はてなキーワード: 三者とは
この投稿が事実であるか創作であるかを判断するのは困難です。しかし、物語の内容や展開、そして心理描写にはフィクションに特有の要素が多く含まれているように見受けられます。
1. **極端なエピソードの連続**:三者面談での発言や運転中の妄想、そして「狐が電球にいる」といった現実離れした描写がいくつかあり、読者の注意を引くためのフィクショナルな表現にも感じられます。
2. **精神疾患の描写**:統合失調症などの精神疾患に似た妄想が表現されていますが、詳細な心理描写が綿密に描かれているため、創作として構築された可能性が高いです。このような内容はリアルな体験談でも描かれますが、一定の脚色や構成が施されている印象を受けます。
3. **文体**:一人称の感情的な語り口や時系列の回想構成は、文学的・フィクショナルな作品でよく見られます。
これらの理由から、この投稿を**70-80%の確率で創作**と判断します。ただし、創作である場合も実際の体験がインスピレーション源となっている可能性もあります。
私の母は狂人だった。私が母に母らしい親しみを最後に感じたのはいつだったか。
この人が母親であることが嫌だなと思ったのは、中学校の三者面談の時に、
私が担任に褒められるとみるや否や、
「うちの子は親の敷いたレールの上をただ走ってるだけですから」
と言い放った日のことだ。
きっとその前からおかしかったのだろうが、中学くらいからはっきり「この人はおかしい人だ」と思うようになった。
私が「学校の先生には電話しないで。家で文句言ってるだけだから」と言っても、
「母は私の言ったちょっとしたことをわざわざ学校に電話をするところがあるから、
もし母が電話をかけてきたら話だけ聞いて、あとは無視して、私に電話があったことを教えてください」
とお願いをした。
その年は3回、担任から「カーチャンから電話があったぞ」と言われた。
大学で一人暮らしを始めようというときに、私は新居に向かう道に迷ってしまった。
母に「マンションって駅出てどっちの方向に向かって歩けばつくんだっけ?」と電話したら
「はぁ?あんた何意味の分からないことを言ってるの?」と言われた。
「ごめん、分かんなくなっちゃって。私方向音痴だし」と応じたが、
「何言ってるの?意味の分からないことを言わないで」とよく分からない回答。
その後何度状況を説明しても、
「意味が分からないわよ」「道が分からないって何」「どういう意味なの」
と全く会話にならない。
家には無事たどり着いたが、その後、「道は分かったの?」と聞かれて、ますます怖くなった。
「なんであんな訳の分からない対応したの?」と聞いても、「別に」としか言わなかった。
だが、その土地は父にも母にも、合っていないようだった。
「私の通ってるジムのインストラクターさんがね、私のことを好きになっちゃったみたいで困ってるの」
「20代の子なんだけどね、ほら、私って楽しそうに何でもするでしょう。
だから、それがすごく良かったみたいなの」
だから私に嫉妬して、いろんな人を使ってあとを付け回すようになったのよ」
「ほら、この後ろの車もそう。」
母は著しく車の速度を落として、バックミラーを睨みつけた。
私には、時速50kmは出すような道で、時速20kmで走られて困ってる老夫婦がいるようにしか思えなかった。
私は「ねぇ、そんな遅く走るの逆に危ないよ。事故に遭うからやめなよ」と言ったが、
「何言ってんの、あいつらは私に嫌がらせをしてるのよ!」と言って聞かなかった。
「いや、他の車の迷惑だからやめなって」と言うと、母はしぶしぶ普通の速度で運転をし始めた。
「あの人たちがその婚約者の人の仲間だなんて証拠あるの?」と聞いても、
「私には分かるのよ」としか答えてくれない。
家に帰ってもその話は続く。
「その婚約者はね、嫉妬から呪いをかけてね、電球の中に狐を送り込んできたの。
見てごらんなさい、狐がいるでしょう」
どれどれ、と家の電球をのぞき込んだが、私には狐を見つけることはできなかった。
暗くなって、部屋の中に車のライトが入ってくると、「きゃあ!」と母が叫んだ。
「狐、狐よ!ほら、狐の目を光らせているのよ!」
「車のライトだよ」と言っても、狐だと言って聞かない。
「こうやってね、光を部屋の中に入れて、私のことを焼いてくるのよ』
「ほら、みて、これが光で焼けたあとよ!」
そう言って、どう考えても腕に出来た老化によるシミを見せられた。
たまりかねた父が「そんな光線なんて送れるわけがないだろう!そんな装置は何億とお金がかかるんだ!」と怒った。
母は負けじと「そうよ、その婚約者はお金持ちだから、何億でも使って私に嫌がらせをするのよ!」と言い返した。
「お金を積んだってなかなか手に入らないだろそんなもの。あなたの肌だけを焼く装置なんてありえない。
そんなものはNASAとかそういうところでしか作られないんだ!」
どうして父がアメリカの航空宇宙局の名前を出したのか、あまりに脈絡がなくて不思議に思った。
父は父なりに、母にも分かる「なんだかすごいところ」の名前を出して、説得しようと必死だったのだろう。
父の努力もむなしく、母は「私はNASAに狙われるほどの特別な人物だ」と豪語していた。
私は一人暮らしの家に帰るときに、父に「病院に連れてった方がいいよ」と伝えた。
数カ月くらいで、母は変なことは言わなくなった。
あれから何年たっただろうか。
「向かいの家の大学生の男の子に、一日中ずっと部屋を覗かれてるみたい」
もし忘れていられるとすれば、私は母のことを忘れていたいと思っている。
遠くに住んで、たまにおしゃべりするだけの存在だったらどんなに楽かと思う。
でもどうやらそれは難しいようだ。
その書中において述べられるところの名文とは、単に美的であるのみならず、情緒に満ち、描写が巧みであり、さらにその文章が臨場感を伴うことにより読者の心に深く響くものである。美しさとは、単に言葉の装飾ではなく、内在する構造の確かさに拠るものであろう。
澁澤龍彦が幻想小説において「幾何学的に書くべきである」と言ったと記憶している。幾何学的とは、感覚的に直感する美麗さと秩序を持ち、その形態は正確かつ普遍的である。正三角形が持つ完全性は、内角の和が常に180度であるという確固たる定理に支えられている。これは、いかなる変形にもかかわらず揺るがない事実である。その普遍性こそが美であり、幾何学的美しさの本質を成す。
