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はてなキーワード: プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神とは

2024-03-04

最近漫画キャラ努力しすぎる

バトルのための修行だとか

恋愛のために頭脳戦をするだとか

引っ込み思案だけどアイドルバンドをやって頑張る

などと聞いただけで辟易する

あまつさえお仕事ものなどというジャンルまであり人気を博しているらしい

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

宗教改革

おれの若い頃なんて漫画の中のキャラ

ろくに勉強スポーツもせずに毎日遊び暮らしているようなやつらばかりだったぞ

そんな素晴らしい作品たちに感化されて

今ではおれは立派な中年無職

さらおれの生き方否定するような

努力激推し漫画けしからんから

早くこの閉塞感ある漫画界に

とことん快楽主義ニューフェイスが生まれて他を圧倒して欲しいもの

2023-07-02

宗教とは何かについて考えてみた

宗教」を定義してみる

私の現時点での定義としては、宗教とは、人生において行動の選択を迫られたときにその指針となる命令又は禁止規範となる道徳をいう。多くの場合「こうすれば死んだ後で天国極楽へ行ける」「こうすれば地獄へ堕ちる」というように、行動いかんによって死後の魂の扱いが左右されるという教えがセットになっているが、現世における救済や恵みを受けるという教えの場合もある。

この定義に従えば、儒教宗教であるマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で分析したように、「商売で儲かることは神の教えに従った正しい行いをしていることの証である」といった信仰のあり方も宗教であることに鑑みると、「運気が向上する習慣」といった自己啓発の類も宗教である。この定義に従う限りでは、何らかの宗教を持っている日本人はわりと多い。

なお、この定義からすると「お国のために戦って死ね英霊になれる」という教えが宗教に含まれるかどうかは微妙で、私は否定的に考える。なぜならば「どう生きるか」でなく「どう死ぬか」の行動指針であるため、「善き生き方」を示す道徳になっていないから。どちらかというと政治キャンペーン一種に分類すべきように思う。ただ、この点は「道徳とは何か」の定義を決めないと結論を出せなそうなので保留にする。

死者の霊、祟り祈り

死者は霊魂となって現世の人々に影響を及ぼすとか現世の人々の祈りが死者の霊魂を癒すという観念は、死んだら死後の世界に行くという宗教観念矛盾している。この二つの観念は別々のもので、宗教が生まれる前から原始的信心として前者が存在していたと思われる。

「死んだらどうなるのか」という不安に対しては様々な「答え」が出されており、天国地獄永遠に暮らすのだとか、別の生き物に生まれ変わるのだとか、現世と交流できる状態にあって時折姿を現したり人に憑依したりするのだとか、恨みや後悔を残して死ぬと地縛霊や怪異になるとか言われている。

交流したり観測したりできる存在としての霊魂存在を信じることは、何に寄与しているんだろうか。例えばいじめられて死んだ生徒の霊が語られる際に、いじめはいけないという教訓ではなく「あのトイレには近づくな」という戒めの方が強く意識されることからすると、道徳には繋がっていない。もっとも、死者の霊を軽んじる行動を取ると祟られたり罰が当たるとされるため、死者に対する礼節という行動規範にはなっている。死んでも生者と関われるので孤独じゃないとか、死者を敬うことで自分も死んだ後で丁重に扱われるだろうとかの安心感を得られるのかもしれない。

命令禁止をせず救済を与えてくれる神様

苦しい時に頼みの綱となる「神様」は、普段はまったく信仰どころか意識すらされておらず、名前もなければどんな姿をしているのかのイメージも持たない漠然とした概念である。その「神様」に祈りを捧げることで天国に行けるわけでもないし、祈ったにもかかわらず救済が与えられなかった場合には悪態対象にすらなる。

「どちらにしようかな天の神様の言うとおり」やテーブルゲームにおける「ダイス女神」もこの一種で、普通人生の命運をかけるほどの扱いはされない。ただ、行動規範をもたず「幸運のお守り」に人生を賭ける人もおり金儲けのターゲットにされがちである

エジプト神話ギリシャ神話北欧神話ヒンドゥー教の神々

勉強不足なのでよくわからない。

「死後の世界」を司る行動規範としての神もいるかもしれないし、「戦に勝ちたい時に祈る神」「商売繁盛のために祀る神」として救済を求める神様の類かもしれないし、「こういうことするとこういう目に遭うよ」といった教訓的な寓話や超常的で不思議な御伽話の登場人物なのかもしれない。

政教分離すべきとされるのはなぜか

上記のように、私の定義では「宗教」とは行動規範を示す道徳である道徳は「どうあるべきか」「何が正しいか」を含むものであり、従って政治法制度のあり方にも関わる。法や政治道徳イコールではないにせよ、深く関連している。そのため、特定宗教の良しとする行動規範に従って法律を作り政治を行うと、他の行動規範もつ宗教を信じる人々と衝突する。「人であるがゆえの権利」を前提とする法制度や政治は誰にも平等でなければならないことからすると、特定宗教立脚した政治を行うわけにはいかない。

「こう生きるべき」みたいに国家が口出しすること自体大きなお世話と考えるのが「人権主体政治だともいえる。

人権」は宗教

やってみればわかるが、人権を行動規範にすることはできない。人権人生の様々な場面で衝突するものからこちらを立てればあちらが立たず、その折り合いをどうつけるかが求められる。したがって人権大事にしようと決めたところで行動指針が決まるわけではない。例えば表現の自由プライバシー権のように。

政治を考える際に考慮すべきものではあるが、個人人生の指針にはなり得ないので、人権宗教ではない。

おわりに

私の友人にはキリスト教仏教敬虔信者であったり聖職者であったりする人たちが少なくない。また、スピリチュアルものを信じる人もいるし、神様へのお勤めで心身をすり減らしてしまっている人もいる。信仰はとても古くから存在し、必要とする人間が多かったのに、なぜ必要なのか自分にはわからないのでずっと考えている。難しい。

2022-11-02

バカ大学生の今週の読書記録

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神ヴェーバー

???

