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はてなキーワード: 明治通りとは

2023-11-19

anond:20231117171729

東京周辺の道みたいなしょっちゅう工事してるところを古いナビしか載せないで走ったら、今でも記憶だけで何とかしなきゃいけないだろ

俺の車のナビ上では江戸橋ICはまだ使えて、環二のトンネルは全通しておらず、新宿御苑明治通りバイパストンネル高田馬場駅近くの諏訪通りの立体交差存在していないことになってるぞ

2023-08-02

東京が持っている文化勝手に付け足し

https://anond.hatelabo.jp/20230731103637

 

1.西武東急文化

電鉄会社は始発駅にデパートを持っているが、この二社はちょっと特別文化ブランド化している。

両社ともデパートの一部に美術館を持ち、古典よりも現代美術などを扱う傾向が強かった。

また西武レコード店WAVEや巨大書店LIBROなども併設して文化/流行の発信者立場であった。更にこれら文化/流行事業ブランドとなってルイヴィトンなどのハイブランドの出店の寄せ水ともなっていた。

現在ヨドバシ西武出店で豊島区クレーム出しているのはこういう背景があるから

 

2.本屋

巨大書店が何棟かあるが、神保町三省堂池袋LIBRO池袋ジュンク堂六本木青山ブックセンター新宿紀伊国屋などは毛色が違って、売れ線の本を並べるのではなくて「推し」を優先して陳列するという特徴があった。「話題の本」が話題になる前にそこにあるという感じだ。売っているのは本じゃなくて文化文脈という感じか。ヘイト本陳列などで紛糾しているのはこの辺の事を知っていないと理解が出来なかったかと思われる。池袋ジュンク堂以外は退潮傾向。

 

3.レコード屋

渋谷その他のタワーレコード西武系列WAVE各店、CISCO新宿/下北沢ディスクユニオン秋葉原石丸CD館など特徴的なレコード店があり、これらでは売れ線のJPOPなどは余り売っていない。これも流行アンテナショップ的な感じでマイナーシーンでこれから流行もの、ここでしか買えないものを揃えていた。

CDの退潮によりこれらも退潮傾向(石丸大火災)だが、CDにかわりビニール盤(レコード)が復活してきたのでタワレコなどは盛り返しつつある。

 

4.外国人文化

広尾六本木欧米系、新大久保韓国人西川口池袋中国人、など外国人が集中して居住する地域があり、彼ら向けの商店など外国の風が吹いてるかの如くの雰囲気がある。またその地域では国内で見かけない外国製品が売られているなどエキゾチック文化的な対立などの問題も起きるが都会や資本主義というのは異物に包容力があるのでなんとかやっている。外国人との対立問題刑事事件などが根拠にされる場合があるが根本原因ではない。文化間の接触域では「文化を浴びる」感が日常で起こり、それが浸食されるという不安を産んでいることを忘れている。

 

5.米軍文化

東京とその近郊は戦前は軍都でもありそれらが全部占領されたのでその基地居住付近米軍文化に染まった。

占領解除と基地返還でこれらは忘れられつつあるが、近郊には所沢横須賀などアメリカテイストが残り、それを維持しようとする住民がおり、ニューイングランド様式の家+アメ車などの組み合わせを見る事がある。東京郊外だが埼玉入間市には米軍住宅をそのまま残したジョンソンタウンという街がある。

 

6.裏原宿

原宿は西から原宿駅\竹下通り明治通り-渋谷暗渠地域青山(線の傾きは高低差)となっているが、この渋谷暗渠に沿って民家改造した古着屋、インポートショップが乱立した。両方とも若い経営者米国西欧に行って古着市場日本に入っていない若手ブランド服を買い付けて一般民家を簡易な改造した店舗で売るというモデル。全国展開しているBEAMSなども裏原出身。今では地方都市ショッピングモール観光地周辺でも見られる業態だが、わざと「簡易な内装」を作るのは裏原の文脈があるから若者のスモールビジネスからセレクトショップアンテナショップ業態に移行しつつある。なお、渋谷暗渠に密集したのは、暗渠沿いには高いビルが建てられず地下が低かったから。

 

7.お祭り

地方より東京の方が中間共同体が残っている事が多く、お祭りが維持できているケースが多い。

 

8.ストリートミュージシャンパフォーマー

道路上での演奏禁止なのだ路上演奏者は多く居て、警察が来るとダッシュで逃げるというのを繰り返している。特に外国人民族衣装を着て民族音楽演奏するものなどは人気がある。

 

9.コスプレ

単にオタクが好きなアニメの服着てるだけに留まらないレベルの人が結構いる。そういう人は総じて相当な美人/美男であり服の装飾や裁縫レベルも高くて高級感もある。文化文脈摂取貪欲外国に出かけて実際の文化を見て吸収しようとするし写真レベルも高く、サブカルなのにハイカルチャーの趣きがある。SNS過去ログを手繰ると、昔から美人だったのではなくて文化の吸収や意識の向上に従って外見が変化している。だとするとそれを生ぜしめたコスプレという行為文化現象として上等と結論づけるしかない。

 

10.クラブ

クラブ遊びもちゃんとやろうとすると音楽知識海外文化現象理解などが必要になる。カッコだけの真似だとダサイ、浅いという評価になる。

 

11.環八

環状八号線の世田谷地区には外車ディーラーが並ぶ。外車は単に高級品というだけではなく、その国の文化というものを纏っているもので、特に米国イタリアフランスがその傾向が強い。故に環八外車ディーラーが並ぶ風景は車好きには外国風が吹いているように見えるものである

 

12.画廊/ギャラリー

ビル内装はがして壁も天井も配管も白いペンキ塗っただけ」みたいな小さいギャラリーが多くあり、マイナー作家マニアック展覧会が催されている。その辺の敷居の低い部分があるのを利用してお上りさんオタクつかまえてサブカル絵やラッセンの絵を高額ローン組ませて売りつける商法をしていた連中は万死に値するな。

 

13.商店

地方ではすっかり衰退してしまった商店街が東京では幾つか健在で、若者文化を取り込んで混在する下北沢とか吉祥寺とか買い物以外でも面白いところがある。増田のおススメは赤羽で、昭和マーケット形式商店、カゴに小銭入れてゴムで吊るしている八百屋とかも健在で、新しい飲食店も沢山あって混在している。更に飲食店にやたらとテラスがあるのが特徴で日本じゃないみたいな感じになっている。小奇麗なカフェから昭和立ち飲み焼き鳥屋はしごとか出来る。

 

14.モグリ

人気講師がいる大学には偽学生モグリが発生する。在籍していないのに勝手講義を聴きに来るやつだ。大学によってはそれを止めるつもりもない。更に学外者が立ち入るのが当然のように大学内で展覧会を開催したりする。

 

15.TV

テレビ局は働く人が多いので企業城下町的なもの形成していたりする。いけ好かないギョーカイ風でもあるがTV地位低下とオフィス街と一体になった再開発などによりオフィス街と混じる形になって衰退傾向(例:TBS赤坂TV朝日谷町六本木

 

16.建築

近代建築も多く残り、有名建築家の作品も多い。中に入って素材の質感、施工の程度などを触って確認できる。隈研吾のなんか食傷気味でもういらねぇとか思ったりする。但しザハ・ハディッドのは無い…。

 

17.ホコ天

今までも歩行者天国は色々なサブカルチャーを生み出してきた。だが加熱しすぎて警察禁止されたり通り魔が起きたりと都度潰されるという道を辿ってきた。今ではフェアなどで自治体大道芸支援するような動きがある。

 

18.大学

身も蓋も無いが地方大学東京大学では学生生活の質が違うというのはある。東京大事なのは同質性の低さで、地方から出てきた者、エスカレータ組、留学生帰国子女が混在している。特に帰国子女は「似た外見を持った異人」であって同質的学校空間で育った学生異化作用を齎す。概ね彼らはその異文化経験によって判断基準を「みんながそう言うから」に置かず、成熟して大人びていている。帰国子女とも留学生とも邂逅しない大学というのは大学と呼べるのか。

 

19.ホームレス自殺

ホームレス日常的に遭遇し、自殺現場居合わせるなどの経験鉄道など)により、落伍への強烈な強迫観念が刷り込まれる。当然これはいいことではない。だが影響を強く受ける文化現象として外せないと思われる。

2022-09-07

ニトリミニ水筒が酒器として優秀すぎる

アル中諸氏こんばんわ

ミニ水筒なんてゆるふわOLがそんなちっちゃいの持ち歩いてなんなんだよ、すぐに飲みきっちゃって水筒役割果たせねえだろ、可愛いって思われたいだけか!って思ってましたが非常に便利でしたのでご報告いたします。

スキットルとして

160mlのいわゆるミニ水筒。軽く小さく持ち運びに便利である路上でも電車内でも軽く水分補給をしている感じで飲酒ができる。カモフラージュ性が抜群である原宿明治通りを歩きながら素敵な顔をしてブラックニッカをグビグビイッてても不審に思われない。カジュアルだ。

入れるのはもちろんハードリカー。ウイスキーラムジンテキーラウォッカブランデー半日くらい入れっぱなしにして退勤直後にガシっと飲むような感じでそれなりに時間が経つ用途を考えると、蒸留酒ストレートで入れるのが雑菌とか余計な事を考えずに済むので良い。

