はてなキーワード: 院試とは
今年の4月。
念願叶って非正規から正規職に転職した某私立院卒の26歳、社会人3年目。
だが、転職して4ヶ月が経った今、仕事を通して生きる目標を見失った。ここ数日、平日の朝を迎える度に「自分はなぜ、この仕事に就いたんだろう」と自問自答を繰り返し、「仕事に行きたくない」という思いばかりが頭に浮かぶ。
別に仕事が激務な訳ではない。残業なんて今のところ忙しかった時期でも月20時間程度、現在はほぼノー残業で、定時上りもザラな職場だ。
では、人間関係やパワハラ上司に嫌気がさしたのか?というと、そういう訳でもない。確かに直上の上司は少し厳しいところはあるものの、決してパワハラをするようなタチの人間ではない。むしろ僕の目線では、それなりに自分の事を思って仕事を指導してくれる良い上司だと思っている。職場の人間関係も若返りを図っているためか、自分を含め20代の若い人が多いので、比較的良好だと感じる。
傍から見る分には「なんてホワイトな職場なんだ!」と思うだろう。実際、僕も今の職場はホワイトだと思っている。
だが、それでも生きる目標を失うに足るほどの辛いことがある。それは、「仕事に対する重責に自分自身が耐えられない」ということだ。
あまり具体的には書けないが、現在、僕がいる部署は(その手の業界では)日本でもそこそこの知名度を誇る。
業界人に「今、◯◯◯で働いています」と言うと、「えー!◯◯◯で働いているんですか!?凄いですね!」とそれなりのレスポンスが返ってくるレベルの部署だ。
だからこそ、特に幹部クラスの上の世代には「ここで働いている自覚とプライドを持ちなさい」という意識が強い。
それがハッキリした形で僕に返ってきたのは、転職して2ヶ月後の忙しくなりつつあった頃。
その時、僕ともう一人の若手(1年上の先輩だが、年は僕より下)が仕事を進める上で失敗し、そのザマを見ていたトップが、
「あの子たち、仕事が出来ないね」と、こぼしたのを直上の上司が聞いたらしく、鬼の形相で事務所に飛んできて、二人共々こっ酷く怒鳴られた。その後、さらに上の上司から「アンタらは◯◯◯の担当なんだから、その事にもっと自覚と責任を持って仕事に取り組んでください(要約)」というお気持ちメールが届いた。
この時は、自分の不甲斐なさに反省しつつ、「もっと頑張らないとな…」と思った。
だが、徐々に仕事に慣れつつある中で、仕事でのミスは一向減る気配は無かった。先輩から頼まれていた仕事は忘れる始末で、これを書いている今日とかも、上司から「仕事の段取りをもっとちゃんとしなさい」と怒られた。僕自身、注意される度に「次は気を付けよう」、「忘れないようにしよう」と思うのだが、どこからか気持ちが抜けるのか、中々思うようにいかず、その度にいくら気を付けても改善できない自分が嫌になり、自己嫌悪に陥る。
「オイオイ、まだ入りたてなんだから、そのくらいのミスは誰でもあるさ」、「若いうちはミスして当然」というのは簡単だ。だか、一応2年間の社会人期間もあり、院卒としてのプライドがあるので、そうした割り切った気持ちよりも先に「なんでうまく仕事が出来ない、回せないんだろう」というモヤモヤする気持ちの方が強く出ててくる。そして、段々「この仕事、やっぱり合って無いんかな」と思えてきて、
遂に「面接の時に『◯◯◯をしたいんです!』と言い切ったあの時の思いは、受かりたいが為の啖呵だったんだな」と気付いて、仕事での目標を見失った。
だが、こうして目標を失った今に思い返せば、そもそもの話、「この仕事が好きじゃない」ってところに行きつくのかもしれないと思っている。
少しばかり話はズレるが、今の仕事は学生時代からやって来たことをそのまま"プロ"として仕事にした感じである。だから、両親や周りの人からは「好きなことで仕事しているんだから、羨ましいことだよ」と度々言われる。じゃあ学生時代どうだったかたいうと、あまりいい思い出が多いとは言えないなぁと思う。勿論、それで院まで行って論文を書いたのだから、それなりの偽らざる感情は持ち合わせていたとは思う。だが、思い返せば辛いことの方が多いなと。
