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はてなキーワード: 小学四年生とは

2020-01-07

電話痴漢(?)に遭っただけの話

痴漢の話見るたびに思い出す昔の話。

昔まだ固定電話一般的で、学校連絡網ってプリントに学年・クラスクラスメートの名前電話番号がズラッと載ってた時代

今にして思えば、これがどこかから漏れたのかな?

小学四年生だった私に、ローカルテレビ局名前電話がかかってきた。

電話を受けた祖母は「いじめについての電話アンケートだって」と私に受話器を渡してきた。

増田○○子さんですか?」と言われ、ハイと答えた。

いじめについてどう思いますか?」これには、よくないと思います と答えたと思う。

ここからどうにもおかしくなった。「お風呂は一人で入りますか?」「お母さんとお風呂に入る?」

そしてこうだ。「お母さんのおしっこする部分見たことある?」


私は母を早くに亡くしていて、父・弟・父方の祖父母暮らしていた。

母が亡くなったのは私が5歳のときなので、一緒に風呂には入ったことはあると思うが勿論記憶にない。

常日頃からはいけません!と厳しく教えられていたけど、記憶にないものを「ある」として話していいのか私にはわからなかった。

からなかったので、無言で祖母電話を渡してしまったのである


翌日、地元テレビ局を名乗った電話に注意!と先生がみんなに話したので「あっ!あれか!」と思っていたけど

今思うと祖母学校に連絡したんだろうな。あれか!ではない。私のことだよ!


私の家が特殊だったので、被害はあってなかたようなものでよかったなーと今は思っている。

今も、お子さんがいらっしゃるご家庭は固定電話引いてる方が多いのかな?

少なければ、私のようなクソ電話を受ける子はガクッと減ってるだろう。そうであってほしいな。

と、いう、ただそれだけの話でした。

2019-12-15

女は基本的男嫌い

以前ツイッターで流れてきた。

わずうんうん頷いてしまった。


全員が全員そうとは言わないけど、基本的に女は男という生き物を警戒して生きていると思う。

差別ではなく。

子供の頃から経験値の結果、そうなっている人が多いと思う。

私は結婚していて子供も産んでいるけど、それでも基本的に男が嫌いだ。

実父は戦前の生き物か?というレベル男尊女卑思考を持った人だった。

そもそも子供権利を認めていない人で、自分中心、自分が一番。

共働きで母もフルタイム正社員で働いていたけれど育児家事も何一つ手伝うこともしないで文句だけは言う。

母の作った食事文句ばかりつけて感謝することもなく、うまいということもない。

同居していた父方の祖父はそんな父親に輪をかけた男尊女卑で嫁いびり。

長く入院していた父方の祖母のお見舞いに行くのも母ばかり。

田舎の話ではない。両親は都内出身農家でもなく、東京郊外での話だ。

小学校ときには同じクラス男子たちからいじめれていた。

詳細ははぶくけど、小学二年生から中学二年生までいじめは続いた。

いじめてくるのは女子より男子の方が多かった。

校庭の遊具の上から石を投げられて眼鏡を壊されたこともある。

小学校卒業の日に卒業を悲しんで、ではなくいじめられて悔し泣きしたことを今でも覚えてる。

身体の成長が早かった私が初めて痴漢と遭遇したのは小学四年生ときだった。

本屋さんで知らないおじさんに胸を触られた。

決してかわいい方じゃない、地味な、なんならちょっとぽちゃっとしてるくらいだったから驚いて声をあげるとかできなかったのを今でも覚えてる。

痴漢には大人になってもしばらく悩まされた。

子供の頃や十代の頃は本屋とかお店で、就職してから電車の中で。

転職して満員電車に乗ることがなくなるまでそれは続いた。

初めて就職した職場では直属の上司パワハラにも悩まされた。

その相手も男だった。

自分好みのかわいい女子社員には優しく、それ以外の女子社員にはきつくあたる人だった。

五年目までは耐えたけど、精神内科の世話になるほど追い詰められて転職した。



男と付き合うこともあったけど、それでも内面では男という生き物自体軽蔑してた気がする。

数年前に結婚して、子供を産んだ。

三十路の年増女になった今でも基本的に男という生き物が苦手だ。

子供の頃から積み重なった経験から男という生き物が嫌いだ。

自覚はなかったけど。

ツイッターで流れてきた「女は基本的男嫌い」という一文を読んでスッキリした気がする。

はいい人だと思う。

不満なところはもちろんあるけど実父と違って食事内容に文句を付けてきたことなどない。

家事育児もできる範囲で手伝ってくれる。

実家いた頃と違って女だからと行動を制限してくることもない。

いい人と結婚できたなと思う。

それでも基本的に私は男という生き物が嫌いだ。

これはもう変えられない。

けど、せめて娘が私みたいな男嫌いにならない世の中になってたらいいなと思う。

私が経験してきたことを娘には経験させたくない。

今はまだ未就学児の娘が私みたいな経験を経て男嫌いになることがないように成長してほしい。

2019-11-12

私は弱い

私は弱い

小学四年生から始めたテニスでは県大会まり

小中と進研ゼミに頼った

中学生では塾にも頼った

そのくせ高校はその辺にある自称進学校

高校では帰宅部バイトもしなかった

そのくせ模試で学年1位は取れなかった

現役では第一志望に落ち、大手予備校一浪した

やっとのことで進学した第一志望の大学では周りの力を借りて辛うじて留年せず

現在大学四年生研究室でも先輩の力を借りっぱなしだし、親の仕送りに支えられている

私は弱い

環境に助けられている

小学生から進研ゼミを購読させてくれて中学では塾に通わせてくれて高校では部活バイトもしなかったのに何も言わず現役で第一志望に落ちたとき私と一緒に泣いてくれて浪人を決めた時も何も言わずかに応援してくれ成績が上がらず心が病んだ私を何も言わず景色のいい公園に連れ出してくれて第一志望の大学に受かった時誰よりも喜んでくれて一人暮らしにも反発せず今も仕送りを続けてくれる両親

周りに大学に行った人がいなくて、大学ことなんて何も知らないからって言って俺の考えを全て尊重してくれる両親

出来損ないな私のことを助けてくれる学部友達研究室の先輩

私は弱い

両親にも友達にも先輩にも感謝しているのに、直接伝えることができない

私は弱い

私は弱い

私は弱い

小学四年生から始めたテニスでは県大会まり

小中と進研ゼミに頼った

中学生では塾にも頼った

そのくせ高校はその辺にある自称進学校

高校では帰宅部バイトもしなかった

そのくせ模試で学年1位は取れなかった

現役では第一志望に落ち、大手予備校一浪した

やっとのことで進学した第一志望の大学では周りの力を借りて辛うじて留年せず

現在大学四年生研究室でも先輩の力を借りっぱなしだし、親の仕送りに支えられている

私は弱い

環境に助けられている

小学生から進研ゼミを購読させてくれて中学では塾に通わせてくれて高校では部活バイトもしなかったのに何も言わず現役で第一志望に落ちたとき私と一緒に泣いてくれて浪人を決めた時も何も言わずかに応援してくれ成績が上がらず心が病んだ私を何も言わず景色のいい公園に連れ出してくれて第一志望の大学に受かった時誰よりも喜んでくれて一人暮らしにも反発せず今も仕送りを続けてくれる両親

