はてなキーワード: 全落とは
どこに吐き出せばいいのかもわからない自分の気持ちと、きっと誰の記憶にも残らないであろう自分の人生を増田に投下したい。
要旨はタイトルの通りでしかないが、就活に失敗し続けて無職のままアラサーを迎えてしまった。今年はもう就活すらしていない。
就活は売り手市場だなんだと聞いていたが、それは結局平均的にコミュ力のある人間にとっての話であって、自分のようなコミュ障で陰気な人間にとっての話ではないのだなと痛感した。
ふと思い返せば友達が居た記憶があるのは小学生の頃までだったし、その頃もたまたま流行っていたポケモンに詳しかったから仲間に入れてもらえていただけだったんだろうなと今になって思う。
中学に入学したあたりでクラスもバラバラになり、小学生の頃のグループは自然消滅してしまった。
誰にも声をかけられることはなく、かといって声をかける勇気もなく、本当にただ孤独に過ごしていた。
部活にも入らなかった。正確には入れなかった。
聞こえてくる話を聞く限り、中学に入学した時点で皆は入りたい部活まで既に決めている人が多かったようだった。
特にスポーツの経験もなく、かといって文化的な素養もない俺にそのようなものはなかった。
「この部活に一緒に入ろう」と声をかけてくれるような人も当然いなかった。
未経験の部活の仮入部に飛び込む勇気もなかった。気がつくと入部届の提出日は過ぎていた。
友達はもちろん欲しかったが、既に俺以外の人たちで完結しているように見えたコミュニティに入り込めるような人間ではなかった。
最初の入学式の時点で、席が近い人たちか、同じ小学校の出身の人たちで話して仲良くなっていた。俺だけが孤立しているような錯覚を覚えて、行きたくもないトイレに逃げて泣きそうになったのを今でも覚えている。
中学生にもなると皆携帯を持ち始めるようになっており、誰々とメアドを交換したとか言う話題が聞こえるようになった。
親にねだって携帯を買ってもらった。結局誰1人としてメアドを交換することはなかった。
中2の時だったと思うが、モンスターハンター3rdが学年中で流行っていた時があった。
みんなで放課後に誰かの家や公園で集まって一緒にプレイしているような話が聞こえてきた。
親にねだってPSPとモンハンを買ってもらった。話しかけてもらいたくてわざわざ学校にPSPとカセット持って行き、わざと休み時間に机の上にそれらを出した上で寝たふりをしていた。
国語の先生に見つかって取り上げられ、皆の前で叱られ、反省文を書かされた。あの瞬間が中学生活の中で1番みんなからの注目を集めた瞬間だったんだろうな。悲しすぎる。
今にして思えば、ポケモンに詳しかったことで仲間に入れてもらえた小学生の頃の成功体験を引きずり続けて、同じ手法でなんとか挽回しようと考えている自分の浅ましさがもう情けないよな。
勉強だけは頑張った。成績が良かったテニス部のクラスメートが色んな人に「勉強を教えて!」と声をかけられているのを見たからだ。それもまた、今思えば笑ってしまうくらいに浅はかだけれど。勉強ができるから声をかけられていたのではなく、テニス部の人気者だから、勉強を理由に声をかけてもらえてただけなのに。その構造を見抜くだけの頭の良さは残念ながら当時の私は持ち合わせていなかった。
勉強の甲斐あって、地元で1番の公立高校に合格した。親以外に祝っては貰えなかったが、それでも良かった。
合格と同時にiPhoneを買ってもらった。LINEをインストールした。
中学の頃は初手で部活に入ることに失敗したことや、コミュニケーションを取ろうとアクションする前に既に人間関係ができてしまっていたことが敗因であると考えていた。今回は入学式の日からちゃんと人に声をかけると強く決意した。
失敗した。
出身中学が同じもの同士で既に固まっていたし、何より塾が同じもの同士での結びつきもかなり強固であった。
3~4日目にして、ついに席の近いクラスメートが声をかけてくれたことでクラスラインに加入することには成功したが、人数から察するに私が最後のメンバーであった。
私が入った頃にはクラスラインでの会話は殆ど無く、既に仲の良いもの同士でより小さなグループを作ってそこでコミュニケーションをしていた。
同じ塾での繋がりから、合格発表があったその日には学年のグループができており、入学式の日にはもうクラスラインが出来ていたらしい。
結局、中学生の頃に友人を作れなかった負債に高校生になっても苦しめられるのかと思った。
部活動にも入ろうと思った。未経験でも最初の入部の時点であれば飛び込めるのだと学んでいた私は、新歓で惹かれた剣道部に入部した。
2ヶ月で辞めた。
私以外の入部者が全員経験者であり、初心者が私しかいなかったからだ。
先輩はもちろん自分のために練習に付き合ってくれたが、同級生や先輩達のレベルと自分の立ち位置があまりに乖離しており、自分1人だけが別で初歩的な練習をしているのが、晒し者にされているような気がして嫌になり、逃げ出してしまった。
自分だけが初心者だという引け目から、同級生ともろくに話せずに終わってしまった。
ここで投げ出さなければ…と今なら思えるが、やはり当時の自分には無理だったのだろうなという諦めのような感情もある。
同じような基礎練習に打ち込む初心者がもう1人でも居れば…と仮定しては、さも自らが理不尽な状況下にあるかのような想像をして自分を正当化しようとしていたことを何故か今でも覚えている。
幸いだったのは学校に自習室があったことで、これにより部活動の時間分を自習室で勉強することで、親には部活動を続けているようなフリをし続けていた。今思えばバレていたのだろうか。