氷止めのストレーナーが付いているので、1,2個小さい氷を入れてもいいが保温性はないのでロックというよりも濃いめの水割りと割り切るのがいいだろう。

ホットワインおすすめできません。ストレーナープラスチックで色がつくし保温性が無いからシケた味になります

シェイカーとして

160mlや350mlのミニ水筒ストレーナーが付いているのでちょっとしたカクテルシェイクする事もできる。

ちゃんとしたシェイカーを使ったほうがいいのはわかるが、映画なんかを見て急にマルガリータ飲みてえなってなったときにいい。

洗うのも簡単だし。シェイカーって、カクテル作る以外の使いみち無いから飽きたら邪魔なんだよね。

カクテルを家で飲みたくなるなんて1年に数回あるか無いかだし。でもその時にはむちゃくちゃ飲みたくなるので

銚子、カラフェとして

ワイン日本酒を冷やして飲みたいときボトルをそのまま置いておくと温くなるし、かといってなんども冷蔵庫と行き来をするのも面倒。

350mlか500mlの水筒食事中くらいならまあまあの保温性があるのでグラスを飲みきって注ぐを何杯か繰り返すには丁度いい量だ。

そのままではお燗には使えないが別でアルミタンポを持っていれば燗にした酒を入れればいい銚子になる。これは160mlでもいい。

醸造酒を入れる時にはストレーナーは外しておくこと。


ま、飽きたら普通にお茶でも入れて飲めばいいしね

炭酸入れられる水筒もできたけどビールハイボールはだめでした、うまくない

2022-02-26

福岡城堀でタバコを吸っているサラリーマンを見ただけ

福岡市赤坂という地下鉄の駅がある

その駅からほど近いところに舞鶴公園とか福岡城跡とか平和台陸上競技場とかが集まっている

正直、市外に住む僕としては一か所に機能がごちゃごちゃ集まっているので何と呼ぶべき場所なのかよくわかっていない

歴史を知らんが、福岡城跡地に公園やら陸上競技場やらを作った結果なのだろうと思う

地下鉄上下で平行に走る明治通り沿いに堀が残っていて、明治通りからは橋を渡って舞鶴公園に行く形となる

平日休みで行くところがなく、本屋に寄った帰りに舞鶴公園の近くの堀のベンチに座り、ぼおっとしていた

冬の堀はハチの巣みたいに乾いたハスの実があちこちに浮かび、濁った水面にしなびたハスの幹がガシガシと刺さってるくらいで、あんまり見ていてきれいなものではない

こんなところに平日に、人なんて来ないだろうから、飯屋が空くまで本でも読んでおこうと思ったんだ

それが五分おきくらいにスーツ姿のサラリーマンが来るんだよ

何してるんだろうとみると、端の方で煙草を吸ってるんだ

明治通りから階段下りて、堀の水面近くの小道に降りれるから上の歩道からはわざわざ下を覗かない限り、吸ってるのがばれないから都合がいいんだろう

50代くらいのおっちゃんが煙草の吸い終わりにかーっぺと堀に痰を吐いて去っていった

自身歴史になんの思入れもないから、近くのオフィスビルで働く人にとってもそんなもんなのだろう

しばらくすると、20代くらいの兄ちゃんスーツ姿でやってきて、たばこを吸っていた

さっきのおっちゃんと同じ会社の人か知らんが、ビル喫煙所がないんだろう

教えられたのか、足元に落ちている吸い殻を見つけて、同じ場所に集まる習性なのかわからんが、舞鶴公園堀はたばこ吸いポイントらしい

けしからんとかじゃなくて、どうせ吸う人は吸うんだからオフィスビルもたくさんあるし、近くに喫煙所を作ればいいのにと思った

公園があるような場所って景観気にするし、赤坂って福岡法務局とかの最寄り駅でお堅いイメージのある地域から色々難しいのだろうか

福岡城堀で煙草を吸い、痰を吐くおっさんを見て、珍しい生き物のニッチな生息地を見つけたような気分になった

2021-08-31

anond:20210829122513

左折レーン、直進、直進、右折

じゃないぞ

左折、直進、直進、直進 だろ?

池尻方面から渋谷駅明治通りは右折できない)

信号渡った後は、

左折、直進、直進、直進の4車線になるから

2021-08-30

anond:20210829122513

コインパーキング教えといてや、といつも思う。

駐車時乗り上げる人も、出車時ぶつける人も多い

あと教習所内の各所に一定確率で飛び出す人形とか置いてほしい。

教習の間に「万に一つ」の人身を人為的に起こしてもらわないと、

「起きない」と思い込んで危険運転常習者になるアホが大勢いるか

渋谷のあそこが初見しなのは確か。

赤坂方面行きたいのに新宿方面明治通り)入らされちゃうんだよね……

間違った車が四六時中無理して右に出てくるから、右車線もみんな警戒してるけど。

でも基本は諦めで、脱出図るとしても右ウィンカー出して3秒以上+ゆっくりヨロシクネ

2021-06-10

インターネットはもう池袋の超絶雑語りをやるのをやめろ

以下元増パクリの尻馬雑学開陳です。

引用URLは無い。ネットとかTVでの池袋の扱い全般への反駁&雑語りと思ってくれい

池袋の名の由来は西口南方にある弦巻川源流の袋池から

これ嘘だから!元池袋史跡公園っていうのを豊島区がこしらえちゃってるけどこれ嘘だから

あのさ、駅周辺のこの辺が池袋になったのって日本鉄道池袋駅を開設してからの事なんだけど?

それまで池袋っていうのは東上線二駅目の下板橋駅周辺が池袋だったの。今でもこの辺は「池袋本町」って地名でこれは池袋本村、池袋村のメインの集落だった所なのよ。

「袋」っていう地名は川が湾曲してその内側の土地の事を指すのな。江戸袋とか大袋とか色々あるがみんなそう。

今は暗渠化された谷端川っていう川が屈曲しててその内側の高台池袋本町(村)。池やら沼があったんじゃないかと言われているが記録が残ってないので池が付いた理由不明だ。

そもそもこの元池袋史跡公園がある場所っていうのは昔は雑司ヶ谷村だったのな。池袋村と雑司ヶ谷村の境界は大体今の池袋駅南通路の辺り。

それなのに遥か数キロも離れた池袋村の名の由来になるはず無いだろ。豊島区は誤解の元だからあの公園撤去するか説明書書き換えろってーの。

 

余談だが山の手台地の上で井戸を7~10m程掘ると水が出てくるんだが、それって粘土関東ローム層の下に砂礫層があるから。だからこの谷端川がそれだけ谷を刻んだ下流では小石だらけになる。なので下流小石川って呼ばれて地名にもなってる。

もう一つの理由農業水利権問題

東京山の手って山あり谷ありって言われるけど、そうじゃなくて谷だけがある地形なんだな。富士山伊豆の山が噴火した火山灰が積み重なって西高東低のかなり緩い勾配のまっ平らな台地ができた。

ここに多数の小河川が切り込みを入れた地形になっている。だから尾根の部分はほぼまっ平らな訳です。これは国道246の赤坂渋谷手前とか国道254の春日池袋六差路とかを走れば判る。この二つは尾根道の街道車道化したものでとにかくまっ平ら。

因みに上野赤羽等の線で台地がきっぱり切れ落ちて下町になってるのは海進時にそこからが海だったから。

というか、台地もっと東に伸びていたが波に削られて海食崖が後退したと考える方が自然上野赤羽って京浜東北線に乗れば判るが崖が真っすぐでしょう?これって海食崖の特徴ですわ。

あと、陸地が角になっている所って波の入射方向、角の先に真っすぐな海岸線が延長されるように砂嘴砂州が出来るけど、上野赤羽の角地形の先には砂嘴痕跡がありますよ。上野場合根岸砂州というのがあり微高地になっていてこの上に日光街道千住宿が作られていた。赤羽の方は名前不詳なれど川口戸田の喜沢の辺りに筋状の微高地がある。

 

脱線したがこういう地形だから山の手ではまっ平らな尾根部分では水を引けない。だから水田は出来ない。水利は限られたもので貴重だった。

農村である雑司ヶ谷村の水源だけ池袋村に属してる訳無いし(トラブルの元だ)、遥か離れた他村の水源地の名前に因んで池袋村名が決まる訳ないやろ。

から駅周辺が池袋になったのは駅が出来て以後の事なのだ。因みに古典落語でも池袋結構出てくるんだけど、当然それは下板橋駅周辺の事ですよ。

WEロードという汚いガードが池袋駅の設置場所を決定した

駅にはそこに至る道路があるのが当たり前。でもそれは今の事であって日本鉄道って鉄道官営鉄道1本しか無い時代鉄道を敷いた道なき道を行くパイオニアだった訳。だから日本鉄道側が既存街道に面して駅を作らなきゃいけない。

でも江戸時代には道路というのは軍事施設でもあった。だから数少ない街道以外は道らしきものはない。勝手に道を普請して罰せられたケースは数多くあり、その殆ど死刑だった。

それで、品川線(現山手線赤羽線)から新規開業する土浦線(現常磐線 当初の始発駅は田端)に繋げたい日本鉄道目白分岐としたかったが、雑司ヶ谷村に難色を示され更に巣鴨村に建設予定の近代監獄巣鴨拘置所、現サンシャイン)に重なると政府ダメ出しされてしまう。

そこで目白北側のまっ平らな辺りで分岐する事にした。ここまではよく説明される事だ。

問題はここからで、雑木林しかない、集落すらない場所乗客が駅に来れる様にするにはどうすればよいか

中山道板橋宿平尾追分から川越街道(現首都高中央環状線JCT大山サンロードハッピーロード)が分岐し、そこから直ぐに分岐して雑司ヶ谷を抜けて早稲田に至る雑司ヶ谷道という道があった。これは金井窪~ローソンストア100池袋本町1丁目店を右折して平和通り~WEロード明治通り鬼子母神電停前~と続く現存する道だ。

この道と日本鉄道線路が交わる所は踏切になっていた。駅を設置するならここしか無い。他に適当街道に接近するところがないからね。

って事で今のP'パルコ左側に駅が作られることになったのだ。WEロード正式名称雑司が谷隧道だ。線路が増えすぎて踏切では危ないのでガードになったのだな。

Wikipedia池袋駅の項には日本鉄道時代の駅の写真が貼られている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E8%A2%8B%E9%A7%85#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ikebukuro_Station_in_Meiji_era.JPG

これはWEロード前身踏切から撮られたもんだ。場所はP’パルコの裏手。

なのでこの汚いガード(の前身踏切)は池袋の全ての始まりなんであるのよ。

埼玉植民地化と洋菓子店タカセ

サンシャイン前身巣鴨プリズンで有名だがそれは東京裁判が決する迄の一時期で、東京拘置所だった。

東京拘置所を小菅移転して跡地の再開発の話になった時に周囲の地権者縁故者を集めて合意形成の場が開かれることになった。

ここで特に問題になったのが池袋駅直通地下街の建造で、強硬な反対派が居てその筆頭が東口洋菓子店タカセだった。当時タカセ小売店の有力な顔役だった。地下道ができたら当然人の流れは変わり地面店は売上激減する。

その為に駅直結地下道の話は流れてしまい。東急ハンズからの短い地下道東池袋駅アクセスルートとなる中途半端な形になってしまった。

この地下道建設流れで当時タカセ地元での評判はかなり低下したらしい。

しかしその後の埼玉植民地化=池袋駅~ハンズ学生向けの店舗の隆盛を見れば反対して正解だったとしか思えない。通路を兼ねた地下街なんてどうせ碌な集客力がない。そもそもハンズ前の道には丸の内線が埋まっているか地下街の幅は取れないんである

なので学生向け店舗経営者は出退勤の途上に今はやや寂れた感のあるタカセ前で一礼すべきである。若年向けのP’パルコだって地下道があったら出来てなかっただろう。P' のテナント一同もタカセ参りはすべきである

西武百貨店搬入口だけの為の信号機不思議

ここなんだけど、池袋行く人でここのおかしさに気づく人ってどれだけいるだろう?

https://goo.gl/maps/UQN2f86tQk8xXQPv5

逆を向いてほしい。西武搬入口だけがある。なのに信号機管制されている。何故だろうか?

