はてなキーワード: 池袋駅とは
インドネシアのスタジアムでの暴動で多数の死者が出た事件で、NHKがあたかも暴力が主原因で170人以上が死んだと取れるような報道をしているが
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20221002/k10013845461000.html
はっきり言って間違いだと思う。素手の暴力でこんなに死者は出ない。
一方、雑踏の事故では簡単にこれだけの死者は出る。だからこれは観客席に催涙弾を打ち込んだ警察が原因と思われる。
日本の警察であればこんな事はまず起きない。だがこれは日本スゴイって話じゃない。ちょいと説明しようと思う。
警察は司法権力機関であるだけでなく、行政としても強い権力を持っている。
だから雑踏に関しても命令する権限があって、人が集まるイベントを届け出なくやったりすると怒られるわけだ。
店の外の行列を放置していれば「ちゃんと店員か警備員雇って整理しなさい」と言われるし「○○という有名人が△△に来てる」っていうデマを流して将棋倒し惹起したら逮捕される。
警備業というのは監督官庁が警察になっていて、更に警察官の天下り先でもある。また社長が警察上がりというケースも多い。
元々警備業はボディガードなどから派生して色々な形態の警備を請け負うようになったのだが、実はその前から同様の警備請負をする人士達が居た。右翼である。
右翼はボディガードだけでなく労働運動潰しなども請負い、暴力の行使や時に殺人も行っていた。更に昔の右翼はヤクザと不可分の所も多かった。
昭和30年代にTVで「ザ・ガードマン」というドラマが放送されると雨後の筍のように警備業者が起業されたのだが、ここに右翼/ヤクザ経営の企業舎弟の会社が大量に入り込んでしまったのである。
警備請負というのは暴力からの防御という仕事が多い。それは即ち対抗するための暴力だ。
一方、警察というのは国家という暴力装置の実行装置だ。暴力装置たる所以は暴力の独占であり、警察をコピーした暴力が世間にあってはならない。
また、道路工事での交通規制でも警備員は必要だが、土建業というのはヤクザの企業舎弟が大変に多い分野だった。つまりヤクザの資金源になってしまう。
という事で警備業法というのが施行され、警備業は警察を監督庁とする許認可事業で、前科がある人間の雇用禁止、警備員は法含む研修必須などが定められ、業務が完全に警察の指揮下に置かれたわけだ。
警察の天下り先って事で、利益誘導の面もあって警備業の派遣先が増える結果にもなった。「これやるなら警備員を何人以上配置せよ。その配置図を出せ」って何かにつけて言われるって訳ね。
因みに以上の経緯から警備員の装備というのは厳しく制限されているよ。例えば警察署の前で長い棒をついた私服警官が立ってる事がよくあるが、あれは実は軍隊と同じ立哨で立ち方も決まっている。持っているのは「警杖」なのだが、あれを警備員が持つことは禁止されてる。警棒の長さや形に制限がある為だ。
日本で雑踏事故が少ないのはこういう戦後の経緯の末に、人が集まる事をせんとする場合は警備員の配置と雑踏警備計画を提出させられるからだ。
雑踏警備での鉄則は「一方通行」と「ボトルネックを無くす」である。これは群衆が流体のような動きをするからだ。
一方通行にしない場合にどうなるというと、「クサビが噛み合った状態」になる。
例えば広いところの間にトンネル通路がある場合で、通路の両側から群衆が押し寄せた場合、通路の入口では「通路の半分からはみ出さない」という動機が働きにくいので通路のほぼいっぱいに広がって進行する。
だがこれは反対側でも同じなので、出口付近では人一人くらいの隙間をぬって通る事になる。
これは上から見ると三角形のクサビが噛み合っているような状態になる。効率的には最小化だ。
後ろから押されているので隊列が狭くなると群衆密度が増す。だが人は一定以下では足の歩みが出来ないので押されてやがて転んでしまう。
後ろの人間は前で起きていることが見えないので前にどんどん進行してくる→それらも更に転倒する、となって、転んだ人とのその手前の人間には数百キロ~数トンの圧力がかかり、皆死んでしまう。
これが通路を対面通行にした時に起きる雑踏事故だ。通路は一方通行が鉄則なのはこういう理由だ。
ボトルネックがあった場合は、細くなる手前で群衆圧力が上がる。
更にボトルネック手前の壁に当たった人間は通路に戻ろうとして横から割り込む→圧力が高いので弾き出される、となってそこでグルグル回って出られなくなったりする。まるで落ち葉だ。
でもそうする事でただでさえ高い群衆密度へ割り込まないとならない人が出て局地的に密度が極度に高くなる→転倒事故、あとは上記の例と同じで死亡事故まっしぐらである。
だから「狭くなる」箇所というのは作ってはいけない。狭い場所があったらそのずっと手前からパイロン等で狭い状態が継続した状態にせねばならない。
「ボトルネックを無くす」の類型に「通路をのばす」というのもある。
立体交差する駅で秋葉原駅は階段一本で山手線と総武線ホームが直接行き来出来るのに、武蔵野線南浦和駅はわざわざ遠回りして通路を歩かされる。不合理だと思った事ないだろうか?
これは秋葉原が通勤ラッシュなどを然程考慮してなかった昭和初期の建設、南浦和が痛勤ラッシュ常態後の昭和後期開業である為で雑踏事故対策なのだ。
電車の降車客は波状的なので、長い通路をダラダラ歩かせてそこで客の波を吸収してしまおうという思想だ。
秋葉原では短い階段でホームに直接客が展開してしまい、群衆密度が高い箇所がホームという危険な状態になってしまう。
地下鉄高田馬場駅の改札はホーム端の先にあるが、2004年頃の改築でホーム中ほどから改札への通路を増設した。
出口は一緒だから一見無意味な改造だ。だが長い通路で吸収して階段の手前で滞留する客がホームに溢れるのを軽減する効果があるのだ。
新潟の神社で行きと帰りの初詣客がかちあって滞留状態になった。そこでやがて参道の石垣が崩れて100人以上の死者。
だが石垣だけに問題があったのではなくて、群衆密度が上がりすぎて路肩にせり出し崩壊したものと思われる。
これは一方通行にしていなかったのが主たる原因の例。
列車が遅延し、混雑が激化して日暮里駅の板張り跨線橋の羽目板が客の圧力に負けて崩壊。転落した客13人が電車に轢かれ8人が死亡した事故。
対面クサビ状態とボトルネックの混合と思われる。跨線橋の角に押し込まれた客が流れに戻れず圧力が高くなって壁崩壊。
