はてなキーワード: 転用とは
不服審査 原則書面 口頭求められたら必ず口頭の機会与えなければならない。
廃棄物処理業の許可は根拠が法律なので行政手続法が適用される。
拒否理由を示すこと。あきらかに適合しない時は聞かれた時に答えるでよい。
蚊がくん、造幣くん独立してる。靴を履いて立っているイメージ 羽が透明で透明性。民間人。
特殊性癖のあるエリートNHKとタバコ野郎。相当ダーティで総務省。
力づくで加入させるマッチョなコウキは健康体取っ組み合いが得意。
債権者代位権 できない
夫婦、財産分与、慰謝料、認知、遺留分、債権譲渡通知(債権譲渡通知請求はできる)
登記、賃借、債権譲渡通知請求、担保価値維持、共同相続人の代位債権
東京に賃借して🦏を譲り受けて飼う🦏の名前はタンポで共同で相続して飼うのでお金の分担するから請求
詐害行為取消権 基本金、特定物おk、詐害行為前に発生原因が起こってたら取り消させられる。方法は裁判のみ。
取り消せない
コンソーリ🦏つーちゃん
娘を知らん男のいる部屋に連れて行って種付けさせて、生まれた子供も男で性格荒々しければ睾丸摘出して従順にするんだな。
種の保存がーともよく聞くが、人乗せて早く走るために送り出して、成績出せなければ食肉に加工する前提で、大量に繁殖させて上澄みの数%でレースしてるよね。
自分が鞭でぶっ叩かれるときに「これは必要な鞭。規定でも認められてる」って言われて納得できるの?
競走馬関連の人の、馬が好きで愛情持って接してるってのは嘘をついてるわけじゃないんだろうが、結局そこ避けて通れないから白々しく感じるよ。
美化しないで「食用家畜のうち足の早いものを選別して、競馬に転用してます。早く走る馬の姿は美しく、見るのは楽しいので、金になります。これは人間の都合で、馬自身がやりたいことではないかもしれないが、競馬という文化と関係者の生活のために止めることができません。今後もどんどん繁殖させます」と言った方がいいよ。
ついでに言うと、俺はペットについても「人間が執着して依存していて、好きな時に弄びたいがために死ぬまで家に監禁する」ことを「家族に迎えて責任を持って飼う」って言うのもやめた方がいいと思ってる。
あと、害獣を遠慮なく撃ち殺すことは反対してないよ。
便乗。
元増田のタイトルには断固反対するのだが、内容には同意する部分もあったので、勝手ながら自分流に書き換える。
「べき」という書き方は好きでないが、元増田に寄せるために残した。
「やってほしい」が個人的な思いとしては正しい。
元増田で挙げられている2例には触れない。
前提として、芸能人だろうと漫画家だろうと、政治的な発言をする権利はあると考える。
一方で、Aの分野で評価を受け有名になった人が、Bの分野で発言した場合。
評価を得ていないB分野の発言が、A分野で持っている発言力で広がってしまう。過大な影響力をもつ。
例えて言うなら、曲を聞きに来たコンサートの客に、今度の選挙はよろしくねー、と宣伝するような気持ち悪さがある。
話は変わって、
youtubeなどで、芸能人が公式チャンネルの他にサブチャンネルを持って別分野の発信をしている人がいる。
音楽アーティストのゲーム実況チャンネルだったり、お笑い芸人のペットチャンネルだったり。
メインチャンネルのチャンネル登録者数よりずっと少ない登録者数でひっそりやっている人もいるし、結果的にサブチャンネルのほうが登録者数が多くなっている人もいる。
何人か見ていくと、サブチャンネルの登録者数は、メインチャンネル登録者数に比例していないように思う。もちろん影響はゼロではないだろうが、サブチャンネルの登録者数はサブチャンネルの内容がメインチャンネルによらず評価された結果だろうと個人的に推測している。
政治的な発言に限らず、他分野で活動するときは、別チャンネルでやったほうがいいのではないかと思う。
芸能人の趣味チャンネルのように、メインチャンネルとのつながりは隠さずにやればいいと思う。
ただ、他分野に発言するならその分野での評価を別チャンネルとして積み上げていってほしい。
ここでいうサブチャンネルは、必ずしもwebシステム的な話だけではない。
元歌手、元スポーツ選手などが心機一転政治の世界に挑戦するなら良いと思う。実質別チャンネルみたいなものだから。
ただ、現役の人が、メインチャンネルで稼いだ影響力を転用して、他分野に意見するのはやめませんかと思う。
内容にそぐわない影響力で差別を誘発する可能性もあるし、一般人が真面目に反論しようにも影響力が違いすぎて反論にならない可能性がある。
一般人が自分の生存権を脅かされて、必死に真面目に反論しているのに、心酔するファンから叩かれるのを見るのもつらい。
真面目な反論が「芸能人のくせに政治に意見するな」という暴論と同じ括りにされて、有名人ファン vs 有名人アンチ みたいな構図に巻き込まれてかき消されるのも見ていて悲しくなる。
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。
https://digital.asahi.com/articles/ASR4X5W45R4XULFA00B.html
公平を期すために、Chat GPT4に要約してもらった。
防衛力の抜本的強化を目指す岸田政権が推進する、装備品開発・生産基盤強化法案が5月9日に衆院本会議で可決の見通し。法案では経営難企業への国有化が目玉となっており、専門家からは企業救済が目的となる懸念が出ている。法案は衆院安全保障委員会で与野党の賛成で可決された。政府が支援策を強化する背景には「防衛産業は防衛力そのもの」との考えがある。ただ、「不可欠な装備品」の定義があいまいで、国有化された施設の運営企業を支えるために国による恣意的発注が起こる懸念もある。
これに対して「アホか。全く逆だボケ」という事を訴えたい。特に異を唱えたいのは以下の部分だ。引用する。
前提となる「任務に不可欠な装備品」の定義はあいまいだ。国が取得した施設はできるだけ早く他の企業に譲り渡すよう努めるとの規定もあるが、実効性は不透明だ。
法案に反対する共産の赤嶺政賢氏は27日の安保委で、「採算も効率も度外視して施設を買い取り、増強し、製造をさせる。究極の軍需産業支援にほかならない」と批判した。賛成に回った国民民主の斎藤アレックス氏も「経営が厳しくなればまずは補助し、それでもさらに厳しくなれば買い取ってあげるというのは、衰退の道のりだ」とクギを刺した。
