はてなキーワード: ウェーバーとは
一つの評価軸から一面的な正論を言うのなんて簡単(答えが明確)なんですよね。
そういった個別の「正論」を寄せ集めて総合的な「正論」を言う事こそがとても難しいし、正論と言い切ってしまうのには危うさすらもある。
ネットで持て囃される「正論」が後者だった事をあまり見た事がない。
近代官僚制の組織では分業が基本で、専門主義が良しとされる。それは組織運営を効率化はするだろうけど、各々が各々の立場でポジショントーク的な正論をすり合わせて「それぞれの言い分は分かったけど、じゃあ結局どうすんのよ?」という最終的な結論を出すという所が弱い。
みたいな事をウェーバーが言ってた気がする。
ネット見ててもこの専門主義を評価するというか、特定の物事は特定のプロに任せて、他は黙ってるべきだ、的な考えの人が一定数いる気がする。もちろん浅い理解でトンチンカンな口出しするのもアレだけど。
包丁に砥石、フライパン、鍋、せいろ、燻製器、バーベキューグリル、低温調理器などなど。
包丁は高いやつだと硬い材質で長切れするってだけでその硬さから欠けることが多く使い勝手が悪いので、家庭なら和鋼なら白紙、ステンレスならV10くらいが使いやすい。その代わり研ぐこと。
実用は三徳、牛刀、ペティ、柳刃、出刃。もちろん魚を捌かないなら出刃はいらない。サクから刺身を引くときに柳刃だと切り目のカドが立って見栄えいいし滑らかな食感になるので刺身用だけに柳刃持っててもいいと思う。
趣味は切り付け、薄刃、ダマスカス。切り付けはサムライソードっぽいって理由で海外で爆売れしてるけど刃側のRが足りずに使いづらい。てかサムライソードはそもそも切っ先逆じゃん。
砥石はシャプトン。頻度にもよるけど面直しが必要な状態になるまで何年もかかる。天然砥石は趣味。
フライパンは結局テフロンっていうのに同意。鉄は慣れても材料張り付く。王将で餃子のことコーテルって呼ぶじゃん?漢字で書くと鍋貼じゃん?ほんと鉄のフライパンだとビタってくっつく。鍋ステッカー恐るべし。
テフロン使うなら無印のシリコンスプーンやナイロンターナーが傷つかなくて良い。
中華鍋系は30cm以上が鍋を振るのが楽で使いやすい。リバーライトの炒め鍋とかは鉄なのに錆びず薄手で火の通りがいいし、吹きこぼれしにくい形状なので麺類の茹でものにも向いてる。
ホーロー鋳物系はストウブの黒。色ついてるやつはどうしても薄汚れてくる。ル・クルーゼは内側が汚くなる。南部鉄器は底がザラザラでIH調理器をガリガリにしてしまうのでガスもしくはオーブン調理用。
せいろは最初は中華せいろが手を出しやすい。1個目はサイズ感を確かめるための観測気球。おすすめは24cmで材質は杉とかの安いの。大きいように思えるけど実際使ってみると一人の一食用としてちょうどいい。
燻製器はおすすめしたくない。ほんとおすすめしたくない。段ボールので十分。タールを掃除するのが大好きな人だけの趣味。燻製だけ作りたいという人以外、ウェーバーなんかのチャコールケトルグリルがバーベキューグリルとしても使えるのでおすすめ。洗うときには重曹忘れずに。
低温調理器もおすすめしたくない。何より水槽や寸胴が場所を取る。テスコムの低温コンベクションオーブンが便利で低温調理のほかにトースターやオーブンとしても使える。こいつはジップロックに材料入れてっていう普通のもできるし塊肉をそのままっていうのもいける。オーブン用のプローブのついた温度計にBlueToothで通信できるやつがあるのでそれと組み合わせると塊肉調理が断然楽になる。
具体的には「新聞記事上で当然のように多用される独特のターム」の解説が充実しているものを探している。
国同士がする約束事だというのは記事を読んでなんとなくわかるのだが、「法的拘束力があるのかどうか(あるとしたら根拠となる法律や制度が何なのか)」とか「合意を無視した国はどうなるのか」とか、そういったことまでは記事上で言及されていないので全く腹落ちしない。
参加資格を現職議員に制限した結社?で政策推進や業界連帯を目的とする、とかはググれば出てくるが、志があるといえどこの任意参加のサークルのようなものが、具体的にどのようにして利権に食い込むことができるのかまでは調べてもわからないし、やはり新聞記事上で解説されていない。
他にも、『清和会』というものはなぜ自民党という政治結社のなかでわざわざ存在しているのか(サークルのなかにサークルがあるような違和感がある)、どのような制度を根拠に、どのような手続きで発足・存続することができ、何の後ろ盾のもと自民党の外でも動けているのか、とか。
二階が「俺は『二階派』という集まりを〇月〇日に結成する!メンバー来たれ」みたいにあるとき募集を開始してできたものなのか、『永田町ストロングファイターズ』みたいに自由に派閥名をつけてはいけないのか、議員一年生のときの杉村太蔵が早々に『杉村派』を結成してもよかったのかどうか、そもそも派閥に団体規約とか細かい手続事項みたいなものがあるのかどうかとか。
とにかく、新聞記事1つ読んでみるだけで、謎のタームが続出しており、しかも別の記事・別の日にも幾度となく登場するので、全くニュースを理解できた気がしない。
自分自身、大学受験のときに政治経済を勉強し、社会学部に進み一応丸山眞男やウェーバーなどの洗礼を一通り受けてきたつもりなのだが、そうした経験をしても上述の疑問を解消する手助けには遂にならなかった。
