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2021-09-05

夢日記

場所小学校教室だった。

周りには大学友達高校同級生など、様々な時代の知り合いが一つの教室で何かを話していた。

そして、何かの話し合いが始まった。私は隣に座っていた人に、何かをずっと話しかけられていた。

話を聞いているうちに眠くなってきたので、私はトイレに向かった。トイレで用を足し、教室へ戻ろうとしたが、その途中で他の教室の人たちにやたらと見られて恥ずかしかった。

2021-09-02

こんなプログラミング教室は嫌だ

あるプログラミング教室に通わないと大企業就職できない。

大企業からすると、履歴書面接スキルを把握する必要があり、リスクがある。

プログラミング教室には数ヶ月通うので、そこでスキルの把握ができる。

大企業からプログラミング教室へは、自社で本来行う入社教育などを受講生に教えるよう依頼しておく。

大企業は合わない人を雇うリスクが減る。

80万払えば大企業就職できる、100万払えば、・・・と受講料をドンドン値上げすることができる。

2021-07-21

anond:20210721005313

小学生のころ、集団登校というものがあった。

特に仲良くもない同じ地域に住んでいるだけの子供たちが同じ場所に集まって、

交通安全意識づけや1年生が道を覚えるために一緒に登校する。

特に話をするでもなく、ただ歩いて、肛門まで着いたらそこで別れる。

肛門を通ったら、集団登校の班だったものが崩れて、何の関係もないようにそれぞれの教室へと向かっていく。

家族でも友達でもクラスメイトでもないそんな関係不思議だったのを覚えている。

2021-07-15

<要>経過観察案件

ケンカ原因で「教室出禁元中学生足立区提訴「授業を受ける権利、奪われた」|弁護士ドットコムニュース https://www.bengo4.com/c_18/n_13286/

ーー以下、記事より転記ーー

区側は「中学校に入ることは何ら差し支えないこと、生徒指導根拠教育上の生徒指導生活指導の一環であることなどを繰り返し回答した」などと反論している。

また、「自発的謝罪の意を示すことができるまでは原告所属教室で授業を受けることを認めない方針としていたのであり、教室への入室を一切認めなかったものではない」としている。

そのうえで、教育を受ける権利侵害しておらず、今回の生徒指導は「趣旨目的に比して原告に過大な制約が課されていたことはない」として、適法だったとしている。

裁判所は一度、和解提案したが、誠一郎さん側は拒否した。

和解案で、学校教育委員会が謝罪する場を設けるという話がでました。そもそも謝罪とは何か。息子の1年間は何だったのでしょうか。中学校の思い出の三分の一は校門の前ですよ」(誠一郎さんの父)

誠一郎さんも判決での決着を望んでいる。

自分が手を出したのは悪かったけど、それ以外のことは悪いことをしていないと思っています裁判で、学校が悪かったと判断してもらいたいです」(誠一郎さん)

ーー以上、記事より転記ーー

2021-04-11

風野又三郎

宮沢賢治


   九月一日

 どっどどどどうど どどうど どどう、

 ああまいざくろも吹きとばせ

 すっぱいざくろもふきとばせ

 どっどどどどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな四角な学校がありました。

 学校といっても入口とあとはガラス窓の三つついた教室ひとつあるきりでほかには溜たまり教員室もなく運動場はテニスコートのくらいでした。

 先生はたった一人で、五つの級を教えるのでした。それはみんなでちょうど二十人になるのです。三年生はひとりもありません。

 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかに誰たれも来ていないのを見て

「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫さけびながら大悦おおよろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。がひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけはそのしんとした朝の教室なかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪かみの子供がひとり一番前の机にちゃんと座すわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり眼めをりんと張ってそっちの方をにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から

ちゃうはあぶどり、ちゃうはあぶどり」と高く叫ぶ声がしてそれからいなずまのように嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから太郎だの耕助だのどやどややってきました。

「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩かたをつかまえて云いいました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛おかしな子がすましてしゃんとすわっているのが目につきました。みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集って来ましたが誰も何とも云えませんでした。赤毛の子どもは一向こわがる風もなくやっぱりじっと座っています。すると六年生の一郎が来ました。一郎はまるで坑夫こうふのようにゆっくり大股おおまたにやってきて、みんなを見て「何なした」とききました。みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指しました。一郎はしばらくそっちを見ていましたがやがて鞄かばんをしっかりかかえてさっさと窓の下へ行きました。みんなもすっかり元気になってついて行きました。

「誰たれだ、時間にならなぃに教室はいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して云いました。

先生にうんと叱しからえるぞ。」窓の下の耕助が云いました。

「叱らえでもおら知らなぃよ。」嘉助が云いました。

「早ぐ出はって来、出はって来。」一郎が云いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなの方を見るばかりでやっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛こしかけに座っていました。

 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこな鼠ねずみいろのマントを着て水晶すいしょうかガラスか、とにかくきれいなすきとおった沓くつをはいていました。それに顔と云ったら、まるで熟した苹果りんごのよう殊ことに眼はまん円でまっくろなのでした。一向語ことばが通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

外国人だな。」「学校さ入るのだな。」みんなはがやがやがやがや云いました。ところが五年生の嘉助がいきなり

「ああ、三年生さ入るのだ。」と叫びましたので

「ああ、そうだ。」と小さいこどもらは思いましたが一郎はだまってくびをまげました。

 変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけきちんと腰掛けています。ところがおかしいことは、先生がいつものキラキラ光る呼子笛ぶえを持っていきなり出入口から出て来られたのです。そしてわらって

「みなさんお早う。どなたも元気ですね。」と云いながら笛を口にあててピル※(小書き片仮名ル、1-6-92)と吹ふきました。そこでみんなはきちんと運動場に整列しました。

「気を付けっ」

 みんな気を付けをしました。けれども誰の眼もみんな教室の中の変な子に向いていました。先生も何があるのかと思ったらしく、ちょっとしろを振ふり向いて見ましたが、なあになんでもないという風でまたこっちを向いて

「右ぃおいっ」と号令をかけました。ところがおかし子どもはやっぱりちゃんとこしかけたままきろきろこっちを見ています。みんなはそれから番号をかけて右向けをして順に入口からはいりましたが、その間中も変な子供は少し額に皺しわを寄せて〔以下原稿数枚なし〕

と一郎が一番うしろからまりさわぐものを一人ずつ叱りました。みんなはしんとなりました。

「みなさん休み面白おもしろかったね。朝から水泳ぎもできたし林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだりまた兄さんの草刈くさかりについて行ったりした。それはほんとうにいいことです。けれどもも休みは終りました。これからは秋です。むかしから秋は一番勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんも今日から又またしっかり勉強しましょう。みなさんは休み中でいちばん面白かったことは何ですか。」

先生。」と四年生の悦治が手をあげました。

はい。」

先生さっきたの人あ何だったべす。」

 先生はしばらくおかしな顔をして

「さっきの人……」

「さっきたの髪の赤いわらすだんす。」みんなもどっと叫びました。

先生髪のまっ赤なおかしなやづだったんす。」

マント着てたで。」

「笛鳴らなぃに教室はいってたぞ。」

 先生は困って

「一人ずつ云うのです。髪の赤い人がここに居たのですか。」

「そうです、先生。」〔以下原稿数枚なし〕

の山にのぼってよくそこらを見ておいでなさい。それからあしたは道具をもってくるのです。それではここまで。」と先生は云いました。みんなもうあの山の上ばかり見ていたのです。

「気を付けっ。」一郎が叫びました。「礼っ。」みんなおじぎをするや否いなやまるで風のように教室を出ました。それからがやがやその草山へ走ったのです。女の子たちもこっそりついて行きました。けれどもみんなは山にのぼるとがっかりしてしまいました。みんながやっとその栗くりの木の下まで行ったときはその変な子はもう見えませんでした。そこには十本ばかりのたけにぐさが先生の云ったとおり風にひるがえっているだけだったのです。けれども小さい方のこどもらはもうあんまりその変な子のことばかり考えていたもんですからうそろそろ厭あきていました。

 そしてみんなはわかれてうちへ帰りましたが一郎や嘉助は仲々それを忘れてしまうことはできませんでした。

   九月二日

 次の日もよく晴れて谷川の波はちらちらひかり

2021-04-05

高校車椅子生徒の補助係をしていた話

JR車椅子乗車拒否記事を見て、内容的にはあまり関係ないが思うことがあった。

私が入学した高校の1年生のクラス、出席番号後ろの子車椅子ユーザーだった。先生からはその子身体障害についての説明と、高校生活での関わり方をクラス全員に話された。

の子にはヘルパーさんが付いており着替えやトイレの補助はヘルパーさんがしてくれる。だか常にヘルパーさんがいる訳ではなく、移動教室などは生徒が手伝う必要があった。

入学して1週間後、クラス内のグループもある程度できた頃、先生に移動教室の補助を手伝うよう言われた。出席番号が前後で授業で関わることも多かったからだろう。グループ友達2人も着いてきてくれて、4人で話しながら移動教室へと向かった。

それから自然ヘルパーさんのいない時の手伝い=私となった。最初のうちは嫌でもなく、むしろ他の生徒とは違う選ばれた私、のように愚かに優越感を抱いたりしていた。しかし、それも1ヶ月、2ヶ月、半年と続いていくと次第に疲れというか面倒くささが湧いてくるようになった。初めは一緒に居てくれた友達も、「先行っとくね」と言うようになった。移動教室にはエレベーターを使うのだが、東棟の奥にしかないため移動に時間がかかるのだ。予習や課題を授業前に慌ててするタイプ友達にとっては煩わしい時間だっただろう。もちろん私だってそういった時間が欲しかったが、他の子に頼もうにも厄介者押し付けるようで気まずかった。その子は私以外にあまり話す人がいなかったのも一因ではあるが。

担任との面談の機会も何回かあったが、その子の補助係については何も触れられなかった。大変だね、ともいつもありがとう、とも。逆にそう言う事でその子差別している事になると思ったのだろうか。そういえば担任は、健常者が障害者を補うことが当たり前になって欲しいと入学当初語っていた。私がその子の補助をすることを、喜んでまでとはいかないが、まさか嫌がっては無いだろうと思っていたのだろう。面談で補助係嫌です。疲れました。と言えたらよかった。言えなかった。言ったら差別になるから?不親切不道徳?わからないけど、他者から評価は悪くなるだろうという事は悪い頭なりに理解していた。別の日に、周りの子に手伝い大変だね、と言われたことがあった。そこでもそうなの!本当はやりたくないのに押し付けられてるの!と言ってはいけないこともわかっていた。愚痴る事すら憚られた。相手社会的弱者でこっちは強者から

私の高校は3年間クラス替えが無かったので、結局私の補助係は3年続いた。

文化祭で、3年生は体育館で出し物をするという伝統があった。私たちクラスダンスがしたいという話になった。しかし、出し物は全員参加のため、ダンスだと車椅子の子が参加出来ないという事で却下され、結局舞台劇をする事になった。

これには本人も申し訳なさそうにしていた。決してその子存在が悪いんじゃない。けれど、結果としてその子クラス足枷になってしまった。

だって移動教室の前に購買に駆け込んでパンを買いたかった。友達とだらだら話しながら歩きたかった。小テスト勉強をしたかった。高校のこともその子のことも嫌いではないが、どうしても私は3年間"貧乏くじ"を引かされたような気がしてならない。きっとその"貧乏くじ"を引くのは誰でもよかった。健常者なら。それが今の社会である

