「テニス部」を含む日記 RSS

はてなキーワード: テニス部とは

2021-06-23

恋愛できる気がしない非モテだが恋愛遍歴書き出してみる

大学生だがどこから始めればいいのかわからんから小学生からやるか

小学校低学年

記憶なし。

小学校高学年

Yさん:卒業式の日にかわいめな子に告白されてよくわからずに振ったら後ろから友達が5人くらい出てきてドッキリだった。なんか悲しい。

中学生

Nさん:周りがみんな恋愛してたから近くの席の子告白したらOKもらった。中1だが経験済みだった。そういうのが怖くて距離感を保ってたら3ヶ月ほどで振られた。

Sさん:委員会同じオタ系の子に告られた。なんとなく振った。

Rさん:テニス部の子に告られた。嫌いじゃなかったかOKしたけどメンヘラムーブされて別れた。次の日には別の彼氏ができていた模様。

Mさん:陸上部の子友達友達みたいな感じだったが流れで付き合ってしまった。特にお互い興味があったわけではなかったため半年ほどで別れた。

Kさん:吹奏楽部の子。とてもいい子でなぜかとても好いてくれていたけど受験で忙しくしてたら消滅した。

高校生

Hさん:放送の子。読む本の好みが同じで話しているうちにそういう感じになった。文理分かれて話す機会が減り1年ほどで円満に別れた。

Tさん:テニス部の子文化祭実行委員をしているときに仲良くなって告白された。部活が忙しすぎたためお断りした。

Aさん:同じ部活の子。部内恋愛禁止部活だったがいろいろアピールしてきたので外で遊んだりしていた。特に嫌でもなかったため、引退したら付き合おうと言われて了承したが、その後付き合うことはなかった。

大学生

家と大学を往復するニート

コロナ禍になってからニート拍車がかかる。

これまで大して恋愛感情というものが湧いたことはないし、これからも変わらない気がする。

周りがしてたから、友達彼女が出来たから、という理由中高生時代恋愛のまねごとをしていたが、大学ではそういう友達はいなかったため恋愛事は一度もなかった。

非モテ嘘つけ彼女出来てるやんけって感想を抱かれるのは普通だと思う。

今思い返すと、女友達を男友達と同じ扱いしていたら急に告白されたってことが多い。まあいっかと付き合うも続かない。





20代後半から30代くらいになったらわたしにも恋愛感情が芽生えるのかね。

人を好きになってみたいわね。死ぬまでには。

2021-06-06

俺の性癖ねじ曲げた、とあるキスの話

7年前の成人式の夜、俺を嫌っている同級生キスをした。俺は、彼女を好きでも、嫌いでもなかった。でも、恋人が途切れると、あの夜のことを思い出す。

彼女と俺は、同じ苗字だった。世間的にはそうそう多くはないが地元にはままある、といった苗字だ。1学年1クラス小学校で、たまたま俺の学年には彼女と俺のふたりだけだったせいで、「お前ら夫婦じゃ〜ん」だなんだとよくからかわれた。

どうやら彼女は俺を嫌っているらしいと気が付いたのは、小学3年生の秋のことだ。運動会練習中、俺は組体操逆立ちができない彼女を笑ってしまった。言い訳をするならば、子どもらしい、ささやかちょっかいだったはず。しかし、彼女はふーっとため息をつき「そうだね、できないよ」と答えた。それは「強がり」というには冷たすぎて、俺は少し狼狽えた。

勉強のよくできた彼女は、からかいやふざけたノリを快く思ってはいないようだった。俺や俺の悪友たちがちょっかいを出しても、ほとんど気のない返事しか返ってこなかった。頭のいい男子とは、楽しそうに話している姿をよく見かけた。

中2の終わり頃、彼女が1つ上の生徒会会長と付き合っているという噂を聞くようになった。彼女とよく話していた生徒会ガリ勉が、あからさまにショックを受けていた。俺は、なるほど、順当だな、と思ったくらいだった。要するに、そのくらい、彼女と俺との間には壁のようなものがあったのだ。

本題は成人式の夜、どうして彼女キスを交わしたか、だ。

優等生だった彼女が成人代表挨拶をしている間、俺は市営ホール座席パズドラをやりながら、隣のやつとこそこそ話していた。集合写真を撮るとき彼女挨拶までしたくせにささっと端に立ち、控えめに微笑んでいた。俺は、ばあちゃんに買ってもらったポールスミススーツを着て、真ん中でふざけたポーズ写真に写った。

成人式当日の夜、小学校クラス会があった。任意参加だから初めから気心の知れた友達と飲んでもよかったのだが、俺は何となく成人式特有空気に流されるようにしてお仕着せのクラス会に行った。

彼女と何年ぶりかに話をしたのはそのときだ。俺にだけ冷たいと思っていた彼女は、酒を飲んで上機嫌に笑っていて、なんとなく寂しいような気がした。大人になってもツンケンされるほど、気を許されているわけでもないような気がして。

ぶっちゃけ、俺のこと嫌いだったっしょ?」

酒の勢いで、聞いてみた。「実は好きだった」とか、「素直になれなくて」的な答えを期待していなかったといえば嘘になる。

ところが、彼女から返ってきたのは、「……わかる?ごめんね、私ほんと子どもだったから」という肯定言葉だった。彼女は当時の心情をオブラートに包み、ていねいな言葉謝罪してくれた。早熟だった彼女からかいちょっかいといった面倒なやり取りが嫌いで、うるさくてやかまし男子に、嫌気がさしていたという。そこに「同じ苗字」で「やかましい」俺が、ぴったり合致していたのだと。

俺は、「ほんとごめん、俺うるさかったよな」と答えるしかなかった。

有り体に言えば、俺にとって彼女は「好みの女」ではなかった。「うるさくてやかまし小学男子A」から、「うるさくてやかましい中堅グループのA」になった俺は、それ相応の相手と付き合いたいと思っていた。だから、それまで付き合った相手スカートを2,3回折り、前髪をカラフルなピンで留めるタイプ女子だった。その点彼女はどこまでいっても「品行方正な優等生女子」で、制服スカートは膝丈、髪を巻いているところを想像できるようなタイプではなかった。

大人しくて華やかなグループに属しているわけではない彼女から、うまくやっている俺のことを憎からず思っているとしてもおかしくない、そんな驕りがあったのだ。蓋を開けたら、満更でもないと思っていたどころか、嫌っていたという。俺が幼い頃感じた衝撃は、何も間違っていなかった。

俺が不相応なショックに打ちひしがれているあいだ、彼女は俺をフォローしてくれていた。テニスで県大会に出たんでしょとか、そのスーツおしゃれだねとか、穏やかな口調の褒め言葉で。俺はものすごく恥ずかしくて、酒をがんがん飲んだ。すると、必然的トイレに行く機会が多くなる。彼女はその度に「大丈夫?飲みすぎてない?」なんて声をかけてくれて、俺は自分の小ささを自覚させられた。

