はてなキーワード: ハイデガーとは
この本、中身を読んだ訳じゃないけれど
この広告を見た限りではどうも親ガチャも反出生主義も勘違いしているようにしか思えないんだよな
じゃないでしょ。
だよ。
親ガチャを嘆いている人達って自分の現状が惨めすぎて苦しんでるんだと思うけれど
「もっと裕福な家庭に、魅力的な容姿に生まれたかった」なんて書き方だとまるで既に十分家庭や容姿に恵まれている人が更に上を望んで贅沢を言っているように見えるじゃないか。
「いっそのこと生まれてこないほうがよかった……」
と繋がってないじゃん。
多くの場合、生まれてこない方が良かったと思うのはそれだけ悲惨な思いをしているからなのに、
そこを無視して平均人が突然極端な思考に走るかのような不自然な事を書いてる。
「こんな貧しい家庭に、醜い容姿に生まれくなかった、いっそのこと生まれてこないほうがよかった……」これならごく自然なのに。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784106110238
もっと裕福な家庭に、魅力的な容姿に生まれたかった、いっそのこと生まれてこないほうがよかった……近年、若者の間で瞬く間に広がった「親ガチャ」と「反出生主義」。人は生まれてくる時代も場所も、家庭環境も選ぶことはできない。そうした出生の偶然性に始まる人生を、私たちはどう引き受けるのか。運命論と自己責任論とが交錯するなか、人気漫画からハイデガーやアーレントまで、社会と哲学の両面から読み解く。
未だにニーチェやハイデガーとか言ってるのが哲学の終わっている所なんだよな。
まず、ニーチェやハイデガーは人間なんだから誤りを犯すのは間違いない。
哲学が現実で使える実学を指向している所を考えると、過去に発行された本や提唱された思想の誤りはブラッシュアップを重ねるべきで、ニーチェやハイデガーが作ったことがわからないくらい改良されていることがあるべき姿なんだよね。
実際の哲学家の活動としては、過去の哲学者の考えを批判することは割りと普通だし、哲学家の考えをベースに発展させることは日常ではあるんだけど、
その批判が妥当かどうか、それを後世が取り込むべきか取り込まないべきかどうかを検証する方法が哲学にはないから、取り込みたければ取り込むし取り込みたくなければ適当な理屈をこねて取り込まない。
だからいつまでも振り出しに戻ることができるし誤りを放置し続けることもできる。未だにニーチェだとかハイデガーとか言っててやばすぎる。
高校入試が無いからラク出来ると騙されて一貫校の中学入試を受けた。
おもしろ/鬱屈受験録を期待する人は読まないほうがいいです。おれの内的な整理なんで。
元々進研ゼミか塾かの強制二択で前者を取ったのだけど、家にいてもテキストが視界に入るのが不快でたまらなかった。
いつだか、コレ説明不足だろって感じの算数の解説にイライラしてた。添えられたイラストのナントカ君のつっまんねーギャグが異常に癇に障った。きっかけは些細だけど、募る不快が爆発してテキストをクシャクシャにして投げた所を母に見られた。
で、なんか揉めてヤケになって塾に通うって言ったのを覚えてる。
渋々通ってる内に、なぜか入試を受ける運びになってたような気がする。
6年間のまとまったモラトリアムが手に入るなら、まぁ……って自分に言い聞かせた。PSPとモンハンの購入を禁止されたのも我慢した。というか当時は「ダメ」と言われて逆らうって発想が無かった。
そんな感じでマジメというか了見が狭かったんだけど、ある時学校で寺島君に誘われて掃除をサボるという体験をした。自分の人生にサボるという選択肢が現れた。
黙ってPSPを買うほどの勇気、というかその発想は未だ浮かばなかったけど、意を決して塾をサボってみた。
バレなかった。10km離れたイオンまでチャリこいでフードコートに居座ってエヴァ読んでた。実はバレてて初犯だから見逃されてたのかもしれない。
そんで調子こいてサボりまくっていたらバレて、嫌なら辞めろと言われた。
冗談じゃない。塾通いでドブに捨てた日々を今更無かった事にしろと?初めは強要されて、今更辞めて良いと言われたってアンタは私の時間を返してくれるのか?
なんてアンビバレンスな感情に苛まれて泣きながら「通わぜでぐだざい」って頭を下げた。
後日学校で○○塾サボったって本当?と複数人から訊かれた。金輪際母に大事な情報を伝えるのはやめとこって決めた。
まあそんな感じだったけど一応第一志望に受かって、晴れてまとまった6年間を手にした。
合格後になって実は土曜も授業があると知らされた。そんなとてつもない重大情報は真っ先に言えよカス。コイツらの味噌汁に農薬でも混ぜて殺してやろうかな、って本気で思った。
かなりマジで悩んだけど、まあ今更……という事で入学を決めた。
親の意向とは違って上昇志向なんて1ミリも無かったんで、勉強に励む気も毛頭なかった。
初めての定期テストでは当たり前に100点が取れる色刷りのやつに代わって、70とか40とか書かれたザラついたテスト用紙が返ってきた。
学校のテストで平均を割るなんて考えられない体験だった。まあ後の惨状に比べれば全然可愛いもんだったけど。
どこかにあったプライドがやや傷つきはしたけど、そこで悔しさをバネに、なんて気持ちはサラサラ湧かなかった。
目的を忘れちゃいけないからね。ダラけるために小学生時代の放課後を捨てたんだから。ってことでさほどは気にはしなかった。
こんな塾の続きをするために入学したんじゃないんだよおれはって事で、もう勉強は丸投げしようと決めた。授業中は寝るかゲームか買い与えられたばかりのスマホをいじるかだった。
唯一ちゃんと授業受けてた中一1学期に聞いたクリプトコッカスネオフォルマンスとか、バージェス動物群のピカイア、オパビニア、アノマロカリスみたいな単語だけ今でもよく覚えてる。
合格発表の時おれが「これでもう勉強しなくて済む!」って言ってた時にはヘラヘラしてた癖して、いざ入ってみれば成績にグチグチ言う両親を適当にいなしながら、モラトリアムに浸った。
考え事してる内に、自分なりに実存主義や相対主義に辿り着いたりもした。サルトルとかニーチェとかハイデガーを大学入って齧った時、コイツおれじゃんってマジでびっくりしたよね。