あほか。そもそも採算も効率も度外視させておいて、何を言うか。採算も効率も求めるなら、防衛産業なんぞ撤退が第一選択である。維持するなら度外視が必要に決まってるだろう。
また、経営が厳しいから撤退するのではない。経営が順調だから撤退するのだ。基本を抑えて話をしろ。
防衛産業の市場規模は3兆円であると言うのが定説だ。これはどれぐらいの金額かというと
はっきり言ってゴミ。市場が小さすぎる。そしてこの中には、いわゆる「防衛産業」には入らないものも含まれているので、「防衛装備産業」というと、もっともっと小さい。
防衛産業は、性質上「国の予算が産業規模」という性質がある。2023年の防衛予算は約6.3兆円である。多いじゃないかと思うかもしれないが、この数字は、アメリカにGDP比2%まであげろと言われたために海保予算などをぶち込んででっち上げた数字だ。
さらに、このうち、8割が人件費などが含むため、実際に民間に出てくるのは残り2割程度であり、残りが装備品に回る。しかし、現在はかなりの部分が海外からの調達になるため市場はもっとしょっぱい。
日本の防衛産業の特徴は、ほぼ「副業」であると言うところにある。最大手の三菱重工業であっても、防衛産業比率はたった16%以下しかない。そのほかの企業ならば言わずもがなである。
なので、まともな経営判断をする企業であれば、防衛に大規模な投資をすることなど有り得ない。何故なら、他に稼いでいる仕事があるからである。優先度が低くなる。
さらに、国家予算から出ると言う性質上、利益率は一律に決まっており、ケースバイケースだがほぼ1割程度に設定される。実際はそこから自社の持出が出てくるので、概ね2から3%と言われる。
これは、全産業のうち、黒字企業の平均利益率が概ね8%程度と言われるのとみると低い。さらに防衛産業が多く入る製造業に限っても、7%の利益率が当たり前であり、低すぎる。
そして、実態として殆どの企業は、防衛部門を赤字にしないために、利益率のある部門をくっつけたりとすれすれのことをして維持していると考えられ、実態は更に悪いと思われる。
では何故やるかというと
と言う事だったのだが。
見れば分かるが、これは「求人を出せばいくらでも人が雇える」時代の考え方である。しかし、実際には人的リソースは限られるようになってきた。
儲かる事業を伸ばしたいときに、簡単に人材をスカウトできない。そうすると、自社内で確保する必要がある。その時、まともな経営者であれば、利益率の低い事業を潰して、利益率の高い事業に振り分けるだろう。
最後の「技術開発」についても、防衛の技術の先鋭化により、殆どうまみがなくなった。防衛の技術を応用して民間技術に転用できるようなものなど、もはや皆無なのである。
以上の様な構造から、防衛産業は撤退する企業が出るのは当然である状況だ。それも、替えがいくらでもある、本業と同じラインで防衛産業の製品を流せる企業ではなく、防衛装置専用の特有のラインを維持しなければならないような所ほど、撤退する方が良いと言う状態である。
どうも、件の記事で「救済が目的となる」などと恐れている連中は「赤字の防衛部門を維持できなくなるほど会社の体力が無くなって、潰れそうになるので、リストラする」ということを想像しているように見える。
無意識に、防衛産業が儲からないことを前提としているのである。
しかし実際、大規模に撤退しているのは逆だ。本業が儲かっていて拡充したいので、防衛産業を潰して、そのリソースを他に宛てると言う社内再編のために撤退しているのである。特に引き続き生産を維持する為に、設備更新などが必要なタイミングで精査した結果、好調な企業が、株主に説明ができないとして撤退に至るケースが多い。
そして、件の制度はこの時「撤退するならその設備を格安で売り払え。新会社作って国有化するから人も出向や転籍させろ」ということをやろうというのだ。まさにお国のためにやれというのである。そして、制度ができてしまった。
制度ができてしまったので、企業側は世論を背景に、拒否することが難しくなってしまった。こちらの方をきちんと批判してくれ。
少なくとも、ラインの評価額ではなく、明け渡す機会損失についても含んだ金額で買い取る制度でなければならないはずだ。
新たに防衛産業に参入する企業など皆無、入っても詐欺的、あるいは思想的に偏った企業ばかりになるだろう。民間の技術の活用など夢のまた夢になる。破綻する。
少なくとも、実効ベースで1割程度の利益率が出るようにするのと、官僚的に年々一律で生産やメンテの契約金額を減らしていくやり方を変える事は必須。
生産ライン維持に、特有の特殊設備の更新が必要という事になっても、契約をそのまま維持しようとしていては、そのタイミングで撤退するに決まってるだろう。一般企業の契約形態としても有り得ない。
産業維持の効率化のために資金を供給するとかそちらもやると言っているが、そうじゃない。お国のためだと搾取する構造をやめよ。役所がコピー機を契約するのと同じノリで、防衛産業に契約を強いるな。
付き合ってられるか、という他にない。
本当はこういう文書くのどうかなあと思ったんですよね。
こんなこと書いて自称ジャンルの治安維持を名目にしたお気持ちヤクザみたいなファンって言われると困るなと思うけど、言われても仕方ないしなと思いましたし。
対象は子供向け作品ですし、実写作品で現在大人気のコンテンツですし。
でもちょっと昨今の意見の分かれ方を見まして、「考え方を変えろとは言わないけど頭の片隅には置いておいて欲しいな」と思ったので書かせて頂きました。
大人気の特撮シリーズでウルトラマンってシリーズありますよね。
去年大盛況でしたね、「シン・ウルトラマン」とか。
最近新しいウルトラマンと番組の放送時期の発表が来たり、今も新情報のカウントダウンが行われていますね。
その新情報を巡りまして、その中の一つの作品、「ウルトラギャラクシーファイト」という作品が今注目を集めています。
「ウルトラギャラクシーファイト」は今3シーズン?3作品?出ています。
最初のシーズンは今「ニュージェネレーション」というジャンルで分類される新しいウルトラマン達(キャラ名は沢山いるので割愛します)にスポットライトを当てた話でした。
その次のシーズン、「大いなる陰謀」、続く「運命の衝突」ではアブソリュートタルタロスという新しい敵、その仲間たちがやってきて、ウルトラマン達は新しい脅威に立ち向かわねばならない…という話でした。
「ウルトラギャラクシーファイト」というシリーズには実は基本ウルトラマン達しか出てきてません。
