はてなキーワード: 1889年とは
いよいよ明後日が大統領選挙本番ですよ! むっちゃドキドキしてきた……有権者の皆さん、今日くらいは選挙に備えますよね?
そういうことで、4年前(anond:20201105075811)に引き続いて、次の大統領はどうなるかを書いてみる。
これまでの史上最高齢での就任記録は、現職ジョー・バイデン大統領の78歳2ヶ月だが、ドナルド・トランプが就任したら、78歳7ヶ月での就任となり、史上最高齢。この場合、「史上最高齢で1期目を開始した大統領」と「史上最高齢で就任した大統領」は別人になる(前者がバイデンで後者がトランプ。バイデンの就任前は、前者がトランプで後者がロナルド・レーガンだった)。
アメリカ大統領の任期は最大で2期8年だが、2期務める場合はたいてい連続した2期を務める。しかし、トランプは2017~2021年、2025~2029年という非連続の2期を務めることになる。これは、19世紀のグローヴァー・クリーヴランド(1885~1889年、1893~1897年)以来、132年ぶり2人目。
歴史上、弾劾訴追され弾劾裁判にかけられた大統領は3人いる。このうち、アンドリュー・ジョンソンは再選を断念し、ビル・クリントンは2期目の途中だったのでその後の大統領選挙に出る資格を持っていなかった。トランプは、弾劾裁判にかけられたにもかかわらず再選された初めての大統領ということになる。
大統領と副大統領はペアで選ばれる。したがって大統領1人につき、彼に仕えた副大統領も1人というのがふつうだが、トランプは今回の選挙にあたって副大統領をマイク・ペンスからJ・D・ヴァンスに入れ替えた。1人の大統領に2人以上の副大統領が仕えることになったのは、リチャード・ニクソン大統領時代の1973年にスピロ・アグニュー副大統領が汚職疑惑で辞任して、ジェラルド・フォード下院議員が副大統領に任命されて以来、およそ半世紀ぶりである。選挙のタイミングで副大統領を交代させた結果としてそうなったのは、1944年にフランクリン・ルーズヴェルトがヘンリー・ウォレス副大統領を降板させてハリー・トルーマン上院議員を副大統領候補にすげ替えて以来、80年ぶり(なお、1976年の大統領選挙ではフォード大統領がネルソン・ロックフェラー副大統領を勇退させてボブ・ドール上院議員を副大統領にすげ替えたが、負けたのでここではカウントしない)。
カマラ・ハリスは、ヒラリー・クリントンが成し遂げられなかった悲願を達成することになる。
個人的には南アジア系と東アジア系を「アジア系」でごっちゃにするのはどうかと思うが、それはそれとして、彼女はインド系なので、初のアジア系大統領となる。
ハリスは黒人でもあるので、バラク・オバマ以来2人目の黒人大統領となる(アメリカの闇は、オバマとハリスがいずれも「奴隷の子孫」ではない点だろう。オバマはケニヤ移民の子供、ハリスはジャマイカ移民の子供であって、アメリカ南部で綿を摘まされていた人たちの子孫はまだ副大統領にもなれていない。どんだけ彼らへの差別が激しかったのかという話である)。
ハリスの下の名前「カマラ」はサンスクリット語に由来する。ヨーロッパに由来しない名前を持つ大統領は、オバマ以来2人目(上で書いたように、彼ら2人が移民の子供だという事情もあるだろう。奴隷の子孫である黒人はたいてい英語の名前を持っているので)。
民主党は、ジョン・F・ケネディの跡を襲ったリンドン・ジョンソン以来、2人連続でホワイトハウスを手にしたことはない。ハリスが勝利した場合、ケネディ暗殺以来半世紀ぶりに、民主党から2人連続で大統領が出ることになる。
副大統領は要職だが、選挙に強いかというとそういうわけではない。大統領の死亡や辞任によって昇格した副大統領はこれまでに9人いるが、大統領選挙に勝ってその座を手にした副大統領経験者は6人しかいない。しかも、そのうち2人(ニクソン、バイデン)は副大統領退任後に間を置いて大統領になっているので、現職副大統領として大統領選挙に勝ったのは、これまでに4人だけである(ジョン・アダムズ、トマス・ジェファソン、マーティン・ヴァン・ビューレン、ジョージ・H・W・ブッシュ)。ハリスが大統領選挙に勝利したら、歴史上5人目となる。
ハリス父はジャマイカ移民なので奴隷の子孫じゃないって言う人、南米やカリブ海諸国に多くの黒人が住んでいる理由について考えたことないのかな?この増田なんか歴史に関して論じてるのにあまりに片手落ちじゃない?
不正確な記述でスマソ。もちろんジャマイカ系ということはカリブ海に連れてこられた奴隷の子孫。そこは間違いない。ただ、
という2点があるので、やっぱり本来のアメリカの奴隷の子孫とその他の黒人とを区別することは必要だよなと。不正確なものいいになっちゃったのは申し訳ないけれども。
注:創設年や前身校が曖昧だったりすることもあるのでそこそこ独断で決定している。
こうしてみると「ここ10年」というよりは1990年代から増えはじめて2000年代に最盛期を迎えていたことがわかる。
これは「共学化」や「合併」で改名の機会が増えたことが一因であろうと思われる。
1990年代は高校数の増加が止まった時期であり、さらに2000年頃からは減少に転じてもいる。
少子化に伴って、全国の高校が共学化や合併を余儀なくされ、その際に「〇〇館高校」と改名したパターンが多いのである。
古めかしい字面の「○○館高校」は江戸時代の藩校や私塾が源流にあることが多い。
もともと「○○館」という名の藩校や私塾があって、それが紆余曲折を経て「○○館高校」になったものである。
そうした高校は、必然的に歴史が長く、地元では「伝統校」「名門校」と見なされている。
推測だが、そうした「伝統校」「名門校」のイメージを持たせるために「○○館高校」に改名したところも多いのではないか。
「○○館高校」の数は県ごとに偏りがあり、特に福岡県・鹿児島県・愛知県・広島県・山形県あたりで多いが、いずれの県にも古くから「○○館高校」がある。
それらの地元では何となく「○○館」にかっこよくて頭が良さそうなイメージがあるのかもしれない。
また、同じ県で近い時期に続けざまに公立の「○○館高校」が開校している例がまま見られる。単純に命名者が重複している可能性もある。
https://togetter.com/li/2178921
これの影響で律令国名調べてたけど
時代 | 西暦 | 地名の変遷 | 備考 |
---|---|---|---|
飛鳥時代 | 704年? | 律令国として尾張国が誕生。愛知郡(現在の名古屋市の大部分+α)を含む。 | ※愛智郡などの表記も |
平安時代 | 尾張国愛知郡に那古野(なごや) という荘園が存在したっぽい | ||
戦国時代 | 1530~40頃 | 駿府今川氏が建てた平城を織田信秀が奪って那古野城(なごやじょう)と命名。※諸説あり | 清州城へ移るまで信長が拠点にしていた。※30年くらいで廃城 |
江戸時代 | 1600年 | 関ヶ原の戦いで家康の天下統一後、尾張国全域+αを清洲藩として家康の四男が領主に。 | 四男死後は家康の九男が受け継ぐ |
1609年 | 家康の命により、那古野城跡地に名古屋城を築城。 | 清州城は素材にし、清洲城下町はそのまま名古屋城下町へ移転した。 | |
1610年 | 清洲藩→尾張藩に改名し、家康の九男が御三家筆頭である尾張徳川家の初代に。 | ちな名古屋城が中心だったため名古屋藩とも呼ばれてたもよう。 | |
明治時代 | 1871年 | 廃藩置県で、尾張藩(名古屋藩)→名古屋県に。 | |
1872年 | 府県統合で、額田県(≒三河国)を吸収合併。その後 愛知県に改名。 | ||
1889年 | 市制施行で、名古屋市誕生。 | 現在へ至る。 |
つまり尾張の愛知に那古野があってそこに那古野城ができて潰れて後に名古屋城ができて清須→尾張(名古屋)だったのが廃藩置県で名古屋になって統合して愛知となり、名古屋ができた。
----
あとあんまり関係なさそうだが、現名古屋市内で那古野(なごや)城跡とはちょっと違う場所に那古野(なごの)という地名があったりする。
『公助は削って、福祉は家族による相互扶助を基本とする』に対して、そんなことしたら社会が貧困化するよという主張が感想レベルだからダメですかそうですか。そもそも自助や互助で貧困は防ぎきれず、その貧困への対策が共助、公助なわけなんだけども。こんなことは常識の範疇と思っていたよ。
この自助・共助・公助という3分論は、自民党の綱領(平成22(2010)年)で政策の基本的な考え方として採用されている。「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組みを充実する」とある。菅氏の発言は自民党員として、党の綱領に忠実であったともいえる。また、社会保障制度改革推進法の第2条には、「社会保障制度改革は、次に掲げる事項を基本として行われるものとする。一 自助、共助及び公助が最も適切に組み合わされるよう留意しつつ、国民が自立した生活を営むことができるよう、家族相互及び国民相互の助け合いの仕組みを通じてその実現を支援していくこと。」とあり、法律の文言にもなっている。
総理大臣になった菅氏が、この社会像としての3分論を具体的な政策の中でどのように生かしていくのかは分からないが、これまで、介護保険制度の創設と運用にかかわり、自助・互助・共助・公助という4分論を唱えてきた筆者としては、共助の主体に地域とともに家族が含まれていることと、地域以外に共助の主体が想定されていないことに若干のコメントをしておきたい。
