はてなキーワード: パンセとは
りゅうちぇる&ぺこ家族の件、批判ツイートが刺さりまくる。
自分はAよりのパンセクで恐らくノンバイナリーってやつ。社会生活しなきゃならんから一応身体性別で通してて、今は完全シスな異性のパートナーがいる。(パートナーには軽く説明はしてるけど、多分あんまわかってない)
親は理解する以前にテレビにそういう人出ただけで差別と不愉快の雰囲気を出してるから、過去に同性のパートナーがいたこと含めて何一つ言えずにいる。
自認が男女どっち付かずのゆるゆるな自分でも、見た目の性別に沿った仕草求められるのは結構しんどいもんだよ。
ビジネス的な側面でのペルソナだったとは言え、やっぱり別人とも言えるほどの振る舞いを求められて相当しんどかったんだろうなって思う。
まず、今回の問題に解しては「全ての暴力(とりわけ殺人)は悪である」という言明から始めることが不可能であるのはもはや明らかだということをわれわれは認めなければならない。
なぜならわれわれは通常この命題にはある種の「絶対的正論(否定不能なドグマ)」として機能し、対話の土台を提供することを期待するが、今回においてそれが機能していないのは明らかだからである。「暴力は悪である」の後に、いともたやすくわれわれ(少なくとも私は)が「……しかし、」と続けたくなってしまうこと、それがいかに異常であるかを考えなければならないと私は思う。
しかしそれでも、どれだけ山上に同情的な人であったとしても「山上の行為は弱者が福祉を頼るようにその状況下ではベストな行いで仕方なかったから、同じ境遇にある人々は同様の行動にぜひ出るべきである」と思っている人が(山上含め)いないことを私は信じる。私は私の直観を信じるし、他の人の直観も信じている。
だから、もはや私は暴力を暴力であることによって否定する「旧社会しぐさ」を方法論的次元において否定する。
「暴力は悪である。しかし」、人類史上この論法が最も大規模に振るわれてきたのはむろん戦争の際である。そしてわれわれは戦争を例外状態とし、平和(少なくとも非戦争)を通常状態として考えている。しかし同時に、その「例外」が近代以降に限定してさえ実はむしろ多数派ですらありうることも、われわれは何となくわかっている。そのため「暴力は悪である」という命題に対して、われわれは完全に従いながらも、実は腹の底ではどこかしらけた態度を取っている。
パスカルがパンセの中で述べていたように正義と力の関係とは、何が正義かを確定させるためには人類の寿命を超えるかもしれないほどの議論を要するのに対して、誰が力を持っているは誰が見ても明白であるという特徴を持つ。だから「力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力である」。そして常に暴力は無力を退けそこに君臨する。だからわれわれは、正義に力を与えるのではなく、力に正義を与えることにした、パスカルはそう主張する。
むろんパスカルはフランス革命について何も知らないので、その点について注意する必要はあるが、それにしても優れた洞察であると思う。われわれは何か正義のために社会を構築した=社会が正義である、というドグマから解放されなければならない。社会=旧社会はリヴァイアサンを鎮めるために持ち出された道具的存在にすぎない。
言論的次元においては暴力に対し積極的にエポケーを行いながら、具体的手段においてはあくまで暴力を否定し続けること、それが私と旧社会の理想が重なり合う正義であると私は言いたい。
ここでキリスト教における基礎の一つ、「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」について考えてみたい。駄洒落以上の意味があるかどうか疑問に思うだろうが、実際それ以上の意味は無い。
山上の垂訓とは「心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」から始まる、死後に神の救いを得て天国に行ける人とはどのようなものであるかを説いた有名な部分である。ここでいう「心の貧しい人」とは一般的な日本語の意味ではなく、自分の足りなさを認め神を求める、ぐらいの意味に解釈されることが多いようである。
たしかにキリストは力ではなく正義の側に立とうとした人であったと思う。他方そうであるがゆえに2000年前の現世においては無力であった。しかし、と考えてみたいのだが、キリスト教-山上の垂訓的な倫理は今や明らかに無力な存在ではない。われわれはもはや正義に力を与えることが可能である。
だから私は所与の力に正義を与えんとする「思想-的-テロリズム」については私の正義に基づいて否定するが、正義に新たなる力を与えんと言論の次元に留まる「テロリズム-的-思想」を断じて肯定する。
https://odaibako.net/gacha/5976
※CLとは※
Coは共同・対等
もとは英語でco-educationで男女共同教育を表していたが、現在は略したco-edのみで「男女混合」や「男女いっしょに」という意味で使われるようになっている。
そのため混同しないよう男女共学と表す際にCoed schoolと表記することもある。(韓流アイドルでもCoed schoolという男女混合グループが存在した)海外アパレルブランドのマ/ル/ジ/ェ|ラにもco-edという男女共用ラインがある。(男女混合として表す語はミックスが多いですが、メンズラブのMLがあるためこちらにしました)
ヘテロ(異性愛)は対義語がホモ(同性愛)として使われているため「ヘテロラブ表記をすることによりBLGLも同性愛者と決めつけてしまい創作にバイのキャラクターが暗に含まれない意味」となりますが、
「co‐edは対義語で同性愛と決めつけることなく単純に男同士の愛、女同士の愛、男女の愛という意味を差す」ことになり「より表現したい原義に近い」言葉だと言えます。
また男女いっしょだけでなく男女共用の意味もあるため、男か女かどちらか一方の性を断言できない方も含めて使えると言えます。
CoLはHLタグは語源がへテロセクシャルとして使われてそのへテロが悪口のニュアンスで使われている以上、HLの中に入ってくるバイやトランスジェンダーにも悪口を浴びせていること、異性愛者全体へのヘイト用語として使われることもあること、へテロは性的少数者を差してないなど、
そもそものへテロラブ表記の抱える直球の差別につながる要素を解消するための表記です
それを容認するのはよくないし悪いよな~の考えです。
