はてなキーワード: 北千住とは
これの逆バージョン https://anond.hatelabo.jp/20240313123638
巣鴨プリズン/東京拘置所跡にサンシャイン60ビルを建てるにあたり、池袋駅から地下道を通す計画があったが、地元商店が「人の流れが変わって駅前が廃れる」と反対し沙汰止みになった。
一番反対したのは洋菓子店のタカセ。ここは戦後に繁盛して地元の顔的な立場であった。
これに他の人は「タカセのヤツ、勝手に顔役ぶりやがって」と陰口を叩き、裏では総スカン。
地下道は都道反対側からだけに短縮されてそこまで利用者は歩くことになった。代わりに都バス乗り入れが行われたが利用者は伸びなかった。
しかし地下道入口に東急ハンズがオープンすると付近にカメラ量販店(後にゲーセン)、飲食ビル、映画館が誕生し、池袋駅東口~東急ハンズは若年向けの飲食サービス業が立ち並ぶ大商圏となった。
90年代にJRAは女性をターゲットとしたCMを打つなど競馬のイメージアップに努めてはいた。
だが池袋駅東口に場外馬券売り場を開設する計画が持ち上がるとイメージの悪化を恐れて地元商工会は大反対。JRAは土地も押さえていたが出店中止に。馬券売り場の上にサロンや飲食室などを設ける大規模な計画だった。
この土地を後にヤマダ電機が押さえて都市型店舗の第一号としてオープン。その後に近くの三越が閉店して建物が売りに出されるとヤマダ電機が取得して現在のLABIとなり、池袋の家電激戦区っぷりに火を注いだ。
米軍が接収した立川飛行場は手狭のためにジェット機用に滑走路を延長する計画があった。この為に滑走路延長先の砂川町の農地や家屋に収用が掛かった。
これに住民は大反対し、そこに学生運動等が乗っかり、デモ隊基地内侵入などの事件が起こり大騒動になった。
憲法問題などで出てくる「砂川事件/砂川判決」というのはこの事件。
この事件などがどの程度影響を与えたかは判らぬが、米軍は立川飛行場の拡大を諦め、瑞穂町の横田基地に集約する事を決定。立川飛行場は日本に返還される事になった。
箱根ヶ崎付近の八高線と国道16号がぐにゃっと曲がっているのは、横田基地の滑走路拡大をした為である。
返還された立川飛行場は学校や研究所、法務修習所、陸自基地などに転用されたが、一番広い面積を有するのは昭和記念公園で、電車で3駅分ほどもある巨大公園となった。
真ん中には広大な広場もあり、大コンサートもよく行われている。
なお、騒動の原因となった滑走路の残骸が未だ残っている。https://maps.app.goo.gl/ewECyedzGvD9p88t7
(よく見ると滑走路アプローチの>>>>のペイントがうっすら残る)
東海道新幹線が開通して暫くすると、騒音と振動が問題になり訴訟も提起されるようになった。成田新幹線のゴリ押しによる頓挫もあり、山陽新幹線以降の新幹線開通は困難が予想されるようになった。
そこで都市近郊での建設スキームを変更、新幹線に付随した在来線も同時に工事して迷惑施設というだけではなくて近隣住民の利益にもなるスキームにした。
この為に赤羽~大宮間では通勤新線(埼京線)、大宮駅北側には高架にまとわりつく、つる植物のような新交通線が出来た。
なお、東海道新幹線は通常の鉄道のように地面に砕石を敷いて線路を敷く工法なので高速運転では周囲に振動が伝わる。その後は平地でも鉄筋コンクリートの高架を走るのが一般化した。杭基礎で支持されるので振動は地下奥深くに吸収され、コンクリの高架は重いので振動自体が押さえられる。その為に公害は発生しにくくなっているが、交渉時には工法までははっきりしていなかったのでこういう形になった。
空襲焼失地区の戦後の復興は東京都などが管理して区画整理などを行ったが、計画的過ぎて無機質であるとの反対意見も多かった。
そこで都は神楽坂については住民同士の話し合いで区画整理を決める自律的な方法を試す事にした。
しかし優越な資本や有力な地元のまとめ役が居ない地区だったので、結局は路地などが沢山残る防災的にはアウトな形で復興する事になってしまった。
しかし建物の建て替えが進むと、街路側は多くが不燃建物、その路地の奥は不燃建物と古い料亭などが混在する形となって何だか防火と風流の両手取りみたいな地区になって、アンテナの高い外国人などにも好かれる町並みとなっている。
