な抑圧が生まれることを考えると

差し引きでやはりプラスではないかと思われる。法律についてはまだまだ現実的進歩は少ないが、その手前の段階で動きがあることはないことより、ほんのわずかでもよいと思われる。

ただし、やはりニコ動兄貴淫夢動画の流れは批判的な再検討を受ける必要があるだろう。それを急ぐべきかしばらく寝かせるべきかは分からないが。

個人的には寝かせるのが許されれば有り難い派。性の多様化がより実務的なレベルで進んだとき、それが令和何年になるかはわからないが、

その時に兄貴淫夢を振り返る研究が行われれば冷静で興味深いものができそうだと思っている。

7.法律権利より大切なものがあるのは(基本的に)よくない

大は憲法から小は警察企業の横暴まで、日本基本的に尊法と尊権の意識が薄い。

ことなく、各人には実現すべき大切な目標があり法律権利はしばしばそれを阻害するも、という意識があるように思える。

大切な目標とは、例えば労働者弾圧して企業利益を増大させたり、容疑者被疑者人権無視して功績を挙げたりすることだ。

これが何故なのか、いまひとつよく分からない。

ドイツなどは規則(法)を遵守する国民性の一方でナチスの横暴を許してしまうという矛盾悲劇があり、それを忘れてはならない経験として映画などにしたためているが、

日本はどうも矛盾なくサクサクと悪いことをするイメージが強い(これは南京どうこうという意味だけでないのは前述した大小の例でご理解頂けると思う)。

また目標に沿うよう変な悪法が出てくることもしばしばである(ダウンロード違法化とか)。

憲法9条のように「明らかにそれは法の方が変なのでは」「いいやそんなことはない」と議論余地があるものはまだいいが、

コインハイブトレンドマイクロ問題とかもう無茶苦茶である

8.子供に向かってもう少し建前を言うことはできないのか

少子化危機を叫ぶ声はあまりにも本音が出すぎており、下品と言っても過言ではない。

なぜなら出生率の低下が直、年金や老後の話になっているかである

子供産む機械という酷い発言平成時代にあり、これは破廉恥だとして非難された。

にもかかわらず、子供年金や老後生活安定を産む機械だという認識は誰も批難しようとしない…。




平成はいいことも沢山あったが、ここではひとまず悪く暗いところを書き連ねておいた。

令和では少しでもよくなることを期待したいし、また努力せねばならない。

たとえ平成と令和という区分本来意味はなくとも「まあせっかくの機会として目安に使うか」程度はあっていいはずだ。

2019-04-25

https://togetter.com/li/1341322

「ご恵贈頂きました」という類いの呟きに寄せた郡さんの「呟き」は、書物出版するという行為人脈作りのように扱うことへの反感をこめたものだ。その底流にあるのは、書物という存在に対する畏れ、敬意、尊重するという「しぐさ」であり、それが彼の出版人としてのスタンス根本に関わる問題であることが伺える。

一方で「その呟きを批判することが自由言論流通を阻害する」と批判する小林さんの意見は、これも書物を狭い公共圏所属物にしてしまうことへの嫌悪彼女なりの書物未来への希望に基づく批判だと考えられる。書物もっと自由で開かれたものであるべきだ、という思想もまた、彼女出版人としての根本に関わるテーゼなのだろう。


両者の意見を踏まえた上で、その対立について、それから、切り取られた「クッキーでも焼いて…」という言葉について意見を述べたい。

まず、両者の意見はまさに「意見表明すること」に対する価値観を異にしているため、おそらく折り合う点がない。郡さんは「世界に向けて意見を述べるとは、反論批判を受けて立つ覚悟に基づくべきものであり、それは神聖行為だ」と考えているのだろう。そういう覚悟のないおしゃべりによる人と人の繋がりを一段低いものと見て、Twitterなどの道具を使ってそれをすることを否定するほど狭量ではないものの、自分が心を込めて関わっているものをそんなことの道具に使う行為に対しては嫌悪感を覚える、というスタンスだ。たとえて言うなら、陶芸家が「いまプレゼントに最適なカップ特集とか見て、苦虫をかみつぶしているような感覚だろう。