われわれは、人生の途中で、老化に伴う日常生活上の困難や思いがけない病気、事故、災害など、さまざまなリスクに直面する。このように何か問題が生じて解決を迫られたときに、まず、本人が自助努力で対処する。しかし、それでは無理なときは、本人の身近にいる家族・友人・隣人などが手を差し伸べる。これがインフォーマルな支援、すなわち互助である。自助と互助ではカバーしきれない場合にはシステム化された地域・職域の自治組織が支援する(共助)。この共助システムではなお解決しえない場合に行政が支援する(公助)。この4分論も、いわゆる補完性の原則に基づく社会形成の考え方であるが、自助と共助の間に互助を考え、共助としては地域以外にも社会保険を想定している。
個人が直面するリスクを、その本人の自助努力だけで克服せよというのは無理な話で、社会は、何らかの形で共同してリスクを分担する仕組みを備えていなければならない。自助から出発するにしても、自助の次に互助を想定せず、家族の支えを「共助」に包摂してしまうと、例えば、いつまでたっても家族を老親介護の責任から解放できないのではないか。家族は大事だが、それに頼りすぎては家族が参ってしまう。
互助は、自発性とゆとりと思いやりに基づく支え合い活動であって、その活動範囲も支援能力も限定的である。それは、家族・友人・隣人が無償で行う支援活動であるからである。しかし、自助のすぐそばに、この互助が息づいていることが自助の励みになるのである。老いて心身が弱っても、自分の生活に関することは自分で判断し、できるだけ自分で行おうとする個人の自助努力を尊重し励まし支援する、それが互助の意義である。自然災害のときにも、真っ先に頼りになるのは自助と互助の結びつきである。新型コロナ禍の困難の中でも自助に寄り添う家族・友人・隣人の親身な支援こそが大事である。
わが国にはシステム化された地域の自治組織として、自治会・町内会があり、近年は地域運営組織が台頭し、これらは市区町村行政と相互関係をもって活動している。この地域が共助の主体として期待されている。ただし、同じ共助のなかに、リスクを共有するもの同士で助け合う社会保険制度が存在し、国と自治体の行政(公助)が関わっているから、共助の主体は地域だけではない。共助システムである医療や介護の社会保険制度は、経費の約半分を国と自治体の公費(租税)で賄っているし、介護保険では保険者を市区町村にしているから、この共助システムは共助と公助の混合型といえる。それだけに、公費負担をしている国から、システム運用を通ずる効率化圧力が絶えず加えられる結果、公助から共助へ、共助から自助へとリスク負担を逆流させようとする動きが出てきやすい。要注意である。
共助、公助の成り立ちと役割については、このリンク先の厚生労働省白書に良くまとまっている。https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/dl/1-01.pdf
(工業化に伴う人々の労働者化により、血縁や地縁の機能は希薄化した)
産業資本主義の社会では、企業が潰れたり、解雇されれば失業してしまい、また、けがや病気などで働けなくなった場合、労働者は所得を得られなくなる。その一方で、労働者が血縁や地縁の関係から一定程度独立した結果、それら血縁や地縁で結ばれた人間関係を基礎とする支え合いの機能は、近代以前の社会と比べて希薄化しているため、個人にとって、生活が立ちゆかなくなってしまうリスクは大きなものとなる面があった。また、産業資本主義の社会では、労働力の商品化の結果、モノやサービスの生産が「使用者-労働者」の関係を軸に展開するようになる。近代以前の社会と異なり、労働者は自己の労働力以外に機械や原材料などの生産手段を持たない。生産手段は使用者(資本)によって所有され、労働者はそれを借用しながら自己の労働力を提供する。この関係の下では、自ずと労使の力の差が生じる。使用者に比べて力の弱い労働者は、低賃金、長時間労働という劣悪な労働条件を強いられ、解雇のリスクにさらされるようになる。過酷で貧困な生活を送る労働者は増え、労働問題が大きな社会問題になっていった。労働者たちは、同業者の間で相互扶助的組織を設けるなどして生活上のリスクに対応してきたが、これらの組織に加入できたのは、経済的に多少の余裕のある熟練労働者などに限られ、多数の非熟練労働者などは、それらの組織に加入することができなかった。
(近代的な社会保障制度の創設はドイツから始まり、欧州各国に広がっていった)
近代的な社会保障制度が世界で最初に創設されたのは、大陸ヨーロッパのドイツであった。ドイツでは、19世紀終盤に、帝国宰相の地位にあったビスマルク(Otto von
Bismarck, 1815-98)により、法律上の制度として世界で始めての社会保険制度(疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年))が制定された*3。社会保険制度は、事業主の負担と併せて被保険者(労働者等)自ら保険料を負担(拠出)することにより給付の権利を獲得するという関係があるため市場整合的であるとして、多くの工業国で社会保障の手法として第一義的に選好される傾向が強いものとなっていった。そして社会保険による給付は、市場経済的な権利関係の裏付けを欠くために、社会の負担、あるいは自助能力を欠く者との差別や偏見から逃れられず、受給にスティグマ(汚名)が伴っていた恩恵的・救済的福祉の給付とは異なっていた*4。また、あらかじめ生活リスクに備える点で、それまでヨーロッパ各国で主流であった事後的な「救貧」施策から事前の「防貧」施策への第一歩を踏み出した点でも大きく評価された。
(略)
(社会保障は、個人の生活上のリスクに社会的に対応する仕組みとして求められるようになり、産業資本主義の社会と国民国家の発展を支えていった)
このように、産業資本主義が発展する中で、血縁、地縁がそれまで果たしてきた人々の生活を保障する機能は限定的なものとなっていった。それらの機能を代替するため、傷病、老齢、失業などのリスクに公助又は共助という形で社会的に対応する仕組みが必要となり、現在に通じるような社会保障制度が求められるようになったといえる。
そして、社会保障が血縁や地縁の機能を代替*8することにより、人々は経済活動に注力することができるようになったという意味で、社会保障は産業資本主義の社会、国民国家の発展を支えていったともいえる。
(世界恐慌から第二次世界大戦までの間に、戦後社会保障の構想が練られていった)
1929年には、アメリカのニューヨーク証券取引所での株価の大暴落をきっかけに世界恐慌が発生した。その影響は大変大きなもので、1930年代には各国で多くの企業が倒産し、街は大量の失業者で溢れ、社会不安はますます増大した。
(略)
ケインズの理論によって完全雇用に近づければ、失業給付を激減させ、なお残る失業者に手厚い給付ができ、また、社会保障によって全国民に最低限度の生活を保障すれば、有効需要が増え、さらに失業者が減る。このように、ベヴァリッジとケインズの考えは互いに補強しあう関係にあった。これは「ケインズ・ベヴァリッジ主義(体制)」、「福祉国家の合意」などと呼ばれる。その後、ベヴァリッジは、第2次世界大戦中の1942年に、いわゆるベヴァリッジ報告(『社会保険および関連サービス』)を英国政府に提出し、「ゆりかごから墓場まで(Fromthe Cradle to the Grave)」のスローガンの下、新しい生活保障の体系*10を打ち立てた。このベヴァリッジ報告の影響を大きく受け、第二次世界大戦後には世界の多くの資本主義諸国で、経済の安定成長と完全雇用*11、国民福祉の充実を目指す「福祉国家」の潮流が広がっていった*12。
(戦後、どの先進諸国にとっても社会保障は不可欠なものになった)
(1970年代―オイルショック後の経済成長の鈍化等により、社会保障・福祉国家批判は大きな潮流になった)
(1980年代―新自由主義的な政策が採用され、社会保障・福祉国家の「見直し」が行われた)
(新自由主義的な政策は、経済のグローバル化の趨勢とも親和的だった)
(社会保障・福祉国家の「見直し」がもたらした弊害は大きなものだった)
(当初の「見直し」という目的が実際に達成されたかについても、見方は分かれる)
(1990年代以降、社会保障の重要性が再認識され、過去に指摘された問題点に応える努力をしながら、社会保障・福祉国家を再編成する時期に入っている)
(今日では、社会保障は様々な機能を持っており、私たちの経済社会に欠かせない重要な仕組みである)
今日では社会保障は、個人の視点からみれば、傷病、失業、高齢など自活するための前提が損なわれたときに生活の安定を図り、安心をもたらすことを目的とした「社会的セーフティネット(社会的安全装置)」という機能を果たしている。また、それを社会全体としてみれば、所得を個人や世帯の間で移転させることにより貧富の格差を縮小したり、低所得者の生活の安定を図る「所得再分配」や、「自立した個人」の力のみでは対応できない事態に社会全体で備える「リスク分散」という機能を果たしているといえる。
さらに社会保障は、必ずしも恵まれない人たちにも社会の一員としての帰属意識を共有してもらうことで社会的な統合を促進させる。また、消費性向が高い低所得の人たちに所得移転し購買力を高めることで個人消費を促進したり、医療、介護、保育などの社会保障関連産業における雇用の創出を通じて経済成長にも寄与する。こうした「社会の安定及び経済の安定と成長」といった機能も果たしている*20。
