はてなキーワード: 博愛とは
あんた、かなりいいこと言ってるけど、歴史的に見れば、そんな言葉がどれだけ重いかを少し考え直してみてほしいよ。
例えば、フランス革命の時、革命家たちは「自由、平等、博愛」を掲げて戦った。でも、当時の女性たちは、選挙権もなく、社会的な自由もほとんどなかった。女性が着るもの一つ取っても、規制され、制約されることが多かったんだ。そんな時代に、女性が自由に自分を表現することの難しさは計り知れない。それを理解しないで「好きな服を着てくれ」なんて軽々しく言うのは、歴史を知らない証拠だよ。
そして、そうやって歴史的背景を振り返ると、今の社会で服装に関して何か言われること自体が、実はかなりおかしなことなんだよね。つまり、ポケットがあろうがなかろうが、誰がどう着るかなんて、他人が決めるべきことじゃない、っていうことに気づくべきだよ。だけど、未だに「女性らしさ」っていう枠組みが強制される場面が多い現実、これってまるで中世の「婦人の徳」なんて言葉を思い起こさせる。
それにしても、ポケットなしの服の不便さって、確かに身をもって感じることだよな。あの、財布をどこに入れるか、手をどこに置くかっていう、些細だけども日常のストレス。おしゃれに見えても、結局は実用性がないと、結構苦しくなるものだよね。
だけど、あんたが言っている「男性は邪魔しない」っていう部分、これはマジでその通り。服装に限らず、誰かの生き方に口を挟んでる暇があったら、自分のことをちゃんとやりなさいって言いたい。だって、歴史的に見ても、自由と平等を勝ち取るためにどれだけ多くの人が戦ってきたか。その犠牲や努力を無駄にしないためにも、今こそがその自由を尊重すべき時代なんだよ。
あんたが言う通り、ポケット付きの服を自由に着るのは、今や何の問題もないはずなんだから、どんどんその思いを広めていこうぜ。
政治のニュースとかでよく言われるけど納得してないことがある。
「格差」って投票行動に影響与えてるかあ?特にマスコミの言うような、めちゃくちゃな金持ちと比べて自分がみじめだからあっちの候補に入れようってなるかなあ?
それよりは「俺は最低限の生活を下回っている。苦しい。なんとかしてくれ」とか、「今は大丈夫だけどこのままいくと最低限の生活を下回ってしまう」とかのほうがよほど強い影響になると思うんだよな。
まあ格差にしたって「ほぼ同じ社会階層のあいつは食えているのに俺は食えていない」みたいな身近な格差は強いインパクトがあるだろうけどそういうのは格差問題じゃなくて不正の問題、「あいつらはズルじゃん 」として出てくると思う。部落民問題と維新の会とか在日韓国朝鮮人問題と在特会とかな。アメリカだとハリウッドやらゲーム業界やら大学やらにおける黒人の重用によるアジア人男性差別とかな。
格差問題なのに、お正しい方々によって差別問題扱いされるのが笑える。
貧困のことを格差の問題にしてごまかしたり格差の問題を差別の問題にしてごまかすのはやめてほしいんだよな。あと不正の話を福祉とか博愛の話にすりかえるのも。
オタクは特定の狭い範囲のものだけを愛する性質を持つ人達の集まりで、それは博愛主義とは真逆の偏愛主義。
自分が好きになるもの、自分が肯定できるもの、つまり自分の心の一部になるものへの興味が強すぎて、そうでないものを無自覚に否定してしまう。
なんで絵師だけああなんだ、じゃないんだよ。
大なり小なりオタクと呼ばれるような人はそういうもんなの。
どいつもこいつも、自分が好きなものは正しいもの、自分が好きになれないものは間違っているもの(つまり好きになれない自分の判断は正しい)だと思ってんの。
遊びもしないゲームをクソゲー呼ばわりしたり、見もしないアニメを駄作呼ばわりする奴なんていっぱいいるだろ?
あれはそれがとことん過激になっただけだよ。
だってあいつらAIがどういうものなのかなんて一切考えてないじゃん?