一方の小林さんは、おそらくそういうスタンスもつ世代の「本」作りには未来がないと踏んでいる。彼女彼女なりに出版未来書物未来を憂えていて、むしろ前世代の人が気軽な交流の場に本を持ち出すことに苦言を呈すること自体が、書物未来を奪うものとして気に入らないのだろう。たとえて言うなら、その陶芸家の息子が、自ブランド社長として上手にブランディング戦略をして「プレゼントに最適なカップ特集に○○印のカップ掲載してもらっているようなものだ。

……とまとめれば分かってもらえると思うが、こんな二人の話が折れ合う地点など最初からない


私が問題だと思うのは、こんな折れ合わない二人が触れ合い対立してしまうことを、いまのTwitterの仕組みはプラスにできず(論争が深まる余地がないので)、足を引っ張り合うこと(炎上)にしか繋げられない点だ。SNSは人と人の距離をぐっと近づけたが、ブログvsブログならまだ存在した対話余地を、Twitterは残さない。そしてそれを煽るのがtogetterのようなまとめサイトで、まさに郡さんの思うような「編集」という行為恣意性や恐ろしさに気付かないまま、面白おかしく「炎上やすそうなポイント」に絞ってページ作成者対立煽り社会全体の生産性を下げている。私は、この二人はそれぞれのポジション自己お仕事に邁進していただいたい方が、なんぼか日本世界の、そして書物未来のためになると思う。


今回の対立は「クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」という郡さんの売り言葉に対して「性差別的な発言感情的な口調」と小林さんが受けたところから本筋を逸脱した。郡さんの文脈でこの売り言葉を読めば、それはつまり「(書物の怖さを尊重せず交流価値だけに可能性を見出すなら、書物という作るのも受け取るのも恐ろしいものに手を出さず、安全な)クッキーを焼いてフリマで売って(好きなだけ「素敵ー」とか言い合ってぬるい交流をす)ればいい」という意味であるのは明白だしブラック気味のジョークとして受け取れる範疇揶揄であったと考えるが、小林さんはその文脈を外して「(自分女性からクッキー焼け、つまり社会に出てくるなという話になるのか、つまり性差別」でありかつ「(性差別的な発言不用意に侮辱的に投げかけるほどあなたは)感情的だ」というレッテル貼りを行って、話を泥沼化させた。あとは、Twitterに住む蝿がよってたかってブンブン言わせて、事態は無事小学校の学級会へと堕していった。


郡さんのそのブラック口調が不用意だったのか、あるいは(かねてから似たような目に遭ってきたと想像される)小林さんの受け取り方がよくなかったのか、そこは今更問うまい。両者がその間の事情をそれぞれ忖度すべきだったというほど、両者に重い責任を負わせようとも思わない。ただ、いずれにせよ、両者はTwitterなどという軽い軽い場で議論じみた交流をすべきでなく、ただお互いの仕事に努めた方がずっとよい。陶芸家とその息子、ハッキリ言えば話すだけ無駄だと思う。

これまで何度も繰り返されたこういう出来事出会うべきでない二人をお節介にも出会わせて無益対立を生み、あまつさえそれを見世物にする!)をシステム上で防ぐ仕組みができない限り、いずれTwitterは信頼も人心も失っていくだろうと思う。

2019-01-09

anond:20190109223945

自分判断出来ない子供セックスするのとホモセクシャルは別だろ

何の基準で「別」と規定するかに恣意性があるって話してるんだろ

少なくとも聖書クルアーンでは前者より後者のほうが遥かに『悪』なわけで。(明確にそう書いてるよね)

我が手に権力を握った連中が好き勝手犯罪と正常の間の線引きするのが健全社会とはあんまり思えない。

2018-12-29

ヒーローになる方法を本気で考えてみた

最近ヒーローになる方法を本気で考えている



アニメ漫画では悪い奴を改心させる・殺すが一般的だが、改心させることはまず不可能だし、殺すは法に触れて、母ちゃん泣く。

現実世界では他人を巻き込んだら悪人まっしぐらなので、アニメ漫画は参考にならない。

では日常世界ヒーローとは?