このように、社会保障は私たちの経済社会にとって欠かせない重要な仕組みとなっている。だからこそ、支え手である現役世代(働く世代)の人口が減る少子高齢社会において、どのようにして持続可能な制度を構築していくか、若年者等の失業問題や社会的弱者が孤立を深める状況(社会的排除)を改善するためにどのように社会保障制度を機能させていくべきか、経済のグローバル化に伴う国際競争の激化が雇用の柔軟性や流動性を要求する状況など社会保障が前提としてきた雇用基盤の変化や経済の低成長が続く中で、どのような所得再分配や雇用政策が適切なのかといった点は、先進諸国にとって、重要な政策課題となっている。
社会は貧困化するの件が感想でしかないので、感想に対する反論などありません残念でした
人生に遅いということはないよ
この事件の発生年代については、1890年10月9日に「赤毛組合」が解散したと明記されているが、シャーロキアンの間では、発生を1887年・1888年・1889年・1890年とする説がある[1]。「赤毛組合」は「ワトスン博士の日付の間違いの最も顕著な例」と評される作品でもある[3]。作中の記述によれば、ウィルスンが組合員の募集を知ったのは1890年4月27日付『ザ・モーニング・クロニクル(英語版)』紙の広告で、その広告を読んだワトスンはちょうど2ヶ月前だと発言している。ウィルスンは翌日から仕事を開始し、その8週間後に組合解散の張り紙を見たと書かれているのである。 まず、1890年4月27日は日曜日で、当時日曜日には新聞が発行されていないうえ、『ザ・モーニング・クロニクル』紙は既に廃刊となっていた[4]。解散は10月9日と書かれているので、2ヶ月前や8週間後では計算が合わない。また、この1890年10月9日は木曜日だが、ホームズは今日が土曜日で逃亡に2日の余裕ができるため、今夜犯行に及ぶはずだと推理しているのである。
正典60編の事件を発生年代順に並べた『詳注版 シャーロック・ホームズ全集』を発表したベアリング=グールドの説では、新聞広告は1887年8月27日土曜日付のもので、事件は「赤毛組合」が解散した1887年10月29日の土曜日から30日の日曜日までとしている。短編の冒頭に「去年の秋」(発表は『ストランド・マガジン』1891年8月号)とある点については、発表のかなり前に事件を原稿にまとめていたのだと解釈した[4]。 リチャード・ランセリン・グリーンはオックスフォード版全集の注釈で、4月27日の新聞広告について、ドイルの原稿では AG(8月)となっていたのを、AP(4月)と読み間違えて発表されてしまったのだろうとしたが、発生年については触れていない[5]。
フレンチ・カンカン、というかラインダンスとの出会いは、おそらくは文明堂のCMだ。それから「ドレミファソネットどしたらできるの」で有名なso-netのCMだ。なぜかこのCMではおじさんの脚線美を見ることになるのだがそれはさておいて、Youtubeで検索すると今でも天国と地獄に合わせて踊る動画を確認できる。
本題に移ろう。Can-can dressについてはウィキペディアではおおよそこのように述べている。ドレスは基本的に何層にもなった大量のフリルがついていて、当時の下着の上に縫い付けられていた。脚は黒いストッキングや網タイツで覆われていた。つまり、レオタード姿のソネットのCMはフレンチ・カンカンではないのである。足の動きの速さからしてまるで違う。
衣装ではなく、カンカンダンスそのものについては、日本語版のウィキペディアと英語版のウィキペディアで書いてあることが若干違う。おそらく英語から訳したときの版が違うのだろう。
両者の記述を比べてみたが、フレンチ・カンカンにおける見せパンの起源はかなり曖昧らしい。足を思い切り上げてスカートの中が見えてしまう動きは、ショーの場では1820年代にアクロバット的な動きで知られるCharles Mazurierがバレエの大開脚を取り入れたことにさかのぼるようである。初期のダンサーは娼婦やセミプロの役者だけであったのだが、1890年代になるとムーラン・ルージュではトゥールーズ・ロートレックの絵で知られるLa Goulue(食いしん坊さん、的な意味)やJane Avrilなどの高給を取るスターが生まれた。La Goulueのページでは当時の衣装とセットの見せパンが確認できる。これらのスターの生活は華やかだが晩年は不遇であることもあった。この二人もビジネスの失敗や大恐慌で財産を失い、寂しく亡くなっている。
さて、カンカンは足を高く蹴り上げるので、当然スカートの中身が丸見えになる。しかも、それや当時としてはよりスキャンダラスであった。というのも、当時の下着であるpantalettesは衛生上の理由からクロッチ部分が開いていたからである。要するに性器が丸出しになるわけである。もっとも。そのあとにこんな記述がある。カンカンのための特別な下着を用いていたという記録はないが、ムーラン・ルージュでは下着の露出は禁じられていたことになっていた、と。どうもこのあたりの記録は曖昧というか[要出典]をつけたくなる箇所が多い。ウィキペディアは普段は自然科学の記事を読むことが多いが、そこよりも曖昧な記述が多い印象だ。文体もなんだか違う。
ところで、今のフレンチ・カンカンとして知られる、大人数の女性が10分以上高度な振り付けを続けるスタイルは、1920年代にアメリカで人気が出たスタイルを逆輸入したものでそうである。
実際、19世紀末からに20世紀初頭にかけては女性の脚部を見せるということでかなりスキャンダラスなものとしてみられていた。また、陰部を覆う白い生理用(?)下着と黒いストッキングの対照もエロティックだとして見られていた。さらに、体を折り曲げてスカートを後ろからまくり上げ尻を見せる動作もあったという。先述のLa Goulueはこの芸で知られていたとのこと。また、前の席の客の帽子を蹴り飛ばすほど近づいて、スカートの中身を見せることもあった。もっとも、顔を思い切り蹴られる危険もあったのだが。
結論から言うと、当時のフランスに見せパンそのものであったかどうかはわからないが、パンツが見えることは覚悟の上だった、ということになりそうだ。女性器が見えていたかどうかまでは根拠が怪しい。もっとも、今ほど表現が自由でなかった当時のこと、そんなことを文学や絵画で記録に残せたかどうかは怪しいものだ。ちなみに女性器を堂々と描いて当時の偽善的風潮に反発したクールベの「世界の起源」が1868年、ヌードでスキャンダルを生んだ「草上の昼食」が1863年である。
パリにはいくつも有名なキャバレーがあり、それは近現代の芸術や芸能に多大な影響を与えてきた。たとえば、ムーラン・ルージュで活躍した人物としてFrank SinatraやCharles Aznavourがいる。それらのすべてをここで述べるのは大変なので、地球の歩き方に広告が載っていたと記憶しているものをピックアップして簡単に述べる。子どもの頃、トップレスの女性が旅行ガイドに載っているのを見てドキドキしていたものだ。もっとも、その女性の姿はせいぜい五ミリくらいの大きさしかなかったのだけれども。
学生時代にパリを訪れたときには、そこには寄らなかった。一日中美術館で過ごしてぐったりしていたし、まだ女性経験がなくて図々しくなれなかったからだ。今となってはいい思い出である。
赤い風車で名高いキャバレーで、ここを舞台にした映画は数知れず。トゥールーズ・ロートレックの作品群でも有名。著名なダンサーも多く、全員を紹介するのはとても無理だし、別のキャバレーにも出演していて、キャバレー別に紹介するとややこしくなるので端折る。
ところで、ウィキペディアだけからはヌードがどの程度ショーに盛り込まれていたかはわからないが、1893年の舞踏会に裸の女性がいたことがスキャンダルになったそうである。なんでもヌードモデルが活人画として周囲を歩き回り、裸の女性が深夜にテーブルに立っていたとのこと。一方、英国の劇場のように活人画、すなわち生きた人間で絵画を再現する目的としてならヌードは猥褻ではない、という意識もあったようである。例えば英国では劇場にヌードが現れたとき、当局が1930年代に裸の女性が動くことを禁じた。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように止まったままとなった(ストリップの記事を参照)。また、戦後日本でも「額縁ショー」と呼ばれるストリップのさきがけのようなものがあった。動かなければ猥褻ではないという謎理論がまかり通っていたのである。当時のGHQが何を意図していたのかはよくわからない。
これまたよくわからないのがゾラの1880年の小説「ナナ」では、ヒロインがヴェリエテ劇場でほぼ全裸を披露して観客を魅了するという場面があるのだが、実際のところどうだったのだろう? 本記事はカンカンについてなので劇場のヌードについては語りつくせないので、今後の課題としておきたい。
1889年開業、1915年に一度焼失するも再興し、ドイツ占領時代にも営業を続けて今に至る。
モネの絵画、「フォリー・ベルジェールのバー」の舞台としても知られる。また、黒人系の女性Josephine Bakerが活躍したキャバレーとしても知られる。バナナ型のスカート以外はほとんど身に着けていないエキゾチックな姿がオリエンタリズムの流行した当時ヒットしたのだが、後にその恰好が人種差別的だとされるようになり、そこからネグリチュード、黒人意識の発展にも寄与した。また、彼女は黒人の人権活動家としても知られている。最近、グーグルが彼女の生涯を記念するドゥードゥルをトップにした。
