はてなキーワード: ゲーテとは
貴方の心の中には氷があるね
上手く言えないけど、貴方はそれを破る努力をしなきゃいけない。ご存知の通りカフカは「本とは我々の中にある凍った海を砕く斧でなくてはならない」と言っている。貴方がカフカを読み込んだとすれば、それは多分貴方が心の中にある氷を少しでも何とかしたかったからじゃないのかな。僕が最初にカフカを読んだのは、15歳の時だったけど、その時間違いなく本の中に何かを求めていたと思う。たぶん貴方もカフカの本に何かを期待していたのだと思う
でも、結果として貴方の氷は割れていない。貴方の中にそのまま残っている。
申し訳ないけど、そこは僕とは違う。
大きな石を2人で持ち上げようとするなら、2人ともが自分1人で持ち上げるつもりで石を持ち上げなければいけない、というのはゲーテの言だけど、カフカは死ぬまでその努力をしていたよ。貴方も、カフカが踏ん張ってるのを知ってるなら、自分の氷を砕く努力をもっとするべきだ。カフカの努力だけじゃ氷は割れない。貴方も全力で頑張らなければならない。
大切なの無目的に言葉を連ねないことだ。音声入力はそれだけでも面白い。日記ならば良いのだが他者に価値を提供したいと言うのであれば他者が求めているものを書かなければならない。他者が求めるものは何なのかどのような形でアウトプットするのかを意識することが大切である。さもなければ自己満足に陥ってしまう。
ゲーテが教えてくれているようにアウトプットの形を意識していかなければならないのだ。
何を目的としてこの情報与えるのか。一般的な事柄であれば他の誰かが既に大量に公開しているので自分が提供する意味は無い。意味のあること重要な事に注力しなければ無駄な時間になってしまう。それは避けなければならない。価値ある行為、価値高い行為に注力しなければならない。
http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html
今サーバがメンテナンスでみえないっぽいけどめちゃくちゃ面白いね。いまさらだけど。
メタな話をすれば、哲学者側は最先端の物理学者との対談で自分の論に箔をつけて業績にできるめったとないチャンスで、対する物理学者側は正直こんな本が出ても業績としてたいして価値があるわけでもなく、無難にお茶を濁しても誰も何も言わないだろう状況へこのガチなファイターの投入である。(ほめてる)
https://twitter.com/tani6s/status/1193542355975950336
https://twitter.com/tani6s/status/1193542463169810432
心の哲学が何を問題にしているのか、とか全然興味なかったけど、おかげさまで浅いなりに理解できたし興味も出てきた。谷村先生が頑張らなければひっそりと専門書の棚に気付かれることなく置かれてるだけだったかもしれない本だったかもしれず、関係者は谷村先生に感謝しすぎてもしすぎることはないんじゃなかろうか。
ところで谷村先生が指摘した部分というのは、理系の研究者や人間であれば多かれ少なかれ感じていたが言語化するのがためらわれた結果、これまで表面に上ってくることのなかった問題のように感じる。
学生の頃、人文系研究室の卒論と科学系研究室の卒論とを同じ発表会で見る機会があったけど、科学系の教授の人文系の発表への容赦ないツッコミを思い出した。
用語の定義にしろ立論にしろ結論を導く論理にしろ君たちあまりに緩すぎないか?というのが共通する雰囲気だと思う。
科学が発達していなかった昔、哲学は科学がまだ扱えない領域を先んじて論理の力で掘り起こす役目を担っていたと個人的には思う。(谷村先生の期待もこういうものではなかっただろうか。)
だが色彩論でのゲーテのニュートン批判とか、時間論でのベルクソンのアインシュタイン批判とか、科学が哲学に先行して真理を掘り起こした結果、取り残された哲学が宙ぶらりんのままになる状態が19世紀以降は顕著になってきたんじゃねえかと思う。まあ哲学のことはよくわからんのでアレだが。
ベルクソンとアインシュタインの対話の翻訳をネットで拾って読んでみたが、ベルクソンが長く理解しにくい文章で考えを述べる一方、アインシュタインは明晰で短い文章でバッサリと切っていて既視感がすごい(語彙力)
今、AIとか脳科学の研究が進んで、心に関する諸問題も哲学ではなく、科学の俎上で実際に解決される可能性が高くなってきたと思われる。
意識のハードプロブレムとかも、哲学側からの「まだまだ科学に扱えないものがあるんだよ!!」という断末魔の叫びのようにも感じられる。
だが科学は進む。
意識の問題も脳というハードウェア上に構築されたニューラルネットワークの状態空間として科学の領域に取り込まれ哲学の領域はまた一歩小さくなっていくのだ。