国際政治(モーゲンソー)

→読み終わりません

錯乱ニューヨークコールハース

マンハッタンってニューヨークだったのか。内容は意味不明

・壁の向こうの住人たち(ホックシールド

→読み終わりません

何一つちゃんと読まなかったけどミニレポートディスカッションは全てこなせませした。凄いぜ俺。

2022-07-19

最近読んだ本

僕の陽気な朝

イヴァン・クリーマの短編

社会主義体制下のチェコ。深い霧。重い空気曇天。街ゆく人の目に映るのは自らのつま先と石畳だけ。

私たちの目に映る彼らの日常は、空虚不条理グロテスクしか体制下で生きる市民にとってそれは笑いあり、涙あり、退屈ありのまさにかけがえのない日常

真実を教えてくれる新聞はないが、体制の網目をくぐり抜けた物語がある。コカコーラはないがブドヴァイゼルがある。ハリウッド映画はないが滑稽劇がある。信頼できる役人警官はいないが自分必要としてくれる友人たちがいる。生きる上で、他に何が必要だと言うのだろうか?

移動祝祭日

アーネスト・ヘミングウェイエッセイ

冒険する作家アーネスト・ヘミングウェイロスト・ジェネレーションからまれアメリカの父。誰もが認める大作家となったものの、晩年の彼は自らの老い自覚し、苦悩し、そして闘っていた。広い海の中、たった1人で無数のサメと戦う老漁師のように。

そんな彼の心に蘇るのは、記者として赴き作家としての歩みを始めた若き日のパリでの生活。そして最初の妻ハドリーであった。

「もし、きみが、幸運にも、青年時代パリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日からだ.」

個人的体験

大江健三郎小説

不良少年官立大学学生大学院生、そして教授の婿。紆余曲折を経ながらも順風満帆に見えたバード明るい人生はアルコールによって閉ざされた。義父や妻、かつての学友たちの憐れみ視線から目を背けながら予備校講師で食いつなぐ日々。しかし若きバードアフリカ冒険を夢見ていた。広大なジャングル。壮大な夕焼け。見たことのない動物たち。それらは想像するだけで彼の目を輝かせた。そんな中、彼は妻の出産により現実に引き戻される。

ヘルニアを抱えた新生児、妻、義父、職場。苦悩するバードが向かった先はアルコールと女。青年現実を受け入れられるのか。それともさらなる深い闇に落ちていくのか。

大江健三郎長男は脳に障害を抱えて生まれており、その時の心境を基にして執筆された作品

ロビンソン・クルーソー

ダニエル・デフォーによる言わずと知れた冒険小説

中産階級青年ロビンソン大海原に駆り立てられ、父の忠告無視して旅に出る。案の定、彼の船は嵐に遭遇し、無人島に漂着する。たった一人で無人島に投げ出されたロビンソンを襲う疲労病気、空腹そして孤独と後悔。

しかロビンソン自分を奮い立てる。この島は私の国だ。私を邪魔する者は誰もいない。ロビンソンは今やこの島の君主であり法であるトンネルを掘り、家を建て、家畜を飼い慣らし、その生活を豊かなものにしていく。

そんなある日、ロビンソンが浜辺を探索していると自分以外の足跡があることに気付く。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と共に読んでほしい。なぜ世界辺境である西欧諸国地球上のほとんどの土地支配することができたのか。ロビンソン・クルーソーにはその問いに対するヒントがロビンソンの行動の随所に散りばめられている。

2021-11-25

anond:20210617064202

これは神学命題プロテスタンティズム決定論に対して言及がないので不完全。

アメリカ歴史の初期においてピューリタン重要役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。

フス戦争カルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学決定論)であるカンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」

というのがあった。

こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。

人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。

因果が逆転してるというかなんというか。

この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!

となっていった。

(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイププロテスタントもあります

世俗社会修道院化」によって、日常生活の全てを信仰労働に捧げる。

節制禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。

この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。

勤勉性、探究心の強さ、合理主義社会活動への参加という18世紀における近代人間像の象徴

…というあたりで、発展しすぎた禁欲資本主義本来宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。

自己研鑽しない者たちに対する憎悪侮蔑は、従来の「つまり定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。

・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神"という本とかで書いてたこと。

今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである

(なぜならそのほうが発展に有利だからね)

----

補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸カリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からカトリック移民が多いからです。

ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的OK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。

そして何より、【西海岸リベラリズム】と対極っぽそうな南部バイブルベルト。

この地域基本的プロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的

ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想固定化されたっていうのとかありそう。

2021-06-17

anond:20210617064202

これは神学命題プロテスタンティズム決定論に対して言及がないので不完全。

アメリカ歴史の初期においてピューリタン重要役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。

フス戦争カルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学決定論)であるカンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」

というのがあった。

こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。

人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。

因果が逆転してるというかなんというか。

この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!

となっていった。

(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイププロテスタントもあります

世俗社会修道院化」によって、日常生活の全てを信仰労働に捧げる。

節制禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。

この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。

勤勉性、探究心の強さ、合理主義社会活動への参加という18世紀における近代人間像の象徴

…というあたりで、発展しすぎた禁欲資本主義本来宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。

自己研鑽しない者たちに対する憎悪侮蔑は、従来の「つまり定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。

・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神"という本とかで書いてたこと。

今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである

(なぜならそのほうが発展に有利だからね)

----

補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸カリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からカトリック移民が多いからです。

ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的OK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。

そして何より、【西海岸リベラリズム】と対極っぽそうな南部バイブルベルト。

この地域基本的プロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的

ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想固定化されたっていうのとかありそう。

2021-03-21

日本欧米価値観を共有しているのか

中国との対立といった図式がニュースで取り上げられ、

その際に、「日本欧米価値観を共有しており、価値観を共有していない中国とは相容れない」に類するコメントをよく見かける。


本当に日本価値観を共有出来ているのだろうか?


プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の宗教禁欲主義資本主義精神との関係性は

知識としては知っていたとしても価値観の共有していると言えるのか?

BLM運動バイデンメソジスト監督派のベセル教会で膝を付いているのは理解できたのだろうか?

