はてなキーワード: ゲーテとは
敢えてキツいこと書くけど、
と俺は思ってるんだけど
というか、宮崎駿氏にしても坂本龍一氏にしても安易に、原発なくせ、だの「たかが電気」だの、
人類なんか滅びちゃえばいいんです、だの、コンピュータとかゲームは頭がおかしい人が作ったもんなんです、だの、
マクロスやアクエリオンの河森正治氏も地球少女アルジュナみたいなエコでロハスでスピな新興宗教のアニメ?みたいなの作っちゃうし、
例えば、オネアミスとかロケットの話だけど、やっぱり庵野氏というかガイナックスというかアニメーターなわけで、
自分のような理系の視点から見た宇宙やロケットの壮大さに対する感動とは同じようで異なっているのではないか、
つまり、彼らは理系というより文系視点というか、センス・オブ・ワンダーなところに惹かれているのであって、
一からピラミッドのレンガを積み上げるような泥臭い本当の開発現場感が、
アニメーターはアニメ制作に関しては当然あるのだろうけど、別の世界のそういう地に足のついた視点には欠けていて、
というのも、リアルな研究や開発を脚色なく描いてもドラマがないというか物語として面白くなくなる可能性がある
つまり、天才的な科学者とか理系の女性が登場したり、こんなこともあろうかとでミラクルな超兵器がいつの間にか登場したり、
実際の研究や開発は、たしかに歴史的な天才、偉人と呼ぶべき人々も存在するのだけれど、
ほとんどは凡人、サラリーマンの集合であって、地味でつまらない日々の仕事がベースになっていると自分は思っていて、
ちょっとした思いつきや閃きで壮大な宇宙艦隊戦の形勢が逆転したりとか、そんなことはありえないと思うのです
でも、リアルすぎる研究や開発、リアルすぎる戦争を描いても面白くならない
だから、ビジュアルとして美しい部分だけを切り取るのはアニメというか映像を作る側としては当然の選択なわけです
しかし、敢えてキツい言い方をするなら、アニメ作ってる人もスタジオの中に閉じ込もって、その世界しか知らないのではないか
恐れ多いのだけど、宮崎駿氏だって朝から晩までスタジオにこもってアニメを作ってる
もちろん、通勤の途中に障害のある人に出会って云々みたいな話もあった気がするのだけど、
電気なくても構わないから原発なくせみたいな主張をされても、電気なければアニメは作れない、作曲や録音もできない、
アルジュナには水中分娩の話があるらしいけど、なんの資格もない助産師が水中分娩をさせて死亡事故が起きたりしてたと思うのだけど、
そういった左翼的というか、極端な自然回帰というか、そういったエコでロハスでスピリチュアルなのに走っていってしまうのは
そういえば最近だと膣にパワーストーンだのジェムリンガだのもあったけど、膣の声に従って、仕事辞めて、孤島に集まってしまうとか、
SFというか、どちらかというとSF寄りのファンタジーを描いてる人たちってオウムみたいなのと親和性がある気がするんだよなあ
SF寄りのファンタジーって何のことを言ってるのかというと、スターウォーズ、そしてガンダムのことだったりするのだけど、
宇宙や宇宙船が登場してるけど、一方で超能力とか、それが宇宙空間で開花するとか、
こういった話はLSDとかアイソレーションタンクとかアルタード・ステーツとか、ジョン・C・リリー、ティモシー・リアリー、
それとジョン・レノンとかヒッピー、メリー・プランクターズ、フラワー・チルドレンとかサマー・オブ・ラブとか、
LSDのような幻覚剤がなにか人類の発展に寄与するのではないか、そういう時代背景だったというのもあるけど、
結局は理系の研究者でさえ幻覚剤に溺れ、なんでか自然を超常的なものとして扱うスピリチュアルな方向へ走ってしまう
人間には何か根源的にそういうところがあるのだろうか
考えてみればユナ・ボマーことセオドア・カジンスキーも天才的な数学の能力がありながら、
世捨て人のように山奥で自給自足の生活を送るようになり、しかしながら当然その生活は長く続かず、
将来的にテクノロジーが人類を破滅的に不幸にすると思ったことから、
だったら将来性がある科学者を爆弾で○せば、悲劇的な未来は回避できるんでないの?と考えたんだかどうなんだか定かでないが、
これはターミネーター2のストーリーのベースになっているが、フィクションなら面白いが、現実なら単なる爆弾魔の犯罪である
話が大幅に脱線したが、エヴァは終わっても就職氷河期が救われない、というのは言い得て妙であって、
エヴァをリアルタイムで放映していたときが就職氷河期近辺ではなかっただろうか
その時期に庵野氏は、今は飽食の時代なので心の問題を描いた、アニメではなく現実を見ろ、みたいに語っていたわけだが、
こちとら現実の就活戦線は異常ありというか悲惨な状況だったわけで、
庵野氏はエヴァを作っているとき、ちゃんとニュースとか新聞とか世相を眺めてましたか?
なんだかんだ、バブル世代の自分の価値観でアニメを作ることしか考えてなかったんじゃないですか?
と恐れ多いながらも思ってしまうのが正直なところであって
まあ、たしかに現実を見ずにアニメだとかフィクションに没入しているだけの人というのもいるのかもしれない
というか、そういう人たちに人生で出会ったこともあるが、自分がいうのもなんだが、たしかにちょっとおかしいというか、
差別的になるけど軽度の知的障害?ケーキを切れない非行少年少女?みたいなタイプも多かったし、
そういうところで昨今のDQNやヤンキーの方がアニメと親和性がある状況というのを理解できる気もする
自分で言うのもなんだが、昔は良かった話みたいになるが、
SFとかサイエンスなフィクションなわけだけど、どちらかというと理系との親和性というか、
理系からするとそのフィクションに野暮なツッコミを入れるのがネタとして話が盛り上がるというか、
自分は大学時代にみんなで誰かの家に集まって、アニメとか映画の上映会というか、
どちらかというと映像を流しっぱなしにして、各自やりたいことを黙々とやるみたいなことをやってたわけだけど、
「このディスクには地球誕生からの全てのことが記録されてます」
とか言うと、「すっげー、どういう原理だよw」みたいにツッコミを入れる奴が現れ、
その後に真面目な記録媒体の話とかネタが続いたりするという、そんな日常だったわけだけど、
多分、大阪芸術大学とか偏差値も低いし、そういう視点では観てない気がするんだよなあ
やっぱり根底にあるのはビジュアルとしてのセンス・オブ・ワンダーであって、それはチャイナさんみたいなもんであって、
電子工学科、情報工学科、機械工学科、バイオなどのオタクが集まって話すツッコミとはちょっと異なるのだと思う
まあ、ストーリーの本質は技術ではなく、結局は人間関係なわけで、
今回のケンケンとアスカではないが、そういうところにツッコミを入れるのは理系文系偏差値関係ないのだけど、
まあ、でも、やっぱりなんか違う世界に生きてるんだなあ、
当たり前だけど、恐れ多いけど、庵野氏と自分の関心の距離感みたいなのがあるとしたら、
リアルタイムでエヴァを観ていたときは近いのかと思っていたのに、
シンエヴァは未見だけど、シンゴジラ観たときでも、意外と遠いというか、同じものを見ているようで違うものを見ていたのではないか、
つまり、庵野氏と自分が同じ赤いバラを見ているのに、互いに赤いと認識しているのに、脳内の赤はまったく異なっていた、
みたいな、まあ、勝手に自分が同じような価値観を持ってるのかな、と思って勘違いしていただけなんだろうけど
そんな感じで、最近の自分はアニメやゲームへの興味が皆無になりつつあるし、
それは東日本大震災だったり、原発事故だったり、コロナだったり、自分の個人的な人生のイベントだったり色々なわけだけど、
そう考えると、シンエヴァは未見だけど、同窓会みたいなもんなんだろうかと思ったり、
自分は死んでも大学、大学院以外の同窓会には出ないと心に決めてるので、
父親が息子をモーツァルトの再来に仕立て上げるべく7歳3ヶ月だったのを6歳とした話は読んだ。そのせいでベートーヴェンは中年すぎまで自分の年齢を正確に把握できなかったとか。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』では、父親はアル中でとんでもない奴だけど根はいい奴で、自由主義者としてベートーヴェンを導く役割を果たしている。まあさすがにこれは現実ではなかったかな。なおこの漫画の中でもベートーヴェンの難聴の驚きの理由が判明している。
青木やよひ『ゲーテとベートーヴェン』には、父親が宮廷に出した手紙の書き出しが「尊敬すべきお慈悲深き大司教兼選帝侯殿下」、結びは「御足下にひれ伏し服従申し上げます」だったと書かれている。ベートーヴェンと父親の関係については、ベートーヴェンが、バッハのカンタータの未完成写譜を「父が書き写したもの」と書き込んで大切にしていた、とある。
謎の女=死
ヴェーゲラーはベートーヴェンの5歳上。ロールヘンは2歳下。ヴェーゲラーとベートーヴェンの出会いのきっかけは明らかではないらしい。ヴェーゲラーの紹介でブロイニング家に出入りするようになった。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』ではヴェーゲラーは出てこないが、ロールヘンとの出会いは本作と似ていて、いじめられてたベートーヴェンをロールヘンが助けるシーンになっていた(ただしこれがきっかけでブロイニング家に出入りするようになるわけではない)。
ここで出るか。
強さ、か。生きるための、成し遂げるための。
fffはFuto Final Forever説を信じているけど、第2場で触れた通り交響曲第7番と第8番でベートーヴェンが史上初めてfffを使ったとのこと(第7番は手元にスコアがあるので確認済み)。これは、難聴が関係していたのではないかなと邪推している。難聴の時期は高音があまり使われなくなった(=自分で聴こえる音で作っていた)らしいし。そしてほぼ聴覚を失ってからは高音が再び使われるようになった、というか、第九は演奏困難な高音であったと。そしてこれも触れた通り、第九にはfffはない(オーケストラの編成の大きさも関係してるのか?)。第九は、実際ちょっと常軌を逸した曲だと思う。聴覚がないからこそ書けた曲。第4楽章のコントラバスとかもそうだけど(これはベートーヴェンのお友達コントラバス奏者のドラゴネッティのせいか)、第3楽章。美しい理想が見えるけど、理想に近い演奏を探してみたけど出会えなかった、何年も前の話だけど。オーケストレーションに難あり、だよなと。もしくは時代がまだベートーヴェンに追いついていないのか。
実際は出入りする間に自然と啓蒙思想に触れていったのかなと想像。
なんか泣ける。朝美マジック?