雑踏事故じゃなくて暴動なのだが、国労動労の順法闘争の為にダイヤが大きく乱れてカチ切れた乗客が駅員をぶん殴る、電車を悉く破壊するなどで収拾が付かなくなって機動隊が動員されて鎮圧。
翌日から他の駅多数で度たび同じ暴動が発生する国電暴動となって東京はカオス状態に。
大混雑と電車がいつ来るか知れないストレスフルな状態の上にアナウンスもせずにいた為に乗客の怒りメーターがレッドゾーン振り切ったの原因。
なのでこれ以降雑踏では拡声器を使ってうるさい程に行列に関する情報を与えろというのが鉄則となった。
数年前に宇崎ちゃん献血ポスター騒動というのがあった。セクハラっぽいポスターを公益性が高い日赤が使うな!という騒動だ。
この騒動は一枚の写真から始まったのだが、このポスターが掲出されていた場所というのは新宿西口のJRと京王の乗り換え通路である。
ここには「新宿駅西口広場イベントコーナー」というのがあり、その対面に「新宿西口献血ルーム」があって、そこに掲出されたポスターだったのだ。
この「新宿駅西口広場イベントコーナー」だが、実はここは1992年頃まで工事用バリケードなどで塞がれた単なる閉鎖区画だった。
照明もなく、ホコリが積もったままで少ない資材が置かれただけの殺伐としたところで、居心地の悪い場所だった。
実はここが封鎖されていたのは「新宿フォークゲリラ」という騒動による。
ここが広くなっているのは1966年竣工の西口立体化時に地下広場として作られたからなのだが1969年に学生中心のベトナム反戦集会、新宿フォークゲリラが開かれ、機動隊が導入されて解散させれらた。この際、広場として整備されたものを東京都は「通路」に変更するという禁じ手も使用(通路=公道の占拠は道交法違反)。
そこに起きたのが国電暴動で、新宿駅でも暴動が発生。「別に反体制学生じゃなくても暴動起こすのかよ!」と頭を抱えた警視庁と東京都は、別にギター持って屯してた連中と暴動は関係なかったが、万一を恐れて乱雑にこの区画を閉鎖してしまった。
時代が下って最早反体制なども流行らなくなり、閉鎖区画のせいで逆に荒んだ状態になっている元地下広場の有効活用として即売会や催事場としての活用をするようになった。
初めはしょぼかったが、やがて政策アピールの掲示や地産フェアなど商売がうまくなり、綺麗な内装もされて有用なイベントスペースとなってきて人の流れも出来てきた。
そこで対面に献血ルームが出来る事になったわけ。
上記のように日本の警察は雑踏事故防止に関しては極めて有能なんだが、その反面「人が集まる事」を嫌いすぎるきらいがある。
広場否定論なんだな。あんまり人が集まるのを封じてしまうと今度は現在のロシアみたいな事になってしまう恐れもある。
で、最近だと東京駅や池袋駅西口、渋谷駅(予定)みたいにロータリーを追い出して広場を作るという方に行政の方がシフトしてきている。
そういう戦後史と行政史の果てに出来たのが「新宿西口献血ルーム」でそこに掲出されたのがあの宇崎ちゃんポスターだったってわけだ。
あの騒動は色々感情的過ぎたが、でも一方でその辺知ってるとアゴラの復活でもあったって訳なんだな。
という訳で、統率されない人間が大量に集合すると雑踏事故が起きるのはデフォルト状態で、警察行政が力を入れて制御してるから日本じゃ事故があまり起きないのだ。
インドネシアのは警察に問題があり、観客席に催涙弾を撃って視界が乏しくなった客がパニックになったらどうやったって雑踏事故になる。観客席は階段状でそこに下り階段があるという構造ゆえ先が見えなくなるから普段でも危険な構造なのだ。インドネシア警察は雑踏警備の監督指導などを普段からしていないのではないか?
1964年にペルーで同じように暴徒に催涙弾を打ち込んで300人以上が死ぬ事故があったので、そういう事例研究をしていないと思われる。
「警察が私らを人間扱いしていない」との被害者のコメントが報じられているが、インドネシア警察は人間扱いと同時に流体扱いをすべきだった。
いつかロバートの秋山が成人した日にキャバクラに連れられた話を思い出す。
池袋の夜は華やかはあれど、昭和の香りが煙たく漂う古臭い場所だった。
まるで、余市のような。ピートの強さが強調された力強い雰囲気がある。父が過ごした30年前と大して変わらない空気。
バーボンが持つ甘さは、そこに一切存在しない。スコッチの煙たい臭い。それが好きな人間しか受け入れられない古臭い匂い。池袋西口に連れられた私はそんな妄言を考えていた。
新宿の歌舞伎町が、かつて持っていた日本一のネオンが薄れゆく中で、往時の輝きをあいも変わらず放つのは池袋西口なのだろうか。
父とその友人は行きつけの居酒屋に向かう最中に変わらないとの言葉を仕切りに話していた。
この街は変わらないと。
目印的存在であった池袋西口マルイ百貨店が潰れてしまっても、彼らは池袋が変わらないと口にする。
東京芸術劇場を抜けて、すぐの池袋西口公園の外側は永遠と広がる住宅街である。
今では5階建ての立派なマンションに生まれ変わっていたアパート。されど、近所の小学校は当時のままだという。
あぁ、大学一回生の頃に、ここの小学校のプールによく入っていたなぁ。そう話す父は立派な犯罪者だった。
それでも懐古する父の顔はとても粋だ。俺は新歓の日に池袋で飲んで、仲良くなった奴が今日一緒に飲む友人なんだ。
キザすぎるセリフを真実として話す父は最高にかっこつけで、かっこよく見える。
腹が出ていて、癇癪持ちに見えて、陰謀論者の父も、今日ばかりはトップガンのトムクルーズよりもカッコよく見える。
父に連れられた居酒屋は、メニューもないような、よくわからない場所だった。
池袋駅西口から歩いて8分程度。雑居ビルの半地下一階にある、普通なら人が寄りつかないような小さなところ。
父と友人はここに100回以上来ているんだ。詭弁に思えるセリフも、今日は不思議な説得力を持って聞こえた。
どうしても話したかった話があるという。
息子が成人した時にどうしてしたかった話なんだ。
お前が成人してようやく話す時がやってきた。
それは隣にいる友人の父親の話で10年以上温めておいた逸話なんだ。
自信を身に宿して、父は満を持すを体現するように話を切り出した。
その話は友人の結婚式でも話して、今日お前に話すために温めておいたと言っても過言ではない。
じゃあ今から話すぞ。友人の父親は有名な証券会社の役員だったんだ。ちょうどバブル期の頃、ボーナスが数百万円って世界で随分金回りが良かった。
だから友人は成人した時に、父親に銀座のキャバクラに連れられてったらしい。
酔っ払った父親に友人は何を言われたと思う?