宗教分離という言葉日本的な見方米国では違うだろう。


かといって中国についても書籍すら中国から輸入できていないので理解も出来てないわけだが。

2021-03-18

anond:20210317182955

ゲイが祝福されない云々はともかく、

定説は考えようによってはそんなに悪いものではないと思う

資本主義キリスト教プロテスタンティズムからまれたとも考えられている

宗教改革におけるカルヴァン思想は、より徹底した聖書中心主義であり、神は絶対的権威をもち、人間原罪キリストの福音によってのみ救われるというものであった。その神による救済は「予(あらかじ)め定められている」であり、それを定めるのは絶対権限を持つ神だけである、したがって「人間はすべて平等に創られてはいない。永遠生命にあずかるもの永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められている」とした。そのような人間がどのようにして神への絶対的服従を示すことができるかというと、現世の天職を与えられたものとして務めることでしかできない、と説いた。このようなカルヴァン派の信仰西ヨーロッパ商工業者中産階級)に支持されていった。そしてこの西ヨーロッパ商工業者の中から近代社会を出現させる資本主義が生まれてきた。→『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

いずれにせよ、神は最初から私を救うか救わないかという正解を持っているが、それは私が死んで答え合わせがあるのであって、

私が死ぬまで正解は分からない、正解はCMのあとではなく死んだあとである

からこそ、目の前の仕事を全うするしかないし、仕事がないとしても人生謳歌するしかないとさえ私は考えている

その、仕事を全うする、人生を楽しむ、といったことも神は最初から計画されていることだし、

もっと広く考えるならば、この世界のすべてが神が計画されていることである

まり自由意志があるようで自由意志がないわけであるが、個々人にとってそれはどうでもいいことなである

なぜなら、我々人は、神様が何をお考えになっているのか、知りようがないかである

そして、それを知ることができるのはイエス・キリストのみであり、それ以外の預言者は偽の預言者である

人は神様が何をお考えになり、これからどうされようとしているのか、知る方法はないはずだからである

から別にキリスト教信仰しろ信心深くあれ、不信心は許さん、とはまったく私は思わないが、

人は機械ではなく、ロジックのみで動作するわけではなく、必ずしも論理的科学思考が正しいとも言えない存在であり、

特別信仰はなくても、頭のどこかに神というか、なにか見えないものを信じる必要性さえあるように私は考える

それは星の王子さまの、大切なものは目に見えないだったり、

水木しげる氏の、見えないものを信じる、にも似ているように私は思っている

キリスト教宗教を悪と考える人たちがこの世界に多く存在することも事実である

しかし、本当に宗教必要ないのか、人の心に平安を与える唯物論的ではない何かが必要ないのか、

個々人がそれぞれ考えておく必要があるように思う

そういえば庵野氏の昔のインタビューの中に、今の庵野氏の心情とは大きく異なっている可能性はあるが、

飽食時代から心の問題を描いた」みたいな発言があったが、

しかにそれはある側面では正しく、それがオウム真理教のような終末思想カルトを多く生み出した

しかし、当時の庵野氏が言う、飽食時代でなければ明日食べるもののことだけ考えるから心は問題にならない、

これは本当だろうか

もちろん、明日食べるもののことだけしか考えられなくはなるだろう、自分もそうなるだろう

しかし、エヴァで例えるなら、その極限的な状態シンジにとってのゲンドウが死ぬシンジにとっての周囲の人たちが死ぬ

でも、自分が生きてるからそれでいいや、みたいに思えるものだろうか

しか他人に対して思い入れがない、思い入れがない他人であればそうかもしれない

極限的な状態であれば、食料のために親が子を食べる、子が親を食べる、人が人を食べる、殺し合い奪い合う、

そういうことが起こっても不思議はない

しかし、人であるならば、どこかで我に返ったとき考えてしまうのではないだろうか

これでいいのか、何か間違っていないか

そういった考えが人にあるからこそ、道具を発明したり、農業発明してきたのではなかったのか

もし、人がそうでないのであれば、今でも殺し合い奪い合っているはずである

なぜなら、それで勝者は生きていけるからである

しかし、そうならなかったのはなぜなのか?