そのうち俺は彼女に嫌われていた自分が嫌になってきて、彼女の話を聞きたくなった。酔っているふりをして彼女大学の専攻のこととか趣味の話とかを聞いているうちに、彼女は「ふつう」に笑ってくれるようになった。

一人の人間として見た彼女聡明で、話も面白かった。俺もそれなりには大人になっているわけだし、無闇に彼女からかおうと思わなければ「ふつう」の会話ができる。彼女は俺が持ち出せる精一杯のゴシップ下ネタにもくすくす笑ってくれて、まるで「ふつう」の友達みたいだった。俺が何の気無しにかけていたちょっかいがなければ、もう少しいい関係があったのかもしれない、そんなふうに思ったりもした。

2時間くらい、飲んでいただろうか。もう一軒行こうか、という話が出始めると、彼女のところにはわっと人が集まった。優等生タイプの男女以外にも、陽キャグループの奴もいた。俺はといえば、携帯に同じテニス部のメンツで飲もうという誘いと高校同級生で集まろうというメッセージが届いていて、彼女と同じ店に行く流れは微塵もなかった。

友達会計にもたついていたせいで、彼女はもう店の前にはいなかった。駅の方に少し離れて、はしゃぎながら歩く集団の端を歩く彼女が見えた。店の前で騒いでいる友達を置いて走って、彼女を呼び止めた。「忘れ物が」とかなんとか、適当理由をつけたと思う。

「なあ、ホテル、行かない?」

冗談めかして尋ねると、彼女あははと笑って「いいよ?」と言った。もちろん、それも冗談だ。「じゃあさ、思い出にキスしていい?」ふざけた口調で続けたら、彼女は笑って一歩俺に近づいた。

どこまでやっていいのかまごつきながら肩に手をかけると、彼女は俺の頭に手を回して唇を押し付けてきた。学生時代ちょっとぽっちゃりしていた彼女大人になっても胸と尻がデカく、思わず抱きしめたら胸がむにゅと潰れるのがわかった。街灯に照らされた首筋が真っ白に見えた。唇は柔らかく、ほのかビール匂いと、りんごのような香水匂いが混ざって、酔っ払っている頭がぐらっと煮えたぎるような感覚がした。思わず口を開けると、ぬるりと熱い舌が俺の舌を絡めとった。

長いのか一瞬だったのかもわからないキス彼女意思彼女の行動によってのみ行われ、俺は「される側」でしかなかった。唇を離した彼女は俺の背中を軽く叩いて、「またいつかね」と言い残し、友達を追いかけて戻っていった。

やっぱり、彼女は「好みの女」ではない。だから、このキスを思い出すのは、数ヶ月から数年に一回、女に振られた時だけだ。「またいつか」はくるのだろうか。そのときがくるとしたら、どこまで許されるんだろうか、とか。

今でも付き合うのはスレンダーな女ばかりだけど、動画を探すときは「ぽっちゃり」だの「むっちり」だの検索してしまう。別に彼女の夜の顔を想像しているわけではない、そう言い訳しながら。

男子高校生だけど専業主夫になりたい

高1で、全日制の普通科テニス部

勉強は不得意。結構勉強しているつもりだけど、成績は中ぐらい。本当はもう一ランク上の高校を志望していたけど、最後まで模試の判定が悪くて諦めた。

家族は、母と社会人の兄、大学院生の姉(父は死別)。

将来社会で働くことに興味が持てない。やりたい仕事も見つからない。

ただ、小さい時からよく手伝いをしていたので料理掃除は得意。今は家族の夕食と弁当作りを任されていて、とてもやり甲斐を感じている。週末も部活がないときは、家の掃除洗濯をしていることが多い。自分にとって掃除ストレス解消を兼ねた趣味だ。

家で家事をすることが自分に向いていると思う。

将来スーツを着て働く自分想像できないし、そうなりたいとも思えないが、こうやって家族のために家事をし続けられたらいいなと思う。それが一番できるのは、専業主夫しかないと思う。

 

子どもが好きなので、専業主夫として子供育児に全力で取り組むことにも魅力を感じる。いくら男の育休拡大といっても専業主夫ほどに子供と関わるのは無理だろう。自分物心ついた時には父が亡くなっていて、母は仕事で忙しく小さい頃はいつも寂しかった覚えがある。だから子どもが小さいうちは特に絶対寂しい思いをさせたくない。

 

から専業主夫になりたい。

 

男女の生き方多様化している時代だし、自分のように働くことより家のことを切り盛りすることに興味をもつ男子高校生がいてもいいはずだ。

ただ問題は、専業主夫へになるにはどうすればいいかいまいちからないことだ。

学校では、男も女も働くことが前提で進路を考えさせられるし、専業主夫志望だというのはなかなか言い出しづらい。

参考にできるような男性も周囲にいない。

家族には既に話してある。

夫を死別している母は「一馬力は大変なのよ」とあまりいい顔はしてくれない。しかし「専業主夫になれなかったとしても生きていけるように手に職をつけなさい」とは言ってくれている。

既婚者の友人の多い姉は、「兼業主婦志望で看護師薬剤師資格を持っておいた方があとあといいらしいよ」と言う。

ただ、看護師女性の多い職場自分には向いていない気がする(小学生の頃、こども合掌クラブ女子ばかりであまり馴染めなかった思い出がある)。それに、看護師という仕事に興味を持てない。人命にもろに関わるだから、興味がなければきついだろう。

薬剤師の方は、まだどういう仕事かきちんと調べられていないけれど、自分の成績で薬学部に行けるかが不安だ。

兄は「専業主夫には向いてると思うけど、結婚相手が見つかるかが問題だよな」と言っている。出会いがある高校生か大学生のうちに恋愛をすべきだぞうだ。たしかに、大黒柱になれそうな女性大卒だろうし、大学には行くべきだと思う。

 

専業主夫になった人、専業主夫結婚したという人、それから専業主婦専業主夫になりたい人は何学部に行くのがいいのか詳しい人がいたら教えてほしい。

 

 

2021-02-23

anond:20210223202744

そいつ好みの男見つけると、腹にある巨大な口を開けて胎内に取り込む妖怪だぞ

俺んとこでも一時期出没してて、テニス部エースが食われた

まあ都市伝説ってやつだな

2021-02-22

anond:20210221235545

リサーとかやってるチャラ男文化のものだね

そしてそういうのが好きなんだけど仲間に入れてもらえるほどのコミュ力はなくて、女を見下す精神性だけが残ったような男も確かにいる

そいつ弱者なら弱者男性に含むという定義もできなくはないが、そうすると弱者男性の中の文化の違いが大きくなりすぎて、テニス部員とコンピュータ部員を「どっちも部活経験者」でまとめるくらい何の意味もない定義になる

