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2024-03-07

anond:20240307011115

なんか嫌なことでもあったんか? 合格発表前のメンタルか?

2024-02-26

京大のタテカン

笑える物が多いけど、受験に受かった奴が受からなかった奴を煽ってると思うと味わい深いな。

合格発表時でないだけマシか)

2024-02-07

高校合格発表があった翌日にラーメン屋に行った。合格したけれど別に小遣いがもらえるわけも無く、手元に残ってるのは2000円ほど…でもおなかは減るわけでラーメン屋で800円ぐらいのラーメンを注文。ラーメンを待ってる時に店主が「そう言えば◯くん、受験生だっけ?」と聞いてきた

僕は「もう受験生は終わりましたよ。来年から高校生ですおかげさまでね」と言ったら

「そりゃおめでたいね〜」と嬉しそうだった

んで、出てきたラーメンを見てびっくり

チャーシューどんぶりを埋め尽くすぐらい乗っかってるの。頼むの間違えたかなって思って店主に「私が頼んだのラーメンですよ」って言ったら

「ああ?それ、合格祝い」と店主はこちらに顔も向けず言った。水道蛇口を捻ったみたいに気づいたら涙がおちてて、チャーシューの味がなんだかとってもしょっぱかったな。で、あっという間に完食してさすがに涙も止まったところで店主がにんまり笑って言ったんだよ




「お会計 1500円になります」って

2023-12-13

昨日司法修習の二回試験合格発表があったけど、この時期になっても就職が決まっていない人は少数ながら確かに存在するみたいなんだよねえ

やっぱり法曹資格には昔程の価値はなくなっているし、若くて高学歴陽キャ以外はお呼びじゃないんだなって思う

2023-12-05

Fラン大学合格発表を観に行く

って企画を昔ナンシー関がやってたけど今考えても露悪的だな

2023-12-04

今日が乙4の合格発表だと思ったらネットに出るのは5日やんけ

ガッデェェェム

2023-12-02

職歴無し35歳無職ヒキワイ、明後日が乙4の合格発表日でやんす。

というわけで自宅から5㎞地点にある夜勤募集中セルフスタンドに徒歩で行ってみたぜ。

けっこう寒いぜ。調べてみると外気温4.3℃ぐらいらしい。でも歩いてると汗かくぜ。

なかなか冷たい風に世間を感じつつトコトコ片道55分、往復約2時間自転車だと往復1時間ぐらいか

セルフ夜勤の勤務時間1112時間夜勤で客が来ない間は節度を守りつつ好きな事ができるとはいえ、そんだけ拘束された上に1時間通勤時間はさすがにキツイもんがあるぜ!

3.5㎞圏内に6件ぐらい24時間セルフがあるんでやっぱそれらが募集始めるまで待つかな・・・

歩くと実感するが徒歩だと3.5kmを超えたあたりから遠いわこれ感が明確に出てくる。

徒歩通勤は3㎞がベストだな、往復6㎞で一日に丁度良い運動量だし。

狙いのセルフ募集が始まるまで繋ぎバイトが要るな・・・事情を踏まえた上でパッと辞めさせてくれるバイトが見つかるかしら。

にしても10km歩いただけでだいぶ疲れた。帰りに寄った閉店間際のドラッグストアを出た瞬間はあ~疲れた!って言っちゃったわ。

2023-11-24

にしても狙ってたセルフスタンド夜勤募集が消えてしまったわ

埋まったか…かなC

合格発表まであと2週間だしそらまあ埋まるよなあ

2023-11-20

anond:20231120120834

しっかり元増田自身言語化できてるから必要ないとおもうんだけど一応増田ブクマカにはわからない人が多そうだから解説しておくね

1・高校2年生 クラスメイトに対して

担任は「Bは学校に来るのが難しくなって、別の方法勉強をする決断をした」というような説明をした。

それまで同学年に退学者がいなかったのでクラスはざわついた。ホームルームが終わると、クラスメイトAが私の元にやってきた。

「B辞めるんだ、なんで?」

その程度の人間が、情報を取る時だけ、私に声をかけた。

まず前提として担任が十分配慮した言い方で情報をあたえている。Aも元増田もおなじ情報しかない。

しかしAはBどころか元増田のこともよく理解していないのに「同じ部活」といううわべの情報だけをみて「こいつなら知っているだろう」と情報をとろうとした。

さらに「理由を知っていますか?」ではなく「なんで?」という聞きかたをした。

忖度要求する日本人では「なんで」は聞きようによっては相手をキツく責める・叱るいいかたになる。

cf.強姦されたならなんで助けを求めなかったの」

(この尋ね方は高確率で本気で理由を細かく言語化してほしいのではなく興味本位二次レイプになりますもっと丁寧な聞き方をしろ

それをためらいなくつかうAは元増田をかなり見くびっているので元増田は怒った。

 

2・高校3年生 母親

そして一次試験合格発表で、私は受かった。

帰宅して早々に母に合格を告げたところ、即座に「でも二次で落ちるんでしょ?」と言われた。

合格の報告をして、真っ先に出る言葉がそれ?

私は激怒した。

解説不要。ただもし受かったら親御さんはすぐに入学金を用意しなければいけないので

あらあら、それならいそいで多額の現金用意しなきゃね」のつもりでそういう失言ちゃう人だったのかもしれないとは思う。だとしてもだいぶキツめのコミュ障親ですね

 

3・20歳誕生日 友人

20歳誕生日に「お誕生日おめでとうございます。これでお前も老人の仲間入りだなw」とメッセージがあった。

そのメッセージを送ってきたのは同い年の友人で、友人の誕生日に私は肉を奢ったはずだが。

そもそも友人は既に20歳なので、自分を棚上げして私を老人呼ばわりしているわけだが。

私は激怒した。

おめでとうございますは祝の言葉なのになんで呪いをつなげるんだというのは一般的礼儀だとおもう。

相手は身内のなれ合いのつもりでやってるとおもうけどかなりのマウントしかけている。

しかしたら今は18歳で成人だから20を新しく何と呼べばいいんだ→短絡的に老人と出たのかもしれないが、普通に昔でいう青年とか成年でよかったのでは?

 

1.3は同年齢の友人のわりにかなり言動が幼いのだが、元増田はかなり精神年齢が高い(バイトとかしてそう)。

そういう人が一緒にいる学校では距離をとることで自衛する必要がある。

特に3は20でもこの幼さなので、

この増田で憎まれている「ツイフェミ」や「ウヨ・サヨ」「反ワク」のような「うっかり言動」をSNSでやってしまって炎上する可能性が高い。

なんで私きらわれちゃうんだろう?のまま生きていくのではないだろうか。

逆に元増田リアルだとみくびられやす激怒しても伝わらない柔和タイプなのかもしれないが即ブロック遮断できるSNS親和性が高い。

とはいえ増田なんかにきてもしょうがないやでとも思う。

激怒三選

1・高校2年生 クラスメイトに対して

長らく不登校だったクラスメイトBが退学した時のこと。

私とBは部活が同じだったが、Bは不登校になったタイミング部活にも来なくなっていた。別に仲が良くもなかったので特に連絡は取りあっておらず、いないなーとだけ思っていた(個人競技なのでいなくても困らない)

ある日のホームルームで、Bの退学が告げられた。

担任は「Bは学校に来るのが難しくなって、別の方法勉強をする決断をした」というような説明をした。

それまで同学年に退学者がいなかったのでクラスはざわついた。ホームルームが終わると、クラスメイトAが私の元にやってきた。

「B辞めるんだ、なんで?」

Aと私は仲が良いわけではない。グループ学習でお喋りはするが休日は遊びに行かないくらいの関係性だ。

その程度の人間が、情報を取る時だけ、私に声をかけた。

私は激怒した。

2・高校3年生 母親

大学進学をすることになった。

志望校は堂々のD判定。だが入試形態ひとつだけ入れそうなルートがあり、私はそのルート選択した。

そのルート二次試験まで試験があるが、一次試験突破率が低めな代わりに、二次試験合格率が90%を超えており「一次さえ受かればまず受かる」と三者面談では言われた。

三者面談では同様に「この方法で落ちたら、正直この大学は厳しい」とも言われていた。

そして一次試験合格発表で、私は受かった。

帰宅して早々に母に合格を告げたところ、即座に「でも二次で落ちるんでしょ?」と言われた。

合格の報告をして、真っ先に出る言葉がそれ?

私は激怒した。

3・20歳誕生日 友人

20歳誕生日に「お誕生日おめでとうございます。これでお前も老人の仲間入りだなw」とメッセージがあった。

そのメッセージを送ってきたのは同い年の友人で、友人の誕生日に私は肉を奢ったはずだが。

そもそも友人は既に20歳なので、自分を棚上げして私を老人呼ばわりしているわけだが。

私は激怒した。

いかがでしょうか。皆さんも激怒してみては?

2023-09-11

恐ろしい夢を見た話

増田大学2年、女。

昨日の夜から今日の朝にかけて、恐ろしい夢を見た話がしたい。

どこにも吐き出せないからせめてここにだけ書き残させて。

夢の内容は

高校時代の友人と数年ぶりに会って現在自分生活高校生活を振り返りながら談笑する」という字面だけ見れば何ら恐ろしい要素は無い他愛のない夢だった。

その友人との関係性を加味しなければの話だが。

・・・

その友人はみらい(仮名)という名前だ。

元々面識はなかったが、高2の新学期コロナによる数ヶ月にわたる臨時休校狭間で行われたクラス替えで同じクラスになり自己紹介で私が「趣味読書で◯◯◯◯◯と◯◯◯◯が好きです」と言ったのがきっかけで仲良くなった。

自己紹介が終わって自由に席移動して気になる人と話していい時間になった時、私は元々友達が少ないためクラス内に友達がいないこと、そして他人に執着しない性格だったこともあり手持ちの本を読んでやり過ごそうとした。