なによりHLを広めてる方でへテロを悪口や罵倒語のニュアンスとして使ってらっしゃる方が、少なくない数見受けられます…
罵倒として使っていらっしゃる方本人のセクシャリティをスルーしているのではなく、単純にオタクという対等な属性として考えたらマナー的に考えてよろしくないんじゃないかと・・・。
(特定の性への罵倒を堂々と行うのはどんな立場やセクシャリティであっても人として根本的にマナー違反ですし…)
ノーマルがアブノーマルの反対の論が通るのなら、そのまま異性愛者の意味で伝えられてる以上それはNLより直球で排除する人が多くなってて結果的に差別なくせてない…のでは…
個人的には悪口と分かって広めるのもNLより直球に差別的な思考に感じてしまってます
へテロはホモと対称なのがなんか嫌…て意見もよく見るんですが、差別用語のホモセクシャルと対称であることを使用して「差別主義者」という意味合いの悪口として使われてるので、その嫌だなって意見は気に入らないし通らないって意見もその悪口として使われてる事実を封じ込めてしまっているんですよね…だからそういう理由でHL表記に差別性があるのは通らない…という論は無理があるというのが私の意見です。
感覚として実際悪用されてるんだから間違ってないんじゃないかな…
きっと私の主張を見て「世間の扱いとして差別されておらず釣り合いが取れてないから悪口として使われていてもスルーしていいし差別じゃない」と思った方もいるでしょうが、それは正直危険な考えではないかな・・・と自分は思います。
だってその異性愛表現そのものを悪口で呼んでいいって考え方は、その中に含まれるバイセクシャルが異性と恋した瞬間に悪口で呼ばれることになるってことですよ
そういうの考えもせず異性愛描写だからって悪口であるのを無視して使わせようとするのは差別が発生せず配慮されていると言えるのかな…って
「構造上ヘテロとホモは対称であるには事実」でも「立場が違うため同一に扱えるものでない」ということは、「だから差別を作り出さない言葉になるということとイコールにならない」です。
異性愛の中にも少数者がいてその人たちを無視しているのは事実ではないでしょうか。
推奨している方々でもそのことを頭の片隅で一度は意識したことがある人はいるのでは・・・
マイノリティを日頃から意識されている中でそれらに言及した方もいたのではいでしょうか
対照だからというのは差別にならない、というのは、実際に悪口として使われていない状況で初めて作用するもので、差別を無くすためと言いながら異性愛の中の少数派が見えてないのは、そうしてもいいって思い至らない、これにはそういう扱いしていいって優しさの欠如ではないかな…
ヘテロはホモの対象な言葉で、悪口として使う際は「同性愛と違って差別用語とされない差別や孤独と無縁な無自覚な人たち」という意味合いなんですよね
それって異性愛の中でセクシャリティで孤独を感じてる人に対して「結局はあなたの悩みはお遊びでしかない」とバイやパンセクに言ってるのと同じじゃないでしょうか。
あなたの苦しみなんて気遣う価値がないものだと言ってるのと同じじゃないでしょうか。
実際実在の該当者に対してそのような(結局はヘテロかよというような)悪態を吐く場面を見たことがあります。
それは差別でないと言えるんでしょうか。
そのことに気づかず善意で使っている方が、NL使用についてよく言われる「人を踏みつけているのに気付かない」を一番守りたいと考えている性的少数者に結果的に行ってしまっているのは悲しいことではないでしょうか・・・
平等のためと言っている方が多い中、意識して他人を踏みつけることが目的なわけではないでしょうし…
そのような考えの方がいらしても、それは性的少数者が悲しむのを自分のことのように受け止め悲しんでるからであって、個人の感情のみで発散の大義名分にされている方は少数だと思うので…(それがおもな理由でもそれはそれで何か理由があると思いますから適切な発散ができるとよいなと思います)
全体の大きな目的のためにふるい落とされる存在を瑣末なこととしてないもの扱いで無視されるのなら、それが差別意識っていうものなのではないかな…と
多分そう遠くない未来にバイやトランスやアセクシャル、パンセクシャル、その他さまざまな少数派のセクシャリティやジェンダーの方からHL表記から暗に排除されていることや悪口としての使用について意見が出る可能性は高いのでは・・・・
実際数年前からぽつぽつそういった当事者からの意見もお見かけしました。本当に少しですが・・・
逆に出ないほうが問題かなーと思います・・それは当事者が痛みに声を上げにくい社会になってしまっているということなので・・
そもそも悪口として自分が認知しているにも関わらず人に勧めるのはそれが少数者であっても良識的にアウトではないでしょうか。
もちろん声を上げて自分は普通だ、と主張することは自分は対等な人間であると表明するのに必要なことですが、悪口として自分が率先して使うこともある用語を事情について詳しく伝えず「正しい言い回しである」として勧めるというのはそれこそ「普通から外れ良識が欠如した異常な行動」に該当するのでは…
「自分達はアブノーマルでも良識から外れているわけでもなく、たただ当たり前に人を愛しているだけだ」と主張する行動を損なってしまうのではないでしょうか
ヘテロを悪口や罵倒のニュアンスで使いながらHLを勧めている方は、自分達は異常者でないと証明したい意図から外れ、過去に抱かれていた「良識がない異常者」というイメージを覆すどころか、差別を抱かれていたイメージに根拠を与える行動になりかねない、一部では既にそのようなイメージが強化されている人もすでに出ている印象です・・・・
分断を生む要素が多く悪口としての用法のイメージを抱いている人が少なくない以上、平等のために掲げる表記としては不適切な部分の方が多くなってしまっていると思います
また悪口として避けられている側面があるのでは、区分けして平和を保つのための表記という本来の意味をなしていないので…
メジャーですが問題提起されるのが多い表記ですし…平和的でないという理由で…色々論争の的となっていて判定が難しいところがある…浸透していて変に変えるのは混乱が起こるし…と思います
直球で悪口として使われてるわけではないですが、人より異常でマイノリティなオタク趣味だからこそと楽しむ時代ではもうなくなっており、それぞれ平等な人間として扱いたい流れがあるので…
なのでそれらの問題を解決するため、新しく表記についての記事をもとにまだ提唱されていないco-edloveを提案します…!