スポーツで「主力選手を放出するなどして意図的に勝率を下げ、翌年のドラフトで上位指名権を狙う」戦術のこと。
「降格制度がなく」「完全ウェーバー方式(最下位のチームから順に選手を指名できる制度)を採用している」アメリカのプロリーグで特に横行しており、
不振のチームの立て直しにも用いられるが、当然ながら負けが込むと人気が落ちるため、ノーリスクというわけではない。
対策として、プレーオフに参加できなかったチームがクジを引いて指名順位を決定する「ロッタリー制」の導入が進んでいる。
日本のプロ野球はドラフトのルール上、下位チームが得られる恩恵が少ないこともあり、こうした行為が取り沙汰されることはまずない。
ちなみに"tanking"の"tank"とは元々「プール」のことで、
ボクシング用語の"go in(to) the tank"=「プールに飛び込む(かのように倒れる)」→「八百長でわざと負ける」というものに由来するらしい。
qyosshy 誤注文がなくなって客にも店にもやさしいシステムにしか思えん。聞き間違いだの頼んだ頼んでないだのが発生する仕組みを倫理的に正しいと思える感覚は理解できん。/ 労働者側の視点が無いんだろうなあって思う。
yP0hKHY1zjyP0hKHY1zj 何十年も前からバーコードという形で生が番号化されているのだが、それを当たり前のように受け入れてきてファミレスの数少ないメニューの3桁の番号化で急に危機感を持つところがかわいい。
akutsu-koumiakutsu-koumi 気に入らん人は騒いでおれば良いと思いますよ。でも銀行がATMを導入して倫理が損なわれましたか?セルフレジの普及が人の機械化を推進しましたか?自分の漠然とした抵抗感を尤もらしい言葉に置き換えているだけでは?
slimebethslimebeth この手の人が下らないのは文中の老婆のような上の世代が嫌がってたことはあっさり受け入れてる点だな。文明の利便は享受したい、若い世代の感覚は受け入れられない、我々世代の情緒だけが真っ当!てのは老人の我儘だ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/anatatachi_ohno/status/1544470962011115521
このブクマ連中の言っていることは一応は正しい。しかし、人間が機械や産業システムの論理に組み込まれて、人間が取り替え可能な部品のようになっていくことへの抵抗感や違和感は、マルクス、ウェーバー、アーレント、フーコーの主題でもある。大野さんを老害と断罪するのなら、これらの偉大な(とされる)哲学者も老害と断罪されなければならないだろう。
「新しい便利なモノ」に対して、何も考えずにさっさと適応できてしまう人と、違和感・抵抗感を覚えながら少しずつ適応していく人と、どちらが人間としての主体性を持っているかと言えば、やはり後者であろう。前者の人は、今の中国のような独裁権威主義体制にも「便利だからいいじゃん」と、あっさり順応できてしまうに違いない。
ただもともとの最初のエピソードがサイゼリヤという、主題の大きさに比してあまりに卑近な(個人的な意見では不適切な)事例だったので、誤解を招きやすい面があったのは確か。また前後の文脈が大事なので、切り取られるのが宿命のTwitterでは、論じるのに最も向かないタイプの議論でもある。GAFAのような事例で、字数を費やして活字で論じるべきだろう。
これ、いつもの党員活動みたいな事を延々している増田だろうが視野がおかしい。
https://anond.hatelabo.jp/20210916012705
「トラスト・ミー」のような事になった原因は鳩山が安保の構造を判っていなかった為。
安保に関する取り決めというのは政治家ではなく主に外務省の官僚と在日米軍が行っている。鳩山は政治家同士が日の当たる場面で交渉するものだと考えていた。
日米合同委員会(日米地位協定各条に関する日米合同委員会)が月に二回、広尾天現寺橋のニュー山王ホテルで行われ、そこでの密約により日本の利害というのは決定されている。この委員会の内容は公開されない。
その為日本の安全保障と国益の個々の具体的な事は全て外務省官僚が牛耳っている状態になっている。
鳩山はこの委員会とこの構造の事すら知らなかった。空回りして失敗するのは当然だ。
2011年にウィキリークスが暴露した米国公電では外務省高級官僚達が米国側に繰り返し鳩山政権の主張を聞かないよう、柔軟さを見せないように働きかけていた事が明らかになっている。
元増田はこういう「鳩山のダメだったところ」の根幹のところが判らずに批判しているので鳩山と同レベルだろう。
蛇足だが他のもネットの政治動画で拾ったような批判ばかりなのでちょっと擦っておく。
「何某下し」という場合、党内での運動の事を表す。〇〇党Disの事を何某下しって言わないんだよ。当然麻生おろしも自民党内で起こった動きだ。
合流を約束して解党させたうえで排除すると言えば行先がなくなった議員が新党結成するのは当然の流れだ。マスコミが「排除の原理と喧伝した」からと考えるのは相当にどうかしている。
失言ではなく行動なんだよ。JRが「今日は新幹線動かないので振替乗車して」と発表して乗客が来なくなったらそれ発言のせいなのか?