あらきた。1804年12月。
謎の女「心のおともだち、ナポレオン」
んーー、第4場Bで少し構えていたけど、ここハイリゲンシュタットの遺書だったのかあ。いつの間にかハイリゲンシュタットに移動してた?劇場のままかと思っていた。時間もほんとは結構経ってる設定だったのかなあ(ナポレオンの戴冠式はあったけど、もともとの劇場の時間もふわっとしてるし、伝わるのに時差あるかなと思うし。あ、謎の女からの情報だからリアルタイムだったかな)。気が付ける要素あったかなあ。
難聴や失恋からくる衝動は救済の記憶でおさまった後(実際の遺書ではただ"芸術"が引き留めたと)、心のおともだちナポレオンが皇帝になったショックからのシーンだしなあ。
ベートーヴェン(歌)「
歌い続けろ 聴こえない カラダ
歌い続けろ カラダ カラダの そとに
歌い続けろ 中に鳴り響く音
歌い続けろ 出し尽くすまで
大きく 大きく 大きく もっと
強く 強く 強く きっと
たとえ命 たとえ魂
この体が朽ち果てても
たとえひとり 声もしない
孤独の道 ひた走ろうと」
「大きく」「強く」 3回ずつ(=fff)。
ハイリゲンシュタットの遺書から該当しそうな箇所を以下に抜いてみる。
私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た!――忍従!――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。――願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。――厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。(片山敏彦訳)
遺書の中の「難聴の苦しみ」「孤独の叫び」「自死願望」ついて参考までに抜き追加。長いけど。一部難読字は平仮名に、一部ルビ省略。
社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。
しかも人々に向かって――「もっと大きい声で話して下さい。叫んでみて下さい。私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へさらけ出しに行くことがどうして私にできようか!――何としてもそれはできない!――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。
私の脇にいる人が遠くの横笛の音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう***!
たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。
グイチャルディきましたか。1802年にピアノソナタ14番《月光》を献呈された女性。ベートーヴェン死後遺言書に書かれた有価証券と共に見つかったミニチュアの細密画に描かれていた人物。1803年に結婚してベートーヴェンとの関係は切れたと思うけど、ここも少しずらしたか。
ふむ話の流れからしてやはり初演だったっぽいけど、初演時点ではもうナポレオンへの献呈はやめてたはず。これは、ベートーヴェン→ナポレオン終始尊敬説を取ってるのか、時間軸を変えてるのか。
そしてウィーンの王侯貴族との会話の中でナポレオンを礼讃するアグレッシブな自由主義者ベートーヴェン(第3番はナポレオンへの献呈をやめるまえの題名は『ボナパルト』だったけどこれは『英雄』になってる。ボナパルトは英雄だよ、という表現か)。
ナポレオンて、いい人?ナポレオン掘り下げの予習はやや足りなかったか。
かつらをかぶらない"芸術家"爆誕。宮廷や教会に雇われずに自立して生きた最初の作曲家ベートーヴェン。
難聴。クララ・シューマンの映画『愛の調べ』(『翼ある人びと』きっかけで鑑賞)でのシューマンの病気の表現もこんな感じだった。実際にベートーヴェンの難聴が始まったのは1796年ごろ、かな。
きましたな。
ゲーテ 「不幸な人間たちが、重荷を背負って喘ぎ喘ぎ世間を渡っていき、それでも例外なく、この世の太陽の光を1分でも長く見たいと願っている」
ああ!月光がウェルテルにつけた音楽になっとる。ピアノソナタ8番《悲愴》は出てこないんか、望海氏2楽章練習してたし弾くと思ってたんだけども。
きた、なんか美しい、構図、なんたってBGMが美しいのもある。
!うつく、し、おんがく。幻想的シーン。でもこれむつかしそうだ。ごめんウェルテルたち全然見てなかった。
シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)。感情の自由と人間性の解放。ロマン主義の先触れ。小説の出版は1774年(ベートーヴェン4歳)。フランス革命より前。
謎の女=死
第2楽章もきたー、はぁ、好き。美しすぎる。
ロールヘン「美しい曲、月の光みたい」
月光ソナタの呼称はベートーヴェンの死後、ドイツの評論家、詩人のコメントに由来。
実際は先に触れたとおりちゃんと献呈している。
映画『不滅の恋/ベートーヴェン』には、難聴のベートーヴェンがピアノに耳をつけて《月光》を弾く非常に美しいシーンがある。グイチャルディとその父親がその姿を覗き見て、その後グイチャルディはベートーヴェンに近づき肩に手を置く。気が付いたベートーヴェンは怒り狂って飛び出す。ベートーヴェンの耳が聞こえていないことがわかったグイチャルディは、翌日ガレンベルク家に嫁ぐ(実際は本作で描かれた通り身分違いのためとされている)。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』は、グイチャルディに捧げるために月光ソナタを作曲しているところで、手塚氏が絶筆(実際は曲は先にあり、献呈は後付けだったとのこと)。
ふむ。ハイリゲンシュタットの遺書(1802)くるか。でももう《英雄》の初演終わってるけど。
ハイリゲンシュタットの遺書は難聴とグイチャルディとの恋愛の破綻に苦しんでる時期に書かれたらしいけど、青木やよひ氏の著書では、失恋しても特にそんなに凹んでなかったとも書かれていた。
王侯貴族の使用人にはならない、と言いつつ貴族の娘ばかり好きになるベートーヴェンね。出会いがないのか、ジュリアン・ソレル的な感じなのか、障害があると燃えるタイプなのか、潜在的に結婚すると創作の妨げになると思っていたのか。
耳が聞こえないって、この静寂か、恐ろしい、と思ったのはここだったかなあ。
【回想】
ベートーヴェンがウィーンへ出るのは1792年。ヴェーゲラーとロールヘンが結婚するのは1802年、ロールヘン30歳のころ。この時代にしては晩婚のロールヘン、実はベートーヴェンが帰ってくるのを待っていたのではないかと青木やよひ氏は推測しているらしい。
ああー、ウェルテルがピックアップされてたのは、、自殺もキーワードだったか…。
ウェルテルと同じ。
ナポレオンきたー!
か、かっこいいやん、、そしてまさかのコロナを逆手に取ってオケピ使って演出してくるとは
ベートーヴェン「タッタッタタッタタ」
「タッタッタタッタタ!」
こんなリズムあったっけ。
モーツァルトさんベートーヴェン君のこと覚えててくれてありがとう。
これは、自筆なのかな。
あ、これ一時期待ち受けに使ってたやつと多分同じ。やっぱ自筆だ。
あ、この3人ひとりひとりがfで、3人でfffてこと?
うむ。
ベートーヴェン「くらいよるーにめざめてー」
真彩さんどっかにきた!
お、史上初めてfffが使われたのは交響曲第7番だけどそこはやはり変えますね(さらにすぐ手に取れる手元のスコア2種を見る限り第九にfffは無い)。もっともっとじゃないのか。
?
ヘンデル「そうだ、この雲を、耳に入れるんだー!」
主要人物顔見せ(謎の女は声のみ)と、時代状況、難聴の原因の提示。
交響曲第3番もかっこいい(実在のベートーヴェンがすごいだけ。いやアレンジもかっこよかった)、よく動くセリと盆もかっこいい、ナポレオン軍・市民・楽団員の群舞もかっこいい。ナポレオン軍の衣装もかっこいい。ベートーヴェン、ナポレオン、ゲーテの登場もかっこいい。
https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2021/fortississimo/index.html
人並み以上にはクラシック音楽をやってた増田が、さらに結構気合を入れて改めて学習・整理して臨み、観劇した時に脳内で埋めた行間など記録。
公演開始後は一切情報を入れず(開始前も稽古場レポートは見ないようにした)、プログラムも買っていないので、場面のタイトル等の情報は記事を書くにあたりネットから拾った(ルサンク電子版だけ買っている。物理本は原則買わない主義。ルサンク以外も電子化希望)。場面の切れ目は感想の切れ目。起こしたセリフの文字遣いも脚本と違うだろう。
※ひょんなことからプログラムと紙版ルサンクが手元に。チラ見してそれぞれなるほどと思うことは多いが、今のところその内容には触れない方向でいく。ルサンクで脚本をしっかり見たの初めてだけど、面白いなあ。
(1808)
ケルビム「おつかれーさまー、じーんせーい」
これは、、タカラヅカ!しびれる
モーツァルト死去1791(35歳、ベートーヴェンの14歳上)
バッハ死去1750、ヘンデル(バッハと同い年)死去1759、テレマン(ヘンデルの4歳上)死去1767。ヘンデル30年以上、テレマンも20年以上審査待ち。
!