その時に俺は、コイツはなんで人生の成功者なんだって思ったんだ。友人の父親がだよ。
友人は自分の父親になんてバカらしいと感じたらしいんだが、俺はとにかく感銘を受けた。
これが人生の成功者なんだって。以来、嫁さんは俺の中の一部だと尊敬している。だからこそ対外的に嫁さんの悪口を俺は一切言ったことがない」
その言葉には、普段とは違った熱がこもっていて、20年間生きてきた中で、私が一度も見たことがない父親の姿。
振り返れば、完全に惚気にしか聞こえないのに。カッコつけられて、かっこいいと思わされた。
そんな私がなぜだか悔しかった。
全国宗教人・日本共産党を支持する会(全国宗教人の会)は19日夕、公示まで2カ月となった参院選での日本共産党の躍進に向け、東京・JR池袋駅前で街頭宣伝しました。山添拓参院東京選挙区予定候補も駆けつけ、ウクライナ支援募金を呼びかけながら、ともに訴えました。
真言宗智山派僧侶の小嶋弘遵(こうじゅん)さん、日本長老教会西武柳沢キリスト教会牧師の星出卓也さん、浅川金刀比羅神社宮司の奥田靖二さん、日本同盟基督教団横浜上野町教会牧師の柴田智悦さん、浄土真宗本願寺派僧侶の小山弘泉さんが宣伝カー上からマイクを握りました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-04-20/2022042004_01_0.html
https://www.fnn.jp/articles/-/5291
2日午後7時過ぎ、東京・新宿の歌舞伎町で1本の110番通報が入った。
警視庁の警察官と東京消防庁の職員が現場に駆け付け、救助活動が行われた。
歌舞伎町の現場には若い女性と下敷きとなった男性の2人が倒れていた。この事故で女性は病院に搬送されたがその後、死亡が確認され、男性は骨折する重傷を負った。
うわあああああああああああああああ
めっちゃこえええええええええええええええええええええええええええええ
2007年11月、東京・豊島区のJR池袋駅前ビルの屋上から当時25歳の女性が飛び降り自殺し、通行人の男性が巻き添えになって死亡した事故に関して警視庁は、「人通りが多い池袋駅前で飛び降りれば、通行人を巻き添えにする危険性があることは十分認識できた」と判断し、女性を重過失致死の疑いで容疑者死亡のまま書類送検した。
死んだ上に書類送検されてて草
池袋駅作った人は立派な人だと思う。
痴漢に憧れていた時期があった。きっかけはたしかミステリーものの小説にあったほんの一場面の描写。女の子の嫌がる様子に興奮を覚えたのがはじめだった。それからはひたすらネットで痴漢もののAVを見るようになった。最初はそれで満足していた。しかし、次第に物足りなくなった。どのAVでも女の子が喘ぎはじめるからだ。本気で嫌がっていないと冷めてしまう。泣いたりショックで固まってしまったりしたら最高なのに。
高校時代、志望校を都会に限定したのはこの悶々とした気持ちが原因だったのかもしれない。
大学生になって都会に出た。車が主流な田舎に住んでいたから電車は新鮮でAVの中に入り込んだようだった。時には満員電車にも乗るようなこともあってそんな時には決まってドキドキした。
痴漢を初めて経験したのは電車にも慣れてきた大学1年生の秋だった。夕方6時の丸ノ内線は部活終わりの中高生で混み合う。バイト終わりがたまたまその時間帯に重なった。お気に入りのドアの近くを陣取り、スマホ越しに楽しそうに話す学生達を観察する。可愛いな。あの子達は痴漢にあったらどんな顔をするんだろう。
そんなことを考えてぼーっとしているといつの間にか電車の奥に流されていた。茗荷谷駅から池袋駅までは人の出入りがほぼ無い。
電車が動き始める。そこにはある一人の魔が差した男がいた。その男は一人に標的を定めた。
選ばれたのはあの可愛い学生たちではなかった。『私』だった。ショックで固まった。その時の私はまさに昔望んで思い描いていたあの女の子だった。
私は家に帰ってすぐにお気に入りだったスカートを迷わずゴミ箱に突っ込んで、そして思った。
もしかしたら私はあの男だったのかもしれない
沢山書いたやで
・実名主義
80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数の社会的人格を持って経済活動する事ができた。
職場で旧姓を使い続けても問題無かった。1986年に米国でマネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。
MDMAが非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。
心臓発作を惹起する為に規制。m.o.v.e.のmotsuが所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。
90年代のクラブではマリファナは普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙で景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員も米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。
・式場での結婚式
1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式、キリスト教教会一般的。
団塊世代のロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻の自由は憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手と結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。
団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。
古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。
1990年頃まで日本人の公共空間でのマナーは先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。
・外国で旅の恥をかき捨てない
かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本人旅行者(特に団体)は眉を顰められる存在だった。
遺跡に名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクターに痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。
これを西洋は宗教倫理の文化で日本は恥の文化、共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。
電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。
この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年頃から段階的に廃止された。
森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバのIIS(インターネットインフォメーションサーバー)サービスでHPを提供していたため。
終業時間になるとサーバとルータの電源を落として帰っていた。サイトの作成は役人の趣味みたいな感じで作っていた。
1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタはパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。
駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口に100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。
民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。
90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両とタクシーの客待ちで二重駐車になっていた。
2000年頃から増える。警察が路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。
和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習。
家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員と交渉で決めるという風になった。この為に店員は電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。
客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。
バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎(1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機と建物袖看板の道路使用料徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。
これに対応して既存機の撤去とスリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。
以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフ、リセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。
2006年ころに一世を風靡したネットブックでSSDが一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。
嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局、銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。
当然平日3時までしかやっていない銀行に会社員が行けるわけがない。
そこで振り込みの為に仕事を中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅。
18才は未成年で飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。
ゼミの飲み会で普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。
・線路を歩かない
都電やローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関が線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。
90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故が連続し、その後厳しくなっていった。
初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキーは酩酊するからダメ」と書かれている。
・小銭を所持しないで外出
1000円札の読み取り装置が一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道の券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。
この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。
1989年の消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉は公共料金以外殆ど使われていなかった。
・個室
和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。
・個人
家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員のプライバシーに踏み込む」という感覚が余りなかった。
「会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。
ウオークマンは街で個人的空間に浸るものだとして批判の対象になった。個人主義はそれ自体が罵倒文句だった。
全共闘運動はあらゆる権威を攻撃し、大学の知の権威というものも破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態が継続。やがて学生は脱政治化したが大学や学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。
90年前後の大学改革でICUや上智の比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり、学生が勉強するという当たり前の状態が復活した。
この為に卒業年1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。
・様々な塩製品
塩は国家専売品だったので専売公社の製造する塩以外の岩塩、ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可と標識の掲出が必要だった。
・「メイド喫茶」などの語
「メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制や階級制の象徴のような職業であって、戦後の身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤が一般的な「雇用」となった。
一周回ってメイドの構造が過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。
・キャノーラ油
キャノーラ油の原料は菜種。
米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。
米国で生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。
過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法が改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。
1991年に大店法が改正されるまではデパートの閉店時間はPM6時、スーパーの閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。
基本的に地元の商工会の意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正が商店街の全滅に繋がった。
・生ビール
ビールは酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール。
この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。
1970年代末にサントリーがフィルターで酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。
だから地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品の生ビールはサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。
バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。
それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。
これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導の対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。
1990年から。1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業の有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去。札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的。
1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。
冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまち、ひとめぼれが席巻するようになった。
駐車違反にバイクと車の別はないが、バイクの駐車違反は2006年まで摘発されていなかった。摘発を民間に委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗に駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。
・大学生の専攻無し
学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行や福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から。
引用URLは無い。ネットとかTVでの池袋の扱い全般への反駁&雑語りと思ってくれい。
これ嘘だから!元池袋史跡公園っていうのを豊島区がこしらえちゃってるけどこれ嘘だから!
あのさ、駅周辺のこの辺が池袋になったのって日本鉄道が池袋駅を開設してからの事なんだけど?