そのわけは南のびっくりガードの途中にある。

https://goo.gl/maps/BR5VUwN7iYPUv5Zx5

ここから入るとJR線路と西武線の間の空き地に出る(入っちゃダメよ)。実は当初のびっくりガードはここを上がってから西武線を踏切で渡って明治通りに出るというルートだった。

この坂の上はJR用地で昔は国鉄貨物駅だった。つまり初代びっくりガードは国鉄をガードで潜って直角に折れて急坂を上り国鉄貨物駅の中を通り西武線を踏切で渡る。そして出てきた先がさっきの搬入口前の交叉点だったって訳。

 

現在中央東口っていうのは元は西武線の改札だった所で、西武運営するデパート武蔵野デパートエルメスがあるあたりにちょこんとあった。

西武はこれを増床したい。そこで改札の上にデパートを作った。

しかし当時の西武社長貪欲堤康次郎堤義明もっともっと増床だ!でも駅が邪魔だ!ならば線路を縮めて駅を向こうに追っ払えばいいじゃん。

という事で駅をずらすのに邪魔踏切廃止。その代わりに国鉄ガードの延長にガードを作った。そして踏切跡はデパート搬入口に転用

井の頭線渋谷駅や世田谷線三軒茶屋駅とか、商業ビル建てるために駅をその向こうに追いやって客はその分歩けっていう工事するのがあるじゃないすか。あれムカつきますよね。

あれを最初にやったのが西武って事ですわ。

こういう訳で「西武デパート搬入口だけの為に信号がある」状態が生まれた。一見それに見えなかったものトマソンである事を発見するとその由来が見えてくるって事ですわ。そしてびっくりガードなんて間抜け名前公的使用されてる事の方がびっくりだわ。

池袋 古いビルが多い

昭和29年地下鉄丸の内線が開通することになりそれに合わせて建築されたビル結構残っている。LABI建物代表格でここは元三越。今も所有者は三越な筈。

昭和28年頃の完成なので今でも売り場の裏は非常~に古い。客用エレベータもエレガ時代は真鍮蛇腹式だった。それでは客がセルフオペ出来ないのでかごは替えられてしまった(着床位置も手動ハンドルで調整する方式だった)。

LABIの裏にマックがあるがここは三越が所有していて地下にLABI搬入通路がある。マックの裏の建物LABI搬入口になっている。

新しそうなパルコ昭和32年竣工東京丸物デパートの居抜き。

いけふくろうの事の起こりは国鉄マンオヤジギャグ

昔は携帯電話が無かったから待ち合わせ場所を家の電話で打ち合わせておく必要があった。新宿駅東京駅には待ち合わせ場所としてアルプス広場銀の鈴があるが池袋駅には無かった。

そこで末期の国鉄の人らが考えて作ったのがいけふくろう。いけぶくろだからいけふくろう

国鉄はそれまでの親方日の丸体質ではダメな状況に至り、色々とサービスアップの為の試行錯誤をしていた。現在JRより熱心だったが如何せんセンスダサい

いけふくろうもかなりの失笑を買ったと言われているがその後豊島区などがフクロウの里などの歴史修正主義を始め定着するに至った。

いけふくろう像があるのは北通路階段付近という半端な場所だがこれはパルコ土地ぎりぎりのJR土地であるからいけふくろうダジャレを考えた国鉄マンの同定をしなくていいのだろうか?疑問である

サンシャインの地下に変電所

サンシャインの地下駐車場のそのまた下には地域暖房施設があって付近ビクトリアスポーツや東池袋駅ハンズビルなどに熱供給を行っている。

これは触れている本やサイト番組が多いが、実はその下に東電変電所がある。これはサンシャインで働く人も知らない秘密なのだが、数年前にあった新座でのケーブル火災による東京停電での停電地域によって変電所場所割れしまった。

城北線豊島変電所というのがここで、終端変電所内幸町東電本社の地下である

https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/hoan_shohi/denryoku_anzen/pdf/014_06_00.pdf

平和通り戦争状態

雑司ヶ谷道の駅北側戦後商店街となって平和通りと名付けられた。だがどういう訳だかヤクザ事務所がこの道路沿いに林立するようになり、やがて抗争が勃発、殺し合いまで始まった。

90年代後半になるまで路上駐車というのはルーズに見逃されておりその辺にとめるドライバーが多かったが、事情を知らぬ者は平和通りの組事務所前にとめてしまう。

玄関前塞いで車止められたら誰でもいい気分はしないが組となればメンツ問題でもある。戻ってきたドライバーはそのまま事務所にお持ち帰りとなって凄まれ絞られ少なくない詫び賃を置いていく羽目になる者もいた。

お巡りさんに泣きついても「こんな通りに駐車したら身の危険になるのは当たり前でしょ」と説諭される始末。平和通りなのに。

やがて銃撃事件などが相次ぎ非常線で封鎖される事もしばしばとなった。シャブ錯乱したヤクザが突然暴行を加えたり物を破壊したり自分を刺して血だらけで歩いていたり警察保護具で簀巻きにされている所がみられる事もあった。結構な高頻度で。北口レンタルビデオ店G〇〇が入居するマンションなどは上がほぼすべて893となってしまった事で有名だった。

暴力団新法の施行ヤクザは激減してこれらの風物詩過去のものとなった。

飯塚上級国民事故付近事故が多い

あの事故のあった道路はほぼ直線なのだがどういう訳か事故が多い。飯塚のは運動能力問題だろうがスピードを出しすぎる車&Jウオークする歩行者両方に問題があるケースが多い。見通しが良すぎて油断するのだろう。

過去の事例では130km/hで邁進するフェアレディZUターン中の1Boxカーに衝撃して1Boxの助手席女性が死亡するという事故があったが、普通Uターン側にも責任が問われる所、相手の速度が速すぎて予見不能として1Box運転者無罪判決が出るという事件があった。

10年近く争っての事だが異例な判決である。その後も事故が続くので信号機を増やしたりしたのだがあんな予見困難な大事故が起きてしまった。

10年位の命だった国鉄駅舎があった

池袋にいわゆる駅ビルみたいなものはなくてデパートばかりだが、戦争で駅舎が燃えしまったので戦後に鉄筋コンクリート国鉄駅舎というのを作った…のだが直後に民間資本建物を誘致する民衆ビル構想が立ち上がったので駅ビル解体され丸物(現パルコ)や西武デパートが建つ事になった。計画性無さすぎである。いや勢いがあったのか。

東に西武で西東武だが…

開通当時は武蔵野鉄道(買収)→西武東上鉄道(買収)→東武だったか最初は変じゃなかったよってのが定番豆知識記事だが、「東に東武」もあった。

サンシャイン手前~飯塚事故現場辺りの一帯は戦前東武鉄道根津嘉一郎が所有しており根津山と呼ばれていた。雑木林だらけの池袋駅~護国寺道路都電を通す事になり全部手放したのである

赤尾由美見た事ない

池袋東側の住人なら赤尾敏は誰でも知ってるけど日ころとか朝生かに出てるらしい赤尾由美見た事ある人いない。だってあん道場に居なかったじゃんよ。何赤尾敏赤尾敏って名前使ってるの?