1793処刑
モーツァルトが亡くなる2年前にフランス革命。モーツァルトが6歳の頃アントワネット(モーツァルトの1歳上)にプロポーズしているエピソードを思い出して微笑ましいことこの上なし。そしてアントワネットは天国に行けるんだな。
資本主義…
智天使ケルブ「奢るな人間よ、ひとりの短い人生で決着のつく問題ではない。お前たちの後継者が、受け継いだ音楽をどうするか。神のお与えになった美しい音、その連なり、それを人間が何のために使うのか、最後まで見届けてから全員で連帯して裁かれるのだ」
大事な箇所なのでたくさん。
ケルブが話すときにBGMがチェンバロのバッハっぽい音楽に変わって清々しい。
偉人オンパレードすぎて大きく出たなと。市民社会創成期の芸術、自由主義という大きなテーマを持ってくるなと思っていた。(トップ娘役が謎の女であることはまだ謎。)
事前に配役を見たときに、音楽史やベートーヴェン(古典派〜ロマン派)との絡みという意味でも、
のエントリーは納得。古典派ハイドンはまだ生きているし(1809死去)。問題は、バロックからのもう1人のエントリーが、なぜバッハではなくテレマンなのかだった(しかも若手路線男役)。答えは、尊敬とか影響受けたとかじゃなかった。
しかしバッハは役としてはなくても、やっぱり名前は登場するよね!
そういえばテレマンが一番歳上(死んだ年齢も)なのに、なぜ縣さんだったんだろう。背の順?一般的なネームバリュー?
彼らももちろん配役にあり、しかも専科の重鎮。どのように絡んでくるのか、第九の歌詞に出てくるし、第九でも歌うんかな歌うまい子もいるし、と思っていた。ちがった。ケルブ様おこだった。
第九の歌詞「智天使ケルビムは神の前に立つ」。なおこの前にトートさまがいる「死の試練を受けた友」。どちらも予習時にスコア見ててたまたま見つけた。昔ドイツ語詞の下に英単語書いたりして学んでいた模様。
芸術史・音楽史の流れ、芸術という概念自体が最近のものであること。それ以前は芸術家は例えば大工と同じような職人という扱いであったこと。"art" は芸術ではなく技術を指していた。"fine art"になって芸術が誕生。アーティストではなく、アルチザンだった。
このあたりは美学史や風景画の講義で叩き込まれてきた。高校生の時に読んだ渡辺裕『聴衆の誕生』も。確か高校の国語の教科書に載ってた阿部謹也氏の文章もかな(ぐぐっても何だったかわからなかった)。暗い中椅子に座って静かーに聴くクラシックコンサートの今当たり前の風景は、ベートーヴェンよりも後、ワーグナーが始めたもの。
今回テレマンが引っかかって新たに電子書籍で購入して関係しそうな箇所だけさくっと読んでた片山杜秀『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』も役に立った。
ピースがはまって大変に納得感のある第1場。
フランス革命が起こった年、ベートーヴェンは19歳(ナポレオン20歳、ゲーテ 40歳)。神から王侯貴族のものになった音楽を、彼はどうするのか(それはそのまま現在まで続いている)。それは如何にして起こったか。ケルブ様のご機嫌はなおるのか、テレマン・ヘンデル・モーツァルトは天国へ行けるのか。
パクリ元→ https://anond.hatelabo.jp/20210212080317
だって楽しそうだったから...(自分は文学的な教育は受けてないし、誰かと読んだ本の感想を共有することなんてないので、元増田に文学サークルとか友人とか出てくるのがうらやましい)
ネタバレありだけど、ちゃんと確認せず書いてるので記憶違いがあるかも。あと、後半になると全然読んでなかったわ。
オデュッセウスがトロイ戦争から帰る途中で船が難破して右往左往頑張るのを眺めるお話なのだけど、勇敢で直情的な普通のおっさんなので苦労するところは苦労してて良い。あと、イリアスと比べても昔の神話らしく出てくる人物とか神様の類がガチで理不尽なので良い。話がズレるけど、イリアスにはディオメデスというやつが主人公然として出ずっぱりなのだけど、オデュッセイアの回想には全く出てこないし、アガメムノンとかアイアスとかと違って他の作者の物語にも出てこないのだけど、あいつなんなん?
途中で読むのをやめた記憶がある。
エディプスコンプレックス(父親に対向心を燃やし、母親に恋慕する、的なやつ)の語源だと聞いて読んだら、全然そういうノリの話じゃなくて「へぇ」ってなったやつ。オイディプス自身は預かり知らぬところで運命に弄ばれて、最後にはすべてを理解してしまって絶望する可哀想な話なのだけど、どうでもよいことで人を殺したことがトリガーでもある(それも運命ではあるのだけど)ので、自業自得感もある。気楽に人を殺してはだめ、絶対。シェイクスピアの悲劇とかもだけど、「100%落ち度がない悲劇の被害者」ってあんまり昔の物語には出てこないね。
タイトルすら知らないやつ、その1
いまいち印象に残ってないけど、なんかずっと酒を楽しんでて幸せそうだなって思ったような気がする。
地獄編の半分くらいまで読んだ。作者(ダンテ)が古代の詩人だか哲学者だかに褒められて地獄めぐりを導いてもらうところから始まって、自分の嫌いなやつ(政敵とか批判者)が地獄で苦しんでるのを巡ってはひたすら口汚く罵って回るという、その性格の悪さというか根暗さに嫌気がさして読むのをやめた。原文だと詩的というか言語的な美しさとかあるらしいけど、こちとら娯楽としてしか本は読まないので日本語で読むからそんなん知らん、こいつは陰湿。
確か冒頭に「酒でも飲みつつゲラゲラ笑いながら聞くためのもんだから」みたいな説明が入るのだけど、そんな感じ。すごいでかい巨人の話だけど、家を椅子にしたと思ったら小便で洪水を起こして家を押し流したりするので、巨人としてのサイズも大概統一性がないんだったはず。なんか「人間の絆」だったかで、大真面目なキャラがラブレーを手放さなかった、みたいな描写があった気がするのだけど、ニュアンスがわかるようなわからんような...と思った記憶がある。
シェイクスピア作品は、意図はどうあれよく「様々な作品の元祖とも言えるものなので、読むと後続の作品がより楽しめる」的に紹介されるのだけど、普通に単体で楽しめると思う。そもそも、別作品を読んでて「あ、これシェイクスピアで見たやつだ!」ってなったからって楽しいか?という感覚が個人的にはある。ひとつ上にラブレー云々も別に良い要素だと思わなかったし。で、ハムレットはシェイクスピアの戯曲の中でも登場人物の精神性の完成度が一番高いと思っていて、劇的さでは「オセロー」とか、キャラクターの鮮烈さでは「リチャード三世」とかには劣るかもしれないけど、舞台装置としてのキャラクターではなく、"異なる価値観、教育etc...の元に自分で考えて行動する登場人物たちがつくる物語"としての面白さが本当に高いと思う。歴史的価値とかは忘れろ、楽しめ。
パルケエスパーニャにいた。
巻末の解説すら読まないことが多いので、アイルランド云々の話をパクリ元で見て「そうだったんだー」ってなった。それぞれの国には短編小説くらいの分量しか滞在しないので、それぞれ短編SFとか的なノリで読んで面白かった記憶がある。自分は自然科学系の研究者なので、科学なき探求(無為)をひたすらやってる国の印象が強い。なんかおまじない的なやつで作物の収穫量が増えるのでは?ってそれを試してるんだけど、当たり前に効果はまったくないし、それを評価するというプロセスが存在しないので無限に無為を繰り返してた。
タイトルすら知らないやつ、その2。
「目玉の話」は読んだけど、その結果として「悪徳の栄え」は読まなくて良いかな。ってなったやつ。
最強天才のファウスト博士が悪魔と契約して、「悪魔の力で楽しませてやる代わりに、人生楽しみきって満足したら魂もらうからな」って契約をする話なのだけど、すべての学問を修めた最強天才のはずのファウスト博士は普通に精神的に未熟なおっさんなので、酒飲んで暴れたり恋愛ごとやったり神話的な体験したりと色々していくなかでの言動がいちいち子供じみてるのが面白い。最後の理想国家のために働く的なパートでいきなり聖人的になってたり、全体の流れが説教臭いのが多少鼻につくのだけど、ラストシーンの迫力は自分の読書歴の中でトップクラスだと思う。ちなみにこの作品は「時よ止まれ、お前は美しい」って言葉の元祖なのだけど、これってファウスト博士からの「この世界を楽しみ尽くして満足した。これ以上の瞬間などこれ以降はありえない(だからもう魂を持っていって良いよ)」という悪魔への宣言で、なんかラブロマンス的なシーンで使われてるの見ると、「ん?」てなるんよね。
「面白かったな」という感想を持った記憶はあるのに内容はまったく思い出せない。なんか年上美人と若者が恋愛する話だったと思う。多分登場人物が本気で生きてる感があって各シーンは面白いって読めたけど、全体の流れにはさほどの興味が持てなかったタイプの話だと思う。
うだつの上がらない貧乏役人のおじさんが一念発起して外套を新しく買うのだけど、可哀想な目にあう。っていう胸糞の悪い類の話。どこかユーモラスなので面白がりつつも、「可哀想じゃんヒドイよ!」って思いながら読んだ。みじめな人間をみじめな人間の視点で描ききるって案外すごいことだと思う。でもゴーゴリのナンセンス小説ならもっとポップな「鼻」のほうが好きだし、大真面目な雰囲気でナンセンスをやっている感のある「死せる魂」も良い。死せる魂は未完だけど、なんだかんだ一つのエピソードがちゃんと完結してるので、未完だからって敬遠しないで良いと思うよ。
タイトルとあらすじを知ってて、なので読んでいない。
主人公の女性の半生記的なところがある物語なのだけど、主要登場人物であるキャサリン(主人公)やヒースクリフの主観的感情があまり描写されない(まったくされない?)ので、なんかヒステリックで意味不明な言動のキャサリンと内心が読み取れないヒースクリフが読者を置いてけぼりにしながらすごく力強くて迫力があって得体のしれない物語を作っていく話だったと思う。主観的情報がないからこそ感じられるキャラクターたちの感情の力強さってなんかあるよね。
クジラに関する雑学(どう考えてもガセのものがある)がしょっちゅうはいってくるクジラ漁船の物語(体感で全体の3割)。エイハブ船長とクイークエグのキャラクターの良さを傍観者主人公の視点で楽しむ感じだった気がする。ラストシーンの映像的な迫力は「ファウスト」のラストシーンの迫力にも匹敵するものがあると思う。文章の映像的迫力ってなんよ?って自分も思うけど、なんかそういうのはあるんだ。多分。
間違えなく読んでるし、面白かったと思った記憶もあるけど内容が思い出せないやつその2。多分、貴族の恋愛ものってジャンルはいろんな作品があるので、自分の中でごっちゃになってるところがあるんだと思う。あらすじを読むとなんとなく思い出すのだけど...