2021-01-30

心室中隔欠損症をもって生まれた。の続き。

https://anond.hatelabo.jp/20210130055110

中学生時代

高校生時代

大学生時代

2021-01-16

俺の高校可愛い子多かった

 俺の高校普通に可愛い子多かった。ド田舎だが、地元では一番偏差値の高いいわゆる自称進学校。俺はそこにギリギリの成績で入り込んだわけだ。そこで思ったのが可愛い子多いなって話。俺は陰キャ高校彼女で来たことはなかった。成績も下っ端でずっとぼっちからクラスメート担任からバカにされまくり、家庭関係悪化し、普通に地獄の3年間だった。それでも何となく高校が楽しかった。それは可愛い子が多かったからだと思う。やっぱり美人って言うのはそこに居るだけで癒やしになるんだなって思う。無論、嫌なことが圧倒的に多く、もう一度やり直したいかと言われれば答えはノーだが、それでもjkたちのことは今でも覚えてるし、優しくしてくれたわけではないが、居るだけでつらさを和らげてくれてありがとうと思う。

 こんなことして自分でも気持ち悪いとは思うが、高校美人達を振り返っていきたい。

K田R

 ダントツ美人。成績優秀で陸上部所属運動神経抜群という学園ドラマに出てきそうな少女。声も可愛かった。控え目な性格ほとんど男子と話すことのない正に高嶺の花。努力家で勉強部活と頑張ってたから本当に凄い人だと思う。オーラ大人びててとても近寄りがたい。学園祭の時に和服着て、髪をカールにしたとき美人過ぎてビビった。

Y本K

 上記のRの友人。身長170cm以上。スタイル抜群のモデル体型。前見たときに脚の細さに驚いた。Rと一緒に登校してたが、二人並ぶ姿はとても美しかった。学園祭の時にアリスコスプレをしてたが、Rとハグしたとき光景はこの世の物とは思えないほど美しかった。明るい性格陽キャ

T.Y

 K程ではないが高身長。色白で目が大きくて鼻が高い西洋顔の美人上品で清楚な雰囲気。親が金持ちらしく、夏休みにはオーストラリアにいったらしい。

H尾.N

 色黒。やや吊り目、歯並びが少し悪かったがトータルで見れば美人

K折.Y

 色白、スタイル抜群。目が大きく、唇が厚く、鼻が高いハーフ顔。スクールカースト的には陽キャ

T.Y

 目が細いのが玉に瑕。他の人が細身なのに対し、普通の体型。性格大人しい。

K陽.R

 阪大文学部に現役で行ったエリート。色白の上品美人

N川K

 主席高校に入ったエリート。自宅浪一年東大理系に進学した。高身長で恵体。

目が細い

N尾M

 色白・小柄。明るい性格

Y女H

 名古屋大学に現役で受かったエリート。色黒細身。テニス部所属する文武両道才色兼備性格も明るい。

I葉E

 小柄の清楚美人中学からの友人の彼女

K井H

 小柄色白。人形みたいな可愛い見た目だが、性格は冷めてた。成績優秀なのに医学部看護学科に推薦で進学した。

2021-01-07

anond:20210107164402

周りの男ってのは吹奏楽部からテニス部からバスケ部から現役消防士(レスキュー隊)までさまざまだがどいつもこいつも持ちが悪い。

2020-11-13

anond:20201113140843

中学の時テニス部で、山を切り開いて作ったテニスコート部活してたけど、年に何回かは見たな。

何年かまえも、山の中を通ってる国道沿いにある道の駅によって、隣の広場みたいなところを見たら大量にウサギの糞が落ちてたわ。

2020-11-03

ツイッターがつまらん人を褒める1万人のつまらん人の集まり展覧会になってきた

もうね、ネタがないの。

今日見た地獄はね。

まずね、寄生獣ミギーのコラで「MT車なんて意味がないぞ!」と言ってる奴。

これがまず全然面白くないの。

しかもこれふたばちゃんねるとかい日本で最もつまらん奴らが集ってつまらない奴ら同士にしか伝わらない話で自分たち面白いって必死去勢を張り合ってるサイトネタなのね。

ただでさえつまらセリフコラ文化に、レギュ違反の順番組み換えまでかました末期の末期のゴミね。

それを掟破りの外部持ち出してしてるっていう放射性廃棄物

その次にね、それに引用リツイートで「AI車が増えすぎた未来AI暴走、でもMT車は無事だったぜカッコイー!」とかつけてる奴が回ってくんの。

地獄すぎるね。

そもそもAI運転ATMTって全く無関係なわけよ。

つうか今の車だってAT運転だけどAI搭載してないじゃん?

まりそのAI暴走する未来が来ても古いAT車なら普通に乗れるのね。

つうか、その世界であっても多分まともに乗れるMT車ってAI積んでると思うんだよね。

だって全部のAT車にAI搭載されてて、今の時代に売ってる車とかは全て風化してるとかそういう400年後ぐらいの未来の設定のはずでしょ?

もうね、意味分かんないよね。

こんなガバガバで、そもそもまっっっっっっっったっっっっっっっっく面白くない内容のツイートを皆が回し読みしてるの。

頭が悪い上につまらない人達が、頭が悪くてつまらない人間しか楽しめないネタで、つまらん奴ら同士でニタニタしてる地獄のような光景が広がってるわけ。

しかも、そいつ創造性もなくてつまらいから、原始人レベルイジメかめっちゃ大好きなのね。

猿山のお猿さんがヒマすぎてイジメを始めるのと同じノリで、駄目なテニス部サッカー部の連中が部室でイジメを始めるのと同じようなノリで、ツイッターにはつまらない奴らの暇つぶしとしてのイジメが広がってるわけ。

本当、もうね、完全に地獄よ。

今のツイッターは終わりすぎてる。

はてなはこうならないように気をつけてね

2020-10-14

職場の軽度なイジリってどうやってNOを突きつければいいんだ?

