はてなキーワード: サバイバーズ・ギルトとは
日本人は外国に長く住んでも必ず帰国する、みたいな話を何かの折に読んだが、
まあ、実際には旅先で帰化して日本に帰らない人というのも普通にいるわけだし、「華僑などと比べるとそういう傾向が強い」というだけの話ではあるのだろう。
ただ、実在の人物であれ物語上のキャラであれ、「帰れなかったキャラ」というのは、一種の悲哀や寂寞の念があって印象深い。
実在の人物だと、阿倍仲麻呂(帰国しようとしたけど嵐でベトナムに漂着)とか、大黒屋光太夫の仲間の新蔵や庄蔵(正教に改宗していたので、帰国不可)。
物語上のキャラだと(あ、古い作品だけど一応ネタバレ注意ね)漂流教室の主人公とか、エデンの檻のキャラとか、今そこにいる僕のサラとか、ドラクエ3の主人公とか。
逆に、帰れなかったキャラがいるなかで、かろうじて帰れたキャラというのもそれはそれで味わい深い。
漂流教室のユウちゃんとか、今そこにいる僕の主人公とか。初代ペルソナのセベク編バッドエンドとか。さらば宇宙戦艦ヤマトとか(さらばの方を正史として推したいのは、この物寂しさがあるからである)。実在の人物だと、大空のサムライの坂井三郎とか。
サバイバーズ・ギルトみたいなのが凄そうな感があり、全員帰れた場合に完全にハッピーエンドになるのとは、まったく違う後日譚が想像できて良い。
ゲート(自衛隊のやつ)は、帰れなかった人たちが多すぎたせいで、あんまり悲劇的な感じがしないのが惜しかった。
全員帰れたパターンというのは、彼方のアストラとか、ナルニア国物語(最終的には1人除いて全員帰らぬ人になったけど)とか、大長編ドラえもんとかである。
主人公一人だけが漂流するケースだと、全員帰れるか全員帰れないかの2択なので、運命の明暗が分かれず、あまり余韻がない。ロビンソン・クルーソーとかゼロの使い魔みたいな感じである。
火魅子伝(ゲーム)なんかは選択肢次第でどっちもできるが、なんというか、あっさり終わらせ過ぎていて余韻がないのが良くなかった。
「何人か死んで、生き残ったキャラが日常に帰る」というパターンもなかなか良いが、取り残されたキャラに思いを馳せる事がないので、寂寞だけがあり余韻に違いがある。
時空転抄ナスカとか。ベトナム戦争や第二次大戦の戦争映画はこのパターンが目白押しなので、割と好きである。
昨今、クラス丸ごと異世界転生とか何作品もあって、大抵途中エタってしまうわけだが、
ここはぜひとも最後まで書いて「何人か帰れて、何人か帰れない」というパターンを見せてほしい。
でも主人公は大抵ハーレムを作ってしまって帰国すると問題がありそうなので、「帰れたのは主人公以外」みたいなパターンが多くなりそうではある。
要は自分が何を言いたいかというと「健康診断の検査つらい」なんですが。
それについていろいろと考察した長い文章が下に続いているだけ。
日本人の寿命が長いのって、国民皆保険があるからお金の負担が安いことと、会社員が35歳以降に人間ドックを毎年受けることで早期発見・治療しているからなのだろうか?人類の医療で生かされてる(活かされてる)んだよな、健康的な意味でも、寿命的な意味でも。そりゃあそうだ。予防医学だよな。歯医者の定期健診を受ける、とか。
でも、トシくって様々な検査がちょっと辛かったりするのを目の当たりにすると、
「検査をしたり医療を受けたりしてまでも生き永らえたいというモチベーションが、果たして自分にはあるのだろうか?」
積極的安楽死か、消極的安楽死か、なんか、そういうのが脳裏によぎる。
会社員でいる以上は、自分を労働リソースとして供出しているのだから、その「労働リソースとして将来的にどのくらい使えるか」ということが会社的には気になるわけだし、あと法律で決まってるのかな?その辺の理由で、会社側から言われたとおり健康診断を受けなきゃならない。「直せばまだ労力として使えるのならちゃんと直せ」というのが、営利企業や国力といった視点からの論理と言えるだろう。