このように、文章にも同様の美的秩序が存在するのではないかと考える。たとえば、三角形の定理を文章に適用するならば、各要素が一貫して調和する様は正三角形のごとくである。三角形の三つの頂点に当たる要素は、物語の構造、感情の動き、そして読者への影響であろう。この三者が均衡を保つとき、文章は完全な形となり、名文と称されるに値する。
恋愛においても、幾何学的な要素が見て取れる。愛する者、愛される者、そしてその間に存在する感情。この三つの要素が整ったとき、恋愛は完全な形を成す。しかし、その一部が欠けたとき、三角形は不完全となる。非モテであるという状況は、その三つの内角が揃わず、歪んだ三角形のような状態である。だが、その歪みの中にも、何らかの秩序と美しさが宿っていることを認めざるを得ない。
幾何学的な美しさは、完全性の中にのみ存在するのではない。むしろ、不完全な中にも美しさは潜んでいる。それは、欠けた部分があるからこそ生まれる緊張感であり、そこに宿る秩序の欠如が逆説的に美を生むのである。モテないという状況も、ある種の幾何学的な不完全さであり、その不完全さが一つの形を成し得る。
私は三角形になりたいと願う。完璧であり、無駄がなく、全ての要素が調和している。しかし、不完全なままであることもまた一つの形であり、その不完全さの中にこそ真の美が宿っているのではないか、とも思うのである。
幾何学的文章の美しさとは、表面上の整合性だけではなく、そこに潜む感情や臨場感をも含むものである。その幾何学的な秩序と情感の融合こそ、真に名文たる文章の本質であろう。
増田初心者だから慣れないところがあるかもしれないけど…おっしゃっていることを拝読しましたが、一言で言えば甘すぎますね。この程度の問題でそんなに揺れ動くのでは、社会に出る資格があるのか疑問です。退職引き止めや支援者との三者面談で「頑張って続けよう!」と決意するなんて、中途半端な覚悟では結局何も達成できないでしょう。
第一に、障害者雇用枠や定着支援があるから辞めづらいと嘆いていますが、それを言い訳にするのは無責任極まりないです。会社の助成金のことを考えずに、自分の感情だけで物事を判断するのは短絡的です。どれだけ周囲に迷惑をかけているのか、少しは考えてください。
また、浮かれてしまった自分の姿に気づいているようですが、それだけで行動が変わるなら本気で転職を考えていないことが明白です。煮え切らない態度を取り続ける限り、どこに行っても同じ結果になるでしょう。
最後に、あなたが向いていないと感じているのに「頑張るぞい」と楽観的に思い直すのは、自身の現実逃避でしかありません。逃げ道を作っておきながら、再び悩むという負のループから抜け出せないのは、自己責任です。
総じて、あなたの行動や考え方は非常に未熟です。社会で活躍するためには、もっと自分自身に対して厳しくなるべきです。
ご精読ありがとうございました!
ゼロ年代のインターネットには、Alex Kさんという日本語が堪能なウクライナ人がいた。彼は日本語版ウィキペディアで、ウクライナに関する有益な記事をたくさん執筆していた。ウクライナ語のиをすべて「ウィ」と表記した結果、「フメリヌィツィクィイ」みたいな記事名ばっかりになっていたが、これも彼の正確さを重んじる姿勢のゆえだと好意的に見ることはできる。
しかし、Alex Kさんはウクライナ民族主義者であった。もちろん、民族主義者であっても良質な記事を書いてくれるなら問題はない。だから彼は、ウクライナの歴史上の人物や、都市や、教会についての記事を執筆し、加筆し、あるいは修正のために議論した。そしてある日、ひとりの日本人編集者が、彼の書いたウクライナにある教会に関する記事を修正しようとした。それが問題のはじまりだった。
話を150年ほど遡る。鎖国が終わり、自由にキリスト教を布教してよいことになったので、欧米人はこぞって宣教師を日本に向かわせた。宣教のためには、現地の言葉で書かれた聖書が必要不可欠である。だから宣教師たちは、それぞれが独自の日本語版聖書を作った。正教会の宣教師だったロシア人の聖ニコライは、漢文の素養のある日本人に助けられながら、教会スラヴ語(教会で用いられる古風なスラヴ語)に基づいていかめしい文体の日本語訳聖書を作った。カトリックやプロテスタントは、時代に合わせて聖書をよりやさしい日本語に置き換えてきたが、正教会の聖書は、明治時代からその言い回しなどがほとんど変わっていない。結果として、正教会の聖書は読みにくく、使われる語彙もカトリックとは異なっている。たとえば、こんなふうに。
正教会 | カトリック |
---|---|
主教 | 司教 |
顕栄 | 変容 |
生神女 | 聖母 |
至聖三者 | 三位一体 |
イイスス・ハリストス | イエス・キリスト |
これがいいか悪いかは、その人の価値観によるだろう。他の教会と共通する用語を使うべきと考える人もいれば、独自の伝統を守るべきだと考える人もいてよい。だがそれを決める権利は日本人の正教徒にしかなく、外部の者はそれを尊重すべきであるはずだ。
このようにキリスト教各派が使っている用語がバラバラなので、日本語版ウィキペディアでは、「各派の独自用語を尊重する」というデファクトスタンダードが確立された。たとえば日本政府は少し前までローマ教皇のことを「法王」と呼んでいたが、ウィキペディアではカトリック独自の呼称である「教皇」が採用された。カトリックの教会が「主教座」と表記されていたときは、カトリック用語の「司教座」に直された。だからその日本人編集者は、2009年に、Alex Kさんの書いた記事にある「三位一体」「変容」を、「至聖三者」「顕栄」に直した。
ところが、Alex Kさんにはそれが気に入らなかった。ウクライナ語や英語では、当然ながらこのような区別は存在しない。Alex Kさんは、「三位一体」は日本語の定訳なのに、なぜ「至聖三者」という日本正教会独自の用語を使わなければいけないのか? と反論した。さらに、大部の国語辞典を参照して、「顕栄」とは立身出世するという意味であり、「変容」の方が教義的に正しい、とも主張した。これに対し、日本人編集者たちは次のように答えた。