そして希望の党は党勢がほぼゼロに近くなった。ただのバカなんだよ。
失言なんかなくても改憲は出来ていない。9条改正への合意はある程度出来ていたのに「国家権力を縛らない改憲」のような児戯で土壌を全部パーにしたのが安倍だ。改憲派の憲法学者も宗教右派以外の全てが護憲側に回った。
しかも南スーダン問題では9条の限界を訴えずに政局を優先して自衛隊に日報を破棄させている。
これも状況判ってないケース。
北の金正日は言葉を発したシーンがほぼ見られないなど、西側では頭がおかしい人物なのではないかと見られていた。
だから海外に岩戸を開くような事はないと思われ、社会党はそれに安住していたのだ。韓国など諸外国でも北朝鮮の拉致は疑惑ではなく事実と扱われていたのにも拘らずだ。
それと拉致問題の頭を取っていたのは平沢勝栄。小泉訪朝が実現したのは金正日が突然態度を軟化してそれまで認めてこなかった拉致問題について話し合いたいと通告してきたからだ。
電撃だったのはこっちの方で平沢はマスコミ記者に言われて本当にビックリした顔をしていた。硬い岩戸を安倍官房副長官が開いたのではない。どういう歴史観してるんだ元増。
もう飽きた。ウェーバー読めよ。
男性が常に強者で勝者であるとするならば、あの真夏なのにエアコンなんてものはなく巨大扇風機が生ぬるい風をだらだらと放出し続ける倉庫で、全員時給1000円で集められた日雇いの現場で、女性にはビールの段ボールにベルトコンベアの上で景品を貼り付ける仕事があてがわれ、男性にはびろんびろんに伸びきったまさに言い訳程度のコルセットと安全靴を装着させた上で、ビール350mlが2ダース入った段ボールを上げ下げする仕事があてがわれた思い出はどう処理すればいいんですかね(挨拶)。
むろんこの場合女性を憎む……のではなく、日雇いという弱者同士で連帯してそこでボーッと突っ立ってる監視役の倉庫社員をぶん殴る……のでもなく、倉庫社員とも連帯してサントリーを誅して社会主義革命を起こすのが唯一の正解であることは皆さん御存知の通りである。
さて、この増田では2009年に出版された澁谷知美『平成オトコ塾―悩める男子のための全6章』の内容を紹介する。澁谷は上野千鶴子ゼミの出身であるようだが、いわゆる「フェミニズム」的なテーマではなく、『日本の童貞』『立身出世と下半身』などを出版している、個人的に信用している書き手である。
目次は次の通り。
第1章 その「男の友情」は役に立つか?
第2章 「僕がキミを守る!」と思ってる?
第5章 包茎手術はすべきか否か
2009年の本で、いま論じられているテーマの大体が既に出ていることに驚くだろう。我々は弱者男性問題それ自体だけでなく、議論が12年でほとんど進んでいないこともまた嘆くべきだろう。というかこういう話になると非モテ論壇とか言って侃々諤々やってたのが昔のはてななんだよな今の新参は昔のはてなを知らないから困る。失われた10年……。
それはともかく正直、456章はそれまでの言ってきたことと関連性が薄く、また前の章ほど爆発的に面白いわけでもないので、言いたいことはわかるのだがこの本にいるか?という感じはする。なので、とりあえず3章から見ていくことにする。
3章の冒頭でいきなり研究者としての特大のお気持ちがドロップされていて面白いので少し長くなるが引用しておこう。
ヘテロ男性の非モテ現象だけを扱うというと、必ず来るのが「ヘテロ女性の非モテの方が、あまり苦しみが言語化されないだけに問題が多い。なのに、なぜあなたはヘテロ男性の非モテを扱うのか」という反応です。世の中には、Aという現象を扱う人に対して「A以外も扱え」と指摘することがエライのだ、これこそ目配りというものだ、と思う方が多数存在するみたいで、かなりの確率で前述のような発言に出会います。
が、そういう発言は魚屋に対して野菜を売れと主張するに等しい。非モテ女子の話がそんなに重要なら、重要と思う人がすればいい〔澁谷注:私もいつかはしたいと思っていますが、「非モテ女の話の方が重要だ!」って言う人はどうぞお先に。止めませんよ。〕。それに、その手の話が見当たらないということは、苦しみがそれだけ大きいことを表しているのかもしれませんが、苦しみの不在を端的に表しているだけかもしれません。有力な傍証でもないかぎり、言語化されていないということから苦しみの有無を推定することはできないという、当たり前の事実も指摘しておきます。(p.75-76)
「女性の問題を扱え」といちゃもんつけられたことが一度や二度ではないのであろうことが怨念の籠もった書きぶりからわかる。まあ、それは12年後のネットを見ていてもよくわかるところで。
男性について語れば女性の方がつらいから女性について語れと言われ、女性について語れば男性の方がつらいから男性について語れと言われる。もういい加減そういう「やってる感」を出すための100字ですら余るようないちゃもんはやめにしませんか。お前がやれ。俺もそいつもやったのだから。
澁谷は非モテを3種類に分類する。
a-1 性的存在としての異性との関係性を欲しているタイプ(セックスをしたい、「女性」の存在に癒されたい)
a-2 とにかく他者承認を欲しているタイプ(オレを認めてほしい!)
