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2019-10-27

anond:20191027165102

へいへい、所詮我々は下賤なアルチザンですよ

ご高説どうも

2019-09-12

新しい人に勧めるユーミン

ユーミン荒井由実/松任谷由実/呉田軽穂)は天才である。それも本物の天才である。本物の天才の対比を偽物の天才だと言いたいわけではない。それはそれで天才である時代文脈依存しても、先行者足り得るのは凡人では無理だ。しかユーミン天才はそう言うものではない。時代文脈を越えていくものだ。楽曲として、理に適っていると言ってもいい。

天才と言うと努力分析とは無縁で、「ギフト」だけで成立しているかのように捉える人もいる。天才の側も、ある意味商売ではあるから、敢えてそう言う風に言いたがる傾向もある。しかユーミン天才はまず第一アルチザンとしての、研究の上に成立している。そこから更に浮揚しているところが天才のゆえんなのだが、真似は出来なくても解説可能である彼女に限らず、ニューミュージック天才たちを扱う周辺で最も欠けているのは、アナリーゼである

それを私が出来る、と言うのではない。残念ながらそれだけの力量はない。ただ、分かって欲しいのは、「天才」と言う言葉ブラックボックス化して、そこで思考停止しないで欲しいと言うことなのだ。本物の天才は、「感性」のみに依存しなくても、圧倒的に存在し得るから本物の天才なのだ。私はここでは、本物の天才と言う言葉を、羽生善治が本物の天才だと言うのと同じ意味で用いている。

そのユーミンとしても作る曲作る曲すべてが傑作であるわけではない。ただしその傑作率の高さは異常である。それは彼女自身がほぼありとあらゆるジャンルに挑戦し、それぞれの中で珠玉の域に達しているかである。「ひこうき雲」を書いた人が「曇り雨」を書くのは分かる。「旅立つ秋」を書いた人が「地中海感傷」を書くのは分かる。しか彼女は早い段階で「ルージュの伝言」を書く人でもあり、「78」を書く人でもあった。その水準の高さ以上に驚くべきは多様性である

シンガーソングライターは、出だしの一音、一フレーズから、「いかにもさだまさし」であり「いかにも中島みゆき」であり「いかにも玉置浩二である。そう言うものなのだユーミンもまた、「いかにもユーミン」ではあるのだけど、その「いかにも」の引き出しの多いこと。さいとうたかおのようにプロダクション制なのではないかと思ってしまうほどだ。一生涯に一度、その水準の楽曲を書ければ一流だと言えるような楽曲ユーミンは百も二百も書いている。特に年2枚のアルバムを出していた頃、荒井由実から松任谷由実になってから最初の4、5年のいわゆる「不遇期」の作品は、すべてがその水準にあると言っても過言ではない。

新しい人に勧めるユーミン

ユーミン荒井由実/松任谷由実/呉田軽穂)は天才である。それも本物の天才である。本物の天才の対比を偽物の天才だと言いたいわけではない。それはそれで天才である時代文脈依存しても、先行者足り得るのは凡人では無理だ。しかユーミン天才はそう言うものではない。時代文脈を越えていくものだ。楽曲として、理に適っていると言ってもいい。

天才と言うと努力分析とは無縁で、「ギフト」だけで成立しているかのように捉える人もいる。天才の側も、ある意味商売ではあるから、敢えてそう言う風に言いたがる傾向もある。しかユーミン天才はまず第一アルチザンとしての、研究の上に成立している。そこから更に浮揚しているところが天才のゆえんなのだが、真似は出来なくても解説可能である彼女に限らず、ニューミュージック天才たちを扱う周辺で最も欠けているのは、アナリーゼである

それを私が出来る、と言うのではない。残念ながらそれだけの力量はない。ただ、分かって欲しいのは、「天才」と言う言葉ブラックボックス化して、そこで思考停止しないで欲しいと言うことなのだ。本物の天才は、「感性」のみに依存しなくても、圧倒的に存在し得るから本物の天才なのだ。私はここでは、本物の天才と言う言葉を、羽生善治が本物の天才だと言うのと同じ意味で用いている。