このような反論にAlex Kさんがきちんと応答していれば、もしかしたら有意義な論争になったかもしれない。だがAlex Kさんは、すでに論駁された自身の主張を繰り返すだけだった。あまつさえ、投票に参加しなかったにもかかわらず勝手に記事名を元に戻すなどの問題行動を起こした。最終的にAlex Kさんは日本語版ウィキペディアから出禁を言い渡され、現在のゆくえは杳として知れない。
Alex Kさんは何が気に食わなかったのだろうか。それはおそらく、日本正教会の立ち位置にある。実は、日本正教会は完全に独立した教会ではない。日本正教会はロシア正教会の一部なのである。
それの何が問題なのだろうか。日本のカトリック教会は、全世界の信徒を統べるカトリック教会の地方支部に過ぎないではないか。それと同じように、日本正教会がロシア正教会の支部であって何か問題があるのか? カトリックと正教会の組織運営上における最大の違いが、まさにこの点にある。カトリック教会は全世界の組織がピラミッド状になっているが、正教会では各地にある正教会は対等な存在で、それらを統べる上位者はいないのだ。つまりカトリック教会が「世界政府」だとしたら、正教会は「国際連合」のようなものなのだ(コンスタンティノポリスの全地総主教はあくまで同輩中の首席にすぎない)。
正教会において、国際連合における独立国のように振る舞うことができる教会のことを「独立教会(autocephalous church)」という。ロシア正教会やブルガリア正教会などはみな独立教会であり、対等な存在である。そして、国際連合に加盟する独立国の中にも自治区があったりするように、独立教会の内部にも自治を許された独自の組織が存在することがある。日本正教会はこのパターンで、教会内の人事は基本的に日本人の信徒や神品(聖職者)で決めているが、教会トップはモスクワから承認を受ける必要がある。日本正教会は、少数派であるキリスト教の中でもさらに少数派で、文科省の統計では人口1万人いるかいないかだ。小さな島が独立を諦めてイギリス領に留まることを選ぶのと同じように、日本正教会はロシア正教会から独立しようとしていない(というか日本だけじゃなく、そもそも東アジアに独立教会がない。中国正教会もロシア正教会の傘下だし、韓国や香港に至っては全地総主教の下の単なる府主教区であって自治権はない)。
つまり、ウクライナ民族主義者であるAlex Kさんにしてみれば、「日本正教会を尊重せよ」というのは、「ロシア正教会を尊重せよ」というふうに聞こえていたのではないか。なるほど彼からすれば、ウクライナ語では正教会とカトリックとで同じ言葉を使うのに、ロシア正教会日本支部ではわざわざ別の言葉を使ってカトリックと差異化しようとしている、と映ったのだろう(ウクライナには「儀式のやり方は正教会だが、組織としてはカトリック」という教会が存在しており、かつてロシア帝国から激しく弾圧されたことから、ウクライナ民族主義の核になっている)。
しかしAlex Kさんが見落としていたのは、日本正教会は日本人によって運営されている教会だ、という点である。確かに教会の設立はロシア人によるものだし、ある時期まではトップがロシアから派遣されていた。だが日本人の正教徒は自分たちで教会組織を運営するようになり、ここ半世紀は教会のトップも日本人が務めている。しかも、日露戦争やロシア革命によって生じた反露世論によって痛めつけられた上での話である。ロシア正教会が気に食わないというウクライナ人の気持ちは理解するが、逆風に耐えながら百年以上も信仰を守ってきた日本人信徒に対する尊重くらいは求めてもよいはずだ。
ところが、Alex Kさんが示したような日本正教会への侮蔑あるいは敵対は、残念ながらウクライナ人のあいだにしばしば見られる。たとえばウクライナ正教会は日本支部を開設しているが、その神品であるパウロ・コロリューク(Павло Королюк)は、「生神女就寝祭」を「聖母就寝祭」と呼ぶなど、日本正教会の用語法を意図的に無視する姿勢を打ち出している。ウクライナでならば好きな用語を使えばいいが、あいにくとここは日本であり、日本正教会の管轄地である。郷に入っては郷に従うべきではなかろうか。また、コロリューク神父あるいは彼に近しい誰かは、日本正教会を侮蔑するツイートを公然としている。まあ、こういうツイートでウクライナへの共感が強まると思っているならご自由にされればよい。増田は、コロリューク神父はキリル総主教の精神的双生児なのだから、似た者同士もっと仲良くすればいいのに、という感想しか持てなかったが。
(そもそも、ウクライナ正教会が日本支部を開設しようという時点で「シマ荒らし」といえる。日本在住の正教徒は基本的に日本正教会の聖堂に通うべきだからだ。とはいえ、移民が移民先に支部を作るのは米豪などでも問題になっているし、ルーマニア正教会も日本に支部を築いたことがあるので、ウクライナだけの問題ではないのだが。根本的には日本正教会が独立教会ではないのでナメられているのだろう。あるルーマニア人は「在日ルーマニア人が教会に行くのに、何でモスクワの許可が必要なんだ?」と嘯いたそうだ)
さらに、一昨年開かれたホロドモールの犠牲者を追悼する合同祈祷式には、コロリューク神父だけではなく「日本における総主教代理であるアンブロシオス府主教」が出席していた。日本の総主教代理とはどういうことか? 実は、全地総主教は日本正教会の自治権を認めておらず、韓国に派遣したギリシャ人の神品を日本の正教会のトップに任命しているのだ。彼は韓国の正教会のトップでもあるので、というかそっちが本業なので、ふだんはソウルにいる。なるほど、ウクライナ正教会が全地総主教によって承認された関係上、全地総主教が認める総主教代理を認めねばならないという事情は理解できる。だがそこでも、日本正教会が日本人の運営する教会だということは無視されている。明治時代からの由緒ある聖書を守り続けている日本人信徒がおよそ1万人いて、神学を修めた日本人の神品が何人もいるというのに、ふだんは韓国に住んでいるギリシャ人が日本の正教会のトップを名乗るというのは、日本人への侮蔑だとは思わないのだろうか?