戦後の歌舞伎町は全域がゴールデン街のような闇市バラック状態であったが、再開発をする事になった。
しかし高田馬場を始発駅とする西武新宿線が新宿駅まで伸びる予定であり、歌舞伎町の付近に仮駅を設置された。
当時の西武鉄道経営陣としてはピストル堤と言われた堤康次郎も健在であり、堤は人を騙して土地を買収したり、ピストルの名の通りに暴力による脅迫で買収したり人の土地を勝手に占有して後に所有権移転したりと、要するにやり手実業家の皮を被ったヤクザであった。しかも権力とみっちりと癒着しているばかりかその後に代議士にもなっていた。
その為に歌舞伎町の地主たちは鉄道が来るのは歓迎だが堤が来るのはたまらねぇ、として西武の買収に対抗する策を練った。
そこで街路幅はきちんと確保しながらも、その所有区分を細分化、買収しにくくした。それが功を奏して西武も含め、大資本が入り難い地域となっている。道幅を確保しながらも細分化策が功を奏したのは主導的な町会長などが存在した為による。
ブクマページの米でそれは違うというのを幾つか。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240313123638
流山は常磐線忌避したという話は良く効くが、多分これは違う。というのも、地理的条件があるからだ。
田端を起点にして北千住を通り、土浦に至るというのは決まっていた。で、その途中には避けねばならぬ「水」があるわけよ。霞ヶ浦、牛久沼、手賀沼は避けねばならない。だから柏の先のルートはこれしかない。
問題は北千住から柏で、今の南回り松戸ルート、八潮→三郷→流山の北回りルート(TXコース)がある。
でも北ルートには難点があって、それは毛長川、大場川、古利根川の氾濫域の土壌ぐちゃぐちゃ地帯に入ってしまう。今でも越谷レイクタウンの南側は田んぼのままで、ここは乱開発すると土地の保水力が無くなり八潮の市街で出水してしまうので開発禁止の状態になっている。武蔵野線敷く時もまず水路の開削からやって平地なのに築堤築いている。そうしないと列車の振動で沈下して線路が狂ってしまう。それくらい地盤が悪い地域だ。
だから日本鉄道はここを通るのは避けたかったはずで、そうすると流山に行くのは無理って事なのだ。
日光御成街道の宿場町として栄えた名残が邪魔して鉄道忌避の街になり、ついに川口市に吸収合併された、元鳩ヶ谷市とか?東北本線って計画では、王子以北は今の埼玉高速鉄道をなぞってたって言うし
これも違うと言い切れる。地形で説明するよ。
日本鉄道熊谷線(現高崎線)は日本で2番目の鉄道なので工事量を減らす為に「ここしか無い」という厳選されたコースを通っているのだ。工事期間がやたらと短いのも特長で、コースを厳選した結果だ。
上野駅を出た京浜東北線(大宮までは中距離電車じゃなくてこっちが元のルートを通る)は赤羽までずっと急な崖の下を通る。この崖だが、真っすぐなのが特長だ。こういう真っすぐな崖というのは海食崖の特長だ。海の崖だね。
地球の海面は氷河期には氷河や南極に氷となって蓄積するので海面が下がる。一方、温暖な間氷期には海面は上がり、平野のずっと奥までが水没してしまう(海進)。
縄文時代などの間氷期の海進で、関東平野は海の底となり遠浅の海となっていた(奥東京湾)。間氷期の気温で海進の程度は変わり、最大で高崎あたり、縄文時代では大宮までが奥東京湾だった。(そういう訳で、尾久とか東三条には貝塚がある)
海には波がある。この波は真っすぐ進んでドンと当たって止まり、ではない。斜めに陸に当たった時は、陸に当たった後にその勢いは横に流れる。波が引く時はその横向きの流れのままに引く。沿岸流が出来るのである。
すると陸の出っ張っている所は削られて、やがて必ず真っすぐな海岸になるのである。
つまり、上野~赤羽の崖が真っすぐなのは海進時に波に削られたせいである。
波は崖を真っすぐに削っていくが、この時潮の干満により崖の下には平場が出来る。満ち潮では海面下に隠れているが引き潮では通れたりするアレだ。親不知子不知が引き潮の時だけ取れるというアレ。
上野~赤羽では小規模な波蝕台が連続し京浜東北線はこの上を通る。但し複々線化で判り難くなってはいるが。
この波蝕台跡は他の低地より少し高いから田んぼになっていないので用地買収がしやすい。更に少し高い故に大雨でも出水しにくいし、砂礫が多いので水捌けも良い。線路用地として優秀なんだな。