他の方も使って頂けますと嬉しいです…!
もとは共学の意味でしたが、現在はそのまま男女混合としてそのまま使われてて、共学の際はcoed schoolとするそうです。
海外ブランドのマ◯ジェラにも男女共用ラインでco-edがあります。
これならバイセクシャルや性自認で悩む方も使えるんじゃないかと思いました。
現在NL表記で、HLが悪口として使われているのを見かけ変えにくく困っているという方も、考えに同意していただけたらCo-ed Love(男女CP) 、字数がきついならCo-ed Love(NL)などでもいいので分かるように表記してもらえたり、表記を変えなくても「こういうのがあるよ」とツイートしてくださると助かります。
※ただし使う際はハイフンを入れてco-edにしてください。coedloveだとTwitterでは男女混合のスポーツのタグとして使われてます…
HLを広めてくださってる方にも
「世間に広まりにくいというのはNLを使い続ける理由にならない」という考えの方が多く見受けられるので、クラスタ内でも提起して浸透するのにご協力いただければと思います…!
・昨今の情勢を問題視し日常でも争いを巻き起こすことをよしとしない方
・「マイノリティマジョリティ関係なく性を揶揄したり否定することを容認する、差別の根本的な価値観」を問題とされる方
(※マジョリティ関係なくというのが重要で、多数派のBLジャンルの方が揶揄されがちなのもこれらの価値観が欠如してるため起きているのではと思います。)
何よりも
・異性を愛することもある性的少数者で、世間のマジョリティに不満を抱えている者同士で関わってみたものの異性の恋愛になるといくら叩いてもよい、悪口であることを
スルーしてもよいという風潮に苦しんでどこにも行き場がないと感じてしまっている。でも痛みを主張しづらいと感じている当事者の方
・または上記のマイノリティの中のさらにマイノリティの方の痛みをどうでもいいことだと決して考えていない方
はぜひ広めてほしいです。
社会的弱者であれば排他してよいという考えはいつか全ての人間を追い詰めるだろう、という論で配慮を促す意見をよく見ます。
それと同じく、世間的には被差別でなく差別する側であれば配慮がいらないという考えもまた、いずれ自分に降りかり追い詰めていくものではないでしょうか。
なによりお互い踏みつけることになるのを「配慮」と称して推奨するのは配慮の定義とは外れると思います。
そういった状態をナチュラルに肯定し、HL表記を勧めている方も見られる以上、争いの火種になってしまいます…できれば共有いただけると幸いです。
追記:ぽつぽつツイートしてくださる方お見かけしまして大変嬉しいです・・・!
でも表記や使っている方そのものに批判的な発言しながらの引用はしないでいてくれるとハッピーに変われていいと思います
HLが広まらないのは強く薦めてる方がNL使ってる人を侮辱的ともいえる悪口で批判したりNL表記は完全に悪で白い目で見られるものだ!って極端な考えて不快にさせるような物言いをする方が目立ってしまうことがあるのもかなり大きいと思うので・・・
HL使ってる人にこそ問題提起をしてほしくて記事を書いたので批判する内容にはなってるのですが、HL表記を広めたいって方の考え方は優しいし大事にすべきだと思うからあんまきつい言い方しないで広めてやってください〜
自分の言い方でHL使いたい人の気持ちそのものを悪いものだって言われたみたいに感じさせてたら自分が文章力なくてまことに申し訳ない気持ちです・・・
あくまで悪口や罵倒語として使われてるのをスルーして広めることをに私は問題提起したいのですが、うまく伝えれれてなくてすみません
ただやはり現状が問題提起される空気がないのは危ないと思うので、できればまだ浸透率が低い今のうちに軌道修正をはかったほうがいいのではと思います。
異性愛のみをノーマルとする考えが差別の温床であり撤廃すべきだと言うのなら、
異性愛の中に入ったのならマイノリティであっても罵倒してもいいという考えを補強するような用語を、
人権について語る人がいたずらに広めるような動きも撤廃しなければならないと考えます。
そもそも男女の創作なら悪口スラングで元々使っていたものを使わせるのはむしろいい気味という考えなら、何をそんな小さいことを言ってるんでしょうか。
そんな平和や平等、悲しみをなくす為の活動らしくないことを言わないでください。
全てのLOVEを平等に扱いたいからNL表記に疑問を感じていたのではないですか。
それを広めることでどうなるか、広めようとしている方や
ノーマルという呼称で傷ついて来た方々ほどその痛みをよくご自覚なさっているはずだと思います・・
悲しいことの繰り返しはもうやめませんか・・・?