ディズニーの映画って、ノートルダムの鐘とかを筆頭にとんでもなく改変されてるもんだけど、不思議の国のアリスについては、その「不思議の国」感は素敵に映像化されてると思う。一方で、原作の「ひねくれイギリス人が伝わるかどうかは無視してそのアイロニーを子供にぶつけてる感」はなくなってるので、そういうひねくれたおっさんのノリのために読んでみても良いと思う。
ドストエフスキーはノイローゼ(死語)患者の独白を描かせると人類史最強だと思っているのだけど、この作品でも割とそういうところがある。ノイローゼ感のヤバさだけなら地下室の手記とか白夜でも良い。でも個人的には「罪と罰」の主人公の単純なノイローゼ患者ではないせめぎあい感が一番好き。
由緒ある一家が没落していくんだけど、正常化バイアスなのかなんなのかどこか他人事で、お母さんなんて特に事が進む毎に悲しんではいるんだけど、一切その精神性が変わらなくて(成長しなくて)、「多分この人死ぬまでこうなんだろうな...」感があってすごい。ラストにお年寄りの使用人に対する家族全員に関するシーンがあるのだけど、それがすごい印象的で、チェーホフの他の作品や戯曲を抑えてこれが良く代表作として出てくるのはこのシーンのせいだな、って個人的には思ってる。自分はチェーホフは戯曲より小説のほうが好き。
5冊だか6冊だかにのうちの一冊目だけ読んで続きを読んでなかった。忘れてたわ。
読んだけどあんまり好きになれなかった記憶がある。カフカは基本的にキャラクターに人間味がないのが面白いところなのだと思っているんだけど、「変身」とかの短編ならともかく、「城」とかこれくらいの分量になると、人間味のないお話は自分には楽しめないのだな、と思った。
読んでないけど、なぜかあらすじは知ってる。
読んでない。「ダブリン市民」があまり楽しめなかったという記憶があって手を出していない。ダブリン市民はどんな話だったか覚えてない。
結核患者の療養施設であるところのサナトリウムで生活するおっさんの話。ワナビー小説家だか学者だか(主人公ではない)のエピソードや、立派な紳士とその子供の印象的な挿話があったかと思うと主人公と別の患者の哲学かなにかの論争がてんやわんやあったり、女性患者との恋愛未満関係の話があったりと色々な要素がある。ただ、どの部分でも人物の精神性についてバリエーション豊かで不思議なリアリティのあるキャラクターが独特な言動をするので楽しめた。でも、突然こっくりさんをはじめたときは「作者どうした?」って思ったよ。なんなら今でも思ってるよ。
タイトルすら知らないやつその4にして作者名も知らないやつその2。
タイトルすら知らないやつその5にして作者名も知らないやつその3。自分は1900年あたりを境に新しい作品に苦手意識があってあんまり読んでないんだなって実感する。
このへんはすごい現代的なんだけど結構好き。現代的というのは勝手な自分の定義なのだけど、この辺の世代になるとやっぱり文章が少なからず技巧的になって、観念的な表現とか比喩とかが増えてくるので、「うるせぇ、自分の感情はもっとわかりやすく説明しろ!」って要求をしたくなるのだった。でもこの話は割とそれでもなんだかんだ心理がわかるので楽しめた。
このお話はすごい好き。南北戦争前の南部(黒人がバリバリ奴隷として使われてる時代・地域)のある町にトマス・サトペンというヤバげなおっさんがやってきて領地を開拓し、南北戦争を挟みつつ色々する話なのだけど、時系列で出来事を追っかけずに何人かの周囲の人達の回想などでだんだんとそのおっさんの人生の全体像を見せてくる構造になっていて、ただのヤバげなチンピラおっさんだったサトペンが、相応の過去と野望をもったクソチンピラになっていく(自分の中で)のがすごい迫力満点で面白かった。この作者の有名どころの読みにくさは、「響きと怒り」>「アブロサム、アブロサム!」>「八月の光」なので、この逆順に読むのがおすすめ、短編集から読むのも良いけど、「ウォッシュ」だけは「アブロサム、アブロサム!」のネタバレだから後に回すのがおすすめ。
タイトルすら知らないやつその6にして作者名も知らないやつその4
そこまで好きにはなれなかった。説教臭さとも違うなんか面倒臭い思想みたいなものが全体に漂ってる感じで、個人的にはそれが鼻に付いたんだろうなぁって思う。
読もうと思ってたけど読んでなかったのを思い出した。読もう。
なんか意味がありそうで(少なくとも自分が考える限りは)何も意味がないという、意味ありげさで成り立っている戯曲。ただ、それぞれのシーンが映像としてかなり印象的なので、その力でのめり込みながら読んた。で、読んだあと思い返すんだけど、結局何がなんだったのかイマイチわからないのだった。偉そうなご主人様とその奴隷のシーンとかあったけど、結局なんだったんだあいつら。
タイトルすら知らないやつその7にして作者名も知らないやつその5
読んだはずだけどちょっと印象が薄い。同じ作者の「愛人」がそうだったと思うのだけど、登場人物の心情描写が変に淡々としていて、でも行動はどこか直情的で不思議だなぁと思いながら読んだ気がする。その不思議さを楽しむのかな。なんか村上春樹の小説の登場人物の行動を感情的にしたような感じ。
タイトルすら知らないやつその8にして作者名も知らないやつその6。自然科学の研究者なのにSFは全然読まないのだった。でも、SFに興味のない研究者って外部の人が思うよりは多いと思うよ。そもそも本を読まない人をおいておいたとしても。
ラテンアメリカの文学って魔術的リアリズムとかなんとかって、「なんかありそうにない魔術的なシーンだけど、不思議とリアリティがある」みたいな評価がされてるらしいのだけど、それってヨーロッパ人の感性で日本人はヨーロッパ文学も大概魔術的なものとして受容してるところあるよなって思う。ただ、それはともかくとして、この作者の作品ではその言葉がしっくりくるとは思う。同じ作者の「族長の秋」とか短編の「エレンディラ」とかは割とお話全体のストーリーが意味と(場合によっては)ある種の寓意を持っているのだけど、この作品だけは全体の流れとかはあまり意味ないんじゃないかと個人的に思う(何度も読めばなにか見えるのかもだけど...)。それぞれのシーンをただただ楽しんでいたら、読む前に覚悟した長さの4分の1くらいの体感長さで読みきっていた。
タイトルすら知らないやつその9にして作者名も知らないやつその7。なんかすごそうなあらすじだね。
詩はたしなまないから知らない。ツエランはなんか親が読んでて好きだと言ってた気がする。ブレイクって多分宗教画を描く人でもあると思うんだけど、この人の絵はどっかで見てすごいなぁって思った気がする。
ちなみに、「哲学・思想」のパートと「日本文学」のパートは両方合わせても5~6作品しか読んでなかった。多分後30年経ってもさほど増えないだろうなと思う。
「イリアス」は捕虜の奴隷女の配分をめぐった交渉がこじれた結果、勇者が拗ねて戦場に出ず、味方がどんどん死ぬところからスタートするので、昨今の倫理観からは問題があり、神話初心者にはこっちをお勧めしたい。「オデュッセイア」も家で待っている妻を忘れてよその女のところで数年過ごすが、まあ魔法をかけられていたということでこっちのほうがマシだ。舞台もあちこち移動するから飽きないし。
ユニークなのは、劇中劇的にオデュッセウスが時間をさかのぼって事件の進展を語る箇所があることで、ホメロスの時代にはすでに出来事が起きた通りに語る手法が飽きられ始めていたのかな、と想像できる。
実は「ラーマーヤナ」とある共通点があるが読んでみてのお楽しみ。
聖書はなんせ二千年前以上の宗教書だから、原典に当たる前に基本的な出来事の流れと時代背景や当時の常識を理解していないと読解が難しい。当時のユダヤ民族の偏見も混じっているし。加えて、ところどころ立法全書的に当時の習慣や禁忌を延々述べる箇所があり、通読はさすがにできてない。新約聖書だけは何とか意地で読破した。
ところで、どうして「創世記」だけを取り上げたのだろう。たとえば物語として盛り上がるのは「十戒」の「出エジプト記」だ。「ハムナプトラ」とかでエジプトが悪役になるのは大体これのせい。いきなりこれにチャレンジするのなら、手塚治虫の聖書物語のほうがいいかもしれない。
犯人探しが不幸を呼ぶことから嫌ミス的な要素もあるし、ギリシア神話の「不幸な運命を避けるために必死になって行動した結果、結局その運命を呼び寄せてしまう」というアイロニーが大好きな自分としては、その典型例なので好物だ(予言を鵜呑みにした結果ドツボにはまる「マクベス」も好き)。
これが面白かったら、アイスキュロスの「オレステイア三部作」もおすすめしたい。何世代にもわたる恨みの念が恵みの女神として祀られることで鎮められるというモチーフは、異国のものとは思えない。
一般教養で唐詩の授業を取ったので岩波文庫でぱらぱらとめくった覚えがある。なにぶん昔のことなので記憶は曖昧なのだが、はっきり覚えているのが王梵志の「我昔未生時」で、天帝に生まれる前の時代の安らぎを返してくれるように願う詩だ。当時は反出生主義が哲学・思想界隈でここまでホットなトピックになるとは予想してはいなかった。
酔っ払いの詩。酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞーという内容。著者は文学者であっただけでなく天文学者・数学者としても知られるが(三次方程式を解いた実績がある)、ここで展開されている詩はひたすら現世の美しさとはかなさをうたったもので、酔っ払いは世の東西を問わず、というところか。イスラム世界の厳格なイメージをひっくり返してくれるので面白い。ガラン版のアラビアンナイトや高野秀行の「イスラム飲酒紀行」とあわせてどうぞ。
フィレンツェを追放されたダンテが苦しみの中生み出したキリスト教最高峰の文学のはずだけれど、とにかく気に食わない政敵を地獄でめちゃくちゃな責め苦に合わせているところを面白がる下世話な楽しみ方ができる。地獄にいる人物は聖書やギリシア神話、歴史上の人物も多く、ヨーロッパの歴史や文学をざっくり知っているとダンテがどれだけやりたい放題やったかがわかるので愉快。
ただし、地獄編の続きの煉獄編・天国編はキリスト教哲学をかじっていないと結構しんどく、しかも風景が山あり谷ありの地獄と比べてひたすら恵みの光が明るくなっていくだけなので、絵的に面白いのは地獄のほうだ。