周りに大学に行った人がいなくて、大学ことなんて何も知らないからって言って俺の考えを全て尊重してくれる両親

出来損ないな私のことを助けてくれる学部友達研究室の先輩

私は弱い

両親にも友達にも先輩にも感謝しているのに、直接伝えることができない

私は弱い

2019-11-02

塾でのいじめが一番えげつない

 もうかなり経って今の私は完全に立ち直ったけれど、友人の従兄弟も似たような目に遭っていると聞いたので書く。告発とまではいかないが、子供を塾に通わせてる親はマジで気をつけてほしい。

私がいじめを受けたのは小学生の時で、有名なチェーン塾に通っていた。名前は伏せるが、合宿ハチマキを巻いて勉強するタイプ進学塾だ。小学四年生で入って、小学五年生の夏に辞めた。原因はお察しの通りいじめである

いじめが始まったのは、入塾して二ヶ月が経った頃だった。組分けテストで好成績だった私は、下の方だったクラスから、一番上のクラスまで一気に上がった。上がった翌日には、私が先生に媚びた上にカンニングして上がった、という噂が流れていて、いじめられるようになった。勿論事実無根だ。先生には度々質問しに行っていたが、媚びてなどいないし、カンニングもしていない。事実無根のたったそれだけの理由で、私は延々といじめられる羽目になった。

いくら小学生と言えど、受験を目指している子供だ。頭がいい。証拠が残ることは一切されず、されたのは教科書ノートを隠されたり(授業後に返される)シャーペンの芯を粉々にされたり、あとは無視悪口と痕が残らない程度の殴る蹴るの暴力一年と少し。

ご飯が食べられなくなり体重はごっそり落ちたし、髪もかなり抜けたが、受験勉強によるストレスだと思う親は気づかない。先生も授業が終わればすぐに教室を後にし、クラス付けの先生もいないので気づかない。自分から助けを求めようにも、何度冤罪だと訴えても聞いてもらえなかった私は、先生や親に訴えて、信じてもらえずに軽蔑されるのが怖く、誰にも言えなかった。自分がいるのは一番上のクラスなので、勉強してクラスを変えよう、というのも無理だし、下に落ちれば未来はない、と先生に言われているのに手を抜くのも無理だった。要するに逃げ場がなかったのだ。

そして小学五年生の夏、足を蹴られた私はそのまま倒れ、机の角に頭をぶつけた。浅く、結局痕も残らなかったが軽く出血し、先生が来て大騒ぎになり、全てが露呈した。先生主犯格の親が家まで来て平謝りしていたが、当然私は塾を辞め、少しの間カウンセラーに通った後に転塾した。中学には第二志望に受かった。今ではそこそこいいとこの大学生をやれている。

ただ、もしあそこで辞められていなかったら私は自殺していたと思う。実際末期には、暇さえあれば死に方を考えていた。塾という場所自体いじめが起きやす場所だと、もっと社会全体で認識すべきだと思うのだ。勉強先生からストレス大人の目が少ない閉鎖空間、頭が良い子が大半を占めていて、真面目な子供は気が弱い子が多い。むしろ学校よりも条件が整っている。学校でのいじめ対策をしっかりする取り組みは行われているけれど、塾となればろくに行われていないのが現状だ。塾に子供を通わせている親は、その面でもしっかり目を光らせてあげてほしいし、塾自体の仕組みとしても、もう少し対策をしていくべきだと思う。誰かが死んでからでは絶対に遅い。

2019-11-01

沖縄のことを書いておきたいと思った

から首里城燃えてるのをニュースで見て陰鬱気持ちになった。沖縄の方や血縁の方、首里城を訪れたことのある方はなおさらだろうと思う。

私もルーツ沖縄に持つ一人として、ほんの少し心が痛い。といっても、沖縄を訪れたことはないし、今となっては戸籍証拠も残ってない。このまま消えてしまう私のルーツ個人的沖縄との関わりを書き残しておこうと思う。

私の母方の祖母沖縄出身。母は昭和一桁生まれ戸籍大阪市内小学四年生父親が亡くなり、母ひとり子ひとりで苦労したらしい……と、母からは聞いていた。祖母が亡くなったのは私が三歳の頃。当時は沖縄アメリカ占領下にあり、本土復帰が成されてから実の弟さんが訪ねて来られた。たしか夜だったと思うが、フェリー見送りに行ったのか迎えに行ったのか、夜の港へ行った記憶はある。後に聞いた母の話を繋ぎ合わせると、ようやく連絡がとれたものの、祖母がすでに亡くなっていたので、分骨して持ち帰られたのだという。だからおそらく、祖母は生まれ育った土地に帰ったのだと思いたい。しかし、母はその後積極的には沖縄の親戚とは連絡を取らなかったし、向こうからも連絡はなかったと思う。今でも実家手書き電話帳が残っていれば、沖縄の『Tさん』の名前電話番号が残っているかもしれない。

(私が、親が亡くなってから実家没交渉なので確認するすべが無いのが残念なのですが)

……と、思っていたのだ。母の話は整合性あったし、墓には祖母名前が刻まれていて、分骨はしたもの祖母の骨が入っている。沖縄から来たおじさんの記憶ぼんやりとながらある。

しかし、母が亡くなった時に確認した戸籍に、母親(私の祖母)の名前はそこにはなかった。

そこにあったのは、親戚より仲良くさせていただいていた、とある女性名前が書かれていた。親戚よりも仲良くさせていただいてはいたけど、戦争直後に母子家庭同士で助け合ったから仲良かったんだろうなと勝手に思ってたんだけど、そうじゃなかった。

そこから遡って、いつぞや母から聞いた細切れの情報繋ぎ合わせると、えらいややこしい話が出来上がってしまった。

母が生まれた頃(昭和一桁代)、沖縄日本ではなかった。出稼ぎ本土へ来た人は、港湾関係女性は紡績工場で働いてる人が多かった。沖縄出身者は差別を受けてたんで、コミュニティを作ってその中で生きるか、もしくは沖縄出身だということを隠して自活するかのどちらかだったと思う。

祖母沖縄コミュニティを離れたのだと思う。で、何らかのきっかけがあって、大阪とある商家長男の娘を授かることになる。が、ここで祖母戸籍問題になる。

たぶんここで、母の記憶にある『杖に長刀を仕込んだおじさま』が絡んでくるのではないかという推測ができるのだが、これはあくまでも推測であるので置いておく。とにかく、何らかのすり替えが行われて、母はH家の長女に納まった。『大事な一人娘に掃除なんかさせなくていい』と言われるくらいのお嬢様だったらしい。小学四年生父親が亡くなったというのに、終戦直後私立キリスト教女学校入学して高校まで通っているので(同級生だった友人もいたし、写真も残っているので与太話ではないはず)、お嬢様だったのは間違いない。