マジョリティの世界ではホモは差別用語でヘテロはそういうカテゴリに未だ認定されていないです。
でも、マイノリティはマイノリティのコミュニティを主に生きているのではないですか。
その中で排除されている方はどこに行ったらいいんでしょうか。
※腐女子はやたらとセクマイを名乗る、という言説に対してのお気持ち文章です。
私は性自認はほぼ女で、性指向については特に定まったものはない。
相手の性よりも、性格などの人間性と容姿に重きを置いていて、男女(しか好きになったことがないからわからないが、恐らくそれ以外の性の人も好きになれる)関係なく好きになる。
性交渉の相手については、単にそっちの方が気持ちいいからという理由で、男の方が多い。
要するに、バイセクシュアルだとかパンセクシュアルというくくりになるんだと思うけど、特に自分で自分をマイノリティだと思うことはない。
自分にとってそれが当たり前であるし、体と心の性が一致した上で異性を好きになれるという点で、私は「今の日本で当たり前とされている恋愛・結婚の形」に収まることができるからだ。
そして私は、年季の入った腐女子である。目覚めは小学6年生、そこから成人に至る今日まで、推しカプが存在しない日はなかった。
腐女子嫌悪の人からしたら言い訳にしか聞こえないだろうけど、私はどちらかというとBL自体が好きなのではなく、BL(特に二次創作)にありがちな「クソデカ感情」が好きなのだ。
そこに好みのキャラとそのキャラが誰かに抱くクソデカ感情があれば、公式男女カプも好きになるし、たぶん百合カプも好きになる(これについては該当するものに出会ったことがないので何とも言えないけど)。
ただ、BLを好きになりがちな以上、自分は腐女子ではないのだと主張するのは痛々しいので、私は腐女子なのだと受け入れることにしている。
私は腐女子はキモいと思うタイプの腐女子なので、できるだけオタク趣味は他の無難な趣味で覆い隠し、ファッションや美容にも気を使う(コスメオタクなので苦ではないけど)ようにしている。しているが、それでもたぶんどこかから腐女子臭が漏れてるとは思うし、それを鼻息を荒くして否定する気はない。
自分のセクシュアリティが特殊なものだとは思ってないけど、まあたぶんセクマイではあると思う。そして私は気持ちの悪い腐女子だ。
世の中では、LGBTを名乗る腐女子=厄介で、「本物」に対して失礼だ って感じになってるじゃないですか。わたしも、これに該当するのかなって思いはじめて、ずっと苦しくて悲しい気持ちでいる。
思春期にありがちな「特別になりたい」欲求から自称セクマイになったり、BLを好きでいることを正当化するために自分もセクマイだと言い張る、みたいな、そういうどうしようもない幼稚な人間なのかな私は。
たしかに私が「自分は男性以外も好きになるな」って自覚したのはゴリゴリに思春期の時だったし、その時にはもう腐女子だった。
でもそう気づいたのは、私が本気である女の子に恋をしたからで、その子は今でも世界で1番好きな人だし、そういう恋ができたことを私はこっそり誇りに思っている。でもでも、側から見たら私は「自称セクマイの腐女子」でしかなく、私個人が持つ誇りや感情など当然誰にも気付かれず、「腐女子は最低で気持ち悪いのだ」というテンプレの中に押し込まれてしまうんだろうな。
わざわざオシャレに気を使ってます、みたいな文を入れたあたり、自分でも「コイツ許されることを望みすぎだろ、キモ」って思うんだけど、そうだよ、私は許されたい。自分のエゴのためにセクマイを利用する腐女子と、あなたは違うんだと誰かに言ってほしい。
(追記)
こんな書き殴りの文、誰も読まんやろなって思っていたら、意外とコメントを書いてくれる人がいてびっくりしてます。自分を客観視する能力が致命的なまでに無いので、純粋にありがたいです。ありがとうございます。
いくつかわかりにくいところがあったと思うのと、改めて考えたことの追加です。(長い)
・まず、私は恋愛対象・性指向ともに、男性女性もしくはそれ以外も対象になります。ただ、性交渉の相手は、性癖的にどちらかというと男性が多い…という感じです。
・セクマイじゃないんじゃない?という方もいましたが、バイセクシュアルとかパンセクシュアルとかがセクマイじゃないなら、私もセクマイではないんだと思います。
・略し方についてのツッコミがあったけど、セクマイって略し方って一般的じゃないのかな?私の周りはみんなセクマイって言うが、私の周りだけなのか…?
・自分の性指向や恋愛対象については特に悩んでおらず、将来の結婚とかそういうのも、まあなるようになるよね!って思ってます。
・腐女子嫌いの人たちが、「腐女子は、自分のBL好きを正当化するために、もしくは厨二心でセクマイを名乗りがち」と言っているのをネットで見た上での文章でした。
・実際にそういう腐女子がいるかはわからないけど、腐女子嫌いの人たちから見たら、私も同じ穴の狢(腐女子で一応セクマイなので)なのかな〜嫌だな〜許されて〜ということです。
・でもコメントの感じを見ていると、この言説って一般的ではないのかなって思えてきて、気持ちが楽になりました。趣味は趣味で、性指向は性指向ですよね。そりゃそうだわ。
・そう、ほんとに幼稚なんです。他人に許してもらえても、結局自分で割り切らなきゃ意味がないのに、他人に認めてもらうことばかり求めているんです。精神が大人になれるように頑張ります。
・ちなみに増田はこの間20歳になりました!ビールを美味しく飲めるようになりたいです。
・腐女子趣味を辞めるつもりは今のところありません。楽しいので。他人に極力不快な思いをさせないように楽しみます。
・人生の伴侶欲しいね〜〜家庭も築けたらいいけど、自分が将来結婚できてる気がしない…
腐女子だけど腐女子嫌い、みたいな人って私含め最近多いですよね。腐女子界隈って、「腐女子はキモいから自重しよう」みたいな圧がかかりがちだったり、マナーについて学級会が開かれがちだったりするので、「腐女子はキモい」って思ってる腐女子が多いのかもしれないですね。
まあほんとにキモいことに変わりはないので、自重とかマナーが大事だと思うんですけど、自分の趣味や属性を否定するのって苦しいことだと思うので、自分なりに上手い向き合い方を見つけられたらなと思います。
初めて"クイア"という言葉を聞いた。ソースは宇多田氏がノンバイナリーと言った事と、そこから過去の曲が"クイア的"だった的な増田から
https://anond.hatelabo.jp/20210628194034
宇多田氏の曲がどーとかっていう事じゃなくて、日々、いきなり出てくる"性の概念"についていけない。
それが多様性というものなのかもしれない。LGBTQの活動?のサイトで「性はグラデーション」って書いてて、ますますファジーだ。
で、そういったカテゴライズ出来ないものだって言ってるのに、日々新しい"言葉"で縛らていくのは何なんだろう?