ガチの奴じゃなくて、3日に一度肩パンかましてくる程度の奴な。

この程度のことで騒ぎ立てても職場で居場所をなくすだけだし、流石にこの程度じゃ労基も弁護士も動かない。

でも俺は確実に消耗していってるし、正直ソイツのことが全く信用できないからソイツと口を聞くのもいい加減嫌になってる。

そんでソイツと口聞きたくねえからソイツをスルーして仕事をこなせるように裏工作してたら見つかって怒られたんだが、俺にとっていまや全労働における苦痛の3割ぐらいはソイツと口を聞くことだからマジでソイツと関わりたくないんだよな。

でも、この程度のことでグダグダ言ってもなと我慢してる。

ちなみにソイツは元々テニス部で、そいつのいたテニス部だとマジでそれぐらいは単なる挨拶だったらしく、本気でそれを信じ続けてかれこれ30年適当相手を見つけては数日起きに肩パンする生活を続けてるから価値観の変換は一切望めん。

2020-09-16

医学の道に進みたかった

中学は、地域複数小学校卒業した者で構成されていた。

学生数の多い小学校もある。どうしてもその割合は均一とは行かなかった。

結果、私はマイナー小学校卒業生として中学入学する事になった。

医学を志した私は保健委員になりたかった。しかし、同時に手を挙げた者がおり、メジャー小学校出身である彼女は元メジャー小学生の推薦を得て保健委員となった。

ここで私の自信は打ち砕かれた。小学生時代学級委員を努めた功績は、全く何の役にも立たなかった。

仕方無く空いた枠に入る。良い人を演じる為に。その空いた枠に収まった委員何だかんだで三年続ける事になった。

結局、中学の三年間で保健委員になれた事は一度だってない。

そこには選択の自由なんてなかった。

文化系部活根暗オタク揶揄され居場所を奪われる。皆こぞって運動部へ入部届を提出した。

野球部テニス部学生顧問の格好の的だった。

グラウンドを広く使えたのはサッカー部。人気だったのは剣道部

専用の部室があったからだ。

ノーコンシュートに加えやる気のないGKのお陰で、球があちこちへ飛んで行く。

顔面で受けた事もある。また、ある生徒は一階から飛び降り足を怪我したという。

美術時間など恐ろしい。彫刻刀など凶器に近かった。

「強くなりてえ」と両腕、両足に重りを付けていた生徒もいた。

彼は通常の学生鞄でなく、白い斜め掛けバッグで登校していた。田舎の私達の学校にとって、余所から来たそういう出で立ちは珍しくかなり印象に残っている。

いずれにせよ、成績は優秀だったかも知れないが私が夢を諦めたのはあの時だ。なりたい仕事は皆席が埋まっている。数と言う名の暴力に屈服させられて、その自由は奪われるのだとあの時知った。

2020-09-01

チアリーダーブルマーテニスのアンダースコート

パンツ見ちゃった

性に目覚めたのがいつだったか、覚えている者は少ない。たとえば、裸がエッチだということを知っていて、のぞいて見たいと思うことがあっても、その願望とおちんちんをいじっていて気持ちよくなることと結びつくのは、おそらく思春期以降なのだと思う。性欲は、具体的な対象を持つよりもずっと前から心の奥に不可解なエネルギーとして蓄えられていて、それが将来何に向かうのか、誰にもわからない。

小学生の頃の自分にとって一番エッチだったのは、成熟した女性の裸やおっぱいよりも、同級生パンチラだった。姉妹と一緒に風呂に入っていたので、女性の体など珍しくなかったのだろう。それよりも、めったに見る機会のない同級生下着のほうが、性器のものよりもエッチだった。

スカートめくりはしてはいけないことだと知っていたので、掃除時間雑巾がけの時間に、ばれないようにのぞいていたことを覚えている。どうして中身よりも布切れに興奮していたのか、今になってもわからない。ただ、今でも生のおっぱいよりも長袖レオタードブルマーに興奮してしまうのだから、おそらくおっぱいよりも、パンツというかお尻の曲線に対する執念が根深いのだろう。

チアリーダーパンチラ

そういうわけだから、初めてチアリーダーを見たときには、子どもながらに衝撃を受けた。なぜなら、パンツが見えていると恥ずかしがる普通女の子たちと違って、彼女たちは大胆にも片足を上げてスカートの中を見せるし、時には飛び上がって開脚しながらブルマーを見せる。スカートの色とおそろいのブルマーはかわいらしいし、逆にスカートブルマーの色が違っていたときには、ますます本物のパンチラっぽいというか、見てはいけないものを見てしまったとき特有の興奮があった。今にして思えば、あれだけの体を鍛えている人に対して欲情してしまうのは失礼だと思うのだけれど、きれいな人が多いし、性に目覚めたばかりの少年にとって性欲は未知のもので、どうやってコントロールすればいいのかもわからず、困惑するばかりであった。

ところで、チアリーダー歴史は古い。チア衣装コスチューム1920年代にまでさかのぼる(https://cheer.epicsports.com/cheerleading-shorts-history.html#:~:text=Cheer%20shorts%20or%20bottoms%20worn,of%20spectators%20at%20football%20games.)。もちろん、保守的時代のことだから、今みたいに下着のようなものを見せることはなかった。

流れが変わったのは1960年代だ。スカートの長さが膝丈くらいになり、下着が見えるのを防ぐために、ブルマーを導入したようだ(同上)

ただし、あまりにもスカートを短くしすぎてブルマーが丸出しになるのもだめらしい。次の資料によれば、米国高校チア連盟では、スカートの丈は12から14インチ、(30から35センチ)と指定されている。また、ショーツブルマーよりも2インチ(5センチ)、ボクサーショーツよりも1.5インチ(4.25センチ)長くないといけないらしい。

https://www.wisegeek.com/what-is-cheerleading-underwear.htm

NFLでは、さまざまなチア衣装があって、かっこいいけれども、やっぱり高校生のチアみたいにシンプルで、色気がありすぎないのが、私は好きだ。

https://www.insider.com/history-of-nfl-cheerleader-uniforms-2017-2

テニスのアンダースコート通称アンスコ

純白のテニスウエアの下にブルマーはいているところにとてもドキドキしてしまった記憶がある。やはり、見られることが前提ではないものを見てしまたことによる戸惑いなのだろうか。それとも、同級生女の子パンチラ防止にブルマーをはくようになったせいで、ブルマチラにまで欲情するようになってしまったのだろうか。

さて、古い英国小説を読んでいると、しばしばテニスをやる場面が出てくる。当時のことだから、やはり長いスカートを身に着けて行っていたようだ。それが、やはり60年代ミニスカート流行し、そういうスタイリッシュな姿で運動することがもてはやされた。その結果、パンチラを防止するためにアンダースコートを身に着けるようになったのだろう。

https://www.allure.com/gallery/tennis-fashion-history

https://active.sweatband.com/tennis/tennis-fashion-history-from-long-formal-dresses-to-the-miniskirt.html

ただ、資料が少ないために、フリフリのアンダースコートと、今のようなホットパンツのようなアンダースコートがどのように移り変わったのかの資料は、まだ見つけられていないわざわざ写真に残している人が少ないというのもあるのだろう。下着の服飾史を研究している人々は、こういう人々の恥じらいというか慎み深さで、苦労しているに違いない。

ところで、とあるからテニス部の少女スカートの下にはアンダースコートを身に着けているのはレギュラーで、それ以外の子ブルマーだ、という説を聞いたことがあるのだが、本当だろうか?