ついでに、ヒロインがかつて片思いをしていたベアトリーチェという女性なので、ベアトリーチェの美しさを歌う箇所も下世話な目線で楽しめる。妻帯者の癖に未練たらたら。
未読。後述のラテンアメリカ文学とかジョイスとかは読んだんだが、そこに出てくる過剰なものや糞尿譚も結構楽しんだので、いつかは読みたいと思っている。
四大悲劇と「ロミオとジュリエット」はざっくりと読んでおくと、いまにも受け継がれているネタが結構あることがわかって楽しいし、意外と下ネタのオンパレードなので当時のイギリス人に親しみを持つことができる。ついでに上記のうち二作は黒澤明の映画の元ネタでもある。
興味深いのは、劇中劇というかメタフィクションが必然性を持って登場することだ(父を殺した叔父の目の前で、その殺人の場面そっくりの劇を演じて動揺させるシーン)。すごく先進的だ。かっこいいぞシェイクスピア。
基本的には正気を失ったおじさんが繰り広げるドタバタ劇で、下巻では著名になったドン・キホーテをからかう公爵夫妻までも出てくる。これだけだと精神を病んだ人をおちょくる悪趣味な書物だとしか思えないのだが(というか最初は時代遅れの騎士道精神を批判するために書かれた)、昨今はドン・キホーテに同情的な解釈が主流。最近テリー・ギリアムが映画化した。
自分が道を踏み外した元凶。誰だこんな子供を人間嫌いにする本を児童書の棚に並べたのは。クレヨンしんちゃんを夕方アニメにするレベルの蛮勇だ。四部作だが、最後の馬の国では人間という存在の醜悪さをこれでもかと暴き立てており、おかげさまですっかり自分は人間嫌いで偏屈な人になってしまった。作者の女嫌いの影響を受けなくて本当に良かった。
とはいえ、当時のアイルランド支配はこれほどまでの告発の書を書かせるほどひどかった、ということは知っておきたい。
夏目漱石「吾輩は猫である」に出てくる。基本的にはふざけた話であり、著者が自分の誕生から一生を語り起こそうとするがなかなか著者自身が誕生せず、しかも物語の進捗が遅いせいで半年ごとに本を出す約束なのにこのままでは永遠に現在の自分に追いつかない、みたいな語りで笑わせてくる。挙句の果てに著者が途中でフランス旅行に出かけてしまう。英文学というジャンルがまだ黎明期なのに、こんな愉快なのが出てくる懐の深さよ。
だが、これだけふざけているのに、登場人物の一人がうっとうしい蝿を「この世の中にはおれとおまえと両方を入れる余地はあるはずだ」といって逃がしてやるシーンはいい。
未読。「毛皮を着たヴィーナス」と「眼球譚」は読んだんだが。バタイユどんだけおしっこフェチなんだよ。自分もお尻とかブルマーとか競泳水着が好きだから笑わないけどさ。
個人的にはとても好き。人生できっと何かを成し遂げられるはずという万能感ある思春期に読みたい。主人公の行為は決して褒められたものではない。様々な悪事を働き、幼い少女を妊娠させたうえ捨ててしまう。このシーンのせいで、もしかしたら二十一世紀には読み継がれない古典になってしまうかもしれない。しかし、主人公が最後にたどり着いた境地の尊さの価値は失われることはないと信じている。現世で最も美しい瞬間とは何か、あらゆる物質的な快楽を手に入れた主人公が見つけた答えを読んでほしい。後半はギリシア神話を知らないとつらいかもしれないが、そのためにギリシア神話入門を読む値打ちはある。
未読。同著者の「赤と黒」は貧乏な青年がひたすらのしあがろうとする話で、あまりピンとこなかったのだが、文学サークルの友人から最近来たメールに「訳者を変えて再読したら面白かった」と書いてあった。
さえないかわいそうなおじさんが好きなので好き。ロシア文学というものは、名前がややこしいうえに同じ人物が様々に呼ばれるので敬遠されがちなのだが(イワンが何の説明もなくワーニャと呼ばれるなど)、登場人物をメモしたり、ロシア人名の愛称の一覧を頼りにしたりして飛び込んでほしい。このハードルさえ超えれば最高の読書体験が待っていることは保証する。ロシア文学はいいぞ。
ポーは大好きなんだけどどうしてこれを代表作に選んだのかはよくわからない。個人的には王道の「黒猫」とか「アッシャー家の崩壊」とかを最初に読むのがいいと思う。中学生の頃、狂気や暗鬱さにどっぷり浸っていた頃に読んだのだが楽しかったし、作中の詩が今でも世界で一番好きな詩のひとつだ。ちなみに、東京創元社のポー全集には、ポーのユーモア作品もいくつか収録されており、意外な顔を知ることができる。もっとも、今読んで面白いジョークかどうかまでは保証しないが、こじらせ文学少年・文学少女としては必読か。
最高の昼ドラにして非モテ文学。俺は愛されずに育った、俺は永遠に誰からも愛されない、だから他人の幸福を破壊してもいい、的な気分に一度もでもなった人は何としても読んでほしい。
映画「マチルダ」の中で児童書に飽きた天才少女がこれを読もうとする場面があるんだけど、これ小学生が読む本じゃないだろ。単純に難しいのではなく、とにかく話が脱線しまくる。まともにストーリーが進まずに、著者自身のクジラに関するうんちくが延々と続く箇所もある。雑学隙の自分は楽しく読んだが。
敵のクジラを殺してやろうとするエイハブ船長の狂気についていけるかどうか。
自分が人妻萌えを発症した元凶の一つであり、世界文学初のカーセックスシーンがあることでも知られている(自動車ではなく馬車でだが)。ストーリーは夢見がちな女性が夫に幻滅して若い男やチャラ男と浮気し、サラ金から借金を重ねて自殺するという「闇金ウシジマくん」的なノリ。妻の浮気を知ったさえないボヴァリー氏の哀れな反応は必見。自分が寝とられ文学が好きになってしまった元凶の一つ。
https://istnsks2.muragon.com/entry/570.html
宝塚歌劇 雪組 トップコンビ 望海風斗・真彩希帆 退団公演 上田久美子脚本演出 fff
ポスターのコピーが「やるならやってみろ、運命よ」であり、宝塚クラスタは少し沸いた
(ちなみにまだ見てないしコロナで観劇やめたしネットの感想等もまだ見ないようにしている状態)
これ、自分もベートーヴェンの交響曲第5番の「運命はこのように戸を叩く」的な話から上田久美子氏が創作したコピーかと思っていたのだが、
青木やよひ氏の著作を読んでびっくりした。『ゲーテとベートーヴェン』p.193(平凡社新書、hontoにて電子書籍で購入)
つまりは、ハイリゲンシュタットの遺書よりも、交響曲第5番よりも後に実際にベートーヴェンが書き散らしていた言葉であった。ありがとう。よろしくお願いします。
数年前のAppleのハードウェアエンジニアが今はとにかく使っていない領域が電力を消費しないように頑張ってる(パワーゲーティング)っていう動画を見て、単純に消費電力をさげるためなのかなって思ってた。
Apple M1が出てきてL1キャッシュが異常に大きいという記事を見かけた。IPCに関係するのかどうかまでは詳しくないので言及はしない。
Appleはとにかく愚直に10年以上の歳月ととんでもない投資額と世界中から優秀な人材をかき集めて素晴らしいモノを産み出した。
Apple M1の高性能の理由について、ネットはクソみたいな解説記事に溢れている。
技術に明るいはずのはてなーですら某AVライターの間違いだらけの記事に釣られて、300ブクマ超が集まっていて嘆かわしい。
それもこれも後藤センセーがいつまでたっても解説記事を書いてくれないせいではあるが、公開情報が少なすぎるせいでまともなライターほど記事を書けないのも理解できる。
違います。
そもそもM1はDRAMをSoC化/ワンチップ化していません。M1がやっているのはSiP(System in Package、複数チップをワンパッケージに組み込む)であって、eDRAMによるSoCとは全く異なるものです。
SiPとSoCはJavaとJavascriptくらいには違います。
違います。
HBM系のメモリを採用していたらメモリ帯域は大幅に向上しますが、M1は標準DDR系メモリをワンパッケージ化しているだけなので、帯域もレイテンシも変わりません。
帯域はM1 MBPとIntel MBP(Ice Lake)でチャネル数同じ、前者はLPDDR4X-4266、後者はLPDDR4X-3733なのでメモリ帯域は14%しか向上していません。また、x86/x64最新世代のTiger Lake/ReniorはLPDDR4X-4266に対応しています。レイテンシはM1が96.8ns、Tiger Lakeが98.4nsでほぼ同等です。
Apple M1の実力を最新世代のIntel/AMD CPUと比較。M1が両者を大きく上回る結果ににあるように、SiP化によって消費電力の削減は期待できます。
違います。
SoC-DRAM間がマザーボード上で30cmあったとしても、電気信号の伝送にかかる時間は片道1nsです。仮にSiP化で物理的距離が1/100になったとしてもレイテンシ100usが98.02usになるだけで、CPUにとってDRAMが絶望的に遠いことに変わりありません。
違います。
まず、同一チップ上のCPUとGPUが同一のメモリーコントローラ/DRAMを共有するという意味では、Intelは2011年のSandy Bridge、AMDも2011年のLlanoからUMAです。一歩進んだメモリ空間の共有、コヒーレンシの確保という意味でも、AMDは2014年のKaveriから対応していて、この点においてM1に革新性はありません。
違います。
上記のSandy Bridge、Llanoの世代からかつてのノースブリッジがCPUに取り込まれたため、2011年以降のモバイルPC向け”CPU”のほぼ全てにはGPU/メモリーコントローラが含まれています。
かつてのサウスブリッジはIntelは今でもワンチップ化こそしていませんが、2013年のHaswellからMCMでワンパッケージ内には収められています。AMDは2014年のCarrizoからサウスブリッジ機能もCPUに取り込まれています。
この意味で、x86/x64のモバイルPC向け”CPU”は、かなり以前からSoCです。
違います。
