はてなキーワード: モーツァルトとは
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
人差し指と中指しか使わないから全部のキーを壊れそうなくらいダンダン打つ。
そらぁたとえモーツァルトでも大音量ならうるさく感じるだろうけど、
大音量でヘタクソなラッパの練習されてるのは耳が壊れちゃいますよ。
スタッフもあなたには頼みごとあんまりしないでしょ。頼みたくないのよ。
もう嫌だと思ってこっちが外出しようもんなら、困って電話かけてくるんだから
手に負えない。
「私は分かりません」というスタンスで自分を守っているんだろうけど、それは自分を不利な立場に追い込んでいるっていうことに気づいていないの。
というか、上司からそれをアドバイスされても、理解が出来ないの。
おまけに今も居眠りしてるし。
そんなんで会社に待遇を良くしてくれって文句だけは一人前に垂れるのよね。
そんな人を助けたいって思える人は、聖人ですよ。
少なくとも今の自分にはそう思えない。
これがないと始まらない。このご時世なんだからあって当たり前過ぎるがまずこれがないと何も始まらない。今更語る必要もないがないと全ての前提が崩れるのでまずは記載しておく。
ぶっちゃけコレ。最強。1,2週間自分がいなくなっても「じゃ。あとよろしく」で済ませられる状況に日頃から持っていけてるかどうかで休んでる間の気の持ちようが違う。これが出来てないとガンガン電話が来て寝ることもままならない。逆に出来てれば連絡も体調報告ぐらいで済むので療養期間の後半は単に外出できないだけの休日になる。
変な咳が凄い沢山出るので医者に貰った喉の薬だけだと苦しくてのたうち回ることしか出来なくなる。咳が酷すぎて血の混じった痰が普通に出る。とにかく喉スプレーを上限まで打ち込み続ける。少しでも喉の負荷を減らすために鼻の穴もスプレーで大開きにして鼻水は全部鼻から出られるようにしてやるのも重要。解熱鎮痛剤で消せるタイプの痛みじゃないので咳のケアは最優先
ウーバーイーツ派と意見は分かれる所だが、ウーバーは結局見せで調理してるオッチャンがコロナだとコロナループを食らう可能性ががあるのでまだお取り寄せグルメの方が安全だと思ってる。普通に通販で飯買うだけじゃ駄目なのって思うかもだが、まあアレだよ飽きるんだよ。業務スーパーのエリアに入ってたとしても同じ店の同じ味付けのものばっかだと絶対飽きる。だからもう割り切ってグルメを取り寄せる。つうか保存食って食い続けると本当に美味しくないね。野菜スープとか美味しく感じたの最初だけだったわ。グルメ取り寄せるカネがない奴は桃缶でも食ってろ。美味いぞ。
文字読むのもゲームやるのもダルいし仕事も勉強もする気なくなるので漫画ぐらいしか娯楽はなくなる。今は無料のWEB漫画が沢山あるからそれで時間を潰せ。ツイッターとかで「期間限定 全巻無料」とかで打ち込むと今ならゴールデンカムイとかが引っかかるからそれを読んで暮らせ。間違っても匿名SNSとかでレスバするのに時間使うなよ。病人がやるような遊びじゃねえからアレ。本当の「病人」になっちまうぞ。
4位と逆じゃね?って思うかも知れないが音楽は漫画と違って自分のペースで消費できないので体調崩しているときは思ったより疲労する。ただ漫画をずっと読んでると目が疲れてくるし、そんなときにじゃあ寝るかと寝ても寝れなくて辛いだけなので目を閉じて音楽を聞く。妥協案として音楽を聴く。そして疲れが溜まったら寝る。瞑想でいいじゃんって思う人は瞑想しててくれ。俺はモーツァルト聞くけど。
モーツァルト「.............」
たとえばギターのギュインギュインってのを「アーミング(Armstrong)」って呼ぶらしいことを最近知った。
どうもギターには棒みたいなのがついててそこを腕で思い切りグリグリすると音がフニョ~~~ンってするらしい。