すると、「ねえ、◯◯◯◯◯好きってホントわたしも好きなんだ〜」とみらいが話しかけてきた。

第一印象は「綺麗だな」だった。

二重まぶたに通った鼻筋、光を湛える黒目がちの瞳、細く白い腕、赤い唇。

どこをとっても絵に書いたような美少女だ。

◯◯◯◯◯は私達の世代が好んで読むような作家ではないので本物の読書家だということは問わずとも明らかだった。

その後時間の許す限り◯◯◯◯◯や他の好きなこと、部活などの話をした。

その日の下校の時にはどちらともなく先生の目を盗んで校内でスマホの電源をつけ、LINEを交換するほど意気投合していた。

その日から臨時休校で暇を持て余していたこともありほぼ毎日のようにLINEでいろいろな話をした。

初めて話したときからなんとなく感じていたが、みらいは私と思考パターンが似ていた。

そして学力もほぼ差が無かった。

得意な教科の話になったとき時、二人とも同じ教科を挙げた。

その教科は私が1年の間たった1度だけ1位を名も知らぬ誰かに明け渡してしまった教科だった。

まさかと思いながら「もしかして1位取ったことある?」と返信した。

すると、「もしかしてずっと1位だったの◯◯(増田の下の名前)だったの!?私、1回だけ1位取ったことあってその回以外はずっと2位だったの!」と返ってきた。

こんなことってあるのかと思った。

それと同時に彼女のは切磋琢磨しあえる良い関係になる予感がした。

臨時休校が明けて登校が始まると私達はさらに仲良くなった。

それとともに私の中には負の感情が巣食いはじめた

初めて遠隔ではない担任の授業を受け、二人で談笑しながら教室へ向かっていると、担任からしかけられた。

増田新川(みらいの苗字)(仮名)!お前ら1年の頃から同じクラスだったのか?」

担任にはそれぐらい仲がよく見えたのだろう。

「違いますよ〜!担任なら前のクラスぐらい把握しておくのが筋ってもんじゃないですか〜?」

とみらいが軽口を叩いているのを横目に見ながら私は内心嬉しくて堪らなかった。

こんな美少女と対等な友人関係を築けていることが他人の目から見ても明らかなこと、私はその事実歓喜した。

しかし、その数日後私は地獄を見た。

その日、授業が終わると担任ロッカーを整理しているみらいの所へ向かうのが見えた。

その数秒後、廊下から二人の笑い声が聴こえてきて、今度は私のもとに担任がやってきた。

その担任第一声が

「ごめん。新川増田だと勘違いして声かけちゃった。だってお前ら背丈といい雰囲気といいなんか似すぎなんだよ。」

だった。

信じられなかった。あの美少女を私だと見間違えるなんて。

だって私は重い一重まぶたで背も彼女ほど高くはない。

それなのに見間違えるなんて許せない、彼女の美に対する冒涜だとさえ感じた。

きっと委員会の連絡か何がだったとは思うが、担任のその後の言葉が頭に入ってこないほどの衝撃だった。

担任と会話したあとチャイムがなったので自分の席に戻るともう一度さっきのことについて思索を巡らした。

そこで私は気付いてしまった。

私がおかしいということに。

普通人間なら心の中で喜ぶべきことを私は赦されないことだと感じて、しかも怒りさえも感じた。

どう考えてもおかしい。

他人に執着しないはずの私が、彼女には彼女に対しては何故かこんなに心を掻き乱されている。

もう手遅れだった。

その頃にはもう彼女への、そして彼女の美に対する感情はもはや信仰の域に達していたことを、その時ようやくわからされた。

私とみらいはいつもそばに居た。

休み時間になると彼女の方から私の所へやってくるのが当たり前だった。

その美しさや性格から友達は多いが、その数多くの友達の中で私のことを選んでくれた。

それが私にとっては至上の喜びだった。

クラスメイトが

「みらいちゃんかわいい〜」と言うと

みらいは

「まぁね〜」と当たり前だとばかりに返答していた。

そんな彼女自己肯定感の高さがこの上なく好きで、でもそんな彼女が眩しかった。

だってはいつも彼女の影だったから。

彼女が他のクラスメイトの「かわいい」と言われる時、私はいつも息苦しかった。

私をかわいいと言ってくれる人はいいから。

当たり前だ。わかってる。私が彼女より醜い事は私自身が誰よりも知っている。

決して表には出さなかったが称賛を全てほしいままにしている彼女が横にいると気が滅入ることも多々あった。

それでも私は彼女と一緒にいた。

二人でいる時だけは、その美しい瞳に私以外は映らないから。

それから数カ月後、修学旅行が始まった。

もちろん全ての行動を共にした。

一日目は某県の某資料館へ2学年全員で向かった。

みらいも私も暗い場所は苦手なのでドキドキしながら入館した。

手が触れたのを契機に、どちらともなくお互いに指を絡めて相手の震えを感じながら暗い館内を歩いた。

私は手汗が出やすい体質なので1度手を解こうとしたが、

「怖いから話さないで」と小声で訴えられたので逆らえるわけもなく結局出口までそのまま向かった。

その次の日は班別活動で某県の某洋館へ向かった。

私がお土産を見繕っていると、みらいが

「ねえ、◯◯こういうの好きでしょ?」といきなり声をかけてきた。

彼女の指差す先には、色とりどりの硝子でできた美しいエジプト香水瓶(中は空)があった。

美しい曲線と精緻彫刻

まさに私の求めるもののものだった。

凄く綺麗……とつぶやく

「全部一点ものらしいよ!せっかくだからお揃いで買おうよ!」とみらいはもう買う気満々でその手の中には桜色の香水瓶が収まっていた。

私は彼女のそれとデザインの一部がよく似た空色香水瓶を選び二人でレジへ向かった。

その日の夜食ホテルレストランで食べた。

なかなか量が多く、少食気味なみらいは食べきることができるのかと心配になったのでそれとなく隣にいる彼女を見やるともう限界という顔をしていた。

すると彼女の方から

「これとこれ食べれる?」と言ってきたので有り難く拝借した。

それで終わると思いきや、デザートミニケーキの二種盛りがやってきた。

私はぺろりと平らげたが、彼女はどうしても最後の一つが食べられないようだった。

そして

「ごめん。これ食べれる?」と聞いてきた。

私はうんと言おうとしたが、

私の食器フォークはつい先程席を巡回しているホテルの方に回収されてしまったので食べる術がない。

手で食べるのははしたないしと逡巡していると

はい、あ〜ん」

と私の方に彼女フォークで刺したケーキ差し向けてきた。

同じテーブルの生徒の視線彼女の手と私の顔に集まり、恥ずかしさで頬に熱が走るのを感じた。

いつまでもこのままではいられないと思い、覚悟を決めて顔を近づけ、食べた。

修学旅行でそんなことが起こったため、その後の学校生活ではクラスメイトに彼女との仲をからかわれることも増えた。

「なんかみらいちゃん増田さんって二人だけの世界?っていうか独特な空気感あるよね〜」と言われたりなんかもした。

今まではそう感じたことは無かったがあの修学旅行を経ると確かにと思う自分も居た。

その関係に心地よさを感じる一方、今振り返ればどこか嫌悪感があった。

念のため言っておくと、私は普通の女だ。

小中学生の頃は普通男子と付き合っていたし、好きになるのはいつも男だった。

でも共学は嫌いだった。共学の女が嫌いだった。

あらぬ噂を立てて私と彼氏を引き離そうとする、そういう汚い女が大嫌いだった。

から高校女子校を選んだ。

中学時代仲の良かった先輩から

女子校は本当に生きやすい。男がいないとそういう争いとかもないし。」と聞いていたのもあり必死勉強して女子校入学した。

女子校は先輩の言う通り生きやす空間だった。

秘密の花園なんてのは空想だけれど、進学校だったこともあり皆自分が一番大切だから自然無駄な争いを避けるようになっていたから本当に生きやすかった。

彼女存在けが想定外だった。

今思い返すとというより当時から薄々感じていたが、みらいはボディータッチが多かった。

1日に少なくとも2回以上はハグしてくるし、堂々と人前で手は繋ぐし、とにかく距離感おかしい。

最初こそ戸惑っていた私も仲良くなるにつれて気にしなくなってきたものの、時折嫌悪感に近いものを感じることさえあった。

でも、やめてとは言えなかった。

だってそうされている時だけは自分特別だと感じられたから。

2年の3学期になって3年生0学期なんていう進学校あるあるワード教師の口から出始める中、彼女との関係が変わった(と増田勝手に思っている)出来事が起こった。

2学年最後模試だ。

その前の記述模試から国数英3教科に加えて理社科目が追加された。

その記述模試ではあの教科は二人仲良く同点だった。

最後模試マーク模試だった。

2年最後だしここで一つ頑張ってあの教科でみらいに勝ちたいと密かに思っていた。

毎晩負けまいと勉強して迎えた本番。

習っていない範囲もあったが自分勉強してカバーした分自身はあった。

3月、結果が出た。

私はその教科で全国一桁の順位を取った。

模試順位掲示されるので早速見ると、みらいは私のすぐ下の段にいた。

しか偏差値には20程の差があった。

私は勝ったと思う前に彼女の不調が気になった。

トイレに行っていたみらいがこちらに来て順位が張り出された紙を見ると

「やっぱり◯◯はすごいよ、」と一言言って自分の席に戻っていった。

その日は話しかけてもどこか上の空だった。

次の日、彼女は休んだ。

心配休み時間隠れてスマホを起動させ、LINEを開いてメッセージを送った

すると数分後

明日は行ける。心配かけてごめん。」と返ってきた。

こんな時まで謝ってくるのが彼女らしいなとその時は思った。

次の日予告通り彼女は帰ってきたが、いつものボディータッチは無いしなんだかひどく静かだった。

結局2年の終業式の日まで彼女はずっとそんな感じだった。

3年になるとクラスが離れた。

前はあんなに同じクラスがいいと思っていたのに、最近彼女の煮えきらない態度をあまり好ましく思っていなかったので実際の所は

嬉しさ7割悲しみ3割といったところだった。

しかしその思いはすぐ覆された。

一つがクラスメイトの私に対する反応だった。

2年の時みらいと私ともう一人のクラスメイトの3人でたまに会話することがあった。

3年に進級してそのクラスメイトとはまた同じクラスになったので声をかけると

素っ気無いそぶりですぐ別の友達の所へ向かっていった。

そこで私は気付いてしまった。

結局私は彼女が隣りにいなければ価値のない、何も特別なところなどない人間だと。

みらいとはクラスが2つ離れていたため頻繁には話すことは無かったが、たまに会話するとそれはそれは惨めな気持ちになった。

彼女友達が多い。

私にとっての彼女はたった一人の心を許せる友人だった。

けれど彼女にとっては大勢友達の中の一人でしか無いという事実に串刺しにされる気持ちだった。

から私は彼女抜きで特別になると決めた。

2月模試の結果が私の背を押してくれた。

私にはポテンシャルがあることを教えてくれた。

それだけに縋って、今までの人生でやったことのないぐらい死ぬ気で勉強した。

その成果は存外早く出て6月模試では早速学年1位に躍り出た。

この結果には教師陣も驚いたのか露骨におだててくるようになった。

それをあしらいながら只管勉強した。

7月、もう何ヶ月もLINEなんて送ってこなかったのにみらいから急に連絡が来た。

夏休み日中学校勉強するよね?

良かったらうちの部室くる?」という内容だった。

彼女美術部の期待の星で、大学も某美大を目指していた。

3年に入ってからは画塾にも通い始めたと聞いた。

彼女には夏休み特別に部室の一角占領する権利顧問からもらったらしい。

私はその誘いにあっさり乗った。

彼女と実質二人だけで過ごせる時間をみすみす手放す訳がなかった。

夏休み、みらいの部活の日はみらいの部室で、それ以外の学校開放日はひたすら教室図書館勉強をする日々が始まった。

部室ではみらいが自分の背丈ほどの大きさのキャンパスにひたすら油性絵の具を塗りたくっていた。

正直油性絵の具の匂いは苦手だったが、みらいと同じ空間にいる方が大切なので我慢した。

他愛のない話をしながら、彼女は絵を、私は過去問をそれぞれ仕上げていった。

そんな夏が終わると、また連絡を取る回数が減った。

それもそのはず、彼女は推薦と一般美大受験するため、画塾に通うだけでなく面接練習なども必要になったからだ。

私はただ勉強していった。

この頃には志望校偏差値を大幅に上回る成績を取れるようになってきた。

冬がやってきた。

去年のクリスマス彼女と一緒に過ごしたのに今年はひとりだ。

そんなことを思いながら夜食で出されたホールケーキの残りを頬張りながら勉強していると突然LINE電話がかかってきた。

みらいだ。

素早くスマホに手を伸ばし電話に出た。

「ねえ、受験終わったら卒業旅行行こうよ。

修学旅行でまわったとこ、また二人で全部回ろう」

みらいは電話越しにそう言った。

私が

「うん、絶対行こう。約束

と言うと

「うん。約束。」という言葉最後電話が切れた。

突然そんな提案をしてきたのには驚いたが、その約束は私を鼓舞した。

そして迎えた共通テスト

かつて無い手応えを感じた。

自己採点をするとこれまで取ったことのないほどの高得点だった。

私は私大1本だったか2月受験は終わった。

みらいは家の都合で国公立しか受けられないと言っていたか3月にならないと結果は出ない。

祈るような気持ち2月を過ごした。

3月の頭、卒業式があった。

式が終わってもみらいの元へ向かった

「◯◯、待ってた」

そう彼女は言った。

写真撮りたい」

そう言うと彼女は私にカメラを向けてきた。

自分顔面に自信が無い私はせっかくだから二人で映ろうよと言って彼女スマホを借りてツーショを撮った。

その後は卒アル落書きをし合って別れた。

案外あっさりした別れだった。

そのときはそれでいいと思っていた。

だって卒業旅行に行こうと彼女は言ったから。

その日、LINE彼女スマホで撮った写真が送られてきたのを最後彼女からLINEが送られてくることは無かった。

みらいは志望校合格したら連絡すると言っていた。

彼女志望校合格発表日が過ぎても連絡が来なかったので、私はある決意をした。

整形をする決意を。

幼い頃から親に「醜い顔で産んだから形代は出すよ。ただし、高校卒業したらね」と言われていた。

今こそその時だと思い、すぐカウンセリングの予約をし、施術プランと日程も決まった。

私の思い一重は施術とダウンタイムを経て左右差のない整った二重になった。

大学が始まってからもみらいから連絡が来ることは無かった。

私は私で上京したので新しい暮らしと新しい環境に慣れるので精一杯でみらいに連絡している時間もなかった。

二重になってから人生難易度体感20レペル下がった。

大学同級生とはすぐに仲良くなれた。

それこそみらいが高校時代同級生から言われていたように

かわいい」なんて言われるようにもなった。

高校時代までの私からしたら信じられないほど環境が変わった。

やっぱり美は正義だなと感じた。

前期は友達遊んだテストレポートと格闘している間に過ぎ去っていった

夏休みも終わりに差し掛かった頃、ふとみらいのことを思い出した。

そして私からLINEを送った。

時間後、数日後、数週間後。

待てども待てども返信が来ない。

それどころか未読無視をされている。

プロフィール画像などは変更されているかLINEを見ていない訳では無いだろうに。

つの間にか私は彼女LINE確認しなくなっていった。

しかし私は今でもふとした瞬間にかつての彼女を思い出してしまう。

例えば鏡で自分の顔を見るとき

いつだっただろうか。

私とみらいはあの時担任が言ったように本当に瓜二つだと初めて気付いたのは。

卒業式の後、送られてきた彼女と一緒に写った写真をまじまじと見てみると

私と彼女は鼻の高さ、形、口の大きさ、頭蓋の形が本当によく似ていた。

そう、違っていたのは目だけだった。

私が二重に整形したことで、私の目はぱっちりと開くようになり、彼女の瞳の形そのものになっていた。

今の私と彼女双子のようにそっくりなのだろう。

今の彼女はどんな顔をしているのだろう。きっと美しさが増しているだろう。

そんなことを、私は鏡で自分の顔を見ると考えてしまう。

・・・

今日見た夢は

みらいと数年越しに会って食事なんかしながら

近況や今までのこと、あの時はお互いをどう思っていたかについて話し合う夢だった。

美しいのは相変わらずだなぁなんて彼女を見つめていると、

「◯◯、整形したの?良いじゃん似合ってるよ」なんて言ってきた。

本当に彼女らしいなんて思っているとアラームの音で現実に引き戻された。

起きて夢かぁと思いながら十数ヶ月ぶりに彼女LINEを開いたがやはり既読はついていない。

午後、用事を済ませて家に帰って来ると既読がつくはずないのになんとなくまたみらいのLINEを開きたくなった。

その衝動のまま、トーク画面を開き、自分の送ったメッセージを目で追う

「みらい!最近どう?元気?」

見慣れたそのメッセージの上に目を向けると、そこにはそのメッセージを送った日付が表示されていた。

それを見て息を呑んだ。

そこに表示されていたのは

「1年前の今日の日付」だった。

こんなに都合のいいタイミングで夢に出てくるほど彼女の幻影をいつまでもいかけている自分が心底恐ろしい。

という話。

2023-07-10

就職が出来ないまま、アラサーになった。

どこに吐き出せばいいのかもわからない自分気持ちと、きっと誰の記憶にも残らないであろう自分人生増田に投下したい。

要旨はタイトルの通りでしかないが、就活に失敗し続けて無職のままアラサーを迎えてしまった。今年はもう就活すらしていない。

就活は売り手市場だなんだと聞いていたが、それは結局平均的にコミュ力のある人間にとっての話であって、自分のようなコミュ障で陰気な人間にとっての話ではないのだなと痛感した。

ふと思い返せば友達が居た記憶があるのは小学生の頃までだったし、その頃もたまたま流行っていたポケモンに詳しかたから仲間に入れてもらえていただけだったんだろうなと今になって思う。

中学入学したあたりでクラスバラバラになり、小学生の頃のグループ自然消滅してしまった。

誰にも声をかけられることはなく、かといって声をかける勇気もなく、本当にただ孤独に過ごしていた。

部活にも入らなかった。正確には入れなかった。

聞こえてくる話を聞く限り、中学入学した時点で皆は入りたい部活まで既に決めている人が多かったようだった。

特にスポーツ経験もなく、かといって文化的素養もない俺にそのようなものはなかった。

「この部活に一緒に入ろう」と声をかけてくれるような人も当然いなかった。

経験部活の仮入部に飛び込む勇気もなかった。気がつくと入部届の提出日は過ぎていた。

そこから孤立の日々だった。

友達はもちろん欲しかったが、既に俺以外の人たちで完結しているように見えたコミュニティに入り込めるような人間ではなかった。

最初入学式の時点で、席が近い人たちか、同じ小学校出身の人たちで話して仲良くなっていた。俺だけが孤立しているような錯覚を覚えて、行きたくもないトイレに逃げて泣きそうになったのを今でも覚えている。

中学生にもなると皆携帯を持ち始めるようになっており、誰々とメアドを交換したとか言う話題が聞こえるようになった。

親にねだって携帯を買ってもらった。結局誰1人としてメアドを交換することはなかった。

中2の時だったと思うが、モンスターハンター3rdが学年中で流行っていた時があった。

みんなで放課後に誰かの家や公園で集まって一緒にプレイしているような話が聞こえてきた。

親にねだってPSPモンハンを買ってもらった。話しかけてもらいたくてわざわざ学校PSPカセット持って行き、わざと休み時間に机の上にそれらを出した上で寝たふりをしていた。

国語先生に見つかって取り上げられ、皆の前で叱られ、反省文を書かされた。あの瞬間が中学生活の中で1番みんなからの注目を集めた瞬間だったんだろうな。悲しすぎる。

今にして思えば、ポケモンに詳しかたことで仲間に入れてもらえた小学生の頃の成功体験を引きずり続けて、同じ手法でなんとか挽回しようと考えている自分の浅ましさがもう情けないよな。

勉強だけは頑張った。成績が良かったテニス部クラスメートが色んな人に「勉強を教えて!」と声をかけられているのを見たからだ。それもまた、今思えば笑ってしまうくらいに浅はかだけれど。勉強ができるから声をかけられていたのではなく、テニス部の人気者だから勉強理由に声をかけてもらえてただけなのに。その構造を見抜くだけの頭の良さは残念ながら当時の私は持ち合わせていなかった。

勉強甲斐あって、地元で1番の公立高校合格した。親以外に祝っては貰えなかったが、それでも良かった。

合格と同時にiPhoneを買ってもらった。LINEインストールした。

中学の頃は初手で部活に入ることに失敗したことや、コミュニケーションを取ろうとアクションする前に既に人間関係ができてしまっていたことが敗因であると考えていた。今回は入学式の日からちゃんと人に声をかけると強く決意した。

失敗した。

出身中学が同じもの同士で既に固まっていたし、何より塾が同じもの同士での結びつきもかなり強固であった。

3~4日目にして、ついに席の近いクラスメートが声をかけてくれたことでクラスラインに加入することには成功したが、人数から察するに私が最後メンバーであった。

私が入った頃にはクラスラインでの会話は殆ど無く、既に仲の良いもの同士でより小さなグループを作ってそこでコミュニケーションをしていた。

同じ塾での繋がりから合格発表があったその日には学年のグループができており、入学式の日にはもうクラスラインが出来ていたらしい。

結局、中学生の頃に友人を作れなかった負債高校生になっても苦しめられるのかと思った。

部活動にも入ろうと思った。未経験でも最初の入部の時点であれば飛び込めるのだと学んでいた私は、新歓で惹かれた剣道部に入部した。

2ヶ月で辞めた。

私以外の入部者が全員経験者であり、初心者が私しかいなかったからだ。

先輩はもちろん自分のために練習に付き合ってくれたが、同級生や先輩達のレベル自分立ち位置があまり乖離しており、自分1人だけが別で初歩的な練習をしているのが、晒し者にされているような気がして嫌になり、逃げ出してしまった。