世間によく知られている、「人間とウルトラマンが何らかの要因で一体化し、その正体を隠し続けながら日夜地球に訪れる脅威と戦っているよ」という話では無いわけです。
まず「ウルトラマン」という作品は「円谷特撮ヒーローシリーズ」の一つです。
世間でよく知られているミニチュアのジオラマや、火薬による爆発、ウェットスーツや着ぐるみを着用したキャラクター達との戦闘を工夫を凝らして撮影したシリーズですね。
怪獣の口から出る光線で吹き飛ぶ街、逃げ惑う人々、ウルトラマンが怪獣に投げ飛ばされてその背中で押し潰される建物。
そしてウルトラマンと一体化することになった人間の苦悩、その秘密を隠し続けなくてはならないジレンマ、戦闘が続く中で人々を守るために常に選択と苦難に向き合わなくてはならない日々。
そして、人間とは全く違う存在、「ウルトラマン」達と種族を超え、文明を超え、理解し、絆を深め合うストーリー。
心が踊りますね。
長いので以降「ウルトラギャラクシーファイト」は「ギャラファイ」と略させて頂きますが、ギャラファイには実は人間、出てきません。名前を呼ばれたりはします。
ほぼウルトラマンと怪獣と星人と、「アブソリューティアン」と呼ばれる強大な敵の物語です。
「ウルトラマンとは人間との関わりを大事にした作品ではなかったのか」
「俺はウルトラマンが自分より脆くて弱く、利己的な存在である人間と接して影響を受けたり与えたりするのを見たいんだ」
という意見が出てきました。
「特撮らしく、人間にとっては巨大な建造物を軽々と超えてしまう身長を持つ怪獣とヒーローが戦い、街を破壊したり守ったりしながら戦うのが見たい」
「何かを守るために戦うのがウルトラマンではなかったのか。人間との関わりもなく大義名分もない戦いをされるのはウルトラマンではない」
という意見も見ました。
かなり前の作品なんですが「ミラーマン」という作品があります。
「ミラーマン」は大人も楽しめる特撮として作られた作品なので初期の方はかなり人間にスポットライトを当てた話があります。
自分の出自に苦しむ主人公や、生き別れになった親子、すれ違う恋人、心の寂しさを紛らわすために変な宗教にハマる人とかね。
でもその人間ドラマより、ミラーマンで人気だったポイントは「ヒーローが巨大化して巨大な怪獣と戦う」という所だったそうです。
これの裏付けになるかもしれない話がありまして、「ミラーマン」には裏番組として「シルバー仮面」という作品がありました。
ミラーマンが巨大化して怪獣と野山をころげ回って殴り合いをしている頃、シルバー仮面は商店街で敵を追いかけ回していました。
結果的に言いますとシルバー仮面もこれを受けてシリーズ中盤から巨大化能力を手に入れています。
つまり「巨大化したヒーローと怪獣の戦い」は視覚的なダイナミックさもさることながら、ただ大きくなったのではなく、戦う中でセットを派手に壊したり、爆発で吹き飛ばすあの迫力で人の心を引き付けるのだ、ということが証明されたわけですね。
それがギャラファイになりますと、まず舞台が宇宙の上にウルトラマン達の故郷、光の国とその周辺の惑星ですからまずみんなウルトラマンサイズで物が出てきます。
ウルトラマンが見上げるくらいの高いタワー、ウルトラマンと同じくらいかそれよりちょっと身長が高い敵。
その辺を壊してもあんまり心が痛まなさそうな岩だらけのなんにもない惑星。(焼き尽くすと心が痛みそうな緑に囲まれた星もありますよ)
これは確かに先程述べた特撮のいい所が全部取り去られたように感じますね。
その辺のゴツゴツした岩が光線で溶けたり切り落とされても、街中で戦闘している時、もしかしたら逃げ遅れた人がいるかもしれないビルが崩れて「ああっ大変!」という気持ちはちょっと湧かないかもしれませんね。
皆同じような身長の敵やウルトラマン達がボコスカ殴り合いをしてもその辺の人間の喧嘩にしか見えないかもしれませんね。派手な光線やアクション、音が付いていても。
なんでかと言うと「ウルトラマンに恨みを持つ連中」が大半だからです。
理由はまだはっきりと明かされていないのですが、ギャラファイ2、3でアブソリュートタルタロスは、自らもその一人である「アブソリューティアン」という種族の存亡のため、ウルトラマン達を排除したいと思っているのです。
なので歴代のウルトラマン達に倒されてきて、ウルトラマンに恨みを持っている強敵達を主に蘇生させて戦いに臨んでいるので割と地球は安全(多分)なんですよね。
となると「地球がピンチだから地球人の皆!力を貸して〜!」ともできませんね。
ウルトラマンシリーズのテーマの根幹である「ウルトラマンと人間の関わり」も描かれないわけです。
こうして描いてみると結構困りましたね、ウルトラマンシリーズの魅力の大半を削り落としているわけです。
でもギャラファイが全く魅力的では無いのか、と言うとそんなことはありません。
大きなポイントは三つ。
「ニュージェネレーション以前の歴代のウルトラマンをかなり網羅している」
「登場回数が少なかったウルトラマンのモードを細かく拾っている」
「各作品やメディアミックスにわたる小ネタを各所に織り込んでいる」
というのがポイントです。
みんなご存知ウルトラマン。
そのウルトラマンを最終話で迎えに来たゾフィーを初めとする「ウルトラ兄弟」と呼ばれる昭和から生み出されてきたウルトラマン達。
俗に「平成2期」と呼ばれるコスモスを始めとしたネオス、ネクサス、マックス、メビウスのシリーズに登場するウルトラマンたち。
そして、ウルトラマンUSAやパワード、グレート、リブットといった海外作品に登場したウルトラマン達。
ギャラファイ3にはミニアニメや劇場版作品だったナイス、ゼアス、ボーイなども参戦していますね。
これらを合わせると実に沢山の様々なウルトラマン達を登場させてくれたのがこのギャラファイシリーズです。
実はこの中には
「作品が発表されたものの、長らく客演もなく後日談でどこへ行ったのか、今何をしているのかも分からなかった」
「作品終了後、メインのウルトラマンしか客演がなく、サブのウルトラマンとどんな関係になっていたのか分からなかった」
「作品が終わったあとも、一緒に戦った仲間と協力して任務についている」
「とある惑星に留まり、誰かに力を与えたり、道を示す役割をしている」
そして次のポイントですが、今まで登場回数などが少なかったウルトラマンのモードチェンジなどを生かしているのもギャラファイです。
ギャラファイ2の時大騒ぎでしたね。