俺は小中高で12年音楽を習ったし小学校時代はピアノを習っていた(右手の小指と薬指はバラバラに動くけど左手の薬指と小指は半分ぐらい繋がっている)が、全くそんなの知らなかったぞ。
1 クラシック(電子楽器とかチャラチャラしたボーカルがない)
2 ポップ(ロックだろうがメタルだろうが昭和歌謡も含めて全部コレだ)
ビートルズはロックらしいが、ビートルズっぽい歌い方をしてる日本のアニメソングがJ-PoPでいいのかロキノンなのか分からんしぶっちゃけロキノンはなにがノンなのかも分からん。
まあそれでも全く困らないと思っていた。
たとえば俺が好きな曲に「 allegro cantabile /SUEMITSU & THE SUEMITH/のだめカンタービレ OP」と「グルッポ/茶太/Like a Butler OP」があって、この2つは音楽の感じか俺の中では似てるんだが、そもそも音楽ジャンル的に似てるのか、コードが近いのか、技法が近いのか、ぶっちゃけパクリに近いのか、そういったことさえ何も分からん。
ピアノ習ってたんだろ?って言われそうだけど俺の先生はとにかくコンクールに向けて丸暗記しろ以外のことはほとんど教えてくれなかったし、俺も親の趣味に付き合っていただけで微塵も興味ないし「いや~~俺もスターウォーズとかやりってっすわ~~」といった提案さえしなかったのでマジで「鍵盤叩くと音出る!頑張って覚える!」で全部終わってたからマジで何も分からんのだ。
音感は生まれつき皆無だったし、ピアノ教室に通っている最中も「鍵盤叩けば音出るんだから俺が知ってる必要あるか?」状態だったのでこのコードはこの音階でって言われてもマジで分からん。
なまじピアノやったせいで俺の中にある音楽の感覚が「右手でピロピロしつつたまに左手でペチッペチッと別の音を出す」の世界で終わっているし、それも和音が「よくわかんねーけど必殺技」レベルの感覚で人生に強烈に残ってしまったから、和音の一部を曲の屋台骨として使っていくなんて感覚がねーんだ。
生兵法はジッサイアヤウイと古事記にも書いてあるように、俺の音楽感覚は結果として楽器に半端に触れないで暮らしてきた人間と比べて最悪な形で歪んでいるからマジで音楽が分からねえんだ。
どんな楽器にどんな音の出し方があるのか、それがどういう効果として使われているのか、クラシックの名曲でどの楽器がメインなのかも分からん。
G線上のアリアでさえそもそもああいった音が出てるのが弦楽器だと認識できずにピアノの曲だと思っていたぐらいだ。
だって弦楽器ってギターみたいにギュイーンギュイーンだと思うじゃん?
それでどうやって普段音楽聞いてんだよって言われても俺にとってはそれが当たり前なんだ。
たとえば小学生がゲームやってて「あー当たり判定の設定が見かけよりデカイけど雑に四角形で取ってんのかな・・・それならこの辺が端か~~よっしゃよっしゃ有ってるっぽい」とか「ライティングの仕方がうめーな。マシンパワー節約しつつ程よく室内感出してんわ~」とか「あのNPCの視界判定がフラグになってるからそこ迂回したら良かったわけね~~~」みたいな感じの独り言いいながらゲームしねーけど普通に遊べてんだろ?
バンドの編成とか、どんなコードとか、どこから影響受けてきてるかとか考えてなくても曲って聞けるんだよ。
昭和のおばちゃんはTVの仕組み分かってねえしハンダなんて素材も知らなくても叩くと接触不良が治る可能性があることを直感と経験で知ってるのと一緒だよ。
でもそれだとどこかで限界が来るんだよ。
もしもハンダを知ってたら中の基盤ちょっと抜いてちょっとずつグリグリして抜けてる場所見つけて付け直したら終わったような修理でも諦めて捨てるしかねーのと一緒だよ。
でもおかしくねえか?
12年あって、俺はなんでそういうの知らねえんだ?