1869年に開業、1872年に今の名前になる。けばけばしい衣装で知られ、時としてヌードも披露されることで知られる。
映画「ファイアbyルブタン」で有名。セミヌードを含む映画の公式予告がyoutubeに上がっている。身体をやわらかな特殊素材のように扱ったショーは性欲やエロスの向こう側に行ってしまっており、すごいものになっているとしか言えない。リンクを貼ったら怒られそうなので検索してください。もちろん、そこまで独特なものではなく、もっとわかりやすいショーもある。
ユニークなのはそのショーの一部をyoutubeの公式チャンネルで公開していることだろう。かなり古い白黒のものまである。それと、公式ホームページ見ていたら驚いたのだけれども、リド自体には12歳以下の子どもでも入場できるそうである。ヌードやトップレスがないショーならOKなのか、それとも芸術のヌードならOKなのか。フランス映画、年齢制限がないやつでも割と普通におっぱい出てくるし、表現規制の国ごとの温度差を示す実例であるのかもしれない。
1946年開業。1920年代の人工的な砂浜をその前身とする。
「ストリップティーズ」の項目によれば1960年代に全裸のショーが行われた、とある。
現に、創業者であるアラン・ベルナルダンは芸術性を伴った女性のヌードショーを見せるという着想に至ったそうで、要するに最初から全裸である。
とはいえ、ただの全裸ではなく、巧みな照明技術により女性の裸体をキャンバスのようにとらえ、万華鏡のようなカラフルかつシャープな模様をダンサーの肌に映し出していることに特徴がある。ただ脱いだだけではないそうだ。1951年開業。
天国と地獄の曲を初めて聞いたのは文明堂のCMと、音楽ファンタジーゆめでだ。後者はCGの黎明期であったせいかサイケデリックな表現が多く、当時の感覚としても幾分薄気味悪いと同時に、今から振り返ってみると技術の未熟さ(失礼!)から来るアルカイック芸術のような独特の魅力があったように思われる。
ところで、この曲は地獄のオルフェとしても知られている。タイトルからすると、ギリシア神話のオルフェウスが死んだ妻を冥界から取り戻そうするとする話のはずだ。なのに、なんでこんな軽快な曲なのだろうと思って調べたら、ギリシア神話のパロディ的なオペレッタだからだそうだ。なるほど。
こうしたレオタード姿のラインダンスはカンカンではないと述べたが、それではこれはいつからあるのか調べたい。おそらく日本国内では宝塚歌劇団と関係している。また、バーレスク的なものとの関連について知りたく思う。そもそもバーレスクとは何か、僕はよくわかっていない。日本語版のウィキペディアのバーレスクの記事には、乳首と陰部に前貼りを貼っただけの姿でパフォーマンスをする女性の写真がある。リンクは張らないが、鍛えられたきれいな体だなあ、僕も筋トレ頑張らなきゃなあ、とは思う。しかし、欲望はそこまで感じなかった。隙がないのである。
どっちが勝つかわからないけど、とりあえず次の大統領はこんな感じ。
これまでの「史上最高齢で就任した大統領」はロナルド・レーガン(2期目の就任時に73歳)で、「史上最高齢で1期目を開始した大統領」はドナルド・トランプ(70歳)だけど、バイデンもトランプも2期目のレーガンより年上なので、「アメリカ史上最高齢で就任した大統領」が誕生する。
開票結果を見ていると、一般投票でバイデンが勝ちそうなのはほぼ確定。この結果を選挙人投票でひっくり返したら、トランプは「史上初めて一般投票で勝たずに2期を務めた大統領」になる。
過去、一般投票で勝たずに選挙人投票で逆転して大統領に就任した者は5人いる。1825年に就任したジョン・クインシー・アダムズ、1877年に就任したラザフォード・ヘイズ、1889年に就任したベンジャミン・ハリソン、2001年に就任したジョージ・W・ブッシュ、そして2017年のトランプである。このうち、アダムズとハリソンは次の選挙で落選し、ヘイズは次の選挙に出馬せず、ブッシュは次の選挙で一般投票で勝利した。したがって、「2回とも一般投票で勝たずに選挙人投票で勝って2期務めた大統領」は歴史上存在しない。
また、大統領の急死や辞任によって昇格した大統領は、皆、次の選挙で落選するか一般投票で勝利して再選されるかのどちらかであり、「副大統領から昇格して、次の選挙で一般投票で負けたけど選挙人投票で勝って2期努めた大統領」はいない。
したがって、仮にトランプが再選された場合、かなり高い確率で「アメリカ史上初の一般投票で勝たずに2期務めた大統領」が誕生することになる。
レーガンは77歳で退任したけど、バイデンは就任式当日には78歳になっているので、「アメリカ史上最高齢で退任した大統領」になることが確定する(トランプの場合、任期途中で辞めたりすると史上最高齢にはならない)。
アメリカでカトリックの信徒が大統領になるのはジョン・F・ケネディ以来2人目。
1993年にビル・クリントン(1946年生まれ)が就任して以降、ジョージ・W・ブッシュ(1946年生まれ)、バラク・オバマ(1961年生まれ)、トランプ(1946年生まれ)とここ30年ほどは戦後生まれの大統領が続いている。もしバイデン(1942年生まれ)が勝利すれば、ジョージ・H・W・ブッシュ(1924年生まれ)以来28年ぶりに戦前第二次世界大戦終結前生まれの大統領が就任する。
ブコメで指摘されて気付いたけど、1939年にナチスがポーランドに侵攻してから1945年に日本が降伏するまでの間に生まれた大統領はこれまでにいないから、アメリカ史上初(そしておそらく唯一)の「第二次世界大戦中に生まれた大統領」になるのか……
前任の大統領よりも年上の者が新しい大統領になったことは何度もあるが(前回の大統領選は、クリントンが勝ってもトランプが勝ってもオバマより年上の大統領だった)、それが2回続けて起きるのは、セオドア・ルーズベルト(1858年生まれ)より年上のウィリアム・タフト(1857年生まれ)より年上のウッドロウ・ウィルソン(1856年生まれ)が大統領に就任した1913年以来のことである。
これまで2人続けて苗字の文字数が同じ大統領が就任したことは6回ある(Van Buren→Harrison、Lincoln→Johnson、Grant→Hayes、Kennedy→Johnson、Carter→Reagan、Obama→Trump)。だが3人連続したことはない。もしバイデン(Biden)が当選したら史上初の例となる(Obama→Trump→Biden)。
そういえば、オバマ&バイデン、トランプ&ペンス(Pence)と、2代連続で正副大統領の苗字の文字数が一致しているのはレアケースかもしれない。大統領選挙で二大政党の候補者の苗字の文字数が一致する(Trump vs. Biden)のは、2000年のブッシュ対ゴア(Bush vs. Gore)以来20年ぶり。
第二次世界大戦後のアメリカでは、民主党が1期でホワイトハウスを明け渡したことはあるが(ジミー・カーター政権)、共和党が1期でホワイトハウスから追い出されたことはない。再選に失敗したジェラルド・フォードもジョージ・H・W・ブッシュも、前任者(リチャード・ニクソンとロナルド・レーガン)が共和党員なので共和党のホワイトハウス支配は2期以上続いている。もしトランプが1期で追い出されバイデン政権が誕生したら、戦後初めて共和党が1期でホワイトハウスを明け渡すことになる。
カマラ・ハリスは、女性としても黒人としても、そしてもちろん黒人女性としても初めての副大統領になる。
メディアだと「黒人女性としては初の副大統領」って言われるけど、女性としても黒人としても初なので表現が難しい。「初の黒人女性」だと、白人女性や黒人男性がそれ以前にいたかのように聞こえる(「黒人女性初の国務長官」だったコンドリーザ・ライスがそうで、「女性初の国務長官」はマデリン・オルブライト、「黒人初の国務長官」はコリン・パウエル)。
戦前警察アメリカ分署です。1942年はすでに米もWW2に突入しており、バイデンが戦前生まれは明らかに誤りです。戦中か戦勝前としてください
カトリックの少なさに驚く。ググると2014年時点で37%がプロテスタント、23%がカトリックらしい。それでも凄まじい偏りだが、どんな背景があるんだろう
このうち後者について、ケネディは1960年の選挙演説で次のように言っている。
わたしは、公的にはカトリックでも、プロテスタントでも、ユダヤ教でもないアメリカを信じます。そこでは、公共の政策に関して、公僕が、ローマ教皇やキリスト教会全国協議会やその他の宗教組織に指示を求めたり、そのような組織から指示を受けることがありません。
つまり、20世紀後半になっても「教皇の言うことを聞くやつが大統領でいいのか」という不安があったという話。
ちなみに、バイデンはアメリカ史上初の「カトリック信徒の副大統領」でもある。「二大政党から大統領候補に指名されたカトリック信徒」としては4人目(アル・スミス、JFK、ジョン・ケリー、バイデン。全員20世紀以降に民主党が擁立)。
なお、これまで日本の首相になったカトリック信徒は3人いる模様(原敬、吉田茂、麻生太郎)。プロテスタントも何人かいるし、首脳の信じている宗教という一点に限ってはアメリカなんかより日本の方が遥かに多様という。
仮にバイデンが任期途中でリタイヤしてハリスが昇格し、2024年の大統領選挙でハリスが女性候補に敗北すると、「初めての女性大統領」と「初めて選挙で選ばれた女性大統領」が別人になるので、トリビア好きにはたまらない展開になる。ニッキー・ヘイリーには頑張ってほしい。