そして、こういった万物すべてを神様計画なさっている

悲しいことだが、大切な人が無残な死を迎えても、これも神様がご計画されていたこである

神様役割は、お賽銭のような賄賂をもらって人の願いを叶えることではないし、

すべての人類一人一人が不自由なく幸せになることでもないかである

逆に考えても、すべての人が幸福世界なんてありえないとしか思えないわけで

あくま個人的解釈だが、まず聖書は寄せ集めの書物という考え方もあるわけで、

キリスト教の中にも聖書無謬であり絶対的に正しいという考え方と、

いや、聖書にも間違いがある、本質的には神が絶対であり神を信じることである、という考えもある

色々なキリスト教があるし、キリスト教以外の宗教もある

からあくま個人的解釈だが、自分としてはキリスト教的に、

ゲイの人だから神に救済されないなどということはないと考える

それよりも最初に書いたように予定説で考えるならば、

ゲイであれノンケであれ関係なく、すべての人たちが救済されるか救済されないか、という問題を抱えており、

それは神様最初から決めているわけであるが、我々人は死ぬまでそれは分からないのである

からこそ、一日一日を大切に生きていくしか、人にはそれぐらいしかできないのである

人は思い上がりやすく、この世界宇宙をすべて悟ったつもりになりがちである

鋼の錬金術師フラスコの中の小人ではないが、神に思い上がるな、と言われるまで人は自らの思い上がりに気が付かない

そして、人は基本的怠惰であり、その思い上がりから歴史的にも多くの悲劇を生み出してきた

神を信じなくてもいいが、自らが思い上がっていないか、常々肝に銘じておく必要があるように思う

神を信じなくてもいいが、星の王子さまの、大切なものは目に見えない、水木しげる氏の、見えないものを信じる、

といったような考え方を非科学的だと馬鹿にするのはどうだろうか、と自問自答する必要があるように思う

2021-02-10

本好きなら高校生までに読破しておきたい古典100

哲学思想

プラトン饗宴

アリストテレス詩学

アウグスティヌス告白

レオナルド・ダ・ヴィンチレオナルド・ダ・ヴィンチの手記』

マキァベッリ『君主論

モア『ユートピア

デカルト方法序説

ホッブズリヴァイアサン

パスカルパンセ

スピノザエチカ

ルソー社会契約論』

カント純粋理性批判

ヘーゲル精神現象学

キルケゴール死に至る病

マルクス資本論

ニーチェ道徳の系譜

ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

ソシュール一般言語学講義

ヴァレリー精神危機

フロイト快感原則彼岸

シュミット政治神学

ブルトンシュルレアリスム宣言

ハイデッガー存在と時間

ガンジーガンジー自伝

ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品

ポランニー『大転換 市場社会形成崩壊

アドルノホルクハイマー啓蒙の弁証法

アレント全体主義の起源

ウィトゲンシュタイン哲学探求』

レヴィ=ストロース野生の思考

マクルーハングーテンベルグ銀河系

フーコー言葉と物』

デリダ『グラマトロジーについて』

ドゥルーズガタリアンチオイディプス

ラカン精神分析の四つの基本概念

ウォーラーステイン近代世界システム

ケージジョン・ケージ

サイードオリエンタリズム

ベイトソン精神自然

アンダーソン『想像の共同体

本居宣長『玉勝間

上田秋成『胆大小心録』

内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』

岡倉天心東洋理想

西田幾多郎西田幾多郎哲学論集Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』

九鬼周造『「いき」の構造

和辻哲郎風土

柳田國男『木綿以前の事』

時枝誠記国語学原論

宇野弘蔵経済学方法論』

海外文学

ホメロスオデュッセイア

旧約聖書創世記

ソポクレスオイディプス王』

唐詩選』

ハイヤーム『ルバイヤート

ダンテ神曲

ラブレーガルガンテュアとパンタグリュエルの物語

シェイクスピアハムレット

セルバンテスドン・キホーテ

スウィフトガリヴァー旅行記

スターントリストラム・シャンディ』

サド悪徳の栄え

ゲーテファウスト

スタンダールパルムの僧院

ゴーゴリ外套

ポー盗まれた手紙

エミリー・ブロンテ嵐が丘

メルヴィル白鯨

フローベールボヴァリー夫人

キャロル不思議の国のアリス

ドストエフスキー悪霊

チェーホフ桜の園

チェスタトンブラウン神父童心

プルースト失われた時を求めて

カフカ審判

魯迅『阿Q正伝』

ジョイスユリシーズ

トーマス・マン魔の山

ザミャーミン『われら』

ムージル特性のない男』

セリーヌ『夜の果ての旅』

フォークナーアブサロム、アブサロム!

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』平

サルトル嘔吐

ジュネ『泥棒日記

ベケットゴドーを待ちながら

ロブ=グリエ嫉妬

デュラス『モデラートカンタービレ

レム『ソラリスの陽のもとに』

ガルシア=マルケス百年の孤独

ラシュディ『真夜中の子どもたち』

ブレイクブレイク詩集

ベルダーリンヘルダーリン詩集

ボードレール悪の華

ランボーランボー詩集

エリオット荒地

マヤコフスキーマヤコフスキー詩集

ツェランツェラン詩集

バフチンドストエフスキー詩学

ブランショ文学空間

日本文学

二葉亭四迷浮雲

森鴎外舞姫

樋口一葉にごりえ

泉鏡花高野聖

国木田独歩武蔵野

夏目漱石我輩は猫である

島崎藤村破戒

田山花袋蒲団

徳田秋声あらくれ

有島武郎或る女

志賀直哉小僧の神様

内田百閒『冥途・旅順入城式』

宮澤賢治銀河鉄道の夜

江戸川乱歩押絵と旅する男

横光利一機械

谷崎潤一郎春琴抄

夢野久作ドグラ・マグラ

中野重治村の家

川端康成雪国

折口信夫死者の書

太宰治斜陽

大岡昇平『俘虜記』

埴谷雄高死霊

三島由紀夫仮面の告白

武田泰淳ひかりごけ

深沢七郎楢山節考

安部公房砂の女

野坂昭如エロ事師たち

島尾敏雄死の棘

大西巨人神聖喜劇

大江健三郎万延元年のフットボール

古井由吉円陣を組む女たち』

後藤明生挟み撃ち

円地文子食卓のない家』

中上健次枯木灘

斎藤茂吉『赤光』

萩原朔太郎『月に吠える』

田村隆一田村隆一詩集

吉岡実吉岡実詩集

坪内逍遥小説神髄

北村透谷人生に相渉るとは何の謂ぞ』

福沢諭吉福翁自伝

正岡子規歌よみに与ふる書

石川啄木時代閉塞の現状』

小林秀雄『様々なる意匠

保田與重郎日本の橋』

坂口安吾堕落論

花田清輝復興期の精神

吉本隆明転向論』

江藤淳成熟喪失

2021-02-01

社会学は滅びるべきなのか

 以下の文章は、社会学客観性が無いか学問の体をなしていないか解体すべき、という暴論を見かけて、趣味社会学を学んでいる人間イラッとして書き散らしたものです。専門家によるまともな読み物としては、盛山和夫社会学方法立場: 客観性とはなにか』(2013)、佐藤俊樹社会学方法――その歴史構造』(2011)(たまたまですがどっちも東大系の人ですね)、あるいは以下で紹介する「客観性論文」やそれ関係論文などがあります。ちなみに「岩波科学科学論文」の人に関しては擁護のしようも無いと思います

 たとえば、この宇宙スパゲッティモンスターによって創作されたという誤ったイデオロギーを抱えた科学者がダイナマイト発明したとして、ダイナマイトは誤った発明であるとか、あまつさえ存在しないということにはなりません。それはそれ、これはこれ、という態度が科学的というものでしょう。しかし、誤ったイデオロギー社会学者が抱えることは望ましくないとされます。なぜでしょうか。