ロシアのウクライナ侵略が許されざる暴挙であり、ウクライナ人へのジェノサイドであることにはいささかの異存もない。プーチンとプーチンを盲目的に礼賛するロシア正教会のキリル総主教は腹を切って死ぬべきである。Оккупанты, идите домой! だがそのことと、日本人が守り育んできた日本の教会を軽んじてよいかということとは、まったく別の問題であるはずだ。ウクライナ人、特にウクライナ正教会の関係者は、日本正教会に敬意を払うべきだ。彼らはどんなに苦しい状況でも正教会の信仰を守りぬいた人びとであり、彼らの培ってきた伝統は尊重されるに値する。もしもウクライナ正教会がイイスス・ハリストスの教えを日本で守り広めたいと思うなら、まずは彼らの伝統に倣うことから始めるべきだろう。
ところで、ウクライナ語版ウィキペディアの「日本正教会」の記事には、次のような記述がある。
На відміну від католицької і більшості протестантських церков Японії, Японська православна церква не використовує усталеної в японській мові християнської термінології. З 19 століття вона розробила власний словник. Більшість термінів вважаються застарілими словами і малозрозумілі для сучасних японців[13].
この「注13」は次のようなものだ。これは英語版やロシア語版にはない、ウクライナ語版オリジナルの記述である。
Наприклад звичне для японської мови слово «Трійця» саммі іттай (三位一体, дослівно: «три особи одна суть»), що зафіксоване у провідних японських словниках, японські правослані замінили на сісей санся (至聖三者, дослівно: «найсвятіші три особи»). Ця заміна сприймається неадекватно, оскільки друга частина словосполучення — санся означає не лише «три особи», а й «третю строну» або «аутсайдера». Інший приклад — «Преображення». В сучасній японській мові для позначення цього слова використовується термін хенйо (変容, дослівно: «зміна образу»). Японська православна церква замість нього вживає термін кен'ей (顕栄, дослівно: «проявлення слави»), який в японських словниках тлумачиться як «стати заможним» або «вибитися в люди».
Alex Kさん! 生きとったんかワレ! 「顕栄」についての一方的な解釈が健在なのを見てとても懐かしい気持ちにさせられた。さらに、「三者」は部外者というニュアンスもあるから、「「至聖三者」」はTrinityの正確な訳ではないそうだ。もちろんこれは日英露各版のどこにも書かれていない新発見である。確かに「第三者」という語を思い出せば、「三者」に部外者という語義があることは明白だ。このウクライナ人編集者の勉強熱心さには頭が下がるので、次はぜひ序数という概念についての記事を書いてほしい。しかし何より驚嘆すべきは、これほど独創的な日本語解釈が堂々とウクライナ語版ウィキペディアに載っているということだろう。ウクライナ人に向けて世界の言語についての知識を広めようとするAlex Kさんの思いには頭が下がる。きっとそのような手法はモスクワで身につけられたに違いない。いや、実にあっぱれ。<
Tさん…好き嫌いドットコムというサイトに降臨した自称堀口くんと同じ中学。高校は工業高校に進む。土方。
両親を早くから亡くしており、妹であるハルコさんを大事にしていたとのこと
中学時代にハルコさんが堀口くんにストーカーされたため激怒、接近禁止等の念書を書かせた
最近になってハルコさんへのストーカー行為を再開した堀口くんに激怒し、堀口くん・堀口くんパパを交えた三者面談を行ったらしい(通称・高崎会議)
武闘派の舎弟が複数いて、ハルコさん宅付近のコンビニにいた堀口くんを詰めて追い払った
ハルコさん…Tさんの妹。年子でTさんのひとつ下。学年一の美少女。頭が良く高校は進学校に進む。両親を早くから亡くしておりTさんが実質親変わりになっていたとのこと
中学時代の出来事で男性恐怖症になり、克服するまで時間がかかったとのこと
→堀口くん、堀口くんパパ、Tさん、ハルコさんの4人の騒動 通称「高崎事変」の関係者
好き嫌いドットコムの堀口くんアンチの堀口学研究をTさん等に伝え、後述する「高崎事変」等という高崎で起こった内容を好き嫌いドットコムに報告している橋渡し役
高崎会議についても同席したか本人やその関係者から直接聞いたからか、詳細な出来事を好き嫌いドットコムに報告
→高崎の地元民らしい。好き嫌いドットコムに書き込み。たまたま歯医者の近くを通りかかったところ駐車場にいつも存在しない複数の車があり、親戚が招集されている?と思い、高崎会議は信憑性あると報告
→同じく高崎事変の当事者であり、高崎会議の関係者らしい。Tさんの仲間?