「恋愛」を押しつけてくる世間や、いま現在「恋愛」と呼ばれている行為の中身や、それを統制するルール等々に違和を感じているタイプ(p.90)
この分類に対して何か意見を言うことは誰にとっても容易であり、それは分類表の絶えざる細分化を招くだろう。むろんその行き着く先は完全に無意味な、総人口分のパターンである。だから、ここでは非モテ男性に最低でも三種類ある、という点を強調しておくことが必要だろう。
男で、かつ非モテ、という狭く見えるテーマに絞っても最低これだけのバリエーションがある。そのことを非モテ男性当人達ですら大抵わかっていない。aのタイプの非モテ男性が「今すぐ女をあてがうべき」とまでは言わなくても「女をあてがってくれると嬉しいのは確か」ぐらいに思うことは自然であるが、bのタイプの非モテ男性から見ればまったく話が合わず、「非モテの中でも過激な野蛮人」と感じられることだろう。それをきっとaは「すかした奴だ」とか「きれい事を言っている」とか感じるだろう。まして女性が受け手の場合はさらに混乱が深まるだろう(男女の非対称性については後で論じる)。
澁谷は当時の主流であった「経済的問題が解決すれば結婚は増える」「機会をつくれば結婚は増える」といった主張を論駁し、「フリーター論壇」が経済について述べたフレームワークを非モテの問題にスライドさせることを試みている。その過程で澁谷は「あてがえ論」について、2009年の時点ですでに考察している。
非モテ問題の場合、これ〔若年労働者問題におけるベーシックインカム〕を「ベーシック異性」によって解決する発想がありえます。女性をもれなく男性に分配する制度です。(p.95)
澁谷はこの論が全くの荒唐無稽でないことを、19世紀半ばの宗教的コミュニティ、オナイダコミュニティを例に挙げ示すが、結局現代においては不可能であろうと言う。
当然のことながらこれを現代日本でやることは不可能です。「分配」される側の女性の中には、どうしても相手のことが好きになれない人が出てくるでしょうし、男性とつがいになりたくない人だって居ることでしょう。そうした女性に男性との共同生活やセックスを強要するのは、現代日本の常識においては、「人権侵害」となります。
もちろん、男性にとっても全く同じことが言えます。あなた好みの女性があなたのもとに「分配」される保証はありません。〔…〕「なんであいつには美人が来て、おれのとこにはそうでないのが来るんだ!」なんていう新手の「格差問題」も生じるかもしれません。(p.97)
この「格差問題」という未来予測は面白い。「チェンジ」なんて贅沢は、限られた資源(女性)をやりくりしないといけない政府が許すはずもない。チェンジOKをうたう風俗でも2回目以降は有料だったりするのだから。
個人的にはこの例示こそ「あてがえ論」に対する何よりのカウンターであると感じる。仮に「あてがえ」とガチに主張する人がいたとして、その人に人権を説いても馬の耳に念仏だろうが、こっちの懸念は聞いてくれるような気がするのである。
澁谷は続いて、経済問題における社会保障にあたるものとして、思想的セーフティーネットの構築を提唱する。まあそれ自体は正しいと思うのだが、本田透『電波男』における主張ほど面白いものではないのでここでは省略する。『電波男』を読め。
暴力的だったり、女性にたいして思いやりがない場合をのぞき、ある男性が女性から選ばれないのは、その男性のせいではありません。女性にとっての「よき男性像」が特定の偏り――収入と学歴が一定以上あり、ある水準以上のルックスをしていて、会話が続く――を見せている限り、そこに当てはまらない人や当てはまろうとしてもできない人が出てくるのは当然のこと。それは、男性陣が特定の偏りを持った「よき女性像」を持っており、そこに当てはまらない女性(非モテ女性)が出てくるのと同じことです。(p.100)
おそらくこの記述で多少救われる人もいるに違いない。KKOは来世に期待するしかないが、それはあなたのせいではない。
ただここで考えたいのは、「暴力的だったり、女性に対して思いやりがない場合」をしれっと除外している点である。そんな男でも「女をあてがわれた」のがかつての日本社会であったことは、澁谷も指摘している。
とはいえ、ちょっと脇道にそれますと、「分配」の方法は問わずに「男性にもれなく女性がくっついた」という現象だけを切り取ってみれば、それに近いものを一九五〇~六〇年代の日本に見出すことができます。当時の男性の生涯未婚率(五〇歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)はわずか一%台でした。九八%の男性が一度は結婚したことがある、つまり女性を「分配」されたことがあったのです。
何故これだけ広範囲の「女性の分配」が可能になったのか。「男女とも結婚して一人前」という社会規範が強かったこともありますが、なにより男女の経済格差が今以上に大きかったことが上げられます。
この時代、一部の職種を除いて、女性が一生続けられるような仕事はありませんでした。有名企業に就職できたとしても、当時は、女性にのみ適用される「三〇歳定年制度」によって追い出されてしまったのです。一方、男性には安定した仕事がありました。給料は毎年上がり、先の見通しも明るい、なんといっても高度成長の時代です。(p.97-98)
ちなみに本書では2005年の男性生涯未婚率15.4%という数字を引いているが、2020年には23.4%になっているらしい。
それに加えて、上で述べた加害性が必ずしも本人の責任ではないということも、90年代以降の精神医学や社会学が明らかにしてきたのではなかったか。