「いや、昔からあった言葉だけどそれが今になってフォーカスされてんの!」っていうツッコミされそうだけど
例えばサイトでみた
という言葉だけど、Googleの期間検索を使って1年ペースでさかのぼっていった結果、2012年12月~2013年12月の期間から明確にHITしなくなった。
アロマやロマンティックというワードだけがヒットするようになった。一点、PIXIVのタグ?かなにかだけが"アロマンティック"としてHITしていた。
翌年からは"Aロマンティック"という言葉がHITするようになってるので不思議である。何があったこの年に。
それ以外のパンセクシュアルだとかXジェンダーとかは20年近く前でもHITしていて、やはりずーっと昔から燻っていた問題なんだなーっと。
んで、話は戻るけど、こういった"性の多様性"に該当する人達は
"クイア"だとか"Aロマンティック"だとかそういう言葉でカテゴライズされるのはいいの?
そういう"言葉"で認識をされたい人と、それすらも嫌な人もいるよな?
それすらも嫌な人は"なんと呼べばよいの?"
突き詰めて行くと、性と多様性をセットにする必要ある?と思う。
最終的によそはよそ!うちはうち!というとてもわかりやすくどうしようも無い言葉で解決してしまう。
なんか答えなんか無いモヤモヤするなぁと書いてて思ってきた。なんだろうコレは。。
話は変わるが我らがFanzaで何気なくパケが気に入ったサンプルを見て、しばらくして違和感に気づき
最終的に竿がついてて"男の娘"ものだと気づいた時の何ともいえない気持ちはなんだろう。
「うわっ!男か!!」となる一方「いやでもイケるな…」となるのもLGBTだろうか。
「そんな邪なものをLGBTと同等にするな!」と総スカンされそうだけど
■パンセクシュアル
という言葉も載ってるぐらいだから、これも何かしら言葉があってもいいだろう。
基本的に女性オンリーだが、その日の気分やノリによっては「男の娘」だったりも行けてしまう"気"がする人々の事。
でもふと我に帰って後悔したりもする。でも2~3ヶ月後にまた波が来る事もある人々
みたいな。
あーぁ話の頭はすごくそれっぽい事書いてたつもりなのにFANZA出てきたらこうなっちゃた。
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禁断のパンセ以外にあるか?
禁断のパンセのこともたまには思い出してやってくれ。
ラブドール、小児性愛からとんで、じゃあLGBTはどうなるんだって意見をちらほら見た。
マイノリティって意味では同じかも、くらいには思った。まあ当事者やアライには言いたいことが沢山あるかもしれないけど。
LGBTの中でもなんとなくバイ(パン)は違うみたいな意見があるらしい。
おなじLGBTでもバイの比率は低いとか言われてるがそのせいで肩身が狭いという話も聞く。
なにがどこまで本当なのかは知らない。
「異性と結婚して子供をもうけてしれっとマジョリティに混ざって生きていける可能性が高いから」
自分が直接聞いたことないが、そういうのを見かけるってことは言った人かそう思ってる人がいてどっかにその意見の発信元がいるんだろう。
別にゲイやレズビアンでも異性のパートナーと過ごしてる人はいるだろうし、そのパートナーの形も様々あると思う。
そもそもこの意見について突っ込むと、じゃあ選択子なし夫婦や生殖機能や身体の関係で子供を産まない人はどうなる!みたいな意見もでてきたりする。
「LGBTの中でもトランスはちょっとなんか違うよね」みたいなのも聞いたことある。そのちょっと違うよねが具体的になにを指してるかはよくわからないけど。
マイノリティのコミュニティの中のマイノリティもなんとなく仲間はずれっぽい空気になったりするのも変な話だなと思う。
ラブドールの話も同じで小児性愛=犯罪者ではない、ってのは当事者のが思ってそうな気がする。
マイノリティを「犯罪者予備軍」だと思う人がいるのも、それを「違う」と否定するのもどちらも双方の正義の方向性の違いだなと思いながら、バイセクシャルの自分は犯罪者予備軍だと言われるような人間なのか、異性のパートナーがいのはずるいんだろうかと今日も少しだけ悩んでいる。
フェミニストと一緒にしてほしくないと思ってる。
大学までは、たまに痴漢に遭うくらいで女性だからと差別された経験は記憶にない。
でも就職してから、女性として生きることの面倒さを感じ、フェミニズムには共感できるようになってきた。
フェミニズムに興味があったから、色々記事を読んだりしてたけどすごく疲れてしまう。
ラブライブ!とかの女の子がいっぱい出るアニメのファンであり、腐女子もやってるから、表現規制関連は全く納得できない。
もちろんゾーニングについては納得できるけど。
これは、単純な自分語りです。
でも、多分、大衆的なひろーい意味ではそうなるんだろうなぁって感じのゆるいやつです。
あんまり普段、自分の恋愛的なものを出したくないというのが大きなとこなんですが、気が向いたので、よっしゃ、いっちょ言ってみるか!みたいな軽いノリで話します。
なので大前提として、あんまり悲観的なLGBTQIA+の話はないです。とだけ。
まず。
私はバイ?か?ってなんで疑問形なのかと言うと、特に私には定義付けされてないけど、感覚として「パンセクシュアル」のが近いのと、性別も「Xジェンダーの両性」のが近いかなぁと思うからである。
こう書くと、こういう事ですごく真剣に悩んで取り組まれている方にめちゃくちゃ怒られそうな気がするんですが、でも、私も自分ではよく分かっていないけど、当てはめるとしたらこれしかないんだよなぁ・・・。