道徳の授業で教わるような規範はもうおれにとって意味を持たなかったし、晴れて購入を許可されたゲームが没収されても黙って新しいのをもう一機買うのに罪悪感は微塵もなかった。
歳相応に、というか同年代よりも遥かに時間をかけてアイデンティティとかにも悩んでみた。
こういうのは拗らせた10代の一過性の悩み、で片付けていいもんじゃないと今でも確信してる。厨二とかいわれるような心をすっかり忘れてしまったら人間お終いだと思う。
まあそんなんで順当に成績はカスだったけど、教室の空気を吸ってるだけでも無自覚に上昇志向というか、学歴厨じみた思考が植え付けられてくるんだよね。
高校にもなれば受験の話題が増えて、おれもそれに合わせていった。
こんなに勉強嫌いでも大学受験をする事だけは疑わないんだから恐ろしいもんだね。高卒は人生の落伍者ってかなり本気で思ってた。
最初は勉強もちゃんとやってれば楽しいはずだなんて自分に言い聞かせてみたけど、やっぱり苦痛だった。だから変に楽しもうと工夫なんかしようとしないで、入試の通過手段と割り切っていこうって決めた。
これはそのまま、賃金労働に自己実現だとかやりがいなんか求めず生活の糧と割り切って、軸足は趣味において生きようという人生方針へとスライドしていく。その「割り切り」は後の人生の後悔にも少し繋がってくるんだけど。
そんな感じでやっていって入試に臨んで、まあぼちぼちの結果といった所に落ち着いた。
終わってみれば後出しで後悔も湧いてくるものだけど、進路に関しする始まりは「ダラけたい」だったんだから、小学生の頃の自分への義理はそれなりに果たせたと思う。
大学入ってから、世界史とかロクに聞いてなかったからその辺文脈理解が必要な話にはやっぱり苦労したけど、一人で考え事してた時の内容は宗教学や哲学のレポートを書く時大変に活きてる。
教授から直々にメールで褒められた時はちょっと嬉しかった。大学の勉強は楽しい時もある。大抵ダルいけど。
放っとけばボーっとしてるかたまに好きな事に手を出すだけ、根が遊び人のボンクラだから、環境に下駄を履かされて助かってきた部分はあるんだろうなって思う。
でもアッパーミドルの王道を目指す生き方を非常に中途半端に内面化してしまって、好きにも「べき」にも振り切れないハンパなディレッタント崩れになってしまったよね。
思うままに生きた人生は暗澹たるものだったかもしれないし、もっと肩肘張らずに生きていられたかもしれない。考える意味のない可能性をつい思っちゃうね。
振り切れた生き方をする勇気なんて平凡な人間にはなかなかないし、そのバランスが課題なんだと思う。
たらればを言えばもっと「好き」に振り切れる期間が欲しかったかもしれない。
高校上がってから嫌々ながらも主体的に勉強を始めたと言ったけど、本当はもっと前からハンパな「べき」が心にあったんだよね。
6年のモラトリアム期間だって、何をするにも「こんな過ごし方でいいのか」って水を差してきた。
なんというか幼い白黒思考の潔癖状態の段階で、バランスなんか考えられない状態で相反する価値を抱えてしまって、それでどっちつかずになってしまった感じだな。
中庸って言葉にすればありきたりだけど、そこに実感や納得を乗せられたのはせめてもの学びか。
勉強から逃げて(そもそも最初から立ち向かおうする気なんかなかったんだけど)自意識を煮詰めた時間だけは無駄じゃなかったって、そこだけは確信を持って言える。
でも出口のないナイーブな悩みなんか適当な所で蓋をして、どこかで思考停止して目の前の生活をやってく生き方はある種の賢いものなんだろうなとも思う。
まあ人生なんて結果論でしか語れないだろうし。電源ボタンはあっても、セーブ機能やリセットボタンはないのだし。
友人と語らい、カラオケにでも行き、趣味にかまけ、結婚でもする。
ニーチェやブッダやハイデガーみたいに強くなれる自信なんてないし、もう心はかなり限界になってる。
実存的な苦しみから逃れるには目先の生活にまるっきり埋没して忘却するのが一番。
そんな事は分かっているのだけど、根源的な不安と向き合う事が誠実な生き方に思えてならないし、手放したら「私」が終わってしまう気がする。
一切の妥協なき自己実現を諦めたり、初めから関心がない人から何を言われても全く心に響かない。
命そのものには何の価値もなくて、命を使って意志を持ち自分の信念を追求する事をやめたらそれは石ころと変わらない。
早起きして奴隷船に乗ってしたくもない賃金労働をして、残り少ない余暇も気力を充足させる気晴らしに充てるばかり。
より多くの余暇を得るために少ない余暇を使って金稼ぎのスキルを身につけるなんて、そんな回りくどい真似をするのももう面倒臭い。
世捨人になりたいと思っても、半端に内面化された社会性が邪魔をしてくる。
凡庸でも惨めでもカッコ悪くても、自意識と折り合いをつけ人は生きていかなければいけない…
みたいな。
中高生だかの頃、まさに当事者だった時にも読んだけど、当時はあんまりテーマを理解してなかった。
なんか変態的でショッキングな作品くらいに思ってて、そういうのに惹きつけられる年頃だから読んでたって感じ。
まあ青春の当事者は青春について言及する大人を非常にウザく感じるものだし、そういうもんだと思う。
若さを大事にしろよ~と語る大人への死ねカスという思いは今でもよく覚えてる。
何を描いてるかをはっきりと意識したのは20前後になってからだった。
でも10代の頃も、ジュブナイルだの自意識だの定型的なワードに頼らず、肌感覚で描かんとするものに接近してたような気もする。
読んだ後の諦観や爽やかさの入り混じったような感情や、心の中の大事な部分を突っつかれたような感覚はまだギリギリ覚えてる。
この手の作品ってどれもこれも「自意識の殻を破り、凡庸さを受け入れて生きていく」みたいな似たり寄ったりの着地点になってしまってなんかなあって思う。
もちろんその結論が大正義って訳じゃなくて、物語の示す過程がその平凡な結論に納得や実感を持たせる所に意義があるんだけど。
それでもたまには違うゴールがあったっていいじゃんねって思う。
スーパーサクセスストーリーもいいけど、それは思春期の自意識というテーマからちょっとズレる。
普通に、かっこ悪く生きていくなんて嫌だが?自意識と向き合うのを諦めて、生活や凡庸さに屈するのは全くかっこよくないが?