自分けが初心者だという引け目から同級生ともろくに話せずに終わってしまった。

ここで投げ出さなければ…と今なら思えるが、やはり当時の自分には無理だったのだろうなという諦めのような感情もある。

同じような基礎練習に打ち込む初心者がもう1人でも居れば…と仮定しては、さも自らが理不尽な状況下にあるかのような想像をして自分正当化しようとしていたことを何故か今でも覚えている。

幸いだったのは学校自習室があったことで、これにより部活動の時間分を自習室勉強することで、親には部活動を続けているようなフリをし続けていた。今思えばバレていたのだろうか。

中学の頃から帰宅部であり、友人と遊ぶようなそぶりすら見せてこなかった俺を、親はどう思っていたのだろうか。

何も言わないでいてくれた親の気持ち想像すると、胸が苦しくなる。

高校Twitter流行った時期もあった。例に漏れず私もアカウントを作った。当時のTwitterはまだ身内感が強かったこともあり、高校名や氏名で検索しては片っ端から同級生フォローした。

フォローバックも多少はしてもらえたと思う。

しかしながら、結局何もツイートすることはできず、ただ同級生の動向を監視しているだけの気持ち悪いアカウントに成り下がっていた。

一言も喋らない陰気な奴が変なことをツイートしたらどう思われるのだろうかと、怖くて何もツイートできなかった。

一瞬、LINEツムツムが流行たことがあった。

LINEを交換しているもの同士でスコアランキング形式で共有されるのだが、たまたま引いたマレフィセントというツムで圧倒的なスコアを叩き出したことがあった。

その時にクラスメートが「上手いんだね!」と声をかけてくれたことがあったが、気の利いた返しが浮かばず、ぎこちない笑みを返すことで精一杯だった。

3年以上碌に会話をしていないのだから当たり前なのだが、もはや会話をするという行為自然には出来ないようになってしまっていた。うまく言語化できないが、相手の言っている内容を理解した上で、それに対する返答をいくつか頭で構成し、そのうち最適なもの選択して口からアウトプットするという一連の行為自然に出来ないようになってしまっていた。目を合わせるだとか、自然な表情を作るだとか、そんなことは言うまでも無くできなかった。

その会話での失敗は自分の中でも忘れられず、次に同じように話しかけられた際の返答を何度も何度もシミュレーションした。

ツムツムも継続してスキルを磨き、ランキングではトップを取り続けた。

当たり前だが、次の機会は来なかった。

高校3年間は最も密度の高い青春の3年間だったと知り合いの誰かがTweetしていたが、俺の3年間は思いつく限りの思い出で上記限界だと思うと、本当に虚しい気持ちになってしまう。

大学は通える範囲にある旧帝大合格した。

今度こそ失敗しないようにと臨んだが、やはりダメだった。

講義における自由な席のシステムや、そもそもクラスなどが存在していないという状況で、自ら人に話しかけるだけのスキルを持ち合わせていなかった。出身高校予備校基本的には違うはずなのに、即座にそれぞれで仲良くなれていたのが不思議で仕方なかった。

サークル新歓にも行った。バーベキューだった。同じ机に先輩が2人、新入生が3人の5人で座っていたのだが、気がつけば私を除いた4人での会話になっていた。

先輩が時折私に話を振ってくれていたのだが、明らかに気を遣ってくれているのだとわかり、余計に苦しく、惨めだった。

新歓用のライングループがあったようだが、私には加入の声もかからなかった。

勉強に逃げようと思ったが、逃げる先も見つからなかった。

自ら興味のある分野を見つけ、そこに飛び込むだけの主体性すら持ち合わせていなかった。

テストは同じ授業の過去問を持ち合わせているかどうかで対策の可否が大きく変わるものだった。友達のいない私には非常に厳しかった。

授業に一度も来てないようなテニサーの奴よりも、私の成績の方が悪かった。友人は居なかったが、それでも勉強だけは出来た自分にとって、学業の成績は唯一の精神的支柱であったのだろう。かなりメンタルにきたのを今でも忘れられない。

しかし、そうは言っても今更友人を作ろうと発起するのも見苦しいように思えて、結局何の行動も起こせなかった。

ゼミはそれなりに興味のあった行動経済学ゼミを志望したが、人気ゼミ面接に通るはずもなく落ちた。

結局、不人気な統計学ゼミに入った。幾つ上かもわからない留年生と私の2人だけだった。

自分存在は何度も留年を繰り返す謎の男と同じ程度なのだと言われているようで苦しかった。

そして就活の時期を迎えた。

まず情報弱者だった自分は出だしからつまづいた。

講義室で聞こえる会話で周りが既にインターンというものエントリーしていることを知った。その後、焦って就活について調べ始めるものの、そもそも特にやりたいこともなく、また、特段興味がないものに対して熱意があるかのように見せられるだけの技量もなかった私は、悉くインターンにも落ちた。

志望動機経験(あまり好きではない語彙だが「ガクチカ」と呼ばれるもの)に嘘や誇張した内容を書くような人々を見下していたが、結局採用されるのは見下していたはずの人々だった。

奴らは汚いことをしているのだと内心見下すことで、倫理的には彼らより優位にあると思いたかったのだと思う。そんな卑屈さで小さなプライドを守ったところで、何一つ実利はなく、ただ不幸になるだけだということに気づけなかった。

その後、大学名の威光もあってか1dayのインターンには通ったものの、グループワークが中心の1日に馴染めるはずもなく、ひたすら透明人間を演じた上で、最後儀礼的に連絡先だけを交換して終わった。

同じグループの人は関関同立(関西ではそれなりの地位にある大学群)の同学年だったが、グループワークでのリーシップの発揮ぶりは私とは比にならなかった。社員の見る目も違っていた。もちろんその後を知ることはないが、きっと大手企業内定を得て働いるのだろうなと思う。

休みの会話で、高校は私と同じ地域にある偏差値50程度の私学であることを知った。指定校推薦大学に入ったらしい。

学業しか縋れなかった私は、恥ずかしながらも内心では関関同立を見下していたし、偏差値50程度の高校に行った人とは今後交わることすら無いものだとすら思っていた。卑屈な選民思想を持った自分が恥ずかしかったし、完全に下に見ていた人々にも逆転されたという事実を突きつけられたのはかなりショックでもあった。

後日講義室で聞こえてきた「1dayインターン意味がない」という言説を信じ、1度きりで申し込むのを辞めた。今思えば、傷つきたくないがために縋ってただけなんだろうな。人は信じたいものを信じるように出来ているとはこういうことなのだろう。

そうこうしているうちに、気がつくと本選考の時期が到来した。最終的に50社くらいはエントリーしたと思うが、全落ちした。

就活対策の本を立ち読みしたが、内容のバカバカしさに呆れて買うこともしなかった。ここで変な意地を張らずに素直に買って、その内容を再現できていれば結果は変わったのだろうか。正直そうは思えないが。

他にも面接対策をやっているサークルの一室を訪れようとしたが、室内の華々しさに気圧されて扉の前で踵を返してしまった。

あんな楽しそうに就活に臨んでいる人々はどうせ碌な結果を得られないのだと自分に言い聞かせて帰路についた。

ゼミ教授の勧めで留年することにした。

無職で世に放たれるよりは学生身分があった方がいいとの計らいだった。多分留年を繰り返していた彼も、同じような配慮留年を続けていたのだと思う。本当に有り難かった。

しかし翌年の就活も失敗した。諦めて卒業した。

結局、面白くもないyoutubeを観ていただけの1年だったと思う。観ていた動画の内容すら思い出せない。

卒業の翌年、公務員試験を受けることにした。

勉強だけは出来たのだから学業勝負するのが自分にとって最適な戦略だと今更思い至った。

予備校に通い勉強をしていた。数年振りに自分の得意分野で勝負ができて、純粋に楽しかたことを覚えている。

筆記試験には合格したが、その後の面接(厳密にはこれも試験という名前ではある)で落ちた。

国家だけでなく、地方すらも落ちた。

周りを見るに自分と同程度にはコミュニケーション能力が疑わしい者も散見された。少なくとも就活面接では考えられないほどにレベルは低かったと思う。それでもダメだった。

いよいよ俺に出来ることはないんだろうなと深く絶望した。

無職の悪いところだが、時間だけは無限に持て余しているせいで、絶望的な場面が何度もリフレインしてしまう。

あの時こうしていたら…という後悔があまりに多すぎる。

どこが俺の人生の岐路だったのだろうか。

どうしていれば俺はこうならずに済んだのだろうか。

1年引きこもってもその答えは出せずにいる。

何度考えても、命を絶つ他にないんだろうなとは思うのだけれど、それにしたってどの選択を取っても両親に多大なる迷惑をかけるんだと思うと踏み切れない。

ここまで育ててくれて、何も言わず無償の愛を注いでくれた両親に、最期に出来ることは何かないだろうか。

こう振り返ってみても、本当に家庭環境も含め、両親には恵まれ人間だと想う。だからこそ、その結果がこのザマで本当に情けなく、申し訳ない。

せめて迷惑だけはかけずに、ただ俺1人だけが苦しむだけで済むような方法を取りたいとは考えているが、それすら踏み出せないのかもしれない。

ここまで読んでくれて本当にありがとう

想像の通り俺に友達なんてものは1人たりとも居ないし、今まで生きてきた人生も、今まで抱いた感情も誰にも共有できず、誰の記憶にも残らずに終わったんだと思う。

その意味で、誰か1人でもこれを読んで、誰かの記憶に少しでも残ることができたかなと思うだけで、なんとなく心が軽くなった気がする。

増田があって良かったよ。ありがとう

2023-06-22

高校入試が無いかラク出来ると騙されて一貫校の中学入試を受けた。

おもしろ/鬱屈受験録を期待する人は読まないほうがいいです。おれの内的な整理なんで。

元々進研ゼミか塾かの強制二択で前者を取ったのだけど、家にいてもテキストが視界に入るのが不快でたまらなかった。

いつだか、コレ説明不足だろって感じの算数解説イライラしてた。添えられたイラストナントカ君のつっまんねーギャグが異常に癇に障った。きっかけは些細だけど、募る不快が爆発してテキストをクシャクシャにして投げた所を母に見られた。

で、なんか揉めてヤケになって塾に通うって言ったのを覚えてる。

渋々通ってる内に、なぜか入試を受ける運びになってたような気がする。

6年間のまとまったモラトリアムが手に入るなら、まぁ……って自分に言い聞かせた。PSPモンハンの購入を禁止されたのも我慢した。というか当時は「ダメ」と言われて逆らうって発想が無かった。

そんな感じでマジメというか了見が狭かったんだけど、ある時学校寺島君に誘われて掃除サボるという体験をした。自分人生サボるという選択肢が現れた。

黙ってPSPを買うほどの勇気、というかその発想は未だ浮かばなかったけど、意を決して塾をサボってみた。

バレなかった。10km離れたイオンまでチャリこいでフードコートに居座ってエヴァ読んでた。実はバレてて初犯だから見逃されてたのかもしれない。

そんで調子こいてサボりまくっていたらバレて、嫌なら辞めろと言われた。

冗談じゃない。塾通いでドブに捨てた日々を今更無かった事にしろと?初めは強要されて、今更辞めて良いと言われたってアンタは私の時間を返してくれるのか?

典型的コンコルド効果ってやつだったな。

なんてアンビバレンスな感情に苛まれて泣きながら「通わぜでぐだざい」って頭を下げた。

後日学校で○○塾サボったって本当?と複数人から訊かれた。金輪際母に大事情報を伝えるのはやめとこって決めた。

まあそんな感じだったけど一応第一志望に受かって、晴れてまとまった6年間を手にした。

合格後になって実は土曜も授業があると知らされた。そんなとてつもない重大情報は真っ先に言えよカスコイツらの味噌汁農薬でも混ぜて殺してやろうかな、って本気で思った。

かなりマジで悩んだけど、まあ今更……という事で入学を決めた。

親の意向とは違って上昇志向なんて1ミリも無かったんで、勉強に励む気も毛頭なかった。

初めての定期テストでは当たり前に100点が取れる色刷りのやつに代わって、70とか40とか書かれたザラついたテスト用紙が返ってきた。

塾じゃん。学校テストじゃないじゃんって思ったよね。

学校テストで平均を割るなんて考えられない体験だった。まあ後の惨状に比べれば全然可愛いもんだったけど。

どこかにあったプライドがやや傷つきはしたけど、そこで悔しさをバネに、なんて気持ちサラサラ湧かなかった。

目的を忘れちゃいけないからね。ダラけるために小学生時代放課後を捨てたんだから。ってことでさほどは気にはしなかった。

こんな塾の続きをするために入学したんじゃないんだよおれはって事で、もう勉強は丸投げしようと決めた。授業中は寝るかゲームか買い与えられたばかりのスマホをいじるかだった。

唯一ちゃんと授業受けてた中一1学期に聞いたクリプトコッカスネオフォルマンスとか、バージェス動物群のピカイア、オパビニアアノマロカリスみたいな単語だけ今でもよく覚えてる。

合格発表の時おれが「これでもう勉強しなくて済む!」って言ってた時にはヘラヘラしてた癖して、いざ入ってみれば成績にグチグチ言う両親を適当にいなしながら、モラトリアムに浸った。

考え事してる内に、自分なりに実存主義相対主義に辿り着いたりもした。サルトルとかニーチェとかハイデガー大学入って齧った時、コイツおれじゃんってマジでびっくりしたよね。

道徳の授業で教わるような規範はもうおれにとって意味を持たなかったし、晴れて購入を許可されたゲーム没収されても黙って新しいのをもう一機買うのに罪悪感は微塵もなかった。

歳相応に、というか同年代よりも遥かに時間をかけてアイデンティティかにも悩んでみた。

こういうのは拗らせた10代の一過性の悩み、で片付けていいもんじゃないと今でも確信してる。厨二とかいわれるような心をすっかり忘れてしまったら人間お終いだと思う。

まあそんなんで順当に成績はカスだったけど、教室空気を吸ってるだけでも無自覚に上昇志向というか、学歴厨じみた思考が植え付けられてくるんだよね。

進学校が持つ一番の機能はこれなんじゃないかって思う。

高校にもなれば受験話題が増えて、おれもそれに合わせていった。

こんなに勉強嫌いでも大学受験をする事だけは疑わないんだから恐ろしいもんだね。高卒人生落伍者ってかなり本気で思ってた。

最初勉強ちゃんとやってれば楽しいはずだなんて自分に言い聞かせてみたけど、やっぱり苦痛だった。だから変に楽しもうと工夫なんかしようとしないで、入試の通過手段と割り切っていこうって決めた。

これはそのまま、賃金労働自己実現だとかやりがいなんか求めず生活の糧と割り切って、軸足趣味において生きようという人生方針へとスライドしていく。その「割り切り」は後の人生の後悔にも少し繋がってくるんだけど。

そんな感じでやっていって入試に臨んで、まあぼちぼちの結果といった所に落ち着いた。

終わってみれば後出しで後悔も湧いてくるものだけど、進路に関しする始まりは「ダラけたい」だったんだから小学生の頃の自分への義理はそれなりに果たせたと思う。

大学入ってから世界史とかロクに聞いてなかったからその辺文脈理解必要な話にはやっぱり苦労したけど、一人で考え事してた時の内容は宗教学哲学レポートを書く時大変に活きてる。

教授から直々にメールで褒められた時はちょっとしかった。大学勉強楽しい時もある。大抵ダルいけど。

放っとけばボーっとしてるかたまに好きな事に手を出すだけ、根が遊び人ボンクラから環境下駄を履かされて助かってきた部分はあるんだろうなって思う。

でもアッパードル王道を目指す生き方を非常に中途半端内面化してしまって、好きにも「べき」にも振り切れないハンパなディレッタント崩れになってしまったよね。

思うままに生きた人生は暗澹たるものだったかもしれないし、もっと肩肘張らずに生きていられたかもしれない。考える意味のない可能性をつい思っちゃうね。

振り切れた生き方をする勇気なんて平凡な人間にはなかなかないし、そのバランス課題なんだと思う。

たらればを言えばもっと「好き」に振り切れる期間が欲しかたかもしれない。

高校上がってから嫌々ながらも主体的勉強を始めたと言ったけど、本当はもっとからハンパな「べき」が心にあったんだよね。

6年のモラトリアム期間だって、何をするにも「こんな過ごし方でいいのか」って水を差してきた。

なんというか幼い白黒思考の潔癖状態の段階で、バランスなんか考えられない状態で相反する価値を抱えてしまって、それでどっちつかずになってしまった感じだな。

中庸って言葉にすればありきたりだけど、そこに実感や納得を乗せられたのはせめてもの学びか。

勉強から逃げて(そもそも最初から立ち向かおうする気なんかなかったんだけど)自意識を煮詰めた時間だけは無駄じゃなかったって、そこだけは確信を持って言える。

でも出口のないナイーブな悩みなんか適当な所で蓋をして、どこかで思考停止して目の前の生活をやってく生き方はある種の賢いものなんだろうなとも思う。

まあ人生なんて結果論しか語れないだろうし。電源ボタンはあっても、セーブ機能リセットボタンはないのだし。

正解なんかないんだから納得できるかどうかが全てなんだろうけど、今のところちょっと自信はない。

せめて今ある、これから人生は愛せるようにいたいもんだね。

2023-06-16

情弱就活生、Twitter上の就活アドバイザー詐欺られる

もうみんな就活終わったか??

