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はてなキーワード: 除隊とは

2022-07-16

除隊後は世間を避けてバイト派遣で目を欺きながら来る日に向けて山で射撃訓練や肉体鍛錬をしてたんだよね

2022-07-15

山上物語が濃すぎる

・母は医者の娘、父は京大卒で夫婦建設会社経営

・兄は小児癌

・母は兄を治すため神頼みで色んな宗教かぶ統一出会

宗教狂いになった母が全財産使い父が自殺

山上が高3の時に祖父の代からの家を売る

偏差値68かつ70人いるバスケ部スタメンだった山上、進学を諦め自衛隊に入る

・兄が癌の進行で失明

・兄の治療費と妹の進学費用を保険金でつくるため自殺を図る

自殺未遂に終わるが自衛隊除隊

・兄が自殺

・母は最初目的も忘れて統一信仰し続ける

安倍ちゃん退治のために銃を作り始める

2022-07-10

山上って自衛隊除隊後の18年間結局何して

たの?プータロー?住居や生活費は当然、

銃器製作のための資金ってどうやって工面

してたんだろう。

2022-07-08

anond:20220708144007

除隊後に惨めを味わった期間と安倍政権期が一致してるんだろ

anond:20220708143218

いつ除隊たか知らんけど

民間キャリア作ろうとしたやさきに

リーマンショック直撃くらいのタイミングなんだよなぁ

2022-05-06

anond:20220506015622

おかしいと思えるのならおかしくはないのでは?

catch-22じゃないけどな

 

精神障害にかかっていることを理由除隊を申し出ると、『自分自分のことを精神障害判断できるということは精神障害ではない』と判断されて除隊を認めてもらえない

2022-03-23

日本軍拡するとして

ロシアウクライナ侵攻を受けて、日本軍拡論が話題になることが増えたが、実際にどういうオプションがあるか軍オタ一般人脳内シミュレーションをしてみた。

核武装 / 各共有

ウクライナは核を持たないから攻められた論があるが、現実的には日本核武装はできない。現代戦争では、ウクライナを見ればわかるが道義的に有利な方が国際社会支援を受けられる。

核開発に着手した時点で国際社会に警戒されるわけで道義的正当性を自ら落とす下策だと思われる。

また、軍事評論家がよく言っている話であるが各共有は自国戦場になったときに敵の上で核を使う同意的なもので、ロシア中国といった仮想敵に対する報復能力としての効果はない。

日本核抑止力を持つなら、アメリカイギリスと言った核保有国と友好関係を持って核の傘に入るか、宇宙開発原子力発電技術を維持発展させて潜在的な核保有能力があることを警戒させるかしかないと思われる。

原子力潜水艦

そもそもなぜ原子力潜水艦がありがたがられるかといえば、動力源として原子炉を積むことから燃料補給心配がほぼなく、食料や乗員のメンタルが持つ限り作戦行動を続けられるという点にある。

で、原子力潜水艦は大きく分けて2種類あって、普通潜水艦動力源として原子炉を積んで行動期間を伸ばした攻撃原子力潜水艦と、行動期間の長さを武器世界中のどこかの海に潜んでおいて、いざという時に核ミサイル他国攻撃することのできる戦略ミサイル原子力潜水艦があるのだが、このうち攻撃原子力潜水艦なら保有する意義はあるかもしれない。

空母 / 揚陸艦

海の上を航空基地にできる空母アメリカイギリスロシアフランス中国運用している正規空母航空基地1つ分に近い戦力を運用できる。それに対して現在日本空母化をすすめている護衛艦いずもは半分以下の規模であり、本格的に洋上航空戦力運用するには力不足である

ならば日本正規空母を作るべきか?否である空母単独では潜水艦攻撃から脆弱であるため、護衛の艦隊を持つ必要があるが、仮に正規空母イギリスと同じ2隻保有するとすれば現在海上自衛隊護衛艦の定数をさらに増やす or 現状の主な任務である対潜哨戒能力を落としてでも空母護衛任務に艦を割り当てる必要が出てくるので負担デカすぎる。

ではどうするべきか?追加するべき艦種多目的に使える強襲揚陸艦だ。これは航空戦力の運用能力空母に敵わないが、兵員輸送能力を有しており、戦時以外でも災害派遣に役に立つ。検討する価値はあるだろう。

予算兵器輸出について

仮に軍拡防衛予算GDPの2%にすると約10兆円。高齢化による社会保障費の増大で財政が厳しい日本が更なる負担を負うのは非常に厳しい。しか軍拡で使うお金公共事業のように社会資本ストックにならない。これの負担を少しでも緩和する方法はないだろうか?

