はてなキーワード: スタジオジブリとは
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
映画「君たちはどう生きるか」を観てきた。
・うまい言葉がみつからないけど、アニメーションとしては、スタジオジブリの集大成といってもいい、すごい映像作品だと素直に思った。
・「インコ」というジブリ史上でもっともキモ可愛なキャラクターが爆誕しているので、それだけでも見る価値がある。早くグッズ欲しい。
・唐突に色々な出来事・モンスター・アイテムが目まぐるしく登場するので、初見で理解が追いつかない感もあったが、むしろ神話的で良いと、魅力的に感じた。たぶん、わざとそういう配置にしてる。
特に、個人的な感想として、もっとも印象深かったのがキリコという登場人物だった。
キリコは異世界(塔の世界)に迷い込んだ眞人が最初に出会う案内人(漁師)であり、『千と千尋』の湯屋の女中のような主人公との関わりを連想させるキャラクターだとも思う。後に、その正体は主人公(眞人)と同時に異世界に入り込んだ従者(老婆)であることが作中で明かされている。
はじめは、この案内人は老婆であったキリコが異世界で変身した姿なのかと思ったが、どうも違う。この若い姿のキリコは(恐らく)数十年前に異世界(塔の世界)を訪れていた、若き日のキリコなのだ。
そして、眞人と同時に異世界に侵入したはずの老婆キリコは、若き日のキリコより、木彫の人形として眞人に託される(映画ラストで、この人形が老婆キリコに変化することから、これが依り代のようなアイテムになっていることは明らかである)。
しかしなぜ、老婆キリコは異世界で木彫り像に変身しなければならないのか?それは、パラドックスの回避の為、時空が混然一体となった異世界(塔の世界)には、2回目は入れないルールがあるからではないか、と考えた。
ではそうだとして、何故、異世界に侵入していないはずのその他の従者(老婆)たちも、老婆キリコと同様に木彫り人形として異世界で登場していたのか?この関係は紐解く必要があるように思う。
一つは、現実世界からの老婆キリコは、他の従者(老婆)たちと同列に、この異世界(塔の世界)には不在であることを示すたんなる装置としての(木彫り人形の)意味合いはあるだろう。
では、他の従者(老婆)たちも若き日のキリコと同様に、過去に異世界に招かれていたということなのか?この点については、実は、キリコ以外の従者たちは、ワラワラ様が現実世界に生まれ、育った姿なのではないかと思うのだ。つまり、彼女たちは大叔父が作った異世界に魂の起源・体験を持つので、作中の異世界では木彫り人形として描かれたのではないか(2回目は入れないルール)。つまり、過去に異世界と縁があった存在であることのメタファー(暗喩)が木彫り人形なのだと思う。
そう考えると、丸くて小さくてもふもふした従者(老婆)たちと、背筋の伸びた老婆キリコのキャラクターの対比も分かりやすい。異世界でのワラワラ様とキリコの関係性を、現実世界でも再現しているというわけだ。
そして、実はキリコは大叔父の血縁者なのではないか。つまり、血筋的にも大叔父・ヒミ・眞人と関りのある重要な役割を担う存在だったのではないか。
異世界(塔の世界)では、大叔父とその血縁者しか主体的に世界に影響を与えられない……という風に理解ができそうな台詞・描写も作中にあったと思う。だから、異世界での鳥達は変容・進化?してしまったし、直接の血縁ではない眞人の父は異世界には入れない。他方で、ヒミは火を操る神通力により世界を浄化?破壊?する役割を与えられ、キリコは循環と再生を扶ける役割が与えられているのだ。
作中序盤で描かれる現実世界での老婆キリコは、他の従者たちと違って、なんとなく可愛げがなく、めざとく狡賢い性格として描かれている。しかし、あの異世界で描かれるように、面倒見がよく逞しく凛々しい姿が、キリコの内面なのである。だから、老婆キリコは、眞人を心配して廃墟の塔までついてきてしまうのである。