俺は終わった。

就活って大事だよな。

その割に何すればいいのかわからないし、毎日合格発表日みたいで胃がキリキリするし、嫌でも、過去自分と向き合わなければならないし、本当に辛いよな。

俺のいる学科就活やる奴があんまりいなくて、相談できる人もいなかった。

でも、Twitterだけは毎日見てて一丁前に危機感だけは持ってた。

それで、Twitterにいる嘘くさい就活アドバイザーに助けを求めて結局、お金(3万)払って面談5回の契約をしたんだけど、使わず就活終わらせたって話だ。

2回ぐらいは使ったんだよ。でもその後、使わなかった理由がある。

まず、そいつの喋りがあんまり上手くない。

本当に、就活勝ってきた???って思う。自分の生徒の内定会社を話して希望を見せてくるけど、ただ単にその就活生が優秀だったんだろうなって終わった今なら思う。

その人のもとで作ったガクチカも結局使わなかったし。

でも、それ以上に使わなくなった理由は舐められてるなって思ったから。

LINEで日時を決めて、zoom面談してたんだけど、2回目の面談日をすっぽかされた。時間になってもzoomに誰も入室してこなくてLINEで連絡しても連絡が取れない。

待ってたけど、取れなくて「もういいや」と思って、スマホ放置してたら「すみません」だかなんかそんな内容のメッセージが来てた。

それで「また今度にしましょう」って言われても、そいつへの信頼は無くなってた。取り繕ってたけど、「あーなんか見切りつけられたんだな」って思った。もっと優秀な就活生がいてそいつを優先してるんだろうなって思った。

でも一応、就活はしなきゃ、と思ってたからその後に予約入れようとしても「ごめんなさい。その日は埋まってます」が何度も続いて、次の相談は年明けになるって言われ、あ、もうこいつに頼るのやめよって思った。

そこから大学のキャリセンに通って、無事第一志望群の会社から内定を貰った。

わけわからない社会人よりも同じ大学内定からアドバイス貰った方が5億倍は役に立つ。

もう汗水垂らしてバイトで稼いだ3万円は戻ってこないから同じ被害者を増やさないためにも言っておくよ。絶対お金は払っちゃダメだ。

俺で良ければES添削とかするし、面接練習無料でする。有料だからって責任感持って対応してくれるわけじゃないんだ。大学の先輩やキャリセンの方が全然親身になってくれる。まずはそこに行くべき。

面談枠使ってないんだから一部返金を求めたけど、断られたよ。大したことしてないのに、すごいなって思った。こうやって就活生の不安煽って、詐欺まがいのことしてお金のない大学からお金奪ってるんだって思った。やっぱり金融系のやつって太々しいんだな。

こんな馬鹿あんまりいないと思うけど、一応、警告しとくわ

2023-06-10

中学受験で失ったもの

24年間、私はずっと恵まれていた。

家族はたくさん私のことを愛してくれたし、友だちもみんな優しくて大好きな存在である。来世もまた私として生まれたい。それくらいに、幸せな日々を送っている。

でもひとつだけ、もし叶うのなら次の人生中学受験はしたくないと思っている。私の人生のなかでいちばん苦しい記憶からだ。

先に言っておくと、塾の先生たちも、両親も、みんな私のことを想ってくれていたと思う。そこに在るのは確かに愛であって、その他のなにものでもなかった。ただ、小学生の私には分からなかっただけ。すれ違ってしまっただけなのだ。だから誰も悪くないし、私は両親のことがずっと大好き。

でも、似たような気持ちを抱えている人もきっといる。だからせめて、ある程度の言葉の整理をつけられるようになった自分が残しておきたいと思う。

小学四年生わたしは、中学受験というものをあまり理解していなかった。それまでもたくさん習い事をしていたし、いずれ塾に通うことは聞かされていたからなんとなくそういうものなんだと思っていた。

そして入ったのは、某大手中学受験塾。狙うは日本屈指の名門校。そのために毎日たくさん勉強をした。テストの点数が悪かったら怒られてしまうから放課後は急いで帰ってすぐに塾に行って、テストが始まるまでずっと机に齧り付いて勉強していた。

小学校での成績はいちばんだった。先生に褒められて嬉しかったし、誇らしかった。友だちにすごいねって言われるたび、私は皆とは違うんだと思っていた。多分、周りを見下していた。世界は私を中心に回っていると思っていた。

同時に、朝学校で友人たちが「昨日は楽しかったね」って笑い合ってる会話についていけないことが悲しかった。前述の通り、当時わたしはだいぶ性格が悪かった。その自覚もそれなりにあって、だからこそ私にも屈託なく「次は一緒に遊ぼうね」と言ってくれる友人たちのことが本当に好きだった。本当に、大好きだった。当時は塾や家が(強制的に)勉強をさせられる場所だったからこそ、余計に。

そして小学六年生になった。

受験勉強が本格化していく。友だちと遊べる日なんて1日もなくて、土日は塾に12時間以上拘束されている。家に帰っても勉強息抜きといえばご飯を食べながら観るテレビアニメだけ。そんな毎日だった。

でもそれは私だけじゃない。同じ塾に通う子たちもみんなそうだった。テスト中、何度も何度も鉛筆を腕に刺し続けている同級生がいた。テスト中、ずっと髪を抜き続ける同級生がいた。テストの結果が悪かった次の日、大きなもみじ型の跡を頬につけてやって来る同級生がいた。テストの結果が悪かった次の日、当時流行っていたDSを半分に折られた同級生がいた。もう勉強したくないと言って喧嘩になって、そのときいちばん大好きだった漫画をびりびりに破られたことがあった。私の部屋の壁にいくつかの穴があいた。私の部屋の壁が私の足型にへこんだ。生徒を集めた決起集会で、先生が教壇にマイクを投げつけていた。

そのひとつひとつ、すべてが誰も悪くない。何も悪くない。いまの人生への影響なんて、何ひとつない。たぶん皆そう言う。そんなこともあったなあって、しみじみ言うだけと思う。そこに在るのは、ただ、愛だった。

それでも、それでも。たぶん、そのひとつひとつ光景死ぬまで忘れないと思う。あの時、いつも私はきっと同じ時間公園で遊んでるのであろう大好きな友人たちのことを思い浮かべていた。目の前で広がる現実を、一歩後ろに下がったような場所で見ていた。なんで私はここにいるんだろう、そんなことをぼんやり考えていた。

そして私はついに我慢ができなくなって、中学受験したくないと親に言った。受験総本山である夏を乗り越えた、11月のことだった。もちろん大喧嘩になった。このままいけば、確実に志望校に受かる。あと数ヶ月頑張れば終わるのに、ここまでやってきた努力に報いるためにも、あとちょっとだけ頑張ろうと言われた。それでも、当時のわたしはもう限界だった。いちど口に出してしまえば、止まらなかった。友人たちと同じ学校に行きたいし、少しでもみんなと遊びたい。そう思う今が大事なのであって、未来のことも過去のことも、どうだっていい。

そう泣き叫びながら家を飛び出して、塾をサボる日々が始まった。でも遠くに行くのは怖かったから、隣の家との塀の間にずっと隠れていた。屋根屋根あいから見えた突き抜けるような青い空が綺麗だったことを今でも覚えている。当時の私は、自分意思でもないのに、ここまで苦しい思いをして入る学校に何の意味があるんだろうと思っていた。それは実際、今でも思っている。

ただ昔と違うのは、今の私は、子どもの将来のためにレールを敷くことの大変さも分かるつもりでいる。朝6時に家を出て、夜11時に帰ってくる父親は、そのあと私に勉強を教えてくれていた。土日も、私が家にいるあいだはつきっきりでずっと。社会人になった今、それがどれだけ大変なことだったか、分かるようになった。母親は、塾のお弁当にいつも私が好きな食べ物をたくさん入れてくれていた。成績には厳しいけど、代わりに良い成績を取ったらたくさんたくさん褒めてくれたし、友人たちの誰よりもたくさんの物を買ってもらっていた。服も、本も、文房具も。不自由なんて何ひとつなかった。いつだって私は愛されていた。ずっと、愛しかなかった。でも当時の私は、その愛を目一杯享受して利用しながらも、見ないふりをしていた。

受験当日。結局わたしは、受験会場にいた。

名前欄に自分名前を書かないこともできたはずだった。でも、しなかった。わたし名前を書いて、見直しもして、解答用紙を提出した。結果は合格だった。それが確かに自分意思なのか、既に私の道は最初からまっすぐ一本道しかなかったのかは分からない。でも合格発表のとき母親と抱き合って泣いた。たぶん、色んな感情があったと思う。こうして私の中学受験は幕を閉じた。

この話を通じて、中学受験の是非を問いたいわけじゃない。ただ、あの日々が健全ものだったとは今も思わない。大好きだった漫画がびりびりになったときに、一緒に破れてしまった何かはきっとあったと思う。私にも、親にも。仄暗い恨みみたいなものも長年消えなくて、中高時代は嫌なことが起こるとすべて親のせいにしてしまっていた。嫌なことが起こるたび、私にレールを敷いたあなたたちのせいだ、とずっとずっと詰っていた。今から思えば、まだ親の責任下にある「子ども」に対して与えられたひとつの逃げ道だったのに。私の言葉は、親をたくさん傷付けていたと思う。その後の大学受験では、わたし100%自分自身意思で選んだ進路を一切否定されなかった。そして私は私の意思で、文学部に進学した。ずっとずっと昔はいずれ医学部に行ってほしいということを言っていた親も文学部に賛成してくれた。

中高時代わたしにとって「勉強」は、小学生時代の苦い記憶と共に在るものだった。閉塞的で、強制的な、苦しいものだった。でも大学で、自分意思で選んだ学問は楽しくて仕方なかった。そして、不意に思い出した。ずっとずっと昔、まだ塾に入る前の小学校低学年のとき図鑑百科事典を読むのが楽しかたこと。いつの間にか、そうしたものが苦しい記憶と結びついて蓋をしていたけれど、たぶんいちばん初めは、わたし勉強が好きだった。

文学部卒業して、わたしはずっと夢だった仕事に就いた。他の誰でもない、わたし自身選択の果てに辿り着いた。そのことを親もずっと喜んでくれていて、今は離れて暮らしているけれど、わたし仕事を一番応援してくれている。親はめちゃめちゃわたしのことが好きなんだろうなと思う。そうやって私が自分の夢を叶えることができたのは、たぶん親がわたし選択肢をたくさん増やしてくれたから。その始まりは、中学受験だった。中学受験してなかったら今、夢は叶えられてないかもしれない。だからわたしはこれで良かった。中学受験が苦しかたことも、たくさん喧嘩したことも、その果てに自由選択肢を与えられたことも。その過程はきっと健全もので、まるごとひっくるめて正しかったと思う。でも、それでも。もしいつか自分子どもができたとしたら、わたし子ども中学受験させないと思う。もちろん、本人が自分意思中学受験をしたいと言ったらそのときは全力で一緒に頑張るけれど。

中学受験をして得たものはたくさんある。今の私の人生幸せから。でも、たくさんたくさん苦しかった中学受験記憶から救われるには、いまのわたし幸せになることでしか報われないという意地のようなものも強かった。たぶん中学受験をしていなくても、わたしわたしの力で、幸せになれてたと思う。もちろん、あくま空想しかないけれど。わたし小学生の頃のわたしが、みんなともっと沢山遊びたかった気持ちをずっと覚えていてあげたい。世間一般から見たらわたしはめちゃめちゃ恵まれていて、小学生時代の悩みなんてたぶん本当に本当にちっぽけで、贅沢すぎる悩みだったのかもしれないけれど。それでも、わたしだけは、覚えていたい。あの日々のなかで見た光景のこと。確かにしかった記憶たちのこと。そうすることでしか、あの頃、家と家の隙間で泣いていた自分をひとりぼっちにさせないことができないと思うから

2023-04-21

大学入学したけど、努力もしないくせに劣等感がすごくて辛い

小学生の頃、先生と(後述の問題もあり)性格が合わなかったのかすごい色々言われるのが嫌で中学でも不登校気味になってしまい、受験では内申と出席日数の問題第一希望GOサインが出ず、高校定時制高校に進学した。

小学生の頃から授業への集中力が無くて自由帳でお絵描きしたり寝てたり、勉強は全くできないし、問題児だった。

それでも、自分の得意分野になると記憶力や集中力が極端に上がる。自分の好きな分野については小学生ながらもそこらへんの大人よりも知識があったと思う。

中学生の時は、さすがに授業に参加してノート必死に取るし、頑張って集中力継続できるよう頑張ったけど、いつの間にか寝ていて、それも本当に記憶が無かった。

中学公立のくせに住んでいる街が街だからか、親が金持ち教育熱心家庭が多くまともな生徒が多くて、俺以外でもちょっと違うと攻撃されたり避けられたりしていた。

おまけに教育熱心な家庭に合わせて授業が進むため公立にしてはハイペースな授業だったと思う。授業にもついていけず先生とも合わず人間関係も辛くて、中学ではついに不登校気味に。

朝起きると、平日だけ何故か頭が痛くて起き上がれない。通学路で涙が止まらない。本当に行きたくない日は行かなかった。

なんでみんな1時間も机であんな授業受けれるんだろう。勉強もできないし自分おかしいのかな。なんでだろう。ってずっと思ってた。

親は「学校休みがちならせめても…」ということで家庭教師をつけてくれた。その時は定期試験も少し点数上がった。高校受験に向けても対策をした。

でも、やっぱり勉強が苦手。覚えられない。計算ができない。集中力が続かず、結局バックレて(家庭教師時間になったら外出して逃げた。)家庭教師も中2終わり頃に解約した。