軍拡正当化する根拠があるとすれば、兵器国産化と輸出しかないと思われる。戦闘機開発に予算をつければ航空産業の振興になるし、護衛艦を増やせば造船業界への支援になる。また、友好国に兵器を輸出しておけば、有事の際に買い戻して戦力増強というオプションも取れる。

人員について

少子化が進む昨今、軍人になる若年層が増えるのは経済的にはマイナスしかない。現状の自衛隊人員構成はざっくり陸自15万人、海自5万人、空自5万人。これが仮にトータル5万人増えるとすると、大手メーカー1社分の雇用に相当する。

若年層の人材不足を緩和する方法があるならば、自衛隊職業訓練機能を持たせることである陸自なら大型車両や重機免許海自なら船員、空自ならパイロット整備士

偶然かもしれないが、これらの技能が役に立ちそうな運輸業界、建設業界、海運業界、コロナ前の航空業界は全て人材不足に苦しんでいた。ならば、任期満了除隊後に就職斡旋できるような仕組みが有ればお互いニーズが合うのではないだろうか?

知らないだけでこの辺の取り組みはすでにあるのかも知らないけど。

2022-03-22

天安門」元リーダーNYで惨殺…犯人女性中国の“刺客”説が浮

フェミの正体みたりって感じだな

被害者の方はご冥福をお祈りいたしま

あなたたちの求めて戦った民主の力は我々日本台湾欧州アメリカオーストラリアインドが引き継ぎます

天安門」元リーダーNYで惨殺…犯人女性中国の“刺客”説が浮上

天安門事件」の学生リーダーのひとりだった弁護士・李進進Photo: 対話中国(Dialogue China Think Tank

天安門事件」の学生リーダーのひとりだった弁護士・李進進

Photo: 対話中国(Dialogue China Think Tank

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田中淳

田中淳

Text by Jun Tanaka

1989年の「天安門事件」につながる民主化運動の中で学生リーダーのひとりだった弁護士が白昼のニューヨークで惨殺された。犯人の女は現行犯逮捕されたが、不可解な動機言動から北京から刺客としてニューヨークへ放たれたのではないかと疑う者も多い。

22ヵ月間投獄され、亡命

天安門事件」の学生リーダーのひとりだった弁護士・李進進(リィ・ジンジン米国ジム・リー、66)が、3月14日正午前、米ニューヨーククイーンズ区・フラッシング39番街にあるビル4階の事務所で刺殺された。享年66だった。

当日、李進進の事務所には、3日前に来訪したばかりの中国女性・張暁寧(ヂャン・シァオニン、25)がケーキを持参し訪れた。11時44分ごろ張は突然、「今日法律の用件で来たわけではない」と言いつつ李の背後から彼の首を片腕で強くロックし、コートの内ポケットから素早くナイフを取り出して、ためらい無く李の頸動脈を一撃。続けて頸部、胸部、腹部をメッタ刺しにした。

目撃者によると、張は素早くナイフを取り出しためらい無く頸動脈を一撃したことから、相応の訓練を受けたとみられる。

瀕死の李はニューヨークプレスティリアン・クイーンズ病院搬送されたが、12時8分に出血多量で死亡が確認された。

湖北省武漢市生まれの李進進は1970年、15歳で中国人民解放軍に入隊し、除隊後、文民警察組織中華人民共和国人民警察に勤務。1979年湖北経学院(現・中南財経政法大学)に入学し、のち北京大学博士課程で学ぶ。

1989年の「天安門事件」期間中デモ重要役割を果たした労働者団体北京工人自治連合会法律顧問を務めた。同年6月4日人民解放軍天安門広場のデモ隊を虐殺したあとは故郷武漢へ逃げ帰るが、人民煽動した容疑で逮捕され、22ヵ月間投獄される。

釈放後は起訴を免れ、1993年に渡米。コロンビア大学ウィスコンシン大学で学び、レストラン下働きしつつ法学博士号を取得。卒業後、ニューヨーク州で弁護士資格を取得した。