小池百合子お祭りによく来る

お祭りには欠かさず来るね。で、それだけで「地元の人」って認知受けちゃう。贅六の落下傘なんだけどな。

以上、長々と書いたが結局池袋歴史ってあんまないのよな。だって鉄道来るまで下板橋池袋だったんだから

そういう事で池袋愛溢れる増田から最後に言いたいのは

雑司ヶ谷の方が渋くて古いものがあって面白い

2020-04-10

夜のサイクリング

会社が交代でリモートワークになった。

9:00 になったら家で会社PCを立ち上げるんだけど、実質開店休業状態のまま 17:00 まで。

ラクだけどこれはこれでダルい。どこにも行けないしね。


なのでリモートワークを終えたあと自転車で走ることにした。

おれは目黒の下のほうに住んでいるので、自宅から走る時はだいたい多摩サイなんだけど、17:00 からだと堤防サイクリングロードちょっと怖い。


そんなわけで都心方面に行ってみることにする。


まずは環七にでて、内回り平和島方面に向かう。大井町線の下をくぐり、中原街道を横切ってすすむと下り坂。

リコーのあたりも人が少ない。国道一号線も横切って進み、第一京浜左折する。


第一京浜都心方面に向かう。分かってたことだけど第一京浜は路面が汚い。

ハンドルバーに手を置いているだけだと跳ね回るのでちゃんハンドルを持って走る。



点々と現れる京急の駅を右に見ながら進む。北品川を超えたあたりで右に大きくカーブ

品川駅右手に見えてくるけどいつもより人は少ない。



札ノ辻で左に東京タワーが見える。曲がっちゃえばよかったなと思いつつ直進して、左折するポイントを探す。

三田左折日比谷通りに入る。NEC があるけど閑散としてる。



日比谷通りってずっと行くとどこに出るんだっけ。と思いつつ走る。芝公園そばを通る。

東京タワーをバックにした増上寺はいつ見てもカッコイイ。

名前がわからないけど面取りしたような高層ビルが左に見えて、きれいなビルだなと思う。



そのうち日比谷公園が現れる。ずっと昔日比谷公園トイレに入ったらそれらしい男性がたくさんいたのは良い思い出だ。



皇居の向こう側で左に入って新宿に向かうことにする。



と思っていると左が皇居になる。皇居の周りは歩いている人がパラパラいた。

しばらく進むと永代通りにあたる。曲がっちゃえばよかった。と思いつつ次の信号左折

目の前がお堀の T 字路を右折して内堀通りに入る。車が少ないのですんなり右折レーンから曲がれた。



お堀を見ながら進む。どこかで靖国通りに入らないと。

まっすぐ行けば靖国通りなのに、なぜか右折しないと靖国通りアクセスできないと思い込んでいて、竹橋を過ぎたところで右折する。

振り返ると全然車がいないのでさっくり右折レーンから曲がる。



すぐに靖国通りにあたるので、左折上り坂。武道館を左に見る。当たり前だけどなにもやってないので人は少ない。

ずっとまえここを通った時は凄い数の人がいて、帰って調べたらパフュームだった。



坂を上り切ったあたりで右に靖国神社市ヶ谷駅の前を右折。川を渡る。

ここの橋の上はいつもと変わらず混んでたので川べりの桜は見られなかった。



靖国通り外堀通りがわかれるところに分離帯ができてて靖国通りに進みやすくなってた。まあ車が少ないからだけど。



防衛庁を右にみながら進む。毎朝あの階段を登るのは大変そうだけどエレベーターとかあるのか。



いまの職場新宿なので、いつもの会社帰りと同じく 20から環七で帰ろうかと思ったけど、それもつまらないので明治通り渋谷に向かうことにする。

普段なら絶対避けるルートだけど、これだけ車も人も少ないならアリでしょ。



伊勢丹の前を左折して 20 号に入り、すぐに明治通りにあたるので左折



思った通り快適に走れる。新宿から原宿あたりは路肩が狭いうえ、結構スピードで車が流れてるので怖いんだけど、今日ラクラク

表参道もいつもよりずっと人が少ない。原宿から渋谷にかけては緩く下る。薄暗くて人が少ない。

休みの日は歩道からあふれた人が車道を歩いてたりするのに。まあ平日の夜だからってのが大きいけど。



宮下公園が知らない間におシャンティ建物になってて驚く。

さら渋谷駅あたりでは正面にデカいサイネージができてて、入り乱れる空中歩道と相まって 80 年代想像した近未来っぽい。



銀座線の下をくぐって 246 から帰ることにする。

246 が渋谷駅の東口から西口側に抜けるところは、昔と変わらず薄汚くてほっこりする。





246 を池尻方面に向かう。上り坂。この辺りはいつもどおり路駐トラックがうっとおしい。登り切ったあたりで旧山手通りにあたる。




旧山手通りのところで信号に捕まったので、そのまま旧山手通りに入る。

代官山あたりを見ていくのもいいかなと。

走り出して思い出したのは、この辺りは路駐が多いせいで(そいつらがハンドルをこじるので)路面がガタガタだったって事。

今更思い出しても遅い。三宿から学大に抜けるルートのほうがよかった。。




代官山交差点を直進すると駒沢通りあたるので、右折。長い下り

カーブの見通しが悪いうえにオートバックスの前に必ず路駐がいるのでちょっと怖い。

でも今日は後ろから車が来ないので思いっきり 2 車線の真ん中あたりを走る。





そのまま駒沢通りでおうちに帰る。祐天寺から学芸大学あたりはいつもと変わらない感じだった。

まあ、駅前まで行ってないけど。




家を出てからだいたいちょうど 2 時間ぐらい。シャワーを浴びてからチェーンに油をさそうと思っていたことを思い出す。

シャワー浴びる前にさせばよかったのに。もー。




それでは皆さん、良い在宅 & 自転車ライフを。

2018-10-10

上半身ヒョロガリ下半身デブおっさんです

ユニクロTシャツの上から無印パーカー羽織ってGAPスキニー穿いて、ABCマートで売ってたVANSデッキシューズ履いて出かけるのが、いつもの私服

大昔は明治通り沿いのセレクトショップやら路面店やらに、月何回も行ってたのが嘘のような現在生活

美容院だけは行ってるが、もっぱら白髪を隠すのが主目的

気がつけば独身のままでカネもないし、歳は取りたくねーな。

2018-10-05

anond:20181005010830

皇居を芯円にした環状網の道路と、地方へ向かう主要国道蜘蛛の巣メッシュ情報東京地理を覚えているのだが、それで説明しても東京人にはさっぱり通じない。

(例:渋谷明治通りR246、新宿明治通りR20、池袋明治通りR254みたいな)

2018-08-03

時代が変わった事は認識しているが

アラフォーの俺が若かった頃は、服のイケてる買い方は

だった。

そして靴やバッグその他小物は

だった。

ちなみにセレクトショップに行くのは、一定以上の服の品質保証されているなんてのは大前提で、その上で「オシャレなお店で買う事そのものステータスであり、目的化していた」と言っていい。

またブランド小物についても、マニアでもない限りブランドコンセプトの理解二の次三の次、大事なのは実物を手に取って「さすが定番と言われているだけある」と感心し納得して買うという行為だった。

したがって、必然的に服や小物の買い物=明治通りまで出かけるというのが公式化していた。

少なくともメンズは。


さて、そんな話も今や結構遠い昔。

ながーいデフレ不況のせいかファストファッション全盛となり、買い物は基本ショッピングモールユニクロZARAに靴はABCマートという流れが定着して久しい。

気が付けば俺も、休日丸々かけて明治通りなんて何年もご無沙汰で、いつもは地元ユニクロZARAを見て回り、ごくたまに複数セレクトショップABCマートプレミアステージが入った、東京近郊のデパートに行く程度になってしまった。


はいえ、やっぱり若い頃に身に付いてしまった買い方がクセになっている。

オシャレってのはイケてる店だよ定番ブランドありきだよって感覚が、折に触れてリフレインする。

でも、自分が若かった頃のアイテムの買い方は、今や


中途半端ダサい

モノ・マガジンバイブルっぽいキモさがある」


らしい。

なんかもう、タワレコHMVミリオンセラーCDを買う事が化石化した話と同等な扱いになっているっぽい。

別に俺はファストファッションを見下してないどころか、ファストファッションだけでオシャレなんて、全身ブランド品なんかより遥かに凄いしイケてると思う方だ。チープシックいいじゃん。

それなのに、昔は正義とまでは言わないが、イケてると言われていた行為が、ダサいおっさん嘲笑対象というのが腹立たしい。

そこまで滑稽に見えるのか…と凹み気味だったり。


何がそんなに可笑しいのか、教えて欲しい。

2018-05-27

新宿アパートから池袋ジュンク堂

自転車で行くにはけっこう遠くてつらい

明治通りを通るバスは便数が少なくてなかなか来ないし

2016-04-22

前略、はてな様。(前編)

まずは、大変遅ればせながらはてな上場おめでとうございます。2ヶ月遅れですが。

私は一、はてな無名ファンです。

先にお断りしますと、この文章は長いです。12,000文字近くあります。そう言えば最近「長すぎて読めない」ってタグ見なくなりましたね。

元々は数日前に自分のブログに投稿したのですが、アイコンを見てもIDを見ても誰にも認識されていないであろう私がこんなことを書いているのも気持ち悪いような気がして、衝動的に消してしまいました。そんな文章ですが、せっかく書いたので思い返して増田に投下します。それでも交流のある僅かな方からは、「あ、あいつだ」とすぐバレると思いますが、全く構いません。

大げさな振りをしてしまいましたが、この、はてなの世界からゆるやかに距離を置こうと思いまして。

ハイコンテクストな話題で、関係者でも有名ユーザーでもない私が語るには随分と分不相応であろうことは承知しているのですが、私は人知れず長年このはてなという会社とそのサービス利用者でした。たぶん、相当熱心なファンのほうだと思います

しかしこのはてなという界隈、おそらく長年世間一般的には「俺ははてなが大好きなんだー!!」とはなかなか言い出しづらい雰囲気と言いますか、一部一種のギークナードか?)臭さみたいなものから逃れられないセグメント感があったために、公の場であまりそれを声を大にして語る機会が無かったという状況があったような気はしています

勝手な想像ですが、よく言われるとおり先日上場した株式会社はてなとしてはきっと、そういった閉鎖的なカルチャーからの脱却を図る必要があるのは事実なのであろうと考えています

私は「はてな界隈」という自然発生的な、「インターネット好き」が作ったプラットフォームコンシューマージェネレイテッドなコンテンツが組み合わさってできた若干マニアックな文化がとても好きで、かつてインターネットに期待していたワクワク感のようなものを自分の感性ともっとも近い形で目指している会社だなと思っていたので、はてなを好んで使っていた理由も、今これを書いている理由も、サービスが向かう方向性とのギャップが発生したということで仕方ないのかな、と考えてはいます

回りくどい書き方ですが、つまり、ここ最近(数年)の急激な利用者層の変化、人気ブログホッテントリに上がってくる記事とその使われ方の変化、新たな利用者層との精神的摩擦に疲れて消耗するのが嫌になった、ということです。

私は自分の楽しみのために自分が面白いこと書き、読むっていうスタンスで自分のスペースを使ってきたので特定のユーザー群を非難するのはその趣旨とズレるし、メタな「ブログ論」を書くつもりは無いんです。なのでわかりやすバズワードは書きませんけど、要は、そういうことです。お察し。


ここまで書いておいてから自己ツッコミを入れますが、私がここでこんなことを書いていても、おそらくそれほどの価値は無いのでしょう。

私は長年使っているとは言いながらも、所謂はてな村」と言われるような有名ユーザー層に所属するようなアカウントではないし、特別人に見られるコンテンツを上げていたわけでもコミュニケーションを取っていたわけでもないし、こんなことをグダグダ書いていても「知らない人。気持ち悪い。」で片付けられてしまうような気はします。

コンテンツもお金も落としてもいないアカウントですので、ある意味運営側の立場から見れば、「うるさいことだけごちゃごちゃ言って全くサービスに貢献しない面倒くさいアカウント」あるいは「フリーライダー」と言われても仕方がない気がします。

これは別に被害妄想を語っているわけではなくて、自分がサービスを利用して得たメリットと、お客さんとしての価値を第三者的に見た時、そういう風に判断されてしまっても仕方ないかな、と冷静に思っただけです。