同時期、初めてインターネットで知り合った人と実際に会って遊んだ学校が辛くて、学校を行くふりしてその人の最寄り駅まで行ったり。自分の最寄りまで来てくれたり。

新しい世界が見えた気がして、その時は精神的にも心からしかった。その人と、はまだ繋がっていてたまに遊んだりしてる。本当に感謝

ちなみに家族めっちゃキレてた。「なにしてんだよ」「学校行け」「学校行かないと近所の人から変な目で見られる」。結局家族世間体だけで、多分俺がサボってるとしか思ってなかったんだと思う。まぁ確かにサボりだし。今思えばそうだなと思う。でもその時はこれしか逃げ道がなかったのもわかってほしかった。

そんな中、中3に。周りはみんな受験モード自分はぎりぎり行ける近所の全日高校を狙っていたが、内申点と出席日数的に第一希望として認められず、

定員割れ定時制高校へ進学した。定時制にも理由があって、学校行く前の頭痛体調不良が午後になれば少しはマシになるかな。というのが大きな理由安直だけど。

定時制高校は驚きの毎日だった。本当にごくせんGTO世界

まず、日本語が通じない。噛み合わない。俺よりバカな人がいる。

行動が高校生っぽくない。(言葉に言い表せない感じ。なんか子供っぽいというか…)

イキっている絵にかいたようなギャルヤンキー

覚せい剤を使って同級生逮捕タバコお酒は当然。喧嘩窃盗無免許運転。まだまだある。

本当にこんなことって現実にあるんだ。フィクションじゃないんだ。

自分で選んだ学校から文句は言えない。けど辛かった。中学校とは違うベクトルの辛さ。

学校の最寄り駅降りると蕁麻疹が出るくらいには辛かった。

でも勉強簡単すぎて余裕だったし、校則も緩い。悪いところだけではなかった。

バイトも始めた。

バイトは、本当に向いていたと思う。接客業。高1の1学期から始めた。

お客様「ありがとう」って言われると本当に心からしかったし、クレーマーは来たらちょっと嫌だったけど。

店長社員さんから褒められるのも嬉しかったし、仕事を任されるのも嬉しかった。気づいたら本部研修を何回か受けて名札の★が増えたり。

勉強以外で、自分が認められて本当に楽しかった。週5~6入って必死に働いた。大人との接し方も、電話応対も、社会のアレコレもたくさん教えてもらった。

高校で学んだことよりもバイト先で学んだことの方が今の自分にとって大きいと思う。

高3の頃、大学に進学したい気持ちが強くなった。

小学生の頃から好きだった分野を仕事にしたいと思い始めるようになった。そのためには最低でも専門学校大学はいかないといけない。

専門学校も考えたけど、大学のほうが分野についての授業や設備が幅広くて自分のやりたいことはそっちの方が強かった。

でも、小学校の頃からまともに授業受けていない自分には無理だな。というのが第一に思った。

先生にも相談した。「●●(俺の名前)さんのやりたいことは、大学しか学べないよ」この言葉が決め手だった。

から一般勉強なんてビルギャルじゃないんだし、無理だなと思った。すでに7月

分野が若干特殊なせいか、やっと見つけた大学は、日東駒専レベル大学日東駒専と言えば、インターネット上ではよくバカにされている印象だが

それでも偏差値測定不能高校に通っているヤツが受かる確率は1桁ほどだろう。

そんな中、先生からAO入試を進められた。プレゼンテーションをするだけでよいらしい。

パワポを作るなんて簡単だし、プレゼンの内容を考えるのも楽しそうだった。でもプレゼンするだけでって、そんな都合よい話があるんだろうか…?

あった。

受かってしまった。それも数人しか取らないAO入試だ。倍率はまぁまぁ高かった。

学校行ってないときPCスマホをいじるのが生活の一部になっていたせいかプレゼン資料作るのも苦じゃなかったし、

資料で出典元を見つけたり自分考察、案を考えるのも苦ではなかった。

 

面接からは「高校生でこんなプレゼン初めてみました。」「完成度高いですね」「すごいですね」…。

まさか褒められるとは思っていなかった。面接から鋭い質問されると思ってドキドキしていたのに、プレゼンが終わるとすごい褒めてくれた。

さすがに受験会場で誉められたくらいで、受かるなんて思っていなかったけど、忘れもしない11月とある合格発表日、ウェブサイトには合格表記が出ていた。

正直実感が無いのと、やっぱり勉強についていけるか心配だった。焦って大学に向けて中学校の範囲から少しずつ勉強をし始めたり。

そして入学

もう2~3週間経つけど、割と授業は楽しい小学生の頃から関心があって自分なりに勉強したり調べていた分野だったから専門的な授業は簡単に感じる。

高校までまともな学校行ってなかったのに、大学AO入試で入って授業も割とついていけてます!!!!!!楽しい!!!!」みたいな記事ではない!本題はここから

入学して数日。幸いにも数人、話すような仲の友人…(少なくとも自分はそう思ってる)ができた。

話し方や行動、高校の時の話、上京してる人の地元の話。。。聞く限り「アオハル」を満喫した「ガチ高校生」なんだなと思った。

いや、「ガチ高校生」ってなんだよって感じだけど、自分定時制高校という特殊構造学校でお世辞にも普通高校生活とは程遠かった。

テレビ中学時代の友人を見るたび「青春」が羨ましかった。もちろん、もし普通高校に通ってても青春できる保証はないけど。思うだけなら自由じゃん?

それも、日東駒専レべルだからか、偏差値50後半くらいの高校から指定校推薦や、滑り止めで来た人が多かった。

そんなやつらが勉強もまともにできない底辺高校出身の俺と一緒の大学で一緒に過ごしてる。

本当に申し訳ない。自分は何も努力していない。勉強全然頭に入ってこない。興味ないことは全くできない。人間としての欠陥品。

ちょっとその分野が得意なだけで、取柄もなんもない。

自分バカ出身って明かしても全然みんななんも言わないんだ。

なんでお前がここにいるんだよとか。中学校の頃みたいになんか言われたり距離を置かれるんじゃないか不安だった。

ある日、入試の話になった。周りは共テ利用だったり一般入試だったり。そんな中プレゼンだけのAOなんて言いたくなかった。

けれども、聞かれて正直に答えたら「AO入試!?すごいね!」「才能あるんだね!」って褒めてくれた。お世辞でも嬉しかった。

AO入試で入ったからずるいとか、避けられるかなって思っていたから。優しい。泣きそう。

みんな、高校でフツーの青春をして、人並みかそれ以上に勉強ができて、こんな自分にも優しく接してくれて。

そんなやつらと一緒にいると毎回自分が醜いなって思うのと同時に、

集中力があって、興味がない勉強理解できていれば、自分普通高校生活を過ごせたのかなとか。

普通ってなんなんだろう。なんで自分は頭悪いんだろう。集中力尽きると記憶が無いまま寝っちゃうんだろう。とか。

たらればばかり。

からといって努力もしないくせに劣等感を感じる自分が一番つらい。

日本語めちゃくちゃで見にくい文章最後まで読んでくれてありがとう

追記 4/21 22:55

いつもの流れでトップページ開いたら自分記事があってビックリしました。

ちょっと指摘された部分や日本語おかしい(不適切な)部分を修正しました。

ADHD発達障害の傾向は小学生の時から言われていました。現在正式な診断は受けていないですが、小学生の頃は毎週カウセリングを受けていました。

高校先生について

記事内の大学相談に乗っていただいた先生と当時担任先生には本当に感謝しています。周りの生徒とは少し合わなかったけど、高校先生は本当に優しかった。

小中の先生みたいな人だったら辛かったと思います

優しい言葉、もちろん意見も、いろんな言葉ありがとう。なんだか泣きそうです。

2023-04-18

裏口入学中の人やって病んだ

表題の通りである

増田を書くのは初めてなので変なところがあったらすみません

https://news.yahoo.co.jp/articles/96f03821dedaf7d270db7546e41ff7082d083fce?s=06

このニュースを読んで、学校対応に疑問をもった方も多いだろう。

このケースについて要因を断言することはできないが、似たようなことが以前の勤務校にあったので、書いていく。

(私立学校では大なり小なりあることなのだと思っている。)

まず大前提として、私は既に教員を何年も前に退職し、今は会社員として人並みに働いている。

また、特定されないよう内容にはフェイクを混ぜている。参考程度に聞いてほしい。

某所の中学校

私が裏口入学中の人をやらされたのは、新卒一年目のことだった。

私学適性検査(私立教員就活センター試験みたいなもの)の点数がかなり良かった私は、偏差値も立地も給与もいい感じの学校就職でき、担任も任され、まさにこれからといった感じであった。



母校でもなく、地元を遠く離れ、同期に同郷や同大学の先生はおらず、今思うとアウェーではあったのだが、当時は特に気にならなかった。

何より生徒が賢かった。振れ幅は勿論あるが、素直で真面目な良い子が多い。

生徒との関係もおおむね良好で、どたばたしつつ充実した毎日を送っていた。



入試準備の時期になると、作問者に抜擢された。大役である。手当も出る。

隣のクラス先生にも「新任ではなかなかないですよ、期待されてるんですね〜」なんて言われて、責任を感じながらも喜んだ。

作業は大変だったが、作問も入試も滞りなく終わった。ここまでは良かったのだ。



採点の日が来た。

配点と採点基準は事前に提出しているため、それに従ってつければ良いだけなのだが、なぜか私だけ別室に呼び出された。

呼ばれたのは狭い部屋で管理職教員が二人おり、私が席につくと一人がドアの前に立ち塞がるように立った。

完全に怒られると思った。問題に大きな不備が見つかったのだと思った。

固まる私に、管理職は「いや〜入試無事終わったね!ははは」みたいな感じで、朗らかに話しだした。

あれ?怒られないのか?と思っていると、管理職封筒から受験生の回答用紙を一束取り出し、

ちょっとこの束だけ先に採点してみてくれない?あ、回答用紙に直接点数書き込まないでね」

と言った。

よく分からなかったが、私はその通りにした。

採点が終わると、管理職は点数のメモを見ながら何やら考え込み、おもむろに回答用紙の目隠しを外した。

目隠しというのは、記名欄を隠しているものである。つまり公平性を保つために、採点者から見てどれが誰の回答かわからないようにしているものだ。

私はビックリした。えっ?それ外して良いの?

顔に出ていたのだろう、管理職は私を一瞥すると「あ〜良いから良いから笑」と手を振った。

そして名前確認して1枚の回答用紙を引き抜き、「これなんだけどさあ」と私の前に置いた。

男の子の回答用紙だった。削られていない、潰れた鉛筆で書いたのか、筆圧が高いのか、凄く太い線をしていた。字は汚い。

記述必要以上にいらないことまで長文で回答しているものの、覚えてくれば答えられるような一問一答はことごとく間違えていた。

そして、試験時間中に紙をゴシゴシと擦ったのか、ところどころ変に黒くなり、破けていた。

「この子、点低いよね?」

管理職が言った。採点ミス?と思ったが、明らかにの子の回答には点が高くなる要素がない。

私が黙っていると、管理職が口を開いた。

「この子、この教科が得意科目らしいんだよね、この子合格になる感じにね…採点基準変えて欲しくて」

耳を疑った。え?何言ってるんだ?と思うと同時に、まずい、この子裏口入学?どうしよう、不正だよな、と思って動悸がした。

しかし、私は自己防衛に走り、適当に返事をして、その通りにした。

の子合格するような採点基準に変えるというのは、ほとんど換骨奪胎だった。

一問一答比重は著しく下がり、記述は余計なことを書いていてもとにかく意欲があればOKみたいな感じになった。

同じ束の中でも、点の下がった子がいた。字のきれいな女の子だった。逆に点が上がったラッキーな子もいた。

平均的にはそのままの子も多かったが、私が最初意図した試験とは違う結果になっていた。

そして全体の採点が終わり、家に帰った。

夕飯を食べながら、入試の日に保護者誘導で見かけた女の子のことを思い出した。

本校が第一志望なのだうその子は、お母さんに抱きしめられ、絶対大丈夫!頑張って!と言われ、お父さんに大きく頷いて、お守りらしきものを握りしめて会場へ向かっていった。

の子の点が下がっていたらどうしようと思った。

それから合格発表、新入生登校日があり、入学式を経て、新年度の始まりまで、誰にも不正のことは言わずそしらぬ顔して過ごした。

そして新年度、授業を受け持つ生徒の名簿を見た。

の子がいた。名前を見て動悸がした。

ヤバい子だったらどうしよう。しかし、新入生登校日にも入学式にも特に変な話は聞いていなかったので、大丈夫だと思い込んだ。

結果、ヤバい子だった。(以下、Aと呼ぶ)

床に寝る、騒ぐ、叫ぶ、殴る、人を突き飛ばしながら走る、窓から物を落とす、トイレおしっこスプラッシュ下半身露出して女子を追いかけ回す、ゴミをぶちまける、他のクラス(なんと、上の学年にもだ)の教室にいきなり入って因縁をつける、考えうる悪行は一週間でほぼ全てこなした。

授業中も凄かったが、私の教科は自称得意科目なのもありまあまあ真面目に聞いていた。

それでも授業中に立ち上がり、他の子の筆箱を取り上げてぶちまけるくらいのことは平気でやった。目眩がした。

危険な道具を使う技術家庭ではほとほと困り果て、家庭科先生は泣いてしまった。

すぐに教員シフトが組まれ、Aくんには常に教員が一人以上つくことになった。私も何度かついた。

前述の通り、素直で真面目な子の多い学校だ。異質な彼の噂は瞬く間に広がった。

面白がる子もいたが、幸い同調する子は少なく、みな教員に協力的で、何か起きると何人もすっ飛んできて教えてくれたが、残念ながらAくんのクラス学級崩壊に近かった。

担任先生は本当につらかったと思う。

担任している子たちには、あのクラスの授業をやってるなんてと哀れまれた。

保護者会で保護者にも哀れまれた。

職員室では教員同士が互いに相憐れみ合っていた。

Aくんの担任は、他の保護者から毎日色々言われていた。

Aくんの親はどんな連絡をしても悪びれなかったようだ。

そりゃそうだ、裏口入学させるような親なんだし。

Aくんの学年内では、教員も生徒も色々な理不尽があったと思う。

物を壊された生徒は多数。

特に男子は、体育で競技にかこつけてよく怪我をさせられた。

職員室でAくんの学年の教員管理職に怒鳴られているのを何度も見た。

教員内で情報共有はなぜかされなかった(生徒指導部ではしていたのかもしれない)が、意外と生徒たちの方が詳しく、生徒づてに色々な事件の話を聞いた。

職員室では、なんであんな子がうちに入ってきたんだという話が頻出するようになった。

裏口入学なんじゃないか?」と言われるたびにどこからともなく出る台詞が、「でも、実際得意教科でガッツリ点とってるんだよなあ」

冷や汗が止まらなかった。

その内、Aくんがクラスでこんなことを言うようになった。

「ここの理事長は俺の手下なんだ、俺に楯突いたらお前ら退学だからな」

男子は真に受けなかったが、意外と女子が真に受けて怯え、教員への不信感をつのらせた。

こんなの、自分裏口入学ですと言ってるようなものである

たぶん、Aくんの保護者(もしかしたら年齢的に祖父母かもしれない)が家でAくんに言ったのだろう。

理事長は俺の手下だから大丈夫だ、みたいなことを。

不正の結果ヤバいことが起きた人なら分かると思うが、こうなるともう本当に怖くて仕方なかった。

バレる夢を何度も見た。げっそりしている担任申し訳なかった。何より生徒にバレたらと思うと恐ろしかった。

俺が殴られたのは、私が追いかけ回されたのは、物を壊されたのは、授業をまともに受けられないのは、先生不正を許したからだと恨まれるのが怖かった。

かに相談たかった。しかし、相談出来る相手がいない。

ここは母校でもなく、地元でもなく、同期に同郷や同大学の先生はおらず、何より忙しすぎて親睦を深める余裕はなかった。

あくまビジネスライクな付き合いだ。

よくしてくれる先輩はいたが、皆裏口入学なんて当たり前だと思っているかもしれない。

先輩たちもみんな通った道なのかもしれない。

今思うと考えすぎなのだが、当時はそんな風に考えていた。

作問担当に決まったとき、「期待されてるんですね」と言われたが、なんのことはない。

よく考えなくても、同期はほとんどが本校の卒業生だ。

どこかにチクるツテの無い私はうってつけだったのだろう。

で、まあこれだけが理由ではないのだが、他にも普通に忙しすぎるとかやっぱり地元に帰りたいとかもあって、しばらくして私は教員をやめた。

先生方とはそれっきりだが、生徒とは今も連絡を取り合っている。

このことを、機会があって母校の恩師に愚痴ったところ、慰められたが微妙言葉を濁された。母校でもありそうな感じだった。

しか学生時代明らかに学力が浮いてる子いたし。


多少は清濁併せ呑んで働くべきだったのかなと思った。

以上である

追記

本文中に発達障害という言葉意図して使いませんでしたが、コメントを見ていると逆に良くなかったと思うので追記します。

まず、裏口入学で悪いのは子どもではなく周囲の大人です。

私はAくんの保護者に会ったことがないので深く触れませんでしたが、裏口入学を依頼する親と受け入れる学校が悪いのは明らかです。

子どもは得てして欲望剥き出しの生き物です、親が提示した裏口入学分別なく飛びついても責められません。

冒頭に貼った記事児童も、Aくんも、親さえまともならどこにでもいるただの「支援必要子ども」に過ぎなく、これ自体善悪はありません。

発達障害には天才も含まれるとのコメントいただきましたが、それは当然として、他の圧倒的多数を占める「平凡な発達障害児」と比べてもAくんの問題は明らかです。

しかにAくんの障害は(おそらく)重度ですが、この場合は「裏口入学をさせるようなクズ親に育てられたこと」と「重度の発達障害を持っていること」が掛け合わさって問題が生まれています