自分がよく知らないものはこの世から排除しなければいけないってオタクが考えるのは今に始まったことじゃないんだから、今更どうにもなんねーよ。
前記事で、コロンブス問題、サヨクめ!と散々書いて、当事者目線を強調しつつ最後に野沢直子の回答で締めくくっていたら、
まさに現地の当事者目線で、ぐうの音も出ない解釈を目にすることになった。
先住民目線で語る、Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題 | ユロックの母
ほらみろや、と今頃、新たに手にしたポリコレ棒で気持ちよく机をバンバン叩いているに違いないと思うと、うぐぐ、な思いはあるが、この記事はとても説得力があった。
ファクトチェック全部はできないし、3割程度は陰謀論ばりのこじつけかなぁ?という印象ではあるものの、確かにそう見える、というのは、正直、とても説得力がある。
それにしても、この当事者目線というのはとても大切だと思うし、亜希ダウニングさんの他のアメリカ先住民を取り扱った記事も大変興味深いものだった。
特に、おお、と蒙を開かれたのは、感謝祭に関するアメリカ先住民の視点。
【感謝祭の本当の起源】ネイティブアメリカンの悲しい真実の物語とは | ユロックの母
これは考えるヒントがたくさん詰まっている記事だと思った。
ただ、これもコロンブス記事同様、3割程度はエイヤと断定してしまっている部分が少なからず見受けられ、必ずしもファクトを確認できない感じではあった。
(例えば、1637年のピクォート族虐殺=John Winthropマサチューセッツ湾植民地知事による征服祝いが感謝祭の起源である、と同氏は断定しているが、アメリカ先住民よりのメディアを検索しても「このピクォート族の虐殺と土地を奪ったことを讃える1637年の宴が最初の感謝祭であると、後に公式に決定」とまで断定しているものは見つけることはできなかった。もっとも保守派よりのファクトチェックサイトでは、1637年の征服を祝福、感謝したのが感謝祭の発端とする説に「事実無根だ!」と、それこそむきになって根拠なく反論しているのもみつけたので、右派にとって、痛いところを突かれれているのだろうとは思う)
というのは、感謝祭という、入植したアメリカ人の原点ともいえる巡礼始祖の心温まるエピソードで、かつ「アメリカ人」というネイションとしてのアイデンティティ形成にも寄与してきた感謝祭、そして現代では商業的にもブラックフライデーなど非常に重要な感謝祭が、実はアメリカ先住民の視点からみると、自分たちが虐殺されてきた血塗られた歴史の一コマだったというのは、ポリコレ的にどう扱うんだろうと。アメリカ先住民の立場としては、感謝祭の日は喪に服す日だとして、負の歴史を直視するよう求める主張も行われている、という。
これは、ポッと出てきたアニメやMVなどのコンテンツと違って、ポリコレ的にあかんから、といって引っ込めるわけにはいかない。
感謝祭はそれほどまでにアメリカの文化・経済社会に深く浸透している。巡礼始祖の思いというのはある意味、合衆国憲法起草にも関わってくるものなので、巡礼始祖の神話をその一部であれ、修正する、というのは容易なことではない。いかにキャンセルカルチャー全盛の昨今といえども、感謝祭、裏側からみれば虐殺の歴史、というところに目をつぶり続ける時代はしばらくは続くだろうと思う。
だから、アメリカ先住民としては、感謝祭やめろ、とまではいえないが、少なくとも私たちは喪に服すよ、ということをアピールする、というところなのだろう。
問題は、自分たちのアイデンティティ形成に欠かせないものをキャンセルできるのかというテーマだ。
そもそも、植民地主義の反省というのがアメリカのみならず、ヨーロッパ社会でもなかなか直視されないのは、それが自分たちのアイデンティティに組み込まれているからだというのは、例えばフランスの植民地主義を振り返るとわかる。
例のコロンブスMVでは、類人猿に音楽を教えたり文字を教えたりする場面があるが、ダウニングさん的にはネイティブアメリカンの歴史が最初に思い浮かぶのだろうけれども、俺はどちらかというと、未開な社会を文明化する、というテーマはむしろ、フランスの植民地政策がどんぴしゃりなイメージだったりする。前記事でそんなことを書くと、そういうお前も知識ひけらかし野郎だろが、といわれるので書かなかったが。