最近はてなブログブクマを見ていて、「これは自分には合わないな」と思ってケチを付けたくなる機会が多くなってきたことと、でも、ケチを付ける発言力(あるいは権利)のバランスを天秤に掛けて、ああ、もう自分が楽しく見ていられる場所ではないのかな、と感じることが増えてきたことと、単なる1ユーザなのにそんなことを考えてしまうこと、考えさせられてしまうことが嫌になってきてしまったということがあって、こりゃ、私の居場所はもう無いのかもしれないな、と思いつつあるということです。

かつての掲示板サービス群から始まってブログランキングやら、SNSやら、インターネットサービスではいろんなところでこのような文化の変遷みたいな場面は見てきたはずなのだけれども、思ったより自分の生活の大きな部分にはてブが入り込んで浸透していたことに自分でもかなり驚いていますね。

前提としてなぜ、こんなマイナーキャラの私がそこまで一、ネットサービスに入れ込んでいたのかについてちょっと語らせてください。長くてすみません

私のはてな歴は12年くらいです。長かったらどうだというわけでは無いのですが、はてなを知ったのはまだ人力検索しか無かったころで、自分が実際にユーザーになったのは例の「日本人にはブログより日記」のちょっと後、「はてなダイアリーはてなブログに名称変更」とかエイプリルフールネタでやっていたころです。最古参ではなくて、ブログブームの頃に「はてな界隈」を意識するようになったので第2世代くらい、ということになるのでしょうか。

その後アカウントが一回変わっていて今のIDは5、6年くらい前に取りなおしたものなので、おそらく古参ぽさは無いですね。

はてなには他社のサービスと比べてとりわけIT系ユーザー比率が高いと思いますが、私もそうです。一貫してネット関連ですが完全な同業というわけではなく、何度か変遷を経て今は流通系事業会社インターネット事業担当になったというキャリアです。

はてなのサービスを認識した時はちょうどMovableTypeの2.6あたりが日本でも流行りだした頃で、「Web日記がhtml無しでこんなに簡単にできるなんて!」「コメントとかトラバとかすげー!コミュニティ作れまくり!」とかっていう話題で日々興奮していたのを覚えています90年代後半からネットは見ていたけれど、これからいよいよ「普通の人」にもオープンに普及していくんだなー、と夢描きながら仕事で、あるいはプライベートでどう活用しようか考えていたんですよ。「Web2.0」より2年前くらいのことですね。

その頃、ちょうどあるECサイトコミュニティサービスの担当をしていたんですね。いろいろやりましたよ。掲示板サービス炎上して閉鎖に追い込まれたり、画像著作権で揉めたり、ブログが使えるようになってからは、「ブログ商品の宣伝を書いてリンクを貼ってくれたら100ポイント!!」とかい現代であればGoogle警察が1日でぶっ飛ばしにくるようなプロモキャンペーンもせっせこ考えては公開してました。更にその後はOpenPNEベースのmixiっぽいSNSをやったりとか。

今考えるとうわーっていう企画も多かったのですが、おおらかながら大真面目にやってたんですよ。まじめに、ライトユーザーに使ってもらうにはどうしたらいいかとか、コアユーザーがどう伝搬してくれるかとか考えてました。その頃は(ネット上のマーケティングにおいては)セグメントの乖離とかそういう問題も今ほどは研究されていなかったし、たぶん自分でもまだ十分理解できてなかったんですよね。私はそんな感じの人間です。


自分語り方面脱線したので話を戻しますが、ブログブームちょい前の頃、世の中で出始めたブログアカウントを片っ端から取っては試すということをやっていたんですよ。ココログはてダから始まって、livedoor、goo、ExciteSeesaaJugem、FC2、楽天、MSN、ドリコムウェブリブログドブログYahooヤプログ、アメなんたら……

でですね、そのときにはてなの特異性に気付いたわけです。

なんだこりゃ、殺風景サイトだなぁ、なんか研究室みたいだなぁ、システム屋くさいなぁ、ってのが当時の正直な印象です。まったく間違ってないと思いますが。

ダイアリー以外の他のブログサービスはだいたい大手キャリア系か、大手ポータル系か、大手ホスティング系のいずれかじゃないですか。実際仕事で関わることがあったのはそういった会社さん達だったわけだったんですけど、私個人的にはこのはてなダイアリーってやつにとても興味を持ったんですよね。

純粋にIT系オタク集団(失礼)がコミュニティで勝負するっていう構図のサービスがすごく面白いなって思いまして、当時から実際にIT系のギーク技術記事とか、濃厚なネットのいざこざとかそういうのがぐちゃぐちゃと集積されつつあって、うわぁ危険と思いながらもはてなだけは明確に識別して見に行く感じになってたんですよね。

人力検索もそうですが、アンテナとか、キーワードとか。私はネットコミュニティをやりたくてこの世界に入ってきた人間なので、人と人をつなげるサービス、というコンセプトに対して面白いことをやろうとしている人達がいるんだなーって思ってたんです。こんな殺風景非コミュ論壇だらけのサイトなのに。なんだかそのギャップがまたすごく居心地が良くてね。よく閉鎖的って揶揄されるはてなですけど、私はそんな風に思ったことなかったな。

そう、私は村感というよりは、僻地の秘境だけどここは自由でオープンだ、っていうように感じていたんです。

今はなおさら顕著ですけど、その頃って既にインターネットサービス外来大手サービスに集約されつつあったじゃないですか。ブログにしたってMovableTypeWordpressも外から来たものだし、MySpaceとか、Facebookもそうだし、その後の流れって周知のとおりって感じじゃないですか。強いて言えばmixi……はやっぱべつにいいや。

そんな中、日本ドメスティックな小さなネットベンチャーが純粋なコミュニケーションの仕組みだけで世界観を醸成して、しかも生き残るっていうことに夢を感じたんですよ。まあ、ドメスティックっていう部分について言えば、jkondoさんが渡米した時期とかあったなぁ、とかあるんですけども。

はっきり告白しますけど、私のような自分で新しいプラットフォームを開発するほどの実力が無い中途半端ネット屋にとって、超恥ずかしながら彼らはヒーローだったんですよ。jkondoさんやnaoyaさんは私とほぼ同い年ですけど、勝手に同世代ヒーローだと思ってたんですよ。

はてなブックマークソーシャルブックマークという概念を身近に体験した時は「単なる『お気に入り』じゃなくて、興味を持ったものについて何時でも語り合える世界が作れるんだなあ」ってリアルに衝撃を受けたし、スターが登場した時は(FacebookTwitterより前に)これ、シンプルだけどもしかして世界を幸せにする機能じゃね?って感動したりしましたよ。

だいたい、jkondoさんはすごいんですよ。私など勝てる要素が無いですよ。スプリントでもロングでもヒルクライムでも絶対勝てないですよ。山も強いし、みんな山手線一周1時間48分てできます??サラッと書かれてたけど、メチャクチャ速いよ!!俺も何度もやってるけど、大真面目にやっても3時間切るのだって大変だよ。明治通り中央通りはともかく、田端駒込あたりの裏路地とかどうしてたんでしょうね。メッチャ危ないよ!!つか、あの頃の自転車クラスタみんなどこ行っちゃったんでしょうね……

何の話でしたっけ。そうそう、趣味が合いそうな人達が集ってるっていう話でしたね。

私の文章は、テキストサイトからアルファブロガーあたりまでの文章にめちゃくちゃ影響を受けていると思いますちょっと極端なことを書いたら「フロム先生の真似か」とツッコまれてドキッとしたり、写真クラスタの真似をしてやたらでかい写真を並べてみたり。最近は年に一回お正月だけに現れるmk2さんの文章を見ると涙が出そうになります。長文には慣れています。必死に調べないとついていけないような技術論議や、内蔵をさらけ出して書いたような、編集が入った本では読めないようなブログを読みたいし、そういう記事でみんなが共感していく世界が見たかったんです。

はてなブログ目次記法は便利だと思うんですけど、他所ニュースサイトに貼られた記事を引っ張って目次を並べていかがでしたか?なんていう記事を、私は単純に面白く読めないんですよ。「参考になりました!」じゃねーよ!!ならねーよ!!残念すぎるだろ!!なんて思ってたんですよ。

ここまでで既に5,000文字を超えてしまいましたが、話が飛んでしまったので一旦元に戻します。

まり、そういった「自分の好きなものを好きと言う」「好きなものを選んで、好きなものを見て共感する」という、人の本能的なコミュニケーションの楽しみの源泉のようなものを、私は求めていたんだと思います。自分の背中に正直な、泥だらけのスニーカーで追い越すような体験を期待していたんです。

もちろん、どんな時代にだって人と人のコミュニケーションにはいろいろあって、変わらないものがたくさんあるんだとは思いますよ。パソ通の時代だって、BBSの時代だって、初期のブログだって、「読みました。記念カキコ☆」はあったし、コメント欄で交流が繋がって新たな友達ができるという興奮だってあったし。

最近はてなだって、今、その興奮を新たに体験して純粋に喜びを感じている人達がいるはずだしそれはもちろん喜ばしいことなんですけど、さすがにこの情報過多なご時世なので、ツールと場所の管理と運営をしっかりやっていかないと、純粋な喜びを埋もれさせず、コンテンツの品質を保つのは相当に厳しいなという実感はありますね。

一般化、大衆化、というものはだいたいそうで、単純に「この村も昔は良かったのに」っておじいさんが言っているっていうような話ではないと思うんですよ。

こんなことを話している私自身が既にネット上では「古い側」の人間になっているのかもしれませんが、個人的には、「はてな村」とかって言われている界隈にそれほどイライラするような内輪感を感じたことは無いんですよね。実際にひどい攻撃的な言葉が飛んできて嫌な思いをしたことだってありますし、慣れ合いとかってのは昔も今もあるわけなんですけど、だいたいは好きなことを好きなように書いた、っていうモチベーションによって書かれた記事は、面白ければ当たるし、面白くなければ流行らないわけじゃないですか。読む側だって気に入ったら読めばいいし、気に入らなかったらスルーすればいい。だいたい、広い世界で見ればごく一部のできごとだっていう側面もあったわけじゃないですか。

だから、一定の、嘘を嘘と見抜ける程度のネットリテラシーさえあれば、海水浴場の中に浮かぶ邪魔漂着物があっても、農耕地が石だらけで荒地になっていても、単に避ければいいだけだって思ってたんです。