ウルトラマン達の危機に、共に戦った仲間であるウルトラマンジャスティスとともに駆けつけたウルトラマンコスモスのスペースコロナモード。
ご時世がご時世でしたから名前的に出せないんじゃないかって言われていたのにまさかの登場です。
スペースコロナモードってウルトラマンコスモスの劇場版にしか出ていないんですよね。
しかも宇宙での活動に適したモードですので地球に来るとよく知られてる青いルナモードやエクリプスモードになっちゃう。
でもギャラファイは宇宙空間の話なので何とスペースコロナモードでの登場に違和感がなかったわけです。
そして極めつけはウルトラマンコスモス劇場版3作目に登場したコスモス個人としての究極形態、フューチャーモードに、同じくウルトラマンコスモス劇場版3作目に登場したウルトラマンジャスティス クラッシャーモード。
そして更に2人が合体したウルトラマン、ウルトラマンレジェンドまで。
同じシリーズのクロスオーバー作品で客演は何となく予想出来ても、ここまで丁寧な客演での活躍描写はなかなか他でも見られないはずです。
そしてもうひとつ、ギャラファイ3に登場したウルトラマンネクサス、ウルトラマンノア。
ウルトラマンネクサスは「ウルトラマンネクサス」個人として三つの形態を持ち、ギャラファイではその全ての形態を披露しました。
そして特筆すべきは、ウルトラマンネクサスが持つ固有の能力、別次元を展開し自分を含めた対象をその空間の中に取り込む「メタフィールド」の能力を作中で描写したことです。
ウルトラマンノアはウルトラマンネクサス最終話に登場したウルトラマンであり、その特殊性は、客演したウルトラマンゼロが活躍する「ベリアル銀河帝国」でも書かれています。
しかしそれ以降の登場が殆どなく、ギャラファイで登場した際は多くの人を驚かせました。
ギャラファイではジャスティスのスーツなどがそうなのですが、ショーイベント用のスーツを転用したりして使われています。
しかし長らく登場の無かったノアは綺麗に新しく作られて登場したわけです。
ギャラファイ2ではコスモス、ジャスティス、ネオス、セブン21、80が共闘する話があります。
平成2期組、一人は昭和と一見関連性が分からないように見えるこの組み合わせですが、実はコスモスとネオス、80は他作品や時事関係で繋がりがあります。
コスモスはテレビ放送当時、事情があって最終回手前でテレビ放送を続けられなくなってしまったことがあるのですが、その空いた枠を1クール作品を作り走りきることで繋いでくれたのが、元々イベント限定のウルトラマンだったネオス。
そして、80は漫画「ウルトラ超闘士激伝新章」にて自分の力を制御出来ず苦悩するコスモスを宥め諭したキャラとして書かれた繋がりがあります。
長くなるので他の小ネタは各自でお探し頂くことをお願いしますが、ざっとこれだけの魅力がギャラファイにはあるわけです。
しかしそれだけが、今回ギャラファイに起きている賛否両論について考えたことではありません。
私がこれからお話する、「これを聞いて考えを改めなくていい。でも頭の片隅に置いておいて欲しい」と思う話は、まずざっと10~15年前の話に遡ります。
前衛的なストーリーとテーマで視聴率にかなり波があったウルトラマンネクサスが放送された頃でしょうか。
当時の時点で円谷プロダクションはかなり危うい状態だったそうです。
ウルトラマンネクサスのメタフィールドなどにその一端が現れています。
背景は不思議な光の演出、地面はゴツゴツしたあまり壊れるものがない岩場という異次元。
壊すセットの削減です。
ウルトラマンネクサスがほぼ毎回メタフィールドや山の中で戦っているのはこういった事情が反映されています。
ネクサスの終了後、マックス、メビウスと作品は続いていきましたが、その後長らく新しいウルトラマンが現れないという時期が続きました。
新しいコンテンツとして生まれた大怪獣バトルには殆どウルトラマンが出ず、怪獣で戦うレイオニクスバトラーレイモン、そして今後大出世を遂げるゴモラ、ウルトラQにて活躍したリトラなどが活躍しました。
そしてその大怪獣バトルの劇場版でウルトラマンシリーズに変化が訪れます。
もう10年以上経つけどニュージェネレーションの戦闘を切って未だに全然に立ち続けてるウルトラマンがいますね。
彼です。
彼の登場でウルトラマンを好きだった人々は大いに沸き立ちました。
大怪獣バトルの辺りでかなり会社が苦境に陥っていることはよく知られていたので「もう新しいウルトラマンを作れないくらい疲弊しているのか」とまで言われていたコンテンツが見事に彼の力で持ち直しました。
その後ウルトラマンゼロは宿敵であるベリアルとの戦いを続け、過去作品からリブートされたミラーナイト、ジャンボット、ジャンナイン、グレンファイヤーなどの仲間と活躍し、それは後のニュージェネレーション達、ウルトラマンギンガやビクトリー、Xやオーブ、ジード、ルーブ、タイガ、ゼットと後続の作品を押し上げていくことになります。
もちろんゼロやウルティメイトフォースゼロと呼ばれるチームのキャラクター達だけの活躍ではありません。
昔から集めていた人々はご存知だと思いますが、昔のソフビは今より大きく、種類も豊富でした。
放送終了したウルトラマンのタイプが数年後も全部売り場にあったくらいです。
しかし、大怪獣バトル周辺から種類は少なくなり、サイズは小さくなり、塗装も前身のみになっていきました。
しかしそれに対して挑戦したのがギンガやX。
「スパークドールズ」という足にコードが書かれたシールがついた新しいソフビを開発することで、「ソフビと玩具を連携するグッズ」を作り出したのです。
<緒戦>
・都市に夕暮れが落ちる、風もなく穏やかで、待ちゆく人々は皆一様に笑顔で街を歩いている。人々の顔や体にところどころ羽虫が這いまわっているが誰も気にしていない。同じ街の商店街を一人の男が血相を変えて走っていく。クモオーグが後ろ手を組みながら歩いて追いかけている。異様な光景だが人々は気にもかけず談笑を続けている。まるで視界に入っていないような素振りだ。「あなたは選ばれた個体なのですよ」とクモオーグが呼びかけるが男は聞こうとしない、そのうちに壁際に追い詰められ、クモオーグはゆっくりと男に近寄ると首を追って殺す。「Be Happy」とクモオーグは呟く。
「ブウン」という機械の電源が切れたような音がした後、夕暮れの町並みは徐々に暗転する。周囲の街並みがモザイク状に散らばり、やがてその裏から廃墟のような建物が露出する。注意深く見ると小さな昆虫型の機械が廃墟に張り付くことで街並みを再現していたようだ。クモオーグが呟く。「サーバーが落ちたのか…?まさか…?」、すると遠くの暗がりにバイクが停車し、乗っていた男が下り、ヘルメットをかぶったままゆっくりと近づいてくる。ぼおっとピンク色の複眼が浮かび上がる。「お前は・・・!」クモオーグが憤る。「バッターオーグ!・・・完成していたのか!」「違う」男が言う。
「仮面ライダー」「今からそう名乗らせてもらう」男は両手を左斜め上に掲げポーズをする(ここでタイトルが出る)
「またやってる・・・」双眼鏡でポーズを決める仮面ライダーの姿を覗くルリ子、ため息をついてPCを開き索敵を開始する。
「裏切者に死を。殺せ!」クモオーグが叫ぶと、Shockerのマスクが張り付いた市民がぞろぞろと集まり、クモオーグの横に一列をなす。次のカットでは全員がマシンガンや拳銃を所持した、黒スーツの戦闘員の姿に変わり、仮面ライダーに銃口を向ける。「この世界から武器の存在は抹消したはずでは?」ルリ子が遠くのビル屋上から双眼鏡越しに呟くと、クモオーグがその声を聞き取り、双眼鏡のスコープを見据えながら言い返す「緑川ルリ子…あなたが黒幕ですね。我々は用意周到なのですよ。バッタオーグの次に殺すのは貴様だ」
武器を構える戦闘員を前にした仮面ライダー。戦闘員を前に威嚇するように大きく両腕を広げた後、真下に一気に手を下ろす。すると強烈な突風が戦闘員の頭上から足下にかけて吹きおろし、携帯していた重火器が全て地面に叩き落とされる。「その力は!?」とクモオーグが叫ぶと、仮面ライダーは右ひじをぐっと引き「ライダー・・・・!」「パンチ!」と叫ぶ。右ストレートと共に強烈な突風が吹き、戦闘員たちは吹き飛び、壁にぶつかって血しぶきを上げ全員が死滅。クモオーグは自ら足に吐いた糸により風圧に耐えている。クモオーグは感嘆の声を上げる「プラーナの風力への転用…?その逆か?」「オーグメンテーション技術の新たな進化ではないか?私にもその力を!」クモオーグが糸を吐きかけると、一旦しゃがみこんだ仮面ライダーはそのまま垂直に跳躍して糸を躱し15mの高さに飛び上がる。
「ライダーキック!」その掛け声で空中に飛んだ仮面ライダーの背面から爆風が起き、クモオーグ目掛けて蹴りこむ態勢のままミサイルのように空を切る。慌てて糸を吐いて飛び上がったクモオーグであったが、仮面ライダーの足は彼の体を捉え、そのまま地面に着弾して血しぶきが上がり、クモオーグは絶命する。直後、クモオーグの死骸を見下ろし、本郷猛はマスク外してその死骸を見つめる。
「ひどいわね」近づいてきたルリ子がクモオーグの死骸を一瞥して言う。「死んでも泡にならない」と本郷が問うと、ルリ子はあきれたような顔で言う「このエリアの町の擬態が解けたのよ。死体は死体のまま、いずれ野犬に食われバクテリアに溶かされる、これが生命本来の姿なの」本郷は呆然としながら言う「人を殺した…だけど…全く躊躇いを感じなかった」「ところであれ何なの?」「何が」「あのへんなポーズ」「あれは、体が自然と動いて…なんだか気合いが入るんだ」「プラーナをより有効に使うためのプラシーボ効果のようなものかしらね」ゆっくり近づいて本郷の首に赤いスカーフを巻く。「ヒーローの証。似合っているじゃない」「僕はどうすればいい」「気にすることないわ。あんなのただの害虫よ」立ちすくむ本郷。
「次はハチオーグよ」
人類は地球温暖化による異常気象で、文明を維持することが出来ず絶滅の一途にあったのだが、外星人の力により、過酷な環境に耐えうる昆虫の力を全ての人類に組み込むことで、人類の判断能力を低下させ、昆虫型ホログラムで擬態した架空の都市に人々をつなぎ止め、外星人の用意した管理システム(Shocker)を核に人類社会を再形成するに至っていた。尚、統制された人類は共同体に属しているという強烈な多幸感を感じている。(※尚、外星人は超常の存在として存在しているため、あえて人類を救済した意図は描かない)
ほとんどの人類がそのシステムに飲み込まれたが、まれにプラーナの保有量が多く洗脳を受け付けない個体が発生するため、そうした個体はオーグメンテーション手術により強化された個体として生まれ変わり、Shockerのシステムエラーを防ぐ警備兵として存在することになる。
尚、人類の首脳がその権限を外星人に託す際、人類最後のテクノロジーによって生まれた、外世界観測用ロボット「K」を仮初めの人類社会の行く末を見守る存在としてShockerに預けている。
ルリ子の衝撃の告白。絶望に打ちひしがれ言葉を無くす一文字。自分が無く、何故戦うのかもわからず、どうしてもいいかわからない本郷は泣き笑いのような顔を浮かべ、顔を見られたくないのでマスクを被る。
<最終決戦>
飼われた人類に永遠の幸福を与えることを決意した緑川イチローと本郷・一文字の最終決戦。一文字は人類の洗脳を説くことが本当に幸福なのかまだ迷っている。
「いったい何を…」「奴を引き付けておいてくれ」と言うや否や、本郷はサイクロン号に飛び乗り、イチローの有する巨大なスキャナー装置の光線を受ける。「本郷!」一文字が叫ぶ。本郷が一文字をまっすぐ見据えてかすかに笑う。途端に本郷の全身が泡となって消えてしまう。
直後、仮初めの人類社会に異変が起こる。ショッカー戦闘員が「イー!」と叫んで平和な町を破壊し、人々は個々の生存を守るため、希望を求めて逃げまどう。仮初めの世界の人類に感情が戻ったかのようだ。「馬鹿な!本郷、いや仮面ライダーの存在をShockerのプログラムに書き込んだのか!?」狼狽するイチロー、遠くで傍観する「K」に向かって叫ぶ「この事態は人類の行く道ではない!想定外だ、プログラムをひとつ前に戻せ、K!」Kが言う。「私はShockerを抜けたルリ子と本郷の姿を興味深いと思った。人は孤独で、自分の感情がわからないほど矛盾していても幸せだと知った」「馬鹿な、ついに人類の究極の幸福を見出したというのに!」「この寂しい世界を受け入れようイチロー」
Shockerのサーバーが異常値に耐え切れずヒートダウンする。最終決戦の空間もこれまでの戦闘に耐え切れず瓦解し全てが暗転する。
<ラストシーン>
「聞こえるか本郷」
「ああ」
「生きていたんだな」
一文字は新型のサイクロン号に乗り、廃墟と化した現実の地球を疾駆する。
一方、再起動したShockerプログラムの中、仮初めの人類社会の中に怪人が現れ、仮面ライダー1号がサイクロン号に乗ってやってくる
「ああ、いい風だ、共に力を合わせてShockerを倒そう!」
ジャーン!!
いやー、もうちょっと持つかと思ったけど、うちの県も終わりに入ったわ。3月のこの時点で、講師が見つかっていない学校がけっこうあるみたい。
特殊な教科じゃなくて、英語とかの主要教科でも。あと家庭科とか。女性の割合が高い教科はピンチ。男性が多い、地歴とか数学はまだ何とかなってる。
採用試験は中学高校は倍率高いけれど、最終合格からボロボロ辞退が出て、本来は休職に入った分の講師を転用して正規教諭の不足枠を埋めて、足りていない枠の分の講師が枯渇。4月に教員足りないスタートの学校が激増する。
良さそうなことが起きると世間を騙して、コストカットの制度改革をした小泉純一郎は、この状況にも何も感じることは無いだろう。何が米百俵の精神だよ。
小泉のコストカットと安倍の免許更新制という無理やりな政策の影響が、今の現場に降り注いでる。
少子化で教員の必要数が減っていくから、調整弁として非正規をこき使ってしのごう、という邪悪な目論見が成り立たなくなっただけなんだけどね。
あと別に崩壊したといっても、全部の高校の全部の教科がダメになる訳じゃない。あの学校のあの教科はひたすら自習、とか、70歳オーバーの人が昔の知識で何となく教える、とか増えるんだろう。
あとは学徒動員で、まだ教育実習にも行っていない大学生に臨時免許を与えて、無理やりバイト講師に仕立てるか。
部活の地域化はなかなか進められない、とかいってる文科省だが、現場はもうそのレベルではなくなってる。時間割にある授業の担当者が埋まらない、時間割がまだ組めない、学年の教員団が決められないって、レベルで4月を迎えちゃう。
用法・用量を守らないレッテル貼りは「『自分はコイツが嫌い』と言いたいだけ」というレッテルを貼り返され、効果が薄まってしまいます
有用なレッテル貼りを今後も使い続けるために、濫用は避けましょう
wikipediaでも定義が複数あり、概要も「ネット上で右翼的な言動を展開する人々のことである」とフワフワしています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E5%8F%B3%E7%BF%BC
はてなキーワードでも「明確な"定義"というものは存在しない」とまとめられており、実際にブクマカ達も定義がバラバラです
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230222004618
用法が定められずに濫用された結果、ほとんどの日本人はネトウヨになってしまいました
本当に有害なネトウヨを指すときには「限界ネトウヨ」や「Jアノン」などを使いましょう
類義語としてはパヨク(サヨク)があり、こちらも濫用されています
ネトウヨと違い「特定の表現しか守らない人」に対して使う、という用法が決まっているように思えます
例えば、はてなキーワードでは「特定秘密保護法案等の、表現の自由への制限が懸念される法案には特に反対の意を示さないように見受けられる人」という定義があります
そのため、特定秘密保護法に反対の意を示している山田太郎は表現の自由戦士には当てはまらないことになります
https://taroyamada.jp/cat-other/post-1712/
ですが、山田太郎を「表現の自由戦士」と認定する人がおり、合わせて赤松健も批判していることから
「萌絵を擁護したら表現の自由戦士」という用法を無視した使われ方が一般的と考えられます
https://twitter.com/RyuichiYoneyama/status/1515224560903200768
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bucchinews.com/society/7040.html
単なる萌えフォビアやオタク(サブカルを除く)嫌いではなく、特定の表現しか守らないことや過度な攻撃を批判したいのなら「アンフェ(アンチフェミ)」の方がまだ良さそうです
(アンフェも単に嫌いな人へのレッテル貼りとして使われことが多いため、五十歩百歩かもしれまんせんが…)
ネトウヨの項目で「Jアノン」を例に出したのですが、今は使い方を少し難しくなっています。気を付けましょう
原因はColabo騒動を追及している暇空とその界隈に対して「暇アノン」と名前がついてしまったためです
元になったJアノン(もしくはQアノン)から転用して暇空側の陰謀論めいた推測や間違った指摘に対しての揶揄なら問題ないのですが
そもそもColabo関連を追及すること自体を「暇アノン」としてレッテル貼りをする人が出てしまっています
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2031096
使用者側も○アノンと揶揄されないためにも、用法の厳守をお願いします
霊感商法を揶揄する表現であり、最近では旧統一教会の信者(または深く関わりのある人)、という意味で使われるようになりました
現段階でこの用法から逸れた使われ方は見かけないのですが、問題は壺認定(信者認定)の濫用者が多数いる点です。
「自民党は壺」からの「ネトウヨは壺」の拡大解釈をした使われ方が広まっていくと、
自民党とも宗教団体とも関連性が無いのに「白饅頭は壺」「暇空は壺」といった言論も出始め、嫌いな人を叩くための棍棒になってしまいました
無理やりな信者認定は2021年から既にVtuberに対して行われていた事を考えれば、こうなることは必然だったかもしれませんが…
なるほどね設備の話しをしてたのね
「330世帯分の」って言葉から消費電力の話をしてるのかと思い込んでた
>一方で、水素ステーション、一般乗用車の急速充電に比べて考えると確かに高いが、大容量化は容易なので有利だと考えられている。
大容量化が水素ステーションの方が比較的に有利というのもYES
>また、水素ならば、一つのタンクさえ用意してあれば、そこからポンプなりなんなりで圧縮するのは容易だ。
>送電線などもそれを支えられるだけの容量が必要になるわけだ。
20年前の“次世代車”だった「燃料電池車」の厳しすぎる現在地
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73298
この中で気になるのが、水素を充填する時の消費電力量です。水素は充填時に、圧縮のためのエネルギーとともに、短時間で高圧充填すると温度が上昇するため冷却(マイナス40度)するエネルギー、システムの制御系のエネルギーなどが必要です。
これらの点について第2期報告書には、1kgの充填につき6.9kWh~8.24kWhという実測値が出ています。いずれも東京近郊の水素ステーションの数値です。
ということは、仮に「MIRAI」に5.6kgを充填すると単純なかけ算で、38.7kWh~46.1kWhが、充填時だけで消費されることになります。
水素ステーションの問題点はいくつもあるんだけど、充填時に電力をかなり食ってしまう
満タンにするだけで40kWh、15分で満タンにするなら160kWかかる
なので大規模化すると送電網の問題は水素ステーションにも出てしまう
>その一方で、水素ステーションであれば、今後使われなくなるであろう既存ガススタの設備を利用できるので、比較的インフラの整備は容易であろうと考えられていると言うのが、今のお話。
タイトルでも強調したとように今回欧州議会で採択された廃止はガソリン内燃機関を搭載する新車であり、電気自動車、いわゆるBEVのみ新車販売して良いという採択ではない
何なら欧州は燃料電池自動車、いわゆるFCVの可能性を全く捨てておらず、ていうか今回の採択に至る前ですら欧州の自動車関連団体から相当な反発がある中で採択された、つまり欧州の自動車業界は日本製自動車市場を敵視しているものの急激なガソリン新車廃止へ両手をあげて歓迎しているわけでない
これは色々と理由があるのだけれど、ガソリン新車廃止の影響はガソリン卸し業者だけでなくガソリンを一般消費者へ売るガソリン小売業者、つまりガソリンスタンドにも強く影響し、ガソリンスタンドとしては商売のノウハウの一部を転用できる水素燃料のほうが電気ステーションやるより良いんだよな
そして既に指摘がある通り大型車両による長距離輸送は電気自動車よりも燃料電池自動車のほうが向いていて、大陸国家群である欧州の輸送業者としても電気自動車よりも燃料電池自動車へ生きたいのが本音なんだよ
某国産大手自動車メーカーを貶めたいのか、もしくは極度の電気自動車推しなのか知らんけど、何故かこの辺りの事情を無視して燃料電池自動車に未来はないとか言ってる連中が居るけど、現実を直視するとアグレッシブにガソリン新車を廃止しようとしている欧州ですら燃料電池自動車の可能性へ強く期待を寄せていて、だからこそ今回の採択には燃料電池自動車が含まれてるのでハッキリと言うぞ?
この不文律はどうにかならねえかな?
俺は公式募集してなくてもバレンタインが近いから物理チョコ送付時にイラストそえて●●作品の●話ご出演の●●さんへ2023/2/14と自分の垢もかきこんで送る。
つまり「どのキャラあてに何の感謝をこめてだれがいつ」事務所とかスタジオとかにおくってるかを、イラスト書くほどの熱量とともに、明らかにしたかったわけ
でもそれやると添えた花とかチョコも全っ部無視されるのね! 結構高かったのにさ!
イラストがまずくてもカードなんだからよけてくれりゃいいだろが!
よく女子高生がやるみたいに、垢名だけを絵文字でつぶしてくれてもいいよ。俺も同担拒否とかで炎上したくないもんな。
去年、「サインのないめちゃうまイラスト」、花、チョコ、メッセージカードは全部公表されたのさ!
いや立派だよ!
けどたぶんそのサインないイラストは中学生だの外国人だのにグレーゾーンだ使っていいっておもわれちゃってるわけよ!
もっというと「公式絵をコピペしてラミネにして串つけて花にさして」おくるやつも公式から去年公表されてたよね!
それ堂々と著作権侵害してるのに大丈夫か?だし堂々とそれを公式がお礼をそえて公表してるわけよ!
あのキャラにはこういう熱心なファンがついてるって世間に知らしめたいわバーカ!
って中学のときの黒歴史やんけ、それをまた繰り返せっちゅうんか????
販売作品内イラストのコピペは目的によらず著作権侵害ってやっとかないといかんのちゃうのかい公式ィ?
どうにかしろやほんまに!
まあでも現実的にさ
イラストはピクシブに自前垢からのせる(収集対象であってももうしかたないよね)から、イラストカードよけていいからさ。
ほんと花・チョコが「だれあてに」来たかだけでも公表してくれ土下座。
ひとつめ
俺はピクシブとツイの垢ではキャラ同志のいちゃいちゃ妄想は軽くくりひろげているが
花に添えてるのは露出は顔しかないエロくない単体イラストだけだよ チョコつまみあげたり花もってたりするだけの無難なやつな
ふたつめ
実はチョコと花かって送ろうとしている主体はイラストかけない友達。
俺は友への援護射撃もあって書いてるだけで、本当はそのキャラは妄想できるほど最推しではない。
本当に好きではあるんだけど年に一回とか2回(キャラ誕生日)くらい単体でかっこよくかわいければそれで満足。
友人には無償で提供してる(郵送代とかプリント代を友人が持ってくれるっていうから便乗してるだけ)。
だけどやっぱりへんなとこに転用されたくないから絵師としてのサインは入れたいし(実名では一切イラスト受注してません、家族も知らないと思う)、
なにより、友が「あの人、他人の絵を自分が書きましたっていってる!なりすましだ!」ってへんなことで炎上するのもいやなわけよ
だって花もチョコも買ってファンレター書いて送付先までなんとかしらべあげてる友人が公表されなくてほかの公式コピペのが公表されるのつらくてみてられねえよ
まあ保育園で言われたのは1歳というのは食べ物を選り好みする時期らしく食事の廃棄も多いんだとか。
ならしょうがねぇか~と理屈の上では納得するんだけど、作ったものを頑として口に運んでもらえないという圧倒的な現実には毎回少なからず打ちのめされる。
これなら食ってくれるだろ!と当て込んで買った食材を大人用に転用も出来ず捨ててしまったことも1度や2度ではない。ファックSDGs。すまんな国連。
0歳のうちはベビーフードも食べてくれてたんだけど、ある日突然食べなくなった。それまで鉄板だった和光堂のアレやピジョンのソレも全部。
都には赤ちゃん関連のカタログギフト10万円分が貰える赤ちゃんファーストっていう制度があるんだけど、それで貰ったベビーフードが余りに余った。
ベビーフードのリメイクも色々試したんだけどダメ。仕方ないのでフードバンクに送った。すまんな百合子。そして始まった手作りの日々。
当該の1歳児は米、パン、麺食べる。芋はまちまち。何かしら形がハッキリ残った具材が入っていると食感が嫌なのか実に器用に取り除く。あら~上手ね~(怒)!