美しく生きられず、美しく死ぬ事もできず、死んでないだけの人間の自己弁護だが?
でもこの鬱屈をぶつける先とかそのための才能とかは特にないから、枯れかけた若さを大切に抱きしめながら美しく死ぬが?
つって首吊るなり飛び降りるなりする話があったっていいと思う。いや探せばあるのかもしれんけど。
そういうキャラクターがいたとして、せいぜい作品の芯になる部分と対比的に置かれるような扱いになってそうな気がする。
ネット小説サイトにそういうの書いたらふつうにんげん達に独りよがりだの厨二病だの拗らせてるだの、ボロクソに言われそう。
まあ実際私も然るべき時期に自意識と向き合い、ある程度の折り合いはつけたんですけど。
ただ、中年の危機どころか23にして「ええんか?」という気持ちが沸々と湧いている。
ニーチェやらハイデガーやらが語るような価値あるサムシングを、たった一度の人生で得ようとしなくてええんか?
今際の際に後悔が過るのは怖くないか?って。
フィクションみたいな出来事でもなければ、自意識は爽やかにハイサヨナラと決別できるものではないっぽい。
押さえつけるために、これでいいんだと思えるような、強い納得という重しが必要になる。
これは邪推だけど、思春期の延長戦やってる人間をやたら嫌う人もまた、胸の奥に未消化なそれを抱えてるんじゃないかなって思う。
何かしらの納得という重しもなく雰囲気でふつうにんげんをやってるからこそ、同族嫌悪的な苛立ちを感じるのかなって。
まあそれはともかく、ふつうに生きるには自意識を抑えるための重しが要る。
例えば結婚するなり家庭を持つなりして他者への愛、他者からの愛というありきたりながら固有の充足を得て、人生の指針とする。
これはジュブナイル作品の主人公の多くが採用していますね。勇気を出して積極的に人と関わればそこに人生のリアリティがありましたと。
あるいは、賃金労働に心をすり減らして抽象的な思考をする余裕などなくなってしまうか。現実にはこれも結構あるのかも。
私は青春作品眺めてニチャニチャするフェーズに愛着を感じてるし、この居心地の良さにもっと浸ってたい。
そういう人らを別にキツいとも思わんけど、ふつうにんげんに擬態する身としてはキツイと言っておかなければならない。
それが社会性ってもんなので。
なんてことをあれこれ考えていた折、『桐島、部活やめるってよ』を観た。
ラストシーン、映画部の底辺オタクな神木隆之介とイケてるグループの東出昌大の会話がとても良かった。
8mmカメラについて触れた東出に、オタク特有の早口で嬉しそうに説明する神木。
カメラを向けてインタビューする東出に「将来はプロですか?」と訊かれ、少し表情を変える神木。
予算も撮影場所もロクにない。8mmカメラで撮るのは手作り感満載の不出来なゾンビ映画。
きっとプロになんてとてもなれない。でも、時々「憧れ」と接近している気持ちになれる。
フィルムは手に入らない、現像は面倒、画は汚い8mmフィルムにも、ビデオにはない味があるはずだと信じながら映画を撮る。
「生きるとは…」とまではっきりはしなくとも漠然とそんな悩みを抱えてた東出は、そのやりとりで涙を浮かべる。
素敵な作品だなと思いました。
言ったら自己満足の趣味な訳だけど、それを心から愛せるのなら人生の芯に成り得るはず。
それは10代の頃の自分が辿り着いた結論と丸っきり同じだった。
思春期の自意識は、自分の内なるものを形にしてみたい気持ちにさせる。
あるいは、なにかくりえーてぃぶな事でチヤホヤされたいという程度のものかもしれない。
でも誰もが才能がある訳じゃない。どこかで折り合いをつけなければ。
だったら自己満足でもいい。心から愛せるものなら、それはきっと確かな納得になるはず。そういう折り合いの付け方もある。
古今東西、陰気ボーイズはそういう結論に辿り着くものなのかもしれない。
でも『桐島~』の神木隆之介と違い私の「好き」は漠然としたもので、自意識を抑える重しとしては軽かったっぽい。
ほどほどにふつうにんげんをやりつつ、奥底では変態でありたいね。クソムシでなく。
まあホントは今でも全然草野マサムネや志村正彦みたいに思春期のイノセンスを卓越した言葉選びで紡ぎたいし、ついでにチヤホヤされてえんだけどなァ~
真面目な話をできる場所が無くて寂しい。
私自身は別に真面目というか単に興味のある事について語り合いたいだけなのど、一般的にはマジメで退屈、拗らせてるとか一蹴されてあまり興味を持たれないような話。
美とはなんぞやとか、美味しいメシを定義できるのかとか、世界平和は果たして実現できるのかとか。
古代ギリシャ人が暇すぎて哲学を始めたように、暇な時にふと考えるような素朴な疑問みたいな事について話し合いたい。
日常生活で周りの人間に真面目な顔してそんな事を言い出したら、雑に流されるかキチガイと思われて終わり。
だからネットとかで気楽にやれたらいいなって思う。私に近い内向的な人も多いはずだし。
しかし色んなサイトはあるけれど、どうにも喧嘩腰な人が多い。5chの哲学板は(5ch自体)過疎らしいし。
一面的な正論や、正論ですらないリリックを並べ立てて正論感を競い合いたい訳ではない。なにか正しい感のある事、雑な一般論風の言葉でそれっぽくまとめてもらいたい訳ではない。
これはどういう事なのか、なぜそうなのか、世の中に出回るこの考えは果たして妥当なものなのか。
事実と規範の混同に、論理の飛躍に気を付けながら、とある疑問に対して「それはなぜ?」を繰り返す、要は哲学がしたいのかもしれない。
そこらの人が思いつく疑問なんて昔から議論されてるだろうし、哲学書を読むのも悪くはない。
でも私は車輪の再発明が無駄だとは一切思わない。書いてある事を読んで、へーそうなんだで終われば必ずしも納得は伴わない。
私はこれまでの人生でニーチェやハイデガーの陰気ながらも前向きな思想に近い価値観を形成してきたけれど、思春期に彼らの著書を読んでも多分何言ってんだコイツとしか感じなかったと思う。
他人と話し合う事で互いに自分では気づかなかった視点を得て、自分一人じゃ足踏みするばかりの疑問を吟味したい。
時に理屈から離れて互いの実感を伴った価値観を交えて、永遠に答えなんか出ないだろう疑問について、それでも誠実に考えを深めたいな。
言いたいのは、やってみなきゃ分からないことの中に、誰もがそれを経験することを余儀なくされちゃってる結果として「これでは意識は死なないな」と安心してるものが混じっているということだね。
睡眠や細胞の入れ替わりはその典型で、これらもまた同一の意識が保たれるかどうかはそれをしてみてはじめてその主観内で発覚されることが、我々はこれを経験せざるを得ない(ただし同一だったときのみみそれが同一だと自分の意識によって感じられるだけで、同一じゃない場合はハイデガーが「死は存在しない」と言ってるようなのと同様、同一じゃないことをその意識主体が自覚することはできないはずだ)。
よってなし崩しに?事後的に?これらの行為は安心とわかっているから、それらに恐れを感じていないわけだ。
これらのようなことか、手術のような自分の意思でやるかどうかを選択してはじめて経験されることか、ということが問題だ。
ようするに、厳密に言語化しようとするとしっちゃかめっちゃかしてることだけども、ようは術後の感覚が「寝て起きたときの感覚」が同一でさえあるなら、その手術を受け入れるというわけよ。
実は寝て起きたという段階で昨日と今日の俺はスワンプマン同士なのかもしれないが、それならそれでその事実を知る前から俺はそのことを受容してしまっているんだから、それと同じである限りはまあ気にしない、恐れずに受け入れられるということよ(ただそこらへんがどうなのかどうかを手術受けた人から信ぴょう性ある感想としては原理的に絶対に引き出せないと考えられているのが相変わらずの問題なのであるが)。
データはないよ!