ここまで考えると,老婆キリコが作中でもっとも印象深く愛しいキャラクターに思えてこないだろうか。
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SNSなどでストーリーが分かりにくいという前評判をみていたが、物語の構成は『千と千尋』や『トトロ』と同様で、トンネルを抜けた先の異世界で試練を経た主人公が、何かを現実世界に持ち帰る構造であり、ファンタジー系のハヤオ作品の中ではむしろ分かりやすい部類だと感じた(個人的には『ポニョ』とかの方が難しくてついていくのがしんどかった印象)。
主人公の大叔父が宮崎駿自身を描いているのかと思った。壮大な世界を作り上げた彼はスタジオジブリを一から立ち上げた宮崎駿の姿に重なるし、彼の世界の後継者を探して二人の候補者をあの世界に呼び寄せたけど、眞人は優しすぎて、夏子の子はまだ生まれてないから、あの世界とともに死んでいくことを選んだ。ひょっとして宮崎駿が死んだとき、スタジオジブリも解散するつもりなのかな、と一人で悲しんた。
この世界で眞人の母は死んでしまってもう会えないけれど、彼の大叔父の作り上げた世界では(年齢や姿は違えど)また再開することができた。これは少年時代に母親を亡くした宮崎駿の願望が描かれてるのかもしれないな。鷺男は大叔父に命じられて、あの世界に眞人を誘い込んだのかな。大叔父は彼の血を引く二人の子供を呼び寄せて、どっちか後任に適してるか選びたかったのかな。
ジブリで毒にも薬にもならないような映画を何本かつくったんだろ?
な?
でも、それはうまくいかなかったんだ。
なぜか?
世界の継承者となるには必ず私の「血族」でなければならない、と。
だからインコの王が適当に積み木を組み上げてもあっという間に崩れ去って世界は崩壊する。
このへんをちょっと考えてたんだよなあ。
ということは薄々感じているから
でもさ?
って、それを断った主人公というのはいったい誰のことなんだろうな?
というか物語の冒頭は完全にそうだった。
とするならこういう考え方もできる。
俺がもしも宮崎駿の息子だったとしても、
そして正当な「血族』だったとしても
と「血族」でもないのに石を継ごうとした吾郎に言っているようにも聞こえる。
映画の各場面について、嚙み砕いて自分なりに考察したりもした。
しかし、結局のところ
「どうにかして『"あの"宮崎駿の作品が、つまらないままで終わる訳が無い』と信じたいから、無理に理由付けしようとしているだけだな、これは」
と、自分でも気付いて止めた。
スタジオジブリの歴史、人間模様、宮崎駿の気持ち、それらのメタファーだ何だと各所で語られ始めているし、自分もジブリや宮崎駿の経歴に関してはそれなりに把握しているが、それらに当て嵌めて考えても、ただ虚しいだけである。
率直に言うが
「だから何だ」
としか思わない。
仮にメッセージが有るものと見做して、読み解いたり考えたりしたところで
「それらも、過去に他作品で別の形で表現した、既出のものばかりだな」
としか思わない。端的に言えば、手垢まみれだ。それらのメッセージを発したことも、宮崎駿は認知症になって忘れているのかもしれないが。
宮崎駿自身のことを改めて赤裸々に語りたいという考えがあることを理解した上で、それでも言わせてもらうが、世間に出すならば、せめてもう少し作品としての体裁を整えてくれよ。
とか言っているが、恥ずかしくないのか? 海外の高齢者の映画監督、例えばクリント・イーストウッドやジョージ・ミラーが、年齢を言い訳にしているか?
年寄りのすることだから、あの人は特別だから、と甘やかすから、イヤな忖度が日本人社会に蔓延るようになったんでしょ?