中学の頃から帰宅部であり、友人と遊ぶようなそぶりすら見せてこなかった俺を、親はどう思っていたのだろうか。
何も言わないでいてくれた親の気持ちを想像すると、胸が苦しくなる。
高校でTwitterが流行った時期もあった。例に漏れず私もアカウントを作った。当時のTwitterはまだ身内感が強かったこともあり、高校名や氏名で検索しては片っ端から同級生をフォローした。
フォローバックも多少はしてもらえたと思う。
しかしながら、結局何もツイートすることはできず、ただ同級生の動向を監視しているだけの気持ち悪いアカウントに成り下がっていた。
一言も喋らない陰気な奴が変なことをツイートしたらどう思われるのだろうかと、怖くて何もツイートできなかった。
LINEを交換しているもの同士でスコアがランキング形式で共有されるのだが、たまたま引いたマレフィセントというツムで圧倒的なスコアを叩き出したことがあった。
その時にクラスメートが「上手いんだね!」と声をかけてくれたことがあったが、気の利いた返しが浮かばず、ぎこちない笑みを返すことで精一杯だった。
3年以上碌に会話をしていないのだから当たり前なのだが、もはや会話をするという行為が自然には出来ないようになってしまっていた。うまく言語化できないが、相手の言っている内容を理解した上で、それに対する返答をいくつか頭で構成し、そのうち最適なものを選択して口からアウトプットするという一連の行為が自然に出来ないようになってしまっていた。目を合わせるだとか、自然な表情を作るだとか、そんなことは言うまでも無くできなかった。
その会話での失敗は自分の中でも忘れられず、次に同じように話しかけられた際の返答を何度も何度もシミュレーションした。
ツムツムも継続してスキルを磨き、ランキングではトップを取り続けた。
当たり前だが、次の機会は来なかった。
高校3年間は最も密度の高い青春の3年間だったと知り合いの誰かがTweetしていたが、俺の3年間は思いつく限りの思い出で上記が限界だと思うと、本当に虚しい気持ちになってしまう。
今度こそ失敗しないようにと臨んだが、やはりダメだった。
講義における自由な席のシステムや、そもそもクラスなどが存在していないという状況で、自ら人に話しかけるだけのスキルを持ち合わせていなかった。出身高校も予備校も基本的には違うはずなのに、即座にそれぞれで仲良くなれていたのが不思議で仕方なかった。
サークルの新歓にも行った。バーベキューだった。同じ机に先輩が2人、新入生が3人の5人で座っていたのだが、気がつけば私を除いた4人での会話になっていた。
先輩が時折私に話を振ってくれていたのだが、明らかに気を遣ってくれているのだとわかり、余計に苦しく、惨めだった。
新歓用のライングループがあったようだが、私には加入の声もかからなかった。
自ら興味のある分野を見つけ、そこに飛び込むだけの主体性すら持ち合わせていなかった。
テストは同じ授業の過去問を持ち合わせているかどうかで対策の可否が大きく変わるものだった。友達のいない私には非常に厳しかった。
授業に一度も来てないようなテニサーの奴よりも、私の成績の方が悪かった。友人は居なかったが、それでも勉強だけは出来た自分にとって、学業の成績は唯一の精神的支柱であったのだろう。かなりメンタルにきたのを今でも忘れられない。
しかし、そうは言っても今更友人を作ろうと発起するのも見苦しいように思えて、結局何の行動も起こせなかった。
ゼミはそれなりに興味のあった行動経済学のゼミを志望したが、人気ゼミの面接に通るはずもなく落ちた。
結局、不人気な統計学のゼミに入った。幾つ上かもわからない留年生と私の2人だけだった。
自分の存在は何度も留年を繰り返す謎の男と同じ程度なのだと言われているようで苦しかった。
そして就活の時期を迎えた。
講義室で聞こえる会話で周りが既にインターンというものにエントリーしていることを知った。その後、焦って就活について調べ始めるものの、そもそも特にやりたいこともなく、また、特段興味がないものに対して熱意があるかのように見せられるだけの技量もなかった私は、悉くインターンにも落ちた。
志望動機や経験(あまり好きではない語彙だが「ガクチカ」と呼ばれるもの)に嘘や誇張した内容を書くような人々を見下していたが、結局採用されるのは見下していたはずの人々だった。
奴らは汚いことをしているのだと内心見下すことで、倫理的には彼らより優位にあると思いたかったのだと思う。そんな卑屈さで小さなプライドを守ったところで、何一つ実利はなく、ただ不幸になるだけだということに気づけなかった。
その後、大学名の威光もあってか1dayのインターンには通ったものの、グループワークが中心の1日に馴染めるはずもなく、ひたすら透明人間を演じた上で、最後に儀礼的に連絡先だけを交換して終わった。
同じグループの人は関関同立(関西ではそれなりの地位にある大学群)の同学年だったが、グループワークでのリーダシップの発揮ぶりは私とは比にならなかった。社員の見る目も違っていた。もちろんその後を知ることはないが、きっと大手の企業で内定を得て働いるのだろうなと思う。
昼休みの会話で、高校は私と同じ地域にある偏差値50程度の私学であることを知った。指定校推薦で大学に入ったらしい。
学業にしか縋れなかった私は、恥ずかしながらも内心では関関同立を見下していたし、偏差値50程度の高校に行った人とは今後交わることすら無いものだとすら思っていた。卑屈な選民思想を持った自分が恥ずかしかったし、完全に下に見ていた人々にも逆転されたという事実を突きつけられたのはかなりショックでもあった。