あなたは、「こういう〇〇は~する」という客観的事象について語ってたよね?
で、なんでめんどくさい女の話を持ち出したの?
俺めんどくさい女の話してた?
うーん、文系の人だね。
この世界ってのは、ハイデガー的なやつ? 現存在を起点に様々な事象が沸き上がって来るものとしての世界かな?
というか、自分を中心においた世界観ってのは中世までのやつなのね
それにね、ガダマーは地平融合とか言ったようにね、レヴィナスが「他者性(顔)」の話をしたようにね
世界には自分の主観や予測を超えた違うものがあって、それに自分が反応していくことで新しい価値、新しい自分が生み出されるわけね
要するに自分は主観ではなく客観によって作られるというのが20世紀の考え方なのね
そんで自分とは、そうやって絶えず変化する流れであり、今の自分ってのはその流れの中で一瞬形をなしたものにすぎないのね!
頭のいい文系ならわかるよね!
表象・判断が、個々の人間や、人間間の心理的性質に依存しているさま
当時高校生だった私は3.11のその年に福島県の大学(会津大学)に入学しました。あれから10年も経ってしまったので、私のごくプライベートなことについて書きます。
2011年の3月11日に、私は茨城県の博物館の中にいた。高校の卒業式が終わって、車の免許を早々にとったらしい友人と二人、車で博物館にきていた。地震のとき、私は吹き抜けの空間の中心にいて、長い振動の間、博物館全体のガラスは轟々と鳴り響いていて、「ああ、私は、今日が命日なのだなぁ」と人々の動揺の中、思った。
実際にはガラスの耐震性能が高かったので、館内にはけが人はいなかったようだった。
信号機の止まっている、徐々に昏れていく道を、車中でほとんど会話もなく急いで帰った。急いで帰ったけれど、通常の2倍以上もかかって家についた。
私は地震の直後、2ちゃんねるに張り付いていた。「福島の原発がやばいらしい」そんな書き込みを見て、いよいよ日本は終わったんだ、と私は思った。
私が高校生の頃、世界の原発事故のドキュメンタリーが大好きだった。チェルノブイリ、スリーマイル島、東海村。「原子力」という尋常ではないエネルギーが生身の社会に取り込まれて、人間の内側におとずれるということに私はなんとも言えないグロテスクさを感じて、親や友達に気持ち悪がられながらも読んでいたのだった。
当時、特にJCOの臨界事故のNHKのドキュメンタリーは何度も読み返したものだった。事故が起きた時、「出奔した原子力」に対しての(政治的・肉体的・精神的)人間の無力さ、弱さのコントラストがあまりにもどぎつく、生々しく顕れていたからだった。
私は地震が起きて、一、二日後にはリビングのこたつを占拠して、こたつのど真ん中にデスクトップPCを置いて、情報官気取りで気象シミュレーションをみたりしていた。そして、家族にも協力してもらい家中のシャッターを閉めた。それくらい、当時私は怖かったのだと思う。
私は震災の年、福島県の大学に入学した。私の地元の同級生にも福島県の大学に入学する予定だった子がいたが、辞退したらしかった。大学の入学式は遅れて執り行われた。ガイガーカウンターを買った方がいいかな、とか、「あそこには近づかない方がいい」とまことしやかな噂を聞いては少し怖いな、という思いが常に頭にあった。
しかし、入学してみると、その話はなんとなくしてはいけない話に思えてきたのだった。それはその土地に長く住んでいて動くことができない人たちには、惨い話であるからである。私もいつの間にか、放射線の話はしてはいけない気がして、話題にするのをやめた。すると、怖いという感情もいつの間にか薄れていった。
しかし、時々、放射能汚染される夢を見ていた。これはつい福島県を離れる少し前まで見ていたのだった。
私の当時住んでいたアパートには窓の近くにベッドがあって、その窓の外には何年も取り込み忘れたバスマットが干してあった。私の覚えている夢では、実はそのバスマットは大気中のチリや雨に放射性物質がたっぷり含まれていて、そのバスマットの線量が高くて、実は私の身体が蝕まれていて……という夢であった。何年もそのバスマットを干しっぱなしにしてしまったのは、もしかしたら、そういうことに対する無意識的な恐れから触りたくなかったのかもしれない。
私は、大学で特にパッとした研究もできないでいるのに何年も何年も大学にいた。でもそれが良かったのかもしれない、と今では思う。福島県という土地に「土着」して、私なりの感覚で放射能の感じ、特にその怖い感じの中に居たということが。
私はもともと怖い思想の持ち主だと思う。正しいと思ったら、それに突き進んでしまう。人の感情も、中学生くらいから読まないように生きてきてしまったため、無視する癖がついてしまっている。だから、原子力という「科学技術がコントロールから外れた状態」の中に当事者として生きた、というのは私が、私の歴史にとって重要なことなのである。もちろん、日本にいたら誰だって当事者なのだが、私は福島県に住まわず当事者と思えるほど賢くない。
3.11から10年が経って、私は福島県から遠い場所に住んでいる。今は遠くから考えることしかできない。
最近、原子力、ひいては(科学)技術についての論考を読んでいる。1950年台、まだラジオな世の中で、近未来的なもの、技術とか科学が大きな期待を背負っていて、すごくキラキラしていたであろう時代、人々は核の技術に対して、今でこそ信じがたいが「核兵器の利用は良くないが、核の平和的利用こそ人類の幸福につながる」と本気で思っていたようなのだ。多分、今でいうところの、テレビのCMでIT系の企業がたくさん広告を打っていて、ITの企業に勤めていることが一種のステータス(少女漫画に出てくる男性がIT企業勤め!)になっていて、AIすごい!VRすごい!仮想通貨すごい!IoTすごい!みたいなイケイケドンドンな感じだったのだろうと思う。そんな時代、「核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」と指摘した人、ハイデガーがいた。今でなら、「AI, VR, 仮想通貨,IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」と言うのと同じことなのである。今でなら炎上やむなし発言なのである!しかし、このアナロジーを単なる面白おかしいアナロジーとしてだけで捉えていいか。彼は世の中の潮流とは全く違う発想を省察によってしたからこそ、核の平和利用の危険性をかなり早く認識できた。