これ以外にも多数の高崎事変関係者や堀口くんの元同級生が好き嫌いドットコムに出没
中学時代、学年一の美少女だったハルコさんが中学時代に堀口くんにストーカー行為等をされたため、Tさんが激怒。物理的に詰め、接近禁止等の誓約を念書を書かせた上で当人同士で結んだとのこと。
堀口くんが高校は離れたところに行き、地元では姿を見せなかった
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時は流れ2024/7/27
ハルコさんの同窓会に堀口くんが突如登場。自分の自慢と元同級生に対するマウントをしたらしい(高卒は底辺、俺は海外の大学を卒業したエリートで~)
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同席していたハルコさんに対するセクハラ行為を再開(後ろから抱き付く、頭を撫でる等)
過去の誓約を破ったことにTさんが激怒、一連の流れを好き嫌いドットコムに書き始めたというストーリー(通称・同窓会事変)
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元同級生らが即座に通報。堀口くんは慌てて逃げる。Tさんが現れた時はその場にいない
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激怒したTさんが堀口くんの実家に行き堀口くんパパと話し合う。堀口くんは出てこなかったらしい
同窓会事変の出来事(セクハラやらマウント行為)を堀口くんパパに説明、念書を突きつける
堀口くんの経歴が事実ではなく嘘であることを証拠やネットの情報等を集めて堀口くんパパに共有
堀口くんパパが謝罪し「堀口くんからハルコさんに謝罪させること」を発言にTさん激怒。
「二度と顔を出させないこと、謝罪は自分等が聞くこと」を要求(通称・第一次高崎会議)
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書類のフォントのズレがおかしい。証明書系も正規のものと違う。入金等の口座情報がおかしい。振込先が海外口座で公表されてる支払い方法と違う等
現在の住居をTさんの伝手で情報収集、ガールズバーに足繁く通ってることが判明
その他もめ事を起こしていることを判明、この時点でヤバい奴と認識し、Tさんと親しい人で対応を決定
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ガバガバは性風俗業界における「穴(前・後ろどちらでもよい)がすっかり広がっている様子」を指す言葉から発展した表現である。「使い込まれている→どんな相手でも股を開く→なんでも通すビッチ→計画的でない」という流れを辿った言葉であり、この言葉が意味するのは「クソビッチばりの杜撰な生き方だな」という言葉だ。
「放置プレイ」もまた性風俗から発展した言葉、というかこれはそのままプレイの一種だ。「赤ちゃんプレイ」や「三人プレイ(3P)」と同じ類の表現である。たとえば仕事において「ある程度まとまったらこの三者で集まって鼎談しましょう」を「どこかで3Pしましょう」と表現するだろうか?しない。だけど、「待ち合わせ時間間違えられて放置プレイ食らったわ」はちょくちょく使われる。おかしいだろ。言葉のレベルは一緒だぞ。
まあアメリカとかにも「サノバビッチ!」や「ファック!」といった表現が日常に組み込まれてはいるのだが、それらは下品な言葉であるという認識は杜撰なアメリカ人にもあるわけだ。たとえば「ファック」ならピー音が入ったりするし、それを直接指す場合でも「F word」という表現によってやんわりと誤魔化したりする。
うちの職場の若造共はこの辺の感覚が壊れているらしく、平然と「見積もりがガバガバすぎる」とか「担当がコロナにかかったとかで1週間放置プレイ食らったせいで遅れてます」とか平然と言うわけだよ。
マジで酷い。
でもこの程度のことでわざわざ注意したらハラスメント扱いされそうだ。
つーかな、若者だけじゃなくて普通に使っているオッサンもいるんだよね。
オッサンはもっと酷くて「チョンでも出来る」とか「女には任せられない」とか普通に言う。
フェアに考えるとあのオッサンにも注意する必要があるんだろうが、今更注意した所で絶対治らなそうなんだよな。
せめて若造共には治せそうな年齢のうちに注意してやりたいが、向こうからして「え?じゃああのオッサンをまずは説得してもらえますか?」って感じだろうな。
どうしたらいいんだ
然るに近時に至りては、時弊に流されその神国なる所以(ゆえん)を忘るゝ者多きが如し。
これ吾国体に於て大害の兆(きざし)なり。
如何となれば、時流者偶々吾神典を一読するも、その意の解すべからざるを以て忽卒(そうそつ)一言の下に論じて曰く、
「吾神典に所謂(いわゆる)神国の伝は全く上古男女両人初めて吾日本の国土を発見し、その荒蕪(こうぶ)の地を開拓したる経営の事業を国生みと云ひ伝へたるに過ぎず」と論じ、
又或は「神典なるものは上古の小説にして比喩を以て作為したるものにて、彼(か)の俵藤太秀郷(たわらのとうわひでさと、藤原秀郷)の蜈蚣山(むかでやま)の昔話に類するものなりものなり」と評し、
甚だしきに至りては「神典なるものは上古の英雄が奇事を説きて神に託し、野蛮の民を治むるの具に用ひたる策略の書なり」と云ふに至る。
前三者の如きは太古の伝説を見るの具眼無き者として暫くこれを怒するも、
歴世天皇の御徳に関するものにして不倶戴天(ふぐたいてん)赦すべからざる放言なり。
かくの如き妄説行はるゝ今日なるが故に、自ずから神国の臣民たることを忘れ、
終にその心意を問へば外国人と異なること無きに至る。
今にしてこの弊を矯正せずんば、吾一系正統の皇位は日本の習慣なりとして君臣の大儀も只に習慣と法律の上に存して精神の上に存せざるに至らん。
大岡裁き。それは我が子を想う母親の心情を巧みに掬い上げた大岡越前守が名裁決である。