私は外見女性で、同じく外見が女性の人とお付き合いしていますが、男性と性的接触が出来ない訳では無い。
でも、「男性」に「女性」として恋愛感情を向けられることが凄く気持ち悪い。
また、逆も同じで凄く気持ち悪い。
ただ、女性にも男性にも当てはめられるのはそこまで嫌ではない。なぜなら自分の中には両方きっちりと存在するから。
で、今はなぜパートナーと一緒に居られるかと言うと、パートナーはいわゆる「Xジェンダーの無性」に偶然にも当てはまる人だったから。
そして、大前提として「私」という人間に対して恋愛感情を向けてくれているから。
そこがパートナーとかっちり噛み合ってからは、違和感の正体にフォーカスが合わさって、何となく、今まで未知の生物だった自分のことが見えてき始めるきっかけとなった。気がする。
そして、私たちは本当に有難いことに、周りの方々がとても良い方が多く、今まで様々なところでカミングアウトしているのだけど、戸惑いながらも普通に受け入れてもらっている。
多分見た目が仲良し双子で、いつもニコイチの脳内ぴよぴよ幸せハッピーに見えることが、引かれない1番の要因のような気もするけれど。
でも、いま仲良くしてくれている周りの友人たちは、少なくとも2人で居ることを良しとしてくれているので、本当に恵まれているし、有難い。
しかし。
それにしても、ぶっちゃけXジェンダーの両性って、なんか自分だと、凄く都合良いかも・・・って思ってしまって、とてつもなく悩ましい。
本当にそういう悩みを抱えている方はもちろん、その形容を使うことで心が軽くなると思うんだけど(実際、Xジェンダーの無性という形容を知ったパートナーは、凄く軽くなったみたいなので余計そう思う)、私はと言うと、知った時に「あ、なるほど。腑に落ちたぞ」くらいの感覚しかなく、自分の性自認がかなーり甘い曖昧な感じなので、こと、自分に対しては「もしかして、どっちもの良いとこ取りして、甘えたくて思っちゃってるだけなのかな?」とすら、思うんですね。
なので、そこまで深く考えてないなりに、自分の性別は、なんて言ったらいいんだろなぁと、ずーっとゆるゆる考えていたりとかするわけです。
こういうの、他のXの両性さんは、ホントのとこでどう思ってたりするのかなぁ。
(いま調べたら、Questionというのもあるんですね。どっちなのかなぁーわからんぞ)
あと、私たちはいわゆる🌈の企画類とかには一切参加してない人で、ゆるゆるーっと、Twitterで話題になる程度の情報しか知りません。
やる気がないと言われたらそれまでなのですが、あんまりデモとかを進んでやれる程の気力がないのがホントのとこで。
あとは、あまり自分たちがそういう「これこれこういう思想を持ったこういう性自認の人たちです!!」と、名前を出して声を上げるのが大層苦手なのです。
活動を立派にされてる方とかって、やっぱすごいなぁと遠巻きに見る日々です。
(署名とかは出来るんだけどね。難しい)
ホントのとこは、あんまり「私たちの性」を考えずに、周りの人には接して欲しいってのは、あるかもしれない。
ここまでふわふわとまとまりなく話をしましたが、決して他の🌈の方々に何か言いたいとかでも何でもなく、本当にただの自分の気持ち整理の自分語りなだけです。
ただ、こんな風にあんまり深く考えないで生きてるようなLGBTQIA+の人も一応いるにはいるよーというお話でした。
ただ、これだとあまりにもなので、一応、私たちのやれることの範囲でやってる事だけ言っておくと「如何に周りの人達を、ごく自然と🌈への理解に繋げるか」ということくらいです。
私たちが常にどんな顔を、どんな態度をされようとも、どんなに怖くても、笑って当たり前のように、ある程度親しくなった人たちにはカミングアウトしていって、街では普通の恋人のように腕を組んで、左手の薬指に指輪をして・・・と、普通の人が触れるLGBTQIA+の人の敷居を大きく下げさせようとしています。
とか言うと大袈裟ですが、まぁ、こんな人間も同じ社会で同じ空気吸って生きてんだよーハハハくらいにゆるく浸透させていって、私たちと触れた経験のある人たちが「ああ、前も居たよ〜」くらいにサラッと日常として、あんまし隔たりなく受け入れやすくなればなぁ〜そんだけでいいなぁと、思うのでした。
最近、NL表記は差別だ!って意見をちょくちょく見かけるようになったので、LGBT当事者の目線で話してみたいなーって思いました。
ただ、これはあくまでもわたしという一個人の考えでしかないので、これが基準だとは思わないでほしいです。ちょ〜無責任に書き連ねるだけです。
さて、本題。
まず、わたしはLGBT……というか、セクシャルマイノリティの中では「パンセクシュアル」というものに該当する、と思ってます。Bに近いけどちょっと違って、「性別に拘らない」ってやつです。好きになった相手が好き。男女問わず、好きだと思ったら好きです。いや実際に好きになったのは異性ばっかなんですけど、付き合ったことあるのは同性のみです(ちゃんと相手の女の子のことも好きだったよ。むしろわたしが入れ込んでた方だったよ)(この女がクソ女だったのはまた別のお話)
つらつら書いたけど、ふわっとしか知らないのでなんか間違ってたらごめんなさい。この記事を読んだ人はコメントまで読もうな、親切な誰かが正しい知識を書いてくれてるよきっと。知らんけど。
だって……男女が大多数じゃん、自然の摂理じゃん、"普通"じゃん。そりゃノーマルでしょ。
問題なのは「普通じゃないもの」を叩いて隠していけないものだと思わせてることじゃねえの?
「普通」ってそんなに大事?わたしが女の子と付き合ったからって誰かに迷惑かけてる?かけてないでしょ、ならそれでいいじゃんね。ダメなの?