北京警官レイプされ無一文と訴え

犯人の張暁寧は現行犯逮捕された。張は1997年河北省邯鄲市生まれで、北京大学で学び、2021年8月下旬にF-1学生ビザ米国入国。渡米直後の2021年9月14日国連通常総会の開会日当日に張は、国連本部の外でプラカードを持ち、北京市内の精神病院強制入院させられたことを非難し、彼女レイプした北京市公安局の警官厳罰に処すよう訴えるデモンストレーションを繰り返した。

国連本部の外で通常総会当日にプラカードを持ちデモンストレーションをする張

国連本部の外で通常総会当日にプラカードを持ちデモンストレーションをする張

Photo: 美国之声粵語網(VOA Cantonese

その後、李の存在を知った張は、李が法的な手助けをしてくれるものと期待し、3月11日、李の事務所を訪れた。

李の親友弁護士・朱偉は「後の祭りだが、李進進はあの女に関わるべきではなかった。11日に事務所に来た女は泣きながら、数日前に米国移民帰化局(BCIS)の移民面接に落ち、貧しく無一文同然で、中国警官レイプをされたと訴え、庇護を求めた。李は心優しい男。彼女無償で助けるつもりでいた。あとで女は李に、自分から受信したメールを全部削除しろ要求したが、彼は削除しなかったようだ」と悔しがった。

李進進弁護士事務所かい保険会社職員11日の凶行について、「たまたま開いていたドアから事務所内を見たところ、女性が興奮して、物凄い形相で李弁護士に詰め寄っていた。李弁護士はとても物腰の柔らかな紳士で、事務所女性職員が慌てて、興奮している女性を彼から引き離した」

「李弁護士が静かにオフィスで騒がないで。必要なら一緒に警察へ行ってあげましょう』と話すと、女性はその3倍を言い返していた。暴力的な態度で大騒ぎするのを見かねた職員警察通報したため、警官が2人来た。李弁護士警官に、大丈夫から彼女逮捕しないでと言うと、女性はそのまま逃げるように事務所を立ち去った」

天安門事件が起きた1989年当時、中国人民解放軍女性記者だった江林 Photo: The New York Times天安門事件から30年目の初証言──元「人民解放軍女性記者」が見た“地獄

カメラの前で逆上

張暁寧は殺人罪起訴され、3月14日19時37分、警察官によってニューヨーク警察109分署から勾留先に移送された。その際、「なぜ殺したのか?」「悔いてはいないのか?」などメディアから中国語で問われた張は激昂しながら、叫んだ。

「後悔なんかしてねーーわッ!」

「後悔しているとしたらお前らの裏切りだ! 中国人なのに反共産主義者を叫びやがって!」

最後に後悔するのはお前ら裏切り者だ!」

おまえらは無数の学生を傷つけてきたのに、まだ学生を傷つけるのか!」

【#中国

米国に住む中国出身女性、张晓宁 が、天安門学生運動の指導者であった李进进氏(66歳)をナイフ殺害女性は「おまえら中国人でありながら、中国共産党に背いている!」と叫んでいる。

米国に住んでいてもこれか。共産党洗脳、恐ろしすぎる…????

pic.twitter.com/o9MS0fTa8x

— NEKO????‍⬛????????????????‍⬛????????????????‍⬛ (@usapepe) March 16, 2022

暴言を吐きながら連行される張

在米華人メディアへの敵視発言から、張暁寧が中国共産党の熱烈な支持者ということが明らかになった。そして留学生である自身は、思うような庇護が与えられない被害者というスタンスだ。

だが、計画的に成人男性を刺殺するような根性の据わった女が、自身レイプしたという中国警官ではなく、たった一度しか会ったことのない弁護士を刺し殺すというのは説得力に欠ける。

張は学生ビザで渡米したが、これまで一度も通学した形跡が無い。そもそも新型コロナウイルス蔓延している時期に、中国当局は一般人民の出国許可は出さない。

張は李進進の前に、在米民主団体中国民主人権連盟に、中国ニューヨーク総領事館から警告があり、圧力を受けていると語り、庇護を求めたという。

殺人罪銃刀法違反起訴された張暁寧は3月18日クイーンズ区刑事裁判所に初出廷する予定だったが、精神不安定理由に出廷を拒否した。地元紙によると、最高25年の実刑判決終身刑が科される可能性があるという。

李進進はこれまで、中国政府に迫害されて来た多くの中国人を助けて来た。経済的に困窮している移民からはいかなる代金も受け取らなかったという。筆者にはこの李自身同胞への献身が命取りの引き金になったような気がする。