NPUを活かせるアプリケーションは2020年現在では未だ限定的です。もしNPUの有無によってUXが決定的に改善されるなら、NPUありのSnapdargon 8cxを積むSurface Pro Xは同世代のSurface Pro 7よりずっと快適でなければなりませんが、そのような事実はありません。
違います。
CISC/RISCの論争は20年以上前に終わった話です。その後CISCはRISCの美点、RISCはCISCの美点を取り入れたので、現代のCPUはISAがCISCか/RISCかだけで性能が決定されることはありません。
歴史的経緯からx86/x64のデコーダが複雑になりがちなのは事実ですが、5W以下のローパワープロセッサの開発へ向かうIntelにあるように、ISAの差による消費電力増は10~20%のレンジで、さらに性能増によって相殺される分、電力効率の差としてはわずかです。
頑張って最適化してIPC上げたのと、スマホ由来の積極的なDVFS・クロックゲーティング・パワーゲーティングで浮いた消費電力を回しているからです。
気が向いたら書きます。
まず、この作品は未来少年と言いながら、主人公は中年の髭を生やした船長であった。
彼は歳の大きく離れた美少女に恋をしたが、現代の日本において児童婚は違法であり、またそのような恋が実るはずもない。
最終回「大円団」で彼は潔くJSを諦め、姉さん女房、肝っ玉母さん、「私はあなたのママです」な成人女性と結婚する。
古くはミイラ取りがミイラになり、現代ではゾンビハンターがゾンビになるのである。
歴史上有名なロリコンといえば、古くはナボコフのロリータ、ゲーテの晩年の失恋、少女と結婚したが金を持ち逃げされたゴーギャンが思い浮かぶ。
しかし、未来少年コナンの作者は、そんな幻想は捨てろ、目を覚ませ、成人女性を恋愛対象としろ、と作品で熱く訴えかけてくるのである。
これは作者の実体験に基づいているのではないか、そう思えるぐらいの説得力であった。
中年や老人がJSに恋をしてもJSとの恋愛が成就するはずがないのである。
JSはただ足の指の力が異常に強いDSと駆け落ちして村を出ていくだけなのである。
我々老人はJSを遠くから眺めながら、嫌々JavaScriptを書き、ゴロ寝して任天堂DSで遊ぶのである。
そう考えるだけで未来少年コナンを観るのがつらくなるのである。
未来少年コナンの代わりに名探偵コナンを観ても、非実在のロリババアに恋をするのでよろしくないのである。
フランク・フラゼッタの画集を観ながら、おっぱい!おっぱい!と悶えるべきなのである。
勿論タイトルは釣りで、カフカは全世界に影響を与えたユダヤ人かつオーストリア(チェコ)人なわけですけど。
独文学というとカフカ、カフカというと独文学。そんな感じですよね、実際のところ独(語)文学においてはトーマス・マンとかゲーテとか他にも様々な著名な作家がいるわけですけれど、カフカはその研究テーマとしては比較的ポピュラーな御仁であります。ユダヤ人の家庭に生まれ、生地である現在のチェコ=プラハの言語に依らずドイツ語にて創作を目指したカフカの、ミステリアスな人間性はその作品群に対しても同様に、謎めいたベールを投げ掛けています。
カフカの文学をお読みになられたことはございますでしょうか。まあ僕もそれほど熱心な読者とは言えないかもしれないのですが、とりあえず『変身』・『城』・『審判』のほか幾つか著名な短編を読ませて頂きました。まあカフカの作品の特徴は、感情的な部分を敢えて抑制するところにあります。勿論十分に感傷的な部分を持った短編とかも散見されるのですが、基本的に、感情の伝達、あるいはその伝達の手段としての文学というものをカフカはあまり信頼していなかったのではないかとも思われるのです。というのは、基本的に作中人物達は様々な問題に取り囲まれていることが多いのですが、弱音を吐くことがあまりなく、ついでに言えば仮にその感情というものが滲み出るにしても、基本的にそれはレトリックや暗喩といった形によって示されるので、はっきりとした感情というものが作中に表れるということは稀なんですね。この辺に、カフカの抑制的な人格と、コミュニケーションそれ自体に対するカフカの立場というものが表れているように思われます。カフカは基本的にコミュニケーションというものを信用しておらず、また、コミュニケーションを通して自分自身の人生をくつろげるものに変える努力に関しても、冷ややかな見方をしてきたように思われるのです。
コミュニケーションという営みは人間と基本的に切り離せないもので、人間はそれを用いて自分の人生や他人の人生をコントロールしようとします。しかし、そのような一般的なコミュニケーションの立場と、カフカのコミュニケーションに対する立場は明らかに違うように思われます。とはいえ、カフカの立たされていた環境を考えれば、我々が用いるようなコミュニケーションのあり方と、カフカにおけるコミュニケーションのあり方との乖離は、さして驚くべきものではないでしょう。
つまり、カフカはユダヤ人でありかつオーストリア人でありかつチェコ人と呼べる極めて国家や国民性というアイデンティティが複雑に錯綜した人物であったからです。これはカフカ研究においては極めて一般的な基礎知識ですが、カフカは現在のチェコに当たる地域で生まれたにも関わらず、その日常においてはチェコの土着言語を用いずにドイツ語を用いました。また、当然のことながら創作においてもドイツ語を用いておりました。チェコで生まれながらにしてチェコ語を使うことを許されない――つまり、カフカは自身の持つ言語によってさえ一種の疎外を受けていたと言えるわけです。超基本です。
カフカにとってコミュニケーションとは――なかんづく、コミュニケーションを根本的に支える言語というものは――自身の人生をリラックスさせ、他者との間に健全なコミュニケーションを成立させる、我々における言語のあり方とは少しばかり違うものだったということです。カフカは生まれながらにして一種の異邦人であった、ということですね。この「異邦人」という記述はもはや陳腐な言い方なのでしょうが、しかしやはりこの視点はカフカを理解する上では切っても切れない重要な点となります。カフカはそのアイデンティティの複雑さ故に、生粋の異邦人でありましたし、そして彼が用いる言語やレトリックは基本的に、一種の生存戦略だったのです。要は、植民地支配を受けた国家の国民が土着言語を用いず宗主国の言語を用いるのに近い、生存戦略の一環として言語を用いる生活を送ることが、彼の人生においては定められていたのです。我々にとって言語と人格は複雑に結びつき、そして、自身の人格や感情を表す際に、極めて重要な役割を演じます。恐らく、この世界におけるほぼ100%近い人類が、言語に対してそれと同じ感覚を抱いていることでしょう。しかしカフカにおいてはそれは事実ではありません。
カフカの作品群において、カフカは言葉によって感情を語ることはありません。カフカが語る感情は、物語の構成に依存しているか、ないしは物語中における舞台装置によって、つまりは暗喩によってのみ語られることとなります。その、感情表現の大いなる欠落が、カフカの文章における特徴ですらあるのです。あるいは、それは仏教における「見立て」の感覚に近いかもしれません。つまりは、一種の擬似的な曼荼羅と言いましょうか、物事や物質をある特定の配置に並べ変えることで、何らかの物質を超えたメッセージを贈ろうとする試み。枯山水が現実の自然を表すように、カフカはある種の機械や道具立てによってのみ自身の感情を説明しようとし、翻って言うならば、カフカは直接的な表現によって感情を説明しようとなどしなかったのです。感情の欠落。
この「感情の欠落」が文学の特徴であることは明らかにカフカが作り上げた文学の一潮流と言えると思います。後年の作家であるトーマス・マンの文学においても、感情や内省と言うべき人間の心のあり方が、敢えて描かれない抑制的な文体の影を見ることができるように思われます。感情とはなんなのでしょうか? コミュニケーションや言語は、我々にとって慰めと言えるものなのでしょうか? カフカはそれに対して否と答えます。言語は、必ずしも我々に結びついていない。同時に、言語を基底として成り立っているコミュニケーションもまた、我々に属していない。我々は、根本的に言語によってコミュニケーションを取ることができない。
しかしそのコミュニケーションへの失望が結論ではないのです。何故ならカフカは、コミュニケーションに失望をしていてさえなお、小説をものしたのですから。
何故カフカは文学を書いたのでしょうか? 文学は自己表現である、という一般的な見方と、カフカの文学的なあり方には乖離があるように思えてなりません。カフカにおいては寧ろ、文学は自己から自己への感情の乖離です。いわば自己の自己に対する乖離そのものです。
そのような営みは、恐らくカフカの人間性に淀みを与えているようにさえ思えます。自己の自己に対する分離、乖離を通して、恐らく彼の感情も一部彼から乖離し、分離していたからです。そのような営みが、彼にとって一体何だったのか? それは我々には想像するほかありません。短絡的に考えれば、その営みは、その乖離と分離の営みは、単純な自己破壊的行為であったと断じれるかもしれません。自己から自己を分離し、乖離させることは、明らかに自己にとって好影響を及ぼす行為ではないからです。とは言え、彼の行為は本当にその自己破壊を目的にしていたのでしょうか? あるいは、世の人々が芸術家や小説家に対してしばしば言うように、彼は文学というものを用いて、彼の生命と生活の痕跡を世界に残そうとしたのでしょうか? それも、疑わしいと僕には思われます。つまり、カフカの文学はコミュニケーションに対する諦観なのですから。そこには、コミュニケーションや言語に対する深い諦めの影の姿を見て取るほかないのです。
結論から言えば、カフカが文章を書いていたのは、恐らく乖離を目的とした、逃避行動だったと言えるでしょう。そして同時に、彼は自己から自己を乖離させることによって、一般論的に自己省察を深めようとしたのでしょう。敢えて、自己から自己を分離させることによって、自己を省察可能な対象として対置する行為が、彼の文学の目的の一部だったと言えるでしょう。