モーツァルトの名曲は「アイネクライネナハトムジーク」でライバルとの確執が演劇や映画になってなんかめっちゃ有名になったということは知っているけど、それがどういう曲なのか思い出せねえし音楽的にどういう意味があったのかは分からないままで「モーツァルトは、天才です。ウィーンはオーストリアです。オーストラリアじゃないです」だけを機械のように答えられるようになっただけで!終わってんだよ!それが音楽を聞く人間として何の意味があるんだよ!
5chに連投コピペで貼られてたんだけど、ググっても元の文章が出てこない。
・すぎやまこういち(1931年東京都生。作曲家。日本バックギャモン協会会長)
・植松伸夫(1959年高知県生。神奈川大学外国語学部英語科を卒業後、TVCM等フリーで活躍し、1986年スクウェア入社)
(要約)
すきやま:
だんだんドラクエ関連のスケジュールだけで1年終わっちゃうみたいな有様になってきちゃって、
あんまり他のことができなくなってきてるんだよね。困ったもんだよ。
ドラクエやると、やれCDブックだアニメだときて、レコードもブラスバージョンやエレクトーンバージョンやピアノバージョンが出て、
そうなると色んな出版社がピアノ譜やエレクトーン譜を出す。そんなことやってるから1年潰れちゃうもんね。
植松:
すきやま:
どうしても大変だと思いながら、「このゲームが好きだなあ」ってことになるとついね。
植松:
まさか本当にやって頂けるとはね。言ってみるもんだなとつくづく思いましたよ(笑)
すきやま:
でも楽しかったね、あれは。FFVも大変だったね。やっと僕も上がったんですけどね。
植松君は働き者だなとつくづく思いましたよ。何曲あるの、あれ?
植松:
60近くはあるかもしれないですね。
すぎやま:
60曲あのゲームの中にあるということは、実際作った曲はその裏にもっとあるでしょう。何曲ぐらい?
植松:
1コーラス作ったという感じで言ったら100曲ぐらいいってるかもしれないですね。
すぎやま:
働き者だなあ(笑)
植松:
曲数が多いというのも一既にいいとは言えないとも思ってるんですよね。
すぎやま:
植松:
そんなでもないんですけどね、それでも10曲ぐらいは少ないかな?
すぎやま:
そうでしょ。やってる時はこの曲面白いなと思うんだけど、終わったあと覚えてる数が少ない感じがしたね。
その原因は何だろうと思ったんだけど、多すぎるというのがあるのかもしれないな。
でもやっぱりどんどん意欲が湧いて、ここはこういう曲にしちゃおう、ここはこうしようっていうのが出てきちゃうものだよね。
植松:
作ってる方としてはまだ足りないんじゃないかという気もするんですよね。完成したあとに自分でやってみますよね。
そうすると、こことここの音楽変わってないやっていうところがいくつかあるんですよ。
だから作った本人は全部曲覚えてるから別に問題ないんですけど、
自分以外の一般の人にとっては多いかなとは思ってるんですけどね。
30曲に抑えようとしたんですよ。IVのときもちょっと多いと思ったんです。
今回は絞り込んでやろうと思ってたんですけど、欲が出てしまいますね。
すぎやま:
僕も曲を絞り込むときは断腸の思いでね。切る作業が大変ですよ。
前にも言ったと思うんだけど、むこうのミュージカルなんかを見ると本当に曲数少ないんだよね。
でも植松さんのやり方でいいなと思うのは、1つの曲をシーンに応じてアレンジを変えて出すケースが多いでしょう。
植松:
すきやま:
働き者なんだよ。FFVの曲は植松さんの趣味趣向がはっきり出てるから、
それがある意味でいい個性になってていいなというのがありますね。
スコットランド民謡をはじめとして、民族音楽への傾斜というのがあるでしょ。
植松:
今回そのアイルランドのリールっぽい曲を入れたのって初めてなんですけど、あれを入れますと
ユーザーの意見なんかのハガキに「アイルランド行ってきて帰ってきたらもうこれだ」というのがあるんですよ(笑)
別にアイルランドから帰ってきて、その影響受けてやってるわけじゃないんですけど。
以前から凄く民族音楽に興味がありまして、入れたかったんですけどファミコンのときとかって難しいじゃないですか。