後日講義室で聞こえてきた「1dayインターンは意味がない」という言説を信じ、1度きりで申し込むのを辞めた。今思えば、傷つきたくないがために縋ってただけなんだろうな。人は信じたいものを信じるように出来ているとはこういうことなのだろう。
そうこうしているうちに、気がつくと本選考の時期が到来した。最終的に50社くらいはエントリーしたと思うが、全落ちした。
就活対策の本を立ち読みしたが、内容のバカバカしさに呆れて買うこともしなかった。ここで変な意地を張らずに素直に買って、その内容を再現できていれば結果は変わったのだろうか。正直そうは思えないが。
他にも面接対策をやっているサークルの一室を訪れようとしたが、室内の華々しさに気圧されて扉の前で踵を返してしまった。
あんな楽しそうに就活に臨んでいる人々はどうせ碌な結果を得られないのだと自分に言い聞かせて帰路についた。
無職で世に放たれるよりは学生の身分があった方がいいとの計らいだった。多分留年を繰り返していた彼も、同じような配慮で留年を続けていたのだと思う。本当に有り難かった。
結局、面白くもないyoutubeを観ていただけの1年だったと思う。観ていた動画の内容すら思い出せない。
勉強だけは出来たのだから、学業で勝負するのが自分にとって最適な戦略だと今更思い至った。
予備校に通い勉強をしていた。数年振りに自分の得意分野で勝負ができて、純粋に楽しかったことを覚えている。
筆記試験には合格したが、その後の面接(厳密にはこれも試験という名前ではある)で落ちた。
周りを見るに自分と同程度にはコミュニケーション能力が疑わしい者も散見された。少なくとも就活の面接では考えられないほどにレベルは低かったと思う。それでもダメだった。
いよいよ俺に出来ることはないんだろうなと深く絶望した。
無職の悪いところだが、時間だけは無限に持て余しているせいで、絶望的な場面が何度もリフレインしてしまう。
あの時こうしていたら…という後悔があまりに多すぎる。
どこが俺の人生の岐路だったのだろうか。
どうしていれば俺はこうならずに済んだのだろうか。
1年引きこもってもその答えは出せずにいる。
何度考えても、命を絶つ他にないんだろうなとは思うのだけれど、それにしたってどの選択を取っても両親に多大なる迷惑をかけるんだと思うと踏み切れない。
ここまで育ててくれて、何も言わずに無償の愛を注いでくれた両親に、最期に出来ることは何かないだろうか。
こう振り返ってみても、本当に家庭環境も含め、両親には恵まれた人間だと想う。だからこそ、その結果がこのザマで本当に情けなく、申し訳ない。
せめて迷惑だけはかけずに、ただ俺1人だけが苦しむだけで済むような方法を取りたいとは考えているが、それすら踏み出せないのかもしれない。
ここまで読んでくれて本当にありがとう。
ご想像の通り俺に友達なんてものは1人たりとも居ないし、今まで生きてきた人生も、今まで抱いた感情も誰にも共有できず、誰の記憶にも残らずに終わったんだと思う。
その意味で、誰か1人でもこれを読んで、誰かの記憶に少しでも残ることができたかなと思うだけで、なんとなく心が軽くなった気がする。
第五人格の現場には何度も行っていて、大会場も小会場も慣れていた。一部人気チームがあるとはいえ、落選祭みたいな話は聞いたことがなく、狭い界隈だから細かい云々かんぬんはあるとはいえ平和だったと思う。
それが、今季に入って全落という声がちらほら聞こえるようになった。
そもそも会場のキャパが狭いので倍率が高いのはわかる。それもチケットが安い。一日通して4000円ちょっと。この円高で何故か値上げしない。席がクソとはいえ、eスポーツの臨場感が知れて、推しチームが多ければ多いほど会いに行ける感覚になり、ゲーム自体もスポーツ性が見出しやすく、ファングッズも持ちやすい。選手はTwitterや配信もこまめで身近に感じられる。とても魅力的な現場が、1日通して4000円。だんだん多くの人に知られてしまったのがいけなかったのか、なんなのか。
黎明期から支えてきたような古参は追い出されて、軽い気持ちで応募した新規がぽっと入るような場所になってしまった。第五人格そのものをしている、好き、そういう人が入るなら全然理解できるし、嬉しい。でも第五人格そのものもやってない、ルールも知らない、ライブ感を味わいたいだけ、メセボ持ちたいだけ、うまくいけば選手とコミュニケーションできるから…そんな層が行くようになりつつある。もちろんそういう人は、一部の人気チームが見れたら帰ってしまうことが多い。 通し権だから途中帰宅するとそこは空席になる。でもその空席に座りたかった原作ファン、ゲームプレイヤー、チームのファンの人は大勢いる。
チケットを購入したのだから、途中で帰る権利がある。そう主張したくなるのもわかる。でも行きたい人が行けない現場になってしまってるのだから、途中で帰るくらいなら申し込まないでほしい。
転職エージェントとも度々話しながら進めてきたが、ここまでこのザマである。
どこに行っても狼煙が立ち上がっていた。
そして現在、また就職活動をしているが、どこからも火の手の匂いしかしない。
そういう求人しかないからなのか分からないが、転職エージェントの紹介を受けて面接をする先はどこも煙臭い。
そうこうしていると、面接でも気が入らない返答が出てしまうものである。
「うちに入って何がしたいの?」
と言われて返答に窮して自分自身に働く気がないことに気づいた。
ここで働く気がある人間なら、「何でもします」だの「~がしたいです」だの「すぐに戦力になれるよう精進します」だの気の利いた言葉が口から出るものだろう。