年齢を言い訳にするのは、お笑い芸人が、映画監督に挑戦して駄作を作ったことを批判された時に
と言うのと同じぐらい恥ずかしいことだよ。その恥ずかしさを理解しろよ。
批判を避けたいなら表に出すな。表に出すなら批判も甘んじて受けろ。年齢を言い訳に批判から逃げるな/逃がすな。
「ストーリーとか整合性を気にする作品ではなく、映像美やイメージを楽しむ作品だから」
とかいう言い訳も苦しいよ。映像、明らかにショボかったじゃん。『君生き』を観て映像美が凄いとか言う奴は、眼が貧乏舌だろ。
マジックリアリズム? これが? 低クオリティの言い訳に、都合よくマジックリアリズムという言葉を使うなよ。
何か
「主人公が優等生キャラではないところが凄い!流石、宮崎駿!」
とか言っている奴もいるが、ハッキリ言うが馬鹿じゃないのか? 外ならぬ宮崎駿が
「年長者に口ごたえする主人公キャラを見ると、ぶん殴りたくなる」
と言っていたことを、知らない/覚えていないのか? 自然破壊を批判しつつ自分は旧車を乗り回すという、いつもの『自分だけは特別に許される』パターンなだけだろ。
それに、優等生キャラじゃない主人公なんて、特に珍しくもないし、今さら別に評価ポイントになんてならないから。まさかとは思うが、優等生キャラではない主人公は、宮崎駿の独創と思っているのか?
問題は、観客が物語を追いたくなるような魅力が、主人公にあるか否かだから。魅力、無いだろ。この主人公に。
「良い本である『君たちはどう生きるか』を読んで、主人公(宮崎駿)は変わった」
とか馬鹿か? 本当に変わったなら、近藤喜文が高畑勲に殺されるのを黙って見過ごしたりしなかっただろ。良い本を読んでも変わらない人間は、論語読みの論語知らずだよ。
『君たちはどう生きるか』を見ながらボロボロと涙がこぼれていた。
それは内容に感動したからではなく、「あ、自分は救われないんだな」と思ったから。
それから感想をいくつか読んだけど、「老人になったパヤオがオタクを裏切った」みたいな評は間違っていると思う。
そもそも過去作からして「お前ら大人になれ!」ってメッセージばかりだったじゃん。
だって、当時のオタクは生活の余裕から大人にならない選択をした人々だったからね。
でも、そのメッセージって今のアラフォーになったオタクには残酷すぎないか?
「異世界に飛び込め!」「自分の力で切り開け!」「君たちはどう生きるか!」っていくら言われても、今さら恋人や家族を作る経済力は俺にはないのよ。
ほんと見終わって脱力したよ。パヤオは家族もスタジオジブリも作れたかもしれないけど、それは才能があったからでしょ?
この映画を絶賛しているやつって、なんだかんだ結婚して子どももいるんでしょ?
独身で、年収300万円台で、アニメ見るぐらいしか娯楽がないアラフォーに、「君たちはどう生きるか!」って言われても……もう手遅れすぎて今さら言われても悲しいよ。
『君たちはどう生きるか』で満足できた人はいいよな。
おれは一生覆せない格差を見せつけられて突き放された気分だわ。
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
https://anond.hatelabo.jp/20230715085021
クッソ詰まんねえ評論で草。
君たちはどう生きるか、本作だけじゃなく全ての創作に言えることだけど、やっぱり、確り真剣に鑑賞することは大事と思う。
安易な消費を許さない気骨を感じた次第で、作家論的な枠組みに矮小化して言語化し満足する態度などぼくは絶対取りたくないなと思ったかんじです。これは礼儀の問題というか、あの映画において客と作り手は決して対等な立場にないからこそ、そう思うのかもしれません
「君たちはどう生きるか」を「スタジオジブリの現状を描いた映画」的に解釈すると、あまりにも見落としが多すぎることになると考えます。本作で描かれるものはもっとずっと広いので、ジブリの一部の状況の変奏という観点では捉えられないところが多いと感じますね
ツイッターではなく別の場所だけど、ヒミの振る舞うジャムの量が多すぎるって書き込み見て吃驚した。戦時中だから砂糖がなくて甘いものが貴重品って序盤に確り描いていたよ...