院試を受ける前はあまりにもの出来なさに焦り、やる気のある真面目なゼミの同期とも対立して人間関係が拗れたこともあって、「本当にこの道でいいんだろうか」と思い悩んで、精神的に追い詰められてカウンセリングを受けた。院進後には、自分の院生としての自覚の足りなさから、やる気のある学部生の後輩から突き上げられ、指導教官の部屋で後輩同席のもと教官から説教喰らったこともあった(特に説教された件はかなりのトラウマになってる)。
結局、こうした過去を今も引きずったままだから、仕事にしている今が1番辛く感じるのかもしれない。
そして話は元に戻るが、こうやって目標を失った今、どうしたらいいんだろうかと思う。
業種を変えようにも、異業種のスキルも経験も全く持ち合わせてない。何か新しく身に着けようと思うが、なかなか体も心も動かない。では今の仕事を耐えて続けるのが最善かと言われたら、それはそれでプレッシャーに耐えきれなくて発狂する未来が容易に想像できるし、自分の本心を偽ってでもしがみ付くのも違うかなと思う。
本当にどうしたらいいんだろうか。
今年の梅雨の時期から体調がマシになり重い腰を上げて24卒で就活を始めたが、全然うまくいかん。
業界と職種は絞ったが企業の規模や立地は問わず、両手で収まらないくらいの数にエントリーした。
どの企業も割と「ここで働きたい」と心の底から思える企業である。
正確に言えば、留年をどう乗り越えたのかを、ポジティブに説明して面接官を納得させることができていない。
多留したのはメンタルの具合がよくなくて、入学直後と昨年の2回引きこもり状態になったからである。
1回目の引きこもりは乗り越えられたと自信をもって言える。
コミュニケーションを楽しむ余裕ができたことで友人に恵まれ、新しく始めたアルバイトも自分に合った職場でやりがいがあり、学業にも興味をもって取り組むことができるようになったし、すべてがうまくいくようになった。
2回目の引きこもりは卒業研究が原因だった。これはまだ乗り越えている途中だ!!!!!!
昨年院試に合格して燃え尽き症候群になりかかっていたところで(修士に進学する予定だった)コロナに罹患し、10日間の自宅療養という外出禁止の軟禁状態になって精神が不安定になったところで、卒業研究に取り組み始めたのだ。そんな状態でうまくいくはずがない。
結局休学して卒業を1年持ち越すことにしたので院進は取りやめになり、卒研で挫折したので進学する気も失せて就活を始めて冒頭に戻るけど、どうしたものか。
これを説明しろと面接で言われても、「まだ乗り越えている段階です」としか言えないっす。
正直なところ旧帝理系なら多浪多留でも何とかなると思っていたが、そんなに甘くはなかった。ただただ私が無能なだけなのかもしれないが。
「新卒で就職できなかったら詰み」と考えていたのもあって、うっすら自死が頭をよぎることもある。
学内や学外のキャリセン的なところで相談してみたが、どこも「エントリーする企業を増やそう」と言われた。
もっともだとは思うけど、お祈りされるのは精神がすり減るし、あまり興味の持てない企業にエントリーしても身が入らないだろう。
仮に内定を頂いて入社できたとしてもその後にまた病んでしまいそう。
なんというかこういうことこのクソデカ主語でさらっと書いちゃうあたりすげー勉強も研究もできなさそう感が・・・
そもそもタイトルからして何が言いたいのか意味不明だから、学部でちょっとかじった知識でドヤ顔する前に国語力を鍛えたほうがよさそうではある
先日なんとなくSNSを眺めていたら、友人の投稿が目に留まった。