北京中央美術学院学生によって天安門広場に建てられた「民主女神」像(1989年6月1日撮影天安門事件を風化させたい中国共産党─追悼日直前に香港の記念館が休館した背景とは

反腐敗運動邪魔者

李進進は、「天網行動」「猟狐行動」(海外逃亡中の知能犯経済犯の逮捕不正取得された資産没収する中国政府の特別捜査キャンペーン)のターゲットになったり、指名手配されたりした人民米国での法的保護提供してきた。

特権を利用して実際に不正蓄財収賄した党員公務員汚職事件容疑者などの国外逃亡者逮捕されるのはともかく、「天網行動」「猟狐行動」は、中国政府の意に沿わない経営者弁護士学者研究者作家ジャーナリストNGO非政府組織関係者アーティストなどの罪をでっちあげて中国強制送還する口実にも使われているからだ。李もたびたび「『天網~』『猟狐~』は反腐敗運動ではなく、反体制弾圧手段」と批判してきた。

李進進は、2008年中国当局に香港逮捕され、金融詐欺罪起訴された「天安門事件」の学生リーダーのひとり、周永潤(ヂョウ・ヨンルン、55)の弁護を担当した。

また、中国政府が政敵逮捕するために、 国際刑事警察機構インターポール)が加盟国申請に応じて発行する国際手配書「レッド・ノーティス」を濫用することに反対していた。

中国逮捕状が出ている被疑者などについて人物特定し、海外発見し次第、中国強制送還するよう要請できるものからだ。

「李進進が“天安門”の元リーダーから殺された」という憶測的外れだろう。今年は「天安門事件から33年。当時、民主化へのうねりを作った学生運動リーダーたちは既に政治的影響力を持たず、中国共産党の脅威ではない。

今になって李進進が「消された」とすれば、「33年前のリーダー」だったからではなく、習近平政権が本気で取り組んでいるキャンペーン「天網行動」「猟狐行動」を邪魔する存在とされたからにほかならないからだろう。

在米弁護士仲間は、李が弁護活動中に得た中国共産党の特務(諜報・謀略・秘密機関)の活動資料米連邦捜査局FBI)に提出するのを阻止するために殺したと疑っている。

李進進が惨殺された2日後の3月16日、米司法省は、中国情報機関国家安全部の指示を受けて米国在住反体制中国人に監視嫌がらせを行っていたスパイ容疑で王書軍、劉藩、林啓明、孫強、マシュー・ツブリスの5人を逮捕し、起訴したと発表した。

暗殺犯の張暁寧は、北京で特務の訓練を受けた捨て駒刺客だろう。渡米後の反中パフォーマンステレビカメラの前の支離滅裂な絶叫は、精神に異常があることを印象づけるための演技と思われる。

李進進の葬儀事務所近くのチュンフック葬儀場で27日午後に挙行される。関係者は既に、FBIに対し、李殺害事件捜査要請した。FBI捜査によって、李進進が「消された」真相は明らかになるのだろうか。(Text By Jun Tanaka)

2021-11-10

anond:20211109132706

沢山書いたやで

 

実名主義

80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数社会的人格を持って経済活動する事ができた。

職場旧姓を使い続けても問題無かった。1986年米国マネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。

 

MDMAエクスタシー)の不使用

MDMA非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。

心臓発作を惹起する為に規制m.o.v.e.のmotsu所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。

 

マリファナの不使用

90年代クラブではマリファナ普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。

 

・式場での結婚式

1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式キリスト教教会一般的。

団塊世代ロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻自由憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。

団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。

古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。

 

公共空間でのマナー

1990年頃まで日本人の公共空間でのマナー先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。

1990年代に反省の機運が起こり急激にマナーが向上した。

 

外国で旅の恥をかき捨てない

かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本旅行者特に団体)は眉を顰められる存在だった。

遺跡名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクター痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。

これを西洋宗教倫理文化日本恥の文化共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。

自省により90年代に急速に改善

 

固定電話を初期費用無しで引ける

電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。

この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年から段階的に廃止された。

 

役所サイトが一日中閲覧できる

森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバIISインターネットインフォメーションサーバー)サービスHP提供していたため。

終業時間になるとサーバルータの電源を落として帰っていた。サイト作成役人趣味みたいな感じで作っていた。

コードレッドワームなどが流行すると当然に全滅。

 