(現状、「最年少大統領」がこの状態で、「最年少の大統領」はセオドア・ルーズベルトだけど、彼は前任のウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺に伴って昇格したので、「選挙で選ばれた最年少の大統領」はジョン・F・ケネディ。仮に今回の選挙でピート・ブーティジェジが勝っていたら限定なしで「史上最年少の大統領」になっていた)
一番のリスクが大統領就任式という説も。就任式は1月に屋内で行われるけど、高齢のバイデンには風邪を引くリスクがある。実際、1841年に、68歳だったウィリアム・ハリソン大統領がめっちゃ寒い日に就任式で長々と演説して3週間後に風邪を引き、そこから肺炎になってアメリカ史上最も在任期間の短い大統領になってしまった(在任31日間)という故事があるので……
(ちなみに、日本の内閣総理大臣で最も在任期間が短かったのが東久邇宮稔彦王の54日なので、日本の首相よりアメリカ大統領の最短在任記録の方が短い。ハリソンの在任期間はあの宇野宗佑の半分以下)
『BADDAY』『星逢一夜』『金色の砂漠』と進んできたけどなんかしっくりこなかった因数分解したい。
『金色の砂漠』は最初花乃さんが明日海さんに(もうそれぞれの役名忘れた)死罪を言い渡すのがしっくりきてなくて、友人に話すうちにしっくり答えが見つかって、ああやっぱすごいなあと思ったから。
それから、『fff』に向けてという意味もある。上田久美子氏のクラシック音楽に材をとったものは、もしかして自分受け付けないんじゃないか、いやいやいや、せっかくだから受け付けるようにしておきたい、みたいな?
『金色の砂漠』を見たあとに、改めて上田久美子氏についてグーグル先生に尋ねたところ、宝塚への見方(昭和なことしててすごい、この文化は途絶えさせてはいけない)、東京と労働への考え(東京砂漠という表現と稼いで使ってという燃費の悪さ)が自分と同じで驚いた。そして単純計算して、自分の1つ年下か、ということも弾き出した。出身大学もまあ、親戚みたいなもんだ(言い過ぎか)。
ブラームスのイメージは、昔友人が言っていた「俺らの大学の気質に合ってるんだよ、クララにひそかに恋しちゃったりしてじとじとしてるところが。あと真面目。交響曲こだわりすぎて4曲しか作れなかった。」「交響曲第4番ほんともうスコアの見た目からして美しい(確か。ベートーヴェンの5番と共にこの2曲を挙げてた)」。
それから、ビジュアルイメージも完全に髭面のそれだった。若いときのやつあんまり記憶になかった。
自分の携帯に入ってる唯一の交響曲が、ヴァントのブラームス交響曲3番だった(あ、最近幻想交響曲入れたんだった)(ヴァントにこだわりがあるわけではない。Kugouの中で選んだ)。交響曲1番、4番はメジャーすぎ(というか主張が強いのかな、メロディラインというか)、2番は自分にとって手垢が付きすぎているため。
あ、あと、暗くてじとじと、とはいえ、交響曲1番1楽章とか激しい。
まあとにかく、やっぱ気質なのか、あとはミュールフェルトのおかげか、自分にとっては1馬身出てる作曲家。
シューマンは、交響曲4番(のVnソロ笑)。あと『子供の情景』の<知らない国々>だ。自分の体験としては夢々しい、というイメージ。だけど、これも別の友人が言っていた、シューマンを聞きだしたら、闇落ちしていることに気がつく、と。
ヨハネス・ブラームス、クララ・シューマン、ロベルト・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒム
知ってる人らだからと油断していたら名前わからなくなった罠。ヨハネス、クララ、ロベルト、ヨーゼフ。
ヨーゼフは、フランツ・ヨーゼフ1世と混ざる…。
【】翼ある人びと
1838年:『子供の情景 Op.15』『クライスレリアーナ Op.16』
1841年:シューマン『交響曲第1番 Op.38』。シューマン交響曲第4番初演するもイマイチ(メンデルスゾーン体調不良によりフェルティナンド・ダーヴィトが指揮)、出版されず。
1846年:長男エミール誕生【秋音光】。シューマン『交響曲第2番 Op.61』
---
1853年(ブラームス20歳、クララ34歳、シューマン45歳、ヨアヒム22歳、リスト42歳、ワーグナー40歳、フランツ・ヨーゼフ1世23歳)
10月:いっぱい滞在。初旬にシューマンが『ヴァイオリン協奏曲 d』を作曲するもヨアヒムが封印(21世紀に入り、ワーグナーを先取りしたような斬新な和声の使用などの先見性が評価されるようになった)。
秋頃(それ以前という説もあり):『ヴァイオリンソナタ』シューマンは出版を提案するもブラームスの判断で破棄
11月:シューマンのもとに『ピアノソナタ3番 Op.5』の譜面が送られている
12月17日:『ピアノソナタ第1番 Op.1』初演@ライプツィヒゲヴァントハウス。シューマンの紹介でブライトコプフから出版、ヨーゼフ・ヨアヒムへ献呈。シューマンは当初別の作品を作品1として出版することを提案していた。
12月30日:シューマン『交響曲第4番(改訂版)Op.120』初演(現在一般的に演奏されるのはこれ。翌年出版はするがあまりハネなかった模様)
2月27日:シューマン投身、エンデニヒの精神病院へ。ブラームスデュッセルドルフへ駆けつけ、シューマン家を助ける。クララとの距離近づく。
春?:『ハンガリー民謡の主題による14の変奏曲 Op.21-2』
6月:四男(末子)フェリックス誕生【次男、花菱りず】。ブラームスが名付け親。ブラームスの子供説あり。ロベルトによく似ていてクララもとても可愛がる。
夏:『4つのバラード Op.10』この曲集の作曲とほぼ同時期にクララへの生涯にわたる愛が始まっている。
1855年:クララを手紙の中で「君」と表現。『2つのガヴォット』『2つのジーグ』『2つのサラバンド』『ベートーヴェンピアコン4番のカデンツァ』『格言(この欺瞞の世界で)』。交響曲第1番着想(シューマンの『マンフレッド序曲』を聞いて)。
1856年『フーガ』『前奏曲とフーガ a』『モーツァルトピアコン20番のカデンツァ』『キリエ』『ミサ・カノニカ』
---
1857年:『前奏曲とフーガ g』『子供のための14の民謡』『モーツァルトピアコン17番のカデンツァ(着手)』
1858年:25歳の時、友人の家で知り合ったアガーテ・フォン・ジーボルトと婚約。『セレナード第1番 Op.11』
1859年:結婚生活が音楽活動の制約となることを恐れて婚約破棄
1861年:『シューマンの主題による変奏曲 Op.23』ユーリエへ献呈。
1863年:エリザベート・フォン・シュトックハウゼンがブラームスに弟子として受け入れるも、ユリウス・エプシュタインに送り返している(彼女のまれにみる美貌と才能のため必要以上に惹かれてしまうことを恐れてか、エプシュタインへの配慮か)。
1867年:オーストリア=ハンガリー二重帝国誕生。戴冠式@マーチャーシュ協会のミサ曲はリストが作曲。
1869年:36歳の時、ユーリエに心を寄せるも内気ゆえいつもの癖で気持ちを打ち明けられずにいるうちにクララがイタリアのラディカーディ・ディ・マルモリートからのユーリエへの求婚を容れて婚約させてしまい、ブラームスは怒りをもって『アルト・ラプソディ(ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章)Op.53』を作曲(別のサイトの表現では、プロポーズを承諾したときににわかに不機嫌に。『アルト・ラプソディ』はユーリエへの嘆きの歌)。
1876年:『交響曲第1番 Op.68』21年の歳月をかけ完成。
1876or7年 *43歳:「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころには地位はなく、いまでは遅すぎる」と友人に語った
1879年:フェリックス病没。悲しみにくれるクララを慰めるため、ブラームスは『ヴァイオリン・ソナタ第1番<雨の歌>Op.78』を作曲。クララ「この曲を天国に持って帰りたい」。また同時期にフェリックスの詩に付曲(Op.86-5)。
1883or4年 *50歳:コントラアルト歌手ヘルミーネ・シュピース(23歳年下)に出会い歌唱力の素晴らしさと女性としての魅力に惹かれるが結婚にまでは踏み切れず。
1889年:フランツ・ヨーゼフ1世から「芸術と科学のための金の大勲章」を授かる。暮れに謁見。シューマン交響曲第4番初稿版を再演(クララは改訂版派だった)
1890or1年 *57歳:コントラアルト歌手バルビと出会って音楽家としての魅力に惹かれる。
1891年:『クラリネットクインテット Op.115』@バート・イシュル夏。シューマン交響曲第4番ブラームスヴェルナー校訂版出版、世に知られるようになる。
1893年:『シューマン全集』刊行(ブラームスとクララで編纂)
5月07日:『4つの厳粛な歌 Op.121』完成。辞世の作品とみなされている。
5月20日:クララ没(76歳)。埋葬式のあと体が衰弱し、肝臓癌であることがわかる。
6月:『11のコラール前奏曲 Op.122』@イシュル。第11曲「おお、この世よ、われ去らねばならず」。作品を書き終えたブラームスの健康は日に日に衰えていく。医者の治療を受けても病状は一向によくならず。
1937年:シューマンの『ヴァイオリン協奏曲 d』がヨアヒムの蔵書から発見される
※出典:ウィキペディアとか奇特な方のブログとかブラームスインスティテュートとか、、余力があれば追記…。
あと書籍類もぼちぼち読んでいきたい
あと映画も
最近、インターネットで「いかがでしたか?」という言葉を目にしますね!