 それは社会社会問題が、原子DNAが「存在する」のと同じ意味では「存在する」と言えないことに根本的な原因があります。たとえばホームレス現在社会においては色々な意味問題とされていますしかし、ホームレス人類の定住以前においては間違いなく問題概念として存在していませんでしたし、中世近世においても今日と全く同じ問題としては存在しなかったことでしょう。原子がこの宇宙の始まりから今と同じように存在していたのとは対照的です。ホームレスを扱う社会学が、物理学生物学と比べて胡乱なものに見えがちな理由はここにあります。誤ったイデオロギーを抱えた社会学者は誤ったもの存在するとみなしてしまいかねないのですね。

 しかしだからといって、今日ホームレス問題としてまったく「存在しない」と言い切ることはできないのもまた確かな実感でしょう。原子の「存在」とは別の意味とはいえ社会社会問題は確かに存在」する、と言いたくなります。「実在」と「非実在」のあいだの独特な在り方。社会学者はそのことを「社会実在」のような言葉で表してきました。これはいかにも怪しい物に思われますしか今日における我々が「ホームレスになりたくない」、「ホームレスが怖い」、あるいは「そうしたホームレスに対する差別的見方こそが問題なのだ」と思っているのもまた確かなことです。およそ100年前、そのことを単に思うだけでなく、その思い自体を当時隆盛しつつあった科学方法分析しようと考えた人々がいました。

 マックス・ウェーバーの「社会科学社会政策にかかわる認識の『客観性』」(以下、客観性論文)という1904年論文がありますウェーバー社会学におけるビートルズであり、この論文イエスタデイくらいの重要さと著名さを誇ります。要するに、まともに社会学をやっていればなんとなくは知っているべきもの、という位置づけでしょう。(ちなみにLet it beは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。読んでいないのは許されない)

 とか言いながら私は手元にその本が無いので、ネット記述に頼りつつ思い出した記憶で以下のことを書くことをお許しください。

 ウェーバー客観性論文のなかで社会学者がよって立つべき「価値自由」という概念提唱します。この主張はしばしば「価値判断をしてはならない」とか「価値判断に影響されないデータだけを虚心に扱うべきである」といった主張として誤解されていますしかしそうではなくウェーバーはここで「社会学者もまた人間である以上、何かの価値判断を持ってしまうことは避けられない。そして価値判断は時として認識を狂わせる。しかしだからこそ、社会科学的に取り扱う社会学者は価値判断認識区別しなければならない。そのためには自分の持っている価値判断に対して敏感でなければならないのだ」といったことを主張していたはずです、たぶん。客観性論文については多様な読解や批判がなされている(上に私の手元にその論文が無い)ので客観性論文の内容についてはこれ以上立ち入らないことにします。以下ではその代わりに、客観性論文に関する微かな記憶を頼りにしながら、社会学客観性について考えてみたいと思います

 たとえば次のような主張がなされることがあります。「数字は嘘をつかないが、数字を使う人(社会学者!)は嘘をつく」。けだし名言でしょう。しかし、社会学であるならばもっと深く考えなければなりません。ここでは「ホームレスの人数」について考えてみましょう。ここで名言に従って単純に考えるのであれば次のようになるでしょう。ホームレスの人数は、数学物理における定数のように誤ることなく(それを測り間違うことはあるかもしれないが)存在しているが、それを多いとか少ないとか、それを減らすべきだとか主張する人は誤ることがある、と。

 後半は確かにそうでしょう。しかし、前半は間違っています。たとえば、日本政府ホームレスについての統計を発表していますしかし「国民税金を使ってホームレスの人数を数えよう」という時点ですでに何かしらの価値判断が働いています。そのことは政府サイトに「ホームレス実態に関する全国調査」が載っていて、「鼻くそをほじって鼻血を出した人の実態に関する全国調査」が載っていないことを考えてみればわかるでしょう。こうした極論を言うと、「どちらも数字としては存在するが、後者はただ(未発見物理性質のように)見つかっていないだけだ」と言われるかもしれません。しかしたとえば日本政府ホームレスに関する調査は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法第2条に規定する「都市公園河川道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」」を対象にして行われているようですが、ここからはいわゆる「ネットカフェ難民」がその統計から漏れています。これは単なる「測り間違い」なのでしょうか。そうではありません。「ネットカフェ難民」をホームレスに入れるべきか、あるいはそもそもネットカフェ難民」をそもそも問題」とすべきかこそが、ひとつ価値判断であるのです。「ネットカフェ難民」を入れたホームレスの人数と入れないホームレスの人数、どちらが正しいでしょうか?それは重力加速度として2m/s^2と9.8m/s^2のどちらがより正しいか、という問いのようには答えが出そうにありません。

 社会についての数字は、自然科学における定数のようには存在しないのです。つまり社会における事実は、自然科学における事実のようには存在しません。そのような状況で、いかにして社会科学的に扱うことができるでしょうか?

 もしかしたらそもそも可能かを問う以前に、そんなことを目指す必要があるのか疑問に思う人がいるかもしれません。あるいはより直裁に「社会科学的に扱う学問社会学って何の役に立つの?」と聞かれることはしばしばあります。それには多様な答えがありうるでしょうが、私は次のように答えることにしています。「何かの役に立つわけでもないのにやらずにはいられないのが科学の出発点なのだ」と。人間が持つ認識能力や、何かを書く/描く、喋るといった能力は、生存する上での必要から発達したはずです。自分の周囲を見渡す能力や、自分が見た物事他者に伝える能力は、それを持っていない種よりも生存上の有利をもたらしたことでしょう。しか人間は、その必要性を越え出たところまでその能力を、あるいはその能力によって生み出すものを発達させました。それは、芸術とか哲学とか、あるいは科学とか呼ばれるものです。存在しない風景を描くことに、どんな必要性があるでしょうか?死後の世界を思い描くことに、どんな必要性があるでしょうか?そして宇宙の星々の表面を調べることに、どんな必要性があるでしょうか?こういうことを言うと、次のように返されるかもしれません。「芸術哲学生存に不必要かもしれないが、いまのわれわれは科学無しには生きられないではないか」と。まあ、確かにそうです。でも、それは科学根本的な不必要性を否定するものではありません。人間ホモサピエンスは、ニュートン万有引力発見する以前からずっと世界覇者であったではないですか?それでもニュートン万有引力発見したのは、「世界のことをもっとよく知りたい」という、ただ生きるためには不必要知的欲求、こういってよければ人間特有本能からであったはずです。「ただ生きる」ことに飽き足りないのが今の人間であり、そうした人間が生み出したのが芸術哲学科学です。そのうちの科学欲求が、これまた不必要に複雑化した社会のありように向かうことも、私は自然なことだと思っています。先のような問いをする人には、正直に言えば「なぜあなた社会について科学的に分析したいと思わないでただ生きていられるのですか?」と私なんかは思うのですが、これはさすがに社会学に頭をやられてしまった奴の意見でしょう。ほかの社会学者はもっとうまく説明することができるはずです。まあ、そんな可哀想な奴もいるんだなと思っておいてください。でも実際、「社会に対する科学認識って必要?」と言われたら、究極のところ「認識したいんだから仕方ないじゃん?」としか私は返せません。なのでこの問題放置して次の段落に向かいます