ネットワークプリンタ共有

1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。

 

・駅のトイレトイレットペーパーがある

駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。

民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。

 

路上駐車車両が無い

90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両タクシー客待ちで二重駐車になっていた。

90年代中ごろに警察取締りを強化して根絶。

 

・TIMESなど時間駐車場

2000年から増える。警察路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。

 

洋室だけの家やマンション

和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習

 

家電量販店での価格表示

家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員交渉で決めるという風になった。この為に店員電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。

客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。

 

スリム自販機

バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機建物看板道路使用徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。

これに対応して既存機の撤去スリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。

 

日本109キーキーボード

以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフリセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。

2000年くらいに今の配列に一本化された。

 

プチフリしないSSD

2006年ころに一世を風靡したネットブックSSD一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。

 

会社員就業時間中に中抜けしない

嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。

当然平日3時までしかやっていない銀行会社員が行けるわけがない。

そこで振り込みの為に仕事中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅

 

飲酒は二十歳から

18才は未成年飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。

ゼミ飲み会普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。

 

線路を歩かない

都電ローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。

90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故連続し、その後厳しくなっていった。

 

飲酒運転絶対ダメ

初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキー酩酊するからダメ」と書かれている。

 

・小銭を所持しないで外出

1000円札の読み取り装置一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。

この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。

 

一円玉の使用

1989年消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉公共料金以外殆ど使われていなかった。

 

・個室

和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。

 

個人

家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員プライバシー踏み込む」という感覚が余りなかった。

会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。

オークマンは街で個人空間に浸るものだとして批判対象になった。個人主義はそれ自体罵倒文句だった。

 

大学生勉強する

全共闘運動はあらゆる権威攻撃し、大学の知の権威というもの破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態継続。やがて学生は脱政治化したが大学学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。

90年前後大学改革ICU上智比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり学生勉強するという当たり前の状態が復活した。

この為に卒業1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。

 

・様々な塩製品

塩は国家専売品だったので専売公社製造する塩以外の岩塩ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可標識の掲出が必要だった。

1985年自由化により今の状況になった。

 

・「メイド喫茶」などの語

メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制階級制の象徴のような職業であって、戦後身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤一般的な「雇用」となった。

一周回ってメイド構造過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。

 

・キャノーラ

キャノーラ油の原料は菜種。

米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。

米国生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。

 

弁護士事務所広告

過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。

但し「勝訴率〇%」のような広告は今でも禁止

 

・夜まで開いてるスーパーデパート

1991年大店法改正されるまではデパート閉店時間はPM6時、スーパー閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。

基本的地元商工会意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正商店街の全滅に繋がった。

 

生ビール

ビール酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール

この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。

1970年代末にサントリーフィルター酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。

から地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品生ビールサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。

 

サービス残業

バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。

それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。

これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。

 

東京自動改札機

1990年から1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的

 

あきたこまちひとめぼれ等の米

1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。

冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまちひとめぼれが席巻するようになった。

 

バイク駐車違反

駐車違反バイクと車の別はないが、バイク駐車違反2006年まで摘発されていなかった。摘発民間委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。

 