むしろ、良い記事にフォローが集まったり、ひどい記事はひどい記事でそれに集まった批判が有益だったり、そうやってやり取りを応酬する中で集合知として収斂されていくという光景は、みんなで海を掃除したり、畑を耕していくような感覚を覚えていつもネット醍醐味であり爽快ですらありました。


……でもね。最近の例の動向はちょっと様相が違っていて、私のようなユーザーにとってはもうちょっと見ているのが厳しいな、というのが本音です。商業的なまとめサイトが場を汚染している、というような話であればユーザーコミュニティによるチェックと自浄作用が働きますはてブうまいことそういう機能果たしてきたと思うんですよね。

でも、ユーザー側のほうで「良いと思ったから良いと言った」というお気に入りによるキュレーション機能が働かず、返報性の原理によるコミュニケーションが中心の場になってしまったら、今のままのはてブでは、(コメントツールとしてはともかく)少なくとも情報ツールとしての価値は大きく毀損されます。これは、ユーザーモラルもありますが、サービス構造上の問題として避けられなかったことだと思うんですよね。


海や畑が全部「あれ」になったら、もうどうしようもないでしょう。もう去るしかない。

この問題についてはさんっざんぱらたくさんの人に書き尽くされているのでここでは書くつもりないんですけど、小遣い目的で面白くない記事が量産される、共有のヘッドライン専有されて他のユーザーに影響を及ぼす、内容に関係なく相互フォローする、これらは本人の意識あるなしに関わらず、関係ない人から見たら無益です。

これについてルール違反がないのならば、サービス品質を維持するための運営/システム側の構造課題を疑ったほうが良いし、ユーザー側についても、一部の炎上チャリーンで喜ぶようなやつは単なるスパムなのでこれは単純な絶対悪ですよ。

別にネットの世界で今始まったことじゃないんですよ。むしろはてブ牧歌的で今まで性善説でよくやってこれたなっていうレベルじゃないかと思いますTwitterでも「相互フォロー推進委員会」とかあったなあ。一方的に何百人単位でフォローしてきて、ふぁぼりまくって、こっちが反応しないと砂をかけて去っていくようなのが……

ただそういう人達ごにょごにょ楽しくやってるだけならどうだっていいんですけど、今はホッテントリが明らかに使いづらくなっていたり、更には他のSNS経由でこの界隈の記事が流れてきて反応したらおかしなことになったり、実際にそういうことが発生しだしているんですよね。これが結構精神的にくるものがあるんですよね。

というわけで、そういう一団がこのサービスのほんの数%、もしかしたら0.数%の人達であり、ほとんどの普通の人は何も気にせず普通に自分の日記を書いているんだ、てことはわかっていても、でももう気持ち的にこの界隈と一緒の世界でブログを書くのは無理かもしれない。既に古参と言われる人達がかなり去っていっているし、生き残っている人達も読者層が急激に変わっていたりとかして、なんていうか、見ててつらい。

最近、ある有名人ブロガーブログを読んでいて、半年前にも同じテーマで書かれたことがある記事がホッテントリに入っていたのを見たんですけど、ふとブコメを見てみたら、半年前の記事と反応のコメントが全然違くてびっくりしたことがあったんですよ。よく見ると、並んでいるアイコンがガラリと変わっていることに気づきました。読者層が急激に入れ替わっているんですね。

この人はムラ社会に寄る人では(読者から見たイメージでは)無いし、長い人とも新しい人ともバランスのいい関係を築けていてすごいなあ、と思っていたのですが、図らずも急激に「有名人」として新規層の神輿に乗せられているように見える状態になってしまって、一方で彼自身は広告収入で儲けているようなブロガーではないし、内心複雑な気持ちなんじゃないかな、とか勝手心配をしていたりします。そういう人、何人かいますよね。余計なお世話すぎるとは思うのですが。

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すみません、長すぎて登録すると切れてしまうので、途中で切ってトラバで繋げます

2015-08-01

わたしたちー いわゆるアイドルー 週末テロインー 星色クローバー しねーーーーーーー

ニュー山王ホテル

ニュー山王ホテル

ニュー山王ホテル(ニューさんのうホテル、New Sanno、ニューサンノー、New Sanno U.S.Force Center、ニューサンノー米軍センター])は、

東京都港区所在する、在日米軍施設である管理者アメリカ海軍)。


概要

この施設ホテル形態をしており、アメリカ軍関係者東京訪問した際の宿泊施設、及び在日米軍のための保養所、社交場として機能している。さらに、駐日アメリカ大使館関係者にも開放されている。

日本人は勿論、アメリカ人であっても軍と無関係民間人は、原則として立ち入ることは不可能である施設内で使用される言語英語通貨米ドルとなる。当施設では他の在日米軍基地と同様、日本人雇用例もみられる。利用や宿泊の条件は、アメリカ海軍規定に拠って厳しく規定されているが、とりわけ週末には満室となり、宿泊予約が取れないことが多いという。

日米地位協定などについての協議を行う、「日米地位協定各条に関する日米合同委員会」の会合が開催されることでも知られる。

歴史

第二次世界大戦終結後の1946年昭和21年)、アメリカ軍旧日本軍山王ホテル士官宿舎(東京赤坂)を接収、以後占有した。

1983年昭和58年10月、同地は旧山王ホテルオーナーであった安全自動車などの所有者に返還された。その代替として日本政府からアメリカ軍提供されたのが、現在のニュー山王ホテル土地建物である

所在地は、安立電気本社跡地であり、部屋数(149室)、床面積(15万平方フィートから駐車場台数(74台)に至るまでのすべてが、移転前の旧山王ホテルのそれらと同一となっている。1981年6月建築着工され、1983年6月に完成、同7月閣議決定と日米間の政府協定の締結を経て、同年7月16日アメリカ軍提供された。

1983年11月に、日本の国の関係機関、ニュー山王ホテル代表地元町内会から構成される「ニューサンノー米軍センター地域連絡協議会」が設置され、定期的な協議が行われている。

2004年から2006年にかけて、内外装に対する大規模な改修工事が行われた。作業は大成建設施工し、特別大理石を敷き詰めたロビーを始めとする重厚で華やかな仕様工事には、1,000万ドル以上が費やされたという。


施設概要

住所:東京都港区南麻布 4-12-20

開業1983年10月

客室数:149(全室禁煙

土地面積:7,249平方メートル私有地

建物:地上7階、地下1階

管理部隊極東海軍施設技術部隊(アメリカ海軍横須賀基地司令部

売店

和食洋食レストランカフェ、バーラウンジ

スイミング・プールフィットネスセンター

会議室パーティー/宴会

銀行ATM

なお、アメリカ同時多発テロ事件以降、テロ対策理由施設前のパーキングメーター撤去された。


アクセス

鉄道

東京メトロ日比谷線広尾駅徒歩約12

自動車

明治通り天現寺交差点:約150メートル

首都高速道路2号線天現寺出入り口:約50メートル

2014-04-14

http://anond.hatelabo.jp/20140414105512

昔は男の服でまともなアイテムを探そうと思ったら、関東在住であればそれこそ明治通りまで行かないと無理だったわけで。

それが真実だとしたら、わざわざ苦労してまで「まともなアイテム」を探そうとする奴は今よりはるかに少数だったということになり、すると世間には今よりもずっと「まともじゃない」服の奴があふれていたということになり、あふれているということはつまり一般的だったということで、他人からどうこう見られることもなかったのでは?

http://anond.hatelabo.jp/20140414104313

それ「他人からどう見られるか考えるのが無駄」と言ってるようにしか聞こえないんだけど。

まあ、ある程度時間を割く必要はあるにしろ、今時ならファストファッションのお店を回るだけで無難にまとめられなくもないので、金銭的コストは昔程じゃないと思う。

昔は男の服でまともなアイテムを探そうと思ったら、関東在住であればそれこそ明治通りまで行かないと無理だったわけで。

あと今の時代、身だしなみに掛けるコストまで切り詰めて何かをすることは、社会的デメリットが多くて難しいと思う。

料理を作るとき「わあ美味しそう!」がないと作り手的に大損みたいな。

2014-03-09

首都圏の主要道路の変遷メモ

明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。

■今昔マップ on the web 首都圏編

で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。



【おもな放射道路編】

東海道国道1号・15号)

池上通り

中原街道

綱島街道

  • 1900ごろ時点で綱島~六角橋の区間が原型存在。現在では旧綱島街道としてほぼ残っている。
    • 綱島以北は現ルートに相当する道はなく、代わりに、矢上を経由してガス橋通りに相当する道と、高田・子母口へ通じる県道106号に相当する道に分岐していた。
  • 丸子橋~綱島間は1940ごろ開通。ちなみに東横線開通のほうが先で1930ごろ。
  • 大豆戸~菊名間の新道は1940ごろ開通。菊名~浦島丘間は1960ごろ開通。

目黒通り

駒沢通り

国道246号方面(青山通り六本木通り・大山厚木街道

世田谷通り津久井

甲州街道国道20号



【おもな環状道路編】

内堀通り

  • 1900時点から現在と同じ道が存在している。
  • ただし二重橋前地域は、1970ごろ以前の地図では道路なのか広場の一部なのかがはっきりしない。

外堀通り

  • 淡路町鎌倉橋間に道ができたのが1930ごろ。それ以外の区間はほぼ全線に渡って1900時点で市電が走る道路だった。

外苑東通り

外苑西通り

明治通り

  • 古川橋渋谷区間。1900ごろ時点でほぼ原型あり。広尾付近は1930ごろに市電開通とともに1本の道として整備。
  • 渋谷~新宿区間。1900ごろ時点では、明治神宮前代々木付近に若干道があるのみでそれ以外は道らしき原型はなし。
    • 渋谷駅付近は、1960ごろに宮下公園東側が開通するまでは山手線西側の道につながっていた。
  • 神宮前新宿区間は1940ごろまでに開通。
  • 新宿~池袋区間は、1950ごろに開通していてそれ以前は道らしきものはほとんど無し。
  • (以東は省略)