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「身内です。このアカウントの持ち主は A月B日に永眠いたしました。生前のご厚誼に感謝申し上げます。」
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彼女との出会いは、200X年だった。趣味関係で彼女のブログを見つけた俺は、彼女のブログにコメントをした。その後コメントを返してもらったり、mixiのアカウントを教えてもらったりして、コミュニケーションの頻度が上がっていった。連絡先を交換して電話もした。「おはよう」から「おやすみ」まで、ガラケーで連絡を取り合う感じになった。
お互いの写真も交換して、会ったこともなかったのに電話で告白をして付き合うようになった。お互い大学生で、相手は首都圏在住、俺は地方在住だった。遠距離のもどかしさがあったけど、俺は大学卒業後就職して首都圏に引っ越すつもりだった。
俺は大学4年になると、就活とか何かしらのタイミングで夜行バスや新幹線で首都圏へ行き、彼女に会った。最初会う時は、本当に不安でいっぱいだった。思ってた感じと違うと言われたらどうしようと。彼女は、俺のスーツにメガネの容姿を褒めた。それまで容姿を褒められた経験のなかった俺は、褒められたことを単純に受け入れる事ができず、嬉しさよりも恥ずかしさの方が優った。
彼女は、派手な感じのない小綺麗な人だった。背が俺より高くて175cmくらいあった。コンプレックスを感じる必要は全くないのに、「高いヒールを履きたいけど、自分の背が高いのが嫌なんだ」と言った。ネイルをしたり、コスプレをしたり、カメラマンの人に容姿を撮ってもらうことが好きみたいだった。
あまり俺の意見や話に対して自分の考えを述べたりせず、基本的に良く相槌を打ち、よく笑う人だった。いわゆる聞き上手な人のように見えた。家庭問題と学校問題等によって鬱病なんだと聞かされた時は、人に攻撃されないようにとか、嫌われないようにするための処世術?として聞き上手なのかもしれないと思った。
鬱病が本当に辛そうだった。体調のいい時に始めたバイトも、体調が悪くなると寝込んで欠勤が続き、辞めることになった。「パン屋のバイトに受かった、楽しみだ」と言っていたが、最終的にそれも辞めることになった。大学も然り、留年中退となった。「どうして、自分はこんなに他の人ができることができないのか」と悔しがった。
俺は大学4年生の夏頃までに就職の内定をもらった。でも、周りの友達はほとんど大学院に進学予定で、自分の就職選択が正しいのかどうかよくわからなくなっていた。そして、大学院に進学すると遠距離恋愛をさらに2年続けることになる。彼女に電話で悩みを打ち明けると「試験、頑張りなよ!」と応援してくれた。後2年待ってくれそうな気がした。大学の夏休みを院試の勉強に充てて、試験に合格をした俺は、彼女に結果を伝えた。喜んでくれた。内定していた会社には、内定辞退の謝罪をしに行った。
その年の暮れ、俺は年末年始を首都圏の親戚の家で過ごさせてもらえることになり、どこかに遊びに行こうと彼女を誘った。俺はインドア派でどこかに行きたいとかはなかったから、行きたいところはないかと彼女に聞いた。彼女は「109の正月セールに行きたい」と言った。初めて入った109は想像していたより狭かった上、外は大行列で中は大戦争だった。朝からセールにいき、昼に食事をしながら「正月セール、やべーw」と2人で笑い合った。
いつの頃からか、「(俺が学部を卒業して就職したら)もうすぐ頻繁に会えるようになるね」という話題もなくなり、二人の会話がトーンダウンし始めて、とうとう「別れよう」と言われた。院進学の判断をしたのは俺だったし、彼女は明確な意思を持って何かを話す時、結構頑なな人だったから、あまりとりつく島がなかった。そして別れることになった。