母は小学校学童疎開生駒の方に行ったという。そこに時々、会いに来てくれていたとも、祖母が食料を求めて京都の奥だか北陸の方だかに度々買い出しに行ってたらしいという話も聞いた。

で、なんだかんだあって、次男坊だった父が婿入りって形で結婚したわけですが、祖母と母はずっと一緒にいたわけで。子供が二人出来て、下の子が1歳になるとほぼ同時に祖母が亡くなったんだけど、この時に葬儀ができないってんで大騒ぎになったとかで。

今考えると、戸籍がない、娘もその事実を知らないって、大騒ぎにもなりますわな。

でも、また何らかの大人たちの仕事により『H家のS子』として葬儀をあげて、H家の墓に収められたんですけどね。

小さい頃、祖母のことも知ってる知り合いに、よく言われたんですよ。黒々とした髪や、大きい目が祖母によく似てるって。

写真で見る祖母はすでにおばあちゃんなので、本当に似てるのかどうかは自分ではよく分かりませんが。でも、沖縄の血を引いてるから目が大きいんだって言われるのは、ちょっと、いやかなり子供心に嬉しかったのを未だ覚えています

でも、祖母本人から沖縄の話は聞いたことがなかったし、祖母沖縄へ行った(帰った)話は聞いていない。

私が知るのは、祖母旧姓が『多和田』だということ。その苗字の弟が、亡くなった祖母の骨を沖縄へ持ち帰ったということ。

母は沖縄のどこに祖母の遺骨が埋葬されてるか聞いてるはずではあるが、それを書き残してはいなかった。その理由はわからない。ただ、電話帳に弟さんの名前電話番号が書かれていた。一度も電話することはなかったけれども。

私には沖縄ルーツとする遺伝子があるはずなのだけれども、戸籍がなんだかよく分からないことになっているので証明する手立てはない。

ただ、無口で気が強いという祖母という、周りの人から聞かされる印象が『沖縄出身』というフィルターを通してみると違ったものに見えてくる気がする。

無口なのは沖縄出身であることを隠すため。漏らさぬため。

気が強いのは、強く在らねば生きられなかったから。沖縄出身者のコミュニティにいれば居心地は悪くなかったろうけれども、大阪人達から差別を受け続け、港湾付近状態の良くない場所に住み続けるしかないわけで。それを抜けるには、そうするしかなかったのではないだろうか。

祖母沖縄へ帰らなかった。母がいたから。沖縄戦場になった時も、祖母沖縄へ帰らなかった。帰れなかった。だから戦争が終わったあとも帰らなかったし、連絡も取れなかったのかもしれない。

祖母の骨は半分沖縄へ帰った。

戸籍では繋がりがないけれども。でも、私の祖母なんだ。どこに埋葬されたのか、今の私ではもう探せないけれども。探すなら、母が生きてるうちに言いくるめてやれば良かったとは思うんだけど。今更言ってもしょうがない。

戦争中、首里城燃え落ちた時、それを聞いた祖母はどう思ったのだろう。帰れない故郷を思って泣いたのだろうか。

私が3歳になる直前に亡くなった祖母の心を今更知ろうとしても難しいけれども。祖母沖縄から大阪へ来て、何を考え、何を隠し、どう生きようとしたのか、もう少し考えてみたい。

2019-09-19

小学四年生男の子が殺されてしまった事件の詳細見てやっぱ下方婚なんてするもんじゃねえなって思った

2019-03-05

キュアマリンが忘れられない

キュアマリンが忘れられない。正確には、来海えりかが忘れられない。性格も体型も理想的過ぎるため、何回ハァハァたかからない。同人誌も買いあさったりしたが私の妄想を満たしてくれるものはなかった。私は絵が描けない。描いてみたこともあったが、小学四年生レベル稚拙な絵しか描けないのでほとほと嫌になった。絵が描けたらあんなことやこんなことを描いてみたいものだが、ああ絵が描ける人がうらやましい。私は来海えりかが好きだ。狂おしいほどに好きだ。VRかにならないかな?ホロレンズとかで投影したら、擬似的に同棲している気分が味わえないかな?ああ、えりかかわいいよえりか

2019-01-09

anond:20190109192600

ぐり と ぐら

点子ちゃんアントン

ドルフ と イッパイアッテナ

ママ小学四年生

ちゅうか な ぱいぱい

となり の トトロ

みたいに間に接続詞が入ってる本は覚えやすく手に取りやす

2018-12-13

愛情愛着境界線がわからない

恋人は今までに二人できた。

そのうち一人とはまだ続いていて、来年2月で4年記念日を迎える。

彼のことはとても好きだ。デートもするし、セックスもする。結婚出産も、可能性はあるなぁと思っている。

どきどきはあまりしない。付き合って長いから、ではなく、はじめの頃からそうだった。むしろ、今のほうがときめきのような感情はこみ上げることがある。

から、私のこの気持ちは、恋愛感情とか愛情ではなく、愛着なのでは?と思ってしまう。

初恋女の子だった。小学四年生とき、その子彼氏ができた。あまりしかった覚えはないが、彼女を取られたようで嫌だったし、彼女と付き合った男の子は、私が少なから好意的に見ていた人だったので(ここからもう矛盾してるけど)結構気持ちがぐちゃぐちゃになった。 まぁ、6年後、その人が私のはじめての彼氏になるんですけども。 

人のことを並列に好きになってしまうのって乙女ゲーの中だけだと思って今まで生きてきたけど、意外とありきたりな話だったりするんですかね?

しかも男女。

自分性的なこともよくわからないままここまで来てしまったので、来年社会人になったらレズ風俗に行こうかと思ってるんですが、これって浮気になるんですかね?