そのユーミンとしても作る曲作る曲すべてが傑作であるわけではない。ただしその傑作率の高さは異常である。それは彼女自身がほぼありとあらゆるジャンルに挑戦し、それぞれの中で珠玉の域に達しているかである。「ひこうき雲」を書いた人が「曇り雨」を書くのは分かる。「旅立つ秋」を書いた人が「地中海感傷」を書くのは分かる。しか彼女は早い段階で「ルージュの伝言」を書く人でもあり、「78」を書く人でもあった。その水準の高さ以上に驚くべきは多様性である

シンガーソングライターは、出だしの一音、一フレーズから、「いかにもさだまさし」であり「いかにも中島みゆき」であり「いかにも玉置浩二である。そう言うものなのだユーミンもまた、「いかにもユーミン」ではあるのだけど、その「いかにも」の引き出しの多いこと。さいとうたかおのようにプロダクション制なのではないかと思ってしまうほどだ。一生涯に一度、その水準の楽曲を書ければ一流だと言えるような楽曲ユーミンは百も二百も書いている。特に年2枚のアルバムを出していた頃、荒井由実から松任谷由実になってから最初の4、5年のいわゆる「不遇期」の作品は、すべてがその水準にあると言っても過言ではない。

2016-06-15

七輪

思い付きをここにしたためる

切り出し七輪を買ってベランダで「こねないダッチオーブンアルチザンブレッド

を作るのはどうだろうか。

七輪でハンバーグを焼くっていうのが紹介されていた。

七輪なら、煙もあまり発生しなさそう。

ベランダでもよろしいでしょう。

2012-10-29

5大天才漫画家

五大天才漫画家手塚治虫」「尾田栄一郎」「鳥山明」あと二人は?

http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4323316.html


天才定義曖昧だけど、

1.質が高い作品を複数、残している。

2.商業的に成功している。

3.エピゴーネンを多数派生させている。

4.表現技法上の革新を成している。

5.ジャンルフォーマット上の革新を成している。

を条件とした場合

手塚が入るのは当然として、赤塚は作品自体のクオリティはともかくとして革新性が弱い。

尾田は商業的にはひょっとしたら鳥山よりも成功した漫画家かも知れないが、やはり革新性に劣る。尾田はたとえるなら少年漫画界のマーガレット・ミッチェルみたいなもの。作品の訴求力と当人のクリエイターとしての革新性とは別。

鳥山天才に当てはまると思う。ギミックを詰め込んだデフォルメされながらもリアリティを持つ画風自体が衝撃的であったのと、アメコミの影響を受けて租借したうえで、日本漫画原稿和風化して落とし込むという表現技法上の革新もあった。「Dr.スランプ」は大友克洋の「AKIRA」よりも早い。言うまでもなくメガヒットを複数出している。大友をして大友的な革新性の代表として天才扱いするならば、大友的な革新性は鳥山の中に抱合することが出来、時系列的にもそれが妥当だと思う。

水木しげる天才と言うよりはアルチザン。緻密に粘着的に徹底するという程度が他者を凌駕しているのであって、漫画史全体で見れば、それほど重きを置かれるわけではない。これは水木を軽視しているのではない。作品への評価で言えば、私はむしろ水木を手塚凌駕して評価している。ただ、漫画史的な視点での評価はおのずと作品評価とは異なると言うことだ。田山花袋横光利一が作品単体では大した作品は残していないにも関わらず、文学史的な革新性において評価されるように、ここで言う天才とは、作品自体の質はもとより、その数、社会的影響力、そして革新性を備えている必要があるということだ。

そういう意味では石ノ森章太郎は、天才何人か分の重要、かつ致命的な影響を漫画史に残している。フォーマットの創始者という点においても、集団ヒーロー群像劇、そのキャラクター性格づけはもとより、マーチャンダイジング手法おいてもパイオニアと呼ぶべきである。更に重要なのは、いわゆる「オタク的」な要素の萌芽がすべて石ノ森作品の中に顕著にみられることであって、少年サンデー的な、中産階級的な趣味的なマンガすべてが石ノ森マンガに端を発しているという点である。意外と重要なのは、「日本経済入門」のような、それまで非マンガ的な要素とされていたものについてもマンガに取り込んだことで、手塚や水木の中に見られるマンガというイデオロギーを脱して、徹底的に表現手段として分解してみせるという、作家性とは別の次元の理数系的な分析マンガに持ち込んだのも石ノ森である