どうにも嘘をつくのが苦手な性分もあって、この辺りは上手くやれない。
残業で溜まった金を垂れ流しながら、毎日朝日を浴びてゴミを出し、食事を3食作って、呑気にAstroやらFlutterやら気になったものを摘まんではデプロイするでもなくrm -rfして、時々ゲームをしたりして寝っ転がる日々。
この時間が一番心地よいのだと気付くと、どうにも働く気概も起きない。
甲斐甲斐しく働いてやりたいことも、見たい笑顔も、住みたい場所もない。
それでも、働きたくない自分がいる。
僕はマッチングを控えた地方医学部6回生である。最近の動向からおすすめの医学部を受験生の皆さんに紹介したいと思う。簡単に言えば、私立でも良いから都市部の医学部を目指すべきだということである。特に首都圏の医学部(医科歯科、千葉、横市、慶応、慈恵、順天など)を強く勧める。
近年のマッチング(初期研修先を決める就活のこと)では、首都圏の人気が非常に高くなっており、東京の市中病院では6、7箇所受けても全落ちすることが珍しくないのである。また初期研修後は大半の人が後期研修へ進むのだが、マイナー科(皮膚科、眼科、精神科、放射線科など)の人気が非常に高く、これもまた首都圏では年々競争が激しくなっている。シーリングと言って毎年都道府県ごとにマイナー科に進める医師の数が限られているのだ。僕の聞いた話では、地方大卒で地元の県で初期研修をしていた女性研修医が、東京の皮膚科への入局を希望したところ、全ての医局から断られたそうである。彼女は優秀で真面目な雰囲気だったのだが。
受験生には恐らく東北大といった地方旧帝大が魅力的に映るのかもしれない。しかし、マッチングや入局で明らかに人気のあるのは首都圏である。医学生として地方で過ごしていくうちに考えが変わる人が多いのである。特に、関連病院が首都圏に集中している医局が人気である。
以上のことより、受験生にはどうか首都圏の医学部に入り、将来を見据えて行動してほしい。マッチングや入局は情報戦であり、関東の大学が圧倒的に有利である。
30代の一人息子。真面目でおとなしいのだが、不器用で要領が悪かった。
小学生時代、放課後の公園で何度練習しても逆上がりができず、家でどれだけ練習しても二重跳びはできなかった。中学受験では塾の仲良しグループで唯一全落ちしてしまった。
それでも進んだ区立中では楽しく過ごしていたし、高校受験では所謂名門都立高校に進んだ。しかし、大学受験では再び挫折。浪人したものの国立に落ち早慶に進んだ。国家公務員志望から法曹志望に切り替え、予備校に通い一生懸命やっていたようだが予備試験には受からず、法科大学院修了後も司法試験に受からなかった。
3回目の司法試験の際に初めて短答試験に合格し、私や夫が心配するくらい勉強して論文に挑んだが、残念ながら不合格だった。リビングの椅子の上で不合格を知った息子は一点を見つめて呆然としていたが、突然エビのようにビタン!と勢いよく跳ね、そのまま床にうずくまって歯軋りを始めた。私が声をかけても反応せず、そのまま奇声を上げて気絶してしまった。
それから息子は二日ほど部屋に篭っていた。三日目の朝にリビングに降りてくると「司法試験は諦めて就職する」と言ってきた。
息子は企業の法務部で働き始めた。職場環境は良かったようで本人も楽しそうにしており、私や夫は安心していた。社会人になって以来、息子は帰宅が遅くなり、休日の土日も殆ど家を空けるようになっていたが、忙しいのかと思い気に留めていなかった。
社会人になってから3年ほど経ったある日、息子から自身が主催しているセミナーを手伝うように頼まれた。夫も休日だったため、よくわからないまま二人で会場に赴いた。すると、先に集まっていた人々から「先生のご両親ですか?」と聞かれた。そうだと答えると突然周りが慌ただしくなり、恭しく部屋に控え室に通され、ソファの上でお茶やお菓子を出された。そして、みんなから口々に息子の凄さを聞かされた。「先生のおかげで人生が変わった」、「先生のおかげで世の中の構造が見えるようになった」、「先生のおかげで人生に意味を見出せた」というように。
息子が遅れて控え室に入ると、私たちの周りに集まっていた人々は一斉に息子を囲み、また口々に挨拶と賛辞を繰り返した。息子はそれをあしらい、準備をする様に言うとみんな解散していった。息子から「今日のセミナーの終わりに会場の外で本を売るから、レジをやって購入した人に僕の両親だと言って挨拶や握手をして欲しい」と言われた。
時間になり会場に人が集まってきた。私と夫は後ろから立ち見していたが、来場数は100人ほどで若いカップル、小さな子供を連れた若い女性、私たちと同じ中年の男性、80過ぎの女性など年齢層はバラバラだった。息子が登壇すると、ある人は勢いよく拍手し、ある人は「先生!」と勢いよく叫び、ある人は立ち上がってお辞儀した。息子が話し始めると場が静まり返った。話してる内容は陰謀論だった。息子曰く、世界を支配しているのはビルダーバーグ会議で、日本はビルダーバーグ会議の意向を受けた日米合同委員会が支配している。みんなから事前に集めた悩みを発表し、その悩みの根本原因にはビルダーバーグ会議と日米合同委員会があり、自分は愛と真実によってこれらから世界を解放するのだという。
正直聞いていて呆れてしまった。息子はオカルト話と陰謀論を混ぜこぜにしたような話を披露し、来場者はそれを真面目な顔して聞く。
息子が一通り話し終えると控え室にいた女性が登壇し、「これまでの先生の指導集がいよいよ完成しました。ご希望の方は会場の外の物販コーナーにてお求めください」と言いお開きとなった。来場者はすぐに外には出ず、息子の元へ行列を作って何かを質問したり相談していた。