とすれば、KKOのみならず、KKKO(キモくて金が無くて加害性があるおっさん)もまた、必ずしも本人のせいとばかりはいえず、社会に包摂すべき、という話になってくるかもしれない。その際には「ラベリング」「過剰包摂」など、社会学が障害者やホームレスなどについて積み上げてきた知見を生かすことができるだろう。というか、福祉の現場の人たちはいまもKKOだけでなくKKKOも社会の内側へと復帰させるべく頑張っているのではないか。
なぜ、おっさんが問題なのだろうか。あるいはより学術的な言い方をするならば、非モテはなぜ男性の問題になるのか。本書はその問いに直接的に答えてはいないが、ヒントは与えてくれる。以下は1章のはじめの方の記述である。
皆さんは、なーんか気分が晴れない、ってことありませんか? あるいは、漠然とした不安があるとか。原因不明の体のだるさがあるとか。そういった不快な状態、つまり精神的に健康で無い状態を「ディストレス」といいます。そのディストレスが、独身男性と既婚男性とで、どちらが高いかを測った調査があります。〔…〕結果は〔…〕二八歳から七八歳まで、どの年齢層においても既婚男性のディストレスのほうが低かったのです(稲葉昭英「配偶関係と精神的健康」『日本の男性の心理学』二〇〇八)。男性にとって、そばに異性(=妻)がいる人生は、いない人の人生にくらべて、ハッピーなようです。(p.15)
澁谷はディストレスと妻帯のどちらが原因でどちらが結果かはこの調査からは分からないと述べるが、続いて妻に感情を見せることによって、夫が精神的に健康になっていくことを示す調査を引用し、「つまり女性と一緒に暮らすことがディストレスを低くすると考えるのは、間違っていないようです」と一旦の結論を置く。そして次のように続ける。
ならば、男性は女性から精神的なケアを引き出している、といえる。「女性だって同じことでは?」という反論に答えておくと、女性は独身か既婚かでディストレスに大きな差はありませんでした。〔…〕統計的な傾向でいえば、男性の精神的健康に女性の存在は欠かせないが、その逆はない、ということです。(p.16)
この下りはまったく読んだ記憶がなく、今回読み返して一番驚いた部分である。増田の実感としては「男がいないと鬱病になって死にそうな女」はよくいるが、その逆はあまりいない印象であるが、それはどうやら必ずしも正しくないようである(むろん男がいる=結婚ではないとか、ディストレスが高い=鬱病になって死ぬではないとか、そもそも元の調査やその読解がどうなのか、とかは考えなければいけないだろうがそれはそれである)。
上の論述は、女性(強者弱者フェミニスト非フェミニストを問わず)による「女に頼らずに男同士の友情で満足すればいいじゃん(私であればそれで満足するのに)」という主張が、必ずしも的を射ているとは言えない可能性を示唆している。もちろん逆もしかりで、「男性と夫婦になれば女性だって幸せになるはずだ(俺のように)」という男性の主張が間違っている可能性も同時に発生している。
ここに性にまつわる問題の隠れた難しさがある。「相手の気持ちになって考える」ことと「相手の気持ちになって考えたつもり」を区別することは、専門家であっても難しい。さらに加えて、先に述べた非モテ男性の三分類といった差異も隠れている。とにかく、話題への参入障壁が低い(男もしくは女であれば誰でも一家言持っている)わりに、トラップが多すぎるのである。これが2009年から今に至っても議論が終わらないし前に進んでもいない一因だろう。
こうした非対称性が発生する原因として澁谷は、現在の社会において女性が男性より相手の話をよく聞くように育てられており、それに対して男性は競争的に育てられていることを挙げている。その結果として男性は女性に癒やされているし、女性も女性に癒やされているのだろう。
一応言っておくとここで澁谷や増田は「男性と違って女性は人を癒やすべきだ」とか、まして「男は働いて女は家にいるべきだ」とか主張しているわけではない。ただ、そういう傾向がいまの社会にあるようだ、と言っているだけである。それを望ましいとか望ましくないとか考えるのは社会科学の領分ではない。「〈こうである〉から〈こうであるべし〉を導くことは不可能である」(ウェーバー)。
12年後のいま、澁谷の主張に触れると、多くの部分はそのまま現在に流用可能であると感じる。しかし、目配りが足りていない部分もある。おそらく澁谷は包茎手術と高須クリニックの関係よりも、男性における経済的問題について語るべきであっただろう。「女はホームレスにならなくて済むからいいよな」「いや危険だから女はホームレスになれないのだ」「それでも事実として死ぬでもホームレスになるでもない選択肢がある女は恵まれている」云々のあれである。むろんそれは今だから言えることであるのだが。
それでも増田が望んでしまうのは、そうした議論が両者ともにマジでクソだと考えるためである。ホームレスと実地で接しろとは言わないからせめて、ホームレスに女性は本当に少ないのか、少ないだとすればホームレスになるはずの女性はどこへ言っているのか、それはほんとうに「恵まれている」といえるのか、といった事実についての認識は両陣営ともに共有すべきであるし、その時点で認識に差異があるならどの点で異なるのかを明らかにすべきである。
そうした仕事を澁谷が12年前に済ませてくれていたら、と思う。思うのだが仕方ないことなので、現在を生きる我々がやるしかあるまい。というところまでは澁谷の背中に乗って増田が到達させたので、ここから先はお前の仕事だ。頑張ってください。たまに手伝いに行くかもしれない。
===
(追記)
バズったので宣伝します。狐火という、この記事や通念における弱者男性というカテゴリーからはみ出す部分はありながら、それでも弱者男性であることを納得せざるを得ないリリックを10年以上紡ぎ続けているラッパーがいます。売れろ!