 さて、いか社会科学的に扱うことができるかという問題でした。その問題は、社会に「存在する」もの数字が、ふつう科学が扱うもの数字と同じようには「存在しない」、というところから発生しているのでした。より明確に言えば、社会実在は、それを観測する人や社会価値判断を抜きにしては存在し得ないという独特の性質を持ちます。たとえば「ネットカフェ難民」は、ここ二十年ほどの日本労働環境ネットカフェの事情抜きには科学的な意味で「存在しませんでしたし、さらに言えば科学的な意味で「存在」していても、支援団体の人々などが発見ニュース等で取り上げられるまでは社会的に「存在」しえませんでしたし、いまだに政府ホームレス統計には「存在」していない、という状況にあります。そのことは万有引力宇宙の始まり以来、ニュートン発見しようとしまいと科学的な意味で「存在」していた、あるいは今現在未知の物理現象生物現象が、まだ発見されていないだけですでに世界のうちに「存在」していることとは対照的です。

 価値判断抜きで存在し得ない対象を、いか科学的に扱うか。それこそがウエーバー客観性論文のなかで考えたことでした。ここでよくある誤解は、そして絶対に避けられるべきなのは、「社会実在は実は価値判断抜きに存在しうる」と考えたり「価値判断抜きで存在するもの社会学は扱うべきだ」と考えたりすることです。前者が存在しないことはすでに説明しました。社会実在は――それが単なる数字統計であっても――価値判断抜きには存在し得ません。であるからして、後者社会学根本的に否定する思想です。そういう価値判断に影響されざるを得ないもの、すなわち社会社会実在をよりよく知りたいと考えるのが社会学なのですから。それを否定する人に対しては何も言えないということはすでに述べました(あくまで私個人からは、の話ですが。ほかの社会学者はもっとうまく説得するかもしれません)。

 そこでウェーバーが述べたのが「価値自由」でした。社会学者は自分価値判断をわかっていなければならない。より分かりにくく論文に忠実な言い方で言えば、「存在する」ことと「存在するべき」ことを区別しなければならず、科学は「存在する」ことしか明らかにできない。このウェーバーの主張に対しては、それもまたひとつ価値判断ではないか、という主張を投げかけることが可能ですし、一見ただのいちゃもんに見えるその問いは、社会学の中で大真面目に議論されてきました。私の見たところ、この問題は答えが出ない種類の問いなので、取り扱わないことにします。いいじゃないですか、どんな学問だってドグマの一つくらいありますよ。それより重要なのは、「自分価値判断をわかる」ことが、本当に社会実在を扱う上での十分条件であるのか、ということです。それが必要条件であるのは確かにそうであると思います。ある社会学者が「ホームレス問題についての社会学分析」という論文を書くとして(テーマが広すぎますがそれは置いておいて)、その人が「自分ホームレスを望ましい人間の在り方ではないと考えている」とか「というかホームレス気持ち悪い」とか「ネットカフェ難民をホームレスに含めていない日本政府問題である」とかい自分価値判断自覚していなければ、それは社会学研究として成り立たないでしょう。しかし、それだけで十分なのか。社会実在というものは、もっと慎重に取り扱わなければならないものではないか。(実際、客観性論文より後の後期ウェーバーも、そう考えて「理解」を社会実在根本に据えたと私は理解しています[詳しくないので間違っているかもしれません])

 と、ここまで書いて疲れたので一旦筆を置きます。続きは最初に挙げた二冊を読んでください。でも、ここまで読んでくださったあなたに問いたいのですが、私の書いたことは多少なりとも興味深くはなかったですか。社会学はこのような根本的な問いを抱えながら成長してきましたし、まだその途中にあるのかもしれません。私の考えるまともな社会学者はこの文章における中心的な問い「社会実在とはどのようなものか?」に対する、この文章以上に説得的な答えをそれぞれ持っています。そこが人によって違っていいのか、と思われるかもしれません。もしかしたらそこが社会学の駄目なところかもしれません。しかし、おおよその社会学者は確かにウェーバーや(この文章では触れませんでしたが)デュルケームなどが作った社会学歴史の上で考えている、という点では一致していると思います。それこそが社会学共通性であり、知的伝統であるとみなしてはもらえないでしょうか。よろしくお願いします。

2020-10-12

マッチ売りの少女マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の寓話なのではないか

宗教改革以前のヨーロッパなら少女マーケティングなど考える必要もなく、「貧民救済など善行こそ天国への一里塚」の精神にもとづき、教会修道院を基盤としたカトリックネットワークのどこかが彼女に手を差し伸べたのではないか

ルター派を奉じる19世紀デンマークではそれに期待できない。英国国教会イギリスでも、修道院解体後に制定されたエリザベス救貧法は貧者を労働可能な者と不可能な者に分類し、前者には労働義務化し、強制するものであった。

近代ヨーロッパ誕生は、ヴェーバーが言うところの「経済的個人」の析出、およびマルクスで言うところの「二重の自由=疎外」とともにある。

anond:20201006181407

2018-05-06

anond:20180506165715

岩波文系観点からも非常に重要で、いわゆる「基本的古典」はかなり岩波文庫にはいってるんだよな。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神とか、ケインズ一般理論とかの経済系もだし