それまで池袋っていうのは東上線二駅目の下板橋駅周辺が池袋だったの。今でもこの辺は「池袋本町」って地名でこれは池袋本村、池袋村のメインの集落だった所なのよ。
「袋」っていう地名は川が湾曲してその内側の土地の事を指すのな。江戸袋とか大袋とか色々あるがみんなそう。
今は暗渠化された谷端川っていう川が屈曲しててその内側の高台が池袋本町(村)。池やら沼があったんじゃないかと言われているが記録が残ってないので池が付いた理由は不明だ。
そもそもこの元池袋史跡公園がある場所っていうのは昔は雑司ヶ谷村だったのな。池袋村と雑司ヶ谷村の境界は大体今の池袋駅南通路の辺り。
それなのに遥か数キロも離れた池袋村の名の由来になるはず無いだろ。豊島区は誤解の元だからあの公園撤去するか説明書書き換えろってーの。
余談だが山の手の台地の上で井戸を7~10m程掘ると水が出てくるんだが、それって粘土の関東ローム層の下に砂礫層があるから。だからこの谷端川がそれだけ谷を刻んだ下流では小石だらけになる。なので下流は小石川って呼ばれて地名にもなってる。
東京山の手って山あり谷ありって言われるけど、そうじゃなくて谷だけがある地形なんだな。富士山と伊豆の山が噴火した火山灰が積み重なって西高東低のかなり緩い勾配のまっ平らな台地ができた。
ここに多数の小河川が切り込みを入れた地形になっている。だから尾根の部分はほぼまっ平らな訳です。これは国道246の赤坂→渋谷手前とか国道254の春日→池袋六差路とかを走れば判る。この二つは尾根道の街道を車道化したものでとにかくまっ平ら。
因みに上野~赤羽等の線で台地がきっぱり切れ落ちて下町になってるのは海進時にそこからが海だったから。
というか、台地はもっと東に伸びていたが波に削られて海食崖が後退したと考える方が自然。上野~赤羽って京浜東北線に乗れば判るが崖が真っすぐでしょう?これって海食崖の特徴ですわ。
あと、陸地が角になっている所って波の入射方向、角の先に真っすぐな海岸線が延長されるように砂嘴や砂州が出来るけど、上野、赤羽の角地形の先には砂嘴の痕跡がありますよ。上野の場合は根岸砂州というのがあり微高地になっていてこの上に日光街道、千住宿が作られていた。赤羽の方は名前不詳なれど川口、戸田の喜沢の辺りに筋状の微高地がある。
脱線したがこういう地形だから山の手ではまっ平らな尾根部分では水を引けない。だから水田は出来ない。水利は限られたもので貴重だった。
農村である雑司ヶ谷村の水源だけ池袋村に属してる訳無いし(トラブルの元だ)、遥か離れた他村の水源地の名前に因んで池袋の村名が決まる訳ないやろ。
だから駅周辺が池袋になったのは駅が出来て以後の事なのだ。因みに古典落語でも池袋は結構出てくるんだけど、当然それは下板橋駅周辺の事ですよ。
駅にはそこに至る道路があるのが当たり前。でもそれは今の事であって日本鉄道って鉄道が官営鉄道1本しか無い時代に鉄道を敷いた道なき道を行くパイオニアだった訳。だから日本鉄道側が既存の街道に面して駅を作らなきゃいけない。
でも江戸時代には道路というのは軍事施設でもあった。だから数少ない街道以外は道らしきものはない。勝手に道を普請して罰せられたケースは数多くあり、その殆どは死刑だった。
それで、品川線(現山手線~赤羽線)から新規開業する土浦線(現常磐線 当初の始発駅は田端)に繋げたい日本鉄道は目白分岐としたかったが、雑司ヶ谷村に難色を示され更に巣鴨村に建設予定の近代的監獄(巣鴨拘置所、現サンシャイン)に重なると政府にダメ出しされてしまう。
そこで目白の北側のまっ平らな辺りで分岐する事にした。ここまではよく説明される事だ。
問題はここからで、雑木林しかない、集落すらない場所で乗客が駅に来れる様にするにはどうすればよいか?
中山道板橋宿の平尾追分から川越街道(現首都高中央環状線JCT~大山サンロード~ハッピーロード)が分岐し、そこから直ぐに分岐して雑司ヶ谷を抜けて早稲田に至る雑司ヶ谷道という道があった。これは金井窪~ローソンストア100池袋本町1丁目店を右折して平和通り~WEロード~明治通り~鬼子母神電停前~と続く現存する道だ。
この道と日本鉄道の線路が交わる所は踏切になっていた。駅を設置するならここしか無い。他に適当な街道に接近するところがないからね。
って事で今のP'パルコの左側に駅が作られることになったのだ。WEロードの正式名称は雑司が谷隧道だ。線路が増えすぎて踏切では危ないのでガードになったのだな。
Wikipediaの池袋駅の項には日本鉄道時代の駅の写真が貼られている。
これはWEロードの前身の踏切から撮られたもんだ。場所はP’パルコの裏手。
なのでこの汚いガード(の前身の踏切)は池袋の全ての始まりなんであるのよ。
サンシャインの前身は巣鴨プリズンで有名だがそれは東京裁判が決する迄の一時期で、東京拘置所だった。
東京拘置所を小菅に移転して跡地の再開発の話になった時に周囲の地権者、縁故者を集めて合意形成の場が開かれることになった。
ここで特に問題になったのが池袋駅直通地下街の建造で、強硬な反対派が居てその筆頭が東口の洋菓子店タカセだった。当時タカセは小売店の有力な顔役だった。地下道ができたら当然人の流れは変わり地面店は売上激減する。
その為に駅直結地下道の話は流れてしまい。東急ハンズ横からの短い地下道と東池袋駅がアクセスルートとなる中途半端な形になってしまった。
この地下道建設流れで当時タカセの地元での評判はかなり低下したらしい。
しかしその後の埼玉の植民地化=池袋駅~ハンズの学生向けの店舗の隆盛を見れば反対して正解だったとしか思えない。通路を兼ねた地下街なんてどうせ碌な集客力がない。そもそもハンズ前の道には丸の内線が埋まっているから地下街の幅は取れないんである。
なので学生向け店舗の経営者は出退勤の途上に今はやや寂れた感のあるタカセ前で一礼すべきである。若年向けのP’パルコだって地下道があったら出来てなかっただろう。P' のテナント一同もタカセ参りはすべきである。
ここなんだけど、池袋行く人でここのおかしさに気づく人ってどれだけいるだろう?
https://goo.gl/maps/UQN2f86tQk8xXQPv5
逆を向いてほしい。西武の搬入口だけがある。なのに信号機で管制されている。何故だろうか?
そのわけは南のびっくりガードの途中にある。
https://goo.gl/maps/BR5VUwN7iYPUv5Zx5
ここから入るとJR線路と西武線の間の空き地に出る(入っちゃダメよ)。実は当初のびっくりガードはここを上がってから西武線を踏切で渡って明治通りに出るというルートだった。
この坂の上はJR用地で昔は国鉄の貨物駅だった。つまり初代びっくりガードは国鉄をガードで潜って直角に折れて急坂を上り国鉄貨物駅の中を通り西武線を踏切で渡る。そして出てきた先がさっきの搬入口前の交叉点だったって訳。
現在の中央東口っていうのは元は西武線の改札だった所で、西武が運営するデパート、武蔵野デパートはエルメスがあるあたりにちょこんとあった。
しかし当時の西武の社長は貪欲な堤康次郎と堤義明。もっともっと増床だ!でも駅が邪魔だ!ならば線路を縮めて駅を向こうに追っ払えばいいじゃん。
という事で駅をずらすのに邪魔な踏切は廃止。その代わりに国鉄ガードの延長にガードを作った。そして踏切跡はデパート搬入口に転用。
井の頭線渋谷駅や世田谷線三軒茶屋駅とか、商業ビル建てるために駅をその向こうに追いやって客はその分歩けっていう工事するのがあるじゃないすか。あれムカつきますよね。
こういう訳で「西武デパートの搬入口だけの為に信号がある」状態が生まれた。一見それに見えなかったものがトマソン的である事を発見するとその由来が見えてくるって事ですわ。そしてびっくりガードなんて間抜けな名前が公的に使用されてる事の方がびっくりだわ。
昭和29年に地下鉄丸の内線が開通することになりそれに合わせて建築されたビルが結構残っている。LABIの建物が代表格でここは元三越。今も所有者は三越な筈。
昭和28年頃の完成なので今でも売り場の裏は非常~に古い。客用エレベータもエレガ時代は真鍮蛇腹式だった。それでは客がセルフオペ出来ないのでかごは替えられてしまった(着床位置も手動ハンドルで調整する方式だった)。