すぎやま:
ちょっとやりにくいよね。
植松:
いつかやってやろうと思ってたんですけど、あんまり興味本位で民族音楽好きだから
入れるというのも安っぽく見えてイヤかなと思ったんですけどね。
先日、すぎやま先生がうちの職場にいらした時にお話ししたんですけど、今トルコ音楽を習いに行ってまして、
すぎやま:
植松:
日本人だったら日本の音楽ルーツとして民謡とかがあるはずだと思ってるんですよ。
日本に昔からある音楽が自分の血の中にあるはずだって自分では思ってるんですけど、
一度「雅楽(古来の宮廷音楽の総称)」の“ひちりき”(雅楽用の竹製の管楽器)を習いに行ったことがあるんです。
そうすると自分の中に流れている血というよりも、逆にそれがすごく新しい、
ブライアン・イーノのシンセサイザーの音楽に近い印象があったんですよね。
すぎやま:
笙(雅楽用の管楽器)のハーモニーなんかは音の響きが非常にシンセサイザー的な新しさがあるよね。
植松:
そうなんですよ。だからこれはものすごく面白いけど、自分にとっての血ではない気がしたんですよ。
雅楽は朝鮮からのものですけどね、そういうルーツみたいなものを考えていったら、
逆にヨーロッパの民族音楽がすごく自分にピンとくるものがあったんです。
自分にとってピンとくるものを追っかけていく方が面白いんじゃないだろうかと思って、
最近は自分が日本人だから日本古来の音楽をどうのこうのという考えはなくなってきてるんですよね。
すぎやま:
僕ら日本人で日本の文化の中で暮らしていると、いつかは三味線音楽や琴の音楽が耳に触れてるわけ。
和風喫茶やレストラン、エアラインなんかでもいつの間にか聞こえてくる。
アメリカで生まれ住んでるとそれは耳に触れないで大人になっちゃうでしょう。
僕らは耳に触れてるから、知らない間にそういう音感は身についてると思うの。
町の音楽「ミーファー」ってメロディがいくときに、もう1つの声部が「ミーミー」とそのまま引っ張って、
ミとファが平気でガチャーンと使ってるのがあるでしょう(トゥールの村などの音楽)。
植松:
バッテンなんですよね。
すぎやま:
植松さんはあれにある種の美しさを感じるからやってるわけでしょう。
で、僕も日本人だから聞いて「あ、ここいいな」と思ったんですよ。
「ソーミーファー」というのと「ソーミーミー」というところでミとファがぶつかっているのは、
西洋音楽のエフメジャーセブンの中のミとファのぶつかりの意味とは全然違う意味のミとファでしょ。
それは江戸時代の三味線や琴の音楽でしょっちゅうやってることなんだよな。
「ラファミミファミミファファミ」といってるときに、1は「ミミミ」といってミとファがぶつかってるという、
そういうテンションに美しさを感じるという江戸時代の音楽家らの伝統みたいな感覚の流れがあるんだよね。
あの部分を聞いて植松伸夫もやっぱり日本人だと思ったんですよ。
で、僕もアレをイヤだと思わずに、あぁこれいいなと感じて、僕も日本人だなと再確認したんです。
植松:
ミとファの半音でメロディと伴奏が平気でぶつかることがしばしばあるんですよね。
自分でもああぶつかってるな、クラシックの音楽のテストなら絶対にバツだなと思っても、
その響き欲しいしと思ってそのまま残すこともあるんですよ。
すぎやま:
それが間違いか間違いじゃないかというのは、感覚的にそのぶつかりが許せるかどうかなのよ。
いいと思うかどうかなのね。だから西洋音楽なんかも近代音楽以降はガンガンぷつかるでしょう。
それが前後の関係や音楽全体の姿からいって、感覚的にこれが美しいと思えるものはマルなのね。
ミとファのぶつかりあいが美しいと思える感受性があってやったものであれば間違いじゃないんだよ。
ただそれが自分一人でいいと思ってるだけで、世の中全員が気持ち悪いと思ったら
植松:
難しいですよね。音楽を学問にした人というのは、かなり強引だと思ってるんですよ。
どうやって音楽の点つけるんだろうって未だに僕思ってるんですよね。
小中学校を通して音楽というものを学校の教育に取り入れて100点取った人は偉い、