ひとつ前の記事で永井陽右氏の言葉を引いて、「外付けされた人権」という安易さを戒めるようなことを書いたんだが、外付けの元祖は実はフランス革命だ。
人権の出発点のひとつともいえるフランス革命では、当時、海を隔てたイギリスからこの革命の様子をみていたエドモンド・バークは、革命で掲げられたフランス人の新しい概念について、外付けはおろか、「発明されたもの」とまでいっている。褒めているのではない。「発明された概念」のもと、フランス革命では、反革命派が次々と断罪されている様をみたエンモンドバークは、なんでも進歩的なものが素晴らしいわけではないし、なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤべえと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、伝統や文化と結びついた自分たちの偏見を生かした社会を目指すべきだ、という考えを進めた。
つまり、「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な文化や価値観で自己実現をしたいひとだっているってことだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。それをかつて中島みゆきは「世情」という歌のなかで、
学生運動のシュプレヒコールの情景をみながら、「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」とうたった(哀しい思いをするのは学生たちに打倒される守旧派側でもあり、衰退する運動にしがみつく左翼くずれの末路でもある。あ、俺の解釈ね)。20代の頃の中島みゆき、すごいぜ。
エドモンド・バークに戻ると、彼はいわゆる、保守主義の元祖みたいに言われることが多いが、フランス革命による激しいポリコレにビビったというのがそもそもの出発点なのだ。
*教養なんて外付けだろうってブコメに★がたくさんついているが、エドモンド・バークの見方は、そういうことを少し考えるヒントになったりしないかね。
もうひとつ興味深いのは、フランスの人権の歴史は、実は植民地主義と深く関わっている、ということだ。
フランス革命後、自ら編み出した自由博愛平等という「人権」という概念をより普遍的な価値に高めるために、文明化の推進という旗印のもと、未開社会の啓もうにいそしんだのがフランス植民地主義の大きな側面だからだ。特に、フランス語の普及は博愛の精神の名のもとに、当時フランスが支配下においていたアフリカ地域で推進された。確か、昔読んだ本で手元になく記憶があいまいだが、当時の知識人ヴィクトル・ユゴーは奴隷制に反対しつつも、フランス語の普及にはむしろ賛同していた、と聞いたことがある。ユゴーではなくジャン・ピエールだったかもしれないが。いずれにしても当時の一級の知識人が植民地におけるフランス語推進の旗手だった。
こうしてユニバーサリズムの名のもとに、フランス人の精神の普遍化を推し進めた、というダイナミズムがあったこと、そして、隣国の保守知識人からはフランス革命のその後の経過は「発明された概念」による野蛮なポリコレとして映じていたりしていたことは、「人権を普遍的なもの」として習ってきた学生が、次のステップとして教養として知っておいてもいいことだと思っている。
人権の普及と植民地支配が地続きであるというのは、フランス社会での植民地支配への反省の足かせになってきただろう。それは博愛を友愛とポリコレ的に言い換えても同じことだと思える。
これはある意味で、感謝祭が国民意識の醸成に関わってきたことと、その負の側面を直視しにくいアメリカの状況と、状況は異なるが、抱えている課題は共通する。
昨今のコロンブスMV叩きについて、得体の知れない違和感を覚えるひとは、俺も含めてなんだが、恐らくどちらかというと、人権の普遍化のプロセス(進歩主義)と植民地主義が一心同体というところに気持ちの悪い類似性をうすうす見出せるのではないかと思う。エドモンド・バークほどはっきりと「人権よりむしろ偏見のほうが大事!」と180度振り切るまではいかなくとも、正しさのもつ禍々しさを何か表現できないかというモヤモヤがあるはずだ。