陸地の角があると波による沿岸流はその先に砂を置いていく(漂砂)ので、真っすぐの海岸線が延長された地形が出来る。砂嘴である。北海道標津の野付半島や京都の天橋立が有名だ。砂嘴で延長された浜により沿岸流と漂砂の働きも延長されるから砂嘴はどんどん伸びていき海底が深くなると砂嘴の延長はとまる。
この先で荒川を渡らねばならないので当然線路はこの砂嘴の上を走る。高さを稼ぐ為である。この砂嘴は江戸時代の荒川開削と田んぼ開発により削られているが、根元だけは残っている。赤羽の北で環八を跨ぐ時の橋台はこの砂嘴に乗っている。
当時蛇行していた荒川を真っすぐ渡る為に(鉄橋の距離が短くなるから)右に曲がり、荒川を渡る。川口方には堤防(曽根)があるのでそれを超えると熊谷に向けて左に曲がりながら築堤で地平に降りていく。地平に降りた所に川口町駅設置。川口宿からは離れているが駅は水平でないといけないのでここしか無い。
川口町駅からは当初の終点熊谷、その先の高崎までは殆ど直線なのだが、所々に緩いカーブがある。このカーブの全てには必然性があり、全て工事の最小化の為のものだ。
南浦和までは低地にあるが、この先で大宮台地に登る。そこで沢が削った斜面に入り、他の沢の斜面側面に取りついて高さを稼いでいく。
浦和駅からはもう芸術点が高く、沢山の小さな沢がある所を、最小限のカーブでその谷頭を両側でギリギリかすめるルートを取っている。ここはダッジボーナスが沢山入る所だろう。舞踏家みたいな避け方である。
大宮から先も小さいカーブで芸術点高いルートを通るが、中仙道に平行している。中仙道自体が芸術点高いルートを通っているのでこの区間はコピー忍者って感じだ。
このルートの良いところはもう一つあって、途中の蕨から中仙道が平行してくるので宿場町近くに駅を造れば集客と集荷が期待できる。更に当時は道が限定されているので、名のある街道に近くないと客や貨物が駅に来れないのだ。
文明開化したばかりの明治日本が、鉄道二本目でこんだけ緻密なルート選定出来たのは何故か?
お雇い外国人の英国人の力だけではない。江戸時代に新田開発と用水路開削をしまくっていた為なのだ。
台地上に水田を作る場合、もっと標高が高い場所から用水路を引いてくる必要がある。水は一度低いところに行ってしまったらもう高さが上がらないから、長距離の測量を正確にせねばならない。その技術が蓄積されていた。
やり方は結構単純だ。長い木箱を作り(水盛り箱という)、水を入れる。水面は必ず水平だ。両端の水面から10センチのところに糸を張ったらそれも水平だ(水糸という)。
更に両端の水面から10センチのところにライフルの照準的なものをセットする。その照準で200m先を見て、照準が合っている場所はやはり水平だ。200m先に助手が目盛りが付いた物差しを持って立つと、その地面はこっち側から何センチ下/上がっているかが判る。
これをずっと正確に繰り返す。だから両側の谷頭の直ぐ上を抜けるルートなんてお茶の子さいさいだったかもしれない。
という訳で、日本鉄道などが造った初期の鉄道路線は土木技術で地形無視って事を極力避けるルート選定をしているので、マクロ的にもミクロ的にも必然性の塊となっているのでありますよ。
サイバーメガネさんとかピピピさんとかが話題になってた頃にはてなやってて、今は見るだけだけど、あのときは、匿名ダイアリーの価値がよくわかってなかった。
元カノから1万4千字のDMが来て、罪悪感でSNSをやめてから、自分の感情を表現する場所がなくなった。
もうSNSには戻りたいと思わないけど、ブログやnoteをやるほどではないし、掲示板を日記に使用するのも少し違和感があると思ってたら、はてなの匿名ダイアリーがあった。
先日、昔の職場の同僚と北千住の焼き肉に行って、近況報告や昔話などした。
同僚っていっても自分は20代で相手は40代で、そこそこ金を持ってる人
自分は金が欲しいと思っているので、その人の考えや生き方を参考にしてる。
それに勉強家だった。
一通り肉を頼んでご飯と酒を1,2杯飲んでもっぱら金の話しかしてない。それでどういうわけか秋葉原のコンカフェに行くことになった。
昔行ってた良心的な価格のコンカフェ系列を知ってたので、そこに行くことにした。