ヒミは眞人のお母さん(実母)なので、息子に好きなものを一杯食べさせてあげたいっていう気持ちの現れのシーンだと思いますよ>ジャムたっぷりのパン
今作は千と千尋以上にメタファーの連続だから、メタファー込みで読み解く必要がある
例えば以下の様なメタファーがあると俺は思ってる
これでもまだ一部だけど
青鷺⇒鈴木敏夫
真人⇒宮崎駿の分身、少年時代の駿/未来を生きていく若者達の象徴
・俗世に背を向けて内的世界に耽溺し少女に母性を求め続けた表現者としての宮崎駿の自己否定
・この先の未来を形作っていく若者達へ向けた「俺(たち)の真似をするな、自分自身の道を切り拓け」っていう警句
・「鈴木さんは嘘つきです」
の3本にまとまっている
ちなみに石の塔っていうのはユング心理学的には深い意味があって、今作ともめちゃくちゃリンクしてると考える
石の塔のユング心理学的な意味については以下URLがわかりやすい
http://www.j-phyco.com/category2/entry54.html
この話は難解という感想をよく見るが、その実は全く逆で、宮崎駿が監督作品として一貫して伝えたかった事を、教養のない愚かな大衆の為に限りなく簡潔で単純なストーリーに落とし込んだ結果、宮崎駿自身も「訳が分からなくなった」作品である。
この作品は宮崎駿の自叙伝であることは既によく知られているが、彼の内面やバックグラウンド、そしてこれまでの作品で彼が伝えたかったテーマの一貫性を保っている。
彼はそもそもこれまでの作品にも自分と周囲の環境とを幾度となく投影してきた。ただし、それは一部のマニアにしかわからないものであった。今回は、そのベースに加えて現実の宮崎駿自身の回想を複雑に絡ませて投影されているだけでなく、そのものずばりで作品のオマージュという形で追想しているのだ。
そしてここからが重要な点だが、当然それは単なる追想ではなく彼が監督作品で一貫して伝えたかった「生きるとはどういうことか」というテーマに対して「自分はこうしたがダメだった」のだというメッセージになっている。
戦闘機の風防を量産する軍需工場の経営をしていた父のもとで軍国少年として育ち、裕福ながらも厳しい家庭で母の愛を十分に受けることができなかった宮崎は、敗戦後左翼に傾倒して東映アニメーションで高畑功と出会い、強い影響を受けて監督作品にそれを秘めるメッセージをこめてきた。
これまでの監督作品で散りばめられていたオマージュや背景設定には、子ども向けの作品でありながら大人には「鑑賞者の教養」をもってして強烈な現代資本主義と衆愚政治に対するアンチテーゼが展開されてそれこそが深みとして楽しめるものになっていたのだ。
だがそれは一部のマニアだけが知るものとなり、実際に「大人」である大衆が想定以上に教養がなかったがためにジブリ作品のストーリーやアニメーションとしてのレベルの高さといった表面的なものばかりが「良い」とされ、宮崎駿や高畑功が伝えたかった事は伝わらなかったのである。
それでも宮崎駿は諦めず、本作のアオサギたる鈴木敏夫にそそのかされて愚かな大衆と私腹を肥やす連中のために作品を作り続けた。いつか伝わるだろうと鑑賞者を信じて。
いや、もう飛べないのに何度も何度も鈴木敏夫に首根っこをつかまれて。
そうして作った過去の作品たちだが、まるで伝わらなかった。そして彼は遂に「諦めた」のである。「諦観」にも近いだろう。戦後の日本人が当然に持っていた強く気高い教養は、戦後75年高まるどころか全く失われてしまった。
まさに劇中のインコのように、脳みそが小さく何も考えることができない、ただぴーちくぱーちくインターネットで喚き、特異なものを攻撃する。コンテンツをひたすら消費する愚かな大衆に対する、宮崎最後の強烈にシニカルな表現である。