大学生の専攻無し

学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から

2021-08-07

anond:20210807222634

名前も答えなかった被告の「失望」 除隊から交番襲撃へ

 被告17歳の春、自衛隊募集案内に興味を持ち、父親に教わりながら勉強をした。

合格すると、入隊前に過去暴力を謝り、初めての給料で両親に食事をごちそうした。

https://www.asahi.com/articles/ASP33569PP2PPISC00Q.html

2021-06-04

続 自衛隊のメシ

昨日書いた日記にたくさんの人がコメントをしてくれて嬉しかったです。ありがとう

平成の米騒動あたりは記憶曖昧だが、たしか食堂タイ米を食べてました。

多分、入隊してすぐくらいだったか…この辺りは、半年以上教育期間だったので、

TVも見られず、もちろんスマホも無い時代なので、世間がどうなっていたのか全く知りません。

知らないうちに総理大臣が変わっていたことにはびっくりした。

米騒動は終わっていたかもしれない。

マズかったメシ以外にも、自衛隊の楽しみだったり、心に残ったメシをつらつらと書いていこうと思う。

20年間で5回くらい転属してあちこち臨時勤務等もあったので、ひとつ食堂の話ではありません。


① テッパンオブテッパン 「カレーライス

カレーライスは間違いなくアタリの日だった。どこの駐屯地でもうまかった。

ただ、訓練後のカレーは午後がむちゃくちゃ眠くてキツかった。

だが、午前中の訓練のモチベーションを上げてくれるのもまたカレーだった。

新人の頃は午後、ウトウトして先輩からよくどつかれたものだが、

先輩になると、どつく側になった。

そしてまたそれを超える年になると、どつきどつかれしている後輩達を生暖かく見守る立場になった。

昔、料理長に聞いたカレーの隠し味「焼肉のたれ」は、今でも家でカレーを作るときに入れている。


② 自分ひとりじゃない 「クリスマスケーキ

12月24日だか25日の昼には可愛いクリスマスケーキピースが出た。

恋人がいない隊員はあえてこの日に当直を入れ、寂しさを紛らわした。

もちろん自分積極的に勤務についた。

この日あたりから年末休暇が始まるので、ウキウキと帰隊する既婚者がなかなか憎たらしかった。

ケーキはうまかった。


③ しんみりと故郷の母を思う 「おせち

元旦の昼はおせちが出た。大皿に少しずつ黒豆とか、なます田作りなんかが適当な感じに盛り付けられていた。

まあ、おせちは出来あいなので大してうまくはないし、おかずになりにくい。

数年に1回は元旦勤務があったが駐屯地にはたくさん人がいるので寂しくはなかった。



④ 全員平等の 「チョコレート

バレンタインデーには昼飯にチョコレートがついた。不二家ハート形のチョコレートが多かった気がする。

男女関係なくみんなにもらえるチョコレートはなんだか嬉しかった。


自衛隊女性モテるというが、頭が良くて優しくて素敵な、妙齢独身の先輩はたくさんいた。

自衛隊の男の目が節穴だと思っていた。

自衛隊イケメンはなぜか民間女性とばかり結婚していた。

少し年を取るとWACモテなかった。常にすっぴんだし、男女平等階級社会なので言葉遣いも荒くなることもあった。

女性とみなされないのかもしれない。

WACですぐ結婚する子は新人ばかりでした。


⑤ 3月ボーナスステージ 「ステーキ

3月になると、予算に余裕が出るのか使い切ろうとするのか、メニューがわりと豪華になった。

ステーキの日は朝から駐屯地中の営内者が浮足立っていた。

なんせ隊員数百人分のステーキなので、朝から焼き始める。

午前中から匂い駐屯地中に漂ってくるので仕事にならない。

料理長が大きな鉄板で手のひらサイズの肉をジャンジャン焼き上げ、横にうずたかく積んでいく。

外で焼くパターンもあった。

もう焼きあがっているので熱々とまではいかないが、本当に美味しくて年に一度のパーティタイムだった。


その他、創立記念日には紅白饅頭が出ることもあったし、節分には小袋の豆が出た。

夏にはスイカが出たしアイスも年に1回くらい出たかな?

美味しいメシは本当に訓練のやる気に直結していた。


ただ、唯一不満があるとすれば、白米がまず出てこなかった。

健康留意してか、常に玄米とか粟とかヒエとか謎の穀類が混入していたので、ただただ真っ白な白米が食べたかった。

同期なんかは「また鳥のエサが入ってる…」と、よくぶつぶつ言っていたことを思い出す。

あと、駐屯地食堂では目玉焼きが出ないので、外で食事をするときはひたすらベーコンエッグ定食を食べていた。

生の卵は出るので玉子かけご飯は出来るが、半熟目玉焼きに飢えていた。

あとはなぜかクリームシチューが出てこなかったなあ。


自分除隊する前の数年で糧食班がなくなり、民間業者が隊員食堂を切り盛りするようになった。

団塊の世代だった古い栄養士糧食班長も定年を迎え、若くて新しい世代栄養士さんに代替わりした。

男性若い栄養士さんは、自衛官の心をグッとつかむ旨いガツメニューが上手で、とても人気がある。

辛くて悲しい出来事任務もあったけど、仲間と自衛隊メシを食べれば元気になれた。

自衛隊メシよありがとう

2021-05-12

ウマ娘サークル管理

ウマ娘サークルの仕組み

・月始めの0時から5時までは脱退加入出来ない

・脱退すると当人がその月稼いでいた分のポイントサークル累計から引かれる

自己都合で脱退すると24時間再加入及びサークル設立はできない

リーダーキックしてもらうと上記ペナルティ無し

サークル加入中は他のサークルから勧誘が届いても確認できない(脱退すればチェック可能

サークル勧誘を残席以上に出す事ができる(勧誘が来たといって必ず入れる保証は無い)