まとめ、今後の展望

スカートの中が見えないようにブルマーあるいはそれに準ずるものをはく習慣は、おそらくミニスカート流行しだした60年代に端を発する。そうしたファッションを受け入れる下地が、その時代までにはできていたということか。とはいえビキニ発明1946年のこと、ずっと早い。

今後は同じようにレオタードバニーガール競泳水着起源について調べ、脚を見せるようになる習慣が同時多発的に発生したのかどうかを検証したい。時間もあまりないので、今調べた範囲でごく簡単に述べておくと、バニーガールについては、ヒュー・ヘフナー氏が1960年2月29日に、バニーガールコスチュームを発表したそうである

https://www.pixiv.net/artworks/64464179

参考資料はご存じ、まぐ太氏である

また、レオタードについては、元は男性衣装だったように記憶している。

それが、自由を求める女性の間で1960年代以降に広まった、と書かれている。ただし、資料によっては年度のずれがある。

https://fashion-history.lovetoknow.com/clothing-types-styles/leotard

また、暇ができたときにでも調べるつもりだ。

2020-08-22

皆に好かれるウェイ系オタクから距離を置いた話

ただの腐女子お気持ち構文です。長いよ。

ウェイ系オタク彼女は、小説書きだがTwitterでは専ら絵師へのリプに徹している。好きな絵師がいたらすぐに感想を送ってふぁぼりつする良質な腐女子である絵師のはしくれでもある私もその対象となったらしい。1年ほど前から彼女にたくさんリプを頂いた。本も買ってもらった。

そんな素敵な彼女と私がなぜ距離を置いたのか。一番の原因は彼女が愛されすぎているからだろう。そう、単なる嫉妬だ。

美人で明るい彼女オフ会などで何度か会ったことがあるが、私が青春時代敬遠していたタイプ女性なのだチア部やテニス部所属してそうな感じの、スクールカースト上位のウェイ系だった。片や私は陰気なデブス。かれこれそういう人種とは極力関わらないよう努めてきた人間なのだ恋愛経験豊富彼女喪女の私。社会人お金持ちな彼女貧乏学生な私。推しカプのこと以外は全く話が合わない。彼女ときどき口にする「大学時代に飲みサーで〜」とか、「推しに〇〇万課金した‪w‪w‪w」とか、そういうステータス持たざる者には逐一グサグサと突き刺さった。何度も言うが、彼女は全く悪くない。私と180度違う人生を送ってきたリア充なだけなのだ。私の醜い嫉妬も甚だしい。

極めつけは、このコロナのご時世。周知の事実だが大学生はほぼ全面的に登校を禁止させられている。様々なイベントに行かなくなったし、家に引きこもる時間が大幅に増えた。しか彼女は違った。在宅勤務をフル活用し、ここぞとばかりに様々なフォロワーさんと会って食事カラオケオフ会をしているのだ。感染症対策は怠っていないというのでそれを咎める気はないのだが、もともと人脈が狭い私は、彼女がTLにアップする飯テロ写真を見る度に複雑な気持ちになった。

そして先月。比較的近場に住んでいるため、私にも彼女から遊びの誘いが来た。久しく誰かと会って話せる機会。私は二つ返事でOKした。

けれど、彼女を見る度に自分の情けなさを痛感し辛くなる。私も彼女のように美人だったらな。彼女のように神絵師ともたくさん話せたらな。それが積もり積もって、気づけば私は彼女の事ばかり考えていたのだ。恋ではないほうの別ベクトルで。

先週が丁度約束の日だったのだが、その前の日にも彼女フォロワーさんとカラオケ推し映画鑑賞をしてワインを飲んでいた。私が遊びの時間帯や内容やらを聞いても未読無視(結局、遊ぶ当日の10時頃にようやく既読したのだが…)。そりゃそうだ。彼女フォロワーさんと遊ぶのに忙しい。1ヶ月間会うのをソワソワ待っていた暇人とは違うのだ。

そう思ったところで、私の中で何かが吹っ切れた。彼女に嫌われると他のフォロワーさんとのオフ会でも気まずくなるのは目に見えている(彼女は色んなオフ会に必ずと言っていいほど参加している)。それは分かっていたが、もう彼女を見てますます自分が嫌いになるのが怖かったのだ。適当理由をつけて、その日にドタキャンした(最低)。

彼女もそれを暗黙の了解として受け取ったらしい。その日の晩に「嫌われているのかと薄々感じていたが、案の定そうだったと今日分かった。今夜は呑む」とツイートしていた。そのコメントには、多くの絵師からの慰めリプライ。そう、それでいい。もう彼女はたくさんの人に好かれているんだ。こんな嫉妬心の醜いやつとは関わらないでくれ。