手軽にできるのは相手否定しないで話を聞いてくれる人、アドバイスはしない、とにかく受け入れることだな、と思った
でもまあ、一時しのぎである



だいたいの悩みは金で解決する
まり経営者になれば世界を救えるのではないか


だけど、手が届く範囲自分能力次第で恣意性が高いし、どうやら開発能力もないし、経営能力もない。人を使うのが下手という時点で経営者になる道はないようだ。

それに、日本においては経営コストカット人件費削減なので、サイコパスじゃないと経営者になるのは難しそうである。善人の経営者、それはかなりハードルが高い

自分労働者である

労働者としてできることはなんだろうかと、考えた。

とりあえず、まずはブラック企業を撲滅させないことには、グレーがホワイトにはならない。

それは弁護士に任せるとして。

自分が出来ることは何だろうと思ったら、労働組合を作ることかなと思った

しかし、労働組合も、実際はブラック企業の撲滅のためにしか動いていない。
グレーをホワイトにするのもいばらの道のようだ。

でもまあ、今は法律労働団結権保証されているのだし、政治家になるよりは手早い道ではないだろうか。

というわけで、労働組合を作る指南を受けるために、地方連合に入会した。
経過はまた、のちほど。

2018-10-22

はてなによるホッテントリ恣意性

 増田ホッテントリは、はてな中の人恣意的に選ばれてる感じがある

 こんなこと言うのは今更なのかもしれんけど、特に最近ジェンダーとかフェミニズムとかそういう傾向の記事ホッテントリに選ばれやすくなっている

 今となってはホッテントリとなった増田の半数以上がその関係であるソースなし)

 本来我々はそんなにミサンドリー寄りのフェミニズムとかあるいはジェンダーというものに関心があっただろうか? そういうものについて話題にしなければならないほど話題に飢えていたのだろうか?

 もっとこうライフハック記事ブックマークしまくっては結局有効活用することができなかったり、「ジャズ初心者に捧げる入門向けジャズ15選!」とかをブックマークしては結局あんまり聞かずに放置してた頃の純粋増田を、増田民達には思い出してほしい

 うん


 おうブクマつけろよあくしろよ

2018-10-07

anond:20181007100642

横だけど、「教授らの飲み会」って同じ共同体に属して同じ文化を持ってる人たちの典型例でしょ。

ある程度共通知識経験があって、明日も顔合わせないといけないから決定的な決裂は避けないといけない集団。だから司会がいなくてもある程度建設的な場になる。

古代ギリシャポリス文化しろ近代欧米サロンカフェ文化しろ議論に参加する人間限定し、議題設定をそもそも限定することで円滑な議論を進めてきた。

例えば教授たちが大学教育未来を話し合うならある程度建設的な話が期待できるが、そこに学生代表大学職員代表経済団体代表政治家代表を放り込んだら、みんな見ている現実目標が違うんだから話が通じないだろう。

「みなさん色々言いたいことはあるだろうけど今日はこれについてこうやって話してね」と仕切る司会が必要だし、議題やルール参加者範囲を設定したやつが一番有利に議論を進められる。

ルール」や「議論の前提」の恣意性に、あまりにも無頓着なんじゃないか

2018-09-18

社会正義を叫ぶひとに対する一抹の違和感

一言でまとめると「自分が支持し、主張する立場恣意性(非論理性)に無自覚人間が多すぎる」。

青識亜論まわりでいま丁度燃えているけど、個人的な印象論の範疇で言えば、フェミニストLGBT側の立場人間は、「自分他者を抑圧している可能性」というもの無自覚すぎるんですよ。