それからも俺は彼女と連絡をとった。2年間の博士前期課程を修了後、就職で首都圏へ引っ越した時も、一緒にどこかに遊びに行った帰りに「もう一度付き合わないか?」と聞いた。でも、断られた。それから、お互いに新しいパートナーができたりして、少し疎遠になった。ご飯を食べに行こうと何度か誘ったこともあったけど「行きたいんだけど、体調が悪くて」と断られた。「流石に空気読めよ」って話だったのかもしれないし、本当に体調が悪かったのかもしれない。今から思えば体調は悪化していたのかもしれない。でも、もうわからない。
彼女は、口数が多い方ではなかった。でも、話せば沢山考えていることがわかった。人を蔑んだりすることなく、性格は優しかった。笑顔は素朴で屈託がなかった。俺は彼女の書く文章も好きだった。memorizeとかを昔やっていて、ブログとかでは読みやすくて書き慣れた感じの文章を書いた。何よりこんな俺の稚拙な増田とは比較にならないくらい筆に勢いがあった。
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闘病生活お疲れ様。あの頃、俺は君に夢中だったし、手を繋いでデートできるのが本当に幸せだったよ。優しい笑顔と文章をありがとう。
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合掌
そのサークルには、自分よりも4つ上の先輩がいて、いつも部室におり、後輩とゲームしたりで遊んでいた。
その先輩は英語の単位を取れずに4留し、大学の在学可能期限ギリギリで卒業した。
そして、大学院進学を考えていたのに、なぜか院試の出願を忘れてしまい、別の大学院に進むことになったと聞いた。
自分はその後、大学を卒業し、就職して先輩に関する音沙汰を聞くことがなかった。
どうやら自分でも知ってるようなすごいトップカンファレンスに論文をアクセプトしたらしい。
調べてみたところ、彼は新しい大学で博士号を取り、今は特任助教になっているという。
以下は精神の弱い人間が大学院あまり行けなかったけど、無理やり酷い論文で修了したという話である。どこにでもあるような最悪な内容であり、頭の悪さも相まって「お前が悪いじゃん」「でもでもだってばっかりでそうなるのはお前が悪い、死ね」なのは重々わかっているのですが、自分の踏ん切りと内容全てを何処かに残しておきたい、という気持ちのため、ここに書かせてください。ごめんなさい。
私は地方大からちょっと良い地方大の院へ進学した。移動理由は色々あったが、地元への帰省と、自身のやりたい分野がその大学院にあったからだ。ちなみに計算科学系から有機合成系へ移った。
進学当初、私は先輩につくことができなかった。理由は単純で、単に先輩の手が空いてなかったからだ。とはいえ別グループの同級生が私に研究室のノウハウを教えてくれたため、何とか実験の動作は分かるようになった。しかし私はあまりに頭が良くなかった。合成や測定結果でわからない点を同研究テーマの先輩に聞いても、直属の後輩でないから分からなかったり、手一杯だったりで、かわされてしまい上手く相談ができなかった。教授との関係も悪く無く、寧ろ気にかけてくださっている方だったが、上手く相談できずどんどん一人で抱え込んで沈んでいってしまった。合成が下手というよりは、PDCAサイクルを回すのが致命的に出来なかったのだと今は思う。勉強は少しできても、研究が出来ない最悪のタイプだった。
研究室は先述の通り有機合成系で、コアタイムは緩いものの朝早く夜遅くが基本だった。もちろん私もそれに従った。しかし一つ問題があった、同居している両親である。詳細は省くが、父が難病、母が精神疾患を抱えており、家の面倒を度々見なくてはならなかった。夕飯を作ったり、買って帰ったりは日常茶飯事で、深夜まで母が狂ったように叫ぶのを宥めたのも数えきれない。そんな状況で大学院に行くなと言われればそうなのだが、それでも進学してしまった。なので授業、就活、実験という生活の中、親の面倒も見ると言うタスクが重なり、上手く眠れず個人的にかなりシビアな状態だった。