「よく分からない!」という人も多いのでは?
そこで、今回はここ数年で見かけるようになった「いかがでしたか?」の意味、
流行ったきっかけ、使い方について、気になったので調べてみました!
皆さんが気になっているのは、
ということだと思います!
辞書で調べたところ、「いかが」という言葉は、次のような意味になるそうです。
《「いかにか」の音変化》
[形動][文][ナリ]成り行きや結果を危ぶむさまを表す。どのよう。「その考え方は如何なものか」
[副]
1 状態・意見などについてたずねるさま。どう。どのように。「御機嫌如何」「この件は如何いたしましょうか」
2 事の成り行きについて疑問をさしはさむ気持ちを表す。どう。どんなもの。「その案は如何かと思う」
3 相手を誘ったり、相手に勧めたりする気持ちを表す。どうですか。「お一つ如何」「あなたも御一緒に如何」
4 疑問を表す。どのように…か。
「―言ひやるべきと、近う居給ふかぎりのたまひあはせて」〈枕・三五〉
5 反語の意を表す。どうして…か。
「かくばかり逢ふ日の稀になる人を―つらしと思はざるべき」〈古今・物名〉
6 どう言ったらよいかわからないほどの意で、強調する気持ちを表す。どんなにまあ。さぞかし。
「かかる物に捨てられぬといはれむは、―いみじかるべき」〈落窪・二〉
びっくりです!(*_*)
やっぱり、「でし」にもいろいろな意味があるようですね!
《原題、(フランス)Le Disciple》ブールジェによる長編小説。1889年発表。当時のフランスの科学万能主義の傾向に一石を投じる内容で、物議をかもした。
日本だけでなく、遠くはなれた外国ともつながりがある言葉、ということでしょうか?_φ(・_・ふむふむ
《他の語の下に付いて複合語をつくるときは、一般に「だか」となる》
1 数量・金額などを合計したもの。収穫量や知行 (ちぎょう) の額、また金銭の総額など。「生産高」「石 (こく) 高」「現在高」
3 程度の高いこと。また、限度・限界。
㋑せいぜいのところ。→高 (たか) が
「二、三年は稽古だの何だのと何にもならねえ。十両が―だ」〈洒・通神蔵〉
4 物事の要点や、あらまし。大略。
㋐形や位置が高い意を表す。「高殿」「高照らす」
㋑音声が大きい意を表す。「高笑い」「高話」「高鳴る」
㋒りっぱだという意のほめことばとして用いる。「高知る」「高敷く」
実は、調べている時に気づいたことなのですが、
ここで紹介したもの以外にも、いろいろな「たか」の意味があることに気づきました。
みなさんも、興味があったらぜひ調べてみてください!
さて、ここまで、「いかが」「でし」「たか」の意味をご紹介してきました。
それは・・・
「?」の存在です!!
そもそも、この「?」ってなんて読むんでしょうか?
「?」に意味なんてあるんでしょうか?
実は!
「?」に意味はあるんです!
疑問符(ぎもんふ)は約物のひとつで、「?」のように書かれる。疑問を表し、疑問を表す対象の後に置かれる。なお、耳垂れ(みみだれ)、クエスチョンマーク(英: question mark、クエッションマーク)、インテロゲーションマーク(英: interrogation mark)また、俗にははてなマークなどとも呼ばれる。
一般には、疑問文の最後に、終止符(マルやピリオド)に換えて置かれる。このため、疑問符は文の終わりをも示す。ただし、しばしば文の途中の疑問を表したい単語(不明確なことなど)の直後に置かれる。この場合、括弧で囲むことが多い。
なるほど!という感じですね!
「いかが」「でし」「たか」、そして、「?」の意味をご紹介してきたのですが・・・
みなさんが気になっているのは、やはり
ということですよね!
増田も、この「いかがでしたか?」という言葉を辞書で調べてみたのですが・・・
残念ながら見つかりませんでした。
辞書には載っていないようです。
まだ辞書にも載っていないような、かなり新しい言葉なのかもしれませんね。
「いかがでしたか?」の意味が載っている、なんてこともあるかも・・・?
しかし、いずれは「いかがでしたか?」の意味が分かる時が来るかもしれません!
まとめると、
ということになります!
一般的な旭日旗の光線が十六条なのは、菊の御紋(十六葉八重表菊)に由来する。
戦後、軍の解体に伴って「軍旗としての旭日旗」の歴史は途切れたが、
1954年、自衛隊が発足するにあたり、帝国軍旗を受け継ぐ形で自衛隊旗として採用された。
近年、「韓国の旭日旗批判は2011年以降に作られた新しいもの」との風説があるが、
韓国や中国の過去のニュースを見ても、それ以前から「日本の軍国主義を思い起こすもの」として、
ただし韓国における「戦犯旗」という蔑称は2012年頃につけられたものである。
鉤十字。
ヒンズー教や仏教など、古くからさまざまな宗教や民間信仰で「幸運の印」などとして用いられてきた。
1900年頃から、「アーリア人」がヨーロッパ人の共通の祖先であるという思想(アーリアン学説)のもと、
ドイツ国内でハーケンクロイツは「最も優秀なアーリア人であるドイツ人の象徴」とみなされるようになり、
1919年に設立されたナチスもそれを踏まえて1920年に党旗をハーケンクロイツとした。
1933年にナチスが政権を掌握するとハーケンクロイツは国旗に準ずるものとされ、
終戦後、ハーケンクロイツはナチズムの象徴とみなされ、ドイツでは公の場での使用を禁止された。
1990年の東西ドイツ統一以降、ネオナチの活動が顕在化するにつれて、
ハーケンクロイツへの警戒も強まっている。
イギリスのヘンリー王子がナチス風の軍服を着ていたという2005年の問題をきっかけに、
ハーケンクロイツの使用をEU全域で禁止する法案が提出されたが、
これはヒンズー教徒の反対などにより阻止されている。
こうして見ると旭日旗とハーケンクロイツに大きな差はないように思われる。
特に「元は平和的な図案だったが悪質な政治に利用された」といった話は双方に共通する。
ただ、ハーケンクロイツが直接的に「(悪である)ナチスのシンボル」とみなされるのに対し、
旭日旗は「(悪である)大日本帝国の軍隊のシンボル」であるため、やや間接的な関係に思われる。
このあたりの印象の差があり、ハーケンクロイツほどには規制されなかったのだろう。
また近年のインターネットの普及によって、各国のナショナリズム的行動が可視化されたことで、
より大きく反発が起きるようになった面もあるのではないかと思われる。
旭日旗について言えば、
明治になってから軍旗として採用され、菊の御紋と重ね合わされる「十六条旭日旗」が、
皇国史観や軍国主義と結び付けて見られるのは仕方ないのではないか。
仮に旭日旗の使用を擁護するならば、「元は平和的な〜」や「奇誠庸が〜」などではなく、
「十六条旭日旗のみ」に問題を限定したり(この場合は海上自衛隊の自衛艦旗は変更することになる)、
「思想的なシンボルではなく軍旗にすぎない」ことを強調する(この場合は自衛艦旗としての利用は擁護するが平和的な場では使用を控える)、
といった点を前面に出したほうが良いのではないかと考える。
チェーホフの銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%95%E3%81%AE%E9%8A%83
チェーホフの銃という表現は、ストーリーに持ち込まれたものは、すべて後段の展開の中で使わなければならず、そうならないものはそもそも取り上げてはならないのだ、と論じた、アントン・チェーホフ本人の言葉に由来している。
「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。」アレクサンドル・セメノビッチ・ラザレフ(Aleksandr Semenovich Lazarev)(A・S・グルジンスキ(A. S. Gruzinsky)の変名)に宛てたチェーホフの手紙、1889年11月1日
例えば、ミステリ作品において、犯罪者の正体を探っていく過程では、無実の登場人物に疑いが向かうように偽りの強調をしたり、ミスディレクション(誤った手がかり)を与えたり、「意味深長な」言葉を並べるなど、様々な騙しの仕掛けを用いて、著者は読者の注意を意図的に誘導する。読者の疑いは、誤った方向に導かれ、少なくとも当面の間、真犯人は正体を知られないままでいる。
エレベーターのほうが千年以上先輩らしいけどエレベーターはいつからエレベーターと呼ばれていたのだろうか?