このような記述は文学における一般論の範疇を出たものではなく、彼の人生や文学の目的は未だもって謎に包まれています。カフカに限らず、一部の文学者は、そして小説家は、コミュニケーションの媒体である文字や言語を用いながらに、コミュニケーションを諦めているのであり、つまりは何かを伝えようとしながらに、我々に対して何も伝えようとなどしていないのです。あるいは、最終的には彼らのような小説家の目的は、一言によって表せられるのかもしれません。
『BADDAY』『星逢一夜』『金色の砂漠』と進んできたけどなんかしっくりこなかった因数分解したい。
『金色の砂漠』は最初花乃さんが明日海さんに(もうそれぞれの役名忘れた)死罪を言い渡すのがしっくりきてなくて、友人に話すうちにしっくり答えが見つかって、ああやっぱすごいなあと思ったから。
それから、『fff』に向けてという意味もある。上田久美子氏のクラシック音楽に材をとったものは、もしかして自分受け付けないんじゃないか、いやいやいや、せっかくだから受け付けるようにしておきたい、みたいな?
『金色の砂漠』を見たあとに、改めて上田久美子氏についてグーグル先生に尋ねたところ、宝塚への見方(昭和なことしててすごい、この文化は途絶えさせてはいけない)、東京と労働への考え(東京砂漠という表現と稼いで使ってという燃費の悪さ)が自分と同じで驚いた。そして単純計算して、自分の1つ年下か、ということも弾き出した。出身大学もまあ、親戚みたいなもんだ(言い過ぎか)。
ブラームスのイメージは、昔友人が言っていた「俺らの大学の気質に合ってるんだよ、クララにひそかに恋しちゃったりしてじとじとしてるところが。あと真面目。交響曲こだわりすぎて4曲しか作れなかった。」「交響曲第4番ほんともうスコアの見た目からして美しい(確か。ベートーヴェンの5番と共にこの2曲を挙げてた)」。
それから、ビジュアルイメージも完全に髭面のそれだった。若いときのやつあんまり記憶になかった。
自分の携帯に入ってる唯一の交響曲が、ヴァントのブラームス交響曲3番だった(あ、最近幻想交響曲入れたんだった)(ヴァントにこだわりがあるわけではない。Kugouの中で選んだ)。交響曲1番、4番はメジャーすぎ(というか主張が強いのかな、メロディラインというか)、2番は自分にとって手垢が付きすぎているため。
あ、あと、暗くてじとじと、とはいえ、交響曲1番1楽章とか激しい。
まあとにかく、やっぱ気質なのか、あとはミュールフェルトのおかげか、自分にとっては1馬身出てる作曲家。
シューマンは、交響曲4番(のVnソロ笑)。あと『子供の情景』の<知らない国々>だ。自分の体験としては夢々しい、というイメージ。だけど、これも別の友人が言っていた、シューマンを聞きだしたら、闇落ちしていることに気がつく、と。
ヨハネス・ブラームス、クララ・シューマン、ロベルト・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒム
知ってる人らだからと油断していたら名前わからなくなった罠。ヨハネス、クララ、ロベルト、ヨーゼフ。
ヨーゼフは、フランツ・ヨーゼフ1世と混ざる…。
【】翼ある人びと
1838年:『子供の情景 Op.15』『クライスレリアーナ Op.16』
1841年:シューマン『交響曲第1番 Op.38』。シューマン交響曲第4番初演するもイマイチ(メンデルスゾーン体調不良によりフェルティナンド・ダーヴィトが指揮)、出版されず。
1846年:長男エミール誕生【秋音光】。シューマン『交響曲第2番 Op.61』
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1853年(ブラームス20歳、クララ34歳、シューマン45歳、ヨアヒム22歳、リスト42歳、ワーグナー40歳、フランツ・ヨーゼフ1世23歳)
10月:いっぱい滞在。初旬にシューマンが『ヴァイオリン協奏曲 d』を作曲するもヨアヒムが封印(21世紀に入り、ワーグナーを先取りしたような斬新な和声の使用などの先見性が評価されるようになった)。
秋頃(それ以前という説もあり):『ヴァイオリンソナタ』シューマンは出版を提案するもブラームスの判断で破棄
11月:シューマンのもとに『ピアノソナタ3番 Op.5』の譜面が送られている
12月17日:『ピアノソナタ第1番 Op.1』初演@ライプツィヒゲヴァントハウス。シューマンの紹介でブライトコプフから出版、ヨーゼフ・ヨアヒムへ献呈。シューマンは当初別の作品を作品1として出版することを提案していた。
12月30日:シューマン『交響曲第4番(改訂版)Op.120』初演(現在一般的に演奏されるのはこれ。翌年出版はするがあまりハネなかった模様)
2月27日:シューマン投身、エンデニヒの精神病院へ。ブラームスデュッセルドルフへ駆けつけ、シューマン家を助ける。クララとの距離近づく。
春?:『ハンガリー民謡の主題による14の変奏曲 Op.21-2』
6月:四男(末子)フェリックス誕生【次男、花菱りず】。ブラームスが名付け親。ブラームスの子供説あり。ロベルトによく似ていてクララもとても可愛がる。
夏:『4つのバラード Op.10』この曲集の作曲とほぼ同時期にクララへの生涯にわたる愛が始まっている。
1855年:クララを手紙の中で「君」と表現。『2つのガヴォット』『2つのジーグ』『2つのサラバンド』『ベートーヴェンピアコン4番のカデンツァ』『格言(この欺瞞の世界で)』。交響曲第1番着想(シューマンの『マンフレッド序曲』を聞いて)。
1856年『フーガ』『前奏曲とフーガ a』『モーツァルトピアコン20番のカデンツァ』『キリエ』『ミサ・カノニカ』
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1857年:『前奏曲とフーガ g』『子供のための14の民謡』『モーツァルトピアコン17番のカデンツァ(着手)』
1858年:25歳の時、友人の家で知り合ったアガーテ・フォン・ジーボルトと婚約。『セレナード第1番 Op.11』
1859年:結婚生活が音楽活動の制約となることを恐れて婚約破棄
1861年:『シューマンの主題による変奏曲 Op.23』ユーリエへ献呈。
1863年:エリザベート・フォン・シュトックハウゼンがブラームスに弟子として受け入れるも、ユリウス・エプシュタインに送り返している(彼女のまれにみる美貌と才能のため必要以上に惹かれてしまうことを恐れてか、エプシュタインへの配慮か)。
1867年:オーストリア=ハンガリー二重帝国誕生。戴冠式@マーチャーシュ協会のミサ曲はリストが作曲。
1869年:36歳の時、ユーリエに心を寄せるも内気ゆえいつもの癖で気持ちを打ち明けられずにいるうちにクララがイタリアのラディカーディ・ディ・マルモリートからのユーリエへの求婚を容れて婚約させてしまい、ブラームスは怒りをもって『アルト・ラプソディ(ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章)Op.53』を作曲(別のサイトの表現では、プロポーズを承諾したときににわかに不機嫌に。『アルト・ラプソディ』はユーリエへの嘆きの歌)。
1876年:『交響曲第1番 Op.68』21年の歳月をかけ完成。
1876or7年 *43歳:「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころには地位はなく、いまでは遅すぎる」と友人に語った
1879年:フェリックス病没。悲しみにくれるクララを慰めるため、ブラームスは『ヴァイオリン・ソナタ第1番<雨の歌>Op.78』を作曲。クララ「この曲を天国に持って帰りたい」。また同時期にフェリックスの詩に付曲(Op.86-5)。
1883or4年 *50歳:コントラアルト歌手ヘルミーネ・シュピース(23歳年下)に出会い歌唱力の素晴らしさと女性としての魅力に惹かれるが結婚にまでは踏み切れず。
1889年:フランツ・ヨーゼフ1世から「芸術と科学のための金の大勲章」を授かる。暮れに謁見。シューマン交響曲第4番初稿版を再演(クララは改訂版派だった)
1890or1年 *57歳:コントラアルト歌手バルビと出会って音楽家としての魅力に惹かれる。
1891年:『クラリネットクインテット Op.115』@バート・イシュル夏。シューマン交響曲第4番ブラームスヴェルナー校訂版出版、世に知られるようになる。
1893年:『シューマン全集』刊行(ブラームスとクララで編纂)
5月07日:『4つの厳粛な歌 Op.121』完成。辞世の作品とみなされている。
5月20日:クララ没(76歳)。埋葬式のあと体が衰弱し、肝臓癌であることがわかる。
6月:『11のコラール前奏曲 Op.122』@イシュル。第11曲「おお、この世よ、われ去らねばならず」。作品を書き終えたブラームスの健康は日に日に衰えていく。医者の治療を受けても病状は一向によくならず。
1937年:シューマンの『ヴァイオリン協奏曲 d』がヨアヒムの蔵書から発見される
※出典:ウィキペディアとか奇特な方のブログとかブラームスインスティテュートとか、、余力があれば追記…。
あと書籍類もぼちぼち読んでいきたい
あと映画も
プリパラの神回で打線組んでみたwww(アイドルタイム、プリチャンは無いよ)
https://imasoku.com/pripara-lineup/
で組むにあたって縛りルールを。
・最終話とその手前の回は除外
これしなきゃそこら辺で大体埋まりそうなので。1,4期の最終話付近なんて神回しかないでしょ???個人的に4期2クール目はほぼ神回よ。
なお当方クソザコナメクジの為見直せてないです。その為若干怪しい箇所あるんですが大目に見てください。オールシーズンBOXを見返す時間がない……。
「この回ねーじゃねーか!!」はコメント欄にでも書いてってくれ。
・1 中 第7話 つぶやきにご用心
ネットの情報に振り回されると目の前にある一番大切なことに気付けなくなる話や。
初期の傑作かついちあお回だから本作品の初心者に勧める際は「とりあえずここまで見てくれ」って言ってるで。
この一件から何か伝えたいときは手紙にしたためる様になった説をワイは推す。
・2 右 第147話 輝きのルミナス
自分を信じて努力し続けていれば絶対誰かに認められるって話や。見てる人はちゃんと見てるんやね…ひなき頑張ったなぁ;;
ひなきを気遣っていつものノリで絡んでくる珠璃がもーーーーほんま!!!お前そういうとこやぞ!!!!!!!!!!