秋葉原もコンカフェも1年ぶりだった。今では当たり前にいる客引きの多さに感心しながら、目的のコンカフェに行った。
昔行ってた店舗は潰れたのを知っていたので、同系列の姉妹店に行った。
SNSやってた頃に見知った名前の嬢が対応してくれたので、キャスドリと2人分のドリンク頼んでから、潰れた店舗や今の店舗に在籍してた子の昔話・転生話とか自分がホームベーカリーでライ麦パン焼いてる話とか話自体は他愛ない話をして1時間で切り上げた。
色んな話をしたと思う。
アルコールは3杯も飲んでない。
そんなに酔ってないはずなのに、楽しかった。生きる喜びを感じた。
節度を守って楽しむ、というのはこういうことなのかもしれない。
それに何歳になっても勉強や研究をしようとする人には頭が下がる。
自分の身にしみた。
これは多くの人に知ってほしい、という気持ちと、
居ても立っても居られない気持ちになったため、
拙いながら書いてみることにしました。
作品を作る上で登場人物の描かれていない裏側を想像するように、
役者さんのTwitterを見て、作品が完成するまでの様を想像するように、
この芝居を見たひとりの自分、がどうこの作品に出会い、どんな行動に至ったのか、というような
■この劇に出会った経緯
詳細には覚えていないけれど、「何かいいお芝居ないかなあ」とTwitterを徘徊していた10月頃、
仮チラシとタイトルを見て、「あ~たぶん好きなやつ」と思って、カレンダーに追加したような記憶。
「かみさまを殺すための旅」というタイトル。「あまい洋々」という団体名。
(この漢字とひらがなのバランスがうまくいえないけどすごくいい)
(ぜひタイトルの解釈や、団体名の由来について、どこかで伺えたらいいな、とふんわり思っている)
柔らかいタッチのイラストと、少しビビッドな色遣いの仮チラシ。
1999年生まれなんだ、自分とひとつしか変わらない歳の人が、
自分の劇団を持っていて、もう4回目の公演に取り組もうとしているんだ、と。
■劇場に行くまでのこと
なるだけ、芝居を見るまで感想やバイアスになる情報は入れないようにしよう、と思いつつ。
しかし、予約する段階でチェックした本チラシのデザインは仮チラシからさらにアップデートされた素敵で、
「オムニバス形式の短編詰め合わせ、ぜったいすきなやつ~」という気持ちと、
「虐待・性暴力・モラルハラスメントを想起される表現を含みます」というのに、ちょっとびびったりもしていました。
■観劇当日のこと
観劇をした12/9(土)は少し温かい冬の日で、雲一つない晴れた日。
北千住に降り立つのはたぶん初めてで、アクセスがいい都内の駅だけれども、意外と遠いなあと思いながら電車に揺られていました。
勘違いしていたのだけれど、BUoYを初めて調べたときはカフェが出てきたので、「カフェでやるタイプの芝居かあ」と思っていたけれど、
実はカフェは2階、劇場は地下ということでした。終演後に2階のカフェに行ったら満席だったので、改めてカフェも行ってみたいな。
■観劇をしたあとのこと
劇場に入ってから、出るまでのことは、別の記事でまた語るとして。
わたしは、素敵な芝居を見た後は、台本を買って帰るのが自分の中で決めた約束事みたいにしているところがあります。
もちろん、帰って、改めてじっくり味わいたいというのもあり、チケット代以上に何か劇団に還元できれば、みたいな思いもあり。
物販で売られていた、主催の結城さんが書かれたイラストも素敵だったな。
この芝居を通して、すっかりわたしは、結城さんのファンになってしまって、
何かの形でこの方が芝居や創作活動を続けていくのに、貢献できたらいいな、
この方は芝居をつづけていくべき(べき、というと断定的で独善的で強い言い方に聞こえて嫌だけれど)人なんだろうな、と思いました。
それくらい、芝居やアフタートークで見えるかわいらしい印象の反面、パワーを持った方でした。
劇場から出た後は、一緒に芝居を見に来てくれた友人と、(二人ともが台本を買って)
近所のカフェでおいしいお茶を飲みながら、作品の感想をじっくり語りました。
正確には、カフェに向かう道中から、電車の中で解散するまで、たぶん2時間くらいほぼずっと、この作品について、考え、話し続けていました。
しかし、そのうちの半分くらいは、建設的な議論なんかではなく、