https://www.youtube.com/watch?v=tmJBGEFXOvU
勇気が欲しい
余裕で頭を下げられる
勇気が欲しい
勇気が欲しい
https://www.youtube.com/watch?v=MRLXZGylQRg
絶対こんなはずじゃなかった
オレこんなはずじゃなかったんだよ
https://www.youtube.com/watch?v=loWcv5VEObM
よく聞かれる
歌えないんじゃないですか?」
https://www.youtube.com/watch?v=z1J8BbnBLyQ
27才までに見ていた夢は全て叶った
以下の文章は、社会学は客観性が無いから学問の体をなしていないから解体すべき、という暴論を見かけて、趣味で社会学を学んでいる人間がイラッとして書き散らしたものです。専門家によるまともな読み物としては、盛山和夫『社会学の方法的立場: 客観性とはなにか』(2013)、佐藤俊樹『社会学の方法――その歴史と構造』(2011)(たまたまですがどっちも東大系の人ですね)、あるいは以下で紹介する「客観性論文」やそれ関係の論文などがあります。ちなみに「岩波科学は科学論文」の人に関しては擁護のしようも無いと思います。
たとえば、この宇宙はスパゲッティモンスターによって創作されたという誤ったイデオロギーを抱えた科学者がダイナマイトを発明したとして、ダイナマイトは誤った発明であるとか、あまつさえ存在しないということにはなりません。それはそれ、これはこれ、という態度が科学的というものでしょう。しかし、誤ったイデオロギーを社会学者が抱えることは望ましくないとされます。なぜでしょうか。
それは社会や社会問題が、原子やDNAが「存在する」のと同じ意味では「存在する」と言えないことに根本的な原因があります。たとえばホームレスは現在の社会においては色々な意味で問題とされています。しかし、ホームレスは人類の定住以前においては間違いなく問題や概念として存在していませんでしたし、中世や近世においても今日と全く同じ問題としては存在しなかったことでしょう。原子がこの宇宙の始まりから今と同じように存在していたのとは対照的です。ホームレスを扱う社会学が、物理学や生物学と比べて胡乱なものに見えがちな理由はここにあります。誤ったイデオロギーを抱えた社会学者は誤ったものを存在するとみなしてしまいかねないのですね。
しかしだからといって、今日ホームレスが問題としてまったく「存在しない」と言い切ることはできないのもまた確かな実感でしょう。原子の「存在」とは別の意味とはいえ、社会や社会問題は確かに「存在」する、と言いたくなります。「実在」と「非実在」のあいだの独特な在り方。社会学者はそのことを「社会的実在」のような言葉で表してきました。これはいかにも怪しい物に思われます。しかし今日における我々が「ホームレスになりたくない」、「ホームレスが怖い」、あるいは「そうしたホームレスに対する差別的な見方こそが問題なのだ」と思っているのもまた確かなことです。およそ100年前、そのことを単に思うだけでなく、その思い自体を当時隆盛しつつあった科学の方法で分析しようと考えた人々がいました。
マックス・ウェーバーの「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」(以下、客観性論文)という1904年の論文があります。ウェーバーは社会学におけるビートルズであり、この論文はイエスタデイくらいの重要さと著名さを誇ります。要するに、まともに社会学をやっていればなんとなくは知っているべきもの、という位置づけでしょう。(ちなみにLet it beは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。読んでいないのは許されない)
とか言いながら私は手元にその本が無いので、ネットの記述に頼りつつ思い出した記憶で以下のことを書くことをお許しください。
ウェーバーは客観性論文のなかで社会学者がよって立つべき「価値自由」という概念を提唱します。この主張はしばしば「価値判断をしてはならない」とか「価値判断に影響されないデータだけを虚心に扱うべきである」といった主張として誤解されています。しかしそうではなくウェーバーはここで「社会学者もまた人間である以上、何かの価値判断を持ってしまうことは避けられない。そして価値判断は時として認識を狂わせる。しかしだからこそ、社会を科学的に取り扱う社会学者は価値判断と認識を区別しなければならない。そのためには自分の持っている価値判断に対して敏感でなければならないのだ」といったことを主張していたはずです、たぶん。客観性論文については多様な読解や批判がなされている(上に私の手元にその論文が無い)ので客観性論文の内容についてはこれ以上立ち入らないことにします。以下ではその代わりに、客観性論文に関する微かな記憶を頼りにしながら、社会学の客観性について考えてみたいと思います。
たとえば次のような主張がなされることがあります。「数字は嘘をつかないが、数字を使う人(社会学者!)は嘘をつく」。けだし名言でしょう。しかし、社会学者であるならばもっと深く考えなければなりません。ここでは「ホームレスの人数」について考えてみましょう。ここで名言に従って単純に考えるのであれば次のようになるでしょう。ホームレスの人数は、数学や物理における定数のように誤ることなく(それを測り間違うことはあるかもしれないが)存在しているが、それを多いとか少ないとか、それを減らすべきだとか主張する人は誤ることがある、と。