支部における彼女作品非表示にし、Twitterではこっそりミュートをかけた。堂々とブロ解しないところにも、私の惨めさが滲み出ている。

2020-08-16

30年ほど前の中学バレーボール部の思い出【ロスジェネ世代

当時の中学部活動に参加必須だった。

その中でバレーボールを選んでしまった。

なんとなく楽そう、友達も入ると言っていたから。

これが間違いの始まりだった。

練習できるのは3年生だけだった。

1~2年は球拾い専門。

コートをぐるりと囲んで、飛んでくる球を回収するだけの雑用係。

拾うボールは飛び交っているのだが、球拾い要員の人数が多く(30人近く)、手持ち無沙汰。

明らかな過剰スペック

ほぼ棒立ちの状態

でもみんな練習がしたかった。

たまに飛んできたボールを、トスして回していたら「真面目にやれ!」と一喝された。

無心で数時間を過ごすのは苦痛しかなかった。


練習最後は決まって、アタックを拾うレシーブの練習が行われる。

球拾いが最も忙しくなる時間でもある。


「早く終わってくれ・・・・」これが1,2年の共通した願いだった。



ラストォォォーーー!!!!!」顧問の怒号が飛ぶ。

練習の末期が近づいたと安堵を感じる。


しか顧問は力任せに思いっきアタックするため、誰も取れない。

そもそも球がコート外に行くことも多い。

そんなこんなで、「ラスト」は永遠と思えるくらいに伸びに延び、他部活の生徒が完全に帰り、外が真っ暗になった頃に終焉を迎えるのが日常だった。



これが毎日続いた。

月火水木金土日。

休みもなく毎日

平日は16時~19時までの3時間

土日は弁当持参で丸一日。


夏休みもこうした毎日が続いた。

お盆の時期、2泊3日の合宿があった。

問答無用で球拾いだった。

朝6時に起きてランニングして球拾い。

ご飯を食べて球拾い。

夜は9時まで球拾い。

合宿中は学校体育館で寝泊りした。

家まで自転車10分。

泊まる意味が分からなかった。

1年の秋。

3年生が最後大会でボロ負けした。

3年生は泣いていた。

でもボレは何とも思わなかった。

感情移入できなかった。

「早く帰りたい」と言う思いしかなかった。

しかし「来年絶対に勝つぞぉ!!!」という顧問一言で、その日は夜遅くまで球拾いさせられた。。

3年生が引退し。

2年生が練習できるようになった。

長きにわたり耐え抜いた彼らの顔は、とても生き生きしていた・・・

しかし1年生は相変わらず球拾いの毎日だった。

しかも球拾い要員の数が少なくなったこともあり、ボーっとしていると目立つようになった。

気の抜けた顔で突っ立っていると「やる気だせやぁぁぁああ!!!」、と横からボール顔面に投げつけられた。

鼓膜が破れたかと思った。

ボレは、部活サボりだした。

職員室に呼び出され説教された。

それでも行く気になれなかった。

2年になるころには、全く行かなくなった。

同じような脱落者が何人もいた。


そしてボレ達は3年生になり。

2年間球拾いに耐え続けた英雄達(同期)は、試合で1度も勝つことなく、部活動を終えたと聞いた。

・・・

これがボレの中学部活の思い出である

今こんな部活があれば、親御さんからクレームは相当だろう。

でも当時はこんな部活結構あった。

テニス部ハンドボール部も球拾い専門だと言っていた。

・・・

思い返せば。

ボレの人生は、あのバレーボール部の入部で歯車が狂いだしたように思う。

40歳を超えても、日雇い非正規雇用である


そして2020年

コロナショックである・・・・。

夢も仕事未来もない。

家賃も払えず、来月末には退去を迫られている。



それでもボレは、文句も言わずただ粛々と生き続けようと思っている。


そう。

あの顧問は立派な奴隷を育て上げたのだ。

ロスジェネ世代が生まれたのは、こうした時代背景があったからだと、ボレは強く思っている。

2020-08-15

夏の懺悔

終戦の日は、Y君の命日です。

高校時代同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。

Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。

しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。

Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。

入学からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップ公立高校を落ちてきた人間でした。

はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。

から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。

入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。

第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。

「四位なのに、第一志望でこの学校にきたんだね。」

「こういう人も来るくらいの高校なんだから俺も勉強しよう」

その時の僕にはまだ、そんな理由勉強をはじめようと思う理由理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。

とは言っても、その後Y君が試験ライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラス文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラスクラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。

交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。

彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街引っ越してきたので、同じ中学校出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えますしかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。

Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いていますしかし、同じクラステニス部から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。

Y君と同じグループテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦メンバーに入ることはなかったそうです。

とき一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。

僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。

Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。

高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強ノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活休みになってY君が加わったことが何度かあります

Y君が、自分勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者発言賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。

僕らはみな自分に合わせて勉強スタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。

僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間文法勉強していた方が都合よかったのです。

そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。

時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベル英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。

学年上位の彼女場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。

すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベル問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。

試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。

Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分必要勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。

高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ模試のたびに奪い合うのです。

事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。

勉強をしたかテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。

正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。

僕は、努力方向性を間違える人間愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑対象でした。「三年の夏に部活引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。

当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。

みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学から日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命早慶国公立大学

Y君が目指したのも、早慶文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格絶望的なので記念受験だったと思います

日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベル大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。

先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力甲斐あって志望校合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベル大学です。

高校卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。

僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。

僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。

Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学教育学部合格したのも少なからず影響があったと思います

Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。

Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法レベル大学に手応えを感じていたそうです。高校時代担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専合格は決まっていました。

しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専入学一時金を払わなかったそうです。

かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイ変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後メールには、そう書かれていたそうです。

苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間けが成功評価できますしか成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。

三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています

同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。

二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察通報したそうです。海上保安庁警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。

沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。

暗く塩辛海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。

人生の遠回りを許さな日本空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。

彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。

彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。

こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。

今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れますしかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。

実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれ田舎風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。

今はまだ、入道雲青空に彩られたこ風景に罪の意識を覚えます

2020-07-24

親友じゃないかもしれない


親友という、なんだか幼稚で滑稽なワードにまつわる、ここ数日起こった話をする。

長文だからな、読まんでいいよ。



私:大学3年生のオタク。酒が1等好き。最近お気に入り氷結の超冷感レモンうまい

書き出してて思ったがまあつまらん女だな。

日々積み重なるストレスを酒で発散しているのだが、今はコロナで呑みにも行けないので、最近流行りのオンライン飲み会…というかなんというかを高頻度でやっている。

おとといの話だ。まあいものように友人と2人でビデオ通話を繋げて酒をかっくらっていた。この友人をAとする。

Aはまあなんというか、ひとに好かれる質だ。

特に美人なわけでもないがとにかく聞き上手であり、たまに鋭いツッコミを入れるような。猫を被るのが上手くて、ONOFFのスイッチの切り替えが早い。そういう女だ。交友関係は浅く広く。

私とAとの関係性は9年ほど遡り、中学入学時。名前順に並んだ席が近かったので、私からしかけ(たらしい、私には記憶が無いがAはそう言っていた)、そこから仲良くなったような仲である

友人というよりかは悪友であり、高校生の時分は学校をサボってAの家で遊んだりしていた。

彼女と遠いところへ遊びに行ったことは無い。お互い喋るのが好きなので、サイゼマック通話等で延々身のない話をするのが常だ。

おとといもいつものように駄弁っていたのだが、Aがいきなり黙り込んだ。どうしたのかと聞くと、彼女

親友のお前を見込んで相談があるんだけど」

と、ぽつぽつと就職関連の話をし始めた。結構真面目に話をした。

中身はプライバシー問題があるから言わないというかまあ関係なくて、いつの間にか彼女の中で私は親友という枠に入っていたのである

別に良い。それだけ信頼してもらえているのだろう。素直に嬉しかった。

私はAのことが普通に好きであるし、私はAとは別に親友と呼べる友人を持ってはいるが、親友は1人につき1人でなくてはならないなどという話はないはずだ。私は2人目の親友を手に入れた。とても嬉しい話だ。

だが私は、その後衝撃でビールをこぼすことになる。

何に衝撃を受けたかを話す前に、もう1人の友人を交えた長い昔話をしておこうと思う。このもう1人の友人をBとする。

中学入学時のAと私は、特に示し合わせることも無く、新聞部に入った。というか新聞部体験で入って、あ〜!きみ!みたいな。そこから仲が急に良くなっていった関係だ。

新聞部特に人数も多くはなく、先輩たちは5人ぐらいいたほど。

で、そこには、もう1人同級生が居たのである彼女がB。彼女クラスメイトであった。

Bは綺麗で細くて、すてきなひとだ。しかしまあ、他人コミュニケーションを取るのが苦手なタイプであり、人見知りがすごい。

私とAは物怖じしない上に誰にでも話しかける不審者であるので、彼女にも話しかけた。

部の中で3人しかいない1年生、かつ全員がクラスメイトとくればそれはもう仲良くなるしか道はない。

そうして、まあまあ楽しく部活を過ごしていた。

当たり前なのだが、部活の友人とクラスの友人は別物である

私は本当に誰にでも話しかけるので、入学時に大量の人間に声をかけた結果、特にとても仲良くなった子がクラスにひとりいた。彼女はAでもBでも無く他の子であり、今では私の親友と呼べる友人である。なんならCと置いておこう。