そして現代日本人を代表するように庵野のような表現と個人主義的な自己実現による自己救済、新海のような風刺のない純潔な大衆作品、そして特に何もない残せていない息子が残った。中盤から終盤にかけて、継母のタッチが明らかにジブリのキャラではなく、庵野や新海といった顔の印象を残しているのは、「俺はこう生きた、お前らもあとは好きにやれ」という餞であろう。
こうした自身の溜まりにたまり、ある種の呪いに近しい諦観を、いよいよ吐き出し昇華せんと最後の力を振り絞って、教養が無くてもそれとわかるように単純かつオマージュもジブリ作品にし、走馬灯のように仕立てた。大叔父は死期を間近に控えた自分自身であり、13個の積み木と世界はスタジオジブリそのものである。自分自身が、自分自身に対してケジメをつけた作品なのだ。
「作家は経験したことしか書けない」は宮崎駿とて例外ではない。自己を総括するように、母性に対する渇望と周囲の女性達との思い出が上手く母・継母・見守るおばあちゃんたちといった具合に添えられている。
だが、この作品は紛れもなく宮崎駿の自伝かつ遺書であり、「君たちはどう生きるか」はこれまで一切メッセージが伝わっていなかった人間達に対する、まっすぐな問いかけである。
追記:
残念なことに、この作品を観て本当の意味で「あぁこれはねぇ~」と嬉々としてはしゃいで満足するのは岡田斗司夫ぐらいで、上記のような内容を今にYoutubeでレビューをするだろう。
Twitter民の反応は早い。フォロワーさんが14万人もいれば、誰かが見ているものだ。
ネットから離れた人間関係で、こうしたリアクションはまず望めない。
「目が、目がぁああアア…って。あ、これはムスカの物真似でして。…そうなんです、ええ。スタジオジブリアニメのですね…天空の城ラピュタってご存じですか。その登場人物なんですけども。え?ご覧になったことがない?あ、そうでしたか…へへ…」
冗談が滑った上に、その解説までするという情けない事態になるのだ。
生き恥か。
なるほど!
あるいみで現実世界から逃避した場所であって、そこで唯一の輝ける場所という人が多かったのかな。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
周りの人には、もちろんバレバレ。
なのに本人は、隠し通すことが出来ているつもりでいる。
下っ端のスタッフは忖度して、気づいていないふりをしているだけなのに。
部下に厳しい人間は、平等に厳しいからこそ尊敬も受けられるのだが、昭和の頃ならまだしも21世紀にこれなのだから、スタジオジブリ末期の頃にはもう、スタッフからも大して尊敬はされていなかったのではないかと思ってしまう。
うちの職場にも昔、男性部下(と、好みのタイプではない女性部下)に対しては、烈火の如く暴言を吐くのに、特定のお気に入り女性部下に対しては、露骨にデレデレした態度に変化するオジサンがいたことを思い出した。その人は、多数の社員から非常に軽蔑されていた。今でも職場での思い出話で、あの人はひどかったという話題になるほどだ。
このドキュメンタリーの監督は女性だ。そして、過去のNHKその他の男性ディレクターによるドキュメンタリーに比べると、画面の中で露骨にデレデレしている。たぶんそれも、監督が女性だったからなのだろうと思ってしまう。
うちの職場では、定年退職者に花束贈呈をするのだけど、その贈呈役が昔は若手女性社員に限定されていた。しかし、それも随分と前に廃止され、若くない社員の男女を均等に抽選して贈呈役に充てるようになった。
それとは対照的な話だが、以前、テレビ局が取材対象者(男性)の機嫌を取るため女性記者に取材をさせて、取材の現場では取材対象者による記者へのセクハラ被害が起きていたのだけれど、取材のために記者にはセクハラを我慢するようにと無理強いをしていたという事件があった。
女性監督の起用にも、このテレビ局に似た意図を感じる。だから、女性の観客から観れば、とても気持ち悪さを覚える。