LABIの裏にマックがあるがここは三越が所有していて地下にLABIの搬入通路がある。マックの裏の建物はLABIの搬入口になっている。
新しそうなパルコも昭和32年竣工の東京丸物デパートの居抜き。
昔は携帯電話が無かったから待ち合わせ場所を家の電話で打ち合わせておく必要があった。新宿駅や東京駅には待ち合わせ場所としてアルプス広場や銀の鈴があるが池袋駅には無かった。
そこで末期の国鉄の人らが考えて作ったのがいけふくろう。いけぶくろだからいけふくろう。
国鉄はそれまでの親方日の丸体質ではダメな状況に至り、色々とサービスアップの為の試行錯誤をしていた。現在のJRより熱心だったが如何せんセンスがダサい。
いけふくろうもかなりの失笑を買ったと言われているがその後豊島区などがフクロウの里などの歴史修正主義を始め定着するに至った。
いけふくろう像があるのは北通路の階段付近という半端な場所だがこれはパルコの土地ぎりぎりのJRの土地であるから。いけふくろうのダジャレを考えた国鉄マンの同定をしなくていいのだろうか?疑問である。
サンシャインの地下駐車場のそのまた下には地域冷暖房の施設があって付近のビクトリアスポーツや東池袋駅やハンズのビルなどに熱供給を行っている。
これは触れている本やサイト、番組が多いが、実はその下に東電の変電所がある。これはサンシャインで働く人も知らない秘密なのだが、数年前にあった新座でのケーブル火災による東京大停電での停電地域によって変電所の場所が割れてしまった。
城北線豊島変電所というのがここで、終端変電所は内幸町の東電本社の地下である。
https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/hoan_shohi/denryoku_anzen/pdf/014_06_00.pdf
雑司ヶ谷道の駅北側は戦後商店街となって平和通りと名付けられた。だがどういう訳だかヤクザの事務所がこの道路沿いに林立するようになり、やがて抗争が勃発、殺し合いまで始まった。
90年代後半になるまで路上駐車というのはルーズに見逃されておりその辺にとめるドライバーが多かったが、事情を知らぬ者は平和通りの組事務所前にとめてしまう。
玄関前塞いで車止められたら誰でもいい気分はしないが組となればメンツの問題でもある。戻ってきたドライバーはそのまま事務所にお持ち帰りとなって凄まれ絞られ少なくない詫び賃を置いていく羽目になる者もいた。
お巡りさんに泣きついても「こんな通りに駐車したら身の危険になるのは当たり前でしょ」と説諭される始末。平和通りなのに。
やがて銃撃事件などが相次ぎ非常線で封鎖される事もしばしばとなった。シャブで錯乱したヤクザが突然暴行を加えたり物を破壊したり自分を刺して血だらけで歩いていたり警察に保護具で簀巻きにされている所がみられる事もあった。結構な高頻度で。北口のレンタルビデオ店G〇〇が入居するマンションなどは上がほぼすべて893となってしまった事で有名だった。
暴力団新法の施行でヤクザは激減してこれらの風物詩は過去のものとなった。
あの事故のあった道路はほぼ直線なのだがどういう訳か事故が多い。飯塚のは運動能力の問題だろうがスピードを出しすぎる車&Jウオークする歩行者両方に問題があるケースが多い。見通しが良すぎて油断するのだろう。
過去の事例では130km/hで邁進するフェアレディZがUターン中の1Boxカーに衝撃して1Boxの助手席女性が死亡するという事故があったが、普通Uターン側にも責任が問われる所、相手の速度が速すぎて予見不能として1Box運転者に無罪判決が出るという事件があった。
10年近く争っての事だが異例な判決である。その後も事故が続くので信号機を増やしたりしたのだがあんな予見困難な大事故が起きてしまった。
池袋にいわゆる駅ビルみたいなものはなくてデパートばかりだが、戦争で駅舎が燃えてしまったので戦後に鉄筋コンクリートで国鉄駅舎というのを作った…のだが直後に民間資本の建物を誘致する民衆ビル構想が立ち上がったので駅ビルは解体され丸物(現パルコ)や西武のデパートが建つ事になった。計画性無さすぎである。いや勢いがあったのか。
開通当時は武蔵野鉄道(買収)→西武、東上鉄道(買収)→東武だったから最初は変じゃなかったよってのが定番の豆知識記事だが、「東に東武」もあった。
サンシャイン手前~飯塚事故現場辺りの一帯は戦前東武鉄道の根津嘉一郎が所有しており根津山と呼ばれていた。雑木林だらけの池袋駅~護国寺に道路と都電を通す事になり全部手放したのである。
池袋東側の住人なら赤尾敏は誰でも知ってるけど日ころとか朝生とかに出てるらしい赤尾由美見た事ある人いない。だってあんた道場に居なかったじゃんよ。何赤尾敏赤尾敏って名前使ってるの?
お祭りには欠かさず来るね。で、それだけで「地元の人」って認知受けちゃう。贅六の落下傘なんだけどな。
常識的な感性を持った謙虚な人間であれば、通常、「東市来駅だなんて言っても通じないだろうし、そもそもムダな情報だから、"最寄り駅"とでも言おう」と思うんだ
これは必ずしも、東市来がド田舎の破滅駅だからってわけじゃねえ
鹿児島中央駅でもそうなんだ
言うにしたって"県庁所在地の駅"くらいに留めておく それが奥ゆかしさってものなんだ
魂の腐りきった傲慢23区在住糞人間は違っていて、なぜか、いちいち、絶対に、具体的な駅名を出す
本当になんでなんだよ
誰もテメーのクソつまらんウンコみたいなエピソードに興味持ってないんだから、できるだけ枝葉は削ぎ落として欲しいんですよね
まあ、さいわい、皆さんがなぜか虫のようにおんなじ習性を持っているおかげで、「おっ、突然知らない駅名が出てきたぞ、なんか大事な要素なのかな?」なんて思う必要はないんだけどさ
「アッ、聞かれてもねえのに突然駅名を出してきたぞこのカス、ってことはこいつは23区を居住圏にしてる薄汚ねえ虫けらで、この駅はそういう穢れた駅なんだな」、と思えばOK
そういう意味じゃあ案外ノイズにはならないといえばならないんだが、やっぱし鬱陶しいものは鬱陶しいし、できることならやめてほしい
やめてほしいし、(自粛)
ああもう東京野郎どもがよお 「新宿のカレー屋」なんてド・ローカルネタに900もブクマをつけていてムカつく 新宿、どの程度広いか知らねえけど、規模で言ったら川西能勢口とかそんなもんだろ 俺は川西能勢口のうまいカレー屋記事に900ブクマがつく世界だったら新宿記事も笑って流せたが、実際にはそういう記事は0〜3ブクマに終わる世界なので義憤を覚えるしかない 東京人間に悪意がないのはわかるが、やはり、それにしたって、無邪気に振る舞いすぎではないか 普段「特権を意識しろ」なんて言ってるノリのサイトなんだから、東京特権を意識して、もうすこし慎ましやかにしていることはできねえのか どーでもいいが、この前「別れ話は普段行かないところでするようにする、思い出す機会を減らすために」って趣旨の話にたいして「私はそこまで考えが至らず池袋駅でフラれてしまった」つってる人間がいて地味にムカついた 「良く使う駅」でいいだろ「良く使う駅」で これが桂駅とか庄内駅だったらぜってえ固有名出さないんだよ なぜなら出しても意味ないし、伝わらないから それが池袋だとなんか出していい雰囲気がある 伝わってしまうから いや厳密に言うと伝わってないですけどね 池袋がどんな立ち位置の駅なのかとか知らねえし、知る機会があったとして絶対に知らないようにしたい 俺は東京のことを可能な限り知らないようにすると言う形でプロテストを行いたい とにかく、インターネットの目立つところで毎日のように知らん土地の地元トークが繰り広げられている不快感を想像してみてほしいんだよな それが毎日日替わりで津々浦々の地元トークなら全然いいしむしろ楽しめるんだけど、トウキョウとかいうダッセェ響き・キショい訛りのおんなじ街の話題を毎日毎日毎日毎日…… 興味ねえんだよ うざったいんですわ ビビッドアーミーの広告のほうがまだしも不快感がない 本当にうざい ウザ・キモい
https://anond.hatelabo.jp/20200716235904
の増田とそのトラバ・ブコメを一覧にまとめました。誤字・誤記等ありましたらお知らせください。可能な範囲で対応させて頂きます。