最近社会が"差別"に非常に敏感になっていると感じる。障害差別性差別人種差別etc 弱者側に目を向けるのはいい事だと思う。差別を無くそうとするのも。けれど、その差別に敏感になるあまり、"強者側"の権利が虐げられるのはどうなんだろうか。

(自分の書いた文を読んで思ったが、1番差別に囚われてたのは私かもしれない。思い切って補助係を断ってもよかったのかも。てへ)

追記 4/6

沢山の反応があってびっくりしてます。私は障害者の否定差別がしたいわけじゃないです。ただ高校でこの様な経験があって、障害者の存在を疎ましく感じてしまたことも事実で、これ以上このような出来事が増えないといいなと思っています綺麗事じゃない、経験した人にしかからないことを伝えたくて書きました。今思うと高校かなりクソだな。学校のあり方社会のあり方個々人の意識を変えてかなくちゃならないよね〜〜

一つ訂正すると、その子は一応自分でも車椅子は漕げました。けど万一こけた時とかの為に誰かが傍にいる必要があったんです。坂道や段差もあるし。実際その子が漕ぐのと私が押すのは半々くらいだったかな、これについては私の書き方が悪かったです。その子が漕いでる時は周りからしたらよくある友達同士の移動中の風景に見えたかもね。。。

2021-03-29

萌アニメ96選

s: 複数作品シリーズ

Re:ゼロs、アクダマドイブ進撃の巨人s、ログホライズンs、かぐや様は告らせたいs、三月ライオンs、Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀s、メイドインアビスs、バビロンゴールデンカムイs、やがて君になる風が強く吹いているFate/zeroロードエルメロイⅡ世、occultic;nineシュタインズゲート僕だけがいない街約束のネバーランド一期、プリンセスプリンシパルガンダムビルドダイバーズRe:Rise、SSSSグリッドマンチェインクロニクル波よ聞いてくれ(ヤマト2199(TV))

 

SHIROBAKO幼女戦記将国のアルタイルモブサイコs、ノーゲームノーライフDr.STONE-s、体操ザムライ、ヒナまつり少女週末旅行クジラの子らは砂上に歌う宝石の国新世界より六花の勇者戦う司書絶園のテンペスト放浪息子キノの旅ハクメイとミコチ、2.43、刀使ノ巫女ニセコイs、ラディアン、プラネットウィズまどか(反逆込み)、俺ガイルs、同居人はひざ時々頭のうえ。 ,BEASTARS-s、PSYCHO-PASS

 

ガンゲイルオンラインダーウィンゲームAIR恋は雨上がりのようにはたらく魔王さま神撃のバハムートVS、SAO3前半、ジャスビコ、ヴァイオレットエヴァーガーデン氷菓ケムリクサ、リリスパ、WCWACCA憂国モリアーティs、終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?魔王学院s、魔法科高校の劣等生s、ようこそ実力史上主義教室へfate/UBW無能なナナケムリクサ、ガルガンティアキズナイーバーガールズアンドパンツァーオーバーロード月がきれい極黒のブリュンヒルデシンフォギアXV(5期)、バミューダトライアングルカラフルパストラーレ、(ヤマト2202(TV))

  

▢彼方のアストラ、Lapis Re:LiGHTsかくしごと海月姫ウマ娘s、少女歌劇レヴュースタァライト、、天体のメソッドシドニア一期、慎重勇者棺姫のチャイカBeatlessブラックブレット世紀末オカルト学院放課後のプレアデス、ゆゆゆ一期、僕らはみんな河合荘lord of vermilion、禍つヴァールハイト -ZUERST-、NOBLESSE、花咲くいろは甘々と稲妻銀河美少年スタードライバー境界の彼方、k

ハッピーシュガーライフ

昔の奴、コーナー

天空のエスカフローネ

2021-03-22

又三郎

風の又三郎

宮沢賢治


どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。

 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。

 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室なかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。

 もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から

「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。

「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛おかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。

 みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。

 赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、

「何なにした。」とききました。

 みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。

 みんなもすっかり元気になってついて行きました。

「だれだ、時間にならないに教室はいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。

「お天気のいい時教室はいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。

しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。

「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。

 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。

 それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

あいづは外国人だな。」

学校はいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、

「ああ三年生さはいるのだ。」と叫びましたので、

「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。

 変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています

 そのとき風がどうと吹いて来て教室ガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。

 すると嘉助がすぐ叫びました。

「ああわかった。あいつは風の又三郎またさぶろうだぞ。」

 そうだっとみんなもおもったときにわかにうしろのほうで五郎が、

「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。

 みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、

「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。

 五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。

「わあい、けんかするなったら、先生ちゃん職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。

 たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。

 風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。

「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。

 みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。

「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」

二百十日で来たのだな。」

「靴くつはいでだたぞ。」

「服も着でだたぞ。」

「髪赤くておかしやづだったな。」

「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。

「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」

「そだないでああいづあ休み前に嘉助石ぶっつけだのだな。」

「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。

 みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、

先生お早うございます。」と言っただけでした。

「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。

 すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。

 二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。

 するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。

 みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。

 先生はまた玄関の前に戻って、

「前へならえ。」と号令をかけました。

 みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子ちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。

「直れ。」先生がまた号令をかけました。

一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手下駄箱げたばこのある入り口はいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。

 まもなくみんなははきもの下駄箱げたばこに入れて教室はいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。

「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」

「わあ、おらの机代わってるぞ。」

「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」

「わあい、さの、木ペン借せ、木ペン借せったら。」

「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」

 そのとき先生はいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんしろで、

「礼。」と言いました。

 みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。

「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。

「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんしろからまりさわぐものを一人ずつしかりました。

 みんなはしんとなりました。

 先生が言いました。

「みなさん、長い夏のお休みおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校勉強ときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」

 すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、

「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。

 ところが嘉助がすぐ、

先生。」といってまた手をあげました。

はい。」先生は嘉助を指さしました。

高田さん名はなんて言うべな。」

高田三郎さぶろうさんです。」

「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。

 先生はまた言いました。

「きょうはみなさんは通信簿宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」

 みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿宿題を机の上に出しました。そして先生一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。

 ところが先生別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。

「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しまから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたかちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」

 一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろ大人おとなも扇を下にさげて立ちました。

「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろ大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。

 すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。

「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。

「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。

「何ぶんどうかよろしくねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。

 運動場を出るときの子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。

先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。

「そうです。」

「なんの用で来たべ。」

「上の野原の入り口モリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」

「どこらあだりだべな。」

「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」

モリブデン何にするべな。」

「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」

「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。

又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」佐太郎が言いました。

又三郎又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。

「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。

「わあい。やんたぢゃ。きょう四年生ど六年生だな。」

 嘉助は大急ぎで教室をはねだして逃げてしまいました。

 風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。

 次の日一郎はあのおかし子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がして、いつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは一郎よりもっとそう考えていたと見えて、とうにごはんもたべ、ふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを話しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集まっていて、棒かくしをしていましたが、その子はまだ来ていませんでした。またきのうのように教室の中にいるのかと思って中をのぞいて見ましたが、教室の中はしいんとしてだれもいず、黒板の上にはきのう掃除ときぞうきんでふいた跡がかわいてぼんやり白い縞しまになっていました。

「きのうのやつまだ来てないな。」一郎が言いました。

「うん。」嘉助も言ってそこらを見まわしました。

 一郎はそこで鉄棒の下へ行って、じゃみ上がりというやり方で、無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くと、そこへ腰掛けてきのう三郎の行ったほうをじっと見おろして待っていました。谷川はそっちのほうへきらきら光ってながれて行き、その下の山の上のほうでは風も吹いているらしく、ときどき萱かやが白く波立っていました。

 嘉助もやっぱりその柱の下でじっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに長く待つこともありませんでした。それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの鞄かばんを右手にかかえて走るようにして出て来たのです。

「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、

お早う。」とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。

 それは返事をしないのではなくて、みんなは先生はいつでも「お早うございます。」というように習っていたのですが、お互いに「お早う。」なんて言ったことがなかったのに三郎にそう言われても、一郎や嘉助はあんまりにわかで、また勢いがいいのでとうとう臆おくしてしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりに、もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。

 ところが三郎のほうはべつだんそれを苦にするふうもなく、二三歩また前へ進むとじっと立って、そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきょろきょろ三郎のほうはみていても、やはり忙しそうに棒かくしをしたり三郎のほうへ行くものがありませんでした。三郎はちょっと具合が悪いようにそこにつっ立っていましたが、また運動場をもう一度見まわしました。

 それからぜんたいこの運動場は何間なんげんあるかというように、正門から玄関まで大またに歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねおりて嘉助とならんで、息をこらしてそれを見ていました。

 そのうち三郎は向こうの玄関の前まで行ってしまうと、こっちへ向いてしばらく暗算をするように少し首をまげて立っていました。

 みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向こう側の土手のほうへ職員室の前を通って歩きだしました。

 その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵ちりがあがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風になって、黄いろな塵は瓶びんをさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。

 すると嘉助が突然高く言いました。

「そうだ。やっぱりあい又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」

「うん。」一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。三郎はそんなことにはかまわず土手のほうへやはりすたすた歩いて行きます

 そのとき先生がいつものように呼び子をもって玄関を出て来たのです。

お早うございます。」小さな子どもらはみんな集まりました。

お早う。」先生はちらっと運動場を見まわしてから、「ではならんで。」と言いながらビルルッと笛を吹きました。

 みんなは集まってきてきのうのとおりきちんとならびました。三郎もきのう言われた所へちゃんと立っています

 先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけて、とうとうみんなは昇降口から教室はいりました。そして礼がすむと先生は、

「ではみなさんきょうから勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生(と二年生)の人はお習字のお手本と硯すずりと紙を出して、二年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して、五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」

 さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎が、いきなり手をのばして二年生のかよの鉛筆ひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは、

「うわあ、兄あいな、木ペン取とてわかんないな。」と言いながら取り返そうとしますと佐太郎が、

「わあ、こいつおれのだなあ。」と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとはシナ人がおじぎするときのように両手を袖そでへ入れて、机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、

「兄あいな、兄なの木ペンはきのう小屋でなくしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながら一生けん命とり返そうとしましたが、どうしてももう佐太郎は机にくっついた大きな蟹かに化石みたいになっているので、とうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。

 すると三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたが、かよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると、だまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の目の前の机に置きました。

 すると佐太郎はにわかに元気になって、むっくり起き上がりました。そして、

「くれる?」と三郎にききました。三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように、「うん。」と言いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。

 先生は向こうで一年の子の硯すずりに水をついでやったりしていましたし、嘉助は三郎の前ですから知りませんでしたが、一郎はこれをいちばんしろちゃんと見ていました。そしてまるでなんと言ったらいいかからない、変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。

「では二年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に25-12=の数式と書きました。二年生のこどもらはみんな一生

風の

どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。

 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。

 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室なかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。

 もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から

「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。

「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛おかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。

 みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。

 赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、

「何なにした。」とききました。

 みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。

 みんなもすっかり元気になってついて行きました。

「だれだ、時間にならないに教室はいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。

「お天気のいい時教室はいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。

しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。

「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。

 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。

 それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

あいづは外国人だな。」

学校はいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、

「ああ三年生さはいるのだ。」と叫びましたので、

「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。

 変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています

 そのとき風がどうと吹いて来て教室ガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。

 すると嘉助がすぐ叫びました。

「ああわかった。あいつは風の又三郎またさぶろうだぞ。」

 そうだっとみんなもおもったときにわかにうしろのほうで五郎が、

「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。

 みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、

「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。

 五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。

「わあい、けんかするなったら、先生ちゃん職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。

 たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。

 風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。

「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。

 みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。

「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」

二百十日で来たのだな。」

「靴くつはいでだたぞ。」

「服も着でだたぞ。」

「髪赤くておかしやづだったな。」

「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。

「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」

「そだないでああいづあ休み前に嘉助石ぶっつけだのだな。」

「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。

 みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、

先生お早うございます。」と言っただけでした。

「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。

 すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。

 二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。

 するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。

 みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。

 先生はまた玄関の前に戻って、

「前へならえ。」と号令をかけました。

 みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子ちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。

「直れ。」先生がまた号令をかけました。

一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手下駄箱げたばこのある入り口はいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。

 まもなくみんなははきもの下駄箱げたばこに入れて教室はいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。

「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」

「わあ、おらの机代わってるぞ。」

「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」

「わあい、さの、木ペン借せ、木ペン借せったら。」

「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」

 そのとき先生はいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんしろで、

「礼。」と言いました。

 みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。

「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。

「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんしろからまりさわぐものを一人ずつしかりました。

 みんなはしんとなりました。

 先生が言いました。

「みなさん、長い夏のお休みおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校勉強ときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」

 すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、

「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。

 ところが嘉助がすぐ、

先生。」といってまた手をあげました。

はい。」先生は嘉助を指さしました。

高田さん名はなんて言うべな。」

高田三郎さぶろうさんです。」

「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。

 先生はまた言いました。

「きょうはみなさんは通信簿宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」

 みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿宿題を机の上に出しました。そして先生一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。

 ところが先生別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。

「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しまから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたかちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」

 一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろ大人おとなも扇を下にさげて立ちました。

「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろ大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。

 すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。

「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。

「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。

「何ぶんどうかよろしくねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。

 運動場を出るときの子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。

先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。

「そうです。」

「なんの用で来たべ。」

「上の野原の入り口モリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」

「どこらあだりだべな。」

「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」

モリブデン何にするべな。」

「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」

「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。

又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」佐太郎が言いました。

又三郎又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。

「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。

「わあい。やんたぢゃ。きょう四年生ど六年生だな。」

 嘉助は大急ぎで教室をはねだして逃げてしまいました。

 風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。

2021-03-19

宮沢賢治

二、活版所

 ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅すみの桜さくらの木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜からすうりを取りに行く相談しかったのです。

 けれどもジョバンニは手を大きく振ふってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝えだにあかりをつけたりいろいろ仕度したくをしているのでした。

 家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴くつをぬいで上りますと、突つき当りの大きな扉とをあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居おりました。

 ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子テーブルに座すわった人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚たなをさがしてから

「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡わたしました。ジョバンニはその人の卓子の足もとからつのさな平たい函はこをとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁かべの隅の所へしゃがみ込こむと小さなピンセットでまるで粟粒あわつぶぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、

「よう、虫めがね君お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

 ジョバンニは何べんも眼を拭ぬぐいながら活字だんだんひろいました。

 六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱はこをもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙だまってそれを受け取って微かすかにうなずきました。

 ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄にわかに顔いろがよくなって威勢いせいよくおじぎをすると台の下に置いた鞄かばんをもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛くちぶえを吹ふきながらパン屋へ寄ってパンの塊かたまりを一つと角砂糖を一袋ふくろ買いますと一目散いちもくさんに走りだしました。

三、家

 ジョバンニが勢いきおいよく帰って来たのは、ある裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口の一番左側に空箱に紫むらさきいろのケールやアスパラガスが植えてあって小さなつの窓には日覆ひおおいが下りたままになっていました。

「お母っかさん。いま帰ったよ。工合ぐあい悪くなかったの。」ジョバンニは靴をぬぎながら云いました。

「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日は涼すずしくてね。わたしはずうっと工合がいいよ。」

 ジョバンニは玄関げんかんを上って行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の室へやに白い巾きれを被かぶって寝やすんでいたのでした。ジョバンニは窓をあけました。

「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」

「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」

「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」

「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」

「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」

「来なかったろうかねえ。」

「ぼく行ってとって来よう。」

「あああたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」

「ではぼくたべよう。」

 ジョバンニは窓のところからトマトの皿さらをとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。

「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」

「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」

だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」

「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」

「きっと出ているよ。お父さんが監獄かんごくへ入るようなそんな悪いことをした筈はずがないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈きぞうした巨おおきな蟹かにの甲こうらだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。一昨年修学旅行で〔以下数文字分空白〕

「お父さんはこの次はおまえにラッコ上着をもってくるといったねえ。」

「みんながぼくにあうとそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」

「おまえに悪口を云うの。」

「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云わない。カムパネルラはみんながそんなことを云うときは気の毒そうにしているよ。」

「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達だったそうだよ。」

「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中とちゅうたびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱信号もついていて信号標のあかり汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油をつかったら、罐かまがすっかり煤すすけたよ。」

「そうかねえ。」

「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしぃんとしているからな。」

「早いからねえ。」

「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒ほうきのようだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜からすうりのあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」

「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」

「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」

「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」

「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」

もっと遊んでおいで。カムパネルラさんと一緒いっしょなら心配はないから。」

「ああきっと一緒だよ。お母さん、窓をしめて置こうか。」

「ああ、どうか。もう涼しいからね」

 ジョバンニは立って窓をしめお皿やパンの袋を片附かたづけると勢よく靴をはい

「では一時間半で帰ってくるよ。」と云いながら暗い戸口を出ました。

2021-03-08

同じように悩む社会になれという呪い

後輩たちの理想になることは諦めた。

からせめて、少しくらいは続くたくさんの後輩が働きやすくなるように。

今日国際女性デー

本当は、性別なんて関係なく、なるべく多くの人が健やかに生きていける社会になるのが一番だけど、日本というジェンダーギャップが大きい国に生きる女のひとりとして、女性が輝ける社会になりますようにと願いたいと思う。

塩谷舞さんのnote記事を読んで、私も筆を執ってみようと思った。あんな風に前を向ける記事ではないけれど。(リンクのつなぎ方がわからなかったので気になる人は探してみてほしい)

ここ最近、女とか男とか、人生で一番考えている。

小学校の時は、男友達とよく遊んでいた。一番仲良しだった幼馴染は女の子だったけれど、年の近い兄弟がいたせいか、外でフットベースやどろけいに明け暮れていたように思う。リカちゃん人形たまごっちにはあまり興味がなくて、ハイパーヨーヨーミニ四駆は持っていた。そして単純に身体を動かすことが好きだった、そういう小学生だった。

小学校4年生まではスカートが嫌いでズボンばかり履いていたし、つまるところあまり女の子っぽくなかった」のだと思うが(そもそも女の子っぽいとかぽくないとか、そういうのが時代錯誤なのはさておき)、幸か不幸か男の子と仲良くしていても、とやかく言われずに済んだのは幸いだったと思う。男の子と仲良くしている女の子の中には男好きだと陰口を叩かれている子もいたのだが、「まあAちゃんだし」と言われて女子から目の敵にされることはなかった(と、思う)。今になって思えば、女の子たちから「女」と認識されていなかったのだろう。要は、あの子恋愛対象にはならないかOK、ということだ。

中学に入ってもそれはあまり変わらなかった。

お互いを好き合った男女がカップルになったりしていて(同性カップルもいたのかもしれないが、私の耳に入ることはなかった)、仲が良さそうな男女がいれば噂になった。そして私は相も変わらず休み時間は割と男友達と話していた方だったと思うのだが、「Aちゃんだし」という理由特に噂の対象にはならなかった。おかげさまで僻まれることもなかった。

やっぱり、「女」ではなかったのだと思う。そしてそれは私としても自覚している。

そういう環境で育ったので、「男」だとか「女」だとか、そういうものには鈍感というより興味がわかないまま中学3年になり、進学先を決めることになった。私の出身都道府県には、今では珍しい公立の男女別学校があった。こだわりがない故に別学校を選ぶ必要もなかったのだが、当時私を可愛がってくれていた先生が、「あなた絶対女子高が合うと思う」と言ってくれたという単純な理由で、私は女子高を目指すことにした。

結論から言えば、私は本当にあの時にあの女子高を目指した自分を褒めてやりたいと思っている。

ギャルヲタクも皆一緒に学校行事に参加して勉強で競い合って最高の3年間だった。楽しかったというのもあるが、何より変な気を遣う必要がなかったのだ。当時から制服スカートズボンが選べたし、当たり前だが誰と仲良くしていようと噂されることだってなかった。

強くて逞しい人が多かったから、比較して自分の小ささに凹むことはあったけれど、とても刺激を受けたのもまた事実だ。

学校が駄目だと言いたいわけでも、男女別学であるべきだ!と思っているわけでもない。

ただ、あの3年間は間違いなく私の自立心を育てていて、「女だから」は理由にならないし、する必要がないことを学んだ。

日本という国において、絶対に、女子校が担っている役割は大きい。

そういう、とても私にとって意味のあった3年間を過ごし、大好きな分野の学問を学ぶため大学に進学し、こんなにも文理で男女差があるのかと驚いた。

高校では半々とまではいかなくとも、どの学年も大体文系の方が少し多いくらいで、理系女子も多かった。(どうでもいい余談だが私はゴリゴリ文系である自分文系なのでとやかく言えないのだが、何で女子文系が圧倒的に多いんだ?と不思議に思ったものである

入学してから数日、久しぶりに皆で連れ立って食事をし、皆で一緒に次の教室へ移動した。

多分1週間も持たなかった。

一瞬で最初グループからは離れ、ひとりで食堂に向かったら、浮足立つ新入生のグループが多い食堂で、明らかに新入生であろう女子が、ひとりラーメンを啜っていた。

見れば、同じ高校同級生だった。

そうだよなあ、好きにお昼くらい食べるよなあ、と安心し、少し離れたところで同じくラーメンを食べた。彼女とは今でも連絡を取る仲である

女子高を卒業し、大学学部バイト先も女子が大半を占めるコミュニティの中で過ごし、たまたま男女比9:1の会社就職した。

久々どころか人生初の男社会

総合職を選んだ以上、男も女も関係なく業務邁進するのみ!という心意気だったのだが、割と早々にしんどくなって泣いた。ひどいセクハラを受けたわけでも女を捨てることを強要されたわけでもないのだが、「男も女も関係ない」という自分意識と、「圧倒的に男が多い集団の中にいる若い女子」である事実を上手く融合させることが出来なかった。

どうしたって「女」を上手く利用している子の方が可愛がられる。可愛がられたいわけではないが、「女を捨てる」ことも出来なくて(いやしなくていいんだけど)、何とも中途半端位置になり、色んなバランスが崩れて勝手にしんどくなった。

社会の中で女であることに甘えられない・出してはいけないのだというプレッシャーはあるのに、貴重な女子社員として意見を求められるという矛盾した立場にいて、「女」を肯定すればいいのか否定すればいいのかわからなくなっていった。