私と夫は控え室にいた別の男性に案内され物販コーナーに立った。先程女性が紹介した息子の指導集が並んでいたが、なんと文庫本サイズで発言と日時がまとめられただけのものが一冊25000円である。会場から出てきた人々は今度は物販コーナーに列を作り、老若男女迷うことなく購入していった。そして私と夫に握手を求め、息子を讃美した。ある年配の女性からは涙を流してお礼をされた。全てを売り尽くし、私と夫はよくわからないまま帰宅した。
息子が知らない間に教祖になっていた。
今日は、我が家の子どもが中学受験が終わり、中学生になる日だ。なんとなく心の整理がついたので、日記を書こうと思う。正直言って、今回の受験はかなりハードだった。中学受験の人口が増えて、いわゆるボリュームゾーンの受験は厳しかった。知り合いには全落ちするケースもあったようだが、それは親の戦略ミスだろうと思う。子どもがかわいそうだ。
我が家の子どもも、第一志望の学校には合格できなかったが、妻が気に入っていた学校には入学できた。最低限、MARCHへの進学はできるだろう。親としては、学歴を子どもに送ってあげることが義務であると思う。ただ、私自身は、学歴だけが全てではないと考えている。子どもが将来、肉体労働になることになっても、それを応援したいと思っている。価値観は多様だからだ。ただ、子どもには、選択肢を広げておいてもらいたいと思っている。
今回の受験で、子どもたちにはたくさんのストレスがかかったことだろう。その分、私たち親も大変だった。しかし、これで終わりではない。これからも、子どもたちが成長する過程を見守り、必要なサポートをしていくつもりだ。
突然ですが大学を一度でも受験した方にお聞きします。あなたは何故、大学を受験しましたか?なんのために受験しましたか?それは自分がやりたいことのため、自分が学びたいことのため、あるいは自分が将来就きたい職業のため、色々あると思いますし、きっとそのほとんどが自分のためでしょう。
さて、私はここ2,3ヶ月、現役の受験生として多くの医学部を受けさせられてきました。結果もほとんど判明しており、0勝13敗という散々たる結果でした。何故落ちてしまったのかの理由ははっきりしており、演習不足の点と共通テストで8割ほどしか取れなかった点にあると考えています。それ以外の理由として、私が心から医学部に行きたいと考えていなかったという点にあると思います。
私の医学部受験の始まりは今から9年前、中学受験のための勉強が始まったときのことです。当時小学4年生だった私は、中学受験について全くの無知でした。また私は超がつくほどの田舎で、自分の市には中高一貫校がなく、県内にも4校ほどしかないようなところで育ったため、中学受験対策塾や周りにも中学受験をする人がいない環境で育ちました。そんな環境で、何故中学受験を、しかも関西の最難関校を受けることになったのか。それは、私の父です。父は関西出身で、小学生の時に中学受験に失敗しています。私の父はいつも「世の中は金」「金を得るためには学歴が必要」「中高一貫校を出て医者になれ」「公立はクソ」「医者以外は人じゃない」とよく私に言い聞かせてきました。それもあってか、私は父に半ば強制される形で中学受験をすることになりました。しかし、市内には塾がなく、また父も金持ちというほどお金を持ってないらしかったため、勉強については父から教えてもらいました。私の父は口が悪く、問題を間違える度に暴言を吐き、時には私を殴ったり叩いたりしてきました。間違える自分が悪いのですが、やはり辛く、小学生ながらよく自殺未遂を起こしていました。またこのような教育体制を取る父に対し、母は反対しており、毎日喧嘩をしていました。また、両親共働きでもあったため、母の帰りが遅いと父は母の職場によく電話で怒鳴り散らしてました。今思えば物覚えの悪い私と、父とは違って要領が悪く、父ほど賢くはない母にストレスを感じていたんだと思います。
それから3年後、私は第一志望であったかつて父が落ちた中学に合格してしまいました。このことおいて、私は父に感謝しており、また自分も嬉しかったです。しかし、本当の戦いはこれからでした。人は突然自由を手に入れるとろくなことを起こしません。
私は中学校に入ってから挫折を覚えました。周りには自分より賢い人、自分でこの学校に行きたいと思って頑張ってきた人がたくさんいて、圧倒されました。自分はなんのために勉強しているのか、勉強してもこの人達には勝てない、色々思うことがありました。学校の中で私は中の下で、賢い方ではありませんでした。自分ではなんとかしようと考えており、時には友達の力も借りて、勉強したつもりでした。でも、つもりはつもりだったのです。
学年が上がるに連れ、周りは大学や学部志望を決め始めました。私は父の言いつけのもと、もちろん医学部を目指すことを決め、引き続き勉強ごっこをしていました。しかし、本当にその学部に行きたい人たちはどんどん賢くなっていきます。「やりたい」という思いは、自分のそれを大きく凌駕し、私はどんどん抜かされて行きました。そんな状況下で父は私の成績状況に不満を言うだけでした。時には周りの医学部以外を志望する私の友達を馬鹿にすることもありました。自分を馬鹿にされるのはなれていましたが、友達をバカにされることはとてもとてもつらかったです。でも反抗すると碌な目に遭わないので、私は同調するだけでした。