大人になって楽器を手にしなくなっちゃう人が多いんじゃないでしょうかね。
すぎやま:
音楽教育というのがどうあるべきかというものは、これはもっと考えなくてはいけない問題で、
植松:
すぎやま:
笛を吹いたことについて点数つけることよりも、笛吹く楽しさをわからせるのが大事だよね。
だからファイナルファンタジーとかドラゴンクエストの音楽というのは大事なんですよ。
植松:
ドラゴンクエストの音楽が好きになってコンサート行きますよね。
すぎやま先生なんかのコンサートはフルオーケストラでやってらっしゃるでしょう。
それはものすごい影響力だと思うんですよね。
子供がオーケストラを生で聞くチャンスが普段あるかというと、少なくとも僕は子供の頃そんな経験はしてないんですよ。
そうすると、ある意味ですごく羨ましいんですよね。小学校2-3年という頃に、N響の音が年に1回、生で聞けるわけでしょう。
すぎやま:
他のオケなんかのコンサート数えると、20-30回やってるよ。全部ドラクエじゃないにしても、1コーナーとかね。
だから、あちこちに頼まれて棒振りに行く仕事もやってます。それは大事なことだからね。
植松:
すぎやま:
しかし、いつもゲームの音楽作るときに、昔の大作曲家の作品聞くじゃない。
とてもかなわないなと思うことが多いね。
植松:
すぎやまさんがそんなこと言ったらこちらの立場はどうなるんですか(笑)
すぎやま:
昨日久しぶりにバレエ見ようと思って神奈川県民ホールに「くるみ割り人形」見に行ったの。
チャイコフスキーのド天才めって感じだよ(笑)。とんでもない天才だね。
植松:
チャイコフスキーは僕もすごく好きですね。音楽は誰が好きなんですかなんてインタビューとかであるじゃないですか。
すぎやま:
とんでもない大天才だよね、あの人は。
あの時代で20世紀の音楽家が考えて書くようなヴォイシングやってたりするわけよ。オーケストレーションのうまいこと。
植松:
この前、西田敏行がロシアに行ってチャイコフスキーの足跡を辿るという番組をテレビでやってたんですよ。
僕もチャイコフスキー好きだから見てたんですけど、チャイコフスキーはホモであるというのを聞いて、
「ああ良かった」と思ったんですよね(笑)
すきやま:
その良かったというのはどういう意味なの?
植松:
チャイコフスキーも人間だったんだなというね。ま、噂なんですけどね。
すきやま:
モーツァルトなんか完全にいってるよね。大天才でも大欠点があるという。
植松:
チャイコフスキーにしろモーツァルトにしろ、メロディが非常にわかりやすいんですよね。
クラシックって難しいから嫌いという人が多いですけど、そんなことないと思うんですよ。
すきやま:
ベートーベンとかブラームスあたりはみんなそうだよ。いいメロディもってるよ。
植松:
すぎやま:
植松:
だからドラクエなんかはオーケストラでやっても子供が聞けるんですよ。
すぎやま:
ドラクエにしてもFFにしてもメロディ大事にしてるからそこに強みがあるでしょう。
他にもFFでは民族音楽的なのがありましたな。デデンッデデンッ…てやつ(笑)
植松:
すきやま:
だからそのうちトルコも出てくるぞ(笑) FFでは吟遊詩人というジョブがあるじゃない。
吟遊詩人がマップの中のトルコやアイルランドみたいなところへ行ったりするとそこの音楽を覚えて、
それを戦闘中に唄うと何かが起こるみたいなことがあれば面白いんじゃない。
植松:
すぎやま:
増えるね(笑) でも吟遊詩人というジョブがあるから使えそうな気もするね。
植松:
一度何かに絡めてやってやろうと思ってるんですけどね。
どうしても容量がそういう余分なところまで回らないんですよ。
すぎやま:
植松:
すぎやま:
ダンジョンも違う?そんな気もしたんだけど。
植松:
いや、ダンジョンという曲は1曲しか用意してないんですよね。他で使ってるのを使いまわしてるんです。
すぎやま:
でもなんかすごく多い気がしたな。
植松:
実際多いんですよね。飛空艇は1曲ですし、チョコボは2曲だし。
すぎやま:
チョコボはまた面白いね。あの音楽と動きを見事にシンクロさせてて良かった。
植松:
あそこらへんはプログラマなんかと楽しんで作ってましたよ。