もしも、好みの女性部下以外には厳しい態度をとるような中高年男性の上司の下で苦労させられた経験のある人、特に女性が『夢と狂気の王国』を観たならば、私の感想にも共感してもらえると思う。しかし、フラッシュバックを起こす可能性も高いので、それが怖い人は観ない方が良い。
スタジオジブリは店仕舞いして正解だったんだな、そう思わされたドキュメンタリーだった。本人は『君たちはどう生きるか』と、まだ若者に教えを垂れるつもりでいるようだけれど。
映画『もののけ姫』を劇場公開していた頃、スタジオジブリの制作現場に密着したというドキュメンタリー番組がテレビで放映された。その中で、こんな場面があった。
タタリ神による呪いを受けたアシタカが、彼の腕に出来たアザを、エミシの村の長老たちに見せる場面。その原画が上がって来たのをチェックする宮崎駿は、自分を写すカメラの前で、次のようなことを言い放った。
「人は驚いた時に、身を乗り出す人と、身を引いて逃げる人の2種類がいる。この原画は、身を引く反応の絵になっている。それは、これを描いた人間が、イヤなことから逃げ出すような人間だから」
ナチュラルに原画マンに対する人格攻撃を加える宮崎の姿が、全国放送の電波に乗った瞬間であった。
これとは対照的な話を、一つ紹介する。雑誌『アニメージュ』では1982年頃、安彦良和が自筆のイラストと共にエッセイを連載していたことがある。その安彦のエッセイの一篇で、演出家が描く絵コンテの指示内容と、原画マン等アニメーターがキャラの絵に付ける演技との関係について、イラスト付きで次のように述べていた。
1カット目:クラッシャー・ジョウの主人公ジョウが、歩いている。カメラパン。
2カット目:カメラ切り替わり、カメラ奥から手前に向かって、犬を連れた女性が道を歩いて近づいて来る。
この3カット目の「ギョッ!とする」というのは色々な解釈が可能であると、安彦良和は述べる。
「女性が苦手だから」「片思い対象の女性に予期せず出会い、ドキドキキュンキュンしたから」「犬が苦手だから」「女性に金を借りて返していないので『不味い!』と思ったから」「女性が化け物に見えた(近眼なのにメガネやコンタクトをしていなかった)から」など。
このように一言に「ギョッ!とする」と言っても色々あるのだから、どのようにアニメーターが描けば良いのか、アニメ演出家が描く絵コンテは、演技を適切に指示する内容でなければならない。それがエッセイで安彦良和の述べたことであった。
宮崎駿も、出来上がった原画の演技に文句を言うのに託けて、全国放送による公開人格攻撃を原画マンに対して行うぐらいなら、そもそも演出家である宮崎自身が適切な指示を絵コンテに書いておけば済んだ話である。それを怠っておいて、原画マンに対する人格攻撃を宮崎は加えていたのだから、お粗末以外の何ものでもない。
それと、もう一つ。高畑勲に寿命を擦り減らされた近藤喜文を守れなかった(守らなかった)宮崎駿に、果たして原画マンなど他人のことを「嫌なことから逃げるような人間」と批判する資格があるだろうか?これは修辞的な疑問、つまり反語であり、そんな資格は宮崎駿には無いと自分は思っている。
周知のとおり宮崎駿は、高畑勲大好き人間である。だから、高畑勲のすることを批判したり、それにブレーキを掛けたりすることは決して出来なかった。それは結局のところ、宮崎駿が高畑勲に嫌われるのが怖かったからではないのか?だとしたら、宮崎駿も「嫌なことから逃げていた人間」ということになるではないか。
原画の出来一つでアニメーターの人格に四の五のケチを付けるぐらいならば、宮崎駿自身もまた「近藤喜文を守ることから逃げた人間」という称号を死ぬまで背負うべきである。何しろ、失われたのは絵ではなく、人命なのだから。
近藤喜文が存命であれば、スタジオジブリも宮崎吾朗なんぞを担ぎ出す羽目にもならずに済んだであろうし、またジブリだけでなく日本のアニメ全体にとっての実り大き仕事をしたことだろう。近藤喜文を守らなかった宮崎駿の罪は、余りにも大きい。