私は成績状況を打破するべく、塾に通うことにしました。入塾テストは1回目は落ちたものの、2回目は友達の力を借りて受かることができました。その塾は、学校にいる人よりも賢い人達が多く、自分の井の中の蛙感がより増す結果となりました。しかし、その中でも、大量の宿題とレベルの高い授業についていき、成績はなんとか現状維持することができました。
朝5時半に起きて、6時に家を出て、2時間電車に乗って、学校で授業を受け、1時間かけて塾に行き、3時間授業を受け、1時間かけて帰り、宿題をして、2時半には寝る。こういう生活を2年続けました。そこにはこれだけやったら流石に受かるだろうという慢心もあったと思います。
話は飛んで、受験期に入ります。私は父に言われた通りの大学を受けました。父は「お前が行きたいところに行け」とよく言いましたが、半ば強制されていました。年内に2校受験し、両方落ち、共通テストを受けました。そこから毎週末に試験が入るというとんでも受験が始まりました。1週間で赤本6年をこなし、受ける。こんな生活が続きました。ときには連日受験ということもあり、死にそうでした。
最初にも述べた通り、結果は全落ち、当然の結果でした。私は13回不合格を見た影響でメンタルがぶっ壊れ、暴言や暴力を振るうようになってしまいました。反省しています。こんな状況でも父は冷たく、はじめは「受験は何があるかわからない。最後まで戦うこと」と鼓舞していましたが、「すべて親のミスでした。自由にしたらいいよ」「好きに生きろ」「お前が決めたことだからお前に責任がある」「受からなかったお前が悪い」と完全に突き放しました。
最後の不合格発表があったその日、父は1つのメールを送ってきました。タイトルは「浪人同意書」。内容は至極真っ当のことが書かれており、落ち着いてみると納得行くところもありました。でも、ボロボロになった僕にはとても堪えるものでした。父は本当に人間なのか、感情があるのか。どんな不合格よりも辛かったです。その後、父は私の前に現れ「お前には医学部は無理やった」と言って消えました。
父の敷いたレールから初めて自分が脱線してしまった瞬間でした。
私は理系の大学4年生、あとは卒論の発表を残すのみとなった。院進しないで就職してしまうからあと2ヶ月弱で16年間の学生生活が終わってしまう。
中高時代は割と勉強が得意だった。というより、中高レベルのテストで点数を取るのが得意だったと表現する方が正しいかもしれない。授業は数学以外ほとんど寝ていたし、週6で部活をして家に帰ったらすぐ寝てしまうみたいな生活だった。でもテスト前に1週間くらい勉強すれば点数は取れたし、その勉強だけで模試とかでも普通にトップレベルの成績が取れていた。高2くらいからは、受験を意識した勉強を学校の前とか部活の後にするようになって、2年生が終わる頃は周りに抜かれなければ第一志望受かるって確信できた。
で、受かった。根っからの体育会系人間だから大学でもちゃんとした部活に入った。それが楽しすぎて、本当に全く勉強しなくなった。1年生の時は、対面授業で必修も多いから一応出席ある授業には出ていたんだけど、授業中はずっと練習のビデオを見たり試合を見たりしていた。理系だからレポートよりテストの科目が多くて、高校時代のノリで大学最初のテストを受けた。惨敗した。線型も微積も物理もちんぷんかんぷんだった。高校までの蓄積でなんとか単位は取れたんだけど、1年前期にして点数が低すぎて人気学科への進学不可が確定した。後期も同じような感じで乗り切り、何に憧れてこの大学入ったんだと思うようになった。
2年になるとコロナでオンライン授業が始まった。他にすることもないから授業はちゃんと受けるようになって、テスト前も勉強するようにした(ちなみにテストもzoom繋いだオンライン形式で、不正行為を防ぐために色々な方法が取られていた)。そしたら割といい成績がとれて、まあ勉強すれば点数取れるよなって気持ちになった。だけど夏休みはもちろん一切勉強しなかった。後期からは授業は相変わらずオンラインだったけど、部活も再開して毎日忙しくなった。この頃にはオンライン授業にも慣れてきて、とりあえずpcは開くけどzoomは聞き流して他の作業をするようになっていた。学科の試験はレポート形式が多かったから、とりあえず授業の資料だけちゃんとダウンロードしておいて、提出ギリギリで書き上げるみたいな感じだった。
3年も実験が始まっただけであとは2年の後期と変わらなかった。去年1年間でデータも蓄積されていたから、楽そうな授業を選んで受講して卒業単位数を確保することに勤しんだ。院進するか就職するか悩んでいて、別にメーカーに入りたいわけでもないし勉強もしたくないしとりあえず就活を始めた。夏のインターンは自分の実力試しに外銀受けたけど、グループ面接で他の学生に圧倒されて、自分やばいんじゃねと焦った。もちろん全落ちで、日系の数社インターン参加して夏は終わった。焦ったからといって模擬面接とかESの添削とかは一切しなくて、就活対策なるものは結局最後まで一度もすることはなかった。秋冬は日系の入りたい会社を何社か受けて第一志望群からインターンを評価されて内定もらえて、4年は部活に集中したかったから、4年に学年が変わる前に終活した。そして院進はしないことにした。
4年はマジで部活以外の時間が暇すぎて大変だった。授業もないし就活もないし院試もないし研究室もそこまで忙しくないから、部活とトレーニングだけやる毎日。入社前に差をつけるために勉強するかとも思ったけど、どうせ自分が入る会社に優秀な奴はいないだろうし、何より面倒くさかったから特に何もしなかった。あと、部活に一点集中しすぎてしまって他の世界を見れていなかったんだろう。とにかく部活で結果を出すことにこだわった。だけど結局部活では結果を出せなかった。