自分が、自分自身にとって大事だと思う権利を守るために、それを侵害する他者権利を抑圧する」、これ自体別に珍しくもなんともない。だけど、それを無自覚にやるのは流石に問題がある。丁度、「ラノベの表紙が気持ち悪い」「LGBT気持ち悪い」「殺人」を等価に置いた社会学者がいたよねという話題でもそれは結構散見される。

今更こんなことを言わなきゃいけないくらいに人類の知性は発展してこなかったんだという事実を目の当たりにするのは悲しいけれど、「論理的に等価である」というのは別に珍しくもなんともないんですよ。

LGBT気持ち悪いと思う権利」も、「ラノベの表紙が気持ち悪いと思う権利」も、誰にだってあるんです。

そこから一歩進んで、「LGBT気持ち悪いと発言する権利」も、「ラノベの表紙が気持ち悪いと発言する権利」も、誰にだってある。ただし、そこには発言したなりの責任が伴う。「LGBT気持ち悪い」と発言することによって、LGBTである人々を抑圧することはあるでしょう。それと同じことで、「ラノベの表紙が気持ち悪い」と発言することによって、ラノベの表紙を描くことをライフワークにしているイラストレーターさん・ラノベの表紙によって生きる糧を得ている人々(ざっくり言うと女性から切断された「キモくて金のないおっさん」を例に挙げておきますが、もっと単純にそれを単純に「いいイラストだなー」と思いながら受容する人々[男女問わない])を、抑圧することもあるでしょう。

そこは、何をどう解釈したとして、論理的に等価です。

では、その二つの何が違うかって、「何かを気持ち悪いと発言することで、どれだけの存在保護しようとしているのか。そうすることで、どれだけの存在を切り捨てることになるのか」という違いでしょう。

LGBTへのヘイト発言禁止することで救われるLGBT当事者気持ち価値は、LGBTへのヘイト発言禁止された人々の気持ち価値を上回る。LGBTに対するヘイト発言は、LGBT当事者を下手すると死にすら追いつめてしま可能性があるし、そういった想像は容易だからだ。

では、それと論理的に等価であるところの、「ラノベ気持ち悪いと発言する」ことの場合はどうなのか。ラノベ気持ち悪いと言われることで抑圧される対象は、発言を受けたことでLGBT当事者と同程度に守るべきなのか。これは個人的見解だが、同程度の重みを持たせることは、少なくとも想像範疇では難しいのではないかと考えている(これは、あくま個人想像範囲である)。

だけど、そこから一歩進んで、「気持ちいか規制すべき」という話になると、話は別だ。

LGBT気持ちいからその権利規制すべき」となったら、まあ、少なくない人間直感的におかしいと思うだろう。「気持ち悪い」という内心の権利を守るために、他者人権制限するというのは、保護法益バランスが全く取れていない。

では、「ラノベの表紙が気持ちいから、ラノベの表紙を制限すべき」という話になると、直感的におかしいと思う人が減る、という印象が、本増田にはある。減る理由はわかる。当事者属性の違いだ。LGBTである人々の存在は、少なから想像がつく。フェミニズムが守ろうとしている「女性」という存在も同様である。それに対して、「ラノベを表紙を制限することによって抑圧される人々」の存在がやや想像しづらいというのは、まあ、わからなくもない。

ラノベの表紙は「娯楽」である。娯楽に対して、LGBTというのは在り方そのものである。在り方そのものと、娯楽とであれば、そこの比重が異なるのはわかる。だが、世の中には、少数であっても、「ラノベの表紙を書くのが生業である人々」「ラノベによって救われている人々」が存在する筈なのだ。そこにあるのは、人類の数%(1億人近く)の権利を守るために、数千人の権利を縛るべきかどうか、という利益衡量の問題である人類の半分である女性権利を守るために、何千万人と存在するミソジニーな人々を抑圧すべきか。あるいは、女性権利を守るために、ラノベ関係する人々の権利を抑圧すべきか。