ハイデガーは「技術」について『放下』の中で、(科学)技術に対して「その価値を認めつつ、それに対して否、と言う」 ―ーこの本のタイトルにもなっている、「放下」という態度が大事なのではないか、と言っているらしい。(まだ『放下』は直接読めていないので、「らしい」でごめんなさい。)
そして、彼は思考について、「計算する思考」と「省察する思考」とに分けて考えており、彼は「科学は考えない("Wissenschaft denkt nicht")」、科学は計算する思考であって省察ではない=「考えていない」、というしかたで核の平和利用について否、と言ってみせた。
「科学は考えない」
これは、理系の立場で仕事している者にとっては「耳が痛い」ことなのではないか。しかし、耳が痛いからこそ考える価値があるのではないか。
彼の言っていることを私は理解できる気がするのだ。科学は進歩的に進んでいく。その「ひたむきに進んでいく」ということが「科学は考えない」と彼が言う理由なのではないかと私は思う。何か、ある方向に、引っ張られるように「進んでいく」。立ち止まる者は厄介者として排除される(Publish or Perish)。ハイデガーは技術を批判するだけではない。もちろん価値を認めつつ否定するという態度を彼は実践している。私も技術がなくなったら困る。方向音痴の私はGPSが無くなったら、地図が無くなってしまったら、とても狭い世界を生きることになってしまう。だから難しい、ある意味、矛盾の中を生きなければならない。
私は、実は博士過程を休学した。プライベートも荒れてしまったし、閉塞感でいやだったし、どうしても、論文が書けなかったのだ。
私は小さい頃から哲学が好きだったらしい。「最近、哲学系の本を読んでいるよ」と昔の友人たちにいうと、みんな「よく哲学的な話してたもんね」と言ってくる。
でも、私が文系に進学しなかった理由が、「確かなものが何もないと怖い」という恐れからであったし、国語がとても成績が悪いし、理系ってなんかかっこいいとか思ってたのもあって、ずっと理系の研究室で研究していて、哲学とか諸々の教養がほとんどないのだ。
「哲学を最近やってる」と言うと大半の人に苦い顔をされる感じがする。「中二病が抜け切っていないな、こいつ」と言いたげなそんな感じ(笑)。おそらくそれは哲学に「生産を止める」作用があるからなのではないだろうか。無意味で、ある意味破壊的な作用が。
以前、こんなことがあった。課外活動で何人かで集まってスマホアプリを作ろう、となったときに、誰かが「xxさん(有識者らしい)から教えてもらった方法で、xxという仕方でブレーンストーミングすると良いらしい」と言った。私は「なんでその方法でなければならないの?」と、ある意味チームの士気を下げるようなことを言ってしまったのだ。こういう「そもそも論」(哲学)というのは「生産を止めてしまう」。イヤな感じに水を差す。だから疎まれる。
しかし「生産を止める」という行為が実は重要なのではないか。世の中的に、「生産的=いいこと」という認識がある。生産を止め続けないことがそれほどいいことなのだろうか。これこそが、ハイデガーが批判するところの「考えない」態度ではないか。「より幸せに、より便利に」を目指すために科学や技術を信じて、生産、生産、生産、とひたむきに努力してきた末の原発事故ではないか。
昔の時代、原子力は「兵器として利用されることはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられていた。
今の時代も同様に、情報技術や生命科学が「非倫理的に利用されるのはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられている。「再生可能エネルギーでなら、持続可能な社会が実現できる」とも信じられている。
もし、「なぜ地震大国に原発つくったらヤバイという今ではあたりまえの認識を持てず、当時誰も水を差す人がいなかったのだろう?」と考える人がいるならば、なぜ、現代においてもその人が水を差す人にならないのかが不思議なのである。だから、私はあえてこうして水を差す、ということをしてみたい。
ということで、私の全然論文を書けていない「生産しなかった」大学時代も、この哲学的態度の実践とみなしてこの文章を締めくくることにする。
いまこそ実存主義を再起用するべきだと思うんだよな.(哲学に詳しくないため間違いがあったら遠慮なく指摘してもらえると助かります.)
時代遅れな考え方かもしれないし,そもそも哲学は実際の社会に影響を与えないと言われている感じもある.
だけども閉塞感や虚無感に耐え切れず社会自身が「昔はよかった」と回帰するような社会は決して防がなくてはならないだろうから,その際には特効薬の候補になると感じる.
確かに「サルトルは乗り越えられた」なんて言われて,構造主義へと重心が移り,実存主義はそれこそ歴史の中に閉ざされてしまったわけだ.
構造主義がより正しく思えるのは,フィールドワークを基にした裏付けが取れていること,思想の根底にある偏りを見透かすことができたことだと思う.
この点については,自身が西洋とは異なる文化背景にある日本で過ごしてきたからこそ納得感がある気がする.