哲学存在と時間とかまあほぼすべてって感がある。

あとドイツ語ではないけど「国際政治」もあるし。

岩波新書の方もかなり重要ものが多いし。大学書店なんだから基本的古典小説もあってしかるべきだとおもうし。

理学部ローカル問題ですらとてもない。

2016-09-10

[]

さびさにロマ書を読む。

最近知人と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の話になって、「プロテスタンティズム資本主義に適合していた」って言うけどおかしくね?と思い、その根底にあるという「予定説」を調べようとした次第。

定説理解自体さまざまなバリエーションがあるのだが、以下は注釈者(内村鑑三)の理解

まず予定説というのは、人が、神を信じるか信じないか、救われるか滅びるか、は(その人の意志ではなく)神の意志で決まるという考え方だ。

この理解によれば、キリスト教徒にとって人生のあらゆる出来事は、その人が神を信じ、救われるための設備にすぎない。神は、その人を救済するという目的に向かって事件経験人生に配置していくことになる。

ただこの説によると、なぜ日本人は非キリスト教徒が多いのだ、という疑問が生じる。

ここはやや不明なのだが、キリスト教を信じず、拝金主義・消費主義堕落してしまった日本人は、神からいったん放置され、神は先に中国朝鮮福音を及ぼしたとのこと。

ただ日本人は見捨てられたわけではなく、中国朝鮮福音の光が満ちれば、日本にも福音の光が及ぶであろう、とのこと。

この予定説理解ヨブ記理解(苦難を通して信仰に至る)にも通ずるなぁ、と思った。神に選ばれて信者になったのだ、という強い自負心も持つことができる。

中国朝鮮云々は、注釈者が明治大正期の人なので、今でも妥当する考えかは不明。まぁ面白い見方ではある。

2015-05-21

新しいリベラルアーツのためのブックリス

リベロ池袋本店リベロ福岡天神店で開催された「新しいリベラルアーツのためのブックリスト」フェアがとても良く、僕も何冊か読んだので、感謝気持ちを込めてリストします。

1〜2[人=分野]/[日]ぐらいのペースになりそう。

2014-11-01

馬鹿だらけの日本社会でぼくらはどうやって生き残っていったらいいのだろう

ネット本音を書くとすぐプチ炎上するようになってきた。馬鹿馬鹿って言うと怒られる。「ぼくちんは百田尚樹とか読んでるインテリなんだー」ってな具合だ。ネット暇人馬鹿のものだなんて昔から言われてたけど、ほんとにもう馬鹿ばっかりでうんざりしてしまう。

たとえばヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や『社会科学社会政策にかかわる認識の「客観性」』なんてはてな民なら基本中の基本中の基本だから当然全員読んでるわけだけど(読んでない人は今すぐはてなを退会しよう!)、そういうことを外で言うと、マックス・ヴェーバー存在すらしらないF欄の馬鹿にキレられる。存在すら知らないってネタかと思うかもしれないけど、世間って結構そんなもんだからね?

別にぼくはヴェーバー読んでるから偉いとかそういう低次元なことを言ってるんじゃなくて、ヴェーバーの基本書くらいは社会に向けて責任ある発言するならば読んでるのが当たり前であって、その上で話をしたいって言ってるだけなのに、かれらはムキーってなっちゃって、全然話聞いてくれない。

それで彼らはくだらない大衆文学読んではラノベ批判してなんかいいことした気になっちゃってる。たしかラノベも低レベルだけど、大衆文学も同じように低レベルだよ。読者を気持ちよくさせてくれる都合のいい書物という意味では精神オナニーしかないわけで。

百田尚樹とか読んでる馬鹿ネットでも偉そうにするようになってきた(なんであいつらが読書家然としてふるまっているんだか)。最近はてなブログもそうだわな。馬鹿馬鹿なこといって馬鹿に支持されてる。ぼくらがまともなことを書いても馬鹿に反発されるだけになってしまった。もう失望絶望を通り越して、笑っちゃうよ。

マーチ卒で日本人学歴上位10%に入ってしまうという現実をどう受け止めたらいいんだろう。日本人馬鹿ばかりだ。xevra先生日本大学20でいいとか言っていたと思う。20っていうと、東大京大一橋東工大東京医科歯科大、大阪大、名古屋大、神戸大、東北大、九州大北海道大、筑波大、東京外語大、お茶の水女子大横国千葉大慶応早稲田上智ICU、くらいになるのかな。たしかにこのあたりはまあまあ優秀だとは思う。でもここらへんだけ残したところで日本から馬鹿が減るわけではない。あいかわらず日本人馬鹿ばかりだ。どうしたらいいんだろう。

ぼくの体感からすると、マーチ卒でやっとぎりぎり簡単な日本語理解できるレベル。このレベル日本人10%しかいないってのはほんとにおそろしいことだ。マーチレベル日本人の70%くらいにはしなくちゃだめだろう。英語教育なんてそれからだ。日本人日本語すらできない。母国語ができないということは言語基本的論理構造理解できてないということ。そんなんで日々「コミュニケーション能力がー」とか言ってる。笑っちゃうよね。

馬鹿が喜ぶことを言ったり書いたりすれば、馬鹿に支持してもらえる。そうやってお金稼いでいる人はたくさんいる。でもほんとにそれでいいのか。

馬鹿だらけの社会にうまく適合できないぼくらはてな民は今後どうやってこの日本という地獄を生き抜いていったらいいんだろう。馬鹿を気持ちよくさせてあげるほどぼくらは人間ができちゃいない。でも馬鹿から金を巻き上げなければ生きていけない。ぼくらはただ誠実に素直に生きていきたいだけなのに。誠実であろうとすればするほど社会からはみ出してしまうこのジレンマをどうしたらいいんだろう。

ああ疲れる。

2014-06-18

大学教師が新入生に薦める100冊」のCSV

大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除ソート出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデルエッシャーバッハの長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記

2008-07-08

猿ベージ

http://anond.hatelabo.jp/20080315152400]