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
はてな村で好まれそうな話題だなとは思って投稿したものの、想定以上に反応があって驚いてます。
酔った勢いで書いたものであるので、文体が一致してなかったり論理が破綻してたり誤字脱字がひどいですね。
結果、説明不足だったり変な文章だったりが原因でいくつかこれは補足しておきたいなと思ったコメントがあるので補足させてください。
解説本を読むことで原典にあたった際の新鮮な驚きが減るのは確かと思います。ネタバレ効果というか。小説系では顕著と思います。
また、解説者の解釈が固定化されるという懸念も確かにあるかと思います。
しかし、私の記憶では「これは私の解釈だが」「多数の説の中で、私が支持するのは」など、
俺の解釈が絶対だという態度で解説してた解説者はいなかったし、異説も提示していることが大半でした。
ここまでやってくれたらあとは受け取る側のリテラシーかなぁ、と思います。
また、100分で名著の解説で実施していることは「あらすじ」+「執筆背景解説(作者の人生の中で著作の占める位置など)」+「解説者の解釈解説」と思っていますが
この内「執筆背景解説」が一番の目玉であり、知識のつながりを作ってくれるところで、この部分は原典だけ読んでも絶対に得られない補助線です。
私は持久スポーツを趣味にしていますが、例えばフルマラソンなら当たって砕けろでもまぁ、レース中の数時間もがき苦しみ、暫く足がまともに動かなくなる覚悟があればゴールは出来るでしょうが、
ウルトラマラソンとか、アイアンマンになると当たって砕けろではまぁ無理で相応の準備がなければ、失敗したという経験を経験値に変えることも出来ずに敗退すると思っています。
特に古い思想書は知的作業としてウルトラマラソン級だと思いますし、かつ何かを求めて読むわけでしょう。
ウルトラマラソンで周りの景色も何も見えないぐらいつらい状態になって、制限時間オーバーで失格になっても兎に角意地になって歩き続ける人がたまにいて、マラソンならそれでもいいかなと思いますけど、
古典を読む場合最後のページにたどり着ければよい、というものではないですよね。
途中の景色を楽しむためには相応の準備というものが必要なのではないかな、よほど読書体力に自身があるのでなければ、背景を知識として持っておくのは良い方にしか働かないのではないか、と私は思います。
100分で名著の一番の強みは「TV番組であること」であり一番の弱みもまた「TV番組であること」であると思っています。
強みとしては、インタラクティブな解説(動く図形とか、アニメとか、俳優の朗読とか)が可能になること
弱みとしては「解説者の準備期間、解説時間に制限がかかること」「番組上では注釈を実質的に挿入できないこと」「月に1冊のペースでしかラインナップを増やせないこと」ですね。
特に月イチのペースでしか増やせないのは大きな制約で、解説本の中で出てきた関連本に解説が欲しくても、100分で名著で解説される可能性は極めて低いと言わざるを得ません。
そういう意味で、名著巡りの入り口にしかならないといえばならないのだと思います。
100分で名著をメインに追いつつ、他にも手を出してみようとは思っています。
私は実は番組はあまり見ていません(3割くらいかな)。毎週火曜日この時間にTVに向かっていることが難しいからです。
理想は両方こなすことだと思いますし、伊集院光さんのリアクションは時々ハッとさせられることもありますが、私はどちらかを取れと言われたら解説本だけ読みます。
番組が「あらすじ」+「執筆背景解説」+「解説者の解釈解説」で割合が2:2:6~1:5:4まで変動するとしたら
解説本は執筆背景解説に一律+3、解説者の解釈解説が一律-2って感じです。
(逆に、あらすじだけ知りたい場合100分で名著は重厚長大で、もっと手軽な選択肢があると思います。)
そりゃ、番組の中で解説にちらっと出てきた著者の友人の来歴とか、著書とか、いちいち全部触れられないですよね。
つまり、私が元投稿で言った「本の解説で繰り返し取り上げられる要素(人名、思想、歴史上の出来事など)があることがわかった」現象は
番組を見るより解説本を読んだときのほうが顕著に起こると思われます。
なので、もし元投稿を見て「知識がつながるって面白そう」という点に興味を持っていただけたなら、解説本の方をメインにされることを私はお勧めします。
頑張って読んだ、という感覚はありませんでした。
おそらく、原典には「頑張らないと読めない」ものもたくさんあると思いますが、解説書の段階では頑張らずに済みました。
正直、興味をそそられたかどうかにはレベル差があるので、結局読まない原典もあると思います。
古典名作だと聞いて読んでつまらなかったら被害甚大ですが、水際で食い止めてくれたことになると思います。
読みたくない本、という感覚もなくて、どちらかといえば「知らない本は読めない」ですね。
恥ずかしながら「エチカ」だとか「夜と霧」だとか「全体主義の起源」なんて知らずに生きてきたので
まず読みたくないかどうかも解説書読んで判断しようと思ってました。
食わず嫌いよりは、試食コーナーの匂いで避けた、の方がまだマシかなと言う感覚です。
シャワーを使う際には、本はタオルにくるんで蓋に挟んで防水します。
このスタイルで読書して2年位になりますが、多少湿ることはあっても、問題になるほどビシャビシャになったことはないですね。
以前スウェーデンに出向していた友人から聞いた話ですが彼の国では大学とは必ずしも高卒すぐ入るものではなく、
暫く働いてから勉強したいことを見つけて入る人も相当にいるらしいですね。
その彼が聞いた日本との違いを顕著に表しているセリフが「高卒のガキに大学教育はもったいない」「日本人は高校生の時職業決めるんでしょ?すごいね」です。
後者は嫌味なのかな?と言う気がしないでもないですが、前者は今本当に身にしみています。