すぎやま:
植松:
ヘタクソなやつが最後はコンサートピアニストぐらいにしてくれと言われたんで、
最初はメトロノームにも合わせられないようなところから始めて、最後はドビュッシーまで弾けちゃうんですけど、
あのドビュッシーの曲(月の光)をみんなあんまり知らないんで、ガッカリしちゃったんです。
すぎやま:
グリークとかチャイコフスキーのピアノコンチェルトみたいな方がコンサートピアニストみたいな気がするからね。
植松:
そうですよね。最後のが弱かったのが残念だったな。
すぎやま:
植松:
息抜きというやつですね。でも結構一生懸命やっちゃうんで、息抜きできなくなっちゃうんですけど。
すぎやま:
作ってる本人はいいんだよ。遊ぶ方は息抜きできるんだから。植松さんはドラクエは上がったの?
植松:
実は最後のダンジョンの手前でFFVのアレンジCDの仕事に入っちゃいまして、まだなんですよ。
すぎやま:
上がってないの!?
植松:
今日までに終わらせるつもりだったんですけど。
すぎやま:
僕は対談頼まれたときに、12月中だと聞いてそれまでにFFVを終わらせる自信ないって言ってたんだけど、
元祖プロゲーマーを称してるからには面目にかけても上がろうと、しゃにむにやって上がりましたよ。
途中でやんなっちゃうゲームだと上がれないけど、やってて楽しかったから相当寝不足になりましたよ。
植松:
今回はアマチュアの勝利ですかね。スクウェアのメンツって、単独で独立して音楽で食っていけるか、
絵で食っていけるか、企画で食っていけるかという連中がまだ1人もいないんですよね。
すぎやま:
植松:
いえいえ。平均年齢がまだFFチームでいうと25ぐらいなんですよね。
すぎやま:
ドラクエチームもそうですよ。皆さん若い。僕1人だけ飛び抜けてるんだ。
植松:
結局若い、何かやってやろうという奴らが集まってるんですよね。
そいつらが泥まみれになって一緒くたになって限度知らずの頑張りをするんですよね。
全てのプロの人がそうというわけじゃないんですけど、中にはお金と割り切って仕事をする方もいらっしゃいますよね。
そうするとある程度から先の気力とか頑張りを越すというのは難しいというのがたまにあるじゃないですか。
そういうことが5のチームには無かったんですよ。
とにかく最後の最後まで、〆切のマスターを任天堂に送る朝まで、どこまでできるかということをみんながやったので、
そこらへんの適当なプロの人を集めて作っても、ああいう気合いの入った作品は出来なかったんじゃないかなと思うんですよ。
今になってやってみると、あそこをこうした方がいいというのはうのはいっぱいあるんですけど、
終わった時点ではもうこれ以上はできない、とみんなが思ってるんですよね。僕もあのときはそうでしたしね。
すぎやま:
結局世の中を見てると、FFにしてもドラクエにしてもそうだけど、
好きで好きでとことんまで頑張るという人が集まってるところのゲームがヒットしてるんだよね。
植松:
Fate/Grand Orderには良い部分もあるが悪い部分がありすぎる。
今回はそんな悪い部分を紹介していく。
なお、筆者は型月ファンであるので途中で型月アンチだと思わないように気を付けてほしい。
課金額が100万を超える人がかなりいるらしく、
オタクを引きずりこむようなことをしている。
偉人に対して下品な格好をさせるのは如何なものか。(特にイベント礼装とか)
原作やホロウでもアルトリアやライダーとのシーンがありましたが、下品さはあまり無く、むしろ要らないとすら思ってました。
原作でもそんなシーンがあるから、FGOのことは言えない(偉人に対して侮辱)と言われたらそこまでです。
絵師の作風だから仕方ないとは割り切れないので、こういった絵を許容した型月かDW、あるいは両方を私は理解できない。
やたらとチヤホヤされる主人公など、FGOの主人公である藤丸立花もそれに該当する。
別にそれは構わない。
敬意が欠けている場面が多いのだ。
イベントだから〜なんて言葉で済ますようなものではないとは思います。
正直やめてほしい。
以上がFGOの悪い部分です。
他にもありますが...