部活も終えて卒論もひと段落して思うことは、もっと真面目に勉強しておくべきだったなということだ。中高大の10年間、常に部活を言い訳にして勉強から逃げてきた。大学に入ってからはテスト前すら勉強しなくなってしまい、どんどん頭は衰えた。貴重な18-22歳という時間で脳に刺激をほとんど与えず、何も思考することのできないバカを生成してしまった。やってしまった。今から勉強しようと思っても、体が勉強をしないことに慣れてしまったから机に向き合うことができない。社会人になってからも仕事が忙しいからって言って何も勉強しないんだろうね。仕事もハードな知的労働に比べて忙しくもないくせに。そうやって無価値な人間が出来上がるんだ。
これから先の人生、大学の4年間で開いてしまった差は広がる一方なんだろう。高校や大学の同期がどんどん世界に羽ばたき活躍しているのを見て悲しくなるのがもう目に見えている。
大学受験は三年浪人した末にようやく受かった。キツかったよ。祖母、母、俺の3人家族で余裕無いから予備校も行けないし。現役、一浪、二浪と3年連続全落ちで、その間にお婆ちゃんは俺の心配したまま死んじゃうし。でも三浪目で東大文一、早稲田法、慶應法法全部受かったのよ。あの時は、俺の人生始まったな、って思ってた。
でも無理だったわ。通学に2時間半かかるから往復の電車で勉強したり、土日も地元の図書館行って勉強してたんだけど、遊んでたとかじゃなく普通に勉強についていけなくて単位落としまくった。電車もよく止まるし、寝過ごして電車が反対方向に向かってる時に目覚ましてもう授業終わってたりとかした。コミュ障だから友達もいない。なんとか法学部には進めたけど、本郷来てからはいよいよダメだった。そんで今3年留年。ようやく卒業は出来そうだけど就活は全滅でさ。焦って母親に「大手じゃないけどなんとか内定貰えた」って嘘ついたら大喜びしちゃってさ。
もう死ぬしかないのはわかってるんだけど、やっぱ怖いわ。生きていくのは無理なのに死ぬのも怖い。今泣きながら途中駅の公園で弁当食べてる。
普通に生きることはできないけど、普通じゃなく生きることもできない。
小学校のころは、いつもクラスで一番賢かった。本当はそうではなかったかもしれないけど、少なくともセルフイメージはそうだった。誰よりも本を読み、おばあちゃんからはいつも「〇〇ちゃんが賢いのは本をよく読むからだね」と言われた。
発言するのが好きだった。その割に学級委員などをしたことがなかったのは、人望が無かったからだ。正義感も強く、ただ時々パニックになって泣き出したり起こりだすことがあった。大体ちびまる子ちゃんの前田さんを想像してもらえればいい。正義感が迷惑な方向に強い子。自分の思い通りにならない世界が気に入らない子供。
神童と呼ばれた(主におばあちゃんから)私は母に進められて中学受験をした。勉強は少しもしなかったけど、模試でA判定以外を取ることはなかった。難なく合格し、通い始めた矢先、課題が終わらずに不登校になった。
休みがちになった秋、親からスマホを買ってもらった。それまでは3DSでインターネットをしていた。いつもエロい知恵袋の質問や、まとめサイトを見ていた。スマホを買ってもらってからは、ツイッターと2ちゃんにのめり込んだ。ツイッターは今も続けているが、今に至るまで特定の友人どころかコミュニティに所属するということが、インターネット上ですらできずにいる。
同じ秋、所属していた部活のライングループに、エロ画像を誤爆した。ますます学校に行きづらくなり、挨拶もせず部活を辞めた。
不登校でもエレベーター式に高校生になれてしまった。単位制のため出席しないと卒業ができない。私は頑張って学校に行った。高2までギリギリで単位を取ったが、高認の存在を知って通学をやめた。本当は理系に行きたかった。忙しいからと親から文系を勧められて、結局文学部に行った。この選択が合っていたのか間違っていたのか、今となってはわからない。
出席日数はギリギリでも、高校に入って勉強を始めた私は中学の頃は酷かった成績が、上位20%程度をキープするようになった。学校に行かないでこれなら何でみんな学校なんか行くんだろう、間抜けめwと、内心私は天狗だった。しかし逆だ。クラスメイトの顔を覚えず、交流しようという気もなく、家でテスト勉強だけしてていいなら誰だってその程度の成績は取れる。
私は良い気になっていたが同時に辛かった。どうして自分は普通みたいに楽しいJK生活を送れないのだろうと思った。中学生のオタクが皆そうであるように、オタクの友達なら私にも数人いたが、一人はいつの間にか学校を辞め、何人かはCP違いで喧嘩になり(というか私が一方的に攻撃し、当然縁を切られた)、何人かは私が約束をドタキャンするなどの不義理を重ねたため、話しかけて来なくなった。
どうして普通にできないんだろう、どうして私に楽しいことは何も無いんだろうと思った。担任の勧めでバイトを始めた。短期の品出し。お金をもらえるというのが嬉しかった。対等に評価される。私以外のバイトはみんなでラーメンを食べに行ったりしていたが、私は一度も行かなかった。それでも、自己啓発本を読むのが趣味だという大学生と話したり、専門学生のお姉さんに「メイクしないの?」と聞かれたり、他校の男の子の「卒業したら髪を赤に染めたいが、バイトは続けたいから毎日黒染めスプレーをする」という馬鹿げた計画を聞いたりするのは楽しかった。ほんの少しでも社会と関われている実感があって、確かにそうだった、と思う。
友達はできなかったが、生きていけるという自信はついた。ノー勉で高認を取得し、センターを受け、思ったよりも点が良かったので、国立大学を受け、受かった。思えば、この時が一番楽しかった。