山手通り

  • 北品川~大崎区間は、1920ごろに開通。1950~1960ごろにかけて大きな道へ整備。
  • 大崎~五反田間は1900ごろにはすでにあり、大崎駅の陸橋は1920ごろに陸橋化されて、その後何度か形状改良されている。
  • 五反田~大橋間は1950ごろまでに開通。
  • 鑓ヶ崎~神泉の現「旧山手通り」区間は、1900ごろ時点で現道と若干異なっているが原型が存在し、1920ごろにほぼ現道のルートで開通している。
  • 神泉~熊野町の区間は、1940~1950にかけて、もともと道がなかったところに一気に開通。
  • 渋目陸橋・菅刈陸橋ができたのが1960ごろ。それまでは、初台方面から南下すると現「旧山手通り」にのみつながっていて、中目黒目黒方面とは直結していなかった。
  • 熊野町~仲宿区間は1960ごろに開通。

都道420号

  • 現在進行形で今も絶賛整備中のこの道路。1900ごろ時点で存在するのは下記区間。
    • 戸越~五本木(現在と多少異なり武蔵小山を経由)、下馬~三宿~大山(北沢)、中野駅付近、哲学道~大山(板橋)
    • ルート上に「大山」という地名が2箇所あるため、ここでは「大山(北沢)」「大山(板橋)」と記述する。
  • 大井町付近は、1920ごろの大井町線敷設以降に徐々に整備。仙台坂トンネル開通は1990ごろ。
  • 戸越小・戸越公園の一角は、1950ごろまでの地図は「三井邸」と記されている。この下にトンネル開通させて大井町駅方面へ直結させる計画が2010時点着工中。
  • 国道1号中原街道目黒通り間の現道が開通したのは1960ごろ。
  • 目黒通り駒沢通り(=五本木)間は現在2014年時点で新道着工中。
  • 五本木~下馬区間は2000ごろ開通。
  • 下馬~三宿区間は、1960ごろに既存道路を拡幅・延伸して整備。
  • 三宿~大山(北沢)区間は、現在420号指定されている狭隘道路は1900時点ですでに存在する。拡幅&新道の計画があり、拡幅工事は現在着工中だが新道についてはまだ未整備。
  • 大山(北沢)~笹塚区間は2010ごろ開通
  • 笹塚~中野五叉路区間は1960ごろに開通。
  • 中野五紗路~新井付近1930ごろ現道開通。
  • 新井付近~哲学道区間の開通が1960ごろ。
  • 哲学道~大山(板橋)区間は1900ごろ時点から道があり、徐々に整備されている。

環七通り

環八通り

府中街道大師道・南部沿線道路・川崎街道

尻手黒川道路

  • 1900ごろ時点で原型が存在するのは、末吉橋およびその周辺、矢上~梶ヶ谷~清水台区間、柿生黒川区間。
  • 川崎駅末吉橋区間は、何度かルート変更されたのち、1960ごろに現道完成。
  • 末吉橋~子母口区間は1940~1960ごろに現道完成。
  • 子母口~梶ヶ谷~清水台区間は1960~1970ごろに現道完成。梶ヶ谷貨物駅完成が1970ごろ。東名川崎IC完成が1970ごろ。
  • 清水台~稗原区間開通が1980ごろ。稗原~王禅寺ヨネッティ付近は、神木本町方面からの道路として1960ごろ先に開通。
  • 王禅寺~山口台区間は1980~2000にかけて開通。
  • 山口台~津久井道区間は2010開通。
  • 津久井交差点から黒川方面へ直結させる短絡ルートが2010現在事業中。
  • その他、2006に元住吉付近で東横線と立体交差を逆にする工事実施

横浜麻生道路

  • 1900ごろ時点で、多少現道と異なるが全線で道路が存在。柿生から先は鎌倉街道府中方面・八王子方面へ直結していた。
  • 1930ごろ、東神奈川六角橋間の現道完成。当時は市電が走っていた。六角橋北側の一部区間の現道完成は1960ごろ。
  • 1960ごろ、津久井道交点が現在のようなT字路に路線変更
  • 1970ごろ、新川向橋付近の現道完成。
  • 1980~2000にかけて、池辺町~市ヶ尾間の新道完成。
  • 2000ごろ、市ヶ尾~鉄町間の新道完成。

国道16号八王子街道・町田街道方面



【その他、概況】

地形・丘陵

河川

2013-06-18

毒男的都会のデパート価値

男のくせに服を見るのが好きで、特に「何が売ってるかなー」的ワクワク感が楽しみだ。それで惚れ込めば買って帰ると。

なので20代の頃は北関東南部(←わかりにくい表現すんません)の田舎から月数回は明治通り路面店まで買い物に行っていたのだが・・・30代も半ばになった今は面倒くささが先に立ち、殆ど行かなくなってしまった。

面倒というのは、もはや年々足が遅くなる一方の年齢という体力的な問題もあるけど、非コミュであっても趣味を幾つか続けていれば、それらの用事で休日スケジュールが埋まるくらいにはなると。


そこでデパートですよ。デパートは歩いたって建物の中で完結するので超便利だし、都会のデパートだとメンズの品揃えも悪くないとこがある。

仕事帰りでも定時に上がれればそれなりにお店回れるし。

典型的なのは言わずと知れた新宿伊勢丹メンズ館。あとは二子玉の高島屋とかかな。

しかし30代やアラフォー独身男が気軽に買えて楽しめる所はまだまだ少ない。

銀座有楽町?あそこは既婚者向けってイメージがプンプンするのでダメ


もう一緒に服見る彼女や嫁が出来る可能性は殆どないし、こういう生臭くなり始め系男子()は結構いそうなので、そういう層向けのショピンゾーンもっと増えて欲しいと思う。

まだまだ「ウジ湧いてる男やもめのオッサンです」と開き直りたくないというか、未だにカッコ悪いことはしたくないので、カッコつけてられるうちは・・・という感じ。

2011-08-07

から仕事を干されているのですが、」という相談を受けた

タクシードライバーをやっている関係で、いろんな人と会話をする。

おねいちゃんや、ビジネスマン小学生から高齢者政治家芸能人。だいたい天気のような他愛のない会話が多い。

少し前、少しイケていない感じの会社員新宿に近い明治通りで乗せた。

客 乗っていきなり「話をきいてもらえますか?」

こんな話の切り出し方は初めてだ。「なんかあったんですか」

客『4月からいままで3ヶ月、会社仕事を干されてしまったんです。雑用程度のことしかさせてくれなくなったのです。」

俺 理由もなくですか?

客 4月風邪で辛くて休ませて欲しいと電話したら、認めてくれなかったのですが、私は出勤しなかったんです

  そしたら部長が怒って、私に仕事を与えるなという指示が出て、現在に至ります

  今の会社ひどい会社だと思いませんか。 実は転職するつもりでこれから面接なのです

俺 

2010-08-05

新宿の夜の散歩道5ルート

当てもなく新宿を夜ブラブラするときに素敵な散歩

東南口(Flags前)を出て、甲州街道沿いにてくてく歩く。右側の高い位置に道路、左側に汚い飲み屋が続き、それが過ぎると家具屋とかギター屋がある。ギター屋の横には下着屋もある。明治通りとの交差点に出て、渡って新宿高校側へ。新宿四丁目のビジネスホテル街の昭和の雰囲気もいい。一泊2000円で泊まれる。そこから新宿高校前を通るとすぐ新宿御苑の横の道へ。歩いていくと四谷三丁目まで比較的すぐ。

東口を出て、騒がしい交番の前を通り、アルタ前の左側の混んでいる道を抜けて靖国通りへ。フルーツ屋の角からの道は、あやしいお店とか楽器屋とか、布とか売ってて、真ん中にはホームレスが拾った漫画雑誌を売ってるごちゃごちゃした雰囲気で楽しい歌舞伎町一番街の門を越えると焼肉屋とか飲み屋が続き、コマ劇があった広場へ。うろうろしてると客引きに声をかけられるけれど、比較的まだ安全なゾーン。となりのさくら通りとか区役所通りのほうが危ない人たちが闊歩してるイメージ。むかし高校のときにさくら通りの飲み放題の店でややぼったくられた。歌舞伎町を見たら戻って区役所の横からゴールデン街へ。ごちゃごちゃした小さなお店が並ぶ。時が止まったかのような人たちが毎日飲んでいる。ゴールデン街を抜けてすこし行くと花園神社。危ないという話もあるけれどお祭りやってるときは楽しい

南口を出て信号渡り動く歩道がある高島屋への道を歩く。2階からは向かいにあるハンバーガー屋とかジーンズ屋とかが見える。高島屋をつっきり、ハンズの横の道から外に出て、紀伊國屋のところまで行って代々木方面を見ると代々木まで300mと書いてある看板があり、近いなあと思える。ちなみに代々木駅階段はかなり急だ。橋を渡りサザンテラスに行くと、並ぶドーナツ屋が見える。francfrancなどのお店もあるので駅に戻る方向に歩く。駅に近いところに地方物産館みたいなのがあり、その逆側はカップルが座る植木になっている。

西口を出て、地上に出ると右側に小田急ハルクにはいったビックカメラが見えるのでそこにいく。ビックカメラ比較最近できたけれど、いいお店。夜遅くなると誘導されて出ることになる。2階あたりには耳栓売ってるスポーツ用品店とかがある。そこを出ててくてく南に歩いていくとヨドバシカメラ。その昔、新宿には淀橋浄水場というのがあった。ヨドバシ、というのはここの地名のこと。ビックカメラなどができて見劣りするけれど、それでも新宿西口と言えばこれ。そこから歩いてひたすら行くと都庁の後ろに新宿中央公園がある。都庁きれいな夜景をみた後は、公衆便所の上で飲みましょう。

西口を出たら、旧さくらやの横の東口との連絡路方面へ。そこで立ち止まるとあやしいビデオを売る店、ペットを売る店、謎のスーツ屋、などの間に入るところがあり、そこが思い出横丁。10席も座るところがないようなお店が焼き鳥とかうどんとか売ってる。道が狭くて素敵な店が並ぶ。便所は共同。思い出横丁を出て青梅街道沿いに東へ行って南側を見ると高層ビルが並ぶ。だいたいの高層ビルは屋上だけ開放しているので、展望台にいって夜景を見よう。それぞれのビルの高さが見える。その高層ビル群から少し北の道へ入るとこちらも時代に取り残されたような民家が並び、その歴史を感じる。大阪阿倍野飛田の間を思い起こさせる。