「女」が主語になるコミュニティで生きていると、自分意識もそれに近づいていくのだと気づいたときが、一番怖かった。

「女は女に厳しい」「女は気まぐれだからやりづらい」「女は甘えればいいと思ってる」「女はすぐ子どもを産むからここから離脱する」「女は…」

前述のとおりあまり「女」としてカウントされない私は、そういう声もよく耳に入った。要は男性がそういう話をしている場面に出くわしやすいし、そういう話題を振られることが多かった。「Aさんは違うけど、」という枕詞を挟んだ上で、「女は…」と語られる。

今でこそ「それ、女じゃなくて〇〇さんでしょ(要は個人の話)」と言えるようになったけれど、しばらくの間は擁護をすれば自分もそう思われるのではないかと思うと怖くて、この手の話題が出た時に否定することが出来なかった。ずっと悔やんでいる。

会社の人が噂をする「女は…」に自分が入ることが怖くて、これは私を少しずつ蝕んでいき、この立場でこの仕事を続けながら「結婚」と「出産」を選ぶことは出来ない、と思うようになってしまった。

性自認は確かに女なのに、自分が女であることを肯定できなくなっていった。

もちろん、活躍している女性だっているし、今の現状に満足出来ている女性がいるのもわかっている。

自分が気にしなければいいのだとも思うけれど、30年生きてきていい加減わかっている。私は他人の声を気にせずいられるタイプではない。

いっそこの業界が嫌いになれたら良かったなと思う。

女性採用も増えたけれど、まだまだ圧倒的に男が多いこの業界を飛び出していけば、もう少し気楽に働けるのかもしれない。

でも、会社のことは変だと思っているし、決して誰もが働きやす会社ではないと思っているけれど、この業界が担っている社会役割だとか、やりがいだとか、そういうのは好きなのだ

から、やっぱり続けたい。

優遇してくれとは思っていない。

ただ、男性と同じところに立たせてほしい。

だってつらい、という声も聞くけれど、男優位に作られた社会で、女と同様男にも悩みがあるだなんてどうして言えるんだ。立っている場所が違うということをわかっているんだろうか。

結婚適齢期で子どもを持つ同期が増えた。「やっぱ子育てもしながらっていうのは大変だよ」と言った彼は、毎日残業していた。彼は優秀な同期で、残業しなければ終わらないような会社の仕組み自体どうなんだとは思っているけれど、彼が毎日残業出来るのは奥さん子どもの面倒を見ているからだ。他人の家庭に口を出すつもりはないし、1人が稼いで1人が家事を行うと決めているのであればそれも良いと思う。

ただ、この状態総合職男性)が圧倒的に多いこの会社で、この人たちと同じようにキャリアを積んでいくには、同じように働くしかないのだ、と思うと、まだまだ社会的に女性が家庭を守るべきという風潮が強い中でそんなことが可能なのか?と絶望する。

キャリア子育ての両立に男だって同じように悩む」と言っていたけれど、本当に同じなんだろうか。

同じだったら何故男女でこんなに差が出るんだろう。

「女は昇進させない」というほどひどい会社ではない。女だってちゃんと昇進できる。ただし、子育てを優先せざるを得なかった人たちの昇進スピードが落ちるから、見渡した時に男女で差があるように見えてしまうのではないかだって男で子育てを優先した人は圧倒的に少ない。子育てを頑張りながら同じように昇進していくことはかなり大変なのではないか。周りを見渡してそう感じ、夜中に大泣きするくらい悩んだ。悩んで、今はとりあえず結婚出産は考えられない、と判断した。

男性も本当に同じように悩むんだろうか。

大多数の男性社員と同じようにキャリアを積めた女性の、独身子どもはいない率に茫然とする。

きっとこの人たちも大変だった。この人たちはもっともっと苦労して、女性活躍できる場を広げてくれた。

ただ、こうでなければたどり着けなかったんだな、と思うと、自分が思い描いていた将来とは違うのだ。

一緒に頑張ろうと言っていた同世代女性が、何人も「もういいかな、仕事は。子ども産んで適当にやっていくよ」と言うようになった。あんなにたくさん将来のことを話したのに、もう話せなくなってしまった。そういう道を選んだ、というよりは、諦めたんだな、と思った。

幸いなことにと言えばいいのか、この会社は「子どもを産んで適当にやっていく」ことも出来る。制度は整っているし、相談すれば配慮もしてもらえる。

子どもを産んで仕事に復帰した女性なんてたくさんいるよ」

そうだ、確かにたくさんいる。でも多分、男性の同期と同じようにキャリアを積んだ人は少ない。

だって私は現時点で、お子さんがいる先輩方を結構な人数追い抜いている。

それでいい、という女性がたくさんいるのもわかっている。でも、それでいい、と思わせるような構造になってしまっていることが、そもそも問題なのではないか

男は、子どもがいようがいまいがほとんどが同じようにキャリアを積んでいくのに。

気が付けば私も、昔の私がその姿を見て茫然とした人たちと同じように、仕事だけを取る方の道に進み始めている。

これだけ家庭と仕事の両立が叫ばれる時代に、家庭を持たずに道を進んでいくことは、きっと後輩たちの光にはなり得ないのだと思う。私が昇進したところで、私が思ったのと同じように「あの人独身だしな…」と感じるんだろう。自分も思ったんだから自業自得なのはわかっているが、なんて地獄だここは。

男性諸君は、諸先輩方を見上げて、「あの人独身だしな…」と思うことがあるのか?女性待遇が上げられないというのなら、いっそ男性も同じように悩む社会になればいい。

そういう呪いにも近い気持ちが渦巻いている。出さないように、細心の注意は払っているけれど。

後輩たちの目標にはなりづらいかもしれないけれど、せめて家庭と両立を頑張ろうとする女性たちが働きやすくなるように、手助けが出来る社員にくらいはなろうと思う。

そもそも平等に働くことさえ出来なかった時代に、女性社会進出の場を切り開いてくれた先人のように、後に続く後輩たちのために粛々と働くのだ。

自分ラッキーなのもわかっている。男性優位な社会で、男が圧倒的に多い会社に、総合職として入れたのだから

それなりに力がある立場になろうと思えばなれる。トップダウンと言われようとも、権力を駆使して変えてやりたい。大企業が変わることは、多分それなりに意味を持つ。

私の心がそれまでに折れなければの話だけど。

日本社会ジェンダーギャップを埋める、ひとつの駒くらいにはなれるように。

なれるかな。

なれたらいいな。

この国に対してくそくらえとも思うけど、たくさんお世話になった人もいるから。

少しでも社会がよくなれば、それが一番の恩返しになると信じている。

2021-01-26

知的障害児の母親が忘れられない 追記

知的障害を持つ子供と親について、またそういった子供を産むことや育てることについて、比較マイナスな内容です。不快に思う方もいると思いますので自己責任でお読みください。


インスタのおすすめ欄を見ていたら、軽度の知的障害を持つ娘を小学校普通学級に通わせてるお母さんの投稿が出てきた。その子クラス孤立していること、授業の指示を理解できていないという報告をサポーターの人から受けたらしく、学校に行って状況を改善するよう話をしたいという投稿だった。

これを見て、ふと小学校の時に同じクラスにいた知的障害を持つ男の子のことを思い出した。その子、Aくんは、授業中、授業に関係ないことを唾を飛ばしながら話し、正面を向いて座れないのかいつも横向きに座っていた。国語からっきしだったが算数が得意で、足が早くて、ドッヂボールが好きだったと思う。正確に覚えていないけど、小学校までは普通学級で過ごして、中学支援学級に通っていたはずだ。

当時の担任先生は、大人になった今考えても非常に真摯に生徒に向き合ういい先生だった。私も当時3ヶ月ほど入院したことがあるのだが、他県の病院にいた私のもとへ平日の放課後にお見舞いに来てくれるような先生だった。何を話したかは覚えていないが、クラスの皆に手紙を書かせ、きれい製本し、お花と私の好きだったキャラクターの小さなぬいぐるみと共にプレゼントしてくれたのを覚えている。その先生はAくんにも目をかけ、目に余るようならば厳しく叱ったりするものの、しかし他の生徒と良い意味でも悪い意味でも同じように接した。そのため私たちもAくんのことについて「変わった子だな」とは思いつつ、Aくんが障害を持っていることは成長するまで知らなかった。察している子もいたかもしれないけど、少なくともあらゆることにおいて「障害があるから」ということを理由にしない先生だった。田舎学校なので、私も含めクラスメイトたちはなかなかいい子ではなかったけれど、注意することはあれど、強い言葉で怒ることはしなかったし、ましてや手をあげることは一度もなかったから、幼いなりに先生尊敬していた。

その先生が、唯一大きな声を出して、たった一度だけ、されど一度、手をあげた相手がAくんだった。詳しいことは忘れてしまったけれど、Aくんの腕を掴んで廊下へ連れて行こうとする先生の目がなぜか潤んでいたのは覚えている。

ところで、私は小学校から歩いて子供の足で30〜40分ほど離れたところに住んでいた。家が遠いので、近くに住む幼馴染と一緒に登下校していたのだが、幼馴染のクラスは私のクラスに比べて帰りの会が終わるのがかなり遅かった。そのため、私はよく廊下で幼馴染を待っていたのだが、ある時、ふと忘れ物したことに気づいた。幼馴染のクラスはまだ終わらなさそうだったので、自分教室へ取りに戻ることにした。教室電気がついていたので、先生挨拶しようと思って教室を覗き込めば、先生と誰かのお母さんらしき人が話しているのが見えた。特別聞き耳を立てたわけじゃないが、ドアが開いていたので声が聞こえてきた。Aくんのいることでクラスのみんなに迷惑をかけている、Aくんのことを叩いてしまう、先生にも手を出させてしま申し訳ない。そのお母さんは泣いているらしく、当時小学校の低学年だったけれど、これは聞いちゃいけない話だと思い急いで戻った記憶がある。

それからしばらくして知ったけれど、その女の人はAくんのお母さんだった。実は私はAくんと6年間同じクラスだったため、私の母とAくんの母は面識があった。私が小学校卒業してだいぶ経った後、母が酔った時に聞いた話だが、Aくんの母はAくんのことについてかなり思い詰めていたらしい。

Aくんの母は、Aくんを一人で育てていた。私も私の母も、小学校から中学までの9年間、Aくんの父親も、Aくんの祖父母も親戚も見たことはない。働いていたようだし、もしかしたら離婚していたのかもしれない。Aくんの下にいくつか年の離れた妹がおり、それでもAくんのことでクラス迷惑をかけてしまうからと、学級委員を引き受け、PTA活動にもかなり積極的に協力していた。そういえば、学期末にAくんのお母さんからクラスのみんなにお礼と言って高そうなお菓子をもらった気がする。とにかく、Aくんのお母さんは周囲の子供や先生保護者に常に頭を下げていた。授業参観懇談会行事も、常にAが迷惑をかけて申し訳ない、と言っていた。母は詳しく話さなかったが、AくんとAくんのお母さんについて、冷たい言葉を浴びせる保護者もいたらしい。私は特別Aくんと仲がいいわけではなかった(そもそも性別が違うので一緒に遊んだりはしなかった)が、Aくんのお母さんは授業参観等で私に会うといつも疲れた笑顔で「いつもありがとうね、Aが迷惑かけてごめんね」と頭を下げた。小学生の私は、大人の女の人から頭を下げられることなんてなかったから、なんだか不思議気持ちがした。

私は現在20代になり、友達との会話も、結婚子育てについての話題が出るようになった。特に仲良い友達子供好きで、最近お兄さんの子供が産まれたらしく、自分結婚して早く子供欲しい、そのためには彼氏を見つけなきゃね、と笑っていた。私に子供ができたら、自分の子供と遊ばせよう、と。

彼女は当たり前に自分の子供が健常児であると信じており、私の子供もそうであると思っている。私もそう思っていた。でも、Aくんのことを思い出すと、もし自分の子供が知的障害を持っていたら、と考えてしまう。わたしは、自分の子供のために尽くせるんだろうか。Aくんの母親のように周囲に常に頭を下げ、言うことを聞かずに周囲に迷惑をかける子供を躾け、周囲の心ない態度にも耐えることができるんだろうか。私がもっと人間的に成長すればできるのだろうか。今の私よりはるか人格者だった担任先生ですら、手をあげたのに?