ここで本増田が言いたいのは、「お前の発言で抑圧される人々がいるから、ラノベの表紙を気持ち悪いと言うな」という話ではない。

現実世界において権利権利がぶつかるのは当然であって、そのような現実において、ある特定立場の人々を「守らない」という選択をするのは、仕方がないことだとは思う。だけど、その「守らない」という選択したことから目を背けるのは、誰がどう取り繕ったとしても、欺瞞しかありえない。

LGBT気持ち悪いと思ってしま人間にとって、それは仕方がないことだ。だが、発言した瞬間に、LGBTの人々を敵に回す覚悟必要だ。

それと同時に、ラノベの表紙を気持ち悪いと思う人間が、それを口に出し、主張する場合、「他人を抑圧する」という現実から目を背けてはならない。

況んや、「規制すべき」という話になると問題はかなりでかくなる。ここに来ると、「規制すべき」という形で、表現の自由問題が関わってくるからだ。

表現の自由」は、誰かが誰かから抑圧されないための権利である(それは主に公権力であることが多かったが、それ以外の私的権力からの抑圧を防ぐためでもあろう)。それは、どんな人間にとっても、本来的に備わっているものである、と法学人権定義をそのように構築してきた。それを制限するためには、それなりの整合性、具体的には「保護法益がどの程度大きなものなのか」を精緻検算しなければならないと、様々な判例の構築によってその線引きを見積もってきた。世の中の人々が考えている以上に、表現の自由ものすごく大きなものなのだ

それに対して、気軽に「ラノベの表紙が気持ちいからそれを制限しよう」と言い出す人たちは、その権利の重さをどの程度理解しているのだろう。「ラノベの表紙が女性扇情的に描くことで、女性蔑視・女性の「モノ化」・男尊女卑的な観念等を強化する」というのは理解できる。そして、それを守ることがそもそも男尊女卑的な、フェミニズム批判し続けてきた構造権力を強化するから全く擁護できない、という話もわかる。

だけど、それを主張することで、逆に自分たちが誰かを抑圧する可能性について無自覚か、目を背けているひとが多すぎやしないだろうか。

最悪、抑圧が発生するのはいいよ。民主主義ってもの絶対に少数派の意見を切り捨てる(厳密に言えば、多数派は少数派の意見を最大限聞かなくちゃいけないのだが、本題から逸れるので一旦措く)ので、仕方がない、避けようがない部分もあろう。でも、「そもそも自分たちは誰も抑圧していない」と言いはじめるのは、何か違うんじゃないか

俺が、青識亜論は少しむかつくけどそれ以上に彼を擁護したくなるのは、それが原因だ。青識亜論は特権性について何度も言及していた。市民社会において、どのプレイヤーも、プレイヤーとしては等価な筈なんですよ。市民市民を抑圧することはできない。市民は抑圧に対して抑圧に反発する権利がある。その権利が、あたか存在しないようにふるまう少数派が多すぎる。

せめて、「私は少数派の権利を守るために多数派権利を抑圧する立場に立ちます」くらいの大上段はふるってほしいものだ。本増田はその権利を守る。

2018-09-05

anond:20180905162255

そうは言ってもたいていの統制ってのはその線で止まってると思うんだよな。

統制が漸進するというのは一種の後ろ向きな願望という気がする。

正当性恣意性批判するというやり方は俺もよくするけど、かといって恣意性排除した厳密な統制が行われるともゆめゆめ思ってないわけ。

君のように思うものいるから同じ考えの「統制を歓迎する」一派がいるんだろ。

それに対して統制反対派は

統制が漸進するというのは一種の後ろ向きな願望という気がする。

というのが後ろ向きではないということを歴史に学んでいるし(治安維持法、にーめらー)、

正当性恣意性批判するというやり方は俺もよくするけど、かといって恣意性排除した厳密な統制が行われるともゆめゆめ思ってないわけ。

そして統制に当たって恣意性排除できない(=表現における独裁者誕生を招く)こと自体非難しているわけだ。

anond:20180905161116

そしてこれは「統制」が自分を利するように行われ、そこで止まる

そうは言ってもたいていの統制ってのはその線で止まってると思うんだよな。

統制が漸進するというのは一種の後ろ向きな願望という気がする。

正当性恣意性批判するというやり方は俺もよくするけど、かといって恣意性排除した厳密な統制が行われるともゆめゆめ思ってないわけ。

2018-09-04

これからもっとはちまJin記事は増えるよ

anond:20180904083613


はちまJinが叩かれてたのはネトウヨ系だからでしょ?