ただBは先述の通りあまり人に話しかける質ではない。仲良くしているAと2人で居た。Aはまあ、他にも喋る友達を作ってはいたが。

中学女子なんてものは、基本的に2人で行動するのが主流であり、互いを特別視する。そうでなければ、1人を崇拝して取り巻く形をとる。そうやってクラスの中での安寧を図るわけだ。

Aは特にそういったことを考えてはいなかったようだが、Bからはその気をとても感じた。

下校時など、3人でいる際に、BはよくAに耳打ちで何かを伝えたり、メモを渡したりしていた。流石に少し、疎外感を感じていた。

とはいえ私はそれで怯む女ではないし、何より私はバカであった。その2人と仲良くなれなかろうが仲良くしているCがいる上、そもそもその疎外感に対して寂しくなることもなかったのであるバカなので。

進級した。

私とBが同じクラス、Aが他のクラスに行った。

その頃私はある漫画にハマり、なりたてのオタク、引いては腐女子によくある雑食っぷりを発揮していた。多分人生いちばんしかった時期であろう。

AとBはその頃、ある地下バンドにハマっていた。

彼女らはよくライブにも行ったようだし、遠征もしていた。2人ともその話をよくしていた。

たこれがよくある話なのだが、AとBにはそれぞれ想い人が居た。彼らのことを便宜上A1、B1と呼ぶが、A1とB1も仲が良い2人だった。そして、彼らはテニス部所属していたのである

AとBは新聞部を辞め、テニス部移籍した。

新聞部には私1人が残ったが、初めて出来た後輩に浮かれ、特に気にすることもなかった。

記憶が定かではないが、耳打ちやメモ等はこの頃は既に無くなっていたように思う。部活が変わったのもあるのかもしれないが。


と、ここまででわかったと思うが、AとBはとても仲が良かった(ように、少なくとも私には見えていた)のだ。

高校は全員別のところに進学したが、家が近いのでよく出くわしていた。

近況報告を聞いていた限りAとBはその間も仲が良かったようだし、高1の途中でバンドを追うのを辞めたらしい後も、ディズニー原宿等に行った話をよく聞いていたし、3人で近場のカフェなど行って喋ったこともある。

ここで誤解のないように言っておくが、私は別にBと仲が悪い訳では無い。むしろ良い。

Bと2人きりでカラオケに行った回数は中学3年間で両の指以上だし、高校の通学路が被っていたので会った際にはよく話をしていた。今もよくお茶している。

で、だ。

私は中学の頃からBがAのことを『親友』と称するのをよく聞いていた。

そうかそうか仲がいいんだなと思っていたのはここにも起因しており、実際Bと会った時は、彼女はその綺麗な顔で楽しそうにAと行ったディズニーの話をしていたし、私はそういったBをにこにこ眺めながら顔が良〜〜〜友人で良かったマジ感謝感激雨スパチャ〜〜〜〜〜〜〜などと思っていた。(ちゃんと話も聞いていた)

から、AとBは親友と呼べる仲なのだと私は思い込んでいたのである

現軸に話を戻そう。

Aの相談にひと通り付き合った後のことだ。

難しい話を酒の回った頭ながら必死に色々考えて、なんとか彼女ががんばる!と意気込んだ時。

私に話すぐらいなのだから、まあBにはとっくに話しているものだろうと。親友というのはそういうものだと私は思っていたし、そもそも酔った私の意見だけを参考にしてもらうわけにもいかない。他の、まともな人間意見必要であろうと。

そのため、Bはなんて言ってた?と聞いたのである

そうすると、画面に写ったAはきょとんとした顔を浮かべ、

「え?なんでB?」

と言う。

いや、私に話すぐらいだから他の、例えばBとかには話してるかなって。

そう返したところ、Aは

「Bにはこんな話してないよ、こんな話出来るほど仲良くないし。〇〇(私)と、あと親と教授しか話してない」

と言ってのけたのである

衝撃にも程があった。なんなら食べてたさきいかを落とした。

そしてそれに続けて、

「Bには言わないでね」

と念押しされてしまった。

さきいかを落とした焦りと、Aが言った言葉の衝撃で金麦もこぼした。今も私のクッションからはほんのり芳醇な麦の香りがする。早く洗わねば。雨続きだったので洗えていないのだ。

こぼしたものへの応急処置を施す私をAは馬鹿だなあと盛大に笑っていた。

私はそれに文句を言い、またダラダラとつまらないことを喋って、通話を切った。

これはどういうことなのだろうか。

私のことを親友と呼んであの話をしたAは、Aを親友と呼ぶBにはあの話をしていないらしい。

Aは、Bを親友だとは思っていないのか。

私は頭を抱えてしまった。余った金麦煽りしばらく考え込んだがどうにもならず、仕方ないので寝た。

まあ次の日は容赦なく来る。忘れているはずもなく、もやもやとしていた。

その日の晩はCと通話する予定があり、私は昨晩の話を掻い摘んでした。勿論相談の中身は伏せたが。

するとCは、

「Bでしょ、正直昔からヤバい子だと思ってるよ」

と言い始めた。

CはそもそもBのことはあまり好意的に見てはいなかったらしい。発端は例の耳打ちやメモの話だそうだ。

中1の青かった私とCは交換日記なんてものをしており、私はそこに苦言を書いていたらしい。

申し訳ないが全く中身の記憶がないので真偽は確かめようもないが。

その時点で、中1のCは自分親友に対して何をすると憤慨したらしい。私はこの話を聞いた時嬉しくてハチャメチャに照れたので今ここに書いて自慢しているが、Cは「あんたが特に何も考えてないの知ってるから今なら何も心配しないけど」と冷たかった。

結局色々言っていたが、私に理解出来たのはBが依存気質であることぐらいだ。

彼女がAに張り付いて他の子からウザがられていたのを私はミリも興味が無くて知らなかったし、Cが「あんた今でもBのこと構ってあげてるの偉いと思うよ」と言われたのは正直驚いた。私にとってBは、普通の友人にカウントされているからだ。


これをAかBかが見ているかは知らないし、まあ多分見ていないだろうと思う。

からまあ、一応Bに言っておくが、

あなた親友だと言っている人間あなたのことを親友だと思っていないみたいだよ。あなた彼女親友だと言っても、彼女あなた親友だと言った事が一度でもあるだろうか。あると思い込んでいるならどうしようもないけど。