型月ガイジの私としては、FGOで過去作品の設定などを大量に使用してくれるそうで嬉しいです。
ちなみに私は二部一章の怒りの日が好きです。
怒りの日は一人で弾くのは基本無理なので
(一人で弾くことも出来ますがかなり難しい)
あの時、サリエリの隣にモーツァルトがいると考えたら胸熱ですね。
私が何を求めているか。
それは今までのFateらしさです。
これまで延々と愚痴を書いてきましたが、最近のFGOはとても面白く感じます。
メインシナリオも私が求めていたFateらしさが出てきて、システム面での不満こそありはするものの納得いく形になりましたし、
最近では、あやふやな藤丸にも自我が形成されより一層素晴らしい作品になったと感じました。
もう終わりが近づいてきてはいますが、このまま突っ切ってほしいですね。
どちらかと言えば、我々ユーザーより型月側の良い部分ですね(笑)
DWの取り分やライターなどの費用でどれほど消えているかは定かではありませんが、それでも型月が手に入る収益はかなりのものだと思います。
これが何故良い点かと言うと、新作やリメイクだったりの資金になったり(新作出してほしい...)、
空の境界、真祖、アルティメットワンなどFGOから知った人も多いのではないでしょうか。
やはりここら辺の月姫、鋼の大地から続く設定や共通の世界観などが繋がって楽しいですし、考察するのも醍醐味ですね。
二部ではメルブラの主人公であったシオンが出てきてビックリしました(笑)
ネロ・カオスも彷徨海出身だったな、とか考えながら、懐かしくてメルブラのアーケードを遊びにゲーセンまで行ったほどです。
もしよければFGOを機に、FGOだけプレイしている人は様々な型月作品を遊んでみてください。
昔からの型月ユーザーも、久しぶりに遊んでみるのも悪くないと思います。
私は佐々木小次郎が好きなので、冬木からずっとパーティに入れてます。
おかげでいつもギリギリの戦いですが......
他のソシャゲだと、レア度によってレベルの上限があったり、上限解放しても高いレア度には最大レベルが劣ったりします。
FGOではステータスが多少劣るものの、基本はレベル最大までレア度問わず上げることが出来ます。ステータスも上昇させるために必要な素材もありますから良い点ですね。
一番良い点はこれです!
エミヤが楽しそうで、これは本当に良かった。
エミヤは衛宮士郎が英雄になった姿で、正義の味方というものに絶望。
大勢を救うために少数を殺す、それを繰り返してきたため疲れ果てており、そこから抜け出そうとして過去の自分を殺そうと考えていました。
しかし本編では凛のサーヴァントになったことや、衛宮士郎が自分とは違うことを確信して、凛に過去の自分を託して聖杯戦争を終えました。
救いは無いのかと、涙無しには見られないシーンだったために、FGOで羽を伸ばしているエミヤを見て嬉しい気持ちになってます。
これ以上書くと長くなるのでここまでに。
FGOアンチであることに変わりはないですが、それでもFate、型月作品であるため応援しています。FGOユーザーの皆様、育成にイベント、そしてメインシナリオを目一杯楽しんでくださいね。
ありがとうございました。