仕事の関係で、しばらく仙台に来ている。会社の手配したホテルに滞在しているのだが、出張先とホテルの位置関係上、どうしても国分町という仙台における歌舞伎町のような繁華街を通らざるを得ない。このご時世あまりそういった場所へ近づきたくないということもあり必ずしも快く思っていなかたのだが、足早にホテルへ帰ろうとする私に声をかけてくる有象無象のキャッチのなかで、ひとりだけ異彩を放っている男がいることにある日気がついた。
だいたいキャッチというものは「キャバクラいかがっすか」「さ、居酒屋の、ご利用は」「お店お探しですか」の3パターンしかボイスの収録がされていないものと思っていたが、その男だけはそれらの聞き馴染んだセリフが一切なく、あまりに独特の語彙、それも妙にかっこいいコピーライティングのような文句でキャッチ行為を行っているのである。この数週間ほぼ毎日のように彼の慧句を聞いてきた中で、とくに印象に残っているものを数点ご紹介したい。
私が彼に着目することになったきっかけである、このキラーフレーズ。いつものように一顧だにすることなくスッ…とかわし、数歩経ってから、え…戦後最大?と思わず振り返ってしまった名作である。彼の基本的な戦略として「振り向かせたら勝ち」だと思っている部分があるようで、このあとうっかり振り返ってしまった私に、彼は雑踏の中で恋人でも見つけたかのように輝かしい笑顔を振りまきながら近づき、延々システムをご説明されたのだった。その口上もまったく落語でも一席聞いているかのように見事な、流れるような心地よさで、この男は只者じゃない。そう思わせる風格に満ちていた。
一日中ひどく雪の降った日だった。さすがにこういう時は休むなり軒下にいるなりしているのかと思いきや、彼は降り積もる雪とコーディネートしたかのような白のギラついたモンクレールのダウンを身に纏い、いつもの場所で元気に客引きを行っていた。その気候を一切感じさせない通常営業ぶりと遠目からも明らかにチャラい服装に半分感心、半分呆れながら歩いていると、素早く私の左横に取り入ってこのセリフ。それこそ”戦後最大のサービス”のような分かりやすいパワーワードで攻めてくる日もあるかと思えば、またある日は渋めの江戸っ子調である。あるいは、『北風小僧の寒太郎』のサンプリングも意識しているのだろうか。こういう思いがけない引き出しの多さ、力で押すだけではない抑揚の効いた客引きテクニックこそ、まさに彼の真骨頂だと思わず感じ入ってしまった。
スタジオジブリ監督作品『キャバクラ』に糸井重里が題するキャッチコピーというような、短い語彙の中にも深い奥行きを感じる名作。ドリルを買いにきた客が求めているのはドリルではなく穴だ…というマーケティング論の有名な言葉があるが、それに近い哲学をさえ感じる。彼のキャッチの特徴として、ほとんど「キャバクラ」という語句を使わず、にもかかわらずしっかりキャバクラのキャッチとして成立しているという点があり、これが他のキャッチとは一線を画しているポイントとなっている。かと思えば「キャバクラを超えたキャバクラを、見たくないですか?」などとキャバクラを前面に出して誘ってくる日もあり、型を離れた型を自分の中に確立していながらも、時と場合によってはそれにすら囚われない…という、ある種の武芸の達人のような趣すら感じられる。じつに天晴れである。
もちろん彼がまともな店に連れて行ってくれる確率は非常に低いだろうし、そもそも条例違反の行為であるためお世辞にも褒めることはできないのだが、どんな仕事であっても大物というものはいる、そして注目に値するイノベーティブな工夫がある、ということは何とも面映いものだなと感じている。たかがキャッチ、されどキャッチ。やがてああいう男が時代を作ってゆくのだろうと考えながら、私は今日も帰り道を楽しみにしているのであった。
私は発達障害を持つ40代なのだが、この歳にもなって常識的に知っているべきことを知らなさすぎて
周囲とのギャップをたびたび感じている。