大学教育をきちんと受け止められる18歳って、そんなに多くないですよね、、、
以下私の勝手な解釈です。見当違いのことを言ってるかもしれないですが、、、
私と趣味が合いそうだなと思ったら、まずは以下をお勧めします。
スペシャル版なのでちょい分厚いですが、これが私の一押しです。
日本の大乗仏教諸派の成り立ちと違いについて、今まで何度か教わったし読んだはずなのですが全く頭に入ってこなかったのがすらすら入ってきました。
読了後は、まるで自動車教習所に通ったあと今まで目にも入らなかった交通標識が急に意味を持ち出したような感じで、街中のお寺から情報を取れるようになりました。
私自身が茶道やってる事が大きいかもしれませんが、日本人が外国人に、英語で日本文化を説明する起点として最高と思いました。
実際、ボストンで友人とあったとき(作者の天心はボストン美術館の東洋部部長です)なんと役に立ったことか、、、
全編、声に出したい日本語だと思いました。言葉がやや古いのですが、原典も薄くて読みやすいです。
維摩さんというレジェンド級のアマチュア(在家信者)がプロ(菩薩軍団)をやり込めまくる話です。
「煩悩は湧くに任せよ、とらわれないことが大事だ」というフレーズがとても頭に残っています。
一番実践しやすい仏教な気がしました。アメリカの方で流行っているzenとかsatoriってこれを目指してるのかな?と思っています。
↓と思った記事
https://aishinbun.com/clm/20181218/1888/
人間は自己愛ゆえに苦しまねばならぬ、というのがメインの本と理解しました。それだけでも納得感あるのですが、
本人的にはキリスト教最高!で異教徒を折伏するために書いた本らしいのに仏教が目指してるところと同じっぽいのが面白くて読んでました。
原典が思いっきり重そうなのですが、いつか読みたい本の一つです。
いろんなことを言ってるわけですが、
私は趣味を持て、幸せになれるぞ?という本だと理解しました。ラッセルさんの趣味の定義とは「~を収集すること」らしいです。つまりスタンプラリーですね。
何かに対して情熱を持ってスタンプラリーしてるうちは人生に飽きない、ということかと思いました。
解説本読破もそのノリでやってやらぁと思ったのを覚えています。
正確には100分で名著シリーズではないのですが、この「一週間で資本論」が成功したので100分で名著が始まったらしいです。
資本家の行動原理が今とぜんぜん変わらず、ギグ・エコノミーとかも19世紀の理論で説明できることに驚きました。
経済を理解するためというよりは自分の身の振り方を考える上で有用だなと思った本です。
リストがほしいというコメントをいただいたのでリスト載せます。
趣味が合いそうだなと思ったら、参考にしてください。
(抜け漏れあったので追加。まだ何冊か忘れてる気がする、、)
・点と線
・かもめ
・人間失格
・斜陽
・三四郎
・こころ
・茶の本
・奥の細道
・昔話と日本人の心
・死者の書
・銀の匙
・世論
・ペスト
・ゴルディアスの結び目
・1984
・苦海浄土
・夜と霧
・野火
・ソラリス
・マクベス
年末年始休みは読書もはかどり、新たに買った原典も既に8冊終わりました。
今のところ、全て期待通りの内容でとても充実した休みになっており今年ずっとこの調子で読み勧めていけたら、、、(無理だろうけど)と思ってます。
どういうふうに仕事の本を差し込んだら、自分の中の読書熱にうまく歩合出来るかを考えるのが今年の課題かな。
動物本とか、読んでて飽きることがあるんですよね。
なお、私が100分de名著を知ったきっかけは単身赴任中の父がずっと見ており、解説本を纏めて実家に持って帰ってきたのがきっかけでした。
私も読み出して以来、お互いの話題の共通点も増え、お互いの読書の幅も広がって、
初めて父と同等の視点で知識交換をできるようになったような気がしており、その点でもこの番組には深く感謝しています。
(私の専門のITのことでは以前から教える立場でしたが、これとはなんとなく異なる現象のような気がしてます。)
良い1年を!
私は20代女性、コンカフェや女性地下アイドルが好き、百合・美少女等男性向けコンテンツが好き
そして同性のパートナーと揃いの結婚指輪を左手薬指に嵌めている
堪らなく怖い
幼少期から兄に倣いゲームばかりして、学生時代はネットと男性向けコンテンツを消費した、二次元の女の子はすごく可愛くてきらきらしていて好きだった
私の好きなコンテンツの話をする男子のグループに混じっても打ち解けきれない感覚があってずっと女がコンプレックスだった
私は女の子の線の細さが触れたら壊れてしまいそうで怖い、だって女の子と触れ合ったことが少なかったから
専門学校に入って上京した時仲良くなったと思っていた男に女として消費されたときあー男だったらもっと単純に友達になれていて性欲とかそんなのなかったのにとすごく苦しかった
お店も制服も空間もきらきらしていて楽しくて大好きだったが先輩が化けの皮の剥がれた瞬間クソすぎて最終的に内部崩壊してほとんど辞めて悲しくなった
きらきらは素敵な面だけ見てるに限ると思ってそれ以降は客として最推しに会いに行っている
メイドになったあたりから付き合い始めた今の彼女は私を男みたいに性的に消費しないし女みたいに同調圧力をかけてこない
そして並の男より身長があるので私が触れても壊れない
あとになって私はパンセクだと気付いた
あの男からも女からも向けられていた性差を感じる扱いの違和感がやっと解けた
私にとって最初は性別はどうでもいい思考らしいが自分の嫌な対応をされないために性別で警戒して避けていただけだった
今の私はお金とかもカウンターとかきらきらの衣装とかそんな非日常を挟まないと女の子と触れ合えない
その1枚向こうの生身の女の子であることを感じると急に恐ろしくなる
何歳になってもどんな環境でもきっと人の本質は変わらないからあとになってそれで苦しめられるのが嫌だから
学生時代の“クラスの女子”という呪いは一生続いていくのかもしれない
あー推しに会いたい