というか、親友かいワードを言いふらして自慢げにするのを、そろそろやめた方がいいと思う。あなたがどうしても幼稚に見えてしまうから

あなた彼女依存する限り、彼女あなた以外の人間と関わることが出来なくなってしまう。そしてそれのせいで、あなたは他の人から嫌われている。

そろそろ、独り立ちしてはいかがだろうか。


2週間後ぐらいに、Bと話す予定がある。面と向かって言えるだろうか、というか言わなきゃならないんだろうか。

Aにもこの話をすべきなのだろうか。

なんだかもうよくわからないので、とりあえず私は今から氷結冷感レモンを飲もうと思う。

2020-04-27

戦時下でも日常はなくならないのだ

小中高といった学生時代平和学習の一環で、太平洋戦争時代を生きていた方にお話を聞く機会が何回かあった。

そこで印象に残っていたのは、戦争中でも普通に日常は続いているということだった。

広島原爆被害を受けた方も当日まで勤めていた工場人間関係普通に大変といった話を聞いたし、

私の祖母受験東京に一人飛んで勉強が大変だったとかテニス部に入ると腕が伸びると聞いてやめたとか、そんなどうでもいい話が印象に残っている。

現在はいうなれば戦時下だ。それでも経済は回さねばならない。義務は果たさねばら習い。むしろ制限も多いかしんどい戦争になったら戦争のためだけになるわけではないのだ。戦争第一なうえで今までやっていたこともやらなければならないのだ。

それはそうだろう。太平洋戦争中の個人商店政府土鍋を納めながらも商売はしていかなければならなかっただろう。


話が変わって申し訳ないが、私は現在大学4年生、就活中だが全然うまくいっていなくて困っている。授業再開の見込みは今のところない。友人は内定を頂いているらしい。

この困っている状況下だが頑張るモチベーションが続かない。人の目が無いと頑張れない。エントリーをせねばと思いつつ先延ばしにして期限が切れいている。仕事をさばくのがへたくそである自分仕事の締め切りを設定するのがへたくそなのである夏休みの宿題最後1週間で裁くのだ。毎週レポートの締め切りがあった平時はむしろ順調に過ごせた。むしろ説明会に出かける用事とかがあった方がメリハリがついて頑張れるのに。

これはまずい気がする。このまま内定をもらえず学校に復帰もできず留年中退コースかもしれない。ヤバイ。そんな予感がビンビンしてきた。

2020-03-12

今までで最高の気持ちいい気分

の時ってどんな時だった?

俺は中学テニス部所属してた時、校内ランキング戦で陰キャながら1位になった時。

あとは初めておっぱい触った時。

2020-02-17

知り合いの増田さん

高校クラスメイト

・よく席が隣になり、その関係で喋ることがあった

・明るく、陰キャである俺に対しても分け隔てない感じだった

陽キャで色黒なのでテニス部かなんかだと思っていたら茶道部でびっくりした

・地黒らしい

沖縄のなにかに進学したらしい

・すげえ黒くなってんのかな

2019-12-09

anond:20191209192827

・毛の壁

テニス部高校から初心者で始めた割に飲み込み早く先輩からは期待されているが

壁打ちしている間は実は常に増田でどんなことを書き込むかしか考えていない。

インターハイをかけた大事試合サーブを打った途端ふと名前は3文字がいいと思いたち、早くそ名前を考えたいがために

普段からは考えられないアグレッシブさで強豪校を下し、しっかり道頓堀打ち上げを楽しんだあと

半値を真剣に考えるあまり、就寝時間はいつもより2時間も遅くなってしまったが

それでも夜一時であり健康生活のものを送る文武両道増田だが

肝心の名前は思い浮かばず、コンビニでpaypay支払いを使用アプリを開いた瞬間に「毛の壁」という名前を思いついた。

まるで天から降ってきたかのようなインスピレーションだったがこの不思議体験名前のカッコ悪さが釣りわず、誰かに話したくても話せない割に

本命の大好きな女子には話してしまうおちゃめな架空増田

2019-11-11

anond:20191111173616

弟の中学とか俺の高校ではテニプリアニメ化で男テニス部が急拡大したりしたし、オタク認識一般人の認識に大きな隔たりがあると思う。

2019-09-22

e-sports部活動として相応しいかは置いといて、野球部廃止しろ

人間の悪意を増幅し、その中で暴力による解決こそを最適解だと植え付ける悪魔のようなシステムだ。

サッカー部野球部ラグビー部テニス部バスケ部バレー部柔道部・その他運動系部活動は全て廃止してしまえ。

卓球弓道はまあいいかな……あいつらただの陰キャ口喧嘩しか出来ないし

2019-09-01

命を軽く扱おうとしていた

中学生の頃、とある地方都市に住んでいた俺は、毎日電車通学をしていた。

ある日、学校からの帰り道、駅のホーム電車を待っていた。いつも一緒に帰る友人達とは別行動で、一人ベンチに座って本を読んでいた。遠くの方で同学年の女子達が何やら騒いでいる。どうやらその内の一人が名札を線路に落としてしまったらしい。

本当なら駅員を呼んで拾ってもらうのが正しい行為だろう。だがその時の俺はそうしなかった。ホームから線路に勢いよく飛び降りて、名札を拾い上げた。

あの時の俺は漠然とした不安の中にあった。クラス替えで仲の良い友達達と離れて、反対に気に食わない奴等が集うクラスに放り込まれて磨耗していた。好きだった子に振られた。父が単身赴任で家に不在がち、その代わり母とぶつかった。進学校自称するくせにやけに厳しい校則が煩わしかった。在学している中高一貫校を抜け出して、別の中高一貫校への進学を考えていた。

今になって思えば、どれも瑣末なことでしかない。でもあの時の俺はその一つ一つが重なり合って、漠然とした不安の中にいた。ふと自分の命が消えてしまってもいい。そんな感覚だった。

あの日、名札が線路に落ちているのを見かけて、死ぬ理由を見つけられた気がした。線路飛び降りて、名札を拾おうとして、轢かれて死ぬ。あっけない最期

でも現実はそう上手くいかなくて、地方路線から電車が来るまでには時間があった。難なく名札を拾い上げた俺はホームの上までよじ登ると、別のクラスほとんど話したことがなかったテニス部女子に名札を渡した。一連の動きを見ていた彼女は驚いた表情で、ありがとうと言った。

田舎学校の最寄り駅だからか、ホームには人もまばら。一般客、ましてや駅員さえも俺の行為に気づいていなかった。端から見れば格好つけた中学生の危なげな善行は、誰にも咎められることはなかった。

あれから10年以上。しょうもない希死念慮が湧き上がってきた時、あの日のように死ぬ理由こじつけられないかと考えてみる。物事はそう上手くいかないもので、理由はどこにも転がっていない。死ぬ理由に遭遇することはなく、かと言って積極的に命を絶つほどの勇気は持てず、そのままだらだらと生き長らえていく。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん