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はてなキーワード: 癇癪持ちとは

2019-07-02

anond:20190701233108

営業で千人超と親密に会話した俺の感覚

2019-05-16

[]2019年5月15日水曜日増田

時間記事文字数文字数平均文字数中央値
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2019-05-15

癇癪持ちやめたい

電車の乗り換え失敗したりとか

乗る予定だった電車に間に合わなかったり

予報されてなかった雨に急に濡れてしまったりとかすると

自分でも意味が分からいくらい一気に頭に血が上ってしま

プラン通りにいかないことが嫌なのかめちゃくちゃ苛立って周りにひどいときは当たってしまうし 後から自己嫌悪してつらくなる

今さっき乗りたい電車に乗れなくて、仕事先がクソ田舎のお陰でなんか意味のわからない回数まで乗り換え増えることになるしホームでやたら電車待つことになるし、なんかもうだんだん意味分かんなくなって泣き出して地面にへたり込んでしまった

電車乗ってぼーっとしてたらなんか落ち着いてきたんだけど

コントロールできない瞬間発火する自分感情が嫌い 止められない やめたい 馬鹿らしいのは分かってるのにやめられない

泣くのもアホくさい でももコントロールできないこと自体が無理で泣いてんのかな 分かんねえ この癇癪どうやったら直るんだろう

全部プラン通りにやる完璧人間になるしかないのか

世の中の人ってこんな風に癇癪起こしたりするんですか?起こさないのかな

なんか原因があるのか、単純に自分性格が終わってるだけなのかどっちなんだろうこれ 3歳児かよって思う つらい

2019-02-26

虐待されてたのに助けてくれなかった

小学一年生の頃から2歳上の姉に虐待されてた。毎日のように叩いたりつねられたり蹴られたりして、サンドバッグ同然の扱いだった。姉は幼い頃からいつもニコニコして、大人から子供からも好かれる明るい性格だった。バスケ部に入っていて、友達も多く、クラスの中心にいた。一方で、ひどい癇癪持ちで、自分が気に入らないことがあると暴言を吐きながら壁を蹴って穴を開けたり、物を投げつけて壊したりする子供だった。妹に暴力をふるうときは決まって二段ベッドで仕切った子供部屋か親が見ていない時にやっていた。暴力理由はいつもくだらないものだった。字の書き方を真似した。母がお下がりに私に与えた服を見て、勝手自分の服を着た。顔がむかつく。いつも嘘泣きをする。やめてって言ったのに泣きながら謝ったのに、お腹を蹴られた。痛かった。辛かった。いつも死にたかった。死んでやってこいつがいかに酷い人間かみんなに分からせてやりたかった。泣いても叫んでも、仕事中の母に電話しても、笑われただけだった。帰ってきたら父と二人で笑いものにされた。いじめられるからいつも泣いていた。姉は嘘泣きするな!と激昴してもっと叩いた。母は最初のうちは姉を注意していたが、その内いつまでも泣いている妹にいらいらしていた。母はふざけて私を泣き虫星人と呼んだ。すぐ泣く星人は、泣き虫星に帰れ!いつの間にか、親が家にいないときは泣かないようになった。誰も助けてくれないのに泣くのは意味がなかった。自然とそうなった。親がいる時にしか叫ばなくなった。姉はますます嘘泣きだと言って怒った。買ってもらったばかりのきれいな勉強机にマニキュア死ねと書かれたことがいちばんしかった。姉を殺したかった。どうやったら姉に復讐できるか考えていた。それ以来、辛いことはすぐ忘れてしまうようになった。小学三年生の頃には私がクラス男子を虐めるようになった。クラスの中心にいる男女6人くらいの仲の良いグループで一緒に、みんなから嫌われている不潔な男子を虐めるのは最高に楽しかった。楽しさには2つ理由があった。第一に、純粋暴力楽しい。第二に、クラス嫌われ者を、人気者たちと協力してやっつけることが楽しかった。私は自分が虐められていたことなんてすぐに忘れて、数か月虐めに熱中した。先生に怒られても平気だった。みんなで一緒に先生から怒られて、この遊びもそろそろ飽きたし普通に遊ぶか!wってすんなりやめた。ここまでの記憶小学生の頃の日記を見て思い出した。マジでお育ちがゴミ底辺すぎて笑った。今でも悲しい気持ちは思い出せるし、楽しくて狂った気持ちも思い出せる。いじめとか虐待関係なく思うのは、自分以外の人間に期待しても無駄あいつらに何言ったって分かるわけねえんだよな。人を頼ったって自分が痛い目にあうだけ。お前の気持ちなんぞ誰も知ったこっちゃねえんだ。死ね