漫画表現の飛躍的な革新を成したという点では24年組竹宮恵子萩尾望都大島弓子山岸涼子)を挙げなければならないが、その集大成的な立場としては萩尾を挙げるべきだろう。手塚が基本フォーマットを作ったと言われる戦後マンガの基本は、映画表現いかにして紙の上に再現するかと言う視点から成り立っていた。萩尾らによってマンガは初めて独立した表現手段になったと言ってよい。マンガは文字と絵が同じ一つのコマの中にあり、吹き出しのセリフ、吹き出し抜きの内面セリフ、そして絵とそれぞれ矛盾した内容を同時に表現できる唯一の表現手段である。たとえばぶっきらぼうな少年少女に向かって毒づきながら、なおかつ画面上では頬を染めるなどをして、明らかに少女への好意を示しているような表現文学では難しい。描写ではなく説明になってしまう。更に実はそれも演技だとして、内面は実はこうすれば少女自分に対してぶっきらぼうな少年に対する好意を増すであろうとの計算があるとすれば、その内心を同時に表現するのはこれは映画等でも不可能なのである。こうしたマンガ独自の表現方法確立萩尾望都代表とするのであり、その表現手段の派生が致命的過ぎてもはやエピゴーネンとも意識されないほどの重大な影響を及ぼしていることを踏まえれば、彼女存在は、二十年、三十年のスパンではなく、百年、二百年のスパンで見るならば、手塚をもはるか凌駕する重大かつ致命的な転換点となったのであった。

手塚治虫

鳥山明

石ノ森章太郎

萩尾望都

と5人のうち4人までが選ばれたが、ここは議論の余地がないところである。つまり個々のこのみや評価の違いはあっても、漫画史の視点から言えば、偏見なく選べばこの4人は欠かせないということである。残りの一人は評価と好みの違いになるだろう。私は、

藤子・F・不二雄を挙げる。

[補足]

まあ、みなさんいろいろご意見はおありでしょうが、そもそも5人に絞るのが無理っちゃあ無理とちゃぶ台をひっくり返してみる。

「てめー、あれ読んでねえだろ」「俺はビートルズ武道館ライヴ見に行ったんだぜ」「江夏の21球も実際に見てない奴が投球論を語るな」的な反応はプロレス論の醍醐味で正しいレスポンス

レスが挙げているような御大たち、高橋留美子大友克洋白土三平水木しげる赤塚不二夫永井豪いしいひさいちつげ義春大島弓子大和和紀三原順梶原一騎吉田秋生あたりは誰が入ってもおかしくない。個人的にはいくえみ綾とかも入れたい気もするが、個人的過ぎるので止めた。

あと、尾田先生が入っているのはつりですか、みたいなことを言う人には、何といっていいものやら。

[補足の補足]

ekken さんがブコメで尾田は外せよみたいなこと言ってたんですが、私もそれはリンクを張っている元記事について言っているんだろうなって思いました。そうじゃなくてもっと直接に私に向かって「尾田先生が入っているのはつりですか」と言っている人がいたんで(消されたみたいですわ。こわっ)、書いたことで批判されるならともかくさすがに言ってもないことで揶揄されるのはやだなあと思って補足しました。ekkenさん、ご迷惑おかけしてごめんなさいね。この点をブコメで指摘してくださった方も、言ってもいないことで私が批判されるみたいな流れになるのをくぎをさしてくださったんだと思いますありがとうね。

ONE PIECE, 私も好きだけど、正直、尾田先生をもし入れるぐらいなら富樫先生を推したいの。

枠が5つしかないんだから、候補で名前が挙がるってだけでそれだけでもう本当は天才なんだけどね。

 
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