あるいは著作権無視だったから叩かれてたという経緯がある。

なのでTwitterへのリンクを張ってるTogetterは批難されづらいし

IT速報日本叩き記事が多いかはてなじゃ批判の的になりづらい。

はてな忌避されてたのは本質的には記事内容が煽ってるとかそういうことじゃないんだよ。


メタ的に見てるとわかるけど、はてなで叩かれるかどうかは基本的政治的恣意性があってクラスタにとって都合がいいかどうかで叩いてるだけなんだよ。

ひょっとしてはてな民は賢くて倫理的からまとめサイトを叩いてるとか信じてたの?

フェミニストみたいなもんで自分に不利なものを隠してただけだよ。

最近、ラディカルフミニスト(ツイッターフェミニズム)が陰謀論かぶれだしたり徐々にネトウヨ化が進んでまとめサイトが客にし始めたからそういう記事が凄い増えてる。

からそういう記事が好きな左派はてな民は少しづ批判を抑え始めてる。

元増田記事をみてもわかるけど、ブコメで批難してるの右派系の人ばっかでしょ。


俺は元増田みたいな人は糞まじめで好感もてるけど、もうちょい広い視点物事を見れるようにしたほうがいいよ。

じゃなきゃ疲れちゃうよ。

2018-09-01

me tooに代表されるある種の「正義」と、その恣意性が孕む課題について

岡田斗司夫朝日新聞で連載している悩み相談を読んだ。

https://digital.asahi.com/articles/ASL8R4S75L8RUCFI00B.html

回答としてとても全うで、納得のいくものだった。だったのだが、当然回答者岡田斗司夫である以上、「朝日新聞岡田斗司夫指導者という立場を利用したりして精神不安定女性数十人と異性関係を持ったことが判明したあとも、彼を切らなかった。metooと程遠い人権感覚会社だと思ってる。 」というブコメがついている。

ブコメをつけた人を非難したいわけじゃなくて、これは正にme tooにおけるある種の「正義」の本質を表している。つまり、「言動のものや、その人が作り出したものの是非ではなく、その人の社会的状況に応じてその人の言動判断する」。

これは、不正義の是正を誰かに任せるのではなく、評価自身判断不正義を是正するものだ、ということになる。一面の真理はあると思う。社会完璧ではないので社会公的機関が必ずしも正しい在り方をしているわけじゃなく、それを正すのは社会に生きる人間であるべきだ。そのような仕組みが市民社会であり、社会的不正義に対して暴動や大規模なデモが起きるのはある種「健全」なこととは言えて、そういう事例が散見されるアメリカフランスと違ってどうして日本は……という話題は、本筋からズレるので閑話休題(こういったある種の国ごとの政治態度や市民感覚の違いをまとめてる研究書どっかにないですかね。真面目に読むので割と本気で募集している)。

そういった考えの裏には、実のところかつてのモヒカン族とは全く逆の価値観がある。評価するかしないか、という価値判断だ。

上記の例で言えば、岡田斗司夫評価されていい人間かどうかである。とりあえず自分評価差し控える。その全く真逆の例で言えば、〈ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーシリーズ監督を務めていたジェームズ・ガンが、過去不適切ツイート理由シリーズ監督から降板させられた事件だ。その二つの違いはなんなのか。違いはいくらでも挙げられる。実際に問題になっているのが実在女性との実際の関係に関する話題か、不特定多数に対する言及だけか。日本国内で活躍する批評家か、全世界的にヒットした作品を生み出した監督か。社会的評価の違い。味方についた人がどの程度いたか、それが大きく報じられたかどうか。「不正義」とされるものは白か黒かではなく様々なグラデーション存在し、「灰色は白である」=推定無罪価値観あくま刑事事件公的権力市民を罰する際に発生するものであり、このような違いが発生するのは当然である。だが一方で、ジェームズ・ガン擁護されるのに、『二度目の人生を異世界で』の原作者「まいん」氏が炎上した挙げ句アニメ化が中止になるのは当然であるとされる。問題発言が日本における大きな政治的争点かどうか、という違いはあるが、それ以上に大きな違いは、2人がどんな作品を書いていたか、と言ってしまっても差し支えないのではないか、と個人的には思っている。一方で、慰安婦揶揄していた「月曜日のたわわ」の比村奇石はさほど炎上せずに未だに活動を続けている。比村奇石炎上しないのは不思議だなと思っているが、とはいえ自分自身、「うっわー気持ち悪いことしかやってねーなこの人、でもめっちゃエロい作品書くな。もっとやれ」って思いながら毎週月曜日を楽しみにしている。しかし本当に邪悪

雑多になってしまったが、何が言いたいかというと、me tooというのは「何が正しいか」ではなく「どんなかたちの正義を指示するか」というある種の価値観、雑な表現であるところの「政治的態度」を求められている。正義に対するコミットメントである。だが正義一枚岩ではなく、黒と白の間には無限グラデーション存在し、結果me tooのような価値観はある種のダブルスタンダードを許容する。

社会において「理性的判断」というのは存在せず、人間社会のなかでしか行動ができず、社会のなかで行動するなら結果的社会コミットしなければならない。あたか村上春樹デタッチメントからコミットメントへの転換をした(「せざるを得なかった」と言っていいのかは、正直わからない)ように、これはある種当たり前のことなのだが、その事実を前に困惑するひとは少なからずいるのではないか、と思っている。自分比較的その変化を受け入れている側の人間ではあると思うが、困惑する人間がいるのはよくわかる。人間矛盾する生き物だからね。

だがはあちゅうてめーは駄目だ。

2018-08-07

anond:20180806195005

スコア正規分布に近くなると公平なテストだというのはなるほどって感じ。

現行のテストは各分野を均等に扱ってると言っても、分野わけだって恣意性があるでしょ。人の知能の仕組みがわからない以上、どんな能力が他のどんな能力関係してるかわからない。独立変数を増やせば正規分布に近づくと言う話に合わせれば、人の知能においていったいなにが独立変数なのかわからないと言える。

完璧テストなんてないんだから、もうちょっとだけ完璧に近づいたテストをしたら男女逆転するかも。

2018-04-26

anond:20180424195320

そういった恣意性を疑うのは非常に妥当だと思います

事実、私はSNS上にこういう主張を載せたのは人生で初めてです。

ここって初投稿だと他の方に分かるようになってるのかな?

それはさておき、反論の本旨に対してコメントしますと

凶悪事件」の場合刑事裁判になりますから、最終的に事件審判を下すのは裁判官になります

言うまでもなく裁判官職業訓練を通じて何が有効証拠証言になりうるか判別する能力を身につける事が要求されます

その判断メディア報道によって容易に左右されるものではないと推測します。あくま一般視聴者比較してでの話ですが。

ですので、今回の件とは違う性質のものだと考えます

ただしその場合も、メディア報道抑制的なものでなければ、公正な裁判を経ずに社会的制裁被疑者に加えてしまうといった問題

以前から度々指摘されていると思います

なので私が言わなくても別にいかなと思ってきました。

2017-12-12

https://anond.hatelabo.jp/20171212001751

でも例外がある以上は傾向に過ぎないし、主義なわけじゃん。

例えば俺は言語学において850語で聖書など日常会話を言い換えられるベーシックイングリッシュ言語学者が分析しないのは、近代言語学の父であるソシュールが用意したドグマのせいだと考えている。

音の恣意性というのもソシュールが用意した教条。もし音に意味があるとしたらhttps://anond.hatelabo.jp/20171211225604に書いたように、俺の理論のようになるはず。そして論文にはできない。

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