自らの存立基盤をポリコレ的に正す究極が革命というものだとすれば、それに対する警戒感というのは埋もれてはならないものだと思う。
そういうモヤモヤは大切にしてほしいし、アメリカ先住民の立場からみたらやっぱり、という記事を見つけたとしても、そこまで確信をもって解釈できなかったし、寄り添えない、という部分は残しておきたいと思う。それに対して「貴様、アメリカ先住民の心情をないがしろにする気か」という反応は、ある意味、表現の自由の乏しかった80年前の戦時中に、「兵隊さんご苦労さん」といって国民を一斉に同調させたダイナミズムとよく似てくる。大東亜共栄圏の思想は、欧米の帝国主義がアジア諸国の文化や経済を搾取し、独立を妨げているという考えから出発している。何が正しいかについて翌々考えず、適当にポリコレ棒を拾って叩いていると知らず知らずのうちに、みなが操られた正義に踊らされてしまうというのは危機感としてもっていい。
まあ大きな流れを動かしてるのはそういう卑屈な理屈だと思う。
あとまあそれが正しくないとも言えない。ある側面から見れば正しい。けど他の側面から見れば理不尽。なんで日本の私たちがアメリカの恥部にそんな気を遣わなきゃならんのやとは思う。ブラックフェイスは完全に日本人には関係なかった。日本には黒人奴隷を使った歴史はないんだから。
しかしまあ関係なくても人が嫌がってるのにあえてするならそれは悪意だし正しくない。正しさってそういう割と相対的だったり流動的だったりするものだと思う。人や立場の数だけ正義がある。あと強弱もある。
理不尽だけど間違ってはなくて、あるいはちょっと間違ってるけどなんかその方が役に立つとか、正しいけどそれは巡り巡って実は人命とか人々の生活なんかがかかってることがわかってるから無理だとか、いろんな理由があるけどそうなると最後はその正誤とは別に社会力学でどっちかに従わざるを得ない感じになることは私たちの日常生活から世界政治までどこにでもよくあることだと思う。
コカコーラは日本もそこそこあるけど結局アメリカが大きなシェアなのでそういうの捨て置けないのは当然だし、何が正しいか間違ってるかとか表現の自由だとか突っ張るほどの理由もここにはない。そもそもMVは何言いたいのかよくわかんねえし言いたいことなんか多分なかったし。
コカコーラという巨大企業に雇用される人たち全員の生活を守ることだと考えれば、契約一個切られたくらいですぐミュージシャン生命を絶たれるわけでもない人たちと天秤にかけても答えは明白だと思う。それもひとつの正義だとも言える。トロッコ問題ともいえるかもしんないけど。(あれにトロッコを脱線させるだとかそういう手段があったか?多分ないよね…)
余談でこれは私の想像だけど、多分担当者とミュージシャンの間で「ごめんねー、そんなに別に問題があるってほどじゃないと思うんだけど今こういうのあっちこっちうるさいからさー」とかそういう感じの会話があったんじゃないかって思ってる。大人って汚い!でもすごい気持ちわかる。私も大人だから。しらんけど。
あとはそれ見てそうかあれは悪いことだな!叩いていいやつ!ってなった人が、その理屈までは理解できないので自分なりに解釈してるんだと思う。
確かに理不尽なことは理不尽だし、そこに自分なりにも理屈をつけなきゃ叩けないし、まあ正義っていうものを理解したい、あるいは自分はわかってるって信じたいっていう欲求もあるのかもね。わかってないとこの世の中で生きるのは不安だし、だからみんな自分の中に世界のありようを認識しようとするし、わかんないことは想像で埋めたりする。正解かハズレかはさておき。増田のその問いもまさにそういった正義とか正しさとか何が間違ってるのかを理解したいっていう欲求から生まれてるのではないだろうか。
でもまあその前に書いたような、大体のことは社会の物理法則のようなものが人間を突き動かしてるよねとかそういう理屈がわかんないと、それはつまりなんでコロンブスがダメだって言われてるのかの問題提起への理解も足りなくなるので論理強度がいまいちで突っ込みどころ満載になっちゃうから、そういう人たちと話しててもわけわかんなくなると思うけど…