学校での成績は良かったので、学校で教えてくれるようなことは知っているのだが
それ以外の日常の中で学んでいくことをとにかく知らない。
以下、私がどんなことを知らないのか、知識を持たないのかを列挙してみる。
好きな芸能人は誰?とか聞かれても、ほとんど誰も知らないので答えに窮してしまう。
テレビを通じて知るような芸能人や俳優、スポーツ選手なんかはトータルで10人ぐらいしか知らないと思う。
ビートたけしぐらいは辛うじて分かるが、それ以下の知名度の人はまったく分からないという有様。
政治家は総理経験者と住んでる地域の候補者ぐらいは分かる。YoutuberだのVtuberだのはもう異世界。
基本的に人のことに興味がないので、どこかで見かけても右から左に抜けて記憶に残っていないと思う。
人の名前が分からないというのは身の回りの人間にも適用される。
学生の頃はずっと同じクラスだったのに最後まで名前を覚えなかった人がいた。
今の職場でも、仕事で直接関わっている人の名前はさすがに覚えているが
直接関わっていなければ同じ部署であっても名前が分からない人が多い。
親戚関係も同じで、幼い頃から家族ぐるみで付き合いがあったにも関わらず
名前を覚えていない人が多く、そもそも親戚に誰がいるのかロクに把握していない。
とにかく人の名前を覚えるのは非常に苦手だ。軽い相貌失認もあるので顔が分からないことも多い。
これまでの人生の中では、この人誰だっけと思いつつも話を合わせるスキルを磨いてなんとか凌いできた。
それ以外の作品はどれだけ有名でもほとんどまったく分からない。
鬼滅の刃やエヴァ、ドラクエ、スタジオジブリクラスでも分からない。
「趣味はなんですか?」「漫画とかは少し読みますね」「鬼滅の刃って面白いですよね」「(鬼滅の刃は知らない…)」
みたいなことになる。
興味の範囲がすごく限定的で、世間の流行にはまったく無頓着なので
趣味が同じ人であっても話しが合わない。
そのくせごく一部の作品については20年来のファンでwikiの編集者をやるほど詳しかったりする。
もうまったく分からない。
世間の流行の音楽というものは幼少期から現在に至るまでまったく分からない。
そもそも音楽が流れていると音楽に集中力を持っていかれてしまうので、何かしながら音楽を聴くのが苦手だ。
音楽が流れていると脳内で耳コピやコード進行の分析を始めてしまって、他の作業がそっちのけになってしまう。
なので音楽自体は得意なのに音楽を聴くのは苦手という変な状況にある。
流行の音楽は好みが合わなかったり若い人向けの音楽に付いていけなかったりというのもあるが、
そもそも聴くこと自体が苦手で、昔から流行の音楽にはまったく付いていけなかった。
流行に左右されないクラシックピアノとかなら、音楽を聴くことだけに集中できる環境なら心地よく聴ける。
カローラとかなんとかとか言われても、それがどこのメーカーなのか、高いのか安いのか、どういう層が乗るのか、どんな形なのか、いつの時代なのかとかまったく分からない。
車の不要な都内に住んでいるせいもあるが。ちなみにペーパードライバーだ。
実家は地方で車社会の中にあるので、この辺の問題は実家に帰った時に強く感じる。
たまに車種の名前で会話されても、それって車なの?と思ってしまう。
最近強く感じるのはこれだ。
20代で結婚して、30代で子供を持ってマンションを買って、みたいな常識的なプランをほとんど知らずに生きてきた。
結婚や子供に関しては、どうせ発達障害を持つ自分にまともな結婚はできないし、結婚したいとも思わないのだが
老後に向けた資産形成という点では将来的なリスクが大きい生き方をしていると最近になって分かってきた。
興味の範囲が限定的で興味のあること以外には無頓着な生き方をしていると、こういう問題も出てくるのだ。
流行の音楽なんて分からなくてもいいが、こればかりは老後にホームレス化するという生存問題に直接つながってくる。