サークルは30まで勧誘を出せる。

勧誘を受けた側は勧誘に対して明示的な拒否操作は出来ない(サークル側で取り消すか時間切れまで有効

・加入申請は同時には一つしかできない(申請相手が回答するか自分が取り消す、時間切れするまで有効

サークルへの加入申請は受付数上限がある(リーダーが処理しない限りサークルへの応募は制限される)

サークル乗っ取りとは

サークルリーダーになる気があっても、サークル設立した当月はランキングに参加できないという問題がある。

しかし2週間以上ログインしていない人が前月までに作った一人サークルを探し出して加入すれば自分リーダーの座を自動的に奪うにことができる

元のリーダーを除名し、サークル名前を変更すれば今月からランク報酬を貰えるサークルを新たに立ち上げることができる

ランク

サークルランキング

SS 1~10

S+ 11~30

S 31~100

A+ 101~500

A 501~1000

B+ 1001~3000

B 3001~5000

C+ 5001~7000

C 7001~10000

D+ 10000~

重要な事

●靴回しとは

サークルでは靴の寄付リクエストすることができる

寄付したほうの人は対価としてサークルポイントがもらえる

サークルポイントピースストーリーSSRカードの交換に使えるので沢山稼ぎたい。

そこでサークルポイントを稼ぐ方法として、お互いに協力して余ってる靴をどんどん募集&どんどん寄付しあって、サークルポイントを稼ぐ方法発見される

これが靴回しである

●靴回しのお約束

靴は一日10回送ることができる。

一個につき5ポイント貰えるので一日最大100ポイント稼げる

一回につき1個、または2個送ることができるが必ず2個で送る事。1個で送ると自分も損だしみんなも迷惑

ランキング報酬について】

サークル所属してから14日(336時間)たたないと貰えない。

報酬貰える加入期日】

28日:遅くても14日に加入必要

月29日:遅くても15日に加入必要

月30日:遅くても16日に加入必要

31日:遅くても17日に加入必要

【月ノルマ早見表】

3000万:毎日110万目安:30人×30日=900,000,000目安

4000万:毎日140万目安:30人×30日=1,200,000,000目安

5000万:毎日170万目安:30人×30日=1,500,000,000目安

サークルリーダーは何をすべきか

リーダーには除隊権利が与えられている。

サボっているメンバー除隊させてサークル士気の向上を図る必要がある。

月間のファン数をエクセル管理メンバー発破をかけてランキング上位を目指すことになる。

口答え、反論するメンバー存在するだけでサークル不和が生じるので即除隊が好ましい。

2021-05-04

anond:20210501234826

罵声体罰が繰り返され耐えられない人は脱走したり除隊したり自殺していなくなる

疑問や質問をする人は睨まれて消える

耐える人も入る前に思い描いていた理想を忘れ怖い先輩に怒られないことしか考えられなくなっている

正しいから正しいと上から命令を全肯定する人だけが残る

肯定を「装う」人は本心と建前の板挟みで苦しんで病めるから

じゃあ残ってる人で場を牛耳っている元気な人は本当にそう思ってる人である可能性がきわめて高い

2021-03-11

anond:20210310054301

そう

トップ悪党だったら不正に加担してない部下を出世させないよね

そいつが偉くなったら自分告発しかねない

チン毛を燃やしより多くの同期生虐待して除隊させた人を後継者にするはずだ

2021-03-07

anond:20210307220114

富山交番襲撃犯の陸士長陸上自衛隊基地内でも突発的に暴れる危険人物だったらしいけど、普通に生きて除隊してるじゃん

2021-02-20

anond:20210220164002

からチェホンマンは逃げてないんだよバー

正式検査して除隊になってんの

言いたいこと決めうちで言おうとするからそんなちんぷんかんぷんなこと言い出すんだぞ

韓国国民性やばすぎだろ

昔K1で活躍してた2m越えのチェホンマンって選手が今は大阪に住んでる

理由兵役を勤めなかったか韓国でめちゃくちゃバッシングにあったか

しかも、別に不当は手段兵役逃れしたわけではなく、身長体重規格外除隊になったか

当たり前だが、兵隊なんて飯から備品装備まで全部規格があって、小さ過ぎても勤まらないしでかすぎても勤まらないもんだよ

ちゃんとした事情があるのに韓国に住めなくなって大阪に住んでる

お前らこの中世以前の価値観批判しないでいいのか?

