はてなキーワード: あいくるしいとは
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
11月19日にデレステに恒常SSRとして[羽衣小町]小早川紗枝ちゃんが実装されたのを受けての話です。
紗枝はんにもし3周目が来るなら[白妙の絢姫]みたいなドレス寄り和洋折衷衣装が欲しかったんですよ。フェスよしのとか2周目肇とかとバランスが良くて、普通のドレスと並べてもおかしくない感じの。
3周目望む事自体贅沢だとは思ってた、万年圏外だもの。周子やまゆや幸子やユッキ、よしのんとか肇ちゃんも入るかな、に擦り寄って公式にお膳立てして貰っての今の位置なことくらいわかってる。りっかさん宛てがって貰えたのはとても運が良かったとも。だから3周目が来たとして限定貰えないと思ってた。
来るなら恒常だと思った。だけど未SSRの枠潰すのは嫌だったし、荒木先生とか肇ちゃんがコンセプトの違うらしい衣装貰えてるのは実績からかもしれない。それどころかCGの卯月さえユニット衣装なんだから望む衣装なんて貰えるはずない。ユニット来るなら羽衣だろうけど振袖が美彩に似合いすぎるし相方の周子はCGだしデュエットユニット衣装はまだないし、きっと来ないと思ってた。願ってた。それなら3周目なんかいらないと本気で思ってた。ヘイトためたくないもん、圏外にはそれくらいの扱いで十分でしょう?
昨日は楽しみにしてた山紫水明イベの絵柄をチェックするためにログインしただけのつもりだった。先に入ってきた情報は[]がCG相手のユニットの担当の恒常SSRという事実だった。
嬉しくないわけじゃなかった。担当の描きおろし絵柄、録りおろしボイス、3D衣装、ぷち絵柄、コミュ。嬉しいに決まってる。
ただ、それ以上に受け入れたくない事が多すぎた。
懸念してた恒常潰し、周子を巻き込んでしまうこと、特技がコンセ。衣装がすべて和、青ベースで新鮮かつ入れ替えみたいで粋だったイベ絵と異なるいつもと同じピンクベース、極めつけに扇子の特殊演出。
seって出しゃばる子じゃないし、むしろ相手を立てるところもあるから、良く知る相手の、色を冠した曲に、正反対の自分を主張する色の小道具を持ち込むかって言ったら持ち込まなくない?そこ解釈違いにならない?
イベ絵のまま青い衣装で、扇子のベース色は青のままよく見ると柄が少しだけ赤が増えてる、程度ならまだ良かったのに
青の一番星の歌詞と周子の物語って割と万人にわかりやすいと思うんだけどな。どうしてそんな判断ができたんだろう。
羽衣小町は好き。なんなら百合を読んだ事もある(それはそれでアリだと思うけど絶対だとは思わない)
だけどわかりやすいところだとデレステのあいくるしいにキレたくらいにはまゆとの組み合わせにも執着してるし、②肇に写り込んで絡みできたのに喜んだし、KBYDで幸子弄ってるのも好きだしなにより個人でもとても魅力のある一番の女の子だと思ってる。だから失望しながらもガチャ回したし引けたし踊らせたしめっちゃ可愛くて幸せだけどずっと重いもやもやが消えない。
紗枝はんに新しいお衣装くれるなら飛ばした花霞なんとかしてよ。SSRあずきで肩繋がる和服はできたんだから限定美優さんと合わせたらできないの、素人考えだけど。
逆にあずきが宵乙女花霞のテスト的なものじゃないならあずきをフェス周子寄りの肩出しセクシー大作戦にしなかった理由がわからんわ
花霞にしたってあからさまにダブセン+αみたいな扱いやめて欲しかったよね。3人巻き込んでまで総選挙ボイス獲得様と並べて圏外をお膳立てしないで良かった。ましてあいくるしい限定と連続してる時に。
戦国華乱舞のかっこよく賑やかな曲を夢見てたのに(歌鈴ごめん)和でまとめて消化した上きみそば最悪手であやたまかりんに恨みでもあるの?
奏Pだけど楓さん未央まゆverのTulipを聴いた。なんで原曲に近いまま歌わせたのか納得が行かない。せめてメチャクチャアレンジ効いてたら別モノとして受け入れられたんだけどなぁ...
3人とも自分の中でのランキングは高いほうだし歌声も好きだしTulipだって大好きな曲(総選挙の時は未実装だったHeartvoiceに何票か入れた後は投票していないけど)なんだけど、やっぱりLiPPSが歌わなきゃダメな曲だってのを痛感しましたね
いやーーでもないわほんとにない。だってTulipって奏のシンデレラワードだし「...なんてね」って歌詞だって奏だし奏のための曲じゃんこれなんでLiPPS以外が歌ってんの?意味わかんねぇ〜担当Pもなんで喜べるのかもわからねぇ〜 幸い「原曲超えたな」とかいうひとは見てないからそれだけTulipとLiPPSはスゲーって事なんだろうけど...
ライブでカバーされるのとは訳が違うんだよなぁ違うんだよ...ライブなら全然いいんだよ...なんでCD出しちゃうかなぁ〜!?面倒なオタクだから納得出来ない
運営のことは好きだけどキミそばの件も含めちょっとこれは本当にない。せめてLiPPSにもなにか御褒美ください。謎グッズ以外で。
ソロ曲部門はこいかぜで本当に良かった。楓さんに歌われたら絶対原曲超えだのなんだの言われるもんね私はわかるよ けどもし二回目あったらホテムントワレあたりが危険なんだよね本当にやだ 来年CGになる可能性のたかいウサミン未央まゆ辺りみんな大好きだけどそれぞれぴったりな曲2曲貰っててそれでほかの曲歌うとか、誰も得しないでしょ.....ほんと.....しかもCM貰ってない子がCGになったらどうすんのって話じゃないすか やだよ初めてが他人のために書かれた曲とか
まあ奏もあいくるしいとかNocturne歌わせてもらってるからなんとも言えないけど、あれはちゃんとオリメンいたし...そもそも元が知名度低めの円盤曲っていうのもあるし...あとアニメのソロ曲交換みたいなのは楽曲総選挙と違って一方的に献上するのとは違うからこれもいい企画だと思いますよ ミナミツボシすき
奏は今のところCGなれるようなキャラじゃないけどホテムンは1位充分狙える曲だからこそこの企画クソクソクソつまんねーーーんですわ
私はアイドルマスターシンデレラガールズに出てくるアイドルの一人、速水奏ちゃんが好きです。
私にとっては彼女は既に誰よりも輝くトップアイドルなのですが、名実ともに、他の人にとっての彼女もトップアイドルになれるよう、自分が出来る限りのプロデュースをするつもりでいます。
スターライトステージでは、2回目のキャラバンで報酬の強SRになりました。割りと初期の段階でSSRで貰って彼女だけの衣装を手に入れました。デレステ初の新曲では、報酬にこそならなかったもののセンターポジションで、「キス」を絡めたイベントがたくさんある、彼女にピッタリの曲を貰いました。色んなアイドルの楽曲コミュに出てきます。「あいくるしい」という紗枝ちゃんとまゆちゃんの曲のイベントでは、何故か彼女がまゆちゃんを差し置いてSRになりました。
こんなことを言うと怒られるのかもしれないけど、最近、やりきれない思いでいっぱいです。
だって、奏ちゃん、出過ぎじゃないですか?
沢山奏が見られるのは、勿論すごく嬉しいです。モバの方はすっかりログイン勢になってしまった私にとって、新しい情報が入ってくるのはデレステばかりです。
でも、あっちに奏、そっちに奏、こっちにも奏。長い間、こんな状態が続いている気がします。
ただ出ているだけならきっと私も「色んな子と奏が仲良くなってる。嬉しいな」と考えていたと思います。でも、そう思えないんです。そう思えたら、どれだけ幸せだったかと思います。
奏が出てくるコミュの大半は、いつだって「奏ちゃん、すごい!」という内容です。
いつだって奏は皆より一歩先を歩いていて、大人びていて、皆を諭して、それから、みんなに称えられます。「奏ちゃん、すごい!」「さすが、奏さん!」
正直、お腹いっぱいです。
奏って、あんなに皆に対して偉そうだったっけ?
奏って、そんなにすごいすごいって言われる子だっけ?
奏って、本当にあんな子だったっけ?
沢山の奏を見て、違和感を覚えることの方が多くなりました。
今でも変わらず奏のことは好きです。
SSRの特訓のイベント内容は、とても彼女らしくて大好きです。このコミュを与えてくありがとう、と心から思っています。
でも、奏が他のアイドル達をまるで踏み台にしているようなコミュが圧倒的に多くて、私はそれが悲しくて仕方ありません。
私の好きになった奏はあんなに高圧的な女の子ではなかったんです。
プロデューサーさんに、ちょっと大人のふりをして、背伸びをしながら誘惑の真似をしている女の子でした。
私だけがこの違和感を覚えているなら、それは全然構いません。だって、私の思っている奏像が、世間から離れていたというだけの話になるからです。
奏の今までを知っている、奏の担当プロデューサーである私だから、こう思っているのかもしれません。
じゃあ、奏を新しく知ったユーザーは?デレステで担当アイドルを見つけたプロデューサーは?他のプロデューサーたちは、他のアイドルのファンは、一体どんな思いでこの奏を見ているんだろう?
もしかしたら、
「自分の担当アイドルが、速水奏をヨイショするだけの役になっている」
と思っている人が、少なからずいるのかもしれないとおもうと、私はそれが一番悲しいです。
現に、いまのデレステに出てくる「速水奏」は、そう思われても多少は仕方のない女の子として、描かれている気がしてしまいます。
速水奏には、ちょっと大人びたところも、人を煙に巻くようなところも確かにあります。けれど、実は案外照れ屋で、小さなことでも喜んでくれて、こっちまで楽しい気持ちにさせてくれる、私にとっては誰よりも魅力的なアイドルです。
長々と語ってきましたが、この投稿で言いたかったこと、そして、デレステの運営に伝えたいことは、たった一つです。