なんか、「自分の体は自分だけのものじゃない」という感覚がする。「公僕」、会社や社会の共有物かのような感じがする。
あ、検査がつらいんで受けません。安楽死しまーす。っていう自分の体に自己決定の権利はないのかな。それ人道的にどうなのかな。
その「自分の体が自分のものじゃない」の最たるものが、家族の意向により、胃ろうで生かされている人間でしょう。倫理的にどうなのでしょうか。かくいう私の親戚にもいます。こわいので面会していないです。いまはコロナで面会もままならないですが。
医学は、人為的に死をコントロールできる術です。進歩すればするほどコントローラブルな範囲が広がる。いずれは不老不死も実現するのかも知れない。
そのコントローラーを渡されて握るのは、本人であるべきなのか、他人であるべきなのか。自分というシステムのroot権限は誰が持つのか。
それにしても、35歳くらいを超えてる会社員の全員がこういう検査受けてる、ってすごくないですか?
人によっては人間ドックを毎年サボってる常習犯が居たりして、まあ気持ちはわかる・・・ってなっちゃう。
医療体制がすごいのもあるし、検査にみんな耐えてるのえらいですよね。
医療が進歩して検査の負担を減らす改善も継続的に行われていて、胃カメラを口から入れるときの不快感を減らすためにイカリングみたいな白い輪っかをくわえると、かなりラクになるんですよね。あれ。ノーベル平和賞でしょ。10年前に受けた時あんなのなかったし肩に注射で麻酔してたんですけど、最近はのどスプレー麻酔になったし1時間で麻酔切れるし、カメラ自体も細くなった。昔の胃カメラでトラウマになってる人もいると思いますけど、いまだいぶ負担減ってるんで、バリウム飲むよりもラクじゃないかと思いますよ。
若い頃ってさ、なんか、さまざまな「リソース」というものが無限であるかのように錯覚していた。
言い方を変えれば「有限なリソース」という概念そのものが頭の中になかったのかも知れない。
健康も時間も、仕事にかけられる労力も、無限だと思ってたので、スケジュールも何もなくがむしゃらに働いていたような。
でも社会に出て、あ、いろんなものって有限なんだなって気づいて。そのリソース管理がすごく難しいことに気づいていった。
そして30を超えると、「自分の健康寿命」というリソースの有限さをひしひしと感じるようになる。
若いころはモノを買うとき、お金の使い方がコスパばっかり考えていたように思う。安物買いの銭失いだ。
それはそれで「将来への投資」の考えがなさすぎる、貧者の思想だとは思うけど。お金に対してそういう貧しい考え方で育ってしまったのだから仕方がない。トシとっていってお金の使い方が少しはマシになったし、服にかけるお金がふえたりした。
トシを取ると自分の寿命が頭の隅にチラつくので、コスパが多少悪くてもペイするように意識が変わっていっていると思う。
「いまは時期が悪い」とか言ってチャンスを見送っているうちに自分の寿命のほうがなくなっていくからね。
たとえ時期が多少悪くても、じゃあいまやろう。お金をポンと出してやったぜ。と。
経済の話でいうところの「機会損失」って、商品の在庫があるとか、買える機会とか、開催期間が限定されたイベントとか、そういう「外的な機会」の損失するかどうかを焦点にしがちに見えるけども、それだけじゃないんだな。外的機会がある間に、かつ、自分の健康もなければならない。健康でなければ商品を購入して満足することができないから。
「健康が不足していて機会損失」も大いにあり得るわけです。「大切な推しのイベントなのに風邪ひいていけなくなった」とか。
これっていうのは「推しは推せるときに推せ」「孝行したいときに親はいない」と通じるものがある。