発達障害一口に言っても程度や種類は様々で、それぞれ色々な生きづらさや問題を抱えていると思いますが、Aくんを取り巻く問題はその中でも外れ値です。発達障害全体の話題として捉えられるのは本意ではありません。

また、発達障害の方に、自分もAくんのように周囲を困らせていたのかもしれないと思わせてしまうのも申し訳なく、本意ではありません。

これは私の言葉足らずが悪かったと思います

この話は、あくまでAくん個別問題として読んでいただければ幸いです。

2023-03-27

中学受験体験記 - その後

先日、高3の長男卒業式を迎えた。

6年前に「中学受験体験記」という記事で書いた息子だ。

https://anond.hatelabo.jp/20170206102543

いま家族旅行に来ているが、もうみんな寝てしまったので、缶ビールを飲みながら徒然なるままに思うところを書きつづる。

長男卒業した学校について

前回の記事に書いたとおり、当時小6だった長男中学受験に挑戦し、俗に御三家と呼ばれる男子校に進学した。

それからの6年間、長男部活勉強学校行事にと精を出し(なお恋愛)、仲の良い友人もたくさんでき(なお恋人)、とても充実した日々を送ってくれたようだ。

その高校卒業式に出席したが、決して厳かとは言えない雰囲気

いちおう詰め襟の標準服が制服ということにはなっているが、入学式以外で着ることはほぼなく、体が大きくなっても作り直したりはしないので、制服を着ている生徒は一人もいない。

ほとんどは親に借りたと思しきスーツだが、中には普段通りのカジュアルな格好もちらほらいるし、奇抜な格好をした目立ちたがり屋もいる。

その全てが許されている。

男子校ではあるが、女性の格好をした生徒も数名いた。

後で長男に聞いたところ、一人はネタだが、他はトランスジェンダーらしい。

彼ら(彼女ら?)の勇気には敬服するし、トランスジェンダー問題に限らず、素の自分を臆することなさらけだせる環境校風を作り上げてきた学校と生徒たちを賞賛したい。

この学校では自由がとても重視されている。

生徒たちも何かというと「自由」を声高に叫ぶ。その一方で責任についてもしっかりと言及するあたり、なかなかしっかりしているな、と思わされる。

ただ自分卒業した関東公立高校もそれほど変わらない程度には自由だったし、この学校果たしてそこまで特別なのかどうかは分からない。

自由であらねばならないという不自由さ」に囚われているような気がしなくもない。

ともあれ、校則はないし、制服も(実質的に)ないし、髪を染めたり休み時間に校外のコンビニに行ったりしても怒られない(らしい)。

そうするとたまには自由暴走してやらかす生徒も出てくる。

最近ネット高校生のやらかしSNS拡散され退学処分になるニュースを聞くが、たぶんこの学校では同じことをやっても退学になることはない。

退学させてしまったら、更正のための指導教育ができなくなってしまうではないか

高校勉強を教え、その出来を評価するだけの場であればそれでよいのかもしれないが、この学校は「人間を育てる」ことをとても重視してくれていた。

先生方はとても熱心で、生徒たちの将来を非常によく考えてくれている。

PTA役員を2年間務め、校長を含む先生方とも様々な機会で交流させてもらったからこそ、自分もそれを実感できる。

卒業アルバムを開くと「この学校に6年間通えてよかった!」という長男コメントが書いてあった。

今となっては長男がこの学校に通うことになって自分もよかったと思う。

長男の進学する大学について

卒業式から一週間後、受験した大学合格発表があり、第一志望の「東.*大学」に合格した。

ソフトウェアエンジニアにはおなじみの正規表現というやつでぼかしたが、面倒なので以下「東大」と略すことにする。

この東大というところは、多くの人にとって特別意味を持つ大学のようだ。

老衰で死にそうなばあさんや、鬱で生きる気力のなくなったじいさんでさえ、東大合格を伝えると笑顔を見せて喜んでくれた。

実際、長男はよく頑張った。鉄なんとかという塾の宿題にもしっかり取り組んでいた。

一方で自分気持ちは複雑だ。

長男が志望大学合格したことはもちろんうれしい。

しか自分田舎公立中高から塾にも通わず東京とある国立大学に進んだ身だ。

大学入学後、御三家校を含む都会の私立高校出身のやつらから聞く高校生活には、自分のそれとは全く違う華やかさがあった。

全国から集まった同級生の中には、自分には理解できないくらい裕福な暮らしをしている者もいた。

こちらは築数十年の4人部屋学生寮に月5000円で住んでいる。

寮生活は楽しかった。何なら人生で一番楽しい時期だったかもしれない。

しかしそれはそれとして、都会育ちのエリート金持ちにはある種の妬みや反感を持っていたのは否定できない事実だ。

それから30年。

よりにもよって自分の息子が、当時の自分が妬んでいた側の人間になってしまった。

合格した夜、そんな複雑な気持ちを抱えながら、こんなことを伝えた。

「お前はよく頑張った。それは誇っていい。でも周囲の環境に非常に恵まれたことは忘れるなよ。お前と同じくらい素質があったがお前ほどには環境に恵まれなかった人は全国にたくさんいる。決して自分が人よりも偉いだなんて思うなよ。」

もう自分父親として彼に教えられることはそう多くは残っていない。

次男について

長男とは4つ離れた次男私立中高一貫校に通っている。

自分次男にも中学受験を勧めはしなかったが、長男がそういうルートをたどった以上、そうなるのは必然だった。

小3の冬のある日、次男が「塾に通いたい」と言い始めた。

反対する気はないものの一応「何でだい?」と尋ねてみる。

「僕、もっと勉強ができるようになりたいんだよ!」

ウソである。本当は学校の仲の良い友だちが通い始めるからである

しかしこんなことを言われて、長男も通わせておいて、ダメと言えるはずもない。

次男別に勉強ができなくはないし学校の成績も良いのだが、中学受験という競技においては長男ほどの才能はなかった。

そして今は第4志望くらいだった学校に楽しそうに通っている。

偏差値の高低は重要ではない。次男にとってはその学校が合っていたのだと自分は満足していた。

・・・のだが、半年前に予想だにしないことが起きた。

アメリカ高校に進学したい」

ちょっと面食らったが、もともと大学海外に行くことを勧めたい気持ちはあったので、それがちょっと早まるくらいだと思い了承することにした。

だが高校留学のことを調べ始めて顔が青ざめた。

日本人が通えるアメリカ高校は、基本的には全寮制のいわゆるボーディングスクールというやつになるらしい。

そしてこいつの学費想像以上に高い。ましてや円安だ。

無理ではないが、老後の計画根底からくつがえるレベル

でも本人がやる気になっている今になって、やっぱりダメとは言えない。

ここはもう腹をくくることにした。

そして留学エージェントの力も借りて、先日めでたく合格をもらうことができた。

半年後にはもうアメリカだ。

突然子育ての終わりがやってくることになってしまった。

ところでアメリカ高校は4年間あって、1年生から入るには日本中学3年の秋からアメリカに渡る必要がある。

まりいま通っている私立中学中退してアメリカ高校入学する。

なので、もしホームシックをこじらせて志半ばで日本帰国するようなことになると、日本における最終学歴は「小卒」になってしまう。

まあ本人はネタとして面白い、とあっけらかんとしているので、それほど心配はしていない。

自分について

1ヶ月前に勤めていた会社を辞めた。

ここに書くほどの理由はないが、とにかく今は無職だ。

ただ何もしないととことん堕落しそうなので、シニアタレントオーディションというのを受けてみることにした。

最近団塊ジュニア向けの商品サービス広告モデルや、テレビ再現VTRなどで、40代以上のシニアタレント需要がそこそこあるらしい。

そしてめでたく合格した。

4月から3ヶ月ほど演技のレッスンに通うと、タレント仕事を紹介してもらえるようになるらしい。

まあ入所料やレッスン料を支払わないといけないので、最初習い事みたいなものだ。

そういうビジネスだと思えば、たぶんお金さえ払えれば誰でも合格できるのだろう。

タレントになるのが早いかITエンジニアとして再び働き始めるのが早いか、将来のことは自分にも分からない。

この家族旅行について

妻も職場資格試験合格したらしいので、一家全員合格祝いの家族旅行になった。

それにしても海外に来ると、円安と長く続いた日本デフレを痛感する。

タレントとして成功しない限り、次回はちゅうちょしてしまレベル

いや、これまで散々投資してきた息子たちから配当に期待か。

以上、深夜のワイキキビーチより。

2023-03-26

大受験を諦めた話

Twitterを眺めていたら、藝大に受かったという報告を載せたツイートが流れてきた。

 数年前の私なら、涙が出るほど悔しかった。その悔しさは、なんというか、落ちたからではなく、別の意味の方で悔しかった。

 美大受験に夢を見ていた中3の頃、両親の望む高校は受けず、美大進学実績の多い高校に進学した。進学実績の資料通り、美術部には本気で美大受験を考えている人が沢山いた。居心地がよかった。絵を描いても馬鹿にされない環境が、私を天狗にさせたし希望を持たせてくれた。だけど、気付いてしまった。芸術を嗜む者たちは皆余裕があった。私以外、みんな笑顔で、お金のことはあまり考えてなくて、親も芸術理解があって。まず、美大に行くには絵を学ぶ画塾に行くことが必要だと言うことも、絵の上手い笑顔の友人が教えてくれた。その子は親の勧めで、中学から画塾に通っていたらしい。私は芸術に大して興味のない家庭に生まれバグ人間だったから、美大進学を応援してくれる親が存在すること自体、初めて知った。ただ純粋に「絵上手くなるぞ!」って気で来たのに、人生課金され度が違いすぎて、そのギャップにびっくりした。その時から、画塾に行くこともできない、絵が下手で、情弱自分コンプレックスは増大し続けた。そんな私を哀れに思った美術先生が、「ネットを使えば?」と提案してくれた。どこそこの美大に受かった生徒は、田舎で画塾に行けなかったかネットデッサンノウハウを学んだらしい。へー。じゃあ、やってみるか。と言っても、何を調べればいいのか、見当も付かなかった。馬鹿だったから。学びのないなかで描くデッサンは、段々と下手になっていった。もう当時の私は、精神的に疲れていたと思う。

 親や祖父母、親戚の人まで、美大志望の私を散々馬鹿にしてきた。「絵を描くのは趣味でいいじゃないか。」「正直言って、あなたの描く絵上手くないよ。」「あの絵に使った絵の具が可哀想。」みんな笑っていた。私を中心にして、お酒を飲んだり、食事をしながら。すごく悔しかった。最初は、地元美大に行こうと思っていたけど、志望校東京藝術大学に変えた。一週間だけ通った画塾(親が受講費をケチったため)で、塾講師が「藝大も可能性あるよ。」と言ってくれたのも原因だと思う。友達美術先生だけは、私を応援してくれた。来たる受験日、私は呆気なく一次試験で落ちた。一次の合格発表が出るのは二次試験の前日、卒業式の日だった。遠方に住んでいた私は卒業式を捨て、もう東京に来ていた。ショックだったけど、浪人しようという決心もついた。

 卒業式に行きそびれたため、後日改めて学校に行かなければならなかった。卒業証書を貰い、サッサと帰ろうと思った時、担任一言

 「お前は浪人するのか?」

 浪人します。と答えたら、説教された。「〇〇は藝大に現役で受かってるのに、お前は浪人したって受かる実力ないんじゃないのか?就職するなら手助けするからさ、考えなおそう。」

 心にひびが入った。ずっと耐えてきたのに、涙が出そうだった。それでも、藝大は諦めきれなかった。

 泣きっ面に蜂と言うが、不幸なことは立て続けに起こるもので、ある事件が起きた(人間関係のことなのでボカしておく)。いよいよ私の心は壊れてしまった。回復するまでだいぶ時間がかかった。正直、当時のことはあまり覚えていない。ただ、絵が描けなくなっていたのは覚えている。どうやっても描けない。似顔絵が描けなくて泣いている小学生気持ちがわかった。あんなに芸術が好きだったのに、あんなにデッサンを描いたのに、あんなに画家技法を真似したのに、たった数ヶ月描かなかっただけで0になった。ブランクがあっても、少しくらいは残っていると思っていたのに、下手くそデッサンさえ描けなくなっていた。自分はそこまで才能なかったんだと自覚した。でも、そのおかげで諦めがついた。そのことを両親に伝えると、二人は藝大受験を諦めたことを喜んだ。事件のせいで、親にも迷惑をかけたし、選択肢のない私は、社会復帰することだけを考えた。今もリハビリ中だけど、いずれは就職できたらなと思っている。数年前よりはマシになったけど、悔しい気持ちはまだ残ったまま。

2023-02-24

漫画 フラジャイル 病理医岸京一郎の所見時系列を考える 2

anond:20230224111227

続き

2年10ヶ月程度経過 8月ぐらい 時系列考察破綻

布施、「医大6年生 MD-PhDコース2年目」(80話)

えー、医大に明るくないのでわからんのですが、MD-PhDコース学部4-院3~4-学部2年で学士修士両方とるルートデス。だから医大に6年居て学部卒業してなくて院生2年生。かな。

布施は、MD-PhDコース選択で5年次に大学院入りしたため国家試験は2年後」(80話)

「後期研修が3年 宮崎先輩は2年目なう 来年病理専門医認定試験」(80話)

布施初登場から2年以内、宮崎登場から2年半以内になるはずだけど、ここまで2年半以上過ぎてる計算をしてしまってる。

日本病理学会総会12~14日(55話)を現実とあわせて4月仮定してるけどここが変かなぁ。

9月スタート→(4月迎える)→25話 5月→(9月迎える 宮崎病理専攻医丸1年)→33~4話 4月と春が話題→(4月迎える)→(9月迎える 宮崎病理専攻医丸2年)→74話 夏前。