子供可愛いと思う。昔は苦手だったのに、今は赤ちゃんをみると思わず笑ってしまう。自分が産むのは痛そうだし怖いけれど、好きな人の子供を産むのは素敵だとも思う。でもそう思えば思うほど、もし障害を持っていたらと考えてしまう。その子父親となる人は、私の両親は、友達は、理解を示してくれるだろうか。一人で育てることになるとしても、私は自分の子供を育てられるんだろうか。もちろん健常児でも同じ不安はあるけれど、障害児なら尚更、自信がなくなっていく。

知的障害の子供を捨てる方法はないらしい。親や親戚に育てられる環境があるなら、施設にはそう簡単に入れないという。産んでもし障害児だったら。もしくは、産まれときは元気でも、後天的障害を抱える可能性もある。そうなったら多分、私は捨てる方法を探してしまうかもしれない。子供を育てられる自信がないのはもちろん、わたしはAくんの母親のようにはなれないしなりたくないと思ってしまう。

こんなことを考えている私は多分子供を産む資格はないし、年齢的にもまだ産む予定はないが、子供を産んだ親は皆こういう悩みを乗り越えているのかな。それとも私の友達と同じように、自分の子供が健常児でないなんて想像もしていない?

ネット検索すれば綺麗事は沢山出てくる。色々考えて、乗り越えて、幸せ暮らしている家族だってたくさんいる。だけど、自分母親になれるような年齢になってから、Aくんの母親が忘れられない。優しい人で、でも小学校の後半は、子供の目から見てもやつれているのがわかった。彼女はどんな気持ちで、私たちと関わっていたのだろう。

Aくんと母親が今何をしているかは知らない。ただ、Aくんが楽しく過ごせて、あの母親がもう頭を下げなくていい生活をしていたらいいと思う。


1/27 1:22

注目エントリに入ってるのを見てビビり、タイトルがあまり露骨だなと思ったので変えました。本文も誤字直したり付け足したり。

本文に書いたように、どんな子供であっても自分の子を捨てるかもなんて考えをしている時点で私は子供を持つ資格はないと思っています。私の子がどうこうというより、障害を持っている子供とその周囲について、実際に見たことを思いだして、世の中の人はどう考えているのかなと疑問に思い書きました。不快な思いをした人はすみません問題があるようなら消します。

1/27 13:48

起きたら人気エントリに入っててさらビビりました。たくさんの反応ありがとうございます

編集タイトル変えても別のところ(ブックマーク?)では変わらないんですね。増田に書くのが初めてなので知りませんでした。消さなくて良いよと仰る方が多く安心しましたが、一部タイトル含め不快な思いをしてしまった方もいるようで、配慮が足りず申し訳ありませんでした。

コメントブックマーク等、全て読ませていただいています

私は親になったならばその子がどんな子供であれ幸せにする責任があると思っているので、福祉の充実も含め、親が二人(もしくは一人)で育てていかなくてはいけないという体制もっと良い方向に変化して欲しいなと思っています。勿論今も私の子供の頃に比べたら支援等かなり良くなっていると思うのですが、やはり世の中のお父さんお母さんでそこまで考えて産んでる人は少ないと思いますし、それこそ私の友人のように健常を前提として子供を産んだ親や、子供が産まれた後なんらかの事情障害を抱えた場合、すぐに「それでも我が子だから頑張ろう」と育てていける人ってかなり少ないと思います。これはもちろん健常児の場合も同じで、健常児だから楽というわけではないことは承知しています。ただ、親が正直しんどいと思った時、育てるか捨てるかという二択ではなく、少しでも子育てをお休みしたりできるシステムがあれば、親になりたい、もしくはなりたかったけど、という人も子供を持ちやすくなるしいいと思うのですが、これは子供からしたら親と離すなんて可哀想、という意見も出そうですし難しいのかな。まとまってなくてすみません

同じような不安を抱えているよ、と書いてくださる方が多くて嬉しかったです。また厳しい意見ありがとうございます。実際に体験した話もそうでなくても、皆さんから意見を読むことで、自分の中のモヤモヤしたもの記憶が整理されていく気がします。私はまだ社会に出たてのペーペーなので、まだ結婚出産といったものぼんやりとしたイメージしかないのですが、どんな選択をしたにしろ、自分も、産むとしたら自分の子供も、幸せであるように全力を尽くしたいと思います

ここまで読んでくださりありがとうございました。

2021-01-23

ボーイズラブCDを聞いて資格試験合格した

数年前に宅地建物取引士資格試験を受けた。

宅建士の試験国家資格の中では比較的易しいらしいが、それでも合格率は高くなく職場には何年受験しても合格できないという人もいた。

わたしは当時30歳のオタク腐女子仕事資格必要になったので受験したのだが、大学受験以来の久々の試験勉強になかなか苦戦した。長らく勉強というものをしていないと、まず集中して参考書を読むことすら難しい。

そこで役立ったのがボーイズラブCDである

わたしは無音状態で何かに集中するのが苦手で、かといって音楽を聞くとなるとオタクなのでアニソンアイドルソングばかりになってしまう。日本語歌詞だと頭の中で歌詞宅建業法の条文がけんかを始めて勉強にならない。

しかボーイズラブCDならかなり集中できる。

ひとくちにボーイズラブCDと言っても勉強に向いているものとそうでないものがある。勉強中に聞くべきボーイズラブCDはとにかくエロいもの。男の喘ぎ声は特に意味もなく耳に優しいので聞いていると心が安らぐうえに集中力を高めてくれる。

特に聞いていたのは、彼らの恋の行方をただひたすらに見守るCD男子高校生、はじめての」シリーズ。このシリーズノーカット、ノーフェード、ノーBGM男子高校生たちのそれを盗み聞きできるというもので、大部分がエッチシーンでできていてとても素晴らしい。一応ストーリーもあるが、民法の条文の邪魔をしない程度なのであまり気にならない。

シリーズの中でも第3弾「生徒会役員の密やかな謀」が良い。受け役の興津和幸さんの演技が最高。この喘ぎ声を聞くために現代に生まれた。

わたしボーイズラブCDを家での勉強中はもちろん、出勤前のカフェ通勤中の電車職場で開かれた勉強会、とにかく勉強をするときはひたすらに聞き続けた。わたし真剣な顔で法令上の制限を覚えているとき、耳元ではいつも男が喘いでいた。


そして迎えた試験当日、運命的なことに会場は高校だった。

30歳独身腐女子合法的高校の校舎に足を踏み入れる機会なんてそうそうない。高校卒業してから10年以上が経っており、高校という場はもはやなによりもボーイズラブ舞台という感覚が強い。

校門を通ってから教室に入るまでの景色ボーイズラブだった。

校舎まで続く道、毎日生活を感じる下駄箱、教室へと向かう階段、窓から昼の陽がさしこむ踊り場、分別を促す手書き貼り紙があるゴミ箱教室のドアが並ぶ廊下、すべてからボーイズラブ息遣いが聞こえた。

試験を受ける教室に入ると受験する人たちがすでに席で参考書などを開いていた。試験会場に入る指定の時刻から試験開始までけっこうな時間があり(細かく覚えていないが30分~1時間程度はあったと思う)、わたしも周囲の人にならって一応参考書を開いた。

しかし、ふと視線をあげれば黒板があり、日常教室の黒板なんて見ることがないわたしは黒板にもまたボーイズラブを感じ、思った。今しかない。

参考書を閉じてイヤホンを装着し、まっすぐに前を見て「男子高校生、はじめての」を再生した。

実際の高校教室で、男子高校生ボーイズラブを聞くのはこれまでに経験したことのない楽しさがあった。まるで今この瞬間に隣でボーイズラブたちが事に及んでいるような気がした。

ここまでくるとボーイズラブCDを聞きながら勉強をすると集中できるなんてことはもう言ってられず、頭の中はボーイズラブ一色、受けの痴態に興奮している攻めよりもただそれを聞いているわたしのほうが確実に大興奮していた。

ボーイズラブに包まれたままに試験が始まりわたし試験への緊張とボーイズラブへの興奮で手の震えが止まらシャープペンシルを一本折った。

そんな状態で受けた試験から絶対に落ちたと思い、そしたらまた来年高校に行こう…あのボーイズラブが詰まった空間へと…と絶望希望に変えていたが意外にも試験には合格した。わたし地頭が良いということもあるが、ボーイズラブCDの力が大きかったのだろう。