後半は確かにそうでしょう。しかし、前半は間違っています。たとえば、日本政府はホームレスについての統計を発表しています。しかし「国民の税金を使ってホームレスの人数を数えよう」という時点ですでに何かしらの価値判断が働いています。そのことは政府のサイトに「ホームレスの実態に関する全国調査」が載っていて、「鼻くそをほじって鼻血を出した人の実態に関する全国調査」が載っていないことを考えてみればわかるでしょう。こうした極論を言うと、「どちらも数字としては存在するが、後者はただ(未発見の物理的性質のように)見つかっていないだけだ」と言われるかもしれません。しかしたとえば日本政府のホームレスに関する調査は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法第2条に規定する「都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」」を対象にして行われているようですが、ここからはいわゆる「ネットカフェ難民」がその統計から漏れています。これは単なる「測り間違い」なのでしょうか。そうではありません。「ネットカフェ難民」をホームレスに入れるべきか、あるいはそもそも「ネットカフェ難民」をそもそも「問題」とすべきかこそが、ひとつの価値判断であるのです。「ネットカフェ難民」を入れたホームレスの人数と入れないホームレスの人数、どちらが正しいでしょうか?それは重力加速度として2m/s^2と9.8m/s^2のどちらがより正しいか、という問いのようには答えが出そうにありません。
社会についての数字は、自然科学における定数のようには存在しないのです。つまり、社会における事実は、自然科学における事実のようには存在しません。そのような状況で、いかにして社会を科学的に扱うことができるでしょうか?
もしかしたらそもそも可能かを問う以前に、そんなことを目指す必要があるのか疑問に思う人がいるかもしれません。あるいはより直裁に「社会を科学的に扱う学問=社会学って何の役に立つの?」と聞かれることはしばしばあります。それには多様な答えがありうるでしょうが、私は次のように答えることにしています。「何かの役に立つわけでもないのにやらずにはいられないのが科学の出発点なのだ」と。人間が持つ認識能力や、何かを書く/描く、喋るといった能力は、生存する上での必要性から発達したはずです。自分の周囲を見渡す能力や、自分が見た物事を他者に伝える能力は、それを持っていない種よりも生存上の有利をもたらしたことでしょう。しかし人間は、その必要性を越え出たところまでその能力を、あるいはその能力によって生み出すものを発達させました。それは、芸術とか哲学とか、あるいは科学とか呼ばれるものです。存在しない風景を描くことに、どんな必要性があるでしょうか?死後の世界を思い描くことに、どんな必要性があるでしょうか?そして宇宙の星々の表面を調べることに、どんな必要性があるでしょうか?こういうことを言うと、次のように返されるかもしれません。「芸術や哲学は生存に不必要かもしれないが、いまのわれわれは科学無しには生きられないではないか」と。まあ、確かにそうです。でも、それは科学の根本的な不必要性を否定するものではありません。人間=ホモサピエンスは、ニュートンが万有引力を発見する以前からずっと世界の覇者であったではないですか?それでもニュートンが万有引力を発見したのは、「世界のことをもっとよく知りたい」という、ただ生きるためには不必要な知的欲求、こういってよければ人間特有の本能からであったはずです。「ただ生きる」ことに飽き足りないのが今の人間であり、そうした人間が生み出したのが芸術・哲学・科学です。そのうちの科学的欲求が、これまた不必要に複雑化した社会のありように向かうことも、私は自然なことだと思っています。先のような問いをする人には、正直に言えば「なぜあなたは社会について科学的に分析したいと思わないでただ生きていられるのですか?」と私なんかは思うのですが、これはさすがに社会学に頭をやられてしまった奴の意見でしょう。ほかの社会学者はもっとうまく説明することができるはずです。まあ、そんな可哀想な奴もいるんだなと思っておいてください。でも実際、「社会に対する科学的認識って必要?」と言われたら、究極のところ「認識したいんだから仕方ないじゃん?」としか私は返せません。なのでこの問題は放置して次の段落に向かいます。
さて、いかに社会を科学的に扱うことができるかという問題でした。その問題は、社会に「存在する」ものや数字が、ふつうの科学が扱うものや数字と同じようには「存在しない」、というところから発生しているのでした。より明確に言えば、社会的実在は、それを観測する人や社会の価値判断を抜きにしては存在し得ないという独特の性質を持ちます。たとえば「ネットカフェ難民」は、ここ二十年ほどの日本の労働環境やネットカフェの事情抜きには科学的な意味で「存在」しませんでしたし、さらに言えば科学的な意味で「存在」していても、支援団体の人々などが発見しニュース等で取り上げられるまでは社会的に「存在」しえませんでしたし、いまだに政府のホームレス統計には「存在」していない、という状況にあります。そのことは万有引力が宇宙の始まり以来、ニュートンが発見しようとしまいと科学的な意味で「存在」していた、あるいは今現在未知の物理的現象や生物的現象が、まだ発見されていないだけですでに世界のうちに「存在」していることとは対照的です。