2009-05-21

http://anond.hatelabo.jp/20090521165955

先週末、明治通り同性愛の人たちがデモしてたんだけどさ、

五人か六人しかいなかったよ。警備の警官より少なかったかも。

スピーカーで何か伝えようとしてるんだが、

よく聞こえない。

「いいぞーいいぞー」「同性愛!」

「いけないいけない」「XXX!」

バリエーションがいくつかあって、

そのうちひとつが「ホモフォビア」だって、ようやくわかったんだけど、

もうちょっと世間にも分かりやすい言葉を使った方がいいというか、

日本ゲイをするのは、おそろしくマイナーなんだ、という感じがした。

2009-03-15

僕の知り合いに天才がいます

自分ブログに書いても誰もたどり着かないので、ここにも書く。

僕の知り合いに天才がいます今日、ばったりとその人に会ったので、その人の話しをします。

頭がいいな、賢いな、と思う人はたくさん知っていますし、とても性格が良い人は少し数が減りますが知りあいに何人かいますですが「この人は天才なんだ」と思わせる人はその人だけです。彼だけは他の誰とも違うのです

彼は大学の先輩で、3年生の春休み出会いました。そのとき彼は5メートルくらい離れたところに立って、とても難しそうな話しをしていました。連続体仮説がどうの、とか、そういう話し。話しの内容はよく聞きとれませんでしたが、ぎょろっとした大きな目と、視線がまっすぐ前を向いたまま微動だにしなかったことがやけに印象に残っています

僕は4年生から研究室の後輩として彼の指導を受けました。彼が天才であることと、教育者に全く向いていないことは指導を受けるようになって3日でわかりました。彼は、研究室の誰もが答えの糸口すら見いだせない問題に、ものの10分足らずで解を与えることができました。10分のうち、8分は問題がなんであるかを彼に説明することに費やされました。それを聞いた彼は、20秒ほど黙り、そして解を述べました。そして、1分ほどまた黙り、なぜその解が正しいのかを30秒で説明しました。問題によって10分が5分だったり、たまに数日かかったりしましたが、おおよそこんなものでした。

要するに、問題を理解した瞬間、彼には答えがわかってしまうのです。彼によると「答えが降ってくる」のだそうです

彼は修士課程の2年生でした。4月中旬ごろに、システム開発をやっている会社内定を取ったということを彼から聞いたとき、「よく○○さんに内定をだす企業がありましたね」と軽口をいいました。てっきり彼が冷やかしで就職活動をしているのだと思っていたのです。彼が博士課程に行くのだと決めつけていたのですしかし彼は真面目な顔で「本当だな。なんとか死なずにすんだよ。」と答えました。彼はよく真顔で冗談を言うので、そのときの僕は笑って受け流したのですが、後から助手先生に「彼は××社にいくらしいね。」という話しを聞いたときには、少し混乱しました。本当に就職するということを理解するのにおそらく10秒ほどかかりました。そのあと、彼でも混乱することがあるのだろうか、という疑問が浮かび、きっと無いだろうな、という結論を1秒もかからずに出しました。

彼はとても順調に研究成果を出し、最後の数ヶ月に同級生たちが苦しむのを尻目にあっという間に論文を書いて卒業していきました。その年は、学部卒業式大学院卒業式が合同で行われましたが、彼の姿はありませんでした。風邪をひいて休んだのだと彼の同級生は言っていました。

その年の初冬、僕は彼に再会しました。彼に声をかけられたとき、僕は彼が彼だと確信を持てませんでした。彼の顔から表情は失われ、頬が少しこけ、彼が天才であるというただ一点のために発せられていた存在感がすっかり消え失せていました。僕は驚きました。人が10ヶ月もしないうちにこうも変わるのかと。

彼と僕は、明治通りから少し奥に入ったところにある喫茶店で30分ばかり話しをしました。日曜日原宿だったので喫茶店は人でいっぱいだったのですが、僕たちが入っていったときに、たまたま学生とおぼしきカップルが席を立ったので僕たちは運良く座ることができました。なぜかBGMモーツァルト作曲オペラがかかっていて、それがひどく間の抜けた空気をあたりにまき散らしていました。

はじめの10分間、彼は黙ってコーヒーを飲んでいました。僕は本当に彼が彼なのか、まだ信じられずにいました。学生時代の彼はとにかくよく喋りました。話題の90%が研究の話しで、残りの10%が最近寝た女の子の話しでした。その90%の部分で僕は彼に嫉妬を感じ、残りの10%でもっと嫉妬を感じました。

一度僕は「なぜそんなに色々な女の子と寝られるのか」と彼に聞いたことがあります。そのとき彼は「女のほうが数が多いからじゃないか。」と真顔で答えました。ぶん殴ってやろうかと思いました。

・・・きっかり10分して彼は深いため息をつき、そして口を開きました。

ーーーーーーーーーー

彼はやっと絞り出すといった風で口を開いた。

「とてもシンボリックな話しがあるんだ。」

間の抜けたモーツァルトを聞きながら、僕は何も言わずに次の言葉を待った。

「俺の会社は昼寝をしたら怒られるんだ。」

「僕の中学もそうでしたよ。高校は放任主義だったけど。」

僕の言うことを無視して彼は続けた。間の抜けたことや間違ったことを僕が言ったと感じると、学生時代からはいつもそれを無視した。

「自慢じゃないが、俺は生まれてから大学卒業するまでの22年間毎日欠かさずに昼寝をしてきた。それも、毎日午後4時ぴったりに寝て、15分後に目が覚めるんだ。まあ、たまに3時45分に寝て4時10分に目覚めることもあれば、4時30分に寝て4時40分に起きることもあるんだが、それでも昼寝していることには変わりない。とにかく俺がいいたいことは22年間毎日昼寝をしてきたということだ。」

壮大なんだか、アホらしいのかよくわからない前フリだと僕は感じていた。たぶん両方だろう。

「俺が一番他人に誇れるのは集中力なんだ。俺はその集中力を6時間完璧に維持することができる。逆に考えると、6時間しかもたないんだよ。きっかり6時間たつと、俺は猛烈に眠くなるんだ。そこで、15分間だけ眠るんだ。すると、また頭が冴えて6時間集中できるんだ。集中している間は、食事をとろうが、テレビがついていようが、100%の能力を発揮できているんだ。それは俺にとってとても幸せ時間だし、親も教師も研究室助手だって悪い気はしなかったと思う。俺は1日に2回あるその6時間で、テストで良い点をとり、研究成果をあげ、そして女を口説いていた。」

彼が集中力の途切れる夜10時までにセックスを済ますのか、それともセックスにはその集中力が必要ないのかを考えながら僕はうなずいた。

「そして、その22年間の幸福な習慣が終わりを迎えたんですね。」

「そう。そうなんだ。この話しを聞くとたいていの理系の男はこういうんだ。半分の時間が失われたんだねって。昼寝した後の6時間が集中できなくなったと考えるわけだ。でもそれは違う。習慣が崩れるというのはそういう簡単な話しじゃないんだ。1たす1が2という計算ばかりやってきた連中がそういう発想しかできないことには憐憫の情を感じないわけではないが、違うものは違う。答えはな、ゼロなんだよ。全てが失われてしまうんだ。」

彼は淡々とそう言って、言い終わると小さくため息をついた。学生時代、彼は最もため息から遠いところに存在していた。だが今は違っていた。ため息で作った洋服があったら、今の彼にはとても似合うだろうなと僕は考えた。

「昼寝をしなくなってから、何かが狂い始めたんだ。俺が言うことに誰も耳を貸さないんだ。集中力が失われてしまっていても、いままでと同じように正しい答えを出しているはずなんだ。問題が何なのかを理解し、そして解が閃く。解が正しいことを確認するためにしばらく考えて、解が正しい理由を言う。何も変えちゃいない。自分で言うのもなんだが、解が間違ってるわけじゃないはずなんだ。周りの連中が俺の言うことを無視するもんだから、さすがに不安になって後で何度も考えたよ。間違えてるんじゃないかって時間をかけてとても慎重に考えた。でも、やっぱり正しいんだ。俺は混乱した。」

そのときの僕は、彼の話しが安っぽいミステリー小説のようになってきたとだけ感じた。そうじゃない。今の僕にはわかる。彼が言っていたことはとても本質的なことだったんだ。

「俺はイライラしたよ。俺を無視して1時間ときには3時間もかけて無駄なおしゃべりをして、そのあげくに出す答えがなんとも唾棄すべきものなんだから。そして、俺はその唾棄すべき答えに従って仕事をし、唾棄すべきものを世の中に排泄するんだ。」

話している彼も、とてもイライラしていた。とても無表情だったし、異常なほど淡々と話していたが僕にはわかった。彼のイライラの原因は、間の抜けたBGMのせいでも僕のせいでもなかった。たぶん。

ーーーーーーーーーー

そして、今日、彼にまたしても原宿駅のそばでばったりと出会いました。前回出会ったときは昼下がりでしたが、今日は夜の10時をまわっていたと思います

彼に声をかけられたとき、僕は彼が彼だと確信を持てませんでした。彼は宗教家のようなとても穏やかな表情をしており、すこし肉付きがよくなっていました。

筋トレを始めたんだ。」

がっしりしましたね、という僕の質問に彼はそう答えました。

「この間会ったときはすまなかったな。俺の愚痴ばかり聞かせてしまったな。」

「いえ。」

「本当にあのときの俺は幼かったよ。まあ、あの状況は遅れてきた五月病だったんだな。」

彼は頭を掻きながらそう言いました。

五月病が結局のところなんなのか、いまだによくわからない僕は曖昧にうなずきました。

「久しぶりに会ったんだ。お前さえよかったらちょっと飲んでいかいか?」

まり気乗りしなかったので、とても丁寧にお断りをしました。ちょっと疲れて胃の調子が悪かったことと、次の日の仕事の量を無意識計算したんだと思います

「なんで、○○さんは就職されたんですか?てっきり僕は研究の道に進むんだと思ってました。」

別れ際に、ずっと疑問だったことを思わず聞いてしまいました。聞いてから自分デリカシーの無さに少し辟易しましたが。でも彼は特に嫌そうなそぶりは見せず、思慮深くしばらく考えてから

「うん。まあ、そうすべきだったんだよ。いま振り返れば正しい選択だったと思ってるよ。」

と答えてくれました。彼は薬指に指輪をしていました。

彼と別れてから花粉症対策でいつも着けているマスクを外して僕は深呼吸しました。もう3月も中旬。春の匂いがとても濃密だったことに驚きました。いつもそうであるように、とても間の抜けた春の匂いでした。

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