いつもの調子で「どうしたの?!ひなき!!」じゃなく自分から喋ってくれるのを待ってるのが…暑苦しいのは変わらんが。でひなきが口を開くとちゃんと黙って聞いてるし……こういう関係、やっぱ昔馴染みは違うわ~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!
この経験があってのスターライトクイーンカップや。最後の最後であかりちゃんに逆転負けしてクイーンの座を逃したんやね。その時目をにじませながら「すっごく悔しいぜ!」って言ったんやな。なんだよ…ちゃんと言えたじゃねえか(FFXV)。
彼女はそういうとこあんま見せないっていうか、割とひとりで抱え込んじゃうタイプだと思うんや。実際珠璃にだけそういうの話してるし。それがよ、最後の挨拶のとこで"悔しい"という率直な気持ちを吐き出せたんや…なんやろな、そういうのちゃんと言えるのも成長だと思うねん。頭の中で「しょうがない」「相手が上だった」「あかりちゃんおめでとう」となあなあで終わらせるんじゃなくて、ちゃんと素直な気持ちを口に出すことで心に刻むというか…この経験が来年のクイーン戦に繋がるというかな。がんばれひなき、ワイはお前を見守っとるで!!!(2回目)
間違いなく「アイカツ!」という作品を象徴する神回や(あかジェネだとひなきが一番好きなので多少贔屓してますがそれ抜きでも好きな回です)。
まどかのサプライズから始まり、今までさんざん彼女に弄ばれた黒沢凛ちゃんが彼女のためにサプライズし返すんやで。
「お前は彼氏かなにかか?」と思わずツッコミたくなるくらいのイケメンムーブに刮目するんや。あまりのイケメンっぷりに性別問わず凛ちゃんの女になった視聴者も多いはず。まぁ凛ちゃんの女はまどか一人だけなんやけどなブヘヘヘヘ。え、スミレ?本命はあかりちゃんでしょ(激論になるためこの話はスルー)(スミ凛も好き)。
ただ正直Bパート最初のライブ見るくだり、ちょいテンポ悪いからもーちょい詰めてまど凛パート増やしてほしかったわ。まぁそのあとの畳みかけで瀕死になるんやがな。
「私のアツいアイドル活動!"アイカツ!"始まります!!」←まさにこれや。アイカツ!第二章の始まりや。
かつて美月さんのステージを見てアイドルを志したいちごが、その"憧れ"になった瞬間なんや。
・5 一 第37話 太陽に向かって
今更語るまでもない「ソレイユ」結成回や。「大切なものは失ってから気付く」っちゅー王道を書いた話やね(???)。
先輩アイドルとして出てきたからか1期のメイン回における蘭って8割負けるんやけど、今回はマジに明確にミス+挫折するという…出てきた当初はウルトラセクシージャパンビューティ笑わぬ女神美しき刃(霧矢命名)だったのに…蘭自身能力が低いわけではないが周りが化け物でそのプレッシャーと知らない間にいちごとあおい姐さんの存在が大きくなってたからか。
「光が多いところでは、影も強くなる」とはゲーテの言葉やが、二人から離れたことでどんどん影も大きくなったんやな…ただそこは神崎美月、見逃してない。目に見えてダウンしてる蘭の背中を押して合流させたんや!
"ソレイユ"としての初ステージ後の蘭の笑顔に涙が止まらないんや…彼女もいちごたちと出会って変われた一人だから…よかったなぁ…ほんとによかった…ルームメイトが退学してから一匹狼貫いてた蘭が……これからは三人ずっと一緒や!!(蘭のルームメイト云々の話って何話だっけ)
どーでもいいけど事後処理はどうしたんやろな。まぁあの世界って"悪意"がないからどっかの某プリズムアニメみたいに罵声や空き缶が飛んでくることもないやろ。安心やな!!
高橋ナツコと双璧をなす綾奈ゆにこ屈指の神脚本回や。巷では合コン回とか言われとるがその実本編に関わる重要なユニット決めやトライスターのその後、ユリカ様の葛藤やかえでの決意とかなり本筋に関わる重要回や。一度にこれだけの未解決問題を解消したゆにこの手腕は確かや!脚本担当してる「きんいろモザイク」も見てくれよな!!
この回以降かえでとユリカ様の組み合わせが爆発的に増加したちまち人気ユニットの仲間入りを果たしたんや。正直「いちご渡米を姐さんにバラしたアイドル」でしかなかったくらい存在を持て余してた一ノ瀬かえでに明確な芯と道を与えてくれたゆにこには感謝しかない。
個人的には自分から「セイラ(いちご)ちゃんがいいんじゃない?」って背中押したのにあっさりそうだねーって返されて若干困惑してるあおい姐さんときいちゃんが好きやね、なに残念がっとんねんって。いや理由は分かるけども。
神崎美月はやっぱ最強やな!と思わず再評価する回でもある。あの時アイドルを志したのはいちごだけじゃないんやな、どれほど影響力あるんや美月さん…SHINING LINE*強過ぎやろ…。
マスカレードにあこがれた美月さん。美月さんにあこがれたいちご。いちごにあこがれたあかりちゃん。そして美月さんにあこがれたリサや。このクライマックス突入してる174話で美月さんに回帰するのもいいんやね、まほプリ最終回で仲良くいちごメロンパン食べてる幼女二人に在りし日の自分たちを重ねたことを思い出すわ。一本の線が回りまわって自分の手元に戻ってくるというか。
一人の女の子がアイドルを目指す、新しい物語の始まりを感じずにはいられない良回やね。頑張ったけどあんま順位伸びなくて終わるのもGOOD。ののリサ主役で追加2クールやってクレメンス。
一度は入学試験に落ち、補習目的のアイカツブートキャンプ送りになり、スペシャルアピールが出せない…と、周りと比べて"持たざる者"だったあかりちゃんが壁を乗り越える回や。
今では憧れのアイドルの横に並ぶくらい立派に成長した彼女の下積み時代を描いた超貴重回であり、これがあっての3期あかりちゃんやね。
自分が三つ葉なら薔薇の花びらを一枚付け足して四つ葉にすればええんや。この真っ赤なバラがあかりちゃんのハートや!!
あとまぁ百合豚的には1期最終話で姐さんがいちごに宛てた手紙の中身が判明するのも要チェックやね。最初の一か月ぐらいはソワソワしてたんやろな。
・9 投 第16・17話 ドッキドキ!! スペシャルライブ PART1/PART2
「新人だと言えば大目に見てくれるかも知れない。でも、本当にそれでいいの?」この言葉を胸に日々を過ごしていきたいやね。
ちょこちょこ壁にぶつかっては乗り越えてきたいちごを待ち受ける、はるかに巨大な壁。トップとの差をまざまざと痛感したんや。
そんないちごを応援するあお蘭おとめにそれを近くで見守るジョニー先生があったかいんや……;; アイカツ!という作品は人の想いで出来てるんやなぁ…。
新人にも容赦なく要求してくるのは信頼してる証であり、一人で降りられなくなった階段から降ろしてもらいたい願い…はもう少し先の話。
ちなみに劇中で美月さんは4回アピールを披露したが原作のDCDでは3回しか出せないので正真正銘トップアイドル神崎美月しか出せないんや。やっぱり美月さんは凄い!!(テンプレ)(マスカレードも出せるのかな?)
さすがゲーテッドだ何ともないぜ