なので2~3mm角以下に粉々に刻んで混ぜて食べさせてる。ピラフ、チャーハン、ドライカレーは定番。スープは飲んだり飲まなかったり。
なぜかチヂミは食べる。結構固めに焼いても大丈夫なのは不思議だ。フルーツ、ヨーグルトは大好き。お菓子の類は外出時にしかあげないが大好き。
歯の生え方は問題ない。上唇小帯がちょっとあるくらい。胃食道逆流症とかはない。健康優良児で何よりだが食の選り好みはなんとかしたい。
レシピ本もクックパッドもYoutubeも各種レシピサイトも打率が低い。検索の時間ばかりかかって仕方がない。これと見込んで作ったものがダメだと徒労感ハンパない。お財布にも優しくない。
だからさ、保険の見積とかAI学力診断みたいに、なんか情報入力するだけで「これなら食べるかも」みたいなサジェスト出してくれるようなサービスが欲しい。打率3割あればプレミアム会員なります。
樹木を植え替える際に、植え替え後の生育が順調になることを期待して根を整理することを指す
それが関係者に事前にある程度の了承を得ておくことという意味に転じた
いつ頃に意味が転じたのか
交渉の際に用いられる意味に転じた根回しは昭和40年ごろから使われ始めたとのこと
しかし、植木職人くらいしか使わないような言葉がなぜ広まったのだろう
気になるが実際に使用された用例を探し当てないとわからないだろうなあ
だが、現代でも似たような例……専門用語が比喩的に使われて一般用語として広まる……は結構ありそうだ
例えば「解像度」とかそうなんじゃないか?(こういった言葉に何か名前はついているのだろうか?同様の例を探すのはなかなか楽しそうだ)
○ラウダ・ニール
※ジェターク姓ではない=後継ぎではない、と暗に周囲に周知されてるっぽいので……
→La1-1:Gu2を受けてCEO代行に就任。La1-2-1へ
→La1-2-1:グエルが学校を飛び出したのはスレッタのせいだと逆恨み。シュバルゼッテを生産。スレッタと決闘/スレッタの命を付け狙う
○ミオリネ・レンブラン
・総裁選
→Mi7-4-1:運び屋フェンのツテを使って宇宙議会連合に協力を仰ぐ。ミオリネとの関係や交換条件は不明。本編待ち
→Mi7-5:奮闘の甲斐なくグループ分裂。少なくともグラスレーは離脱
→Mi8-1:エアリアル改修について問答。ここでスレッタ変化の理由を悟る
・12話で負傷以降
→De1:生存判定
→De1-1:手当ての甲斐なく死亡。
→直前にDe2-1-1発生。Mi7へ
→De1-2:死亡。De2-1は発生せずクワイエット・ゼロはプロスペラが権限を握る。Mi7へ
→De2-1:生存、でも重傷のためあまり動けない。ミオリネに託しMi7へ
→De2-2-1:プロスペラ阻止のためクワイエット・ゼロ計画をミオリネに話す
○ソフィ&ノレア #ここだけただの予想
彼女達は強化人士なのは確定っぽいですね。しかもそれぞれが魔女で花嫁だから、スレッタ&ミオリネのコンビに対抗するポジション。2クール目終盤までがっちり出演。
スレッタを「お姉ちゃん」と呼ぶのは血縁ではなく、お互い魔女と呼ばれる存在だから。魔女の先輩=「お姉ちゃん」かな、と。
あるいはスレッタも特性が違うだけの強化人士だったり。スレッタはガンダムSEEDにおけるスーパーコーディネーターのポジションでは。
2017年には解像度を本来の意味から転用してコメントするブクマカが見られる。もっと以前に遡れそうだが大量の普通の用法に埋もれていて面倒くさい。
言われてみれば、反実仮想と仮定条件が同じ構文って、物事を表現する言語として解像度粗くなってるな。完了形と過去形も、確かに言語として別の関数をあてるべき事象だわ。
文体アトピー増田? 解像度が荒い感じ。コンシューマーに近いゲームもあるのにスマホゲーって一緒くたにするのも雑だし、ガチャゲーにも無料分で満足しやすいものそうでないものがグラデーション状にある
記事としてはここらへんが古そう。鳥飼茜へのインタビュー。「鳥飼茜が言っていた解像度」というような言及もあったがインタビュアーのほうが「解像度」という言い方で話を振っている。
——これは男性に失礼なのかもしれませんが、男性の見ている世界ってもしかして解像度がかなり低いのでは?と感じてしまいました。
鳥飼 たしかに男の社会は解像度を低くしないと生きづらい。男性側もおそらく直感的にそれを察していて、物事をわざとラフに読み込んでいる感じがします。でもだからこそ色々な意味で寛容なんですよね。ちょっと腹立つことを言われても、すぐに気持ちを切り替えてなかったことにしてくれたりするから。
これもほぼ同時期。島国氏の言った「解像度」を対談相手が理解できていない。今のように普及していなかったと思われる。
島国氏:
さっきまで楽しそうにキャンプしていたのに(笑)。ドット絵のころの「FF」だったら、そんなところはゲームそのものの解像度の粗さの中に隠れていくんだけど。
hamatsu氏&TAITAI:
解像度?
岩崎氏:
この人はシステムや物語を含め、ゲームの表現しているもののトータルなレベルや細かさを、解像度という言いかたをするんですよ。
はてなで人気のふろむだ氏
原因特定解像度とは、「マーケ施策の成功・失敗の原因を、どれだけはっきり特定できるか?」ということ。
https://fromdusktildawn.hatenablog.com/entry/2018/11/21/091002
これも「大森靖子が言っていた解像度」といった言及が見られ、普及に一役買ったと思われる。
大森 それ解像度ですよ。ミスiD見てると解像度が上がる。解像度が低い人は全部同じメンヘラに見えるからそんなことが言えちゃう。こんなに色とりどりなのにね。
この前、あるトップ・ユーチューバーの男の会話を聞いていたら、「男で”こういう自分を認めて”ってのはいいけど、女が見せる自己顕示欲は引く」みたいなことを言ってて、結構げんなりしたんだけど、男は「こういう自分を愛して」って言えるのに女の子の評価ってまだそうなってないのかって、その人を見て思ったんですよね。そいつは「オレも大森靖子にフォローされたからメンヘラの仲間入りかなぁ」とかも言ってて。まだまだ世界は地獄だなって思った。こんな時代まだ続いてるのかって。フェミっぽいこと言うわけじゃないけど、女の子はもっと解像度高いし、もっと「自分だから」でいいじゃん。男女じゃなくて自分だからで戦えるように、かわいいも底上げしていきたい。
−−−追記
現存する増田での初出。その後も年1回くらい書かれている。2014年に「価値観の解像度」という言葉をひねり出した増田は珍妙な言葉を使うなとつっこまれていた。
実際の世界は複雑なのですから、単純で一軸の評価で終わることなく、沢山の見方、そしてそれぞれの関係性にも思いを馳せて下さい。
そうやって解像度を高めて行きましょう。モノクロモザイクな世界に留まる理由など無いのですから。
https://anond.hatelabo.jp/20100326095144
2010-03-26