夕張メロンソフトクリームなど。じゃがポックルも売っている。混雑しやすく週末などは入場制限もかかるらしいので密にお気をつけて。
とても充実している。サッポロクラシックとさけとばチップ、カチョカバロ(焼いて食べるチーズ)が元増田のおすすめ。西山製麺の麺類の品揃えがすごい。
北海道フーディストの系列店らしく東京以外でも全国展開されている。
函館のアンテナショップがあるらしい(https://bussan.hakodate.jp/localshop/)。
銀座からは少し離れているが、スーパーに近い品揃えの豊富さで海のものも山のものもある。小岩井ソフトクリームは元増田/ブクマ双方で美味しいとの評。瓶入り生うに(not塩水うに)は必買とのブクマ談。
牛タン推し。今なら期間限定で萩の月も買える。お勧めは喜久福(生クリーム大福)、生どら焼き、三角油揚げ、ほやの塩辛。冬季に時々「霜ばしら」という飴菓子が売り出される。東北新幹線で車内販売している「ほや酔明」も取扱あり。2階の牛タン屋も美味しい。
バター餅をいつでも買える。ババヘラアイスはないようだがソフトクリームとババヘラクッキーが買える。
物産品のほか奥にレストランも併設されており、酒、米、稲庭うどん、比内地鶏、山菜など幅広く美味を味わえる。
直送野菜・野菜の加工品等沢山あり普段使いできる。同じビル内に山形の食材を使った上品で美味なおしゃれイタリアンのコースを食べられる店(ヤマガタ サンダンデロ)がある。玉こんにゃくがおすすめ。
飯豊町産ブランド米を使ったおにぎりがメインの店舗。物産の取り扱いも。
週替わり(?)で様々な喜多方ラーメンの店が出店している(夕方以降は売り切れに注意)。酒の種類が非常に豊富。美味しい生鮮野菜、桃・ぶどうの珍しい品種などが買え、桃のシーズンは桃をまるごと乗せたソフトクリームが食べられる。電話注文で発送してくれるらしい(https://midette.com/9680/)。
鉄板の納豆の他、あんこう、メロン、笠間焼など。メロンパン・メロンパフェが美味しく品揃えが良い。
県民おすすめのレモン牛乳がおいしい。蒸かしたじゃが芋に衣をつけて揚げたいもフライも素朴な味わいが楽しめる。
ぐんまちゃんに会える日もある。トラバ増田のおすすめは「かいこチョコレート」。インスタ映え間違いなし(……)
その他の東京の小売店については→ https://www.pref.saitama.lg.jp/b0101/saitama-meibutsu/index.html
大島や八丈島など東京の島々の特産品を取り扱っている。ネットショップでも購入可。
燕三条(金属加工の街)ゆかりのキッチン便利グッズが妙に豊富で面白い。元々物販系だったがリニューアルにより食べ物や酒類も少し増えた。
包丁・はさみ・爪切りなど鋭利な金属推し。栃尾揚げは人気のためか売り切れが多い。スーパーマーケットのように普段使いできる品揃え。
比較的新しい。バーコーナーで富山の日本酒の飲み比べができ、常時約20種の日本酒から3種類を選べる。かまぼこやサバのなれずし等つまみも旨い。奥の方には本格的な和食の店もある。観光案内もやっている。ホタルイカの一夜干し、銘菓甘金丹・月世界などが旨い。
フグの卵巣の粕漬けが売っていて鍋の締めの雑炊に混ぜるととても旨い。塩気が強いため使う量は少量で済み、値段も800円程度。金箔ソフトクリーム、能登牛、烏賊丼などのイートインもおすすめ。
物販系のアンテナショップ。越前漆器などの伝統工芸品が非常に美しい。
いつでも信玄餅を買える。
ちょっと笑う感じでりんご押し。色々な種類のりんごが売っている。広さはさほどない。丸山珈琲(軽井沢)が各種置いてある。
所在:上野/鶯谷(岐阜ホール/https://dailyportalz.jp/kiji/gifu-hole)
日本茶を飲める店。東京駅でもうなぎパイV.S.O.P.が買える。
最近話題の伊勢うどんが食べられる。新しいビルの路面店で狭い。手裏剣なども売っている。
鮒ずしが買える。ほうじ茶が旨い。1Fのバーカウンターで「お試し鮒ずし」と滋賀の日本酒を併せて楽しめる。
粉ものメイン。コーヒー、ミックスジュース、ソフトクリームなど。ブコメによるとどん兵衛の西日本味や製造中止となったカールが買えるとのこと。
でかいせんとさんが軒先に立っている。柿の葉寿司と油揚げが旨く晩酌におすすめ。
日本橋にあったが日比谷に移転。新米の季節の仁多米、日本酒などのほか柚子の皮の砂糖漬けが美味しい。出西窯、湯町窯という民藝ブランド窯の食器がおすすめ。
国産無農薬レモンやカープソース(お好み焼きソース)、広島カープの土産が買える。旨いお好み焼き屋もある。「この世界の片隅に」などアニメとのタイアップ企画をしていた。柑橘ジェラートが充実。B1の瀬戸内ダイニング「遠音近音」も美味しい。くにひろ屋のブランデーケーキは5個パック/10個入のみ取扱い。
フグのひれ酒の「ひれ」だけを売っているので冬場などにひれ酒を楽しめる。
小豆島のアンテナショップ。特産の生そうめんがある。2階ではうどんも食べられる。
ゆずアイス、紅茶ソフトなどがあった。しょうが推しか。リュウキュウ、のれそれ、どろめ、ヤマテパン、土佐鶴の天平など都内では珍しい地元名産品を買える。併設レストランのカツオのたたきはもちろん旨い。
あまおうソフトクリームなどの飲食提供有。お菓子、うまかっちゃんのいろんな味セットなど。「スタッフが好きなもの」でまとめたコーナーがある。梅ヶ枝餅も買える。
壱岐で獲れた魚、種類豊富なカステラ、あごだし、五島うどん、波佐見焼など目でも舌でも楽しめる品揃え。たまにV・ファーレン長崎の名物マスコットが一日店長をしているらしい。
イートインが併設。
くまモンのプレゼンスがでかい。くまモンモンキー(オートバイ)展示があった。いきなり団子がおすすめ。東京の普通のスーパーではなかなか売っていない馬刺しを買える。
温泉(足湯)がある。かぼすソフトクリーム、かぼすサイダーなどの飲食提供有。
マンゴーソフトクリーム、甘乳蘇ソフトクリームなど。併設レストランのランチ定食「お刺身とチキン南蛮焚き餃子のセット」が別トラバ増田のおすすめ。水に溶くだけで作れる冷や汁の素が売っている。
老舗?の物産館。さつま揚げ(鹿児島県人はそう呼ばない)が旨い。東京のスーパーでは売っていないムチムチしたさつま揚げが食べられる。併設レストランの黒豚しゃぶしゃぶランチも美味。3Fにも食器類がある。
広々としていて店の奥の方にサーターアンダーギー、沖縄そば、ブルーシールのイートインスペースがある。泡盛が充実している。「シーサーがいっぱい」という黒飴、練り唐辛子ペースト、もずくの天ぷらなどがおすすめ。
東日本の食品を中心とした、JR東日本グループの地産品ショップ。ほか池袋駅にレストラン、上野駅に居酒屋としても展開。
架空の「地方のスーパーチェーン」にいるような気持になれる。富山の豆腐の味噌漬けが美味しい。
全国各地の特産品が販売されている「日本百貨店」他。1店舗で全国が揃う感じ。
こちらも食品/物産/カフェ/レストラン等4F建て1店舗で全国特産を網羅。
ローカルスーパーで地元の特産品を買った際には冷凍焼き芋と冷凍枝豆を保冷剤に使うとよい。
※755ブクマ時点までの元増田・トラバ・ブクマの情報を反映しました。字数制限に引っかかって追記が難しく、頂いた情報全てを反映できず申し訳ありません。
※この話は一応現実のものとして書いてありますが一部えっそれガチで言ってるの?と思われそうな箇所が多々あります。
妄想か現実かは貴方自身で判断してください。まあなんか暇つぶしに下手な小説読むようなノリでどうぞ
※長いですし文章も下手なので読みにくいと思います。記憶もおぼろげな部分もあります。ご了承ください。
※いじめやストーカーなど胸糞悪い話ばかりで救いがあまりないですがそれでも大丈夫という方はどうぞ
登場人物紹介
私:かれこれ十数年以上オタクやってる同人女。二次元から三次元までいろいろ手を出してる。BLでもなんでも好き。かわいくはない。
友人S子:高校の友人そのいち。かわいい。鹿の間ちゃんに似てる。
友人Y?:M美の友人。一応友人(?)