しかし時代背景が大きな要因の一つになったと思えて仕方がない.
サルトルがもてはやされ始めたのは戦後の混乱期(平穏が訪れるまでの過渡期)だった.
少年期に戦争を経験して,これまでの規範とは異なった生活,のらりくらりと暮らしていた若者が『実存主義者』だとオトナ達に揶揄された時代である.
そんな中でサルトルは「実存主義はヒューマニズムである」という講演をきっかけとして有名になった.(もっともそれ以前のサルトルは実存主義を自称したがらなかったようだが)
他方,レヴィ=ストロースが「野生の思考」を携えて登場したのは1960年代である.
このときにはWW2から既に十数年経過し,ドイツが明確に西ドイツと東ドイツに分断され,朝鮮半島も同じく南北に分割されていた.
このときにはもう冷戦構造が成立しており,生きる目的や規範と言われるようなものが国家もしくは共同体によって掲示されているようなものであった.
それはざっくりと表現すれば,西側諸国では「東側らしくない振舞いをせよ」,東側諸国では「西側らしくない振舞いをせよ」といった具合に.
そんなような状況下になっていったわけだから,構造主義がより理解されやすく,より勢力をましていったのだと私自身は思う.
別に実存主義に分類される哲学者や思想家はサルトルだけではなく,他の著名な人物にはニーチェやヤスパース,ハイデガーなどがいる.
キルケゴールも忘れてはいけないだろう.場合によってはパスカルも実存主義に分類するそうだ.
この実存主義と呼ばれる思想に一貫しているのは過渡期をきっかけとした点にあると言える.
例えば,目の前の状況に対して挫折するだとか,死へと進み続けることを自覚するだとか,大戦によってこれまでの規範が形骸に近くなってしまっていたりだとか.
そういった既存の規範(あるいは構造,世界観)に綻びが生じた状況において,次の新たな規範が構築されるまでの過渡の段階で実存主義的な発想が生じてくると考えられる.
あいにく今現在の私たちの状況を鑑みるに,私たちの考え方の根底は再び綻びを見せてきている.
新型コロナウイルスもその一つだろうし,資本主義を盾にした新自由主義の挙動もその一つだろう.
この繁栄を盲信することのできない過渡期に生まれたことを悔いても仕方がない.
人間は自分自身で時代を選ぶことはできないわけで,その中でうまくやっていくしかないわけである.
昔は悪だったよ。地方の公立の中学校でさ、動物園みてえなところだった。動物どもにテキトーに合わせてながら生きててさ、勉強ができるのなんてガリ勉だと馬鹿にされるだけだからずっと隠してた。悪と遊びながら隠れて勉強。タバコふかして帰ってきて、夜はハイデガーを読むとかね。で、進学校に行ったのは俺だけだったかな。それで東京の大学に合格してさ、村じゃあ天才だと崇められながら地元を離れたけど、大学に行ってみりゃ金持ちばっかりで、予備校とか行ってた奴ばっかなのな(笑)。びびったよ。俺は予備校とか行ってなかったから。でもボンボン供は俺の知らない教養を沢山知ってたよ。美術にも音楽にも造作が深くて。でもな、なんていうのか、”知らない”んだよな。公立中学校でさ、男子も女子も金持ちも貧乏にもごちゃ混ぜで過ごす生活とかさ。中卒で働く予定のヤンキーとか、高校で妊娠してそのまま結婚しちゃうような女子とか、多分会ったこともねえんじゃねえかな。悔しいけどインテリ気取りのボンボン達の方が、留学経験もあったし、あいつらは勉強以外にスポーツも楽器も英会話もなんでも出来たよ。でも、やっぱり”知らない”からかな。経済とか政治とかの話になるとダメなんだよな。理想主義者っていうか、まあ、現実知らずだよね。その点俺は”知って”いるからわかっちゃうんだよね。お坊ちゃん、いい子ちゃんのリベラルにはわかんないことがさ。リベラルは多様性なんて言うけど、俺の方がよっぽど多様性を”知って”るんだよな。
ーー
昔は悪、今はインテリ、ただのボンボンよりも”知ってる”ぜってのがな。リベラルよりリベラルだし、保守の気持ちもわかってるぜってのがカッコいいんだよ。
前回はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20200904203318
ビジネス本を根拠として、娯楽を健全と不健全に分けるのは余計なお世話とか、「人間」と「作者という存在」を同一視するのは不健康とか、コンテンツを精神的に健康/不健康で断ずる行為はよくないなどの意見をいただいた。
特に、「私自身が敵意を持って何かを貶めたい意図を持っているので、記事そのものが精神的に不健康である」という意見には唸らされた。
一般に販売されているゲームで、自分がクリアしたことのあるものに該当はなかった。
やはり倫理基準があるので、人権侵害をメインに扱ったゲームは審査を通りにくいし、そもそも売れないのだろう。
それに、私がここに書かなくても、「グロ 残虐 ゲーム」などの単語でググってもらうと、有志がそういうコンテンツを紹介しているページに易々と辿り着くことができる。
なので、今回はフリーゲームを取り上げたい。フリゲは主に個人が制作するものなので、その人の心の健康がありありと現れる。考察にはうってつけだ。
以下に紹介する。できるだけネタバレはしない。
見た目はほんわかしているが、中身はエログロ(特にグロ)。見た目はMOTHER2のような暖かい印象を受ける。
プレイを初めて1時間以内に、このゲームの異常性に気が付くことだろう。気持ちが悪いタイプの異常性ではなくて、続きが気になるタイプの異常性だ。
ネーミングセンスが独特であり、作中の随所に現れる。
どこが精神的に不健康なのかといえば、ストーリーの救いのなさだ。特に2。1と3は、グロ展開を挟みつつも笑えて感動できる物語なのだが、2はとにかく救いようがない。
特にラストステージ。人によっては恐怖で進めなくなる。ニコニコ動画の実況プレイ動画にも、「怖すぎて〇〇さんの動画に来ましたwww」といったコメントが並んでいる。
私自身も当時は震えた。深夜1時頃にクリアしたのだが、翌日にあった英語の演習でミスを繰り返したのを覚えている。
あの時の私は、恐怖を感じていたんだろうか?