2018-09-08

anond:20180827065533

お母さんのおっぱいではなく,おねえさんのおっぱいが気になるという小学四年生のアオヤ少年の語りは,それが将来的に性欲に繋がるとしても少なくとも作中では単なる知的好奇心として描かれているものであり,それを性的消費と呼ぶにはあまりにも不自然であるというか読解力足りないのではないかと思います

2018-02-04

時々ネット懐古の旅に出たくなる

ネットには小学校低学年の頃から触れてきた20代の女だ。

時々、何の拍子にかわからないがふと昔ネットで良く見てたサイトを思い出して「今あのサイトどうなってるんだろう…」と思う事がある。

記憶はあってもサイト名を覚えていなかったり、サイト自身が消えてしまっているのもあるが、未だに残っていたりするサイトがあったり、当時の画像や記録が残っていたりして今になって見ると中々懐かしくて面白い

こういった事を年に1,2回ほどしたくなる。それを私は「ネット懐古の旅」と呼んでいる。懐古と言ってもたかだか10年ほど前の事だが。

その思い出話をなんとなく残しておきたくなったので残しておこうと思う。

リヴリーアイランド

まずこういったバーチャルサイト自体が好きで大量に遊んでいたのだが、その中でも一番ド嵌りしていたのがこれだ。

2003年から3,4年はガッツリ嵌っていて、学校から帰っては遊んでいた。なんなら親に頼み込んで「G.L.L」という有料会員にも登録させてもらっていた。

リヴリーキャラクターも勿論だが、島やら家具やらのデザインが可愛らしくてその雰囲気がとても好きだった。リアル友達にこれやってみない?と誘った最初最後オンラインゲームだった。発売していた攻略本シール帳なども購入していたし本当にとても好きだった。

その後も時折やっては居たものの、いつからか餌をやりトイレをさせ金を回収するだけという日々が続き(これリヴリーやってない人から見たら意味不明なのではないだろうか)、そのまま有料会員も退会しログインしなくなっていった。

今調べてみると名前が多少変わり、未だに運営は続いているようだった。なんかLINEスタンプ出てたから懐かしさに負けて購入した。

しかし辞めてはしまったけどやっぱりリヴリー可愛い…可愛くない?私はクンパとケマリとオオツノワタケが好きだったんだよ…ラヴォクスも好きだったけどなんかアレはふわふわ女子しか飼ってはいけないのではみたいな謎のプレッシャーに負けて飼えなかった。限定種も未だに増えてるんだな~~~ラビネってやつ可愛くて好きだ。

プラスリンネオベルミンとかあったな~~~。オオゼキタクの恋オーラは私が初めて購入したシングルCDだった。淡いすごい淡いすれ違いのその後に~~残り香で気づくような~~~♪これ通じる人いる…?

滅茶苦茶覚えてるのがアナグラ亭事件。あれはね~~~本当に重かったよね~~~~。凄かった本当に。あまりに動かなくて私が何か悪いことしてしまったのかと勘違いして「お父さんごめんなさいパソコン壊しちゃった;;」って謝った記憶がある。

それと先程言った友達がdoodooくじで1等当ててモチダルマ持ってたのが滅茶苦茶羨ましかった。コンプ癖あるからこういうアイテムコンプリートが段々難しくなっていったのが離れた理由の一因だった気がする。今なら多少はそういう要素あっても仕方ないよねって思えるんだけどね。

ところで検索したら小学生だった当時の自分がやっていたリヴリーに関するブログが未だに残っていて読み返したら頭が痛くなってきた。しかパスワードを覚えていないので消せない。生き地獄!!!!!!

ピタコムやらその辺

なんか他にも似たようなサイトをいくつか登録していた。何だっけ…ミルキーコムみたいな名前のやつとサイバーコムみたいな名前のやつと後なんか青くて海か何かをテーマにしてたやつ…(情報が無さすぎる)

確か全部同じ会社だった気がするし全部やってた。一番嵌ってたのがハピタコムだったのでそれしか名前をはっきりと覚えていない。

この世界で使える通貨ログインすると貰える仕様だったため、私はログインしてはログアウトしを繰り返し通貨を貯めていた。(もちろん短時間に繰り返すと貰える額は減るのだが、0近くになるまでは繰り返していた)

つの間にか飽きていつの間にかログインしなくなったがいつの間にかサービス終了していた。ネットで調べてもあまり情報が出てこなくて寂しい。が、ミルキーコムじゃなくてミルタンコムだったことはわかった。ミルタンな!!よっしゃ覚えた覚えた!!!

ぱどタウン

上記のハピタコムと似たようなサイトだった記憶があるのだが確かこれは運営会社が違った気がする。私は泉州ぱくぱくタウンに住んでいた。

正直そこまで熱心にやっていたわけではないのだが今調べたら半年ほど前にサービス終了していて今とても悲しみに暮れている。嘘だろお前…一年前に懐古の旅に出た時はまだ生きてたじゃないかログイン人数0人だったけど…

ところでこういうバーチャルタウンって今だとAmebaピグとかニコっとタウン辺りが人気なんだろうか。いやその話はちょっと逸れるからいいや。

ふみコミュ

2005年前後小学校高学年~中学生辺りだったネットを楽しんでいた女性は一度は聞いたことのあるサイトなのではないだろうか。

無論私もその一人だった。私がガッツリふみコミュに入り浸っていたのは中学一年生の時の一年間で、大体「雑談ロビー」という他の掲示板とはちょっと雰囲気の違う掲示板毎日のように遊んでいた。後素朴な疑問板。

なぜかこのサイト使用していたHNをしっかりと覚えていて検索したら一部の書き込みログやら愛画()やらが出てきた。クソ懐かしいな愛画。他にもあるぞ、ちめこんやら裏雑やら雑ロリボンやら色々あっただろほれほ~れ。

個人的に滅茶苦茶記憶に残っているのが醤油一気飲み事件と巨大ウサギアイコン事件かな。分かる貴方は私と雑ロで会話したことがあるかもしれない。

ちなみにふみコミュはそこから数年経ってリニューアルし、雑談ロビーリニューアルされ、これを期に今まで雑談ロビーにいなかったタイプの方々が掲示板投稿するようになって段々アクセスしなくなっていった。

これがきっかけで「雑ロはこんなんじゃなかったのに;;わたしたちの旧雑ロを返してよ><ふええ」と抗議した旧雑ロユーザーが大量に発生したとかしないとか。(私はその内の一人でした)

そんなこんなでアクセスすることは無くなったが未だにふみコミュは続いているらしい。もう大分変わって何がどうなってんのか全くわからないが。

突然思い出したが素朴な疑問板で唯一覚えてるのが「嵐の『全身全霊なんとかヴェー 自分なんたらかんたらヴェー』って曲なんですか?」って質問だ。a Day in Our Lifeだよそれ!!!

夢小説

ウッ…頭が…っ!