話は飛んで私は大学生になる。大学は心地がよかった。一人でもそんなに浮かない。文学部の評価はほとんどがレポートだから、過去問がなくても単位が取れるし、中高を反省した私は、頑張ってなんとか講義を休まないようにした。
それでも6年間の癖は抜けず、授業を寝過ごし、サボり、単位は落としたし、レポートの締め切りを勘違いしたり、必要な事務手続きを怠ったりして苦労したが、なんとか見かけだけは論文に見えないこともないボロボロの卒論を出し、私は卒業した。
専攻の人数は少なく、みな友人同士だった。私だけがその誰とも仲良くなかった。挨拶をすれば仲良くなれるというネットの記事を鵜呑みして半年間毎週挨拶だけしていたオタクっぽい女の子たちも、学期が終わると他人同士になった。
卒業式には行かなかった。
私は公務員試験を受けたが、筆記は受かるのに、面接は全部ダメだった。
大学に行けばなんとかなると思ったが、ならなかった。どうやって生きていけばいいのかわからない。私は自分が頭がいいと思っていたが、どうやらそうじゃないらしい。
世間の普通に当てはまることができないとずっと悩んでいたけど、大学に入ってから、世間の普通に当てはまらない人をたくさんみた。大学院でラカンの研究をしている人、アーティストとしても活動する非常勤講師、批評家、作家。
私はなんとなく自分が作家になると思っていた。昔から国語が得意だったし、私は世間の普通とちょっと違うから。
でも、大学に行って、どういう人がそうなるのかを知った。書く前から私は何かになることを諦めた。それに、これを読んだ人ならわかるだろうけど、私は決して文章が上手くない。現代文の偏差値は、果たして何を図っていたのか、私にはわからない。
でも編集者は忙しそうだから辞めた。コミュニケーション能力がいるらしいし。私にはもっと地味な仕事が向いてる。
どうすればいいんだろう。
自分語りが強いところも許してほしい
傍から見ればすごいことなのかもしれないが俺は素直にそうは思えなかった。
なのにそいつは現役でうちの大学に来て、遊んで彼女まで作って勉強してるそぶりはあまりなかったのに仮面に成功していた。
うちの高校は自称進学校ってやつで年に5人くらい早慶が出るって感じだった。(そう考えると自称進学校としては微妙かもしれない)
俺は現役の時にニッコマレベルに受かったが、仲のいい友達がみんなMARCHに行ったもんだから悔しくて浪人した。
明らかに俺よりも勉強してないやつがMARCHに行ったりしていた。それも悔しかった。
一年と100万以上をつぎ込んで駿台で浪人して結局現役で受かった大学と偏差値は5しかかわらない成成明学にいった。
ほんとに一年間真剣にやったし、遊んだのは模試のあとくらいなもんで、それ以外は開館から閉館までいる毎日だった。
ストーリーに「課題が終わらない」とあげているMARCHのやつと本気で代わってやりたいと思った。金払ってでもいいからその課題やらせろ。そのかわりMARCH行かせてくれって
模試もある程度うまくいっていたし、MARCHくらい受かるだろうと思っていた。なんなら早慶もワンちゃんみたいな
一年間みてくれた社員の人にも「正直もうちょっと受かると思ってた」と言われた
「努力は必ず報われる」って言葉をどこか信じていたが、そんなのは所詮成功者が言っているだけの話なのだと気が付いた。
もちろん落ちた原因はあったし、今思えばあそこをああすればよかったなって思うとこもある。勉強は量と同じくらい質が大切だということも知っている。
普段、俺の決断に干渉してこない父に「二浪はやめとけ」と言われた。
まあそんな気力はなかった
お笑いの賞レースで決勝まで行ったけど優勝できなかった芸人が「優勝できなくて悔しいというよりも、もう一年予選から勝ち上がる大変さを考えると絶望する。」と言っていた。
まさにそんな感じだった。
コロナではあったが友達もできたりして楽しくは生活を送っていた。
人間えいらいもんで時が過ぎることで少しずつ浪人の失敗の悔しさなんか忘れてしまっていた。
いつも行動を共にする友達の一人がその仮面浪人に成功した彼だった。
夏くらいだったか、一人暮らしをしている家に行くと新しい赤本があった。
親から送られてきたと言っていたが一応受けるつもりらしい。
その時から嫌な予感はしていた。「意外とこーゆー奴が受かっていくんだよなぁ」って
けれど大学の授業にもそこそこ来ていたし、単位もある程度取っていた。
彼女作ったり、バイトしたり、遊んだり、一人暮らしだから監視されてるわけでもないし、本気で勉強しているようには見えなかった
年が明けても遊んでいるストーリーがインスタに上がったりしていて、仲間内では「受けないんじゃね」って言いわれてた。(なんとなくみんな本人には聞けなかった)
けれどこの間、MARCHに受かってそっちに入りなおすって告げられた。
何とも言えない気持ちだった。俺が金と時間をつぎ込んで頑張った一年間は何だったのか。
別に彼が悪いわけではないが、行き場のない怒りというか表現できない気持ちだった。
おめでとうとは言えなかった。
よく推薦で受かったやつを下に見る風潮があるけれど要するに
「自分はこんなにつらいを思いをしたのに何であいつはあんな楽に入学できるんだ」
っていう感情だと思う。
大学の授業で、人は他人の結果に対するそれ相応の努力が見られないときに、頭の中で合理性が取れないからそれを才能や不正と認定するっていう話を聞いた気がする。
人って努力量に対する成果が正当に支払われることを願っている気がするけど、現実ってそんな甘くないって気づかされた。