ボーイズラブありがとう。おかげで今日も重説を読むことができます

2020-10-20

anond:20200928110009

人は一度は教室から旅立ち、やがてまた教室へと舞い戻る生き物であると思うの

2020-08-13

給料明細父親近親相姦

給料明細なんてしっかり見たことない」なんて言われて、「あぁ、こいつは金に困ったことないんだ」って羨ましくなっちゃった。あぁ、なんて卑屈なんだろう。

とりあえず書きたくなったから惨めな記憶書いてみる。

惨めな思いをした記憶

1.集金袋事件

小学校の頃、集金袋を親に渡したけど給料日前で金がない。

担任先生に「締め切りだからお母さんに電話して持ってきてもらって」と言われる。

電話する。「無いものは無いか先生にそう言って」とママ

・こないはずのお母さんを小学校玄関で待ち続ける。

先生が呆れて(仕方なく?)迎えにくる

・とりあえず泣く その後教室へ

先生はいつも集金袋のお金立て替えてくれてた。 ありがとう先生

2.習い事は1個だけ

幼稚園の時、バトンクラブに通わせてもらった

・それ以降の習い事はなし。何故なら貧乏から

周りがピアノ水泳だ塾だっていうのを羨ましく見てた。 いや、1コでもあるだけマシなんだろうな。きっと。

3.歯並びは悪いけど

貧乏なので長女の姉は歯科矯正に通わせてもらったけど、次女の私はなし

・次女って損だなと実感。姉が歯科矯正具を無くしたときは滅茶苦茶罵倒した気がする

4.部活動

運動部は金がかかるという理由で中1のとき入らせてもらえず

・それでもなんとか1年がかりで説得して中2でソフトテニス部に入部

5.県立高校1本

私立受験は一切なし。しかも兄と同じ学校

・親曰く「面談ときに便利だろ??」

・第二希望学校だったけど我慢

6.部活断念

・4と同じ理由運動部に入ることを許してもらえず

・「バイトしてお金稼いでなんとかやるから」「ダメ!!」

・同じクラスの連中が「あー部活だるい」なんて聞くと本当にいらいらした

7.暇なのでアルバイト

・週5日 3時間 安い時給だけど3年間バイト

学費や食費として親に毎月2~3万払う。

中学生とき、「高校生になったらバイトして大学学費少しでも貯める」って思ってたけど、大半親に渡す

・「アルバイト代は全部自分のもの」っていう友人が羨ましかった

8.専門学校

大学に魅力を感じず、専門学校に行きたくなる

努力が足りず、奨学生試験で良い結果が出ず・・・入学金+学費60万払えなくて挫折

本当にやりたかったら新聞奨学生でもやって頑張れば良かったけど、兄がそれで失敗したのを見ていたので自分には無理だと諦める。

働いてお金貯めてから3年後に入学しても良かったけど、諦める。結局そこの専門学校に入ることさえも本気になれなかった自分が悪い。

1とか3とか7とか思い出すと涙がぽろぽろ出る。お金がないと惨め。 本当に惨め。

今は結婚して2人で働いてて貯金も出来てるから幸せ。なにより旦那が側にいてくれることが一番の幸せ

父親は、姉を近親相姦している。

姉は妊娠して自殺未遂まで図った。

堕胎お金まで貸してあげた。

私は、死ぬ気で抵抗たから、最後の一線は守った。

もう時効なんだろうけど、許せない。

前の夫にふとした事で愚痴ったら離婚された。うちの家、おかしいのかな。私にはわからないや。

もう墓場まで持って行くつもり。

貧乏な親と離れたことで精神的にも楽になったけど、たまに親を思う。生活大丈夫心配になる・・・ ダメな親でも血のつながった親はあの2人だけだから・・・

の子供には絶対貧乏な思いはさせたくない。とりあえず1は絶対させない。それが私の生きる原動力

私よりもっと貧乏子供時代を送った子が大勢いるって分かってる。

まともに働けてるだけ私はマシなんだってことも。生きてるだけで幸せってことも。

2020-07-02

ファイティングネットワークリングスの思い出

小さい頃からプロレス好きだった私は中学生の頃には熱心なリングスファンとなっていた

「最強の男はリングスが決める」というフレーズの通り、世界各地から見知らぬ強豪がやってくるワクワク感

ロシア軍特殊部隊コマンドサンボ教官」とかもう肩書きだけで中二男子ハートを鷲掴みである

当時の私はハンス・ナイマン選手の得意技である“ナイマン蹴り”(中段蹴りと見せかけてそこから足が跳ね上がって上段蹴りに変化する二段蹴り)が大好きで

廊下などで友人とよくやっていたのだが、足を跳ね上げる際に通りかかった女子生徒のスカートまくり上げてしまうという大事件を起こしてしまたことがあった

ただこれは本編とはあまり関係ないので割愛させて頂く

当時リングス応援する上で一番の問題となっていたのは視聴方法である

当時の我が家ではBS放送を見ることは出来たが、WOWOWへの加入は親が許してくれなかった

スクランブル放送リングスを友人と見ながら「今ダウンしたのは前田日明かな」「いやそもそもこれ前田試合なの?」

「黒いタイツディックフライっぽいか前田試合だよ 放送時間的にもメインでしょこれが」という馬鹿みたいな会話をしていた

ある日「隣のクラス女子WOWOWに加入している奴がいる」という情報キャッチした私はすぐさま隣の教室へと走った

リングスを録画してくれと頼みこむ私に対し、面倒だし嫌だと断る女子

「お願いだから まずは1回だけでもいいから お礼に1000円払うから」と執拗にお願いしていたところ

近くで聞いていた別の女子いかがわしい依頼をしているのだと勘違いしてしまい、教師にチクられそして私は職員室で説教されることとなった

私を延々と叱りつける生徒指導担当体育教師の机の上にゴング格闘技が置いてあったのも今となっては良い思い出である

2020-04-20

在宅勤務8

anond:20200420124632

 

朝は、昨日の残りの豚汁玄米ご飯

今日給料日だったので引き続き催促のメールを送ったあと、一度抜けて銀行ATMまでおろしにいってきた。現金大事。ついでにちょっくら買い物。

 

昼も玄米ご飯に、豆苗のかき玉カレー風味。

ナントカの一つ覚え的にかき玉ばっかり作っている。私の腕前でもすぐにできるし、野菜と卵が一度に摂れるのでちょうどいいのだ。

 

待ちに待ったメールの返信がポチポチ来始めたので対応

家では割とテレビつけながら仕事しているので、フルタイム仕事というよりは内職感があるなあ。

 

夜は昼の残りのかき玉に、ツナじゃが。

 

今使っている茶碗は就職直前に陶芸教室へ通って突貫工事で作ったものだけど、さすがに15年近く同じものを使うのに飽きてきた。

市販可愛いのがほしいな。

でも、壊れてもいないのに茶碗買うなんてまさに不要不急。

平常時でも、いろんな皿や茶碗がほしくなるけど意外とよく使うものは決まってきている。断捨離すべきか。だいたいときめいているモノなので手放しづらい。

2020-01-21

試験カンニング行為はわりと見逃してくれる

センター試験不正行為があっただとか試験時間が短かっただのというニュースを見て、大学在学中に試験バイトをしていた頃を思い出したので色々書いてみようと思った。

当時は某私立大の大学生で、夏だったか秋だったか学内掲示板試験官(正確には試験監督補佐)バイト募集している旨の張り紙があったので興味本位で応募した。

センター試験監督自身が在学している私大一般入試試験バイトどちらも応募できたが、個人的な都合もあり一般入試のみ応募。

試験当日の朝は試験中、試験前後の動きだとかを細かく説明され、試験開始数十分程度前に待機所から教室へ移動。問題用紙・解答用紙を配布して試験開始時間を待ち、開始時間・終了時間になれば試験監督が合図をして、終了後にまた問題用紙・解答用紙を回収して撤収。このルーティンを何回か繰り返すだけの非常に楽なバイトだった。

ただひとつ気にかかったのは受験者のカンニング行為

確か数学試験時間だったと思うが、明らかにカンニング行為をしている受験者がいた。試験会場は広さにもよるが試験監督(大学場合は大体教授だとか准教だとか)と大学職員やバイト試験監督補佐が数名程度。自分が配置された教室試験官(補佐含め)4人程度だった。

試験が始まり教室前方の端の椅子に座り試験会場を見渡していたり、音を立てぬようにゆっくり歩いたりしてカンニング行為をしていないか見回ったりしていたのだが、事件が起きたのは開始から十分程度あと、教室前方の椅子に座っている時。比較的前方に座っていた受験生が随分と挙動不審な動きをしているのに気が付いた時。顔は伏せながらも明らかに自身問題用紙に目を向けず、左右に顔を傾けまくっている受験者がいた。当然最初は緊張をほぐすためちょっと首を動かしている程度なんだろうなと思っていたが、かなりの頻度で首を振っている。最終的には近隣の受験者で最も近い左側ばかりを向く(目を向ける)ようになっていた。

試験自体初めての経験でありなおかつ補佐程度の役割なので特段の権限はないが、あれは不正行為だろう…と判断したため、別の試験監督(補佐)にメモと耳打ちで状況を説明してその方にも確認してもらった。その方の判断も黒。しか問題なのは、その受験生の行為絶対意図した不正行為であるという確証が無いという点。

先述の通り緊張をほぐすために首を振っていただとか、もしくは体調だとか身体的特徴の影響からうっかり左側ばかり見ていただとかの可能性も0ではない(※まぁ今でもあれは隣の受験者の答案用紙見ようとしていたんだろうと思う)。

そこから教室中の試験官全員に異様な緊張感が走り始めてた。教室の前方真ん中に座っている試験監督受験者名簿(顔写真付き)を見て当該の生徒について確認したり、試験監督内で決めていた不正行為対策のための見回りのルーティンもぶち壊して、カンニング行為を働いているであろう受験者をなるべく悟られないように常時監視したり。一般入試特有試験中退出(休み時間の間に他大の合格が分かり現在受けている大学試験放棄してそのまま帰宅する人)だとか、そもそも出席していない欠席者分の解答用紙に欠席の手続きをするのも試験官の仕事自分担当していた試験会場では試験官全員が欠席手続きをする(解答用紙に受験者名や受験番号を記入して用紙全体に"欠"と記入する)のだが、今回は緊急で試験監督補佐を一人、例の受験者をメインで監視する目的で欠席手続き役割から外された。その外された人物が私だった。

結論から申し上げると、その生徒はカンニング行為をしていたと認められなかった。認められなかったというより、カンニング行為をしていたという絶対的な確証がないため認めることができなかった。

後ほど聞いた話では、その教室にいた試験監督試験監督補佐たちも、全員あれは恐らくカンニング行為であったという認識であった。だが、確証はない。ただ首を振っていただとか、隣の解答用紙なんて見ておらず全く別のところを見ていただとかと言い訳をされてしまえば正直それまでである。電源の点いたスマートフォンを使っていただとかカンニングペーパーを持ち込んでいたなど物的証拠があれば一発アウトなのだが、"近隣受験者の回答を覗いていた"という行為に関しては、カンニングをしていたという絶対的な証拠が残らない。いざあの受験者を不正行為として取り上げていたとして、もしも本当に不正行為を働いていなかった場合試験監督は取り返しのつかない行為をしてしまたことになる。下手したら受験者の一生を左右する行為にもなりかねない行為である。かといって目の前で行われていた不正行為に目を背けてよいのかという正義感にも苛まれつつ、試験時間が終了して、いつも通り問題用紙・解答用紙を回収して撤収した。

今でも当時の判断試験監督に件の受験者がカンニングを行っているので不正行為のため退出させるべきだと進言するべきか否かという相談をしなかったことが正しかったのか、正しくなかったのか分からない。ただ先述した通り、試験監督受験者のカンニング行為については試験時間中に認識していた。それでも監督は実質黙認していた。当然試験監督も、"もしも不正行為ではなかった場合"を想定していたのだと思う。その結果試験官全員が、受験者がカンニングをしているのを認識しつつも黙認してしまうという空間が生まれしまった。

ちなみにその受験生は残り時間30分程度になるとカンニング行為をパタリとやめてしまった。試験官が怪しんでいることに気づいたの、はたまた解答が終了したのかは定かではないが…。

センター試験も終わってこれから一般入試も始まると思うが、受験生にお願いしたい。頼むからカンニング行為はしないで欲しい。行為をしている本人も精神をすり減らすだろうし、それ以上に試験官も精神をすり減らしてしまう。最悪の場合お互い最悪の結末を迎えてしまいかねない。不正行為は一切せず、自身の実力を全力でぶつけた真剣勝負でお願いします…。

2020-01-10

過敏性腸症候群わたし

からお腹が弱く、今思えば物心ついた時から過敏性腸症候群だったのではないかと思う。

小さい頃、小学校5年生くらいまで外食をするのが怖かった。なぜなら落ち着いてトイレへ行けないから。

から(2.3歳の頃から)便秘下痢を繰り返し、お腹を壊すとなると1時間以上はトイレで苦しんでいた。

もし出先でお腹が痛くなったらどうしよう、という不安が余計に腹痛を煽る。お店へ着くや否やトイレへ駆け込み、一回の外食で3.4回はトイレへこもっていた。(だが、そういう時はお腹は痛くなるのに便は全く出ない)

トイレへ行くたび両親からはまたか大人しくしろと怒られる。それも相まってさらに私のお腹は痛くなるばかりだった。

だが、小学六年生からは親へ口答えもできるようになったり、自律神経が整ったのか外食へ出かけても腹痛を起こすことがほとんどなくなった。相変わらず便秘下痢は繰り返していたが、昔ほど酷くはなくなった。

だが、中学3年生の冬。卒業間近に悪夢が襲った。

ある授業を受けている時、突然強烈な腹痛が私を襲った。我慢しようとしたがシャーペンを握る手が汗でビチャビチャになりノートが濡れた。これはやばいと思い恥を忍んでトイレへ向かった。

だが、トイレへ向かっている途中で腹痛はすっと治った。

あれ?と思い再度教室へ戻り席へついた瞬間また猛烈な腹痛。

全身尋常じゃない汗が流れた。少しでも気を緩めば屁も身もでる、全身をガッチガチに硬直させ奥歯が割れるほど食いしばった。

だが、十数分も待たずして再度トイレへ。またしても廊下を歩いている途中で嘘みたいに便意がなくなっていく。

その日から地獄の日々が始まった。

幸い、卒業間近だったこともあり登校日も少なくなっていたのだが、試練は終わらない。

友人とバスで出かけようものなら1人だけ途中離脱。親と車に乗ってどこかへ行くこともできない。静かな場所や人が大勢いてなおかつトイレはすぐ行けない場所密室にいると強烈な腹痛に襲われた。

そのくせトイレへ向かう途中やトイレに座った途端すっと腹痛が何処かへいってしまう。

私は発狂しそうだった。というか発狂した、泣いた、わめいた。

ご飯を食べなくなり下剤を多用した。整腸剤も飲みまくった。

出すもの出せば仮にお腹が痛くなってもでるものがないと思ったし、食べ物を食べなければ便が作り出せないからだ。

そんなある日、私はこの腹痛の病名と出会った。

過敏性腸症候群

お前か!!!!!お前だったのか!!!とめちゃくちゃ感動した。

その頃はおそらくあまりメジャーものではなかったが、いろいろな情報ネットから手に入った。心療内科へ行き診断もしてもらった。

からお腹が弱いというのも原因だったのもあるが、私の場合は厳しい親も原因の1つだったようだ。

怒るとなるとかなり厳しく、また、小さい頃は虐待じみた教育を受けていたこともありよくお腹が痛くなっていた。

成長するにつれ親も私が手がかからなくなり昔より穏やかに接するようになり、私も生意気にも口答えができるようになったのでストレスが少しずつなくなってきたから腹痛の症状が出なくなったのかなと思う。

だが、受験シーズンになり、推薦で高校が決まっていた私は勉強をしていなかった。仲のいい友人は勉強に追われていたが私はのんびり過ごしていた。そんな私に友人は八つ当たりをよくしてきていた。

今思えば自分が行きたいと選んで塾へ行き、自分が行きたいと選んだ高校なのだから黙って勉強しろよとは思ったのだが当時の私はその子八つ当たりを頑張って受け止めていた。

また、入学予定の高校では部活で進学したのだが、今じゃあり得ないくらいの暴力蔓延している部活で、これからそういう環境に身を置くことに対しても強いストレスがあった。いくら覚悟を決めていても無意識に心に負担があったのかもしれない。

いろいろなストレスが少しずつ私を蝕んでいき、一番弱いお腹負担がかかったのだと思う。

卒業式の日は前日から絶食、お守りがわりに整腸剤を持って挑んだ。隣の席の友人には病気のことを話し、式中はずっと小声で話し合っていたおかげでなんとか乗り切ることができた。

高校入学後も、事前に学校側へ事情を話しており、なおかつ校風自由で友人みんなに病気のことを話したり、テストは別室でうけたり、本当に申し訳ないが授業中は寝ることによってお腹から意識を逸らした。(教室にいることもとても辛かったが、皆んなが病気を受け入れてくれているという安心感や、申告なしでトイレへ行ってもいいと学校から許しをもらっていたので、安心感が大きく眠りにつくこともできた)

高校一年生の夏、期末試験の時、初めて教室テストを受けた。

担任から「受けてみないか」と提案があり、無理ならすぐ保健室へ行ってもいいと言ってくれた。

テストが始まった直後、教室は一気に静まり返った。

心臓が痛いくらバクバク鳴っていた。手汗が出た。お腹も痛くなった。

だが、我慢できる。

それどころか、少しずつ、少しずつ腹痛が治まっていく。

気づいたらテストが終わっていた。

その日から私は腹痛で保健室へ行くことは無くなった。

あれ以来、普通の人よりもお腹が痛くなることはやはり多い。映画館で腹痛になり、楽しみにしていたメリーポピン●は1時間しか見れなかった。居酒屋へ行きすぐにトイレから出れなくなることもあった。

けれど、昔より悲観的じゃない。大人になるってこういう時とても便利で楽だなって思う。

昔みたいにビクビクしながら外へ出ることがなくなったのはとても心地いい。もちろん痛くなったら絶望的にはなるが。

あの高1の期末試験体験が私の勇気となっている。あの日、目の前がとてもキラキラして見え、あ、もう大丈夫だと心から安心したことは忘れない。

2019-12-24

金がなくてモテないオッサン韓国語教室へ行け

自分は40すぎのオッサンクリスマス時間ができたので書いている。パートナーありで自分には役に立たないけど役に立ちそうな人がいるかもしれないので書く。

いろいろあって韓国の人と友達になったので「韓国語でも勉強するか」と韓国教室に通い始めて2年弱になる。

通い始めてびっくりしたのが女子しかいない。9割方女性韓流バサンばかりかと思ったら、K-POP韓国カルチャーの影響で20代、30代の女性がかなりいる。

それもそのはずで、自分が通う韓国民団系の韓国教室は月謝がめちゃくちゃ安い。しかも、しっかり教えてくれるので評判になってるそうだ。実際、内容が充実というかスパルタなぐらいで「この値段でこのカリキュラムは割りに合ってないんじゃね?」と思うこともある。彼女らにしてみれば、ちょうどいい料金で勉強できるので口コミになってるらしい。

本題。韓国教室に来てる女子彼氏がいない人が多い。雑談で、かわいい子やきれいなから彼氏がいないという話になって衝撃を受けることが多々ある。彼女らは趣味を優先しているけれど彼氏が欲しくないワケではなく、単に男性と知り合うきっかけが無いだけらしい。

そこで、結婚相談所とか考えている人、韓国語を習いましょう。K-POPとかわからなくてOKです。彼女たちは趣味干渉して欲しくないので知らないほうが良いです。一緒に勉強して話をしていると同じ目標ができて仲良くなれます

あと、民団系の韓国教室韓国文化を学ぶイベントも用意されてるので勉強以外で話をする機会も多いです。

さあ、いますぐググって民団韓国教室へ入ろう!そして務安チャレンジしたくなるようなオッサンになろう!(※韓国旅好きオッサンTwitterクラスタで盛り上がった務安チャレンジは終了してます

2019-09-09

忘れられない初恋の人の名前検索した話

もう10年以上も前の話。

中学三年生の私には好きな人がいた。

発表が得意で、面白おかしく、周りの様子を伺ってはクラス雰囲気を盛り上げようとする、そんな人を私は好きになった。

なんとなく、向こうから好意を感じる時もあったけれど、思春期真っ只中の私は何か行動に出るわけでもなく、ただただ席替えで近くになることを祈っていた。

サマースクール話題で盛り上がる夏休み前、彼の口からちょっと頭が良い学校名前が聞こえてきた。

怠け者な私の内申点では厳しかった。同じ学校に通えそうになかった。

残念に思ったけど、進路で別れてしまうのは分かっていたから、悲しくはなかった。

特に行きたい学校がなかった私も、サマースクールに参加したことで、入学したい学校、入りたい部活を見つけることができた。

その学校はそこそこなレベルだったけれど、当時の私の実力では乗り越えなければならないハードルがいくつもあった。

夏休み後、真剣勉強に取り組むことになった。

不馴れな勉強に勤しむ秋頃、彼の口から私の目指す学校名前が出た。

志望校は違うと思ってたから、当時は本当にビックリしたし、嬉しかった。

頑張る理由が1つ増えた私は、さら勉強に励んだ。

妄想も、それはもういっぱいした。

彼の内申点学力から言って、彼が落ちることはない。

あとは私が頑張れば、その妄想現実になると思うと、大嫌いな英語だって覚えてやろうという気になれた。

塾長からは「険しい道のりだ」と言われたり、模試の成績が酷かったり、などなど色々あったけれど、なんとか仕上げ、受験当日を迎えた。

試験会場には、もちろん彼がいた。

当時ハマっていた乙女ゲームのグッズである天然石を握りしめながら、試験に挑んだ。

試験の出来はなかなかのもので、塾長から合格だろうと言われた。

安心した私は、受験から解放を大いに楽しみ、あっという間に、合格発表の日がやってきた。

私の中学校は、結果を確認した後、報告する決まりで、受かった生徒と落ちた生徒は別の教室へ行くことになっていた。

無事に合格通知を受け取った私は、意気揚々と受かった生徒が集まる教室へ行き、先生に報告をした。

そのまま私は帰らずに教室に残って、受かった子達と高校での過ごし方を語らった。

受かった嬉しい気持ちを共有したいからではなく、彼を待っていたのだ。

しかし、彼が来ることはなかった。

私は受かって、彼は落ちたのだ。

家に帰って、私は一人で泣いた。親、塾の関係者先生、友人、皆喜んでくれていた。それなのに、私は涙が止まらなかった。

もちろん、嬉し涙ではなかった。

同じ学校に通えると思っていたのに、4月からはもう別々になってしまう。春を感じさせる暖かな日差しが、より胸を苦しくさせた。

結局、その後は彼と距離が出来てしまい、連絡先も交換できずに卒業式を迎え、卒業

高校に通うも、彼のいない高校生活を思い描いていなかった私の日々は淡々と過ぎていった。

どこかですれ違えないかと、駅に行っては姿を探した。見つけることはなかった。

彼の進学した学校は、体育祭文化祭も非公開。繋いでくれる友人もいない。どうにもならなかった。

途中、気になる人もでき、初めてお付き合いすることもできた。それでもやっぱり、初恋の人は特別なのか、忘れることはなかった。

色々あって、その人と別れた後も、特別なままだった。

大学に入ってからも忘れることはなかった。

ただ執着しているのだと分かっていても、忘れられなかった。

疲れている時は、彼と幸せになる夢を見たりした。起きた後、更に疲れたことは言わずもがな

社会人になり、新たに好きな人が出来、付き合うことができた。

この頃になると、思い出すことは僅かで、どんな仕事に就いているのだろうか、幸せな日々を過ごせているといいな、などの思いを馳せるだけで終わっていた。

結局、当時の彼とは遠距離トリガーになり、振られてしまった。

相当なショックを受けた私は、忘れるのに随分と時間がかかった。

忘れるために、私は昔のことを良く思い出すようになった。

当然、彼のことも懐かしむように思い出した。

すっかり失恋から立ち直った頃、私はふと彼の名前検索しようと思った。でも、勇気は出なかった。ストーカーチックな気がしたからだ。というか、たぶん、ストーカー

それから数ヶ月後の昨日、中学の友人、高校の友人と立て続けに会って疲れた私は、いつの間にか眠りにつき、そして久しぶりに彼の夢を見た。

変な時間に寝た私は、変な時間に起きてしまい、妙なテンションになってしまった。

そして、その勢いのまま名前検索した。

10年以上、忘れられなかった名前はすぐに打てた。

履歴に残るのが恥ずかしかったので、シークレットモード検索した。

すると、彼らしき人物がヒットした。

何やら本を出していたり、脚本家演出家をしているみたいだ。

作風を見る限り、本人に違いなかった。

彼の才能を生かす方面仕事で、私は嬉しかった。

それと同時に、何かスッキリした気持ちになった。

私が何度も思い出し、夢で見た姿は、過去のものしかないのだと、ようやく頭でも心でも理解できたのだ。

一緒に登校をしたかった私、一緒に文化祭を楽しみたかった私、告白をしたかった私。これらも、もう随分と前の私がしたかった、見たかった光景で、今の私が欲するものではないのだ。