2007~2009年辺りは私も例外漏れず見てましたハイ…。あのほら…何十個もあるランキングからパスワード集めたりとかさ…「入口はこちから→」の「こちら」をクリックしたりとかさ…なんか妙なトラップ仕込まれてるとこ多かったよね…。パスを教えたと見せかけた必読の下の方にスクロールしたら「本当のぱすは○○」みたいなの載ってたりとかもあったね…。

でも何から見始めたのか全然覚えてない。何がきっかけだったんだろうこれ。あとこれの影響で自分創作しない癖にお題サイトかめっちゃ見てた。

ハンゲーム

小学生の時よく遊んでた。当時母がパズル雑誌をよく買ってきてくれた影響でイラストロジックが好きだった。そして自分は年齢の割にはイラストロジックが得意なのではないかという謎の自信があった。

確か部屋の中には初心者ルーム上級者用ルームがあり、初心者ルームは対戦で勝っても負けてもその時やりとりしたゲーム通貨のような物は退室した時点でリセットされるのだが、謎の自信に満ち溢れていた私は小学四年生という年齢の分際でいきなり上級者用ルーム突撃した。即負けていくら通貨を失ってビビッて逃げた。上には上がいるものだと実感した時である

なぜか高校の時にはアパレルパレットというデザイン系のゲームに突然嵌り再び小学生の時のように毎日ログインしていた時があった。でもこのゲームもいつの間にかサービス終了していた。うそーん…

なんかアパレルパレットBGMが好きだった記憶があるのだけどサービス終了すると聴けなくなるのとても悲しいね…。




とりあえず今回ここまで懐古した。こういうのを探していると突然こんなのもあったな!って思い出す事もあるしその度に懐かしくなる。思い出補正だろうが、自分が一番ネットを楽しめていたのがこの時期だったのかもしれない。

2018-01-07

チョベリバとかの言葉って、当時本当に使われてたの?

ネットを見てたら「チョベリバ」の単語が目に入って、ふと思ったので。

96年くらいのコギャル文化で、チョベリバとかチョベリグ流行ったって認識だけども、当時の自分小学生だったから、テレビでこんな変な言葉流行ってますよーってのを聞いて、友人間ネタとして面白半分で使ってた記憶しかなくて、ガチな人がガチ意味で使ってるところを見たことは一度もなかった。

当時のこち亀ラッキーマンにもこの言葉は登場するけど、どちらかといえばネタ的な意味合いで使われてた感じ。

あと当時の『小学四年生』の雑誌に載ってた漫画で、とあるキャラチョベリバって言ったら、別のキャラが「そんな言葉キャバクラ通いのオッサンしか使ってないだろ……」って、突っ込んでたのが結構印象に残ってる。

実際のところ、当時の女子高生たちはネタ的な意味合いじゃなくて、本当に日常会話でナチュラルにこの単語が使われてたのか、今更ながらふと気になった。

最近だと「忖度」みたいにテレビ発の言葉は、日常的にはネタ的に使われることが多いけど、「インスタ映え」みたいに自然発生した場合だと、割とナチュラルに使われてることが多いから、チョベリバとかは果たして後者の方なのかどうなのか。

2017-12-11

そもそも死にたいって人間はどうしたらいいのか。

思い出せるかぎり小学四年生の頃にはすでに遺書を書いていたし、それ以前からもやんわりと死にたかった。

十歳の時点で死にたいって、なんだか親に問題がありそうだけどでも多分そんなことはぜんぜんない。いい親だった。いい親だったからこそいまなんとか生きていけてるような気さえする。でも家からははやく出たくて、高校は寮付きのところに行ったから15歳から家を出る形になった。いまとなっては、とくに父親にたいして申し訳なく思っている。(もう少し娘が家にいたほうが嬉しかたかなって)

不思議なのは死にたいんだけど、死にたいはずなのに、自分自身にはぜんぜん不満がないってこと。性別も顔も声も生まれ立場学歴職場もいまのままでぜんぜんいい。友達については特に、この人たちと友達でいられてよかったと瞬時に思える人間が四人もいる。(いわゆる親友というかたちで名指ししても全く問題ない関係性のひとが四人)ほかにも、学校コミュニティとか会社の同期とか、仲良くしてくれる人たちもいて、飲み会とか好きじゃないかあんまり予定は作らないけど、それでも週に一度はだれかと遊びに行くし、恋人同棲もしている。なんの不満もない。趣味読書手芸ものつくるの楽しい。(さいきんはどっちも興味わかなくなっちゃったけど)

なんだかぬるま湯の低温の希死感というか、死んでもいいのになあ、みたいな気持ち。昔は慟哭的な死にたさを抱えていたころもあったけど、あの頃と比べるとほんとマシになった。今は和らいでるから分かるけど、あのころは本当に本気でいつ死んでもかまわないと思ってた。いつまでこんな悲しいことが続くんだろうって思いながら、そのときそのときで、友達とか恋人とか、周りにいる人のおかげでなんとかうまいことやってきた。でもぜんぜん「死にたい」は消えない。一瞬いなくなったように思っても、気付けば身近にいる。

最近失踪するといいのかもなあって思ってる。貯金500万あるから、それもって3年ぐらい失踪して、そんで困ったら死ぬのってどうかな。って自分相談したい。あしたから行きません、ってメールたらみんな困るかな。いや困るっていうか、心配してくれるだろうし親に連絡してくれるだろうし、同期もおおさわぎしてくれるだろうし友達なんてどれほど深刻に心配してくれるかわからない。家族ことみたいにあわてると思うし、ショックも与えちゃうと思う。弟が絶望するんじゃないかと思うとこわい。両親にはただただ申し訳なくて、なんの落ち度もないふたりがそんなひどく悲しい思いしなきゃいけない理由なんてないし、だからぜったい出来ないと思うけど、でもそういう選択肢を考えるだけで気持ちがほんの少し落ち着く。たとえば、四歳のころから一緒にいる犬のぬいぐるみはぜったいスーツケースの一番うえに詰めて持っていこう、とか、やるはずない悪戯計画だけ立ててたのしくなるような感じ。

じつはもうすぐ誕生日なんだけど、友達ものすごくがんばって準備してパーティーひらいてくれた。ケーキも作ってくれた。わたしの好みにあわせた雑貨のお店探してくれてここで1万円まで買い物していいぞって言ってくれた。クリスマスパーティーも毎年してるしプレゼントなにがいいか早く決めてねって言ってくれる。父親のことすごく好きで尊敬してる。会社ではさいきん、若いのに周りが後押ししてくれてリーダーにあがった。料理上手な恋人がいる。ツイッターでは趣味の合う人と手軽に知り合えて話せて楽しい。初めて出したオリジナル小説同人誌が(極小部数だけど)完売したときは嬉しかった。去年よりも成長した部分だってあると思う。自分人生で変えたいところなんてひとつもない。何歳の頃にも戻る必要はない。そして、こんなに書き連ねてみてもだめ。毎年なぜか誕生日前はとくに死にたい。なんでだろ。

ほんとうにつらつら書いちゃったけど、ひとつだけ人のためになることが言えるかもしれない。「子供死にたいって言われた」って、ママさんたちの育児相談所みたいなところにそんな書き込みがあって、子供死にたいって言うなんてほんとうじゃないって、親を信用していればそんなこと言い出すわけないって、回答つけてる人がいた。そこまで批判的じゃなくても、もう少し配慮がたりないんじゃないかとか、善意アドバイスをしている人もたくさんいた。みんないい人なんだと思う。死にたいって思ったこだってあるんだと思う。でも、わたしのような人間けがそういうお母さんに言えることがあるとするなら、もしかしたらその子わたしの同種で、あなたにはなんの落ち度もないのにどうしようもなく「死にたい」のかもしれません。だとしたらごめんなさい。わたしは両親が好きです。感謝しているし、すくなくとも今は外からみたらそれなりにちゃんとやっている人間に見えると思うし、そして二人にはなんの落ち度もなかったと思ってます。これだけはほんとうのことです。