地動説で人間の住む地球が宇宙の中心ではなくなったように、進化論で人間が神に作られた特別な存在ではないことがわかったように、有機物が生命の作用なしに合成できることがわかったように、意識もまた特別な何かではなく、我々自身が哲学的ゾンビなのだということを認めざるを得ない瞬間が必ずくるだろう。
キリスト教が根底にある思想は最後まで魂の特別性に拘泥するかもしれないが仏教だと五蘊皆空と思えばどうということもない気もする。
まとまらず終わる。
海外とかでさ、ゲーテッドシティとかあったり、すごいところでは金持ち同士が武装して自警団作って自治するぞ!って話になるじゃん
アフリカとか東南アジアでも、みんなで弓矢や槍持ち込んだりしてお互い持ち回りでパトロールとかそういうの始めるってドキュメンタリーとか見てたらよく見かけるけど
日本ではそういうの全っ然聞かないよな。
それどころか、ウンコ禁止令だとか利他的な意見をいった住人を排斥しようとしたり、ウンコ人狼ゲーム初めて内ゲバとか始めだしたり醜く争い始めるよね
偉そうにゲーテみたいなこと言いやがって、お前は何様だ
イチョウ(銀杏、Ginkgo)は、裸子植物門イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属に属する、中国原産の裸子植物。
イチョウ綱が既に絶滅していたヨーロッパでは、日本誌の著者エンゲルベルト・ケンペルの『廻国奇観 (Amoenitatum exoticarum)』
(1712年)で初めて植物学的な記述で紹介されたが、ケンペルが銀杏(ギンコウ)の音訳として、Gingkoと書くべきところを Ginkgoと
記した。この綴りが引き継がれて、カール・フォン・リンネは著書『Mantissa plantarum II』(1771年)でイチョウの属名を
Ginkgo とした。このほか、ゲーテも『西東詩集』(1819年)で Ginkgo の名を用いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6
これは,夢見りあむアドベントカレンダー7日目の記事です.
私は夢見りあむが大好きです.
私は,デレステのリリースと同時に初めてシンデレラガールズというコンテンツに触れました.始めた当初は別の作品に夢中だったため,デレステは音ゲーとしか認識していませんでしたし,もちろん総選挙の投票券を集めたこともありませんでした.
そんな私をデレマスに惹き込んだのは,姫川友紀を始めとするPaアイドルたちでした.卒業論文の追い込みや数か月に渡る長期のインターンシップで疲弊した私を,姫川のソロ曲「気持ちいいよね 一等賞!」はじんわりと癒してくれました.通勤中の耳元で叫ばれる彼女たちの応援は,間違いなく私の足を前に進めていました.
Paアイドルの何が良いのか.私のように彼女たちの底抜けな明るさが好きなPもいれば,その突拍子もない行動が好きなPもいるでしょう.一癖も二癖もある彼女たちは,様々な方法で私を楽しませてくれています.そして彼女たちの魅力を語る上で欠かせないのが,時折見せる不安定な部分です.もっとも話題になったのは本田未央のアイドル辞める宣言でしょうか.普段の明るい姿とのギャップがより彼女たちに厚みを持たせ,人間らしく,身近な存在にしてくれるのです.
そんな中,新アイドル夢見りあむがPaとして発表されました.その衝撃たるや.他のPも分かってくれることでしょう.前に発表された辻野あかりや砂塚あきらのキャラクター性からも並の個性を持ったアイドルがくるとは思っていませんでしたが,彼女は想像以上に歪なアイドルでした.
調子はずれと感じるほどに明るいセリフ,透けて見える承認欲求,あからさまな構ってちゃん...強烈な個性です.もしPに見つけられなかったら,アイドルにならなかったら,彼女はどうなっていたのでしょう.私には,描写されている彼女の姿が軽度の躁状態に見えて仕方がないのです.
人間は,よく虚勢を張る生き物です.描写されている彼女の姿が,家の中の彼女の姿と一致するとは限りません.無表情で無感情にスマホを眺めている方がしっくりときます.家の外と内で行動が違うのは当然かもしれませんが,それが心となると話は変わります.社交性がある人は明るく見えるかもしれませんが,明るく見える人は社交性がある人ではありません.ドイツの詩人であるゲーテは「光が強ければ影もまた濃い」という言葉を遺していますが,彼女の影には何が隠れているのでしょうか.
また,炎上してでも目立ちたいと豪語する彼女の自己評価の低さは極限です.「コミュニケーションだよね?触りたいだけじゃないよね?」という,怒る前に相手の顔色を窺うセリフからも,自己評価の低さが分かります.アイドルが不安になる状況を,我々Pが許していいのでしょうか.いや,良い理由がない.アイドルを輝かせるのがPの仕事です.
