2023-07-16

君たちはどう生きるか ネタばれあり・見たけど意味わからんかった人

追記

たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章から申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。

・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリメタファとする解釈はこの児童文学作品矮小化していると思う。あまり好きではない

→全く同意見で、書いた通り普段テクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿最後作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品のもの解釈海燕さん他書いているのがよかった。

映画も見てないし原作も読んでないけど、なるほど(以下略)

→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。


一般向けではないというけど、次世代へのバトン家族の話って極めて普遍的で、ジブリ宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ

→この辺りは宮崎駿自己言及普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。


・あの作品登場人物実在ジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。

→おおむね同意見で、自分ホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。


前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)

しろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分感想本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。



追記ここまで


初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由最後に書く)


見た人の多くは、ラストにかけてのメインストリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。

個人的結論を先に書く。(自分普段テクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)

まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。

オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿トトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラ鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。

そしてここから感じたのは、宮崎駿人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。


ていうことで、物語の根幹と宮崎駿人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。

結論から書けば、空から降ってきた大岩宮崎駿の才能、ギフト宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリのもの。その血を引く主人公宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面宮崎駿投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面告白、なんだと思う。つまりスタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。


昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。

時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。

ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界ジブリ後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)

関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑

そして物語ラスト吾郎ジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリ崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラスト宮崎駿は表したかったのだと思う。

総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的感情も整理しながら、比喩的な物語人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。

主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後最後告白し、汚れているか自分は継げないとジブリ世襲拒否するシーン。

あれはなんかほんとに個人的事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。

でもここは、ちょっと未整理。

まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。


ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。

個人的にはここから作品本質だと思っている。

子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス配慮)が欠けている。

はっきり言って、一般向けではない。大衆子供映画を作ってきた宮崎駿ジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)

しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。

そして、これと同時に、自分のような批評する目線映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。

以下に、その理由を書く。自分感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと

宮崎駿生理的表現がほんっとにうめぇな」

となる。

例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人うそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます

これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物感情や、物語における人物立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。

作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。

で、それらの生理的表現が今作で上げる最大の効果は「生理的感覚として、見る者に言語範囲外で意味を伝える」ことだと思う。

自分新海誠映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)

はっきり言って、中盤以降は物語テンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモア人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。

理解として言えば、言語範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント

たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白ヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。

から意味深がセリフ物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。

自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語理解拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。

プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報多寡しかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。

「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しか生理的理解している。

自分最初考察意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分勝手感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。

一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明エヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリ崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから一部の人批評感想特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。

  • 説明下手くそな上に意味不明なこと書かれまくってて草。 同じことやってる奴何人もいるけどダントツで下手だよお前。

  • 意味の分からなかった人への説明でメタファーの元の話を説明してどうするの メタファーってのは別の解釈でありメインのストーリーには関係しないぞ 君たちはどういきるかはメインス...

  • 長い。そしてまだみてない。

  • 君たちはどう生きるか、をみた。 自分はジブリファンではないので、物語の先にある「モデル」や「元ネタ」までは考えが及ばないのだが、 「こんなお話だと解釈したぞ〜」ってのを書...

    • 面白かった   メタファーを読み解くこと自体を馬鹿にするような風潮もあるけど、 この映画に限っては正しい楽しみ方だと思うよ 見る人の立場や状況によって解釈が違うこと自体が面...

  • この内容、すっごいわかるんだよな!!! まず、全くどんな話かも全くわからずに、映画を見るという経験自体が、もうないだろう(特に私は)と思うので、もうそれだけですごい経験を...

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