34話から74話の計40話が3、4ヶ月とするとかなりハードスケジュールから厳しいとみて、もう一回4月を迎えてるとすると宮崎は4年間壮望会に居るはずで

日本病理学会総会とアミノ総会の時期が憶測が多くて混乱の原因。わからんかい

「壮望会は研修カリキュラム自由」(80話)これって9月に専攻変えしても4月から継続して計算してるってこと?でも神経内科1年、病理2年なら後期研修明けてる…

神経内科の専攻医になって1年で病理に転科したんだ」(80話)


2年

朝加着任(80話) 天羽編

(20巻末)

円の謝罪 5/21日。リンチ編の時間軸かな?80話以降?連載と続きモノなら天羽編途中が5月21日前か。


稲垣、緩和ソロ活動判明「緩和をひとりで回してるんだ」(86話)

稲垣、40オーバー40歳超えてもガキのままだ」(87話)これは16年勤務でわかっていたこと(63話)なので改めて。

8月9月

VOD治療開始からだいたい「1ヵ月後」(87話)天羽、快方へ

天羽編終了 長い移植前後だけど具体的な日数は数日単位や昼夜表現が多かった。明確に1ヶ月飛んで直後が9月確定なので、都合2、3ヶ月で天羽で夏を過ごした感じか。

3年経過 9月後半~10

病理専門医試験前日~試験(88話)「病理専門医試験明日

病理専門医試験現実と同じならやや昔が7,8月、近年が(コロナの影響で)9月中旬開催が多い。

宮崎は9/26ぐらいに転科&受験資格経験3年以上なので9月以降で確定。

「僕の頃は4年のトレーニング必要だったけど今は3年なんだよ」(88話)

(連載が8年近く経っている。2014開始からここまで2022年(連載時は21年か)。なので最初は4年と言われていた(2話))

とはいえ連載開始時は7-8月開催が多かったので9月病理に移った宮崎は4年後の9月からさらにほぼ1年待たないと受験できない感じだったのでは…?

https://pathology.or.jp/senmoni/testReport.html

また、宮崎は最短9月25,6日とかに病理転向(1話)なので試験もかなり後ろに倒していることになるか。ここで実は日程調整で一年飛んでましたとなると「後期研修が3年 宮崎先輩は2年目なう 来年病理専門医認定試験」(80話)がおかしくなる。

宮崎、剖検32、迅速65(88話)

宮崎、願書から誕生日3月5日(89話)

病理専門医試験願書」に「5月15日」(89話)これは願書を事前に郵送した日付…だよね?あとリアル申請期限はだいたい4月末っぽい。宮崎の転科事情に合わせて10試験にずらした関係で願書期限も5月末にずらしたのかな?

3年2ヶ月程度経過 1112月?

宮崎先生 専門医試験合格おめでとう」(90話)

試験報告は例年、会報10月号に掲載していますhttps://pathology.or.jp/senmoni/testReport.html

もし作中の試験を後ろにずらしたなら合格発表もすこしずれるかも。


JS1編。10から80話かけ3年近く第Ⅱ相試験が続いてることに。

治療期間は約1年です」(94話)「計18回を2週間間隔で投与します」=36週?

「1ヶ月後にCTを取りましょう」(94話)

退職(出勤拒否)

28日後」「4クール終了時点」(95話)「17クール完走をめざします」

治験を4クール行って その80日間」(96話)

一年360日を17クール等間隔でするなら4クールは96話の80日に近くて95話の28日はおかしいことにならない?

でも80日以上かかって関係改善できない師長やそれだけ無視しつつ復職できる雅がヤバくなっちゃう…

(そういえば指導医っていつまでですかね。専門医試験やった時点で後期研修は修了してるはずでもう資格上下関係意味での指導医になってるかな)

宮崎と岸の弁護士編中での18巻末のニアミス振り返り「カレー~また脱いで捨てるんです?」(99話)黒歴史にはならなかったか

24巻完


関係ない話

改めると細木先生出番すくねぇ~。南波も1話阿吽の呼吸からもっと出番があると思ったら気付いたらそのポジ稲垣先生が居た。

それにわかってはいたけれど改めて医師の道は長いなと。6年通って研修が2+3年。いっぱしの医者になるころには30手前ですよ。アラサー宮崎新人としてきゃぴきゃぴしてるのは普段未成年漫画ばかり読んでいるとね。なんかね。ギャップすごいよね。アラサーで悩む教師とか目じゃないぜ。研修医たって並の新卒社会人以上に年上で学を積んでるのに大変だなあと。政治家さらに年食っても新人ですが。

お話面でもER外科でもなければ何週間・何ヶ月も治療スパンがあるからわりと時間が飛んじゃうよね。大変だ。それでいて宮崎研修明けという一種制限時間はあったし。(90,91話最終回雰囲気よ)

でもこうやって挙げてみるとなんとかサザエさん時空にはならないように作ってるっぽい?かっちり決めて連載開始したわけじゃないし思ったより頑張ってるなって感じました。

漫画 フラジャイル 病理医岸京一郎の所見時系列を考える

アフタヌーン大人気連載中の医療漫画フラジャイル」。そろそろ連載10年が見えてきて、物語新人宮崎がついに専門医になるなど節目を迎えてきた感があります。作中およそ3年を総決算したような21巻はまさにここで終わってもいい。第一部完。といった面持ちでしたが現在新薬JS1編へと続いてくれています

そこで今回、改めて読み直したと共に自分の中での整理のために作中の時間がわかるようなヒントを探してみた。

時間表記はだいたい1話目を基準にしている。

時間は明確な過去編とされてなければ話数が進むごとに線形に時が進むと増田が決めたんだ。

お約束

フラジャイルは今のような長期連載を予定されていなかった。

そのため医事紛争(弁護士千石)編18巻~で矛盾がでている。

「5巻の回想シーンで岸先生が壮望会に来たのは7年前」「(18巻では)時効などの関係で3年前設定」

「初期は連載がこんなに長く続くとは思っておらず医事紛争編は構想されていなかったゆえ」

「5巻のことは忘れちゃっていたんですか?」「作家編集もすっかり忘れて楽しくやってました」

長期連載にありがちなから立て付けていく設定に深くつっこんでもしかたないね個人的に岸と森井とのやりとりは時間軸を移してもなんとかなるけれど岸と高柴との関係は長い時間必要と感じるので医事紛争は(個人的)正史からはずしたいと思いまする。

連載だけ読んでると混乱した部分なので時系列を書いてみる動機だよ。

謎いところ

まとめたようでまとまらない情報を羅列しているだけになってしまった。

特に困ったところが「日本病理学会総会~アミ株式総会」。かなりぐちゃった。

それに加えいつかは不明だがリアル専門医受験資格経験4年から3年に変わった影響もあるかも

たぶん2017年から3年に。フラジャイル1巻が2014年で、8巻から2017年発刊。

宮崎試験はハッキリしてるかと思ったけれどそこもなんか怪しいし

あとは

・ 岸が壮望会に来た理由それから活躍

・ 壮望会の悪評と建て直し

稲垣緩和ケア周り

もなかなか謎い。あと高柴×岸のエピソードが初遭遇ぐらいしかなくて思ってたより掘り下げてなかった。

名前メモ

宮崎

森井

火箱

南波

細木

稲垣

中熊

手嶌

日野

戸倉

壮望会

慶桜



不明

岸入る前の壮望会、評判悪し(5話)

17年ほど前

稲垣医者に。「終末期の患者さんと~16年間そう働くのが僕の仕事」(63話)恐らく壮望会以外(27話)。

2011年以前 8月 35話からの比日野過去編 岸、慶桜・研修医時代

岸、臨床医時代感染症内科医

岸、研修医時代「君の指導医は俺だ」

岸、研修医2年目?「去年、研修医ローテで2週間」前期研修か。

25歳前後

将棋友道8「今月号」

恐らくすくなくとも9月以内に比日野死亡「治療開始より5日後死亡」

原因はSFTSで作中2011年以前。「当時はわかりませんでした」「SFTS中国特定されたのは2011年 それまでは日本でも原因不明」(90話)

不明~2年間

稲垣内科時代。慶桜ケア科に「よそのケア科に2年お世話」「研修先のケア科は慶桜」(85話)

「その頃から先生とは同僚」(85話)

このケア科2年が転院回数に含まれるかは不明(27話)


稲垣、「ひとりで壮望会の緩和ケア科を立ち上げ」(85話)

(伴、無菌病棟立ち上げ「昔 伴君が責任者になって立ち上げ」(86話)時期不明病棟を立ち上げて何年だ …何年もだ」(87話))

不明 岸、慶桜助教授時代

手嶌と同僚に。助教授同士(33話)



13~10年前?

火箱兄、死亡「私が中学生の時兄は亡くなりました」(12話)

およそ13年前で火箱12

9年前?

森井、21歳?大学三年の夏に退学。壮望会の専門学校入学。(3話)

6年前?

森井、24歳?専門学校卒業(3年制?)

壮望会病院に入り、6年間は辞められない(3話)

岸、壮望会に転院。高柴と初対面。「7年前」「新しく来た病理先生ですよね?」(18話)

4、5年前?

物語開始前、岸が手嶌と最後に会う。「会うの何年ぶりだったんです?」「…5?6?」(作中1年以上経過)(34話)

岸の性格から正確さは怪しい。岸と手嶌が慶桜以外で会っているなら変ではない(岸の性格から怪しい)。

3年前?

火箱、アミ入社?22歳?スタート1年半以上のときに26歳(11巻巻末)。4年生大学から新卒はいればこの辺り?

新人火箱、十王寺と会う「三ヶ月目」「入社一年目」薬事部所属(67話)

不明

火箱、MRに。岸、森井とは1話から面識あり。

2年と5ヶ月ほど前4月

宮崎医大卒業?。出身大学病院で初期研修開始(80話)「初期研修出身大学病院

不明

手嶌が慶桜を出る。「岸先生は慶桜を出てね」「僕はしばらく残ったけど~アメリカ留学して~研究職に転向した」(33話)

1年半ほど前

本郷最後彼女(病理医)と別れる「4年と3ヶ月33彼女いない本郷」至極どうでもいい(55話)

5ヶ月前ほど4月

宮崎、壮望会に。後期研修開始(80話)第一志望にフラれる。「どうして後期研修は壮望会を」

一年間は神経内科?「神経内科の専攻医になって1年で病理に転科したんだ」(80話)

この1年って1年目(4月に入り半年後の9月)に転科したのか1年半後の9月に転科したのか…。半年なら半年って言うよねぇ。でも2話の宮崎発言矛盾する気がするんすよぉおおおおおお

1話スタート

9月23日-24日開始。院内描写24スタート。終了は25日。

24日に騒動、「ゆうべの手術」~「昨日はお世話になりました」で25日

宮崎、27歳?3年目?。専攻研修開始から半年

宮崎神経内科から病理に転科

2話

宮崎、転科後初日

宮崎、専攻研修開始から半年確定?「一応 卒後2年目のドクターなので」(2話)80話の南波の話がわからなくなる。

てかこの流れの"ドクター"とは"博士課程です"って意味でいいの?医者意味でいい気がするけど。"博士とって2年目"だとまたいろいろ変わってくる…

専門医認定の条件が経験4年といわれる(後、3年に短縮)

3話

岸、森井に転職の話をする。

6年間は辞められない条件を知っているなら森井卒業6年後?

森井30歳?

5話

森井慰労会(4話直後?)

火箱登場、宮崎とは初対面。


宮崎病理診断開始(2-3話間と5話時間経過を加味しても早くなあい?)

5-6ヶ月経過ではない?

南波に新しい研修医。「宮崎の後に入った子」(9話)

4月に入った新人かと思ったが作中4-5月ではない?初期研修のローテーションか?

根拠は9話で半年ほど飛ぶのは不自然。8話で中熊登場して9話冒頭で中熊ポスター。8話で火箱・中熊面識。9話で「先日はどうも」


新薬JS1 Ⅱ相試験に向け始動(10話)

JS1、竹田編開始(11話)

竹田、余命半年


竹田JS1 3クール終了(13話)

竹田10日後に死亡(14話)

実際何ヶ月生存たかはわからない?余命どおりならだいたい1年目終了。


火箱、アミノ退社(14話)

(間瀬、アミノ退社)

(竹田余命)+数ヶ月経過?

「あれから数ヶ月」

JS1副作用の判明

火箱、ビフィズス入社

(14話終了)


「この前」コンサル窪田参加(15話)


セカンドオピニオン外来開局(15話)

高柴65歳?、定年半年前(15話)

高柴、退職。「定年まではまだ半年もあるのに」(18話)


高柴クリニック開院。高柴編終了(20話)


慶桜、中熊により遺伝子検査ラボ設立。円が25歳で技師長に「2年前~25歳にしてラボ技師長に抜擢」(58話)

(手嶌、円と共に新薬開発)「手嶌くん~円も協力してる新薬開発の仲間だね」(時期不明)(61話)遺伝子ラボとは無関係か。ソフト開発し新薬配列設計発見

半年以上経過 4月以降

17病理学校(21話)

布施登場、医大5年

5月時点で布施がまだ医大5年なので病理学校4月以降(25話)


布施半月間岸の元へ(25話)

8ヶ月後 5/19

笑美編。デジタル時計の日付が5/19。 (25話)

布施「君何年生?」「5年生です」(25話)

(稲垣、壮望会が3院目。前病理ありと前前なし(27話))

笑美編終了でおおむね6月(月末の演奏会)


宮崎、初術中迅速(31話)

(8巻巻末)

人物紹介 年齢

宮崎20台後半(大学多浪はなさそう)

不明

森井30歳(誕生日1111日)

位置不明 41話から半年ほど前

間瀬、医薬新聞社入社半年お世話になった」 (41話)

9ヶ月~1年半程度経過。 4月より前。6~夏まで?

森井31歳?

宮崎28歳?

手嶌登場「4月から京都細胞研究所」~「なられる」へ「やっと慶桜から卒業か」(33話)

「春から京都」(34話)

流石に何ヶ月も前に挨拶回りは変だと思うので4月前かなと思うけれど、後から見るとかなり早く挨拶してる?


ハル編(35話~)


間瀬、ビフィズス入社(41話)

9ヶ月~1年10ヶ月程度以前経過。 6月~夏まで?or翌年4月前あたり

野球回。(44話)

入局先宣言の話。「5年も~お世話になって」。後期研修終了タイミングの入局(4月)なら意思表示は入局前年の夏までが一般的らしいからここが夏で実際の入局は来年という話か。4月の線は薄い?

火箱が野球テレビ中継で見ている「今期つれぇ~」(44話)プロ野球3月末開幕なのでオープン戦でなければ4月以降で「今期」「つらい」とわかるのはやはり前シーズン夏前ぐらいか

(11巻巻末)

火箱26歳。ビフィズス在籍状態時。


宮崎20台 森井30台」(46話)

2年弱。9月前?

宮崎デビュー戦(48話)「病理専攻1年目です」

宮崎迅速11回、剖検5回(49話)


こまごまとした話。3日謹慎新聞掲載などがあるが明確で大きな時間移動はなし?


移植から半月後」(54話)

11ヶ月以前経過or1年7ヶ月以前経過? 9月前? or 4月前? or 4月以降?

日本病理学会総会12~14日(55話)

布施、院1年目(医大5年生?(80話))。「院の1年目であれくらい深く考えられる人」(55話)(MD-PhDコース)

現実と同じなら4月だが、布施の院1年目=医大5年生なら「布施は、MD-PhDコース選択で5年次に大学院入りした」(80話)だから初登場(8ヶ月経過、5月ごろ)から4月をまたいでないはず…

神経内科から病理転向して1年目のザッキー」(55話)1年以上経ってるから2年目だと思うんですが…?