その相談所を見ながら、そうか、子供が生まれちゃったら子供のためにぜったい死ねなくなるんだよなあ、って、ぬるい絶望の種がまた心臓に落ちてくの感じた。

これっていつかなんとかなるの? そもそも死にたい」と一緒に生まれてきちゃった人間はどうしたらいいんだろう。

2017-12-09

キャンディーよりも大切なもの

 あれは小学四年生のころだったか、近所にある小さな学習塾に通っていた。当時は開塾したばかりで、生徒の数が少なかったから、自分の学年の国語クラス個別指導だった。先生若い女性。狭い教室に机を二つ並べ、教師と生徒が向き合う形になり、テキスト問題を解いては解説してもらうという流れで授業は進む。黒板は使わない。授業の内容はほとんど忘れてしまったけれど、毎回、先生キャンディーをくれたことはよく覚えている。とても優しいお姉さんだった。

 実を言うと、あれから長い年月を経てもあざやかに残っているのは、キャンディー記憶だけではない。というか、正直キャンディーことなんか今となってはどうでもいい。私がその先生を思い出す時、必ず脳裏に蘇ってくる光景がある。それは胸の谷間である先生は、私に教えるときに限って(そうであったと信じる)やや胸元の開いた洋服を纏い、こちらの目をじっと見つめながら、少し屈むような姿勢をとって、大きさとしては中くらいの柔らかそうなもの小学四年生の私にアピールするのだ。国語どころではない。鮮烈な刺激だった。私が今、女性の胸の魅力にとりつかれて離れられない原因の一端は、この時の経験にあるのではないかと疑っているほどだ。

 あの時、先生はどうして十歳足らずの男の子胸の谷間を許したのであろうか。私にはそれが長年の疑問であった。そういう特殊な嗜好があったのか。いや違う。少なくとも私の目に映る先生常識人だった。或いは、自分の谷間が露わになっていることに気付いていなかったのか。それも違う。一度や二度ならともかく、毎度となれば自覚しないわけがないだろう。今になって思うに、恐らく先生は、勉強に興味が持てず上の空になりやすい私の性質を見て取り、キャンディーを与えたり、谷間を見せたりして、なんとか集中してもらおうと独自努力をなさったのではなかったか。できたばかりの塾に入ってくれた生徒の学力をどうにかして伸ばしたい。その一心が生んだ彼女なりの行動だったのではなかったか。そういう風に考えてみると、感謝をせずにはいられない。先生は体を張って私のために尽くしてくださったのである

 最後にお会いしたのはたしか中学生のころだったと思う。学校からの帰り道、たまたま通りかかった先生とばったり出くわした。「あっ」とお互いにびっくりして声を発する。先生お腹は大きくなっていた。今では立派な母になっているわけだ。先生との思い出は、この時を限りに途絶えている。恐らくもうお目にかかることはないだろう。しかし若き日の印象はいつになろうと色褪せぬ。昨日、ふと思い出して、晩のオカズにさせていただいた。私も大人になってしまった。

2017-10-04

どうして衆議院解散したの?

小学四年生です。どうして衆議院解散したの?

2017-09-22

ディズニーランドの補欠

小学四年生の頃、魚住という友達引っ越し・転校した。

俺の家から自転車で一時間ほどの距離だったから、年に数回は魚住の家に遊びに行った。


 

中学三年生の夏。

小学生の頃から友達山川から電話があった。

山川「今週土曜ヒマ?」

増田「え、なに」

山川ディズニーランド行かね? いや俺は行かないんだけど。魚住知ってるだろ。

   魚住魚住母親と遊びに行く事になってたんだけど、俺行けなくなっちゃって。

   お前が代わりに行ってくれよ」

増田「わかった」

山川「んじゃ魚住に連絡しとくわ、集合時間とか場所とか魚住に聞いてくれ」

そんなわけで、俺は魚住魚住母と三人でディズニーランドに行った。

しかったと思う。ほとんど記憶ないが。

だが、遊びながらもかすかにひっかかるものはあった。

……本当は山川がこうしてディズニー行ってたんだよな。俺は代理で。

そんな思いがよぎった。

魚住とはそれっきりで会うこともなくなった。

山川とは中学卒業してから会っていない。




時間はとぶ。

社会人一年目の夏。

仕事にも慣れてきたある日、先輩社員から社内メール

増田ちゃん週末空いてる? ディズニー行かない? うちのグループ若い連中(入社一年目~四年目位)で行く予定なんだけど。ホテルまりで」と誘われた。

俺は魚住の件を、当時のひっかかりを思い出した。

そして週末に予定は無かったが、その誘いを断った。

メールで断って数時間後、休憩中に先輩社員から声をかけられた。

増田ちゃん行けないのかー残念。いや~実はディズニーホテル予約してたのに一人行けなくなっちゃってさ~」

ああ、やっぱそうか。

元々ディズニーに行くメンバーは決まっていて、そのうちの一人が不参加になったから代わりに俺を誘ってみた、ってことね。

補欠じゃん。俺。




次、ディズニーに誘われたときもまた俺は「誰かの代理なのだろうか。



つーかグループで行く事になってて、急に一人欠けたから「じゃあアイツ誘ってみるか」で誘われるのなんて全然嬉しくないよ。

2017-09-18

私は吹奏楽部に入部希望なんて出してなかった

小学四年生の時の話である

必修であるクラブ活動に参加するにあたり、入部希望届を提出するようお達しがあった。

その用紙には、第三希望まで書くための欄が設けられていた。

私の第一希望バスケットボール部。第二、第三希望に何を書いたか覚えてはいないが、吹奏楽部ではなかったことは確かだ。

だが、私の参加する部活吹奏楽部に決まった。

バスケ部は入部希望者が多かったらしいと噂に聞いた。

他の吹奏楽部入部者である友人らに話を聞くと、第一希望バスケ部だったという。

第二、第三希望まで書かせておいて、それすら加味してくれず、興味もくそもない吹奏楽部に入れられたことが納得いかなかった。全くもって面白くなかった。

おかげで私は真面目に練習に取り組まず、譜面通りに演奏することができなかった。顧問特別赤線を入れ、簡易バージョンに直してくれた譜面をひとり、県大会で吹いた。

楽器マイナーだったのも面白くなかったんだよな。トランペット希望出したら、ユーフォニウムになったんだよ。吹奏楽に興味ない小学生ユーフォニウムしらんかったよ。チューバほど目立たず、トロンボーンほど華やかではなく、なんか地味。だから、十数年を経て響け!ユーフォニアムを見たときはすごくうれしくなったのを覚えている。ありがとう京アニ題名のない音楽会五嶋龍が、ユーフォニアムって楽器を今まで知らなかったみたいなことを言ったとき、くっそ!ほらな!って思ったさ。

さぼりはしないけれど練習に打ち込まない私の意識が変わったのは、東北大会に出場したのがきっかけだ。

大会で一番の成績を収め、隣県で行われる東北大会に泊まりがけで参加。

林間学校にも修学旅行に行ったこともない小学四年生には、年上のお兄さんお姉さん、同級生たちとの旅行はとてつもなく楽しかった。

そこからは、結果出してまた泊まりがけで大会に出たい!と練習に打ち込み始めた。譜面から赤線はなくなった。

五年生でも六年生になっても、東北大会に進んだ。

私が小学四年生だった年、新しく赴任してきた先生吹奏楽部顧問就任していた。

前の学校でも吹奏楽部指導していて、次に赴任した小学校でも吹奏楽部指導して、そして今でもどこかの小学校吹奏楽部顧問をしている。その先生が来れば、その学校吹奏楽部は県で一番になれる。当時は知る由もなかったけれど、そういう顧問だったらしい。

から私は、私の友人たちは、入部希望届に吹奏楽部と書いてもいないのに、吹奏楽部に入れられたんだと最近思い立った。

みんなスポーツが得意で、今で言うスクールカーストの上位の方で、タフだった。私以外。私以外に譜面赤線を入れられていた友人はいない。

強い顧問が来るのなら、それに見合った児童必要だったんだろう。希望届が関係なくなるくらいに。

吹奏楽部のことは、最後には好きになれた。中学校で続けはしなかったけれど。

でも未だに、顧みられなかった入部希望届に対し、第一、第二、第三希望真剣に考えた私の思いは返して欲しいと思っている。

2017-08-25

精通経験した年齢

9歳(小3)10歳(小4)11歳(小5)12歳(小6)13歳(中1)14歳(中2)15歳(中3)からない/無回答
0.2%6.1%10.2%25.6%29.1%9.5%1.0%18.3%

オナニー経験者の年齢別割合

12歳(小6)13歳(中1)14歳(中2)15歳(中3)16歳(高1)17歳(高2)18歳(高3)19歳(大1)20歳(大2)21歳(大3)
20.0%15.1%30.4%48.9%69.5%83.0%89.6%92.2%94.9%93.8%


小学四年生は最低ラインからオナニーなのはおまえだけだよ恥ずかしい奴だな。

https://anond.hatelabo.jp/20170825131805

2017-07-29

主人公になると決めた

 僕はずっと、自分人生傍観者だった。

 この感覚自体理解出来ないという人が多そうだ。と言うか、そうであって欲しい。僕という人間世界中に一人しかいないと理屈では分かっているが、僕に対する僕自身評価が「その他大勢」だったのだ。世界主人公は僕以外の誰かで、僕はそうではない有象無象の一部だった。

 キモオタコミュ障で、学生時代教室の隅でキノコを生やしながら本を読んでいた。イジメの標的にされなかったのは、比較的育ちのいい子ばかりの私立学校ゆえイジメ自体が少なかったからで、公立に通っていれば悲惨学生時代になっていたと思う。

 本や漫画の好きな、いわゆるオタ友達ならいたのだが、彼らとも時々隔たりを感じていた。「普通高校生が異世界召喚されちゃう、みたいな話あるじゃん。もし自分がそうなったらどうする?」なんて話をしていると、僕は野垂れ死にする自分しか想像出来なかった。ファンタジー世界に行ったらこ属性魔法が使えそう、とか、さすがに王族に見初められる自信はねーわ、とか、そういうバカ話をする友達が眩しく見えた。彼らは自分主人公である世界想像出来るのだと知って、羨ましかった。

 仮に最初からファンタジーRPG世界に生まれ落ちたなら、僕には名もなきNPCがお似合いだろう。世界を救う旅をする主人公に話し掛けられて、「夕食の材料を買いに来たんだ」とかのどうでもいい話をする人。ゲーム攻略の手掛かりを提供することも、プレイヤーの心に残ることもない、そういう存在

 頭も顔もよろしくない僕が、器用に生きるのは無理だった。せめて真面目に勉強して、それなりの大学に行き、手堅い職に就こうと思った。そして当初思い描いていたレールと比べれば、多少の紆余曲折はあったものの、最終的には建築系の企業入社図面を書く仕事に辿り着く。

 この仕事は僕に合っていた。PCに張り付いてCAD操作をするのは得意だった。雑談が苦手でも、最低限の挨拶情報交換さえハキハキとしていれば「自分作業に没頭できる人」としてプラス評価を受けられるのもありがたかった。休み時間にも図面を書いて練習したり、参考書を読んで勉強していれば、そっとしておいてもらえた。人間関係の苦悩も、当面は食いっぱぐれの心配もなく、収入は安定していた。

 顧客の「こういうものを建てたい」という注文や、上司の「法に触れないように調整しておいて」といった指示を、PC画面上に反映させていく毎日。僕は自分意思を持たない、人の言葉PCに受け渡すだけの変換機みたいなものだった。仕事自体は好きでも嫌いでもなく、ただ毎日が過ぎていく。それでいいと思っていたし、僕にはそれがお似合いだと思った。

 そこそこ経験も積んで三十歳になったある日、僕は小さな建築現場事務所に配属されることになった。

 現場事務所にも色々あるが、僕が回された先は労働衛生基準法に照らせば真っ黒な、およそ人の働ける環境ではないという最悪の部類である間取り関係上、空調の効きが悪く、夏は暑く冬は寒い。窓はないため無風であり、日光は差さず、機械音だけがうるさい。

 環境改善要望無視され続け、僕のメンタル一年でイカレた。それでも一年間は問題なく務めたのだから、この人事は正解だったと言うべきだろう。最初からいた現場長以外の、僕の後任として入った人たちは、ほとんどが数日でダウンするか逃げ出してしまったらしい。退職間際、現場長一人で仕事を回しているので大変そうだ、と人づてに聞いた。

 そんなことを言われても、発熱眩暈、圧迫感、何の刺激もない時に突然涙が出る。労働どころか外出もままならなくなった僕は、仕事を辞めざるを得なかった。休職も出来ると言われたが、回復後に同じ環境に戻される可能性を考えると気分が悪くなったので、丁重お断りした。

 変換機として生きて行くことは、もう出来なくなった。

 かような経緯から、今の僕は三十路過ぎのニートである。なんと切ない響きだろうか。結婚どころか恋人もいない上、肉体と精神も損なってしまった。あとは失うものと言えば貯金残高と寿命だけ、というこの状況にあって、僕は一つの気付きを得た。

 職と健康を失ったことで、親には心配を掛け、友人からは「無茶しやがって……」とオタクらしいコメントを頂戴し、必然的に世話を焼いてもらう機会が増えた。それはとてもありがたく心強いことなのだが、申し訳ないことに、施される親切が僕の欲求とずれていることがある。たとえば今はさっぱりしたものが食べたい気分なのに、友人が手土産としてベイクドチーズケーキをくれる、というような。