そんな彼女がアイドルデビューしなかった姿を想像した時,現代人のステレオタイプに一致します.生活に疲れ,惰性で生きる日々.生きる理由もなく,死ぬ理由もない.積極的に自殺を選べる人は稀ですが,消極的に自死を選んでいる人はこの世界に何人いるでしょう.好きなことがあれば生きていけるという人もいるかもしれません.彼女にはドルオタという趣味があり,それ故に生きていけると.私もつい先日までそう思っていました.
日の目を見ることができた彼女の先には,そういう人々がその人のままに成功する可能性のある未来が映っています.もちろん彼女にはお調子者の気質があり,煽りや失言を頻繁にするという欠点もあります.しかし,多少の欠点がなんでしょう.彼女は新人なのです.それくらいの欠点を愛でることができなくてどうします.どれだけ彼女のアンチが湧こうとも,彼女が輝かしい可能性を秘めたアイドルの一員であることに違いはありません.
従業員同士がもめていて胸糞悪い。お前ら、『話し合い』っていうことができんのか。
年いくつだ?自分の胸に手を当ててみろ。この世に生を受けて半世紀程のおっさん同士のケンカを眺めてやきもきする。マジ卍ぞっとする。現代におけるホラー卍。
ろくに話し合い出来んならラップでバトってくれ。韻を踏んでくれればまだ許せる。
女なら許せる。PMSだと思えば許せる。だがおっさん同士だ。何につき動かされてケンカという手段を取ろうとするのか。頭を抱える。
一人は営業。カッとなりやすいタイプで激情のまま他人を非難するタイプ。何かと理由をつけて感情のコントロールをしない。気楽に生きれてうらやましい限りと言いたいところだ。所かまわずため息を吐き続ける。怒鳴る。いわゆる昭和モーレツ時代の残り香の強い職場の害虫みたいなおっさん。
もう一人は事務方のトップ。御年、上記営業と同じくおよそ半世紀。冷静なのかふわふわしているのか、いわゆる「ゆるキャラ」。もちろん半世紀もたてばホラーであることは言うまでもない。話すことはすべて「ゆるキャラの戯言」。こいつと会話していると、釈迦に説法を説いているのか、暖簾に腕押し状態なのか、考えあぐねる。意思表示が希薄なので忖度もしかねる。
いや、すげーわかんのよ。双方のイライラっていうか主張っていうか、職務上の立場の違いとかそういうのじゃない、人をイライラさせる能力。キャラクター。どっちもわかるのよ。俺は。
だってスゲーテンパってるときにホラーみたいなゆるキャラ目に入った瞬間イラっと来る気持ち、わかるし。
感情でカッと来られてもさ、よくわかんねーもん。クソ忙しいなか怒鳴りこまれてもな、ふんふんてかわすしかねんだわ。やばいときこそ冷静にいないと事故るしな。わかるわ。
お前らもわかってんだろ。キャラあってねえんだわ。キャラで話しててもケンカになる。揉める。わかってるのにわかってないふりで季節を重ねる。
なんでなんだろうな。ほころびた蕾が春の萌芽を呼ぶように、鳴き始めの蝉がこれから始まる夏を強く予感させるように。繁忙期を迎えます。
オタクカルチャーは、はじめから商業的な素人の勘違いカルチャーとして生まれたものですからね。
もともと文化人というのはそれなりの教養を身につける必要があったけど、それが80年代あたりから「誰でも文化の発信者になれますよ〜」という新たな(そして巨大な)市場の開拓が始りました。それで、それまで文化の受け手だった人たちも即席の担い手になることができるようになりました…糸井重里の新人類文化なんかがまさにそのハシリ。素人モデルなんてのもこのころ生まれましたね。でも、そこにアダプトできなかった(今で言うところのオタクくさい)若者はどうしたかというと、DAICONやコミケやワンフェスに、あるいは深夜ラジオの投稿なんかに向かったわけです。
この「プロと素人の差を意図的に喪失させる」システムが完全に固定化したのはここ20年の出来事。インターネット登場以後、ホームページ、ブログ、SNSとメディアの進化を通して段階的に成長してきました。本来は階級差の「消滅」を企図したはずのこのシステムですが、一旦階級差が無くなったと勘違いするや否や、今度は新たな階級を作るゲームがあちこちで行われました。その一つがオタクの中での階級闘争で、この新たなヒエラルキーの中で彼らは上位階級に食い込もうと常に戦い続けることになりました。でもそのためには、オタクを一つの生態系としてセグメンテーションし、ゲーティングし、ブロック化する必要がある。つまり、オタク以外は「一般人」と言わなければ、そのゲームはそもそも成立しない、ということです。