そんなこんなで数ヶ月が過ぎると、周囲の学生とも何と無く関係ができてくる。当たり前だが、私のように「夕飯をどうしよう」なんて考える人はおらず、良いなあと心の底で思っていた。それに周囲は、学会や論文に共同研究とバンバン結果を出している。勿論努力の結果だし、純粋に凄いと思っている。対して私は何も出来ていない。B4から入ったのと、M1から入ったのでは理解も習熟度も異なるのは当然なのだけど、それでもどうしても周囲との差を感じてしまい、日に日に自身と比較しては落ち込んでいってしまった。当時の自分もそれは分かってはいたのだが、どうしても辛くなってしまった。家庭環境も含めスクールカウンセラーにも行ったが、どうにも辛さは解消しなかった。
トイレに行く時間が増え、学食から研究室へ戻るときが憂鬱になり、通学時に息が詰まる。仕方ないのでYoutubeで面白い動画を探し、見ながら笑顔になっている自分を感じながら「笑えるから大丈夫」と誤魔化していた。
しかし急に、ある日ベッドから起き上がれなくなった。どうしても起き上がれない、動けない。希死念慮が浮かぶ。自分はいなくなったほうがいいのではないか、私みたいな無能はどうやっても何も出来ないんじゃないか。実際無能だし死んだ方がいいと今も思ってる。ズルズルと風呂に入りもせず、ずっとベッドの上で死んだように寝ては泣いていた。いま文章を書いていても論理が不明だけれど、でも確実に辛かった。そして秋だった気候が冬に変わり、気づけば年も明けてしまった。研究室の友達も先生も凄く心配してくれたが、ずっと引き篭もっては一人体育座りして、夜が明けるのを日々恐ろしく思っていた。朝の鳥の飛び立つ羽音が余りにも力強くて、自身の無力さから泣いたりもした。そしてあれだけ楽しかった実験が、苦でしか無くなってしまった。
そうこうしているうちに就活が本格化し、それでも研究室にいけない日々が続いた。しかしこのまま退学をしても生きる道はなく死ぬしかない。極端な思考だと思うけど、行くか死ぬかという2択だった。どうしようもないけれど研究室に行くよりは就活は楽で、頑張って色々と行動して内定を得て、研究室へ復帰して、時折休みながら修士論文を書き上げた。ちなみに修士の中間報告や各種講義は、先生のお目溢しと慈悲と過去(M1前期)の頑張りでなんとか修了単位を頂いた。情けない限りである。
言わずもがな、周囲と比較して大変悲惨な修士論文が完成した。数ヶ月でできるテーマを2年もかけたのか?と言われたら反論の余地はない。自分でも悔しいし、誰もが優しかったし、大層恵まれた環境だったのに、自分に耐えられなかった自分が許せずにいる。今も死にたいし、実際周囲は嘲笑っていた。
休んだ理由はカウンセラーだけにしか言っていない。仮に本当のことを言ったとしても、休んだ事実は覆らない。
長々書いてきたが、勝手に精神を病んで、勝手に辛いと思い迷惑をかけた上に、カスみたいな修論を出した。もう2度と行かないし連絡しても欲しく無いから、正直連絡先も記したく無かった。
研究室の先輩、同期、後輩には色々とお世話になり、休みがちだったことが原因で叱られたこともあったが、本当にお世話になった。休んでからは直球の悪口も聞いたし(そいつは絶対に許さない)、嫌われていたのは承知だけれど、それでも何とか話してくれて有り難かった。
教授たちにも多大な迷惑を掛けてしまったものの、手厚い優しさ、応援を頂いた。それなのに何も出来ず本当に申し訳ない。
研究結果で返したかったのに、より一層自分の出来なかった・しなかったことが悔やまれる。期間を戻せるならやり直したいが、戻しても同じ病みかたをする気がするし、無能なのは代わりないから、そもそも院試で落ちた方が良かったのかもしれない。私の代わりに誰かが落ちたと聞いた。本当に申し訳ない。