だから商売するのって、「ちょっと健康に不安が出てきて、かつ、そこそこお金持ってる人」を狙うのが効率よさそうですよね。健康商品じゃなくても。
ゲスいですが。足元見てる。
そういうターゲッティングして商売してる人間自体も、いずれはその該当者になるんですよ。
「おれは長生きしないんだ」つって、暴飲暴食してる人、ラクに死ねると思うなよ。苦しむぞ。みたいな脅しツイートを見かけたりしますけど、まあ確かにそうなんですけど、それも安楽死があれば解決するんですよね。
日本における安楽死の議論での反対派って「イジメみたいに同調圧力によって安楽死の自己決定を促されてしまう」危惧をドグマにしてますけど、
すでに「健康診断の圧力によってつらい検査を受けさせられてる」現状があるので、たしかにそうかも。そうなるだろうなあとは思われます。
「自殺と他殺」という対比の概念がありますが、それと同じように「自生と他生」とでもいいましょうか。
どう転んでも、自分の体の健康維持や死についての決定権は、自分だけが独占的・排他的に所有してはいない(できない)ようですね・・・。やはり自分の体は公僕性、公共物性を帯びているようです。それは国民皆保険であるから、国としては保険で治療コストの高い病気をなるべく支払わずに済ませたいので、治療コストの高い病気にかかるリスクを下げておくための検査コストを支払っておく(強制的に受けさせる)ほうがトータルでコストが安い、という計算なのでしょうか。
他者の圧力によって胃ろうで生かされてしまうようなことがある社会と、
どっちがマシなんですかね?
「勝手に生きるな」
介錯してラクにさせてあげたほうがいいんじゃない?とも思うし、
人為的に死をコントロールできてしまうということは、サバイバーズ・ギルトってやつが生まれる。生存者の罪悪感。
面倒なことにならないように、自分の生死を他者の人為的なコントロール下に置かれることが無いようにしたいですね。
やっぱ自分がコントローラ握って健康診断うけるかどうか決めたり、コロっと安楽死が理想なんですよ。でもそれって一貫性としては、このコロナのご時世で「公衆衛生を省みない自分勝手な自由な行動に出ることの許容」をも意味してしまうのですが。感染症や、医療保険の有無、といった社会的な連帯関係のものは物議をかもしますよね。そりゃ。
自分が死ぬときはVR-HMDかぶって、なんか、すごい音と映像で逝きたい。
臨床宗教師の仕事の中に「VR機材の管理」も含まれてくると思うんですよね、今後は。「テクノ法要」もありますし。映像や音声のクリエイターも、その走馬灯のような「最期の映像」をクリエイトする日が来るわけですよ。
だからVR業界から法曹界・医療関係に転職するようなキャリアパスもあるでしょうね今後は。
塞翁が馬。
みとりびと、おくりびと
うちの父はひとでなしではない。
ただ、怒りで我を忘れたとき、自制がきかなくなるだけだ。
その不安定さと、不安定である自分を黙認できてしまう狡さはどこから来るのか。
わたしはずっと疑問だった。
実際、なんでもない思い出話として、虐待としか言いようのないエピソードを聞いたこともある。
殴ることへの罪悪感の薄さは、きっとごく普通に殴られながら育てられたことによって生まれた。
当然のこととしてきた常識を、父は疑っていないだけなんだろう。
でも感情は納得しない。
わたしは再び、なぜと繰り返した。
なんでうちの父は殴られて育ったの。
そして、ある推察を得るに到った。
父を殴って育てた、祖父の推察だ。
若者というだけで召集令状が来るような頃、祖父は同年代より早く正真正銘の家長となっていた。
階級的にはたかが知れているだろうけど、ともかく内地で新兵の訓練に当たった。
祖父はどんなふうに訓練をつけたのだろう。
当時の軍隊では体罰が横行していたと聞くけれど、祖父も殴っていたのか。
そうして、お国のために玉砕しろと言って、新兵を戦地へ送り出したのか。
そもそも、友人たちが次々に出征していくのを、祖父はどんな思いで送り出していたんだろう。
今となっては分からない。
祖父は内地で終戦を迎えて家に帰ったけれど、祖父と同年代の友人たちはほとんど誰も帰らなかったそうだ。
その状態で、待たせていた妻と幸せな家族を築けと求められことは、どんな気持ちになるのか。
祖父はひとでなしではない。
孫にはやさしい祖父だったし、昔のひとには珍しく体調不良の祖母に代わって父の弁当を作ることもあったそうだ。
自分だけ生き残って、未来を生きていくことを、祖父はどう感じたのだろう。
耐えがたく、許されないことに感じられたとしてもおかしくはない。
そのくせ、出世話で自尊心を満たし、死を免れた我が身の幸運をひけらかす道を祖父は選ばなかった。
祖父の目にはどう映ったのか。
殴って、殴った自分を許容させて、ほら俺は悪いことなんかしていないと自己正当化したくてたまらなくなった夜。
そういう夜があったとしても、理解はできる。
酒に溺れ、妻子に手を上げた理由を察することができる。
今ならば祖父に何が起こっていたのか説明してくれる言葉がある。
当時はなかった。
第二次大戦が終わったばかりの日本で、戦争の精神的な後遺症は見逃された。
少なくとも、祖父は見逃された。
誰も祖父を、父を、救わなかった。
誰もそんなことは追求せず、もはや戦後ではないと言われ、時が流れた。
わたしは殴られて育った。
もはや戦後ではないんだろうか。
本当に、戦後ではないんだろうか。
それなら、なんでわたしは殴られたの。
この身を苛む恐怖はなんなの。
誰のことも責められないで、わたしが悪かったのかと疑いながら生きていくの。
要約すれば、事件はオタクの総意が引き起こした、京アニのアニメへの態度に対する代償→自分は京アニをクビになってから代償を払い続けてきたから助かった
これ、ヤマカン、PTSDだと思う。死者の多い事件の生存者が、「なんで自分だけ生き残ったのか」「代わりに自分が死ぬべきだったのでは」と、自分だけ生き残った事に強い罪悪感を感じて自分を責め続けるサバイバーズ・ギルトというPTSDがある。せっかく事件で助かった生存者が、これで自殺した例もある。
ヤマカンもこれではないか?ヤマカンのブログの文面は強がってるけど、
自分だけ助かって申し訳ない。なぜ自分だけ助かったのか?→ネットの総意(ほとんど天罰と同じように読める)に背いたのが京アニ、自分は背かなかったから助かった
そこだよね 翻訳と日本語のニュアンスの違いとかいろいろあるんだろうけど、
この物語は、『可能性の1つに過ぎない未来の自分が厄介なことに自分に文句つけてきた』
なんてものじゃなくて、『命題の結末』としての未来が、その命題が破綻していて
『間違っている』ことを告げ、お前は間違っているその在り方をどうするのかと問うてきた
士郎と切嗣の「全ての人を救う」という在り方は、そのものが最初から間違っている
でも 『誰かを救いたいという願い 全ての人に涙してほしくないという祈り』
それが決して『間違いなんかじゃない』というのが、士郎とこの物語の答えなんだよ
次回予告でそのポイントをちゃんと押さえてくれることが分かって凄く嬉しい
アーチャーは別の媒体だと自分の生き方を「サバイバーズ・ギルトの権化」だと言ってるな。
メサイアコンプレックスは英雄視されることが自己承認欲求の昇華に繋がるから士郎には当てはまらないと思うよ。
士郎は他人に自分を認めて貰いたいとかこれっぽっちも思わない人間だし、凛に心配された時すら凛のお人好しさに感動してるし。
むしろ自分の価値が低くて、生き残った事に罪悪感を持ってて他人を助けなきゃ!!ってなるから確かにサバイバーズ・ギルトの方が合ってると思う。
「士朗がアーチャーになる可能性はほぼ無い」ってのは、
きのこが凛というキャラを通じて残したささやかな救いであって、それ自体はこの話のテーマじゃない。
これは士朗の救済の話じゃなくって、あくまでアーチャー(士朗の未来)の救済の話。
「悔しいけど私じゃあいつを救えない」って言葉の通り、凛ではどうやってもアーチャーは救えない。
アーチャーは、他でもない士朗によって救済されるんだよ。
それは守護者でなくなるとか、そういう設定上の話ではなく、
アーチャーが苦しんでる本当の理由は、守護者になったからでも、地獄を見たからでもなく、自分を見失ったからなんだよ。
確かクリア後のタイガー道場(?)でアーチャーはセイバールートの士郎なのか?っていう疑問に対して
セイバールートではイリヤが生きているため士郎を止める人間がいるから、アーチャーになることはまずないっていう回答がある。
士郎は絶望しないからアーチャーにならないんじゃなくて、士郎一人だとどこまでも突き進んでしまうから、
その士郎を止めてくれる人が近くに居るかどうかが士郎のアーチャー化の有無に関わってるんだと思うよ。
止めてくれる人が誰も居ないとアーチャーのようになってしまう可能性があるってぐらいに思っておけばいいかと。
正しいだけだと「正しく出来なかった人達」を取りこぼす事になるからな。
最初の士郎の願いって、まさしく正しい答えを選べなかった(その場所にいなければ良かったという正解)人達をこそ救いたいってものだったわけで、だからこその正「義」の味方なんだろうな。
つまり、選択肢をミスった後に出てくるタイガー道場こそ士郎の目指すべきポジション・・・ってアレ?
>切嗣は覚悟があった。大勢を救うためならば少数を殺す事も必要であることを知っていた。その少数がたとえ肉親出会ったとしても引き金を引く覚悟があった。でもそれは間違いだったとアンリマユに気付かされた。
それが間違いだと気づかされたというのは違うんじゃないか?
切嗣は小数を殺さずに済む方法を聖杯に求めたが、自分自身がやっている少数の犠牲の受容を極端な形で拡大解釈して大勢を犠牲にして小数を救うという最悪の回答しか得られなかった
少数の犠牲の受容という現実的解決方法そのものが間違いだったのではなく、それ以外の方法は結局ないんだということに気づかされた
しかも、聖杯はそれよりももっと最悪な解決しか引き出せなかったんだ
アーチャーの場合は契約時点で理想を追求するには自身が無力すぎることを痛感している状況で理想を実現するための力を求めていた
契約して力を得ることで理想を実現できると思っていたが、力を得ても少数の犠牲を受容しなければならないという現実を覆すことはできなかった
それどころか、力があるがゆえにその現実をいやになるくらい体験させられたということだと思う
その結果の「絶望」なんだろうけど、彼のは厳密にいえば「失望」であって「絶望」とは違うんだよな(少なくともアニメの描写を見ている限りは・・・)
現にアーチャーはあれだけ失望し続けながら、なおも救おうとしているわけだし
100人を救おうとして1人も救えない。
1人を見殺しにして99人が救われる。
「動機」の観点では前者が正しく、「結果責任」の観点では後者が正しい。
考え方は様々だけど「全員が救われる事が理想である」という点では異論はないはず
仕方がないという現実は理想を理想でなくす理由には成り得ないし、
決して届かないとしても理想を追い求めることは間違いじゃないだろう。現実を見失わない限りにおいては。
現実と向き合いながら理想を劣化させることなく生きていくのは人として味わうことができる最上級の苦痛かもしれない。
その上、そこまでして行き着く先には何もない(理想は実現しない)というのだから、こんなに酷い話(現実)もないだろう。
それでも、それら全てを踏まえたとしても、「何が正しいのか」と問われれば「答え」は決まっているよね。
それは「誰かの願い」であって「誰もの願い」でもある。
士郎は目につく人みんなを助けたかった。人類全部なんかじゃなくかつての自分のような目の前で危機に陥ってる人を。せめて自分の手の届く人たちを。士郎はその通りのことをしようとした。でも自分は英雄なんかじゃなくただの人で無力だった。死後の命を預けてようやく英雄になり、英雄になってようやく目の前の人を救えるようになった。つまり「衛宮士郎は死後を売渡し、エミヤにならなければ人を救うことができない」英雄エミヤは間違いなく士郎の理想であり到達点。自分の理想を正しく達成した成功例。しかし死後、待っているのはただの殺人。救いたいはずの弱者を殺す役目。「人を救う」という理想を叶えるということはエミヤ(英雄)になるということ。
エミヤ(英雄)になるということは人を殺す道具になるということ。士郎の理想とする英雄では誰も救えない。
救う術を知らず、救うものもなく、誰かの為にならなければという強迫観念、憧れただけでは人は救えない。
エミヤが忘れていたのはその憧れただけの理想にも願いがあったこと。
エミヤはずっと正しい選択をしてきた。愚直に真っ直ぐに不器用に。でも"この"衛宮士郎は時には正しい選択を否定するという決意をした。
そうそう。士郎がよくUBWルートだと真相知ったから守護者にならないってSSでも結構あるけど例え全てを知っても士郎は守護者として契約しちゃうんだよ、ね。
ただアーチャーのように絶望後悔はしないって言ってるだけで。もし真相知ったから契約しないって言うのはすでに見返りを求めている、自己愛があるって事だからそれは士郎ではない。UBWのキモはそんな士郎を絶対に守護者にしないように凛が頑張るって話だから(詠唱にあるような誰にも理解されない士郎にはしないって言ってるklと)
アーチャーが数ある士郎の未来の姿の失敗例の一つに過ぎないのならアーチャーは士郎にこだわらないし
士郎もアーチャーの言葉に信念が揺らいだりしない。士郎がアーチャーにほぼ必ず行き着く理由がある。
士郎もアーチャーも二人とも核が同じだからだ。「誰かを救いたいという願いが綺麗だから憧れた。」二人はこの核からなる人間。
その強い憧れを叶えるためにできることは限られている。過激な思想を持つ人間が行き着く先が銃を手に取るしかないのと同じ。
いやあ士郎はかっこいいよね。
例え絶望が約束されていても自分が間違いじゃないと信じた理想を貫き通す以上絶対に後悔しないと言い切ってるんだもの。
これは士郎の目指したものに共感できるかどうかとか関係ない熱さだよね。
特にアニメの演出では、結構クールな独白が多くて、ブレなさの表現が上手いから余計ね。
士郎は甘いのでも現実が見えてないのでもない、現実の悲惨さを知りながら揺らがないんのだものね。かっこいいよ
アーチャーが後悔したのは守護者になってからってのを理解してない人が多いのかもな
アーチャーは生前助けた人々に裏切られて絞首刑に処せられても一切そのことについて後悔してなかった今回士郎が言ってたように完全に正しかった正義の味方だった身を捧げる覚悟も出来てたしそれで良いと思ってた
そんな覚悟決まりきった正義の味方でも守護者として人類の滅びを救うために延々と滅ぼす可能性のある事象とその関係者を殺し続けることには耐えられなかっただけ
UBWの士郎でも正義の味方として突き詰めるならエミヤになるしかない。ただ凛が人間として幸せにしてそれは回避されるだろうけど人としての幸せ手に入れる時点で正義の味方として完全じゃない
たとえ本物になれなくても、抱いた理想が間違いでないと思えるならば、それを追い求めることは正しい、
といことがテーマだと、どっかのインタビューできのこが言ってたな。
ただ、それは非人間的な機械のように生きることには変わりないと。
一人の大切な人を守るために、理想に折り合いをつけ、機械のような男が人間になるはなしだと。
どちらが正しいという話でなく、それぞれの解答がある。
アーチャーが失敗例だと思って語ってる人が多いのはどうなんだろって思ったけど、来週で変わるかなあ
結局士郎は道を変えない(アーチャーと違う道を選んだりしない)ってのは話の肝だけど、伝えづらいよね
>「アーチャー(失敗作)を目撃したこと(と、遠坂との絆を得たこと)によって士郎はアーチャーと違う道を歩むことが約束された」
テーマとしてはむしろ正反対だよ。アーチャーが失敗例っていうならそもそも衛宮士郎自身が生まれた時から失敗例になってしまう
士郎はアーチャーに忠告されたからって違う道を歩むような人間じゃないってのがややこしいところだし自分殺しの動機でもある
今回の話も対比。抗魔術で身動きできない凛は瀕死のランサーに救われた。原作ゲームでは
凜は、なけなしの魔宝石でランサーを救おうとするシーンがあったらしいけど、人が誰かを
助けたいと思う気持ちに、何の打算もなく反射的な時もある。
慎二はランサーの槍先が刺さっただけで逃げ出したけど、それが普通の人間の反応。
何の覚悟もないし、痛い物は痛い。士郎はアーチャーに串刺しにされたけど、セイバーが
そばにいてアヴァロンのおかげで治癒したけど、それがなくても立ち上がれただろうけど、
それでは、何の解決にもならず、いずれ未来の選択肢の一つに負けていた。
だからこそ、ここで救われた弱い士郎は、心が折れず、正義の味方を夢見ていられる。
救いたいのは、他人のためでなく、自分の願いだから、正義はエゴなのだから。
衛宮士郎は、切嗣と凛、そしてアルトリアという3人にかつて命を救われた弱者ということを。
だからこそ、誰かを救える力を求めたけど、その理由を「人の為」と「偽った」から、アーチャーは
疲れてしまった。憧れたのは綺麗だったから、余りに幸せそうに笑った「爺さん」のために、
大勢の両親、友人、知人や知らない誰かを救えず、見捨てて、死を受け入れた虚無から生きよう
と思っただけなのに。アーチャーは力を得たけど、それ以上の暴力に打ちのめされ、滅私奉公
しすぎて、正義が摩耗し、絶望のあまり、己れの願いすら呪いと捻じ曲げてしまった。
士郎は、救われる以前から、弱いからこそ、負けられない頑固者だったのに。
アーチャーは失敗作なんかじゃない。英霊エミヤってのは正義の味方を目指した衛宮士郎としては最高傑作だ。衛宮士郎が正義の味方であることを突き詰めるとどうやってもあぁなる。凛との繋がりが出来てUBWの衛宮士郎はエミヤにはならないことが確定してるけど、それって特別な一人が出来たことで正義の味方としては不純になるってことでもある。
ところでやっぱり、Zero…というか、虚淵さんのセイバーの像が、原作と深刻なズレを起こしていますな
Zeroしか通過してこなかった視聴者は、原作であるSNのセイバーの行動や思考がわからずに、なかなかに頓珍漢なことを言っている
あと相変わらず慎二にヘイトためってる人は、型月的にも平凡な人なんだな
非凡以外の何者でもない、あの作品の大半の登場人物たちにとって、慎二は本当に極限まで「どうでもいいやつ」なんだ
数回前の凛にも怒られてたけど、自己犠牲が強すぎて中身がない。手段が目的になっている。
その原因は「キリツグの代わりにその夢を叶えてやろう」っていうだけのものでしかなかった。
そのまま大人になってしまったから英霊エミヤという存在が生まれてしまった。
でも今ここで、未来や過去の自分と向き合うことで、手段に意味を見出した。
「キリツグの夢」が「自分の夢」とイコールになったと言えばいいのかな。
これからもやることは変わらないだろう。でもそこには〝中身〟がある。
きっともうエミヤようにはならないだろう。