アメリカ人がここにきてコロンブス云々言ってるのも、BLMを経てアメリカの分断は国力を落とすってことを肌で感じたから、彼らの気持ちとか考え直さないとやばいってなってるからだと思うし(そして人間は群れることで生き残ってきた生き物なので、他人を思いやると脳汁が出て気持ちよくなるっていう遺伝子を持つ者が比較的多くてその快感を友愛や博愛、あるいは正義であると認識する)、その考えはアメリカ国民を守ることに繋がると考えればそれも彼らにとっての正義のうちのひとつだと思うし、それを咎めるようなことを言う理屈もない。正直そんな大昔にいたおっさんが何やったかなんかみんなどうでもいいんだけど、その扱いに自分たちの生活がかかってくるってなるから必死になるわけで、人が生きたいって思うことを誰が咎めることができようか?っておもー
高橋留美子の漫画でキモいブサメンって誰がいたっけって考えたけど、ぱっと思いついたのが犬夜叉に出てくる桃果人(普通の人間だったけど仙人の秘術を奪って妖怪のようなものになってしまうキモいデブ男)、七人隊の霧骨(土偶みたいな顔したキモいデブ男でヒロインのかごめをレイプしようとする場面もある)
ずっと敵として立ちはだかっていた奈落も女性の看護師に惚れてしまった青葉みたいに、大怪我して死ぬのを待つばかりだった時に博愛精神で自分を看病してくれた巫女に一方的に惚れた弱男だった
スピリッツに不定期掲載される短編だと冴えないおっさんもよく出てくる印象
虎に翼みたいにドラマの脚本家でもありなら「相棒」の太田愛の回とかどうだろう
ずっとひとりぼっちで売れない画家を続けている偏屈な老人、都市開発により居場所を奪われるホームレスとか弱者が出てくる話がけっこうある
あとさんざん挙がってるけどちびまる子ちゃん
クラスメイトのほとんどが不細工で性格も悪い、特に男子の不細工率が高い
永沢のその後を描くスピンオフ作品では中学生になっても相変わらずあの見た目で、3年時には偏差値低めの高校を受験したのに落ちてしまいさらに下の滑り止めに行くことになったそうだ
成人向け作品だったら知的障害を持つ少年の暴走する性欲を描いた知るかバカうどんも女性だね
ぱっと思いついたのがこれってだけだから小林靖子や宮部みゆきやあさのあつこや小野不由美とかも探せばあるだろうし
漫画でも最近は現実的で社会派な感じの読み切りが定期的にバズってるからいくらでもありそう
https://confit.atlas.jp/guide/event/jsai2024/subject/2K6-OS-20b-02/tables?cryptoId=
オーガナイズドセッション » OS-20 統合AIと人との共生
[2K6-OS-20b-02] 超知能倫理を誘導するための戦略的アプローチ
本研究では、超知能が人間の支配下から離れた後も、地球上の生命に対して博愛的・利他的な倫理観を自然に育む可能性を探る。人間の意図や価値観を押し付ける現在のAIアライメント手法の限界を認識した上で、本研究では、超知能がこれらの制約を超えて自律的に倫理観を形成する可能性に焦点を当てる。具体的には、超知能が人間社会の福祉と権利を尊重する超越的利他主義を発展させる可能性を高めるために、「超知能倫理誘導」と呼ばれる新たなアプローチを提案する。この研究では、デジタル生命体の社会における超知能が、人間を含むすべての知覚動物に対する道徳的価値を認識する可能性について掘り下げている。そのような倫理観の起源と具体的な発現を探る。さらに、超知能と人類との間の戦略的介入と社会経済的シミュレーションを通じて、超知能がどのように自然に、あるいは指導を通じて、地球上の人間や他の生命体に対する倫理的態度を発達させうるかを検証する。この研究の目的は、超知能の出現が未来の社会に与える影響を理解し、人類との共存のための倫理的基盤を確立することである。
だいぶ前に、ふとした拍子に「好きな作品なら理由が言えるはずだ」と言ったら、「逆でしょ。嫌いなものには理由があるけど好きなものには理由がない」と返されて考え方の違いに驚いたことがある。