前年秋期特別総会でも11月で9月をまたいでザッキー2年目…

しかし第10X回総会とあって現実的には4月の総会…(55話)実際の総会は4~6月開催と幅はあるけど3月とか年度前にはならない? https://pathology.or.jp/jigyou/meeting-spring.html

4月越えなら

森井32歳?

宮崎29歳?

火箱27歳?


作山、リンチ

円、27歳?「2年前~25歳にしてラボ技師長に抜擢」(58話)

稲垣オプジーボ同意後、慶桜の「遺伝子センターラボに1週間もお世話に」(60話)

稲垣医師16年目?「終末期の患者さんと~16年間そう働くのが僕の仕事」(63話)42歳オーバーか。


ビフィズス、新薬とともにアミノへ(企業買収って数ヶ月はかかるとみていいよね?)(64話)

ビフィズス買収後、火箱、総務部、間瀬、MR(営業)へ「2週間前」(66話)


(株主6月(69話)→慰安旅行6月末(70話)ならここは5月か)

新人関根先生(65話)また4月ではない?次が総会の話なのでここは4月に入ったガチ新人かも。

「来月末 壮望会病理部のスケジュール抑えてほしいんだけど」(65話)

ビフィズス買収2週間後ぐらい 3~5月

アミノ編(65話)アミノの株主総会の話だが総会が多い6月になるのかは不明

十王寺氏が来月退職するらしい」(65話)

数日後?、火箱、アミノの未来を憂う会に。「我々は来月の株主総会で」(66話)

(*2年8ヶ月経過 5/15 宮崎試験願書提出?(89話))

2年9ヶ月程度経過?3年目6月

総会一ヶ月前の買収が5月としたら4月日本病理学会総会から1ヶ月半(病理総会が4月12~14日)。作山関係で2週間近く使うとしたら買収"完了"が一ヶ月でしてることに。

そもそもオプジーボ同意を取れてから家族への報告に1週間。投与開始から検証&18人の遺伝子検査いくらか。NDA違反に数日(60話)と2週間でもカツカツ。5月中に関根編こなす必要もあるし。

総会間近、火箱懲戒解雇(68話)

JS1が」「治験フェーズⅡ」(68話)

十王退職記念公演。火箱が代読「明日から無職」(68話)

十王寺、株主総会前に退職?「この前の火箱さんの公演が記事になりました」(69話)

株主総会(69話)「後日~十王寺さんの解雇撤回」(「明日から無職」は形式的な話か)


間瀬、開発本部長に。火箱、開発本部 臨床開発3部 JSプロジェクト推進グループグループ長に。春田、火箱部下に。

6月末?

慰安旅行(70話)「来月末 壮望会病理部のスケジュール抑えてほしいんだけど」(65話)

2年10ヶ月程度経過 7月はじめ?

弁護士編(医事訴訟)

弁護士編は過去矛盾してる編なのでここでまとめる。基点がここから3年前なのがネック。(ここまでの予測があっていれば宮崎が転科する数ヶ月前の話になってしまうし、後からみてもすぐに宮崎の実務3年を迎える)

前述のとおり時系列からは切り離すが、過去の各イベントはあったんじゃないかな。

また、過去以外の話の時間正史として前の編から地続きと考えておく。

不明 (岸) 細木 千石 高校生時代

細木と千石高校同級生(72話)細木と岸は同期

1話から2ヶ月と数ヶ月前とさらに少し前

森井、「事件があった3年前は俺も壮望会で働き始めたばかりでした」(72話)

後の話では森井のほうが壮望会に先に入ったっぽいのでここでもここに

(6年辞められない縛りがあるのに転職話が出るのが変)

1話から2ヶ月と数ヶ月前

岸、壮望会に。(73話)

(これまでの話でも壮望会での高柴との出会いは7年以上前矛盾)

1話から2ヶ月ほど前 弁護士現在から見て3年前

患者菊池通院後2ヶ月。「外来での通院が2ヶ月を過ぎたころ僕に~依頼があった 三年前だ 僕が壮望会に来てまだ数ヶ月にもならないころだった」(73話)

病理技師がほかに4人居る(73話)

岸、初カンファ荒らし「初カンファ荒らしの爪痕」(73話)

菊池状態悪化後、「緩和ケア科に移って2週間後に亡くなった」(73話)


「まあまあ前」の先月

森井、彼女に振られる(18巻末)

1話から5ヶ月前以内 「まあまあ前」

森井、技師を追い出しソロデビュー(18巻末)

宮崎、壮望会に居てニアミス(18巻末)宮崎は後期研修から壮望会に入ったので4~9月の間の話(神経内科専攻)とすると、3年前とはあまり矛盾しない。

不明(窪田参加前)

壮望会、不評から立ち直る「壮望会を立て直した~医師の功績ですよ岸先生とか稲垣先生とか」(74話)

5月ごろ?

久坂部、米嶋の診療所訪問「2ヶ月前米嶋が働く診療所に~弁護士」(74話)

久坂部~米嶋の診療所に行った男と同一人物」(75話)

7月はじめ? 物語現在

「今月の予定組むんで」(71話)

森井、「事件があった3年前は俺も壮望会で働き始めたばかりでした」(72話)

米嶋の診療所訪問。米嶋はだし。(73話)春~夏?

「夏も近い」(74話)これジョーク

こまごま動いて弁護士編終了

2年10ヶ月程度経過 8月ぐらい 時系列考察破綻

布施、「医大6年生 MD-PhDコース2年目」(80話)

えー、医大に明るくないのでわからんのですが、MD-PhDコース学部4-院3~4-学部2年で学士修士両方とるルートデス。だから医大に6年居て学部卒業してなくて院生2年生。かな。

布施は、MD-PhDコース選択で5年次に大学院入りしたため国家試験は2年後」(80話)

「後期研修が3年 宮崎先輩は2年目なう 来年病理専門医認定試験」(80話)

布施初登場から2年以内、宮崎登場から2年半以内になるはずだけど、ここまで2年半以上過ぎてる計算をしてしまってる。

日本病理学会総会12~14日(55話)を現実とあわせて4月仮定してるけどここが変かなぁ。

9月スタート→(4月迎える)→25話 5月→(9月迎える 宮崎病理専攻医丸1年)→33~4話 4月と春が話題→(4月迎える)→(9月迎える 宮崎病理専攻医丸2年)→74話 夏前。

34話から74話の計40話が3、4ヶ月とするとかなりハードスケジュールから厳しいとみて、もう一回4月を迎えてるとすると宮崎は4年間壮望会に居るはずで

日本病理学会 Permalink | 記事への反応(1) | 11:12

2023-02-11

「これ以上恋愛しなくていい」というメリット

https://anond.hatelabo.jp/20230210135512

というのが結婚して良かったこととして挙げられていて、更にコメントでも結構共感を集めているのが面白いと思った。というか驚いた。

現代自由恋愛時代だと思っている私は、したくないならしなければいいだけと素朴に思ってしまうんだが、こういった人達恋愛をどのように捉えているのか気になる。

以下、ぱっと思いついた仮説。

恋愛酸素で、結婚酸素ボン

まり恋愛は人が生きる上で必須な成分で、結婚というある種の拘束力によって一定程度それを自動的に獲得ができるという考え方。だから酸素でも水でも食事でも例えるなら何でもいいわけだが。

原始的な住環境においては、如何に狩猟採集や農耕が苦手な人でも、飢えて死ねば元も子もないので何とかして食料を得なければならない。

それが近現代的なインフラのおかげで、生存のために常に気を張る生活から安定的供給のある生活に移行できたと考えれば、恋愛に疎い私にもその安心感想像やすい。

無論例外はあるだろうけど、ネガティブに語られがちな離婚率1/3というのが本当ならむしろ相当良好な関係が多いだと思う。

恋愛は、結婚という目的のための競技種目

これは試験勉強就職活動が近いと思う。

別に勉強面接のものが好きなわけではないが、入りたい会社会社選考に受かるためには多かれ少なかれ不本意努力を要する事はあるだろう。

私も旧センター試験で興味のない科目の対策をするのが本当に苦痛だったし、合格発表後の開放感は最高だったし、それ以降二度と古文漢文には触れていない。勿論勉強のものが嫌いという人もいるだろう。

余談:では、共感できない人間にとっての恋愛は?

これは私のことだけど、多分一番近いのがワンピースだと思う。

私はワンピースを読んだことがない。しかしそれが世界的に人気で、海賊が登場する、100巻以上続いている長編漫画であることは知っている。

読めば面白いのかもしれないが、今から100巻以上読むのも大変だし、ぱっと見の印象だと絵柄は苦手だし、多分10年後にも「良いんだろうなというのは分かります」くらいの印象を抱き続けているのだと思う。

私にも元増田にも幸多からんことを。

2022-11-02

体外受精をして40歳出産した話

不妊に悩む人の情報になればと備忘録代わりに残します。

概要

38歳で結婚し、排卵チェッカーを使って3か月ほど自然妊娠の機会を取ったが妊娠しなかったためすぐ婦人科に通う。

タイミング法で半年治療したが至らず、2度の転院を経て体外受精を行った。

体外受精もなかなかうまくいかなかったが、開始から一年半後、6回目の施術妊娠成功。今年無事出産に至った。

受けた治療検査

血液検査

転院するたびに毎回行った。血中のホルモン量やら調べる。特に問題なし。

超音波検査

超音波器具を膣内に挿入して子宮内の様子を見る。これは継続して診察のたびにやる。初めての時はめちゃくちゃ抵抗があったけど今や聴診器と同レベル

タイミング

自然妊娠に一番近い方法卵子をたくさん作るホルモン剤を飲んだり注射したりして受精やす環境にし、体温や卵巣の具合をエコー確認して性交の日にちをお医者さんから指示される。

3回試したがダメだった。

子宮卵管造影検査

タイミング法がダメだったので卵管に異常がないか調べるために実施子宮内に何らかの液体を注入しレントゲンを撮る。これが激痛。生理痛親分

子宮が破裂すると思った。痛みで泣いた。

検査の結果、片側の卵管が狭くこのままでは妊娠しにくいと診断され、体外受精に移行した。

子宮検査

体外受精の前に子宮内にカメラを入れ、内部の様子を確認する。これも激痛。泣きすぎて看護師さんに赤ちゃん扱いされた(えらいえらい!頑張ったねぇ~ヨシヨシ✋)。

子宮内にポリープが見つかった。採卵の際に合わせて切り取ることに。

体外受精

まずは採卵、つまり卵子を取り出す。排卵に合わせてホルモン剤を飲んだり注射して卵子をいっぱい作って取り出す。いろんな手法があるが私はショート法といわれるもので行った。

卵子はたくさん取れて20個以上取り出せた。採卵の当日持参した精子(専用容器をくれるので当日朝に射精しそれに封入。アルミで覆って冷めないように持参した。)と合わせ、受精卵にする。

採卵の数日後に受精卵を子宮に戻すのが一般的だが、私はポリープの除去も行っていたので翌月子宮内受精卵を移植した。

この受精卵がたくさんできれば、採卵の工程を経ずに受精卵の数だけ体外受精施術移植)ができる。あまりできない(2~3個)と再度採卵から行わないといけない。

ちなみに全治療の中で採卵が一番大変だった。卵を増やすホルモンを2日に一回注射したり薬飲んだりそのせいで体が常にだるかった。

採卵が終われば不妊治療も8合目といえるのではないだろうか。

ERA検査

何度か受精卵を移植するも妊娠に至らず、この検査実施した。

子宮の内膜をこすり取り細胞を調べることで、いつ受精卵を移植したら最適かが分かるらしい。

あ、ちなみに自然妊娠と同じく体外受精でも月に一回しか妊娠する機会はない。着床するタイミングあくまでも体まかせというか、手術や薬で調整できるものではない。

また着床の最適なタイミング個人差があるので、それを調べるための検査です。こちらも激痛。瞬間の痛みは一位。

検査結果が出るのに2か月かかった。焦る。どんどん年齢が迫ってくる。

この検査結果をもとに受精卵の移植手術を行ったが、その後何度も妊娠せず。

6回目でようやく妊娠した。

かかった費用

大きいところだけ抜粋します。ここにないのは数千円から数万円。保険適応前の話なので今はこれよりかなり安いはず。

ざっくり総額350万以上400万未満くらい。

採卵と受精作成

200万円

受精卵の移植(一回につき)

20万(×6回やった)

ERA検査

20万円

自分なりにやったこ

5回目の体外受精に失敗したとき、もう40歳が目前だったのであきらめるか妊娠に全振りするかの二択になった。

体外受精成功率は約30%で、回数を重ねるごとに成功率は上がってくる。1回目で成功する人は30%、2回目で成功する人は50%、3回目では70%の人が妊娠している。

しかし回数が5回を超えたあたりから成功率は横ばいで、10回目でも100%にはならない。

5回やっても妊娠しない人はその後も妊娠しない、する確率が伸びないと思われた。

6回目の移植を前に、私は妊娠に全振りすることにした。

禁酒

何度目かの血液検査亜鉛がやや不足しているといわれ(亜鉛不足の人は着床しにくい)、調べるとお酒をよく飲む人は不足しがちになるらしい。

酒はめちゃくちゃ飲むほうなので、思い当たりすぎた。きっぱり止めた。

温活

中国の方は妊娠する予定があると半年くらいかけて体を作っていくという話を聞いた。体を冷やさないようにしたり栄養取ったりするらしい。

常温以下のもの飲食はせず、夏だったが温かい食べ物を食べ、しょうが積極的に取り、薬用養命酒を飲んだ。

仕事を辞めた

仕事をしながらの不妊治療はきつかった。明後日排卵なので来てくださいと言われれば仕事があろうが行くしかなかった。

突然早退や遅刻をするので、迷惑かけた分別の日は過剰に残業したりして、体調管理どころか余計負担をかけていた。

子供ができたら経済的にしんいからやめたく無いが、辞めなくて子供ができなかったら本末転倒、あーあ人生はままならないものだと諦めた。

辞めた翌月の移植妊娠した。仕事害悪

辛かった点

お金

保険が効けばだいぶ違うと思います補助金も貰ったけど焼石でしたので。

薬漬け

とにかく注射や薬が多くて体が常にだるい

なかでも膣座薬という、膣に自分で朝晩突っ込む座薬がきつかった。肛門みたく締まってないので薬成分が股から常にだらだら流れて気持ち悪い。

あと膣座薬を突っ込む姿勢、ご想像いただければわかるがかなり恥ずかしい。

毎月合格発表

受精卵の移植後、着床・妊娠たかどうかの判定に10日ほどかかる。この期間が本当に辛い。

大学受験合格発表を待つ気持ちとほぼ同じ。

ダメだったとき

不妊治療の最も辛い点、妊娠しないこと。これに尽きる。

大枚はたいて結果がでない。自己嫌悪が止まらない。

何度聞いても先生の「着床してませんね」は慣れない。聞いたあとは毎回病院を出てから泣いた。

不妊治療中の人に助言

子供が欲しいなら治療は一日も早いほうがいい

とにかく時間との闘い。たとえ20代でもなかなか妊娠しないなと思ったら一度婦人科相談したほうがいい。

治療していると職場相談したほうがいい

早退とか言いやすいし、相談していれば私も今回仕事を辞めなくても済んだかもしれない。

でもできないよね~できない。「私子供ができなくて」とはなかなか言えなかった。

パートナーにできることはなにもない

まじでない。かえってそれがしんどいと思われる。覚悟してもらおう。

終わりに

お金もかかったし仕事もやめたし家計は火の車だけど、子供が生まれて本当によかった。

利口なはてなのみなさんには笑われそうだが、失わないと手に入れられなかったので仕方ないのだ、人生はままならないのだ。

ママだけどね。

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