違うと思う。あのラストステージというのは、ぱりぱりうめというキャラクターの抱える苦痛や嫉妬や絶望や愛や夢が、画面を通じてプレイヤーを殴りつけるとしか言いようのない展開だったのだけど、その感情に心を揺さぶられたのだ。だから涙が止まらなかったのだと今では思う。
大学生4人(男2女2)が旅行に行く。そのうちの一人が入巣(いりす)京子。旅行先で楽しんでいる途中、事件が起こって1人ずつ行方不明になっていく。
パズルゲームでの得点によって物語が分岐する。バッドエンドだと、いりすが友人を したのを示唆するEDになる。高得点を取ると、行方不明は友人たちによる仕込みであったことがわかる。サプライズな誕生日パーティーをしたかっただけなのだ。
プレイを続けていると、ゲームフォルダ内のデータが少しずつ置き換わっていることに気が付く。テキストファイルや画像データが現れたり消えたりする。
最後までプレイすると、いりすのキャラクター性や、旅行について考えていたことや、男側の主人公であるうーじの抱える闇が明らかになっていく。
いったいどこが精神的に不健康なのかというと、〇〇と見せかけて、実は〇〇でした!みたいな展開の連続であり、特にその裏側に残虐性(しつこいようだがネタバレはしない)が潜んでいる。
以前の作品である「愛と勇気とかしわもち」でもそうなのだが、プレイヤーを悪い意味でビビらせることに全力を注いでいる。
プレイヤーの心臓に冷たい何かが突き刺さって、心臓が凍り付いて、血管が破裂するような恐怖を味わわせることに作者は快感を覚えているのでは?と邪推せざるを得ないほどに、このゲームはプレイヤーを驚かせてくれる。
数あるフリーゲームの中でも最大級の――精神的に不健康な作品だ。
ゲーム冒頭の説明にあるように、精神疾患の人や未成年は絶対にプレイしてはいけない。一般の人にもおすすめできない。やっていいのは恐怖を快感に変換できる人だけだ。
体調がおかしいと思ったら、プレイしている最中でも中止すべきだ。例えば、2周目に入ったあたりで、「ここで止めたら負けだ」とか、「モニカ、てめーは絶対○す」などの感想を抱くかもしれないが、それでも途中でやめるという選択はありだ。
作者、特に2周目の恐怖演出を担当した人間の悪意が突き刺さってくる。どのような理由でも説明できないほどに悪趣味な演出だった。
「このゲームを作った人たちは、学生時代に苛めや虐待などのひどい目に遭って、社会に恨みを持つようになったんじゃないか? だから、こんな残酷なゲームを作って社会に復讐しようとしたんじゃないか?」
私はそう推測した。
「違う。このゲームは高い評価じゃないか」という意見もあると思うが、典型的な確証バイアスだ。別の言葉で言えば、コミットメントと一貫性。
プレイヤーは、恐怖と戦いながら数時間~数日をかけてゲームをクリアする。敵だと思っていた存在は、自分のことを(以下略)。ハッピーエンドではなかったけど、恐怖に打ち勝ってこのゲームをクリアできた。俺はチキンじゃない!
終わり良ければ総て良しという言葉がある。悪趣味な演出にどれだけイライラしたとして、最後までクリアしてしまった後で、このゲームをプレイした時間が無駄だったと認めることはできない。
そんなことをすると自分は愚か者だったことになる。だからこそ、個性的なゲームだったね、just monicaだったねと高い評価を与えることで、自分の考え方と行動に一貫性をもたせようとする。それがこのゲームが高く評価される理由のひとつだ。
今までにないタイプのゲームだったのは間違いない。ホラーゲームが好きな人にとっては珠玉の一品だったと思う。私も、このドキドキ文学部!に評価を投じた。★4つだったと記憶している。
名前だけは聞いたことがあると思う。エログロかと言われればそのとおりだ。
この作品は、上下巻の約700ページ(しかも行間がほとんどない)に渡って以下のような展開が続く。
①ジュリエット(とその仲間たち)が乱痴気騒ぎを起こして一般人を強姦したり殺したりする
②騒ぎの最中かその前後のパートで、ジュリエット(とその仲間たち)による哲学論議が行われる
③ジュリエット(とその仲間たち)が不仲になって仲間を殺す。あるいは新しい仲間を作る
エログロ小説と世間では見られているが、実は哲学小説だ。作者であるマルキ・ド・サドは貴族出身でありながら、変態行為が露わになって逮捕→投獄というパターンで小説を書き始めたタイプの人だ。
この小説が有名になった理由のひとつは、サド自身が社会に対して抱いていた恨み(今でいう反社会性障害?)から生じるエログロ描写の反面、その知性や教養から精緻に描かれる人間社会に対する哲学的な理解の鮮やかさが奇妙なほどマッチしていることによる。
哲学的な描写の例として以下の例を挙げる。主人公であるジュリエットの序盤の師匠であるデルベーヌ夫人の科白だ。この小説のキャラクターは喋りの量が半端ない。ドストエフスキー並みだ。
※一部のみを抜き出した。この場面の文字数は引用箇所の軽く数倍はある。
「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に申しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」
「そのとおりよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判がよいと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たない財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんな犠牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか? P.16
今時の心理学の本に載っていそうな感じではある。アドラーの『嫌われる勇気』に通じるものがある。
悪徳の栄えで論じられている思想はニーチェやハイデガーに通じるものがある。この世に存在し続けるものに重きを置いている。
私にとっては面白い小説ではなかった。万人にお勧めできるものではない。というのも、哲学的な論考はあるものの、残虐な場面や、人間的に醜い描写が多く登場するからだ。
今のコンテンツでいえば、『ダイナー』が一番近い。ダイナーを哲学的な内容にすると現代版の悪徳の栄えになる。
私が読むのをやめようと思いかけた場面のひとつを挙げる。ジュリエットが、師匠の一人であるノアルスイユという金持ちに気持ちを打ち明けるところだ。
※上を含めて、引用箇所を探して打ち込むのに2時間半もかかってしまった…いずれにしても引用が多すぎる。これで最後にする。
「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいないからそう言うが……」
「なら全部すっかり話してください!」
「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」
「どうしたと言うんです?」
「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしまう必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」
ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見据えながら、「人非人! 何度でもこの名を繰り返してやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております」
「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」 P.57~P.58
ノアルスイユはジュリエットの父母を殺している。そのせいで、裕福だったジュリエットは修道院に送られて貧しい生活を送り、やがては売春宿で働くことになった。
その原因を作った張本人であるノアルスイユに対してこのような言葉を出してくるところに、この悪徳の栄えの醜悪さを感じた。読者をダークサイドに送り込もうとしている。
物語の中で悪事を働く人間の基本になっている考え方のひとつに、「悪事をする人間は自然に有益である」というものがある。考え方自体はとんでもないのだが、文学者が翻訳を務めている関係でやたらと格調高い文章になっており、それが読者の心に響いてしまう。
年末年始を使って上下巻を読んだのを覚えている。今では読むべきではなかったと後悔している。
いわゆる鬱小説というやつだ。心が痛くなるコンテンツ。とにかく痛い。この本も読むんじゃなかった。アマゾンで高評価がついていたので出来心で買ってしまった。
この小説のいったいどこが精神的に不健康かといえば、「いたいけな少女をいたぶること」を主眼に置いているからだ。
アメリカの田舎町に暮らす主人公のデイヴィッド(12)。ある日、隣の家に住んでいるルースのところに、両親を亡くしたという快活な美少女メグ(13才以上)が妹のスーザンと一緒に引っ越してくる。デイヴィッドはメグに心を奪われる。ザリガニ釣りから始まって、次第に仲を深めて、お祭りの観覧車に一緒に乗る。花火が綺麗、みたいな描写だったのを覚えている。
という言葉が脳裏をよぎった。まだ未成年だった頃、某動画サイトにアップされていた『true tears』というアニメを見ていた。眞一郎と乃絵が仲睦まじくしている様子を見て、ほかのみんなが一斉にこのコメントを打ち込んでいたのを思い出した。
この小説は、読者に精神的な苦痛を与えることを目的として、メグに対してありとあらゆることをやってのける。
メグは何でもされる。肉体的な苦痛から精神的な苦痛まで、何でも揃っている。
巧妙なのは、このメグというのが優秀設定のキャラクターであることだ。
運動神経は抜群で頭がよく、そのうえ美少女ときている。いわゆる利発キャラ。例えば、虐待が始まってすぐの段階で地元の警察に相談に行っている。普通の子どもはこういう行動を取ることはできないだろう。
実際、一度はルースの家から脱出に成功しかけるのだが、障害持ちのスーザンを気に掛けるあまり失敗してしまう。
ルースやその子ども達からの虐待はさらに苛烈になるが、デイヴィッドはただ観ているだけだ。傍から虐待されるのを眺めるばかりで何もできない。親に相談しようとするも、恐ろしくてできない…
この小説を読んでいる間に心が相当削られた。品性下劣という感想を抱きながらも、最後まで読まないといけない気分になっていた。悔しいが作者の勝利だ。
今回の記事を書くにあたり、隣の家の少女について調べたところ、ネットフリックスに映画があるらしい。今度見てみることにする。
作者である上原善広の父を主人公に据えたノンフィクション小説。ということになっている。物語というよりは、作者が精神的に不健康な例だ。
あらすじとしては、牛の解体場で働く上原龍造が、自らの腕だけを頼りに食肉業界の経営者として成り上がっていくというもの。
昭和の時代の話なので、解放同盟や共産党や右翼にヤクザが出てくる。彼らと渡り合いながら、少年だった龍造は成長を遂げてゆく。
問題なのは、ノンフィクションと謳っておきながら創作であることだ。
作中では、実際に存在した人物の名前や経歴が書き換えられている(ex 作者の父の名前は龍造ではない)のみならず、解放同盟支部の結成年や支部名その他、多くの事実に誤りがある。
作者と新潮社は解放同盟から怒られた。出版元である新潮社はHPで謝罪文を出している。作者である上原氏もnoteで反省文を書いているが、はっきりいって反省していない。
巻末のところで実父に関連して、自分の来歴や、元嫁や兄について語っているのだが、なんというかもう、ツッコミどころが満載なのだ。本編を読む前にこれを読んでいたら、一生読むことはなかったと思う。
※基本自分用。ついでに公開という体。
元増田の言うところの分解する手法は大変有効で、社会的な事柄のみに限定すれば肯定感は高まる。だけどこの方法では社会の節目が訪れ、概念が180度変わるシーンでは無効化されると思う。例えば玉音放送前と後のショックの大きさについて数多くの証言が残されている。国家というアイデンティティを個人レベルに適用していた人は自信がもろく崩れた。海外でパスポートを失ったとき、辻仁成は、所詮肩書など紙切れに過ぎない。遠く外国において自分は何者でもなかった、と小説の後書きに記した。
自己肯定感を至極真面目に考えると、自己の定義から始まり、自己の発生箇所、範囲、形而上的な自己という精神について絶対に避けられなくなる。デカルト~フッサール~ハイデガーをつらっと見てゆくと、自己とは何かがますますあやふやになってゆく。分子や細胞など、SF的な見地でもいいかも知れない。自己という要素は認識や意識にまで還元され細切れにされる。
相対的な評価は、たとえそれが当時絶対的に見えても絶対性がまるでない。わたしというものを社会性と接続されるあらゆるものから切り離すべきで、そうでないならば、実際のところ自己評価、他者評価とは単なる一社会一形態・一時代のマーヤーに過ぎないことが理解できる。自己がマーヤーであるなら他者もマーヤーであり、そこには般若心経的な世界観が広がってゆくばかりだ。空とはなにもないわけではなく、"ある" と錯覚するものが多数の変じ易い要素によって形成され、例えば社会的な成果や経験に見える、といったものらしい。自己に言い換えるなら、自己が存在しているという実感は単なる各細胞(社会的なレッテルや成果を含む)の成り立ちに過ぎない。自己を考え、また認識することはまるで無意味だ。したがって元増田の希薄さとはまた違い、自他ともに興味が消失するところに真実があるものと思う(あるというより、ないのだけど)。
じゃあなんだ、どうすればよいのか。
自己と他人に無頓着になり、興味のみを追えばいいと思う。これは多少齟齬を含んでいて、他者に興味を持てない状態で他者に興味を持つというおかしなロジックを持っている。言ってしまえば他者に "ある" ものは追いかけなくていい。社会的な地位や金、恋人、そういうものではなく(仮にそういうものであったとしても)純粋に動物的に欲求するということ。たとえば奇妙な話、金という働きに極度の興味があるなら金集めに奔走してもいい。ただしその場合でも金にまつわる "ある" と錯覚する自己認識を持つ必要性はない。それは自己ではないから。