「めちゃくちゃよかったね」「しんどかったね」「今年イチかもしれない」
「マジで観に来てよかった」「なんでもっと早く出会わなかったんだろう」「もう1回みたい」
「ていうか知り合いの演劇関係者全員見て」「とりあえず帰ったら近所の演劇人にLINEしよ」
あ~~~でも、本当に、今思い出してもよかったな。行けて、観れてよかった。
初めての劇団を見に行くときは、好きになれるかな、ちゃんと楽しめるかな、といつも心配になるのですが、
今回に至っては、友人を誘って予約した自分をめちゃくちゃほめたたえたい、そんなお芝居でした。
主人公の男は千年前に突如現れ、群衆にひっそりと紛れ生きる人喰い種族の1人
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夜遊びと非行が祟り、高校生にて重度の急性膵炎となったクラスメートの女子に目をつける
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非行仲間と距離を置こうとした女子を非行グループ「北千住メリケンサック」のメンバー達が襲うも、人喰い種族である主人公が超人的な力で撃退し2人は相思相愛となる
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主人公と女子の関係に気がついた人喰い種族の長老である祖母の差金により、主人公と女子は襲われる
↓
主人公は本能を理性で制御しながら女子の膵臓を食べて人喰い種族に戻ることを拒否し、祖母や両親、兄弟を含む人喰い種族の刺客を撃退するも瀕死となる
↓
という話だ。
「君の膵臓が食べたい」というタイトルは作中で主人公が幾度となく呟いてしまう願望であり、彼女を愛していることから葛藤の原因となっている。
女子は小さな頃から自身に無関心な母と自身に性的暴行を行う継父との生活、不良仲間との交流によって自暴自棄となっており「私の膵臓、食べなよ」と幾度となく主人公に自身を食べさせようとする。
主人公が決して敵わないであろう最強にして最恐の人喰いである祖母と死闘を繰り広げる時、女子は幾度となく主人公に「もうやめて!私の膵臓を食べて!」と伝える。
しかし、内心では主人公に膵臓を食べられ死んでしまうことに対し、今まで感じたことのなかった恐怖を感じていることに気がつく。主人公との幸せな日々によって投げやりだった女子は生きたいと願うようになっていた。
主人公を看取った女子は主人公が助けてくれた命を全うすることを誓う。
切ないストーリーでありながらバトルアクションも見どころである。
映画化もされており、監督は「ホーム・アローン」で知られるクリス・コロンバスと「マスク」で知られるチャック・ラッセルが務めた。
帰ってくるときだって西日暮里か北千住どっちかに着けばいいだけだし
百歩譲って自分で考えてルート構築するのが難しかったとして、今は乗り換えアプリでどう乗れば良いか出るからそれに従うだけじゃん
①230円
②356円
③402円
なんだよね、全部同じ駅から乗って同じ駅に降りるルートなのに!
鉄道会社跨いでるからそれで料金が変わるのはわかるけど滅茶苦茶気持ち悪い料金形態だと思う
しかも訳がわからないのは、例えば亀有・金町〜大手町間の定期券を持っていた場合、一番安くなるルートが変わること
前の通りでいくと
①定期+178円
②定期+178円
③定期+146円
定期なしだと一番高かった西日暮里乗り換えが定期ありだと一番安くなる謎、まあ誤差みたいな額ではあるけど…
別に上野だけじゃなくて御徒町、秋葉原で降車する場合も似たようなことになる
この辺のカオスは前から問題を指摘する人もいたんだけどずっと放置(なんなら馬鹿にすら)されてんだよな、新金線の旅客化と同じぐらいに
城東地域の縦方向の移動が壊滅的なのも含めて、23区西部に比べると江東5区の都市計画みたいな部分ってかなり割り食ってるよな〜という印象がある
これ https://b.hatena.ne.jp/entry/s/trafficnews.jp/post/127759
関西人が亀有行くのが難しいという嘆きに対して「老害じゃね?」「スマホで乗換案内見ろ」と好き放題な罵倒がされているが、はっきり言って亀有を含む、JR常磐線の綾瀬~金町に行くのは東京もんでも難しんだよ!