友人G:高校の友人そのさん。実家が元レストランのパン屋。この話では影が薄い。
その日車で京都に出かけた、私祖母父の三人はサービスエリアでそばを食べていた。その次のサービスエリアでは、おいしそうなせんべいが売っていたのでせんべいを買うことになった。途中トイレに立ち寄ったり、たぬきを買ったりとのんびり観光を楽しんでいた。のだが。何処かおかしい。知らない店員にお疲れ様ですと言われたりいろいろ変なところはあった。のだけれどそう考えるのもきっと疲れてるからだろうと思い、全部流した。
また短期派遣の職場の人がいたのだ。でもまあいるくらいならいいかと思った私はそのままぼうっとし、父はロビーで受付を始めた。そのホテルの受付の男は何故か私に向き直るとお疲れ様ですと悪意たっぷりに笑った。またか。無視をして父と立ち話をしていると無視するなよおい、と言われた。客にそんな口調をするホテルの従業員がいるのか?これは幻聴か?幻覚か?めんどくさくなった私はそのままスルーした。
そして夕食を食べに行こうと三人で夜の街に繰り出した。途中、キスがどうとか大声で喋る不審な三人を見かけたがまあいつもの不審者だなと流した。
不審な人たちはデパートまでの道のりを一緒に歩いてきた。デパートに着き、エスカレーターを上っている最中もねえほらあの人いるよ!と猿女が騒ぐのも無視した。あっねえ無視?、とぼそっと言ってるのが小さく聞こえた。ちょっと面白かった。
そのあとはホテルに戻り眠ろうとしたがなかなか寝付けずにいた。深夜にコンコンとノックをされだいぶ追い詰められてきた私は「集団ストーカー 県名」で検索し出てきたホームページの電話番号に電話した。深夜に。
当然出ないものだと思った電話は繋がり、後日謎の担当者と話をするのだが、最後に捨て台詞のように特に男女の仲についてはみたいなことを意味深に言われる。なんやねん。いつも思うけど意味深に笑ったり喋ったりお前らはアニメか漫画の登場人物か何かか?
次の日朝から厄払いをしてもらいに寺へ行こうと変な道を歩いていた。辿り着いた先であ、来たよーと言われたのでとりあえずこの写真だけ撮って別の場所へ行くことにした。
お土産の阿闍梨餅を買いに駅前の売店へ出かけたとき、売り切れていたそれを前に後ろの方で大爆笑が聞こえてきたが無視をした。
適当に饅頭を選び買いに行くと売店のおばちゃんがちょっと訝し気に?こちらを見た気がしたが気のせいと思うことにした。
父が阿闍梨餅を買おうと本店に向かう途中、駐車場に車を置いた私たちは歩いて本店まで向かっていた。途中中学生の群れやまた例の職場の人たちの群れがいた気がしたが気のせいということにし、(途中の喫茶店で私と祖母が言った言葉を復唱される。そこで祖母がえっていう顔をする。)阿闍梨餅を買って京都を出発することにした。
途中のサービスエリアで中華料理を食べていた私たちはすぐ後ろで「こいつLINEがどう~いじめがどう~」などと語っている男がいたが無視をした。あれこれ考えるのもめんどくさかった。めんどーい。
車で留守番しているときに枕にしようと上着を脱いだら横の車の中にいた男に目を剥いて驚かれ、そのあとすぐ父に「裸になるかと思った、だってよ」と言われ(おそらく彼らにそう言われたらしい)とりあえず基地外なんだなと思った。
旅行当日、早朝から奴らは一般車降車場に現れた。荷物を抱えてついてくる気満々らしい。とりあえずスルーして新幹線に乗り込む。この後駅のホームからすべて後をつけてくることになる。
東京に着き、同人誌を買うついでに売ろうと思って池袋駅に降りたが売る本を忘れた私はそのまま別の駅に移動することに。(何でこの駅降りたんだ?(笑)とのちにいじられる。)
丸の内でショッピングをしようとしたが、案の定迷って目的地にたどり着けない。しょうがなく早めの昼食を取る。そこで〇〇さんがさぁ~と名指しで言われる。とりあえずスルーしてお茶づけを食す。確か美味しかったはず。
その後うろうろと目的地を探したがやはり見つからず(お茶漬け屋さんはおそらく奴らが群がりめちゃくちゃ繁盛していた。私様様である。)とりあえず銀座あたりに移動することにした。夏なのでめちゃくちゃ暑いのだが休憩なしで歩き続け(グーグルマップが何処かの社屋に導いてくれたのでそこへ無理矢理入ってエスカレーターを下り出口に出ると奴らが待ち構えて待ってたよ(笑)みたいな感じで笑ってた。とりあえずスルーして外に出た)(奴らの一人の女の子?はバテながらフラフラとロフトに入っていった)ついでにとロフトに行くことにした。ロフトに入ったが、特に欲しいものもなかったのでそのまま別の場所に移動することにした。
好きなブランドのアパレルショップがあったので入ってみることにした。
欲しい服が買えてホクホクしていると、店員さんに話しかけている、見たことあるような気がする人がいた。何を言われたのか、店員さんはえっと顔を曇らせこちらを見てきた。
そんなこんなでライブ会場に辿り着き、グッズ販売の列に並んだ。後ろからはアーティストの声が幼稚だわ子供みたいだと散々似たような悪口を言う奴らが後ろから来ていた。グッズの販売状況が放送で流れる中、売り切れたら面白いのになとか散々言ってた。
グッズを普通に買えて地面に座ってて、急に立とうとしたら立ち眩みが起きて地面に戻るんだけどそれを見てめまいと勘違いした人が「頑張れ~」とにやにやしながら声をかけてきた。スルーした。
チケットが心配になった私は交差点でリュックを脇に抱えて確認していると盗むかと思った?と笑われた。
ホテルに戻りシャワーをして着替えると会場内の席のすぐ近くまで奴らがいた。(コンビニでチケット発券する際、後ろに元職場の人がいたからか、店員のおばちゃんが何かしたかどれか)が、まあ無視をして楽しんだ。天使かよと思った。泣いた。
そんなこんなでホテルに帰り、廊下に彼らが(部屋にも入らずに)いたときもめんどくさくてそのまま無防備に部屋に入りすぐ寝た。(風呂にも入らずにと笑われたので部屋の中を覗かれていたとあとで知ることになる)
次の日、母と合流しディズニーランドへ行くことにした。
ランドでは
・お土産物屋さんでノートとペンを買っているとこんなもの何に使うんだよとぐちぐち言っていた
・並んでいるときにすぐ後ろでコンタクトがどうとか言い出して(私は普段眼鏡でたまにコンタクトである)こっちをじっと睨むこともあった
帰りの電車内で男が椎名林檎のきらきら武士を歌いだし、(これがのちのフラグ?になるのだが、歌詞の遠回しな諷喩が未だによくわからない。死ぬほど嫌いってこと?)子供がどうとか言い出す男たちがいたり、せまいショップ内入口をぞろぞろとドラクエのようについて来て、やっぱりいいと母が出ようとしたときもついて来た。