面と向かって家族関係の諸般の事情を伝えていないのもあり、伝えにくいのだが、本当にありがとうございました。修士論文の末尾に謝辞を書いたが、あんな短い文章じゃ収まりきらないほどの感謝だ。
私は理系の大学4年生、あとは卒論の発表を残すのみとなった。院進しないで就職してしまうからあと2ヶ月弱で16年間の学生生活が終わってしまう。
中高時代は割と勉強が得意だった。というより、中高レベルのテストで点数を取るのが得意だったと表現する方が正しいかもしれない。授業は数学以外ほとんど寝ていたし、週6で部活をして家に帰ったらすぐ寝てしまうみたいな生活だった。でもテスト前に1週間くらい勉強すれば点数は取れたし、その勉強だけで模試とかでも普通にトップレベルの成績が取れていた。高2くらいからは、受験を意識した勉強を学校の前とか部活の後にするようになって、2年生が終わる頃は周りに抜かれなければ第一志望受かるって確信できた。
で、受かった。根っからの体育会系人間だから大学でもちゃんとした部活に入った。それが楽しすぎて、本当に全く勉強しなくなった。1年生の時は、対面授業で必修も多いから一応出席ある授業には出ていたんだけど、授業中はずっと練習のビデオを見たり試合を見たりしていた。理系だからレポートよりテストの科目が多くて、高校時代のノリで大学最初のテストを受けた。惨敗した。線型も微積も物理もちんぷんかんぷんだった。高校までの蓄積でなんとか単位は取れたんだけど、1年前期にして点数が低すぎて人気学科への進学不可が確定した。後期も同じような感じで乗り切り、何に憧れてこの大学入ったんだと思うようになった。
2年になるとコロナでオンライン授業が始まった。他にすることもないから授業はちゃんと受けるようになって、テスト前も勉強するようにした(ちなみにテストもzoom繋いだオンライン形式で、不正行為を防ぐために色々な方法が取られていた)。そしたら割といい成績がとれて、まあ勉強すれば点数取れるよなって気持ちになった。だけど夏休みはもちろん一切勉強しなかった。後期からは授業は相変わらずオンラインだったけど、部活も再開して毎日忙しくなった。この頃にはオンライン授業にも慣れてきて、とりあえずpcは開くけどzoomは聞き流して他の作業をするようになっていた。学科の試験はレポート形式が多かったから、とりあえず授業の資料だけちゃんとダウンロードしておいて、提出ギリギリで書き上げるみたいな感じだった。
3年も実験が始まっただけであとは2年の後期と変わらなかった。去年1年間でデータも蓄積されていたから、楽そうな授業を選んで受講して卒業単位数を確保することに勤しんだ。院進するか就職するか悩んでいて、別にメーカーに入りたいわけでもないし勉強もしたくないしとりあえず就活を始めた。夏のインターンは自分の実力試しに外銀受けたけど、グループ面接で他の学生に圧倒されて、自分やばいんじゃねと焦った。もちろん全落ちで、日系の数社インターン参加して夏は終わった。焦ったからといって模擬面接とかESの添削とかは一切しなくて、就活対策なるものは結局最後まで一度もすることはなかった。秋冬は日系の入りたい会社を何社か受けて第一志望群からインターンを評価されて内定もらえて、4年は部活に集中したかったから、4年に学年が変わる前に終活した。そして院進はしないことにした。
4年はマジで部活以外の時間が暇すぎて大変だった。授業もないし就活もないし院試もないし研究室もそこまで忙しくないから、部活とトレーニングだけやる毎日。入社前に差をつけるために勉強するかとも思ったけど、どうせ自分が入る会社に優秀な奴はいないだろうし、何より面倒くさかったから特に何もしなかった。あと、部活に一点集中しすぎてしまって他の世界を見れていなかったんだろう。とにかく部活で結果を出すことにこだわった。だけど結局部活では結果を出せなかった。