増田は東京の西側ばかりで活動していて、ある日仕事で亀有の隣の綾瀬に行くことになった。だが路線図を見て行き方が判らなくなってしまった。
何故なら乗換駅のJR北千住駅には綾瀬~金町に行く各駅停車のホームが無いのである。
実は常磐線は列車線と緩行電車線の複々線になっており、各駅停車が走る緩行線は綾瀬で地下鉄千代田線に直結している。
当然北千住のホームの場所が問題となる。普通はこういう時は北千住駅手前で地下鉄が地上に出て常磐線に並んだホームで乗り換えできるようにするじゃない?
ところが北千住ではそうならないで地下にホームがあり、その地下の北千住駅を管理しているのは地下鉄なのだ。途中駅なのだから当然だ。
だから「JR常磐線各駅停車の北千住駅は無い」というとても奇妙な事になっている。
乗換駅がJRと地下鉄の接続駅じゃなくてその次の快速以上が止まらない綾瀬が両社線の接続駅なんて無茶すぎる。
渋谷とか新宿以西でばかり活動していた増田はこんな無茶な構造になっている事は知らなかった。
この構造は千代田線乗り入れ開始で出来たのだが、綾瀬、亀有、金町の人らは激怒したらしい。
それまで例えば亀有から上野は一本で行けた。だが乗り入れ後は北千住で乗り換えで、更に地下の地下鉄ホームから高架の常磐線ホームに階段で上がる必要があり、やたらと時間と体力を食う。更に当時は地下鉄路線がまだ少なくて都電が現役だった頃だ。地下鉄で都心に直通出来るメリットも少なかった。
常磐線には
・特別快速
・普通
・快速
・各駅停車
という列車種別がある。普通は各停→普通→快速→特快の順で速くなると思うわな。
しかも各停は地下鉄に直通するから行先が違うという複雑怪奇さである。
快速っていうのは各停の駅を飛ばすから快速らしいのだが、走る線路が違ってこっちは地下鉄に入らない。
昔は「普通」は機関車の曳く客車やボックス席車で、「快速」は通勤電車だったので何となく判り易かったみたいだがJRが全部通勤電車にしてしまったので訳が判らなくなった。これも関西人じゃなくても混乱するポイントだ。
因みに普通は列車由来なのでトイレがあるが快速はトイレがない。ならば便通の方が適当ではないのか?
記事では、列車種別ごとに別路線のように描くのは、昭和中期の国鉄5方面作戦がどうこうと鉄オタ好みの説を書いているが、そうじゃなくて戦前の昭和初期の電車網築造に遡るのだ。
まず、京浜東北線。東海道線が東京、東北線が上野で分断されるのに対してこれらを直通して、更に東北線の方は尾久に車庫を作って列車線の方は車庫の向こうを回る形にした。すると途中の駅が違ってくる。そしたら別路線として案内した方がいい。
山手線。これは大正の終わりから環状運転を始めた。田端~東京~品川は東海道線と東北線だが跨って走る上に渋谷の方に曲がっていくからこれも別路線扱いで案内した方がいい。
中央線と総武線。複々線にしたのだがこれのキモは秋葉原駅で、中央線のお茶の水から分岐して秋葉原で立体交差、総武線の始発だった両国に繋ぐ路線を建設。
地上2階くらいを走る京浜東北線の上を跨ぐために街の上に高架を作るというのは当時は先進的であった。しかも秋葉原駅の東側(今のTX入口やロータリー、アキバヨドバシ)には貨物の荷捌き場と舟運用の堀があり、それを跨いで地上6階くらいの総武線ホームに直通するためのエスカレータもあった。
当時エスカレータは銀座の高級デパートくらいしか設置されていなかったのに駅に設置されるというのは相当に革新的に写ったと思われる。
また、御茶ノ水駅の前後と代々木駅、新宿駅には乗越線を築造した。
お茶の水の前後で一本づつ乗越しして、これによりお茶ノ水で東京駅方面と両国方面の乗客が同じホームの反対側で乗り換えが出来るようになった。
新宿も山手線と総武線(中央線の各停)が同ホームで乗り換えが出来るようにした。
今もあるあの便利な乗り換えが出来たのは戦前なのだ。工事量が2倍に増えるが当時の当局は利便性を優先した。「立体交差のダイナミックさ」に取りつかれていた感じがしなくもない。
こういう感じで、