ご飯を食べようと入った店に奴らがいてげらげら笑われたり店員さんにじっと睨まれたり座ってた椅子を見たらちょっとだけ赤く染まってて(生理でなかった。タバスコと思われる)それを見た奴らにまたげらげら笑われたけど皆無視しました。
あとは知らないスーツの男に睨まれたり。大丸東京店でついったーにも食べたいと載せてたレモンパイを買おうとするとお疲れ様ですと言われたり、土産を買おうとすると何故か無言になり暗い顔されたり(部下?がどうしたんですかと聞いていた)したけどまあそんなこんなで東京旅行は終わる。
次はMとS子とYと私で飲み会に誘われた話。
怪しんでいた三人(と二人)との飲み会だというので嫌な予感がしながらもついていった。
バーではやはりというか例の人たちが後ろにいてバイがどうとか言っていた。(?)まあそれはいいとして、三人で話していると意図的に会話に入らせないようにしているのがわかった(例:私の知らないMの職場?の話などをする)やがてトイレから帰ると私の携帯を覗いていたような発言をチラッとされた。チラッとだったのでそれもスルー。見られて困るようなものはなかった。次に歩くには距離のあるカラオケに行きたいとせがまれ(おそらく最後に行った合コンの場所だったからだろう)なんで?と聞くと途端に機嫌を悪くするY。面白い。普通に近くのカラオケに行くことになった。
カラオケではきらきら武士を目をにやつきながら歌うS子に、大嫌い(曲名)歌ってもいい?とか聞くYにうれしい楽しい大好きっを歌おうとするMがいたのでまあそうなんだろな(?)と思う。
途中S子と二人きりになり、「〇〇さんさぁ、ストーカーされてるんだっけ?」と聞かれ「あーやっぱり何でもないよ」と答えるとにやにやと微笑まれた。うーん。S子恐るべし。確かここでもトイレに行っている間に携帯を見られ、AimerとYが連呼していた。まあ普通に私はスピッツの醒めないを歌った。何も考えずに曲を入れたが、今思えばあの場にぴったりの曲だったかもしれない。最後土産を渡そうとするとこんな物いらないとYに突っぱねられた。
そんなこんなで飲み会は終わり、何故か無言でコンビニへ駆け込むS子がいた。(謎)(離れたかったのかな?)最後手を振って永遠の別れをした。ぐっばい。
その一週間後、うずうずした私は五人のライングループを作り、S子にこう問いかけた。「なんでお土産受け取ってくれなかったの。怒ってる?」質問の答えは返ってこなかった。返って来ないだろうことは予想していたのでその代わりに語ることにした。ストーカーのこと。職場のこと。病気のことを。S子がいじめの首謀者であり、その原因が、私がLINEブロックする直前に自己愛性人格障害のことをアドバイスし、それが原因で(彼氏が自己愛に似た性格だったのだろう)別れることになった、にあることは言わないでおいた。かわいそうだったので。というよりS子が何をやらかすかわからなくて、怖いのでやめるね的なことを言った。むしろ病気になって薬飲んで楽になって感謝してることを伝えた。もっと仲良くしたかったけど無理そうだからやめるね的なことも言った。Mが何か言ってきたけどはいはいと返した。正真正銘のお別れをした。
その後も変な輩はたくさん出没し、本屋で本読んでるー!と猿女に叫ばれたり〇〇さんがボールペン買ってる!何書くのかな!?とか言われたり映画館で映画の格闘シーン中ずっとマッサージマシーンのように背もたれを蹴られたり(無視すると無視すんなよ、とキレられた。あと疲れていた(笑))別の職場で私がLINEで言った言葉を反復されて睨まれたり駐車場の料金支払い所で子供みたいだなと言われたり(そのあと駐車スペースまでブツブツキレながら着いて来られたり)(車に乗り込んだらそのままエレベーターへ帰って行った)(なんだったんだ)休日ごとにコンビニから後をつけられたり(ナンバープレートが毎回一緒だった。たぶん社用車)コンビニのオーナーからじっと睨まれたり(これはあまり関係ない)友達とプリン食べてたらカラオケから尾行されててあいつプリン食べてるよ(笑)と食べてるのを実況?されたり入った店に偶然?S子が来て(謎のめちゃくちゃ暗い顔をしていた)たりとまあいろいろあったけど今は元気だから問題なし!S子もお幸せにね!
寒さの厳しい二月の終わり頃、その知らせは突然やってきた。
母親から父親が息をしていないと連絡が入り私は急いで実家のある埼玉県へと向かった。
「お父さんはダメだった」
私は来た電車に乗れず、一本後の電車に乗って実家へと向かった。
死因はお風呂場でヒートショックを引き起こしてしまい亡くなってしまったという。
恐らく葬儀で涙を流していなかったのは、親族の中で一人息子である私だけであっただろう。
父親は私が中学生になったあたりからひどく酒に溺れるようになり家庭は崩壊寸前だった。
暴れるは母親に暴力を振るうわで家庭内環境はひどいものであった。
父親の働いている会社の業績が悪くなり今まで出ていたボーナスも全く出なくなり、早期退職を募集するようになっていた。
社会人になり家を出るまでは、私にとって家は居心地が良いものでは無かった。
そんな事を思い出していると、私は葬儀中は涙が出てこなかった。
そして葬儀は何事もなく執り行なわれた。
それから月日が経ち、父の死後1年程であっただろうか、私は久しぶりに帰省した。
ひどく腹をすかせていた私はおかわりをしようとキッチンへと向かった。
そこにあったのは父親のおかわりの分はないカレーの量であった。
その時私は父親が本当にこの世からいなくなってしまった事を改めて痛感した。
マスクを着けていると襲われる
そんな噂がどこからか聞こえてきた
通常の100倍の値段がつくこともある。
横浜では店に並んだマスクを取り合って殴り合いの喧嘩が起こったらしい。
深刻なマスク不足はとどまることを知らず、数日前までは街中の人たち全員がマスクを着けていたのに、今日は半分近くが口元を露出している。
家のマスクがなくなったのだろう。
「池袋駅前のマツキヨにマスク大量入荷!早いもの勝ちだよみんな集まれ~!」
大量のマスクの写真とともに呟かれたその情報は、またたく間に日本列島をかけめぐった。
人々はみな、揃って池袋を目指した。
我先にと店に突入していく人の群れ、その様子を撮影する野次馬の壁。
しかし巣を突かれたスズメバチのごとく荒れ狂う黒い塊は、見る間に膨らんでいく。