白洲に引き出されたは二人の女と幼き稚児。女どもは我こそが子供の母親であると口々に申し立てる。母は己が益よりも我が子の心身を重んじるはずと考えた大岡越前守は、自らこそ子供の母親であると声を上げる二人の女に子供の手を引っ張らせ、まことの母親であれば子供を諦めないはずであると、敢えて真逆の行為をけしかけた。果たして本物の母親はすぐさまに我が子の身体を想い手を離したのであるが、偽りの母親は最後まで子供の悲鳴にも聞く耳を持たずに手を引き続けた。
この、お白洲という非情がまかり通る場所での親子の情を重んじた名裁決は、またたく間に江戸中の評判となった。大岡越前守の公正かつ賢明な裁きに感銘を受けた江戸の母親達は、我と我が子が白洲へ上げられる最悪の事態に備え、こぞって相手よりも素早く手を離す訓練を始めた。はじめは隣近所で集まり細君同士で児戯の如く交流を重ねていたのだが、次第に規模が膨らみ長屋単位で集うようになり、数月経つ頃には江戸の町全体の奥方を網羅した「大岡裁き番付」が作られるようになっていた。
これが大岡裁きの極限競技〈エクストリーム・スポーツ〉化である。
「大岡裁き」の基本ルールについては今更語るまでもないだろうが、念の為、以下簡潔に説明をする。まず試合場にて競技者たる二人の女と奉行所より公正な基準に則って選ばれた稚児が並ぶ。三者が正面の裁き手へと礼をした後、女・稚児・女の並びに移動し、女がそれぞれ稚児の片腕を取る。そして裁き手の号令にて一斉に手を離す。このとき、最後まで手を持っていた方が敗者となる。お白洲に立ち裁き手の最高位たる大岡越前守より御裁きいただけるのは、番付上位のごく限られた存在だけである。
競技化してからの大岡裁きについて、その全貌を余さず語るには頁が幾らあっても足りることはないが、ここではその初期にあった一つの名勝負を紹介しよう。「突き」が体系化されて技法が複雑化する直前の、純粋たる「離し」の名人達による今もなお語り継がれている試合である。
その日お白洲に現れたのは、枯れ木のようにやせ細った女と、それとは対象的に首や四肢にたっぷりと肉を蓄えた肥えた女であった。二人は丸々とした稚児を挟み向かい合うとニヤリと笑いあった。両者とも当代一の達人との名高い見知り同士であり、両者五勝五敗のこれが通算十一回目の試合であった。
枯れ木のような女の腕名は湖越えのちよという。彼女は軽やかに美しい所作により「離す」名人であり、彼女の「離れ」による跳躍は水辺を渡る鷺の如きであったという。ちよのあまりにも優雅な「離れ」を語る逸話には限りがないが、その中で最も有名なものは彼女の腕名となっている湖越えであろう。ある武家の屋敷にて試合を行っていた彼女であったが、裁き手の号令の瞬間にはそこに残っているのは砂けぶりだけであり、その姿はもはや稚児の傍になく、邸内の池を越えて対岸へと着地していたという。池の幅は少なく見積もっても六間(約11メートル)あり、常人ではとても真似することの出来ない幅であった。彼女の跳躍を間近で目撃した御隠居は、もしあれが池ではなく湖であったとしても、彼女は間違いなく越えていただろうと語った。
もうひとりの太り肉の女は箱根のお松という。彼女はちよと異なり跳躍ではなく縮地による「離れ」を得意としていた。彼女の張りつめた四肢から繰り出される俊足は、十間(約18メートル)を瞬きの間に駆け抜けたという。暫し誤解されることであるが、彼女は純然たる江戸っ子であり、腕名の箱根はちよと同じく試合の逸話に基づくものである。彼女が縮地を己がモノにした頃のある試合において、「離れ」の瞬間、大砲のような轟音が響き、試合の場である屋敷全体が震えた。その揺れの源は、屋敷の塀に衝突したお松であった。塀が大きくたわむ程に突っ込んだお松の縮地は常人が捉えられるものではなく、かろうじて越前守の弟子であった見届け役が認識できただけであった。その驚くべき俊足を見た屋敷に逗留していたとある粋人は、仮に塀がなければ彼女は箱根の峠まで飛んでいったであろうと称したのである。
当代一の名人である二人の勝負は一回で終わることはなかった。裁き手の大岡越前守が号令をかけた瞬間、そこには土煙が残るだけであり、お白洲の両端にちよとお松。そして砂煙が晴れてふくよかな稚児の姿が現れるという始末であった。近年ますます加速化する「離れ」の瞬間に、裁き手たる越前守はこれまで辛うじて追いついていたものの、この二人の速度は群を抜いて速く、副審のからくり手の技能を持ってしても勝敗の判別が不可能であった。
土煙が判決の邪魔をしているのではないかと、砂地に水を撒き再度取り直しをさせたが、稚児の両脇に残ったのは深々と空いた丸穴と抉れた足跡だけであった。何度取り直しても決着がつかず、ついぞ判決に困った越前守は奇策を思いつく。稚児を立たせるのではなく二人で釣り上げて、先に爪先が落ちた方がより早く「離れ」た方だと。この日の稚児は二十五貫(約94キログラム)ある恵体であったが、お白洲に立つのは江戸の最高番付の二人であった。両者は再びニヤリと笑い合うと、片腕で軽々と稚児を釣り上げた。ちよが右手、お松が左手。越前守が号令を下した瞬間、先に爪先が落ちたのは右足──即ちちよの方であった。
後年、お松は「あれは稚児の左足が短かっただけであり、離れは同時であった」と語り、自分の負けを死ぬまで認めることはなかったという。この勝負を切っ掛けに「離れ」の主流はちよの跳躍となった。彼女が残した縮地は「突き」において花開くことになるが、それを本人が見届けることはなかった。
次は、「離れ」に対して「突き」の興りを記さねばなるまい。あくまでも原点に忠実に手を「離す」ことを重視する「離れ」に対して、何よりも早く手を振りほどくことを重要視するのが「突き」である。「突く」行為そのものは競技の興り時点から散見されていたものの、体系化されるまでには長い時間が必要であった。
最初期にはっきりとした「突き」の使い手として名が後世まで残っているのが千手観音の桂子と呼ばれる存在である。それまでの「突き」の使い手と彼女の最大の相違点は、「突き」の「離れ」に対する優位であるといち早く看破したことにある。すなわち、「離れ」る前に「突き」押すことで、相手に稚児の身体を押し付けるのである。この発見により、「突き」戦法が大流行し一時は「離れ」が番付から消滅寸前にまでなった。その後、「突き」に対して優位を取ることができる「躱し」が発明され、今に至るまで知られている三すくみ「離れ」・「突き」・「躱し」が完成された。
この篇の最後に「突き」の名人同士の試合を一つ紹介しよう。「突き」手同士の戦いは間に挟んだ稚児を押し合うこととなるため、両側から押された稚児が地に転がることは日常茶飯事で、中には体にかかる力の作用により、大独楽のごとく勢い良く回転する稚児の姿も見られることも珍しことではない。しかし、「突き」の達人同士となれば、人知を越えた奇跡の瞬間が興り得るのであることを示したのが次の試合である。
その日の最後の取り組みは、寅と辰という、うら若き双子の「突き」手の試合であった。二人は千手観音の桂子の孫であり、祖母から直々に手ほどきを受けた若き俊英であった。二人が公式の場で手合わせをするのは今日が初めてであり、観衆は期待を胸に見分け難い二人を見守っていた。
裁き手の大岡越前守の声とともに同時に二人の体が動き、稚児を押した反動で揃って稚児から半間(約90センチメートル)ほど離れた位置にゆるりと着地する。はじめに異変に気がついたのは観衆であった。
お裁きを見守っていた観客の間から「ホウ」という感嘆の声が上がった。続いて興奮を隠せない小声が観衆の間から漏れ聞こえ始めた。その段階に至り、判決を下すのに集中していた大岡越前守はようやく気がついた。彼が注視していた稚児が、まるであやかしに持ち上げられるように宙空へ浮かんでいることに。稚児は宙に「丁の字」を描くように腕を開いて静止していたのだ。
双子が全くの同時に両側から稚児を押したことで、稚児に伝わった力が正中線でぶつかり合い、その力が幼き肉体を地から持ち上げたのである。しばらくの間稚児は宙へ浮き続け、やがて萎れるように地上へと降り立った。その間、双子たちは周りの喧騒に顔色を変えることもなく、裁き手の判決をただ待ち続けていたという。記録には、さしもの稀代の裁き手大岡越前守も、この妙技の前には両者引き分けを言い渡すしかなかったと記されている。
https://anond.hatelabo.jp/20240608112820 の続きです
私も親・兄弟・元配偶者が怒りを炎上させて私や壁に怒りをぶつけるタイプだったので、元増田を「どこの家庭でもあるんだな」と思って読んでたんだけど
・外でも人に当たり散らすし、家でも私や家に当たり散らす所構わず全方位タイプ
でもどちらも要するに、「誰にいい顔をしたいか?」「誰になら当たり散らしてもいいか?」を選んでいる。
彼らは少なくとも、社会的に or 見た目上 自分より強い相手にはぶつかりにいかないと思うよ。
でも「やめて」って言ってもやめてくれないと思う。
どんな理由があったらやめてくれもらえる、とかもないと思う。
彼らは「やめて」が嫌い。
自分の攻撃欲求を止められない人が、「攻撃欲求をやめて」が通じるわけがない。
多分今も兄の犠牲者になってる道行く人はたくさんいると思う。
「可哀想だけど御せなくてごめん、でもその人たちを守るために私が兄の当たり散らしを引き受ける人生を送りたくないのでごめん」
とは思うけど、かといって生きてる間ずっとその人たちにごめんと思いながら生きてるでもないよ。
私も私でじゅうぶん兄の当たり散らしを山ほど引き受けたし、それを止めることもなく助長もした親のことをクソだなと思ってるよ。
彼をこんなふうにしたのは誰が悪いとか、誰のせいだとか、いつまでも考えてても無意味だから、そういう状況から逃げてあとはそいつのことは忘れて生きていくほうがいい。
もちろんそうじゃない○○オタクはいくらでもいるが(たとえばある漫画には「信長の強火オタ」である輝宗が出てくる)、
単に「オタク」と名乗る人達は、あるいは、「オタク」と聞いて連想するのは、漫画とアニメとゲームの同時の愛好家であるというのが一定数ある。
乃木坂春香の秘密とか、我が愛しのオタ彼女とかのヒロインはそういうキャラであって、彼女らは作中で「オタク」と設定されていた。
あるいは昔NHKで「MAGネット」なる番組をやっていたことも、オタクという概念をそういうものとみなすのが一定数あるという裏付けになっているだろう。
私が思うのは、漫画アニメはともかくゲームはこれら二つに対して接点が少ない仲間外れではないのかということだ。この三者で一つ仲間外れをあげよという問題が出たらゲームと答える。
「オタク」という言葉とそれに伴う概念、すなわち「オタクとはなんであるかということのよりどころになる『オタク像』」を広めたのは宮崎勤だったと訊く。
しかし彼がはまっていたのはアニメと特撮であって、ゲームは入っていなかったと思う。
また電車男もオタクのイメージ伝搬に一役買っているはずだが、彼もゲームはやってないような気がする(MMOとかやってたっけ?)
まあとにかく、アニメと漫画というクラスタとしてその距離を考えるなら、ゲームよりはラノベとかフィギュア収集の方が近かろう。
ゲームっていうのは恋愛ADVという前提なんだろうな?eスポーツ勢は旧来のオタク像がしてそうなゲームとは明らかにマッチしてないし。
結婚したいカップルなんだけど諸問題があって結婚に踏み切れないのか、結婚したいとそもそも思えないのか、結婚したいけど相手がいないのか
この三者をまぜて考えてもややこしくなるとおもうのね
この人たちは、じゃあなんで結婚しないか?となると、いくつかあって、
1. ハズレの人生になりたくない=結婚で失敗したくない、から踏み切れない
がかなり大きいと思う
じゃあそれを乗り越えやすくするにはどうするか、というと、婚姻届けを伴わない疑似的な結婚生活を体験させることだと思う
具体的に自治体ができる支援としては、非婚姻関係のカップルを最大半年間無料で住ませる家を提供すること、とかどうかな?