2019-02-24

togetterコメントに常駐してるやつらの人間やめてる感が好き

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togetterに生息する人たち

togetter コメント 見れない

togetter ちくわ

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togetter コメント

toxugetta

togetter に 生息 する 人 たち 7

笑ったwww

僕は彼らが自分たちを虫けらと認めて虫けらとしてふるまっているその姿はいとおしい存在に見える。

彼ら、自分のこと人間だと思ってない。 自分人間だと思っていたら恥ずかしくてあんな行動取れない。

ということは虫けらとして虫けらとしてふさわしい行動を意識しているのだろう。

虫の中で優劣を競ってるだけってのを理解してる。

コメ欄が蟲毒であることをよくよく理解している。

自分たちの身の程をわきまえてるやつは、それだけでかわいい

彼らはちょっとでも煽られたり自分部分的にでも否定されたらすぐ発狂する癇癪持ちばかりだが

リアル人生では相手にされなくても棘だけは彼らの存在を認めてくれると感じているらしい。

から恩返しとして精いっぱい虫けららしく振舞ってくれる。

最後まで残ったやつが一番の虫けら、という趣旨であることは理解したうえで

コメを退場するとき自分たち人間であることを思い出して発狂して自殺するしかないところまで自分を追い込んでまで

刹那の充実感を求めて最後まで棘コメにしがみく。

そしてずっと棘コメに出て、そこから追い出されると7日で死ぬ

まるでセミの一生を見ているようだ。

なぜここまで人間としての尊厳を捨てることになったかは知らないが、自殺するその時まで虫けらとして僕たちを楽しませてほしい。

2019-02-17

anond:20190216173158

こえーよ。

なんでこんな考え方になるのかわからん

じゃあえ、何、育児で追い詰められてる人は全員自己責任で悪いって話になるの?

それを言ってどうなるの?その人達が更に追い詰められて状況悪化するだけじゃん。

厳しい事を言えば目が覚めてちゃん育児出来るようになる!って言いたいの?

そうとしか見えないからそうだと仮定して話すけど、そんなの人に寄るし、子供がどんな病気抱えてたり癇癪持ちかなんて親にはコントロール出来ないからね。

自分たまたま簡単育児だった(と思い込んで後から子供に恨まれたり、実は子供が何か生きていくうえで精神的、あるいは身体的な障害を抱えたりしてる可能性は考えないんだね)ってだけで、他人の事見下すメンタルの人に育てられたら、十中八九子供もそのように、人の痛みが想像出来ない人間になるのでは?と言わせていただく、レッテル貼りする人はレッテル貼りされても怒るべきではない。

言っておくけど、子供は産んでほしいなんて一言も頼んでないわけで、勝手に産んでしまたからには子供の受ける苦しみ全部、親のせいだからね。

それをわかってたら育児なんて簡単じゃないと容易にわかる筈。

そんなのがわかってて簡単だとか病まない、苦労ないなんて言えるなら、その時点で共感能力想像力に乏しいから、子供の悩みにも鈍感な親の資格がない親だと言わざるを得ない。

ペットか何かだとでも思ってるんだろ、とね。

大人になるまで立派に育てて後は本人の問題、なんてのは無しだよ。

大人になるまでの間、親は学校や家庭の環境の決定権を持ってるし、例えば子供他人を傷付ける人間になったならそれも全て親が被害者を傷付けてるに等しい、そう気づくべき。

正直今の世の中に子供を産み落とすなんて皆すべからく虐待しかない。

子供に選ぶ権利があるなら拒絶するだろう。

悪意のたっぷり詰まったこ世界子供を放流する、自分はこの世界の事など何も知らないのに、それは無責任虐待だ。

でも生まれしまたからには、虐待でもマシになるよう努力しなければらならない、親にはその責任がある。

まず、産む事自体虐待である事は間違いない、その前提で動けば罪悪感で塗り潰される人こそ正常。

へらへら、育児簡単なのに病む人は暇人〜なんて高みの見物目線で人を馬鹿にするヤツはそんな暇あったら、少しは自分の子供の為に何かしろ、産むという虐待に対して贖罪しろ

そんな事もわからない奴がまともに育児出来てる訳無いだろ。

お前の子供は間違いなく将来お前を恨むよ。

子供の事を真面目に考えて病んでる人の方がよっぽど思考は正常。

2018-12-18

アンガーマネジメント?とかそういう奴でいいか

オッス!オラギリ健常者(自称)!ゲェジだ!自分のアレっぷりにすっげぇイライラすんなぁ!