エスカレーターの呼称のほうは最初期、こんなふうにブレていて面白い。
「リボルビング・ステアズ(revolving stairs)」 ネイサン・エイムズ 1959年 ※特許だけ。動かない。
「ステアウェイ(stairway)」 レモン・ソウダー 1889年
「エンドレス・コンベア(Endless Conveyor)」 ジェシー・W・リノ 1892年
「インクラインド・エレベーター(inclined elevator)」 ジェシー・W・リノ 1896年 ※初めての動作するエスカレーター
チャールズ・シーバーガーが1900年「エスカレーター(escalator)」 の商標を使って製品を販売し始める。
堕天翅族がアトランディアの地(南極)に高度な文明を築いていた(創聖のアクエリオン)
プレデター南極に降り立つ。人類に建築技術を与え神として崇められた
神殿を建造させ100年ごとに成人の儀式のために地球を訪れ、エイリアンの宿主となる生贄を求めた。しかしある時繁殖しすぎたエイリアンによって敗北し、全てをリセットするため自爆装置を用い南極の文明を消滅させた(エイリアンVSプレデター)
全盛期のキスショットが南極大陸から日本に渡る。衝撃で南極大陸を破壊しかける(鬼物語)
アーサー・ゴードン・ピム、友人オーガスタスの協力のもと帆船グランプス号に密航する
様々なトラブルを乗り越え辛くも南洋を目指す貿易船ジェイン・ガイ号に救出される
そのまま南極探検に向かい「テケリ・リ」と鳴く動物に遭遇する(ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語)
ノーチラス号は資材補給のため南極の秘密基地へ向かう。基地は南極の地下にある大空洞に、2万年前に古代アトランティス人が建造した巨大なドックだった(ふしぎの海のナディア)
ミスカトニック大学のダイアー教授率いる探検隊、南極大陸に向かう
生物学者のレイク率いる分隊が狂気山脈を発見。「古のもの」の化石を数体発見するがショゴスの襲撃を受ける。最終的にたった2名の隊員のみが帰還する(狂気の山脈にて)
ナチスの残党が宇宙人との戦闘に勝利し、遺跡から聖杯を手に入れ新たな帝国を南極に築く(ADVANCED WORLD WAR 〜千年帝国の興亡〜、難局!ED)
昭和30年代、敗戦からの復興を進める日本は戦勝国を中心とした国際地球観測年による南極観測への参加を表明する。しかし、他の参加国からは敗戦国であることを理由に罵倒される。そして日本に割り当てられた観測場所は「inaccessible(接岸不可能)」とされていたプリンス・ハラルド海岸であり日本は全く期待されていなかった。その中で倉持たちは日本が世界と肩を並べる時が来たとして南極観測のために尽力する(テレビドラマ「南極大陸 」)
第二次越冬隊を乗せた南極観測船・宗谷が例年にない悪天候と氷河に阻まれ立ち往生してしまう
その4ヶ月後、往生したままの観測船から飛行機が基地に降り立ち本日中に全員が昭和基地から撤退し帰国するよう命令が下る。しかし犬達を連れていくことは許されず、潮田達は苦渋の決断で数日分の餌を与え南極に犬たちを置き去りにして帰国する
犬達は鎖から逃れ、1年後に生き残っていた兄弟犬タロとジロに再会する(南極物語)
南極に生息する怪獣ペギラが南極観測隊の基地を襲撃したが、南極の苔から取れる物質ペギミンHが弱点であることがわかり、それを搭載した気象観測ロケットで迎撃されると黒煙を吹きながらどこかへ飛び去る(ウルトラQ)
イギリスの細菌研究所で開発されたウイルスがスパイによって盗み出されたが、スパイの乗ったセスナはアルプス山中で吹雪のため墜落しウィルスは流出してしまった
ウイルスは全世界に蔓延し半年後には35億人の人類を含み地球上の脊椎動物がほとんど絶滅してしまう
わずかに生き残ったのは南極大陸に滞在していた各国の観測隊員約1万人と、海中を航行していて感染を免れた原子力潜水艦ネーレイド号やT-232号の乗組員たちだけであった。過酷な極寒の世界がウイルスの活動を妨げ、そこに暮らす人々を護っていたのである。隊員らは国家の壁を越えて「南極連邦委員会」を結成し絶望の中から再建の道を模索する(復活の日)
南極の奥地にある機械の城ネオグラードを拠点とする、メカ人間の帝国「新帝国ギア」が人類への攻撃を開始する(超電子バイオマン)
「私」が氷男と結婚、南極旅行を持ちかける(村上春樹「氷男」)
学会で使うテープを間違って娘たちに送ってしまった江崎教授のために両津勘吉と中川圭一が協力して世界中を駆け巡る。冬子がいた南極で両さんは制服のまま海に落ちたり白熊と格闘する(こちら葛飾区亀有公園前派出所「絵崎教授80時間世界の旅の巻」)
西村淳、昭和基地からも遠く離れた陸の孤島、南極ドームふじ基地に料理人として派遣される(南極料理人)
セカンドインパクトで南極大陸が消滅する(新世紀エヴァンゲリオン)
南極の氷山から生まれた極寒爆竜コンビを、アバレンジャーと正義の爆竜たちが迎え撃つ(爆竜戦隊アバレンジャー DELUXE アバレサマーはキンキン中!)