その仕組みを、「婚姻前の同棲なんて」、って批判的にいう年配の親に宣伝しまくって理解してもらう
他の理由としては
2. お金がない
なんだけど、でも実際には自分で暮らせるだけの金がある2人が一緒に住むわけなんで、金はあるはずだ
2人で住めば家賃などはひとりあたりの負担は軽くなり、むしろ結婚は金がない人ほどすべきもののはずだ
にもかかわらず結婚するには金がない、という声がでかいというのはなぜか?というと、各々理想の結婚生活の合格ラインみたいなものを夢想していて、自分は結婚してもそれを超えられないから無意味、と信じ込んでいたり、子供ができても満足な環境を提供できないことが不安だったり、というのが「金がない」の正体なわけだ
そして相手を変えれば自分は金タダ取りできるんじゃ?って夢想があるから貧しいもの同士じゃ踏み切れない
じゃあそれを解決するにはどうするか?というと、分不相応な高望みの無双を打ち砕くことだ
これはもう、そういう姿の夫婦をじゃんじゃん露出させて宣伝し、当たり前にしていくしかなくない?
地元の貧しい子なし共働き夫婦の、日々の慎ましい暮らしを、さぞ素敵な姿、のように毎晩ドキュメンタリーで放送するんだよ
それだけで無駄なこだわり消えるよ
あとできることとしては、あからさまに結婚したほうが得、というわかりやすい経済的利点を押し出すこと
新婚限定の格安物件なんかはすでにあるけど、知らない人も多いし調べて比べないとわからないような情報なわけ
そんなのガンガンにキャンペーン出せばいいし、なんならマイカー備え付けでもいいくらいだ
そしたらそこ住むために結婚するよね、そりゃあ
つまりだ
結婚したいけど踏み切れないカップルを結婚させるにはどうするか?と考えたら、刷り込みによる意識改革と、あとは結婚したほうが圧倒的にお得な不動産を自治体が補助出してガンガン宣伝することだろうな
次
これはもう、相手さえ見つかれば、さっきの、結婚したい相手がいる人、に昇格する
無料で、メールのやり取りだけで常に知らない異性と会える環境なら、よほどじゃない限りそのうち結婚するわよね
これはもう、結婚しないでいいんじゃね?
でもま、もうちょっと踏み込むと、なんで結婚したいと思えないか?となると色々あって、
2. 仕事や趣味が充実していててその他のことにリソースを割けない
あたりで
これ解決不可能なものもあるし、不利益を強要することにもなるし、1の消極的な人以外は別にそのままでいてくれたらと思います
でも内製で失敗する方がリカバリー効きやすいし技術も業務の知見も溜まるから
やる気・政治力のない情シスと情シスのダメぶりを認識出来ない経営陣が
無邪気にSIやIT外資コンサルやITベンダーに丸投げしたらそれはそれは悲惨だぞ
『だれがいちばん悪いと思う?選手権』が定期開催されるようになるで
エンド(会社の偉い人、システム担当者、開発担当者、インフラ担当者) と SI と ベンダー(営業、営業の指示を受けたサポート)の三者間でね
なお、ITベンダーは詰めても意味ないゾ。本社の意向がすべて。日本は支社にしか過ぎぬ。従え、嫌ならやめろ
下請けで開発に従事してくれているパートナーさんらも詰めても意味ない。大抵はエンドではなくSIと契約してるし通常完成の義務は負わない
SIのSEなら逃げない?体調悪くなって別案件に逃げるかもだゾ
情シスがちゃんとプラン引いて社内調整するしかないんだね(プランが引けて社内調整出来てるならいくらでも技術支援受けていい)
しかし、それが適切に実施されているかどうかを判断するためには、経営陣にも常識的なIT知識は必要で、それがないと会社殺しかねないんだね
最近、我が老境において、喜びの種となりつつあるのは、ビックバンセオリーを眺めることでござる。
インテリ気取りのオタクの愚痴っぽい振る舞いが、滑稽さを誘い出し、わが老眼に微笑みをもたらす次第である。
シェルドンなる輩は、ひも理論の奥深さに耽溺し、しかもデニスキムの出現以来、中東問題解決と称して、何やら意味不明な提案を披露し、微妙に差別的な言葉も交えておる。
年を重ねても理解に苦しむ世の謎は尽きることなく、これが老いというものかと、我が老いびれた心に感じ入りたり。
さて、余は昔より数学の魅力に惹かれ続けてまいりました。
あまりにも純粋な数学よりも、応用数学の方が余には心地よいものでござる。
したがって、利潤を最大化させんが為に必要な推薦システムの機巧に興味を抱く次第でござる。
ユーザー、プロバイダー、システムの三者関係を形式化し、マルチステークホルダー問題として考察すれば、トレードオフの難しさが浮かび上がってくる。
システムの運用を最適化すればするほど、マッチングの機会均等性が損なわれるという難しい事態が生じる次第でござる。
この機会均等の欠如が引き起こす長期的な悪影響として、プロバイダーの離脱が挙げられる。
しかしながら、絶妙な場合では単価競争が巧みに行われ、我が利益も増進するであろう。
サービスの価値が低ければ低いほど、プロバイダー離脱の危機が高まる。
なぜなら、サービスそのものが他社と競争しており、「そんなに高いなら他のところへ行きます」との言葉が飛び交うのでござる。
故に、効用だけでなく、公平性も見逃すべからざる重要な要素となる次第でござる。
話は変わり、老齢においても脳の活性化を促す趣味を模索しておる次第でござる。
何よりも自分が楽しむことが第一であるが、たとえばチェスとヨガを比較し、どちらがボケを防ぐに効果的かを考察せざるを得まい。
多くのエビデンスが示す通り、運動は脳の活性化に寄与するものである。
まあ、美しいお尻を手に入れることを目指してみるのも悪くはないかもしれぬな。