部活も終えて卒論もひと段落して思うことは、もっと真面目に勉強しておくべきだったなということだ。中高大の10年間、常に部活を言い訳にして勉強から逃げてきた。大学に入ってからはテスト前すら勉強しなくなってしまい、どんどん頭は衰えた。貴重な18-22歳という時間で脳に刺激をほとんど与えず、何も思考することのできないバカを生成してしまった。やってしまった。今から勉強しようと思っても、体が勉強をしないことに慣れてしまったから机に向き合うことができない。社会人になってからも仕事が忙しいからって言って何も勉強しないんだろうね。仕事もハードな知的労働に比べて忙しくもないくせに。そうやって無価値な人間が出来上がるんだ。
これから先の人生、大学の4年間で開いてしまった差は広がる一方なんだろう。高校や大学の同期がどんどん世界に羽ばたき活躍しているのを見て悲しくなるのがもう目に見えている。
人生において最初でおそらく最大の挫折。それがこんなことになるとは思いもしなかった。
辞める前に今までの記録を残しておこうと思う。
私は元々好奇心が旺盛であり、なんでも「面白そう!楽しそう!」で物事を決める人間であった。
高校も「この学校面白そう!全寮制だって!」の一心で家から離れ、3年間寮生活を送った。
また、大学の学部を選ぶときも「高校の化学めっちゃ楽しかったし、化学科に行こう!」の気持ちだけで1浪して都内の化学科に通った。
友人たちは、いわゆる楽単と呼ばれる楽に単位が取れる科目の情報を集め、楽に卒業までの単位を集めていた。
しかし私は、興味のある科目は全て取り3年生になってもほぼフルコマという大学生活を送っていた。
大学4年生になる春を迎えた瞬間、世界に疫病が蔓延する。そう、新型コロナウィルスである。
このまま大学生活を送っても、まともな研究ができなさそうだなと思った自分は1年間休学をした。
休学している間はアルバイト漬けの1年であった。
平日の昼間に週6で入れる若者である私は重宝され、1年間楽しいアルバイト生活を送った。
楽しすぎて103万円の壁を余裕で超えてしまったのもこの頃である。
そして、2度目の4年生を迎える2ヶ月前、就職か大学院進学かの選択を迎えた。
元来、研究をしたいテーマが決まっていた私は大学院進学しか考えていなかった。
家の近くの某国立大学の先生がそのテーマを研究していたので、そこを目指して院試の勉強を始めた。
無事合格し、卒論も書き終え、希望に胸を膨らませてその大学院に入った。
やりたいと伝えていた研究テーマは別の人に渡され、私は別の1年目のテーマを任されることになった。
その研究も教授の思いつきで方針が変わる、後出しジャンケンで取ったデータを捨てられる、パワハラ、アカハラは日常茶飯事であった。
人格否定もあったかな、個室でよく詰められました。過去の自分の選択も否定されました。今思うと教授の人格が破綻していたのかな。
それが4ヶ月ぐらい続くとその人の顔すら見たくなくなりました。相談もできなくなりました。
結果が出ない→叱られると思って相談ができない→進め方がわからなくなる→結果が出ない
の悪循環。
この頃から、家ではよく笑うようになりました。研究室の辛さを忘れるように。
その後、家でよく笑う自分と研究室で陰鬱になる自分、どっちが本当の自分がわからなくなりました。
9月の半ばに「このままじゃ2年での卒業は難しい。」と言われて心が折れました。
元々1浪1休なのにこれ以上遅れられないと思いながら生きていた矢先、この一言は自分の心に大きな穴を開けました。
同級生は就職や結婚といった人生のイベントを徐々に始めている。
持っててよかった、教員免許。
「大学院は出来る人がもっとできるようになればいい、無能は去るべきだ。」と言った教授、ありがとうございました。お言葉に甘えて去ろうと思います。
ブラック研究室なんて、潰れろ。