はてなキーワード: 行動経済学とは
ルッキズム→見た目の良し悪しはすぐ分かるけど、性格の良さとか内面は人間観察ができないと見抜けませんね?
性格が良い人は稀で、何かしら欠点がある人がほとんどだと思います。
だから、加点方式よりも減点方式で、ハズレの人間を閻魔帳に記録していく方が判別が楽かも?
自分の中では加点方式もあるけど、口外すると差別主義者と言われる可能性が高いので秘密にしています。
ほんの一例だけど、食欲を見れば性欲もだいたい分かります。食べ方の傾向を見て、いろんな相手をつまみ食いしたいタイプか、好物をリピートするタイプかで、浮気性を検証できるとか。
例えば恋愛工学は人間の性欲にスポットを当てて性奴隷を作るノウハウですが、人間の欲望は性欲だけじゃないので、人間の性格を判別するには広範な知識が必要ですね。
増田ではとても公開できるものではありませんが、人間観察の基本は割とシンプルだと思います。
(名誉棄損とか差別と糾弾される事態を避けるために、公開できる範囲で結構ですが)みなさんの使っている性格判別法があったらシェアしてください。(上記の食べ物の話みたいなノウハウ)
今の増田がポンコツ人間になってしまった原因を徹底的に分析して欲しい。
幸い元増田は、小学校→中学校→高校→大学→卒業後と時系列での出来事を鮮明の覚えていることから、おそらく記憶力は良い方なのだろう。
問題は、能力の活用方法が分かってないだけで、活路は見出せる。
「行動経済学のゼミを志望」との一文から、増田はおそらく文系だったのだろう。
ジャン・ピアジェの発達心理学とか知ってれば話が早いのだが、簡単に人間の知的活動について確認しておこう。
大学の学部を卒業できた元増田は、1~2のレベルの知性はある、ということになる。
もしも博士課程とか行って研究論文を書く段階になると、3が必要になってくる。
今の元増田に足りないのは1よりも2、さらには2よりも3ということになる。
では、どうやって3を鍛えればいいのか?
テストで採点することができるのは、正解が用意されているからであり、正解がない問題でテストをやったら採点できないからね。
入学試験も、期末試験とかも、ドリルや問題集も、全てが正解がすでに分かっている問題でしかない。
だから効率良く攻略する方法があって、学習塾や予備校では攻略法を研究しているプロの講師が生徒にノウハウを売っている。
学校にいる間は生徒を育てるために、守られたぬるま湯の空間の中で、簡単な「既決問題」ばかりをやらされている。これなら(1)知識や(2)知能があれば十分だ。
学校を卒業して社会に出ても、決まった内容の仕事をやるだけなら、マニュアルや研修で「既決問題」の練習をやるだけで十分。
菓子パンを作る工場の作業員とかなら、材料を入れる方法や機械の操作方法を覚えたらいいだけなので、(1)知識で事足りる。
弁護士や公認会計士とかなら、さらに知識を組み合わせて使う(2)知能が求められる。煩雑な業務で求められるような事務処理能力がまさに(2)知能の代表例だろう。
たとえば、ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授は、まだ誰も作ったことがないiPS細胞の作り方を発見した。
これは膨大な実験を通じ、対象を観察し続けた結果、細胞の変化について法則性を発見して、問題解決に至った事例だろう。
(前提となる(1)知識、(2)知能だけでは、iPS細胞は発見できなかった。(1)(2)だけで可能ならとっくの昔に他人が気づいていたはず)
ノーベル賞は派手な事例だけど、日常生活の中でも、観察によって解決方法を導き出す(3)知恵が必要になる場面は多々ある。
会社でも、今までなかった新商品や新サービスを開発するためには、過去の売上データとかをこねくり回すだけではダメだ。それでは無能のコンサルタントにしかなれない。
実際に現場に出て、困っている客の声を聞いたり、不具合が発生する状況を観察して、まだ誰も知らない解決方法を発見するしかない。
ここまで説明すれば分かる通り、K-12教育(小学校6年+中学校3年+高校3年=12年の教育)や大学の学士程度では、(1)知識や(2)知能しか磨く機会がない、ということ。
(3)はさらに高度な専門性を必要とする課程や、社会に出てから実地で身につけるしかない、ということ。
今の元増田は、学校で身につけた能力を、さらにもう一段階上のレベルに引き上げなければならない。
それは面倒くさいことのように思えるかもしれないけど、(3)知恵を鍛えて欲しかった解決方法が得られたらすごいワクワクする体験ができる。
人間ってのは、分からなかったことが分かった瞬間、すごい快感が得られるのだ。
風邪気味で鼻づまりになって息をするのが苦しかったり頭痛でモヤモヤしていたのが、一気に鼻が通りスースーしてカフェイン等の薬物(○○剤の方が顕著だが一応NG)で頭の中が晴れ渡ったようにシャキーンとした体験が、少なからずあるだろう。あれに少し似ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%B9
何日か悩んでいたアルキメデスはある日、風呂に入ることにした。
浴槽に入ると水面が高くなり、水が縁からあふれ出した。
これを見たアルキメデスは、王冠を水槽に沈めれば、同じ体積分だけ水面が上昇することに気がついた。
王冠の体積と等しい、増えた水の体積を測れば、つまり王冠の体積を測ることができる。
ここに気がついたアルキメデスは、服を着るのを忘れて表にとびだし「ヘウレーカ(ηὕρηκα!)、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、裸のままで通りをかけだした。
どこに吐き出せばいいのかもわからない自分の気持ちと、きっと誰の記憶にも残らないであろう自分の人生を増田に投下したい。
要旨はタイトルの通りでしかないが、就活に失敗し続けて無職のままアラサーを迎えてしまった。今年はもう就活すらしていない。
就活は売り手市場だなんだと聞いていたが、それは結局平均的にコミュ力のある人間にとっての話であって、自分のようなコミュ障で陰気な人間にとっての話ではないのだなと痛感した。
ふと思い返せば友達が居た記憶があるのは小学生の頃までだったし、その頃もたまたま流行っていたポケモンに詳しかったから仲間に入れてもらえていただけだったんだろうなと今になって思う。
中学に入学したあたりでクラスもバラバラになり、小学生の頃のグループは自然消滅してしまった。
誰にも声をかけられることはなく、かといって声をかける勇気もなく、本当にただ孤独に過ごしていた。
部活にも入らなかった。正確には入れなかった。
聞こえてくる話を聞く限り、中学に入学した時点で皆は入りたい部活まで既に決めている人が多かったようだった。
特にスポーツの経験もなく、かといって文化的な素養もない俺にそのようなものはなかった。
「この部活に一緒に入ろう」と声をかけてくれるような人も当然いなかった。
未経験の部活の仮入部に飛び込む勇気もなかった。気がつくと入部届の提出日は過ぎていた。
友達はもちろん欲しかったが、既に俺以外の人たちで完結しているように見えたコミュニティに入り込めるような人間ではなかった。
最初の入学式の時点で、席が近い人たちか、同じ小学校の出身の人たちで話して仲良くなっていた。俺だけが孤立しているような錯覚を覚えて、行きたくもないトイレに逃げて泣きそうになったのを今でも覚えている。
中学生にもなると皆携帯を持ち始めるようになっており、誰々とメアドを交換したとか言う話題が聞こえるようになった。
親にねだって携帯を買ってもらった。結局誰1人としてメアドを交換することはなかった。
中2の時だったと思うが、モンスターハンター3rdが学年中で流行っていた時があった。
みんなで放課後に誰かの家や公園で集まって一緒にプレイしているような話が聞こえてきた。
親にねだってPSPとモンハンを買ってもらった。話しかけてもらいたくてわざわざ学校にPSPとカセット持って行き、わざと休み時間に机の上にそれらを出した上で寝たふりをしていた。
国語の先生に見つかって取り上げられ、皆の前で叱られ、反省文を書かされた。あの瞬間が中学生活の中で1番みんなからの注目を集めた瞬間だったんだろうな。悲しすぎる。
今にして思えば、ポケモンに詳しかったことで仲間に入れてもらえた小学生の頃の成功体験を引きずり続けて、同じ手法でなんとか挽回しようと考えている自分の浅ましさがもう情けないよな。
勉強だけは頑張った。成績が良かったテニス部のクラスメートが色んな人に「勉強を教えて!」と声をかけられているのを見たからだ。それもまた、今思えば笑ってしまうくらいに浅はかだけれど。勉強ができるから声をかけられていたのではなく、テニス部の人気者だから、勉強を理由に声をかけてもらえてただけなのに。その構造を見抜くだけの頭の良さは残念ながら当時の私は持ち合わせていなかった。
勉強の甲斐あって、地元で1番の公立高校に合格した。親以外に祝っては貰えなかったが、それでも良かった。
合格と同時にiPhoneを買ってもらった。LINEをインストールした。
中学の頃は初手で部活に入ることに失敗したことや、コミュニケーションを取ろうとアクションする前に既に人間関係ができてしまっていたことが敗因であると考えていた。今回は入学式の日からちゃんと人に声をかけると強く決意した。
失敗した。
出身中学が同じもの同士で既に固まっていたし、何より塾が同じもの同士での結びつきもかなり強固であった。
3~4日目にして、ついに席の近いクラスメートが声をかけてくれたことでクラスラインに加入することには成功したが、人数から察するに私が最後のメンバーであった。
私が入った頃にはクラスラインでの会話は殆ど無く、既に仲の良いもの同士でより小さなグループを作ってそこでコミュニケーションをしていた。
同じ塾での繋がりから、合格発表があったその日には学年のグループができており、入学式の日にはもうクラスラインが出来ていたらしい。
結局、中学生の頃に友人を作れなかった負債に高校生になっても苦しめられるのかと思った。
部活動にも入ろうと思った。未経験でも最初の入部の時点であれば飛び込めるのだと学んでいた私は、新歓で惹かれた剣道部に入部した。
2ヶ月で辞めた。
私以外の入部者が全員経験者であり、初心者が私しかいなかったからだ。
先輩はもちろん自分のために練習に付き合ってくれたが、同級生や先輩達のレベルと自分の立ち位置があまりに乖離しており、自分1人だけが別で初歩的な練習をしているのが、晒し者にされているような気がして嫌になり、逃げ出してしまった。
自分だけが初心者だという引け目から、同級生ともろくに話せずに終わってしまった。
ここで投げ出さなければ…と今なら思えるが、やはり当時の自分には無理だったのだろうなという諦めのような感情もある。
同じような基礎練習に打ち込む初心者がもう1人でも居れば…と仮定しては、さも自らが理不尽な状況下にあるかのような想像をして自分を正当化しようとしていたことを何故か今でも覚えている。
幸いだったのは学校に自習室があったことで、これにより部活動の時間分を自習室で勉強することで、親には部活動を続けているようなフリをし続けていた。今思えばバレていたのだろうか。
中学の頃から帰宅部であり、友人と遊ぶようなそぶりすら見せてこなかった俺を、親はどう思っていたのだろうか。
何も言わないでいてくれた親の気持ちを想像すると、胸が苦しくなる。
高校でTwitterが流行った時期もあった。例に漏れず私もアカウントを作った。当時のTwitterはまだ身内感が強かったこともあり、高校名や氏名で検索しては片っ端から同級生をフォローした。
フォローバックも多少はしてもらえたと思う。
しかしながら、結局何もツイートすることはできず、ただ同級生の動向を監視しているだけの気持ち悪いアカウントに成り下がっていた。
一言も喋らない陰気な奴が変なことをツイートしたらどう思われるのだろうかと、怖くて何もツイートできなかった。
LINEを交換しているもの同士でスコアがランキング形式で共有されるのだが、たまたま引いたマレフィセントというツムで圧倒的なスコアを叩き出したことがあった。
その時にクラスメートが「上手いんだね!」と声をかけてくれたことがあったが、気の利いた返しが浮かばず、ぎこちない笑みを返すことで精一杯だった。
3年以上碌に会話をしていないのだから当たり前なのだが、もはや会話をするという行為が自然には出来ないようになってしまっていた。うまく言語化できないが、相手の言っている内容を理解した上で、それに対する返答をいくつか頭で構成し、そのうち最適なものを選択して口からアウトプットするという一連の行為が自然に出来ないようになってしまっていた。目を合わせるだとか、自然な表情を作るだとか、そんなことは言うまでも無くできなかった。
その会話での失敗は自分の中でも忘れられず、次に同じように話しかけられた際の返答を何度も何度もシミュレーションした。
ツムツムも継続してスキルを磨き、ランキングではトップを取り続けた。
当たり前だが、次の機会は来なかった。
高校3年間は最も密度の高い青春の3年間だったと知り合いの誰かがTweetしていたが、俺の3年間は思いつく限りの思い出で上記が限界だと思うと、本当に虚しい気持ちになってしまう。
今度こそ失敗しないようにと臨んだが、やはりダメだった。
講義における自由な席のシステムや、そもそもクラスなどが存在していないという状況で、自ら人に話しかけるだけのスキルを持ち合わせていなかった。出身高校も予備校も基本的には違うはずなのに、即座にそれぞれで仲良くなれていたのが不思議で仕方なかった。
サークルの新歓にも行った。バーベキューだった。同じ机に先輩が2人、新入生が3人の5人で座っていたのだが、気がつけば私を除いた4人での会話になっていた。
先輩が時折私に話を振ってくれていたのだが、明らかに気を遣ってくれているのだとわかり、余計に苦しく、惨めだった。
新歓用のライングループがあったようだが、私には加入の声もかからなかった。
自ら興味のある分野を見つけ、そこに飛び込むだけの主体性すら持ち合わせていなかった。
テストは同じ授業の過去問を持ち合わせているかどうかで対策の可否が大きく変わるものだった。友達のいない私には非常に厳しかった。
授業に一度も来てないようなテニサーの奴よりも、私の成績の方が悪かった。友人は居なかったが、それでも勉強だけは出来た自分にとって、学業の成績は唯一の精神的支柱であったのだろう。かなりメンタルにきたのを今でも忘れられない。
しかし、そうは言っても今更友人を作ろうと発起するのも見苦しいように思えて、結局何の行動も起こせなかった。
ゼミはそれなりに興味のあった行動経済学のゼミを志望したが、人気ゼミの面接に通るはずもなく落ちた。
結局、不人気な統計学のゼミに入った。幾つ上かもわからない留年生と私の2人だけだった。
自分の存在は何度も留年を繰り返す謎の男と同じ程度なのだと言われているようで苦しかった。
そして就活の時期を迎えた。
講義室で聞こえる会話で周りが既にインターンというものにエントリーしていることを知った。その後、焦って就活について調べ始めるものの、そもそも特にやりたいこともなく、また、特段興味がないものに対して熱意があるかのように見せられるだけの技量もなかった私は、悉くインターンにも落ちた。
志望動機や経験(あまり好きではない語彙だが「ガクチカ」と呼ばれるもの)に嘘や誇張した内容を書くような人々を見下していたが、結局採用されるのは見下していたはずの人々だった。
奴らは汚いことをしているのだと内心見下すことで、倫理的には彼らより優位にあると思いたかったのだと思う。そんな卑屈さで小さなプライドを守ったところで、何一つ実利はなく、ただ不幸になるだけだということに気づけなかった。
その後、大学名の威光もあってか1dayのインターンには通ったものの、グループワークが中心の1日に馴染めるはずもなく、ひたすら透明人間を演じた上で、最後に儀礼的に連絡先だけを交換して終わった。
同じグループの人は関関同立(関西ではそれなりの地位にある大学群)の同学年だったが、グループワークでのリーダシップの発揮ぶりは私とは比にならなかった。社員の見る目も違っていた。もちろんその後を知ることはないが、きっと大手の企業で内定を得て働いるのだろうなと思う。
昼休みの会話で、高校は私と同じ地域にある偏差値50程度の私学であることを知った。指定校推薦で大学に入ったらしい。
学業にしか縋れなかった私は、恥ずかしながらも内心では関関同立を見下していたし、偏差値50程度の高校に行った人とは今後交わることすら無いものだとすら思っていた。卑屈な選民思想を持った自分が恥ずかしかったし、完全に下に見ていた人々にも逆転されたという事実を突きつけられたのはかなりショックでもあった。
後日講義室で聞こえてきた「1dayインターンは意味がない」という言説を信じ、1度きりで申し込むのを辞めた。今思えば、傷つきたくないがために縋ってただけなんだろうな。人は信じたいものを信じるように出来ているとはこういうことなのだろう。
そうこうしているうちに、気がつくと本選考の時期が到来した。最終的に50社くらいはエントリーしたと思うが、全落ちした。
就活対策の本を立ち読みしたが、内容のバカバカしさに呆れて買うこともしなかった。ここで変な意地を張らずに素直に買って、その内容を再現できていれば結果は変わったのだろうか。正直そうは思えないが。
他にも面接対策をやっているサークルの一室を訪れようとしたが、室内の華々しさに気圧されて扉の前で踵を返してしまった。
あんな楽しそうに就活に臨んでいる人々はどうせ碌な結果を得られないのだと自分に言い聞かせて帰路についた。
無職で世に放たれるよりは学生の身分があった方がいいとの計らいだった。多分留年を繰り返していた彼も、同じような配慮で留年を続けていたのだと思う。本当に有り難かった。
結局、面白くもないyoutubeを観ていただけの1年だったと思う。観ていた動画の内容すら思い出せない。
勉強だけは出来たのだから、学業で勝負するのが自分にとって最適な戦略だと今更思い至った。
予備校に通い勉強をしていた。数年振りに自分の得意分野で勝負ができて、純粋に楽しかったことを覚えている。
筆記試験には合格したが、その後の面接(厳密にはこれも試験という名前ではある)で落ちた。
周りを見るに自分と同程度にはコミュニケーション能力が疑わしい者も散見された。少なくとも就活の面接では考えられないほどにレベルは低かったと思う。それでもダメだった。
いよいよ俺に出来ることはないんだろうなと深く絶望した。
無職の悪いところだが、時間だけは無限に持て余しているせいで、絶望的な場面が何度もリフレインしてしまう。
あの時こうしていたら…という後悔があまりに多すぎる。
どこが俺の人生の岐路だったのだろうか。
どうしていれば俺はこうならずに済んだのだろうか。
1年引きこもってもその答えは出せずにいる。
何度考えても、命を絶つ他にないんだろうなとは思うのだけれど、それにしたってどの選択を取っても両親に多大なる迷惑をかけるんだと思うと踏み切れない。
ここまで育ててくれて、何も言わずに無償の愛を注いでくれた両親に、最期に出来ることは何かないだろうか。
こう振り返ってみても、本当に家庭環境も含め、両親には恵まれた人間だと想う。だからこそ、その結果がこのザマで本当に情けなく、申し訳ない。
せめて迷惑だけはかけずに、ただ俺1人だけが苦しむだけで済むような方法を取りたいとは考えているが、それすら踏み出せないのかもしれない。
ここまで読んでくれて本当にありがとう。
ご想像の通り俺に友達なんてものは1人たりとも居ないし、今まで生きてきた人生も、今まで抱いた感情も誰にも共有できず、誰の記憶にも残らずに終わったんだと思う。
その意味で、誰か1人でもこれを読んで、誰かの記憶に少しでも残ることができたかなと思うだけで、なんとなく心が軽くなった気がする。
月20ドル払ってサブスクしてるChatGPT(GPT-4)に行動経済学の観点からアドバイスしてもらったよ!
増田さんが書き込んだ内容を読みました。増田さんは自身をHSP(Highly Sensitive Person:高感受性の人)と認識し、その特性が婚活に影響を与えていると感じているようです。また、自分の行動について反省の念を示していますが、同時に自分の感受性が高いことを理由に、自分の行動を正当化しようとしているように見受けられます。
行動経済学の観点からアドバイスをすると、まずは自己認識と自己制御について考えてみてください。行動経済学は、人間が完全に合理的な選択をするという経済学の前提を問い直し、心理学的な要素を取り入れて人間の行動を解析します。その観点から、自分の感情や感受性が高いことを理解し、それが自分の行動にどのように影響を与えているのかを理解することが重要です。
次に、自分の行動が他人にどのような影響を与えるかを考えてみてください。自分の感受性が高いことを理由に、他人を傷つける行動をとることは許されません。他人の感情や立場を尊重し、自分の行動が他人に与える影響を考慮することが大切です。
また、自分の感受性が高いことを理由に自己制御を放棄するのではなく、自分の感情や感受性をコントロールする方法を学ぶことも重要です。心理療法やカウンセリングなどを通じて、自分の感情を適切に管理するスキルを身につけることができます。
最後に、自分の感受性が高いことを理解し、それを受け入れることも大切です。HSPは一部の人々が持つ特性であり、それ自体が問題ではありません。しかし、それが自分の行動にどのように影響を与え、他人にどのような影響を与えるかを理解し、それに対処する方法を学ぶことが重要です。
新発売してすぐ売ることで安く楽しめるから絶対にパッケージでしか買わない奴がいる
そいつは穿きたいなって思ったパンティーでもダウンロード版でしか出てないと買わないとか意味がわからない
おっさんとかに売れないパンティーは買わない価値観が理解できないから、そういう奴が他にいたら誰か言語化しておしえてくれ
その人がパッケージ版のゲームを好む理由はいくつか考えられます。
まず、物理的なパッケージを持っていることでコレクション性があり、所有感を感じることができます。
また、新作をすぐに売ることで、一定の買い取り価格があることからコストを抑えることができるという考え方もあります。
ダウンロード版でしか出ていないゲームを買わない理由は、中古市場で売買できないため、コストを抑えることが難しいと考えているのかもしれません。
また、ダウンロード版はデータが消えたり、アカウントに問題が発生した際に再ダウンロードができないリスクがあることから、パッケージ版を好む人もいます。
ただし、そのような消費的な考え方は、自分の価値観に合わない人もいるでしょう。
例えば、ゲームを純粋に楽しみたい人や、ダウンロード版の利便性を重視する人は、そのような価値観を持っていません。
売れないゲームだと損した気持ちになるのは、行動経済学的な観点からも説明できます。
損失回避という心理現象によって、人は損失を避けるために過剰に反応することがあります。
そのため、売れないゲームに投資してしまった場合、損失感を感じることがあるでしょう。
しかし、これらの考え方は一部の人に限られており、他の人々はそれぞれ異なる価値観を持っています。
産みたくないという女性に産ませることができるか?に対しては「その理由が社会や環境にあるのなら産みたくなるようにすべき」が回答だ。
産みたくないという女性の産みたくない理由を取り除いたり、産みたくなるようなインセンティブを与えるんだよ。別の人が言ってるけど行動経済学で言うナッジという考え方だ。
個々個別の事案において強制するのではなく、全体としてそういう傾向になるように誘導するんだ。
何度も言ってるんだけど、壊れた機械のように同じことを繰り返すよね君は。ひょっとして言葉の意味が分かっていないのかな?
インセンティブっていう言葉が分からないのなら、これを見てくれ。https://eigobu.jp/magazine/innsenthibu
ナッジが分からないならここ。https://ideasforgood.jp/glossary/nudge/
岸田さんが今いろいろやろうとしているのもこの方向性。
「あなたは自分が思うより人に好かれている」と研究結果で示される - GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20180921-liking-gap-in-conversations/
コーネル大学で心理学や行動経済学について研究を行う博士研究員のErica Boothby氏らによる研究チームは、5つの研究を行った結果、「会話相手が自分をどう思っているのか」ということについて本人と相手の間にギャップが生じていると結論を出しました。知らない人と会話を持った時に、相手は会話を楽しんでいるのに、自分はそのことに気づかないという現象を、研究者らは「認知の錯覚」と呼んでいます。
5つのうちの研究の1つでは、研究者は初対面の被験者をペアにし、「出身は?」「趣味は?」といった緊張を和らげるための典型的な質問を行ってもらいました。そして、被験者は会話の終わりに「あなたは会話相手のことをどのくらい好きになりましたか?」「会話相手は自分のことをどのくらい好きになったと思いますか?」ということを評価しました。
この結果、平均的に見て、「相手が自分のことをどのくらい好きか」という自己評価は「実際に相手が自分をどのくらい好きか」という評価よりも低くなったとのこと。これは、被験者が「相手が自分をどのくらい好きか」ということについて予測間違いをしていることを意味します。実際に会話の様子を録画した映像を分析しても、被験者は相手の「興味」や「楽しさ」を示す振る舞いを考慮していないことがわかるとのこと。別の研究では、人は相手との会話において生じたネガティブな瞬間から「相手が自分をどのくらい好きか」という考えが作られると信じる傾向にあることが示されました。
Q: 真実の情報の希少性が高まっている。数学を理解することが重要だという意見もありますが、なぜでしょうか?
数学は、情報の評価と伝達に厳密かつ客観的な方法を提供することができるため、しばしば真実を理解するための鍵と見なされる。数学では、厳密な論理法則と定義に基づいて、文が真か偽かが証明されるため、曖昧さや混乱、誤解の可能性が低くなる。また、数学の証明は独立に検証することができるため、複数の人が結果の妥当性を確認し、同じ結論に到達することができる。
情報が簡単に手に入るようになった現代では、真実と誤った情報を切り分けることがますます難しくなってきている。数理的手法を用いることで、何が真実で何が真実でないかという共通認識を確立し、情報の正確さを評価する根拠とすることができる。
しかし、注意しなければならないのは、数学は誤報の問題を解決する魔法のようなものではないということだ。他の分野と同様に、数学も人為的な誤りや偏見、操作の影響を受ける可能性があり、他のタイプの情報と同様に、数学的情報の評価には警戒心と危機感を持ち続けることが肝要である。
Q: では、数学的な情報のヒューマンエラー、バイアス、操作にはどのようなものがあるのですか?
数学的な情報には、ヒューマンエラー、バイアス、操作など、いくつか挙げられる。
数学的情報を評価する際には、このような誤り、偏り、操作の潜在的な原因を認識することが重要である。これは、数学的モデルの仮定、方法、結果を批判的に検討し、複数のソースから独立した検証を求めることによって行うことができる。さらに、基礎となるデータや方法を透明化し、オープンにすることで、より正確で信頼できる数学的情報の表現が促進される。
Q: AMSからよく本を買いますが、AMSは信頼できるのでしょうか?他に信頼できる出版社はありますか?
AMS(アメリカ数学会)は、数学および関連分野の質の高い研究を出版していることで知られる、評判の高い数学出版社である。その書籍やジャーナルは、数学者やその他の研究者に広く利用・引用されており、品質と厳密性の面で高い水準を維持しているという評判を得ている。
しかし、最終的には個々の著者の仕事に依存するため、どの出版社も、作成するすべての出版物の正確さと信頼性を保証することはできないことは知っておく必要がある。しかし、AMSのような出版社は、査読や編集の監視など、出版物の品質と妥当性を保証するための手順やプロセスを確立している。
その他、評判の高い数学出版社には、シュプリンガー、エルゼビア、ケンブリッジ大学出版などがある。これらの出版社も、出版する資料の品質と信頼性を確保するための手続きを確立しており、その書籍やジャーナルは数学界で広く利用され、尊敬を集めている。
特定の出版物を評価する際には、著者、出版社、ジャーナルや書籍のシリーズの評判、作品自体の性質や制作に使われた方法などの要素を見ることが有効である。さらに、査読済みの論文や専門家の意見など、独立した情報源を探すことで、提示された情報の信頼性と妥当性をより包括的かつ正確に理解することができる。
Q: 私は個人的に、人間の意思決定、すなわち、人間がいかに合理的に行動するかに興味があります。そのようなことを分析するために必要な数学の分野にはどのようなものがあるのでしょうか?
数学は人間の意思決定の研究に重要な役割を果たし、この現象を分析するために数学のいくつかの分野が使われている。重要な分野としては、以下のようなものがある。
これらは、人間の意思決定の研究に関連する数学の分野のほんの一部に過ぎない。使用する数学的ツールは、研究対象の特定の問題や分析対象の意思決定状況の種類によって異なる。
因果推論もまた、人間の意思決定の研究に一役買う数学の重要な分野なのである。因果関係の推論は、変数間の因果関係を決定するプロセスであり、介入や政策変更が特定の結果に及ぼす影響を研究するためによく使用される。
人間の意思決定という文脈では、経済成長、健康上の成果、政治的成果などの結果に対するさまざまな意思決定や行動の因果関係を理解するために、因果推論を用いることができる。これにより、研究者は、異なる意思決定の潜在的な結果を理解し、証拠に基づいてより多くの情報を得た上で意思決定を行うことができる。
観察研究、ランダム化比較試験、道具変数法などの手法がある。各手法にはそれぞれ長所と短所があり、どの方法を選択するかは、質問される特定の事柄と利用可能なデータの種類によって決まる。
線形回帰モデル、構造方程式モデル、ベイジアンネットワークなどの数理モデルは、変数間の関係を表し、データに基づいて予測を行うために、因果推論でよく使用されるものである。これらのモデルにより、研究者は因果関係の強さと方向を定量化し、介入や政策変更の効果について推論を行うことができる。
Q: 想像力を高めるために、量子力学を勉強した方がいいという話もあります。一方で、いろいろなことをやろうとすると時間が足りません。効率よく数学を勉強するコツはありますか?
数学の勉強は、確かに視野を広げ、想像力を高めることができ、効率的にアプローチする方法もたくさんある。ここでは、役に立つかもしれないいくつかのヒントを紹介する。
これらのヒントを参考にすることで、数学を勉強している間の時間と労力を最大限に活用し、より深く理解することができる。
Q: 数学の知識を使いたいのですが、一部の人は大学を卒業していないので、自分の能力を証明する形で数学を使うことはできません。社会的弱者が数学を武器に生き抜くとしたら、どのような方向性を提案しますか?
数学は、伝統的な大学の学位を持っていない人にとっても、個人的・職業的な成長のための貴重なツールとなりえる。
学歴に関係なく、人生やキャリアを向上させるために数学の知識を活用する方法はたくさんある。重要なのは、自分の数学的スキルを実用的かつ有意義な方法で応用する方法を見つけることである。また、データ分析やファイナンシャルプランニングなど、興味のある分野のオンラインコースを受講したり、資格を取得したりして、スキルをさらに伸ばし、雇用の可能性を高めることも検討できる。
Q: ギャンブルで勝つ、Youtuberになる、など、変わったキャリアを目指す人たちがいます。この人たちはどうやって数学を活かせるでしょうか?
数学の強い理解が役立つ型破りなキャリアはたくさんある。以下はその例。
自由と自律性を維持しながら、政府はどのように私たちの意思決定を支援することができるか?
自由な社会には選択の自由が不可欠である、という主張がある。しかし、政府が人々の選択を支援する行為はどの程度まで許容されるのか。政府は国民が世の中をうまく切り抜けるために必要な道具をすべて与えるべきなのか。同時に、国民が自分で選択し、失敗したときは責任の所在が証明できなければならない。
ナッジは、行動経済学を使って市民をより良い選択をするよう促す方法を詳述しているが、人々を操作することと同じではないのか?どのように自由が保たれているのか?おそらくナッジとは、選択肢を禁止したり経済的インセンティブを大きく変えたりすることなく、予測可能な方法で人々の行動を変える、選択設計のあらゆる側面を指すのだろう。ナッジとみなすには、介入を避けることが容易で安価でなければならない。ナッジは義務でも強制でも同調圧力でもない。
ナッジは「押し付けがましくない」という理念にもかかわらず、効果があることが示されているらしい。例えば健康関連のナッジが、より健康的な食事と栄養の選択を増加させるとか、オプトアウトシステムが決定についてストレスを感じなくなるとか、そういう話はある。選択設計で、より多くの人々が考えることを減らし、なおかつ社会や自分自身にとって良い選択をすることができるとされる。
では、政府が人々の行動に影響を与えるためにナッジ理論を用いることと、自由主義は両立するのか?政府が国民にとって何がベストかを知っていることを前提にしているのではないのか?
ナッジの要点は、選択の自由を維持することである。医者が「精神状態が悪すぎるので精神科に入院しなさい」といっても、患者は自由を保持し、その後押しを無視することができなければならない。多くのナッジは本来、情報の開示、警告、リマインダー、といった教育的なものである。
例えば消費者が十分な情報を得た上で選択できるように、燃費やエネルギー効率についての情報を開示することは、自由と矛盾するものではない。だが、明らかに行動経済学は、パンデミック時の政府の封鎖対策に影響を与えている。
この運動が行き場を失っていることを示唆するのは、行動科学は問題を単に個人の誤った選択の結果とみなす習慣に陥っていることだ。一方、ナッジ理論の肯定派は「政策の世界では行動科学者は構造的な問題にほとんどの時間を費やしてきた。タバコ税は構造的な問題に対処するもので、人々が将来の自分自身に課す害を削減しようとするものである。」などと主張している。
「ナッジ」といいつつ、特定の思想や行動へ誘導することで政治的な優位性を確保しようとする勢力が常に潜んでいることは注意すべきことだ。そのような意図がなくとも、誘導する必要のない方向へ一度舵を切れば、後戻りが難しくなることがあると考えたほうが良いだろう。
なんか急にリベラル様が「私達は9条があれば平和は守れるなんて言ってない! 9条は日本を縛るためのものと言ったことはあるけど!」「だから侵略させないためには、別に手を尽くす必要がある」と言っている。
日本で最高の知能が集まるリベラル様が間違いを言ってるはずがないので、自分の記憶が間違ってないか調べてみることにした。一般人から政党まで、いろいろとね。
また、憲法九条は、紛争を平和的に解決するという考えを、多くの国民に定着させてきました。こうして、他国に軍事介入しない、紛争の原因をつくらないということが、他国による日本侵略の要因をつくらず、平和を守ることにつながってきました。
このレベルの例なら私にも出せる。しかもこんな小粒ではなく大量に、だ!これを見ればリベラルどもも黙るだろう。
第11問 憲法第9条は、戦争を放棄し、戦力を持たないことを決めています。あなたは、この第9条は、日本の平和と安全に、どの程度役に立っているとお考えですか。リストの中からお答えください。
1.非常に役に立っている 29.4%
2.ある程度役に立っている 52.6%
4.まったく役に立っていない 2.3%
5.わからない、無回答 4.7%
そう、何とNHKによれば日本人の8割もが憲法9条が日本の平和と安全に資すると答えているのである!
どうだリベラルどもよ、これを見てもまだ9条が平和に役立つと言ったことがないなんて言えるか?言った人がいたとしても少数だなんて言えるか?国民の8割とはマイノリティーなのか?マジョリティーもマジョリティーなのである!
そして今明かされる衝撃の真実!大多数の日本人はお花畑リベラルかお花畑リベラルに洗脳された愚民だったんだよッッッッ!
おっといけない愚民なんて言葉は選民思想リベラル様の専売特許だったのであった。しかしまあなんて由々しき事態なんだ…。
日本は国際社会で、主としてどのような役割を果たすべきか聞いたところ、「環境・地球温暖化・感染症対策を含む保健などの地球規模の課題解決への貢献」を挙げた者の割合が63.9%、「人的支援を含んだ、地域情勢の安定や紛争の平和的解決に向けた取組を通じた国際平和への貢献」を挙げた者の割合が59.2%と高く、以下、「軍縮・不拡散の取組などを通じた世界の平和と安定への貢献」(41.2%)、
昨年度の内閣府の調査を見れば国民どもの思想を垣間見ることができる。4割が軍縮・不拡散を行うのが日本の役割だと述べているのだ。この夢想家どもがッッッ!
ちなみにCSVデータを見ると一番軍縮云々に賛同しなかったのは30代で26.1%しか賛同していない。次が18-29歳の37.3%なのでここだけ異様に低いのが分かる。不思議だね。
いや、ちょっと待ってほしい。「9条が日本の平和に役立っている」と主張したからといって「9条があれば日本は平和」と言ったことにならないはずだ。「他国に軍事介入しない、紛争の原因をつくらないということが、他国による日本侵略の要因をつくらず、平和を守ることにつながってきました」という文章を読んで「わあ、9条があれば侵略されることはないんだね!」と読解する人間はさすがにおるまい。確かに共産党は近いことを言ったこともあった気がしないでもないがこの文章だけではそうとは捉えられない。意外なことに原文を読んでも「他国に軍事介入しない」とは他国の戦争に自衛隊を派遣して怨みを買わない、「紛争の原因をつくらない」とは武器輸出をすることでイラクのような平和を脅かす集団を作るということをしてないという意味で、結果侵略される要因を作ることにならないため平和に資するのだといった程度のことしか書いていないのである。
第13問 あなたは、現在の世界の情勢から考えて、日本が戦争や紛争に巻き込まれたり、他国から侵略を受けたりする危険性がどの程度あると思いますか。リストの中からお答えください。
4.まったく危険はない 0.5%
5.わからない、無回答 1.9%
このように国民の8割が9条が日本の平和に役立っている一方で、国民のほとんどは侵略される危険性があると考えているわけだ。少なくとも国民大多数の中ではこの2つが両立しているということが論理必然的に分かる。
「9条が平和に役立つ」は「9条があれば侵略されない」ではない。データから国民全体の傾向として言えるのは「9条は平和に全く役立たないという意見の持ち主は限りなく少数派」、「多数派は9条は平和に資するがそれで侵略されないとも思っていない」といったところだろう。まあ相手の主張を0か1かで考えるのは楽だが、わりとこんな感じで程度問題だったりもする。「9条が日本を守ってきてくれた」と言う人に「どれくらい役に立ったの?」と聞いて「100%」と返ってくるかは微妙なところだ。そういうものである。
一応補足しておくと今同じ世論調査をすれば「9条が平和に役立っていない」と答える人が増えるのではないだろうか。この2017年の調査にはやはり集団的自衛権を巡る数々の議論があり「戦争に巻き込まれる可能性」が俎上に上がった余波が残っていると見るべきだし、その前に行われた2002年調査はイラク戦争直前でテロ特措法が成立するなど既存の法体系で対処できるか心配された時代であった。実際、同調査では2002年の方が2017年よりも憲法改正賛成派が多く、また9条が平和に役立つと答えている人も少なめである。ウクライナ侵略が行われている今であれば恐らく2002年調査に寄るかそれ以上に変動するかもしれない。国民世論と秋の空でただですら世論はぶれまくるのに出来事1つで更に右往左往するものだ。これは何があってもそこまで政治信条をあまり大きく動かさない我々政治厨が見逃す点で大抵国民世論に確固たる思想信条の基盤があると”必要以上”に考えがちだ。
ところでこれ1974,1992,2002,2017と調査が行われているのだが9条が平和に役立っていないと答えた人は1974年が一番多いのはちょっと面白くないですか?
個人的な意見を言えば、9条に全く平和に資するところがないとは思ってはいない。自衛隊派遣を巡って毎度国会が空転しているのを見れば軍事を増強しても他国視点だと侵略してくるとはあまり思えないというのはあるんじゃないか。専門家ぽく言うと安全保障のジレンマを軽減する信頼醸成措置的な何かになる要素はあるんじゃなかろうか。安全保障のジレンマは元々はリアリズム(国際政治学の学派の名前で一般的な意味とは異なる)が言ってたことで、信頼醸成措置は第二次安倍政権が作った「平成26年度以降に係る防衛計画の大綱」でも使われている言葉だから言葉としては存在するけど使い方が合ってるかは知らん。
なおデータで言えば一般抑止は計量するのが難しいので何とも言えないが、明日にでも戦争が始まりそうな状態から戦争をやめさせるという緊急抑止については統計分析が存在する。当然9条のデータなんて存在しないのだが、軍事同盟については緊急抑止についてのデータが存在する。代表例はHuthの研究なのだが何と相関関係はマイナスである…。まあこれは選択問題とか色々な理由で一般抑止はあるんじゃねっていうのは言われている。データで証明できてないじゃんwwお気持ち乙wwという世界ではないからね。
それ自体はどうでも良いのだが、同時に緊急抑止に関係あるのは長期の軍事力ではなく短期の軍事力だという分析結果もある(一般抑止は分らんが)。日本ではあまり聞かない議論なんだけど闇雲に軍事力軍事力言うよりその辺何が抑止に効果的なのかとかもうちょっと表で議論されてほしいんですけどね。
抑止とは、費用と危険が期待する結果を上回ると敵対者に思わせることにより、自分の利益に反する行動を敵対者にとらせないようにする努力である。したがって合理的敵対者に対してのみ働き得る機能である。
最後に1つだけ。引用した『軍事学入門』は軍事に詳しくリアリスト(国際政治学の学派の名前ではなく一般的な意味と同じ)であれば必ず通った書物だ(過言)。ちなみに自分は軍事通でもリアリストでもないダメ人間なのだが。読むと至極当然の抑止についての説明が書いてありますね?ところが最近の議論を見ているとこの当たり前の話を忘れてないか…という人がいる気もしないでもないのでここで紹介しておく。
もちろん「合理的」のニュアンスが難しいところだとは思うが。行動経済学が人間は非合理という話をした時、既存の経済学の「合理性」を拡張すれば対処できるものもあるよねって話になったりもしたんよね。その意味でこの「合理的」を「プーチンは戦争を起こす際に損得勘定もできないアホバカオタンコナス!だから軍事抑止力も意味ないんだ😭」って話にできるかは別の話。
身長差別(英: Height Discrimination)、あるいはハイティズム[1](英: Heightism)は、身長に基づいて個人を差別することをいう。原則として、身長がある集団内における通常の許容域に属さない個人に対して行われる差別的取り扱いに関する言葉である。
身長差別は、平均身長より大幅に背の低い男性に対して行われるのがもっとも一般的である。また、こういった差別は一般的に受け入れられ、無視されている[2][3]。高身長の女性の中には、身長を小さくするため、多量のエストロゲンを使う人もいる[4]。
研究によれば、人間の脳は身長を社会的ステータスや健康状態を見極める指標として用いている傾向が確認できる[5]。脳は自動的に身体のサイズを、リーダーとしてのポテンシャル、権力、強さ、知性と結びつけている。この効果は生後10ヶ月ほどの幼児にも見受けられた[5]。身長は、ある個人の栄養状態が良いことや、高い社会的ステータスを持っており、したがってリソースを幼児に供給してくれることを示す指標となっているからだと、進化心理学者[誰?]は理論づけている[5]。また、身長は他にも一般的な健康や身体的な強さをも示すが、後者は支配力を行使する上で有用になりうる[6]。前述の特徴と身長の自動的な連想は、女性を評価するときよりも、男性を評価するときに、より強くなると見られている[5][6][7]。
ある研究によれば、環境要因を排除した場合の身長の遺伝率は55.4%(標準誤差は4.4%)であるという[8]。
"ハイティズム"という用語は、社会学者であるSaul Feldmanが、「The presentation of shortness in everyday life—height and heightism in American society: Toward a sociology of stature」と題した論文で用いたのがはじまりである。この論文は1971年に開かれたアメリカ社会学会(英語版)で発表された[9][10]。ハイティズムという用語は『Second Barnhart Dictionary of New English』(1971年)にも掲載されており[11]、1971年発行のタイム誌に掲載されたFeldmanの論文によって広まったとされる[12]。この単語は、「接辞の変わった用法」を通じて新しい単語を提供するタイム誌の慣習の一つの例であるといえる[13]。ただし、タイム誌自身は、この単語が1991年版の『Random Webster's College Dictionary』に収録されるのに反対していた。彼らは、『ランダム・ウェブスター』を「読者の気分を害さないように必死で、良い用法だけをのせる」、「疑問符が浮かぶような数多くの用法に権威を与えるが、そのうちの多数はポリティカル・コレクトネスの考え方に染まっている」辞書の例としてあげている[14]。 ハイティズムという語句は、セクシズムという語の用法を模倣するような使い方、特に偏見や差別に関係した使い方が増加していることの一つの例として見ることができる[15]。
ハイティズムはデートでの選好においても一つの要素となる。身長が、性的魅力においてもっとも大事な要素だという人もいる。
高身長の男性の方がかなりの程度生殖に成功しやすいという事実は、高身長男性がより結婚しやすく、より子供を持つ可能性も高いことを示唆する研究により証明されていた。例外は、戦争などで著しく男性が少ない社会だけだ[29]。しかしながら、最近の研究では、この理論に疑問符をつけるものも多くなっており、身長と子供の数の間にはなんの関係もないことがわかっている[30]。さらに、脚の長さや脚と体の比率に関する研究では、高身長の配偶者に対して著しい選好がみられるという考え方と対立する結果が出ているという。2008年の研究では、高身長にしろ低身長にしろ、極端な場合は魅力が減るとの結果が出ており、2006年の研究では、脚と体の比率が低い男性と比率が高い女性は美的アピール度が増してみえることがわかっている[31][32]。進化生物学的観点からいうと、これらの発見は身長と健康に関するデータと一貫性があるといえる。したがって、生物学的論拠、もっと具体的に言えば、背の高い配偶者への選好に関する進化論的論拠は疑わしく、具体的なエヴィデンスを欠いている。また、Journal of Family Issuesに発表されたある研究では、高身長への選好は進化論的なバイアスというより、社会的期待によるものだと示唆する証拠も見つかっている[33]。
行動経済学者のダン・アリエリーの研究によれば、アメリカ人女性は高身長男性とデートすることに対して並々ならぬ選好をみせ、低身長の男性が魅力的と判断されるには、高身長男性よりもかなりの額を稼がなければならないという[34]。また、オンライン・デーティングを研究する社会科学者によれば、男性も身長の低い女性を好むとされ、実際に低身長の女性と高身長の男性はより多くメッセージを受け取る傾向にあった[33]。ただし、女性は高身長の男性を理想とするが、実際のヘテロカップル間の身長差は、理想の身長差ほどは開いていないこともわかっている[33]。
2012年に行われたある研究では、男性も女性もトレードオフの手法を用いて身長差について妥協しようとしていることがわかった。男性は妻よりも1%高い賃金を稼ぐことで、1.3BMI分を埋め合わせている可能性があり、女性は高等教育を1年多く受けることで、2BMI分を埋め合わせている可能性がある[35]。さらに、2015年の研究では、男性も女性も高身長の配偶者を持つことで、利益を得ていることがわかった。夫の側では、妻の身長と相互関係にある優れた点、たとえば教育知識などに起因する長所を得ることができる。妻の側でも身長の高い配偶者を求めているが、これは高身長者は高賃金を得やすいからである[35]。また、全米経済研究所の調査によれば身長の低い男性は、若いが著しく教育水準の低い女性と結婚する傾向にあったという[33]。
それでもなお、ポスト工業化社会における文化的レベルでは、身長と魅力の間の社会学的関係は存在するといえる。この文化的特徴は、一方で近代化した世界には適応することができるが、他方では超自然的な人間の本質というわけではない[36]。ヘテロ女性の出会い系サイトでの行動に関する定量的研究では、高身長男性に対する著しい選好が示され、女性の大部分は平均よりもかなり身長が低い男性を受け入れないことが示された[37]。フローニンゲン大学とバレンシア大学での研究では、魅力があり、肉体的に優位で、社会的に力を持つライヴァルに対してもっとも不安を感じていた男性は、自分たちの身長が高ければ高いほど、嫉妬を感じにくかった[38]。この研究では、ほとんどの女性は他の女性の身体的魅力に嫉妬を感じていたが、中ぐらいの身長の持ち主はほとんど嫉妬を感じにくかった[39]。オランダとスペインの研究者によって作成された報告では、平均的な身長の女性はもっとも繁殖力が強く健康的な傾向にあるから、似た特徴を持つ女性に対して脅威を感じにくい傾向にあったと述べられている[40]。
アメリカ精神医学会の公式月刊誌である『American Journal of Psychiatry』に発表された調査結果によれば、スウェーデン人男性では身長の高さと自殺率の高さに強い負の相関関係があることがわかった[48]。これは、成人男性の精神障害の原因に子供時代から晒されていることの重大さの表れかもしれないし、低身長の男性が成人になってから生活の中で直面するスティグマや差別を反映しているのかもしれない[48]。1,299,177人のスウェーデン人男性を18歳から、最大で49歳まで追跡し、出生、徴兵、死亡率、家族、戸籍などのデータのレコード・リンケージ(英語版)による研究を実施した[48]。すると、身長が2インチ(5cm)増加すると、自殺のリスクが9%低下することがわかった[48]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BA%AB%E9%95%B7%E5%B7%AE%E5%88%A5