価値判断抜きで存在し得ない対象を、いかに科学的に扱うか。それこそがウエーバーが客観性論文のなかで考えたことでした。ここでよくある誤解は、そして絶対に避けられるべきなのは、「社会的実在は実は価値判断抜きに存在しうる」と考えたり「価値判断抜きで存在するものを社会学は扱うべきだ」と考えたりすることです。前者が存在しないことはすでに説明しました。社会的実在は――それが単なる数字や統計であっても――価値判断抜きには存在し得ません。であるからして、後者は社会学を根本的に否定する思想です。そういう価値判断に影響されざるを得ないもの、すなわち社会や社会的実在をよりよく知りたいと考えるのが社会学なのですから。それを否定する人に対しては何も言えないということはすでに述べました(あくまで私個人からは、の話ですが。ほかの社会学者はもっとうまく説得するかもしれません)。
そこでウェーバーが述べたのが「価値自由」でした。社会学者は自分の価値判断をわかっていなければならない。より分かりにくく論文に忠実な言い方で言えば、「存在する」ことと「存在するべき」ことを区別しなければならず、科学は「存在する」ことしか明らかにできない。このウェーバーの主張に対しては、それもまたひとつの価値判断ではないか、という主張を投げかけることが可能ですし、一見ただのいちゃもんに見えるその問いは、社会学の中で大真面目に議論されてきました。私の見たところ、この問題は答えが出ない種類の問いなので、取り扱わないことにします。いいじゃないですか、どんな学問にだってドグマの一つくらいありますよ。それより重要なのは、「自分の価値判断をわかる」ことが、本当に社会的実在を扱う上での十分条件であるのか、ということです。それが必要条件であるのは確かにそうであると思います。ある社会学者が「ホームレス問題についての社会学的分析」という論文を書くとして(テーマが広すぎますがそれは置いておいて)、その人が「自分はホームレスを望ましい人間の在り方ではないと考えている」とか「というかホームレス気持ち悪い」とか「ネットカフェ難民をホームレスに含めていない日本政府は問題である」とかいう自分の価値判断を自覚していなければ、それは社会学的研究として成り立たないでしょう。しかし、それだけで十分なのか。社会的実在というものは、もっと慎重に取り扱わなければならないものではないか。(実際、客観性論文より後の後期ウェーバーも、そう考えて「理解」を社会的実在の根本に据えたと私は理解しています[詳しくないので間違っているかもしれません])
と、ここまで書いて疲れたので一旦筆を置きます。続きは最初に挙げた二冊を読んでください。でも、ここまで読んでくださったあなたに問いたいのですが、私の書いたことは多少なりとも興味深くはなかったですか。社会学はこのような根本的な問いを抱えながら成長してきましたし、まだその途中にあるのかもしれません。私の考えるまともな社会学者はこの文章における中心的な問い「社会的実在とはどのようなものか?」に対する、この文章以上に説得的な答えをそれぞれ持っています。そこが人によって違っていいのか、と思われるかもしれません。もしかしたらそこが社会学の駄目なところかもしれません。しかし、おおよその社会学者は確かにウェーバーや(この文章では触れませんでしたが)デュルケームなどが作った社会学の歴史の上で考えている、という点では一致していると思います。それこそが社会学の共通性であり、知的伝統であるとみなしてはもらえないでしょうか。よろしくお願いします。
欧州サッカーなどは各チームがそれぞれに選手と契約するかたちをとっている。
それは「チームの戦力均衡」を目指しているからだ。
日本のプロ野球や、アメリカのMLB・NBA・NFL・NHLなどは、
メンツが変わらないなら同じくらいの強さで鎬を削っているのが最も面白いわけで、
資金力のあるチームが有望な新人を独占するようなことは望ましくない。
そのためドラフトによって新人を均等に割り振る必要があるのである。
リーグでの成績が悪いチームから選手を指名していく「ウェーバー制」も戦力均衡を企図したものである。
一方、ヨーロッパなどではピラミッド型のリーグ構成が採用されている。
たとえばイングランドのサッカーだと最上位のプレミアリーグから、
プレミアリーグ→EFLチャンピオンシップ→EFLリーグ1→EFLリーグ2→ナショナルリーグ…
以下、「22部」までのヒエラルキーが出来上がっている。
強いチームは常に上位を独占し、弱いチームはどこまでも下のリーグへと落ちていく。
そうして下位チームにも競争を課すことで消化試合を減らしているのである。
またチャンピオンズリーグのような各国王者が参加する大会において、
自国のチームを優勝させるために戦力を一部のチームに集中させるというインセンティブもある。
プロ野球の場合、ドラフト制導入はマネーゲームに対する反省が主な理由だった。
金満球団であった巨人や阪神はドラフト制に猛反発したし、実際に巨人のV9が終わったのは、
戦力均衡とは逆行するような部分もあった。
結果としてどちらを目指すにしても中途半端になってしまっている。
ドラフト制の廃止をするなら2部リーグを導入する必要があるが、
国際的な人気も得られない状況で、一部のチームに戦力を集中させて、
逆にさらなる戦力均衡を図るなら
・完全ウェーバー制の導入
・サラリーキャップの導入
・トレードの拡充
などを考えねばならないだろう。