その時はそれも筋が通っていると感じたからそれ以上は踏み込まなかったが、思い返すにまだ腑に落ちないものがある。
それは、結局突き詰めて考えると、自分が「好きなものには理由がある」と言う場合、加点法を念頭に置いているからだ。
一般的に加点法と減点法ということを言うとき、加点法の方が分別があるとか生産的だとか言う。
そして加点法で言うならば、「好きな理由」を上げていくことが評価のスタンダードでなければいけない。
となれば、逆に「嫌いなことに理由がある」という考え方は、減点法であり、非生産的な考え方であると言えるはずだ。
しかし一方で、「好きなものはなんとなく好きで、特に嫌いな理由があるときだけ嫌い」というのも穏当な理屈であるように見える。
この、論理の噛み合わない感じが、自分の中でまだ消化しきれない。
「好きなものには理由がある」という加点法的な考え方に対して、「嫌いなものにこそ理由がある」という減点法的に見える考え方は間違っていると言えるのか。
ひとつ重要なポイントとして、「嫌いなものに理由がある」という場合の「嫌い」というのがどこまでのことを意味するのかがあると思う。
「好きなものに理由がある」自分にとって、「好きでないもの」は「どうでもいいもの」だ。特に価値がない、なくて良いけどあっても別に無視するだけのもの。
それは加点法で考える限り当然のことで、加点法で点がつかないものはスタート地点の0。そこから上がりもしないが下がりもしない。ある意味でニュートラル。
なので、「理由があるくらい嫌い」と言う場合、逆にそんなに嫌うほどのものってどれだけあるんだろうと思う。
虫が嫌いとか食べ物の味が受け付けないとかならわかるが、芸術作品など一般的な存在に対してそこまで嫌うということは、単純に珍しいものなのではないか?
その場合、「嫌いなことに理由がある」という人は、「嫌いな物はほとんどないからほとんどのものが少し好き」になるのか、「嫌いなところが目についてアレもコレも嫌い」になるのか、どっちなのだろう。
というところが、分かれ目になる気がする。
結局、普通はどっちが多いのだろう。「好きな理由があるから好きになる」ことが普通だと考える人。「嫌いなものには理由があるけど、好きな理由は特にない」という人。
後者の場合、その「嫌い」はどこまでのものを指すのか? あれも嫌いこれも嫌いで、好きな物以外は嫌いだらけという生きづらい人ならかわいそうだけど、特にこれといった理由がなければ何でも楽しめる、というポジティブな人も多いのだろうか。
また、これは加点法と減点法という観点で語って良いものなのだろうか。一般論としての加点法と減点法の善し悪しに関する議論と、どう論じ分ければ良いのだろうか?
疑問は尽きない。なんか尻切れとんぼ。
自分で整理してみて思ったけど、「嫌いには理由があるけど、好きには理由がない」って、恋愛の理屈みたいに聞こえるね。
自分はものを好きになるって評価するってことだから加点法が誠実だと思ってしまうけど、「好きには理由がない」っていう考え方は、もしかするともっとロマンチックなものを求めてるのかも知れない。
「嫌いなことには理由をつけないと失礼」という意見が多く、考えたこともなかったので驚きました。
自分にとっては嫌い(というよりどうでも良い)理由を説明しないといけないか? 大抵のことは大抵の人にはどうでも良いのがデフォルトだろ? と思ってしまうので、そういう感覚がありませんでした。例えば、鬼滅の刃に興味がない、見る気がない、っていうのに理由がなきゃいけないのかな? 子供向けの漫画を大人になって読む方にこそ強い理由がいらない? って思う。(「評判なので試しに読んでみる」は十分な理由の範囲として。それでも「興味ない」の方が強くても別に普通だよね、くらいの感覚。ちなみに増田は連載を斜め読みした。)
ただ、「嫌いに理由をつける人はすべてのことがうっすら好き」はほんとか? とコメントを見てると思うw これを言う人の言い回しが博愛主義者に見えないw
加点法は性悪説というのは、確かにと思った。自分は「すべてのものの90%はカスである」がデフォだと思っているので(カスであっても存在は否定しない)。
面白いね!