2021-02-09

anond:20210208221008

二回の緊急除隊宣言を経てインプットを何もしてない人との差がでるのがこういうところなのかもしれない

2020-10-19

徴兵制が復活したら言論の自由は一瞬でなくなる

政府に都合の悪い言動をしたら、クジ引きで選ばれた風を装い懲罰徴兵され、格闘訓練中に心臓マヒを起こし死ぬ

格闘訓練上等だという体育会系左翼は、任期満了除隊をした後の20年後に、何か理由をつけて再召集。老骨に鞭を打たれ基地内で心臓まひで死ぬ

はだしのゲンに出演した町内会長みたいな右翼を演じないと、平和人生が歩めなくなる

2020-10-08

anond:20201008201016 anond:20201008210355

学術会議ベトナム戦争軍事研究反対したおかげで、自衛隊ベトナム中東戦争に行かずに済んでるんだよ

軍事研究国産廉価戦闘機空母昭和配備されていたら、日本人大勢死んでいる

大勢の隊員が死んで、逃げるように除隊する人も続々出て、自衛隊を補充するために徴兵

自衛隊でなく普通の日本人もが戦争強制連行されて大勢が死んでるよ

装甲兵輸送車なんかもまともなものが完成してたら、米軍と同伴行動してイラクパトロールして爆死してたよ

戦争反対

見苦しい戦争反対

でもそのおかげで大勢が生きていられるの

格好よく死ぬより見苦しくても生きていたいか原爆悲惨な死に方しているやつを大勢見捨てて無条件降伏して投げだしたんだろ

平和憲法で正しいだろ

2020-08-15

8月15日に記しておきたい怖い祖父の話

大正まれ祖父は、坊主頭メガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子であるから聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。

対照的祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。

祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父遺影インテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真遺影の人でしかなかった。

そんな祖父遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父政府が贈ったものだ。戦後日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。

去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父戦後抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎山中にある村で、家業農家という典型的な家だった。時代時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。

その頃から興味が沸いていたんだと思う。

遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。

私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日実家終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。

兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要ものは、対象者が故人の場合申請者との繋がりがわかるための除籍謄本戸籍謄本といった、役所簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。

まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言事実のみであるのだから

待望の兵籍簿は一か月かからずに送られてきた。

当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。

読み解いてまず驚いたのが、祖父1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州国境警備をしていたらしい。大きな作戦戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。

次に驚いたのは1944年2月祖父除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父満州終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父人生はガラリと色を変えた。

千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。

千島列島といえば、日本降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。

お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島ソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前漠然としているだけで、よくわかっていなかった。

どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。

祖父のいた部隊結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。

得撫島はもとより、千島列島自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空から米軍攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれ沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。

得撫島ラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずはいられない。

兵籍簿には、祖父召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。

昭和20年

8月15日終戦

9月29日ソ連により武装解除

10月19日ソ連により得撫島出発

10月24日ソ連ポートワニー上陸以降土工作業従事

昭和23年

7月22日舞鶴上陸

古ぼけた紙は語っていた。戦争8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ祖父戦後も長らく闘い続けていた。自分血縁である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父存在への深みが増した。

シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。

祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。

ここでは政治的な話はしない。

兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父存在がぐんと近づいた。存在のものを実感した。祖父ちゃんと生きていた。過酷時代を生き抜いた。ドラマ映画主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和世界ツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。

兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。

仏間へ行き、再び祖父遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影漠然とした無機質なものではなく、凄惨時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。

2020-04-01

上司警官射殺した元巡査懲役22年判

適応障害とかパワハラとかケアとか訳の分からんうご意見があるけど

仕事がきついなら階級能力が見合ってない=ふさわしくないか除隊すればいいだけじゃん

学校だって授業についていけなかったら退学じゃん

擁護する連中は何で続けるのが前提なってんだ

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2019-12-30

anond:20191230150314

同じ疑い持ったジャーナリストがそのへん調べてて「ベトナム戦争で死んだ日本人は何人もいたけど、全員傭兵としての参加だし、そのなかの自衛隊関係者にしても除隊してからの行動だし」みたいな回答してもらってるの見て絶対に現役自衛官戦死してるなと思った。

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