新人サファーのペンギン「コディ」がサーフィン・ワールドカップで優勝を目指す(サーフズ・アップ)
オルタンス、南極のフランス観測基地で料理人となり1年間の任期を無事に終える(大統領の料理人)
碇ゲンドウ・冬月コウゾウ両名が南極に出向きロンギヌスの槍を回収。NERV本部地下のリリスに零号機によって刺された(新世紀エヴァンゲリオン)
18歳のジン・カイザワは、南極海の氷山曳航を計画するシンディバード号にオーストラリアから密航する。乗船を許されたジンは厨房で働く一方、クルーや研究者たちのために船内新聞をつくることに(氷山の南)
戦士としてヒイロとの決戦を望むゼクス。ノインはヒイロとトロワを連れゼクスの待つ南極へと向かう(新機動戦記ガンダムW 第15話「決戦の場所南極へ」)
さようなら! 福沢諭吉 日本の「近代」と「戦後民主主義」の問い直し : 安川 寿之輔, 雁屋 哲, 杉田 聡 : 本 : Amazon
福沢諭吉が日本の近代化誤らせた? 8日に名古屋で集い:朝日新聞デジタル
【愛知】2015.12.8 不戦のつどい 「福沢諭吉の正体 アジア蔑視と侵略戦争で果たした役割 ~日本の近現代史を問い直そう~」講演・安川寿之輔氏、雁屋哲氏、杉田聡氏(動画)
其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし
「“さようなら、福沢諭吉さん あなたに学ぶものはありません“ 」本誌編集委員・編集者・黒田 貴史 | コラム/深層
福沢諭吉は子供の頃、お札を踏んで便所に棄てても罰があたる様子もなく、今度はお稲荷様の社の中の石を別の石に取り替えても人々は相変わらずありがたそうに拝んでいる。何と馬鹿な者たちだろうと思った。そしてこんな言葉を残した。「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」片輪は未熟な人間のこと— 無神論・反宗教bot (@AtheismBotJP) 2015, 4月 24
福沢諭吉:独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は、必ず人を恐る、人を恐るる者は、必ず人にへつらうものなり。 | 芸能人や有名人の感動と共感する英語名言・格言集kyoucando
雁屋哲「福沢諭吉自身が、「(一身)独立」とは反対のことをしている!西南戦争で塾生がやめて慶應義塾が経済的困難に陥った!そして勝海舟に金を借りに行った!勝に「まずは全財産を差し出せ」と言われ黙った!」。10;美味しんぼ雁屋哲「アジア・太平洋戦争開戦74年 不戦のつどい」— 中宮崇@童貞の寅さん (@nakamiya893) 2015, 12月 8
村田喜代子の「ゆうじょこう」を途中まで読んだけど、福沢諭吉が女を馬鹿にしてることを盛大にdisっててワロタw 1万円札にもなってんのにこんな糞男だったのか。— にーにー (@00kate22) 2013, 10月 21
福沢諭吉『品行論』「そもそも娼妓の利害に就いては今更これを論ずるもの少なく、所謂道徳家の所望に任ずれば無き方が宜しと云ふは勿論のことなれども、人間世界は道徳のみの世界に非ず。人類の身も之を二様に分かつときは、一方は人にして一方は禽獣に異ならず。・・・」Σ(゚д゚) エッ!?— マサの先生 (@naophon) 2011, 5月 27
112.安川氏「四番目に、福沢は、世の中をおさめていくという観点からみるならば、公娼制度は必要であるという考えの持ち主でした。ただ、こう言いながら、娼婦たちを差別して『賎業婦人』とも呼んでいるのです」— 岩上安身 (@iwakamiyasumi) 2014, 9月 18
雁屋哲「朝鮮のクーデター甲申事変では、福沢諭吉がぜーんぶ金を送ってやらせた!」。10;美味しんぼ雁屋哲「アジア・太平洋戦争開戦74年 不戦のつどい」— 中宮崇@童貞の寅さん (@nakamiya893) 2015, 12月 8
雁屋哲「甲申の政変というのは、日本の大陸浪人がやった。使われたのは、福沢諭吉が与えた刀。彼は朝鮮を支配したいがためにクーデターを起こさせた!なぜか日本では尊敬されている!」。10;美味しんぼ雁屋哲「アジア・太平洋戦争開戦74年 不戦のつどい」— 中宮崇@童貞の寅さん (@nakamiya893) 2015, 12月 8
福沢諭吉について 5 | 雁屋哲の美味しんぼ日記 http://kariyatetsu.com/nikki/1136.php ほっほう。面白い。そういう人だったんかねぇ。10;『人に圧制を加えることが人生最大の愉快、などと言うのは、嗜虐趣味、サディストではないか』— Kin-ya Oda (@odakin) 2009, 7月 26
「圧制を憎むは人の性なりと言うといえども、人の己れを圧制するを憎むのみ。己れ自ら圧制を行うは、人間最上の愉快と言いて可なり(中略)」。 福沢は、圧制は最上の愉快、と言い切っている。 http://t.co/K0Nlyn4Ewg … …— 早雲 (@souun_udoku) 2014, 1月 6
続き。福沢諭吉は、洋行中に目撃した、英国人が中国人に対して、「幕吏」の如く、威張り散らしている様子にふれ、なんと「英国人民の圧制を羨むのほかなし」と書く。羨ましい、というのだ。そして、いつの日かその英国人民すら奴隷のように扱いたい、と続ける。— 岩上安身 (@iwakamiyasumi) 2014, 1月 1
28.岩上「1881年10月の『時事小言』を読み上げてみます。『支那人…数千年来陰陽五行の妄説に惑溺し…』『無遠慮に其地面(アジア諸国)を押領して、我手を以て新築するも可なり』。すごいですね」。安川氏「植民地支配を盛んに主張しているわけです」— 岩上安身 (@iwakamiyasumi) 2014, 9月 18
40.岩上「『朝鮮の交際を論ず』には『我輩が斯く朝鮮の事を憂てその国の文明ならんことを冀望し、遂に武力を用いてもその進歩を助けんとまでに切論するもの』とありますね。まさに、他国の『文明』化のために、武力侵略を正当化するものですね」— 岩上安身 (@iwakamiyasumi) 2014, 9月 18
11.安川氏「福沢は1889年3月の『貧富智愚の説』の中で、『最も恐るべきは貧にして智あるものなり』『貧人に教育を与ふるの利害、思はざる可らざるなり』と書いています。貧乏人が高等教育を受けると恐ろしいことになる、ということを言っているのです」— 岩上安身 (@iwakamiyasumi) 2014, 9月 18
13.安川氏「さらに福沢は、『福翁百話』の中で、人間を平等にしたら世の中はうまくいかない、ということを言っています。『人間世界に強弱智愚相匹敵して相親愛するの例は殆ど絶無と云う可し』。人間が平等だったら、親愛が成り立たない、と言っているのです」— 岩上安身 (@iwakamiyasumi) 2014, 9月 18
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
16.安川氏「これは『学問のすすめ』第3編の言葉なのですが、その中身は、個人の自由や独立などというものではなく、『国のためには財を失うのみならず、一命をもなげうちて惜しむに足らず。是即ち報告の大義なり』というもの。太平洋戦争中の日本と同じ考え方です」— 岩上安身 (@iwakamiyasumi) 2014, 9月 18
カリグラはこの馬に宝石を散りばめた馬具を与え、ローマ元老院議員の職を与え、大邸宅と奴隷を与えた。
インキタトゥスは人の言葉が分かるほど賢く、カリグラは彼を執政官にすることを約束していた。
ハンスに問題を与えると、彼は答えの数字と同じ回数だけ地面を蹄で蹴った。
だが実は、ハンスは飼い主や観客の顔色を窺って行動していたにすぎず、観客が答えを知らない場合は正解することができなかった。
赤ん坊の頃にイランで保護され、近くに駐屯していたポーランド軍に引き取られたあとは部隊のマスコットとして可愛がられた。
彼はまるで人間のように振る舞い、仲間たちの真似をして弾薬の運搬作業に従事した。
戦後はスコットランドの動物園に引き取られてそこで亡くなった。
イギリスの首相官邸には「ネズミ捕獲長」という役職があり、旺盛な狩猟意欲を持つと判断された猫が公務員として雇われている。
現在の捕獲長は財務大臣の飼い猫だったフレイヤ氏で、前任の捕獲長であったラリー氏が捕獲員として留任している。
この役職は1924年から存在し、その年収はおよそ2万円ほどである。
1889年以来、ハンサム・ダンという名は代々襲名されており、当代で17代目である。
運動部の試合の大観衆にも物怖じしないこと、ハーバード大学およびプリンストン大学の人間に対して猛烈な敵意を示すことが就任の条件とされ、選考委員会によって選ばれる。
どこかで聞いたことのあるようなフレーズ。ググっても見つからなかったのでネット外の伝聞情報をここに記す。
モチェルダウンス(モチェルダウンス)は、イギリスのロックバンド。1969年にヘルシンキで前身バンドを結成、1992年にメジャーデビュー。デビュー以降外部ミュージシャンの起用は多いものの、同じパーマネント・メンバーで活動している。「ハテナノムーラ」がヒットして以降は常に第一線で活躍し続け、現在アメリカを代表するバンドの一つである。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第1327位。
ジョン・レモン
ミンナ・アホネン
今週の1位は、このところバラエティー番組にまで進出して、教育論をぶったりする、居酒屋チェーンの大将の「不倫」スキャンダルである。
事の発端は、渡邉美樹ワタミ会長が、居酒屋で儲けたカネで03年に理事長に就任した、伝統高校「郁文館」(1889年創立)で起きた。
彼の側近だった「郁文館」の石田勝紀常務理事(41)が突然辞表を出して辞めてしまったのだ。
「実は昨年秋から、石田さんは学内のある女性から悩みを打ち明けられていたのです。渡邉理事長と数年にわたって交際してきたのに、『君の中には自分が求めるものがなかった』と、たった一通のメールでフラれたという話でした。自分は単なる"性の道具"だったのかと、彼女は激高していたそうですよ」(石田氏から直接、事情を聞いたという学校関係者・「朝日」より)
この女性の相談には、学校と取引のあったK氏なる人物も登場し、話は少しややこしくなる。K氏も数年前からこの女性のプライベートな相談に乗っており、昨年12月頃には女性は精神的に追い詰められ、渡邉さんにケジメをつけるようK氏から働きかけてほしいと頼まれたという。そこでK氏は渡邉氏に「このままじゃタイガー・ウッズになっちゃうよ」とメールをした。すると本人から電話があり、直接彼女と話し合って、一旦は決着がついたかのようだったという。
さすがワタミ。