これを全部読んでいない人間は「猿」です。

ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。

プラトン『饗宴』岩波文庫

アリストテレス『詩学』岩波文庫

アウグスティヌス『告白』岩波文庫

レオナルド・ダ・ヴィンチレオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫

マキァベッリ『君主論中公文庫BIBLO, 岩波文庫

モア『ユートピア岩波文庫

デカルト方法序説岩波文庫

ホッブズリヴァイアサン岩波文庫

パスカル『パンセ』中公文庫

スピノザエチカ岩波文庫

ルソー『社会契約論』岩波文庫

カント純粋理性批判岩波文庫

ヘーゲル精神現象学平凡社ライブラリー, 作品社

キルケゴール死に至る病岩波文庫

マルクス資本論岩波文庫

ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫

ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫

ソシュール『一般言語学講義』岩波書店

ヴァレリー精神の危機』

フロイト『快感原則の彼岸』ちくま文庫

シュミット政治神学』未来社

ブルトンシュルレアリスム宣言』岩波文庫

ハイデッガー存在と時間ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシック

ガンジーガンジー自伝中公文庫

ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシック

ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社

アドルノホルクハイマー啓蒙弁証法岩波書店

アレント全体主義起源みすず書房

ウィトゲンシュタイン哲学探求』大修館書店

レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房

マクルーハン『グーテンベルグの銀河系みすず書房

フーコー『言葉と物』新潮社

デリダ『グラマトロジーいについて』

ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス』河出書房新社

ラカン精神分析の四つの基本概念』岩波書店

ウォーラーステイン『近代世界システム岩波書店

ケージジョン・ケージ青土社

サイードオリエンタリズム平凡社

ベイトソン精神と自然』新思策社

アンダーソン『想像共同体NTT出版

本居宣長『玉勝間』岩波文庫

上田秋成『胆大小心録』岩波文庫

内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫

岡倉天心『東洋の理想』講談社学術文庫

西田幾多郎西田幾多郎哲学論集?・?・?』岩波文庫

九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫

和辻哲郎『風土』岩波文庫

柳田國男『木綿以前の事』岩波文庫

時枝誠記国語学原論』

宇野弘蔵経済学方法論』

海外文学

ホメロスオデュッセイア岩波文庫

旧約聖書創世記岩波文庫

ソポクレスオイディプス王新潮文庫岩波文庫

『唐詩選』岩波文庫

ハイヤーム『ルバイヤート』岩波文庫

ダンテ神曲岩波文庫

ラブレー『ガルガンテュアとパンタグリュエルの物語』岩波文庫

シェイクスピアハムレット角川文庫新潮文庫岩波文庫ちくま文庫

セルバンテスドン・キホーテ岩波文庫

スウィフトガリヴァー旅行記』岩波文庫

スターントリストラム・シャンディ』岩波文庫

サド『悪徳の栄え河出文庫

ゲーテファウスト新潮文庫岩波文庫

スタンダールパルムの僧院』

ゴーゴル『外套』

ポー『盗まれた手紙』

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』

メルヴィル『白鯨』

フローベール『ボヴァリー夫人』

キャロル不思議の国のアリス

ドストエフスキー『悪霊』

チェーホフ桜の園

チェスタトンブラウン神父の童心』

プルースト失われた時を求めて

カフカ『審判』

魯迅『阿Q正伝』

ジョイスユリシーズ

トーマス・マン『魔の山』

ザミャーミン『われら』

ムージル『特性のない男』

セリーヌ『夜の果ての旅』

フォークナー『アブサロム、アブサロム!』

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

サルトル嘔吐

ジュネ『泥棒日記

ベケットゴドーを待ちながら

ロブ=グリエ『嫉妬』

デュラス『モデラートカンタービレ

レム『ソラリスの陽のもとに』

ガルシアマルケス百年の孤独

ラシュディ『真夜中の子どもたち』

ブレイクブレイク詩集

ベルダーリンヘルダーリン詩集

ボードレール悪の華

ランボーランボー詩集

エリオット『荒地』

マヤコフスキーマヤコフスキー詩集

ツェランツェラン詩集

バフチンドストエフスキーの詩学』

ブランショ『文学空間』

日本文学

二葉亭四迷浮雲

森鴎外舞姫

樋口一葉『にごりえ』

泉鏡花高野聖

国木田独歩武蔵野

夏目漱石我輩は猫である

島崎藤村破戒

田山花袋『蒲団』

徳田秋声あらくれ

有島武郎『或る女』

志賀直哉『小僧の神様』

内田百〓『冥途・旅順入城式』

宮澤賢治銀河鉄道の夜

江戸川乱歩『押絵と旅する男』

横山利一『機械』

谷崎潤一郎『春琴抄』

夢野久作ドグラ・マグラ

中野重治村の家

川端康成『雪国』

折口信夫死者の書

太宰治『斜陽』

大岡昇平『俘虜記』

埴谷雄高死霊

三島由紀夫仮面の告白

武田泰淳ひかりごけ

深沢七郎楢山節考

安部公房砂の女

野坂昭如『エロ事師たち』

島尾敏雄『死の棘』

大西巨人神聖喜劇

大江健三郎万延元年のフットボール

古井由吉『円陣を組む女たち』

後藤明生『挟み撃ち』

円地文子『食卓のない家』

中上健次『枯木灘』

斎藤茂吉『赤光』

萩原朔太郎『月に吠える』

田村隆一田村隆一詩集

吉岡実吉岡実詩集

坪内逍遥『小説神髄』

北村透谷人生に相渉るとは何の謂ぞ』

福沢諭吉『福翁自伝

正岡子規『歌よみに与ふる書』

石川啄木『時代閉塞の現状』

小林秀雄『様々なる意匠』

保田與重郎『日本の橋』

坂口安吾堕落論

花田清輝『復興期の精神

吉本隆明『転向論』

江藤淳『成熟と喪失』

by 柄谷行人、他

追記

必読書150』柄谷行人浅田彰、他(太田出版

http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%85%E8%AA%AD%E6%9B%B8150-%E6%9F%84%E8%B0%B7-%E8%A1%8C%E4%BA%BA/dp/4872336569

ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラリソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。

 
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