に大正末~昭和初期に複々線の同じ線路を走る電車を別路線として案内するのが一般化した。そして駅名表にもその電車が止まる駅だけ表示するようになったので、実はかなり古い方式なのだな。
因みにだが、その別路線扱いの電車をそれぞれ違う色に塗るというのは昭和30年代後半に始まった。
更に路線が増えてきた営団地下鉄がその方式を拡張して、電車だけじゃなくて駅もテーマカラーで統一して、乗換案内を色で示すようになると、これは大変判り易い上にサインシステムとしても優れていると絶賛され、各国の地下鉄も同じ方式をやり始めた。
今はどこの国の地下鉄も路線ごとのテーマカラーで統一されていてありふれたサインシステムだが、そのオリジナルは東京の交通営団で、更にそのオリジンは国鉄で、その国鉄は昭和初期の別路線扱いの案内法をもっと判り易くする為に路線別カラーを始めた訳なのだな。
だから「亀有に行くのが判り難い」というクレームは叩き潰すんじゃなくて、先祖が始めた判り易い路線別システム、サインシステムの流れに反する退化だなと考えないとダメなんじゃないかと思うところだ。
地図見てて今更気づいた
「ベッドタウンへの玄関口になる繁華街は治安が悪くなりがちの法則」
これだ
それで若干怖いイメージがついているんだとわかった
「繁華街に遊びに行こう」という人らを平均したら全体よりは民度低いだろう?
そしてベッドタウンの受け口として存在するのがそれらの玄関口となるエリアなんだと思う
南と西は若干状況が違っていて
緩やかに栄えてる街が存在するから、繁華街目当てのベッドタウン民が分散するためにさほど怖いイメージがないのではないかと思う
どのベッドタウンからも遠い位置に存在するのが、港区とか麻布とか六本木とか赤坂とか銀座とかあのエリアなのよ
そういう原理だと思う
結構玄関口としての役割がありそうだけど一応奥まってもいるのでどうなんだろう?
話戻るけど
玄関口=怖いの法則、逆にベッドタウンの方面の街(例えば柏とか大宮とか千葉とか横浜とか立川とか)まで行くとさほど怖いイメージがない説もある
人については大体察しが付く、埼玉県民が大体遊びに来てるからだ
どうしても「繁華街にわざわざ遊びに来る人たち」のガラは悪くなりがちだし行動もはしゃいだものになる
これは上野、北千住、錦糸町でも似た状況が起きてると思う(千葉県民・茨城県民)
渋谷はちょっと傾向が違うくて、神奈川県民は横浜行くだろうから、渋谷は敢えて渋谷に来てる人が多い、流入するとしても世田谷あたりからだろう
だから怖いと言うよりチャラい
新宿もそれで言ったら中央線の民が遊びに来てるので怖いんだけど、ビジネス街が混ざってる関係で緩和されている
銀座や港区って何でお高く止まってるんだろう?と考えると、一番奥まってるからなのかもしれない
23区民以外にとってあそこは行きづらい
enderuku そうか、オウムの地下鉄テロに使われた歴史を知らない人も増えてきたのか。ゴミ箱にサリン袋捨てられてたんだよ。だからゴミ箱は撤去されまくった
https://b.hatena.ne.jp/entry/4731947959035480356/comment/enderuku
マスク姿の林郁夫は千駄木駅より入場し、綾瀬駅と北千住駅で時間を潰した後、先頭1号車(クハ202-107)に北千住駅(7時48分発)から乗車した。8時2分ごろ、新御茶ノ水駅への停車直前にサリンのパックを傘で刺し、逃走した。
広瀬は2号車(02-216)に始発の池袋駅(7時47分発)から乗車し、茗荷谷駅か後楽園駅停車時に3号車(02-316)に移動、ドアに向かって立ち、御茶ノ水駅到着時サリンを散布した
横山は5号車(02-550)に新宿駅(7時39分発)から乗車し、高架駅である四ツ谷駅進入時にパックに穴を開けサリンを散布した。
豊田は先頭車両(28811[注 24])であった。 )に始発の中目黒駅(7時59分発)から乗車し、ドア付近に着席、恵比寿駅進入時サリンのパックを刺した
彼は北千住7時43分発中目黒行きの3号車(03-310)[注 30] に上野駅から乗車した。そして、秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布した。