 当たり前だ。僕の親しい人たちは、僕自身ではないのだから。彼らは彼らなりに、良かれと思うことをしてくれるのであって、僕の漠然とした欲求を察してくれるエスパーではない。友人は僕が「チーズケーキが好きだ」と言っていたことを覚えてくれてはいても、僕が今なんとなく食べたいものまでは分からない。

 ましてや職場において、僕が本当は日の当たる綺麗なオフィスで働きたがっているだなんて、誰が想像出来ただろう。ぼっちが平気で本さえあればゴキゲンコイツなら、環境が多少劣悪な現場でも耐えられるだろう、と判断されたのに違いなかった。

 僕の欲求を察して満たしてくれるヒーローなんて、どこにもいないのだ。

 ならば僕自身が、僕の欲求を聞いてくれるヒーローにならねばなるまい。主人公の座に戻らなければ。次はどんな働き方をしたいのか、どういう生活をしたいのか、趣味だって好きなだけ増やせばいい。一つずつ確かめて実現させて行く必要がある。

 今までは周囲に流されながら、手の届くものだけを掴んでいたけれど、本当は自分で水を掻いて行きたい場所に行けばいいし、欲しいものに手を伸ばしたっていいのだ。

 そういう風に考えて顔を上げると、空が今までよりも広く見えた。ごちゃごちゃと続く街並みを眺めるだけで、心が躍った。

 世間には「誰もが主人公」というメッセージが溢れている。その言葉自分には当てはまらないと、僕はずっと思っていた。

 だが今なら、「誰もが主人公」という言葉を受け入れられる。主人公とは、舞台の上で華々しく歓声やスポットライトを浴びる人を指す言葉ではないと気が付いた。演劇よりもゲームイメージした方が分かりやすいだろう。僕は多くの人にとっての「その他大勢」だが、物語の中で果たす役割が何であれ、僕は常にその人物を通して世界を感じ取り、考え、行動する。使用するキャラクターカスタマイズは出来ても変更は出来ず、人に操作を代わってもらうことも出来ない。生まれた時から死ぬ時まで、ずっと主人公であり続ける。

 だから、僕は主人公だ。非力でいいとこなしで、ステータス異常「うつ」まで付いてる始末だけれど、装備やスキルを工夫しながら目的地に向かうことを許された主人公なのだ。設定された座標を往復するだけのNPCじゃない。

 今の僕は三十一歳。自分がやりたいことを見極め、がむしゃらに夢を追い始めるには微妙な年齢である。夢を叶えようとしても、たとえば警察官になるには既に受験資格を失っているし、俳優を目指そうにもこの年齢の未経験者を入れてくれる劇団を探すのは難しい。

 僕の場合は更に厄介なことに、そもそも自分のやりたいことが分からない。趣味と言えば読書ゲームジョギングくらいで、人に誇れるものは何もない。小学四年生くらいまでは作家になりたいと思っていたが、三十一歳になった僕が小学生自分を参考にするというのも情けない話である

 しかし、うん、作家か。今も昔も、本が好きなのは確かだ。文章が書ける限り何歳からでも目指せる、年齢制限のない夢があるというのは悪くない。故に諦めを付けるのが難しいという、泥沼のような側面には注意を払う必要がありそうだが。

 他にもきっと、意識するより先に諦めてしまった「好き」や「やりたい」が山ほどあるのだろう。中には既に、年齢制限に引っ掛かってしまって叶わないものもあるだろう。それでも今の僕は、それらを探しに行きたいと思う。仕事でも、趣味でもいいから、傍観者をやめて、僕自身物語に介入したいと思う。

 それにしても、まさか三十路を超えた後にやりたいこと探しをする羽目になるとは。作家になりたいです!と公言するのは匿名記事ですら気恥ずかしいのに、年齢がそれに拍車を掛ける。若い人は是非、若い内にこの恥をかき捨てておいて欲しい。

 僕の物語ハッピーエンドである保証はない。夢を一つも叶えられないまま死ぬのかも知れない。そうだとしても、ジタバタもがいた後の方がきっと安らかに死ねると信じ、決意を固めるべくこの記事を書いた。デスクワークしかしなかった日よりも、気力を振り絞ってジョギングに出た日の方がよく眠れるのと同じように。

 三十一歳、無職独身恋人なし、病身。見事な詰みの現状から、この先何が得られるのか、少しワクワクしている。



追記:

 コメントトラバともありがたく拝読している。僕は個別に返信出来るほどマメではないので、かいつまんで書く。

 とりあえず、今の僕は既に心療内科のお世話になっていること、療養二ヵ月目でそれなりに落ち着いていることをお伝えしておきたい。

 この記事では「主人公」という、誰にでも通じるであろう言葉を用いたけれど、意味としてはゲーム用語の「プレイヤーキャラ」の方が適切だと思う。僕の自意識主人公のそれになっても、他の人から見れば立派なモブのままだ。

 ブクマコメで指摘されている、「これといってやりたい事が無さそうに見える」は、本当にその通りだ。自分のやりたいことを考えてみた時、小学生の頃の夢しか思い出せないくらいには何もない。

 最初から主人公としての自意識がある人には分かってもらえないかも知れないのだが、「お前は主人公じゃない」「どうせ何も出来ない」と自分に言い聞かせ続けていると、やりたいという気持ち自体が起こらなくなる。出来もしないことについて考えるのは、不毛無駄なことだから。出来る人を羨むのはしんどいから。心を守るために、「別に自分はやりたいとも思わないし」と思い込むようになってしまう。

 ずっとそんな風に生きてきた僕は、まずやりたいことを探すところから始めなければならない。言われてみれば、似たような筋書きの作品はいくつも思い当たるのに、僕は今まで何を読んでいたのだろう。本で読むのと、体で理解するのは別のことだということか。

 実は僕の状況は、詰みというほど悪くはない。失ったものは大きいが、得たものもまた大きかった。この記事に書いた自意識の変化が一つと、もう一つは人に恵まれていると実感出来たことだ。

 別地方勤務の同期が突然旅行で近くまで来てくれたり(うつ患者観光案内させるとか鬼か)、元上司が飲みに連れ出してくれたり(薬の関係で僕は飲めないのに)、オタク友達はここぞとばかりにDVD押し付けてくる(全部観ているとただのヒキコモリになってしまうからやめて欲しい)。

 盛大に人生をスッ転んだ結果、それでも助け起こそうとしてくれる数少ない人、僕が大切にすべき人たちをハッキリと見分けられるようになった。今のところ僕のやりたいことリスト最上位は、「この人たちに恩返しがしたい」だ。自分欲求とのバランスを取りながら、頑張ってみたいと思う。

 今はチーズケーキの気分じゃないとか言ってごめん。今度は僕が、自分で選んだ菓子を持って遊びに行く。

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