ゲーテ掲載のダイナースの記事広告が炎上し、広告主である三井住友トラストクラブに取材した記事がbuzzfeedで公開されていた。
(1)ゲーテから持ち込まれた提案だったため、企画・制作はすべてゲーテに一任した
(2)秘書たちの発言については「実際に座談会で出た議論」で「当社が誘導や指示等を行ったものではありません」
なんだこれ。責任転嫁も甚だしい。メディア広告営業の立場から見て、腹立たしい部分が多々あったので書き残しておきたい。
まず、広告業界をあまり知らない人のために簡単に説明しておくと、記事広告は以下のようなステップで作られる。
・取材
・記事公開
記事広告とは、クライアントによるクライアントのためのクライアントのものだ。もちろん、著作権はどこにあるとか、媒体のコンセプトを貫くとか、媒体に紐づく要素も多々あるが、「お金を払って記事を書いてもらって出す」という行動の主語は常にクライアントである。
ダイナース側は「企画・制作はすべてゲーテに一任」し、自分らはさして関わっていないかのような回答をしている。
確かに「企画・制作はすべてゲーテに一任」したかもしれないが、それを発注し依頼し確認しGOサインを出したのはダイナース側である。
広告記事がクライアントの確認とOKなしに記事が公開されるわけがない。「美人秘書!いいね!これでいきましょう!」というダイナース側のマーケティング担当者の一声があったから記事は公開されたのである。
仮に確認なしで出ていたとすれば、
・ダイナース側のマーケティング担当者が、主体性も戦略もなしに媒体や代理店に丸投げする、職務放棄した能力底値人間である
・ゲーテを発行する幻冬舎営業部が常識を逸したクライアントワークを行う会社
のどちらかだ。
(2)については、本当草生える。
「実際に座談会で出た議論」って言ってるけど、ダイナースが金を出して作った広告記事で、秘書たちに「やっぱ楽天カードだよね」「東急カード、最高ね」と言わせるわけがない。
クライアント側マーケティング担当は、「ダイナースカードをこういう風に見せたい」と媒体営業担当に企画趣旨を伝えるのが仕事だ。それが媒体営業担当を通じて協力者に伝えられる。
参加者の発言について、誘導するのも指示するのもクライアントの当然の権利。当たり前だが、たまたま集めた秘書たちが、たまたまダイナースを取材後半で褒め始めるーーなんてことはあるはずがない。
わざわざ否定して守りに入っているのが痛々しい。
▼なんでこんな記事ができた?
内容に関しては「よくこんなにチープな出来で公開したな」という感想しかない。
「私の上司もダイナース」「ダイナースな男は最高」とダイナースを持ち上げる話への持っていきかたは下手くそで不自然。シラフの営業担当だったらこの記事内容でクライアント確認出せないだろう。
・ライターから上がってきた記事を「うわ〜これ安いなきっついな〜」と思いながらゲーテ担当者から確認出しをしたら、適当なダイナース担当者から案外OK出ちゃった
・当初はもっとまともな記事だったが、ダイナース側から「もっとダイレクトに俺らの名前を出せ!」「もっと面白く」「もっと!」と修正がかかり続けた結果、この内容になった
想像するに、こんなところだろう。
あともう一点、考えられるとすれば「代理店クソ問題」。広告記事には、クライアントと媒体社の間に代理店が入っているパターンもある。
代理店がバカでザルすぎて勝手にOKを出した結果、クライアントの意向にそぐわない記事内容で公開されてしまった可能性もありえる。この場合も、下請けのように記事をつくり、炎上し、叩かれるのは結局媒体社。
まあ、こんなの媒体社にとっては「よくある話」。媒体社の広告営業やってるみんな〜〜〜!分かってくれるよね。自分が可愛いクライアントや代理店が、ミスを媒体側に押し付ける。押されて押されて叩かれ叩かれ、広告費用も叩かれるんだな。あるあるすぎて、つらい。
…と、ここまで書いてきたものを引っくり返すようで恐縮だが、この騒ぎ、案外ダイナースもゲーテも「美味しい」と思っているんじゃないか。騒ぎのおかげで掲載期間短縮したって余りあるほどのPVを得たでしょう。ゲーテ側で設定している想定PVなんてやすやすと上回って、手を取り合いきゃっきゃしているかも。
「ブランドを落としましたね」と訳知り顔の業界関係者を尻目に、「やっぱいい男にはダイナースだよな!」と自信を強固にしたおっさん達だって多分いるんだよ。