ようやく、過去過去認識できたのだ。

初恋の人の名前検索したら、恐ろしいことになるような気がしたけれど、そんなことはなかった。

きっと、これからも私は彼のことを思い出してしまうし、切ない気持ちになるだろう。

けど、今までとは違い、適切な距離をもって振り返ることができる。

初恋の人の名前検索するのも悪くはないことが分かったので、ネットの海に漂わすことにする。

2019-08-25

めしを食う日々(寿司)

飯を食うとうまい

わかる

日曜日の昼前、実家暮らしの俺は冷蔵庫にめぼしい食材が無い事を確認し、

服を着替え家から徒歩3分くら寿司へ向かった。

回転寿司くら寿司よりもスシローの方が好きだったが、家から一番近いスシローでも徒歩30分。

車の免許もない俺はくら寿司を選んだ。

店を訪れるのは久しぶりで、今回初一人回転寿司ということもあり、

普段通り過ぎるだけのカウンター席に座るドキドキ感はそれだけで寿司の美味さに加点される。

席に着くとまずお茶を淹れるルーティン。の前にメニューを見た。

「これは!!」

くら寿司メニューにとびこがあるではないか

実は俺はとびこブームの真っ最中なのである

スシローくら寿司の大きな違いはとびこの有無たったそれだけであり、寿司屋の善し悪しはそれで決まる。

俺は興奮気味にタッチパネルをねっとりとした指先でなぞり、とびこを2皿注文した。

カウンター席の一番端は休日の昼までも混雑を知らず、あとにやってきた父と娘の2人客も静かでとても快適だった。

そんなこんなで場の雰囲気を味わいながらお茶をすすっていると注文配達レーンにとびこと続いて注文していたえんがわフライドポテトが続々と到着した。

すこしとびこが皿に散らばっていたりしていたがそれも情緒

きょうのとびこ散らばり占いは絶好調だ。

口の中に放り込めばプチプチと元気な音が聞こえる。

少し多くつけすぎたワサビの行き場のない痛みが涙を誘う。

うまい

なんてうまいのだろう。

テンションがぶちあがり、隣に座った客の食べっぷりの良さも影響して1皿、また1皿と狭いカウンターに到着する。

7皿ほど食べ、最初に頼んだフライドポテトがよくも悪くも存在を主張してくるが、

この天ぷら盛りあわせ280円の(大葉つき)がどうしても食べたい…

でも、揚げ物をこんなに食べたら死んでしまう…

今年22の俺の胃は脆い。

天ぷらの盛り合わせが手元にあった。

正直これはよくばりだったとおもう。

最後デザートを食べくら寿司をあとにした。

いい店じゃないか

俺は満足げに腹を撫でまわしながら、原稿用にモンエナの500ml缶を買おうとローソンに寄った。

レジに並ぶと見覚えのある後ろ姿。

「お、おかん…?」

おかん家族アイスを買いに来ていた。

「俺のは…?」

あんたは爽」

わるくない。

そのまま一緒に帰ることにした。

あんたどこ行ってたの」

「そこのくら寿司

俺は最近食べるものに金をかけることの喜びに気付き、

休日はよく一人で外食をしている。

今日原稿が行き詰って心が折れそうになっていたこともあり、俺の大好きな寿司を食べに行ったというわけで。

「へえ、一人でくら寿司

「さすがに沢山は食べれなかったなあすぐお腹いっぱいになっちゃった

俺は満足げに腹をさすった。


「やっぱりおいしくなかったでしょ?」


「おいしくなかったでしょ?じゃないでしょ?」

飯を食べてきた人に向かって開口一番「おいしくないでしょ」と断言するなんてサイコパスか?

「なんでそんなこと言うの?わざわざ店へ行ってお腹いっぱい食べて帰ってきている人においしくないってどうしていうの?」

俺はさっきたべた寿司たちの為に反論した。

安価提供される寿司たちにはネタ薄っぺらい、少ない、美味しくないって暴言吐いてもいいのか?

(これらは全て俺の祖母回転寿司に行くと必ず言う言葉なのでなるべく一緒に飯を食べにいかないことにしている)

「お前はいつも細かいことに反応して!そうやっていつもいつも」

「ちがうだろ!言い方がおかしいだろ!」


言い合っている間に家についた

俺はそそくさと自室に戻り10分ほど泣いた。

くら寿司UX完璧だった。

またつらくなったら寿司を食べよう。そう思った。

1663円でこんな最高になれるなんて。

しかおかん一言で俺は

「まずい飯に1663円を払った馬鹿

になった。


数年前学生の頃、オープンキャンパスバイトをしていた時も同じようなことがあった。

バイトの日は学食をタダで食べることができた。

俺はうめうめと飯を食う。

学食の回転効率を突き詰めた飯は素朴な味わいで食べ盛りの学生の為に米は大盛りだ。

今日タダメシも美味かったぜ、と満足げに教室へ戻ると同じメニューを食べた教員がこう言うのだ。

あんまりおいしくなかったね」


俺は思う。

人は共感を得たいというのもわかる。

だがネガティブもの共感を得ようとするやつは何をやってもダメだ。

おいしくなかったならわざわざおいしくないと言葉にせず、黙っていてほしい。

そして仮にとんでもなく自分の口にあわないものを食べたとしても、違う言い方をするべきだと思う。

例えば、

このうどんは俺には味が薄すぎたとか

油が強すぎたねとか

兎に角なんにでもまずいと言うのはやめた方がいい。

独り言でも隣の客に聞こえたらそいつUXもたちまち下がってしまう。

その教員には言った。納得してくれた。

でも俺の家の人たちはそういう理屈通用しないタイプだ。

からまり家族外食もしなかったし、これからもしたくない。

きっとどんな店に行っても何かにかこつけてまずいまずいと言うのだろう。


結論

美味い飯は環境から

うまい飯を食える仲間、美味い飯が食える店。

大事にしてほしい。

2019-07-26

anond:20190726221552

コミュニュケーション教室へ行け

座学ではなく実践の多いところにね

実践が9割以上の時間をとるような所がいい

座学や読書いくら知識を増やしてもコミュニュケーションは経験で覚えるもんだから無駄

2019-07-16

anond:20190716133150

集団でも出来るよ。予備校大学で授業を選択させる形式に小中高もすればいいだけ。

学級単位ではなく授業単位で、教師が動く形から生徒が自分教室へ移動する形にすればいい。

2019-06-28

[] #75-1「M型インフルエンザー」

パンがなければケーキを食べればいいじゃない」なんて、マリー・アントワネットは言っていなかったらしい。

なんで彼女セリフとして広まったかというと、“あいつなら言いかねない”からだ。

俺たちはそんなフンワリとしたイメージだけで信じてしまえるわけ。

冷静に考えてみれば、そもそも本人に確認を取っていない情報を信じるなって話ではあるけれど、そんなこと言い出したら歴史上の人物ほとんどがそうだろ?

誰が言ったか、本当に言ったかなんて、俺たちには分からない。

いや、今でも似たようなものかも。

俺たちは信じたいものを好きなように信じて、気をつけて使うべき階段を踏み外して怪我をする。

階段を使うことを決めたのも、気をつけなかったせいで怪我をしたのも自分のせいだけど、そのことについて反省しない。

「踏み外すような階段を作った奴が悪い」って思ってるからだ。



…………

その日の俺も深く考えないまま、学校の階段を一段とばして上っていた。

朝のチャイムが鳴る前に教室に入っとかなきゃいけないから急いでたんだ。

言い訳をしておくと、寝坊したわけじゃない。

登校だとかの面倒くさい日課ギリギリまでやらないことがモットーなのさ。

「よっ、ほっ、はっ」

階段を上るたび、背負っている鞄がユサユサと揺れる。

その振動で体のバランス不安定になりやすく、ちょっと危なっかしい。

さっきの例え話とかけるなら、俺はここで階段から転げ落ちるんだろう。

けど、あくまで例え話は例え話で、フィクションフラグなんて存在しない。

俺は自分教室があるフロアまで駆け上がった。

後は廊下を駆け抜ければ俺の教室だ。

経験上、チャイムが鳴るまで残り十数秒。

ここまでギリギリなのは初めてだ。

やばいやばいやばい

こんな余裕のないことをしておいてナンだけど、俺だって遅刻したいわけじゃない。

焦るものは焦る。

からといって、ここで走ってはいけない。

先生に「廊下を走るな」と止められる可能性があるからだ。

実際、それで遅刻しかたこともあるので、ここで走るのは危険を伴う。

急いで歩くことが求められる。

「急げ、急げ、急げぇ~」

そう呟きながら自分鼓舞しつつ、競歩選手並にクネクネしながら教室へ向かう。

スピード的には走っているようなものだったけど、常に足のどちらかは地面に接しているので問題ない。

だけど、それでも残り数秒あるかどうか。

頼む、間に合ってくれ。


――――キンコーンカンコーン

朝のチャイムが鳴り響く。

その音を俺が聞いた場所は……自分教室内だ。

「イエイ! 時間ピッタリ!」

これまでにないほどバッチリタイミングだったので、思わずガッツポーズをした。

客観的に見れば、ただ遅刻しかけただけなのに。よくそんなに喜べるな」

そんな俺に、クラスメートのツクヒが冷や水ぶっかけてくる。

「偉そうなこと言うなよツクヒ。遅刻しなかったのも、遅刻しかけたのも同じ。つまり俺とお前に何の違いもないんだ」

そんな冷や水にお礼を返すのも日常

取るに足らないやり取りだ。

しろ俺が気になっていたのは、仲間のタオナケ達が珍しいネタで盛り上がっていたことだった。

「私、今朝『マスニュース』みたんだけど、あなた達も観た?」

「う、うん……みた、き、きいた」

「僕も観たよ。いやー、とうとうここまで大事になったか

俺たちガキにとって、ニュース占いとかミニコーナー目当てに観るものだ。

それにつけても、朝から話題にするようなことじゃない。

だってニュースの話で朝から盛り上がるなんて、イキってるみたいじゃん。

から話題になっているということは、よっぽど気になるネタがあったってことの裏返しでもある。

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