はい面白くないね。うんちうんち💩。本題入ります

平たく言うと「怒り」を制御出来ないんだ。
癇癪持ちってヤツね、俺ちゃん

社会人モドキになる前はもうカッとなったら頭真っ白になって考えるよりも早く動いたり大声出したりしてたんだわ。
ちなみにDQNじゃないよん、陰キャだよん。聞いてない?そうですか。

んでまあそういうコトしてりゃさ、当然「こいつ怖近寄らんどこ」ってなるやん?陰キャラだしね。もちろんなったよ?
不肖増田友達なんて出来ても最後には縁切られるのが当たり前でした!
もう片手で数えられるぐらいしか残ってねえや。その友達と「思われる」人達も、向こうからしたら裏で嫌ってるかも知れないし。てか嫌ってるねうん。その方がいっそ楽だうんちうんち💩。

からさ、何もかも失った後にようやく気づいた訳だわ。「俺からしてもこんなガソリンみたいなやつ、お近付きにもなりたくないな」って。
頑張って自分を律する方法を調べたよ。カウンセリングも受けたよ。沢山のストレス抑制・発散法も覚えたよ。
おかげでなんとか真人間ポーズは出来るようにはなれた。上辺っ面だけだけどね。

でもね、変われないんだよね、根底
沸点低くて神経質だから何でもかんでも苛つくし他者にも自分にも苛立つんだ。つらい。
トイレ洗面所で顔に水ブッかけても、昼休みフルに使って寝ても、食えもしねえのに外食でヤケ食いしても、消えないんだよ。激しい感情が。
そして何かの拍子で爆発する。「ここで爆発したら俺は会社にいられねえなあ」って自制心が働いてるから、大抵は・・・家かな。なんかトリガーにして一人でキレ散らかして泣きまくって叫びまくる。一人暮らしでよかった。
今に会社でも爆発すんじゃないかと日々が恐ろしい恐ろしい。あ、これ○evraの真似ね。そしてそんな恐れにも苛立つ。無限ループ

極論言えば、目に映るもの何もかも耳に入る音何もかも思いつくこと何もかもが怒りのきっかけなんですわ。
よく生きてこれたな俺。

ちなみに上でキチガイメンヘラアッピルしてるが、残念ながら心や頭のビョーインで見てもらったけど「特に異常は無いですね」ってバッサリよ。なんか病名もらえたら気が楽だったのに。
道が見えずにどうしようもないから、オクスリという助け船があればどれだけ楽だったか
感受性が強いとか言われたけど俺からしたらもうそういうレベルじゃないですよ。病名をくれ。楽になりたい。
あっでも病名貰って薬も貰って治療されても人間性が治るわけじゃないよね。時計じかけのオレンジで見た。

自分の怒りに潰されそうでいやだ。

2018-12-15

サングラスをオシャレでかける女性キチガイ率高すぎ

観測範囲問題じゃないと思う。

癇癪持ち多すぎ。

2018-12-10

anond:20181210093524

俺も癇癪持ちからアンガコントロールについていろいろ調べたけど、怒りは20秒黙れば静まるらしいぞ。

2018-12-07

anond:20181207193639

挨拶有る無しで騒ぎ出す人って、大体その人も癇癪持ちとかで職場問題有る人だったか増田も気をつけたほうがいいよ

2018-09-20

普通になれない

子供の頃から体力がなくて慢性的に疲れがち

加えておそらく遺伝癇癪持ち

仕事内容や環境の変化に体がついていか会社に行けなくなってきた

無理して出社した時点で神経が摩耗しきっているため、ストレスを受け流したり社会的振る舞う余裕がない。

視覚過敏と嗅覚過敏と聴覚過敏が悪化してイライラ他人が許せなくてイライラ、1人になりたくてイライラ本音を言わないよう気をつけてイライラ、土足で距離を詰めてくる人にイライラ仕事が合わなくてイライラ取引先に嫌味を言われてイライライライラを受け流せない自分に1番イライラ。。。の無限ループ

全ての出来事に脳が過剰反応してしまい、苛立ちと内省爆速で繰り返していて休まる時が全くといっていいほどない

眠りも浅く夢でもストレスを受け続けているため小さな物音で何度も目が覚めてしま24時間疲れている

これが毎日繰り返されていて本当に本当に本当に堪える

心が休まらいか気持ちがどんどん攻撃的になって何もかも許せなくなり、余裕がないので失言も増える。

みんなどうしてそんなに楽しそうに優しく振る舞えるの?何故毎日人と顔を合わせて問題なくやっていけるの?どういう仕組みで人間生活が送れているの?

もともと社会性があるからストレスが少ない?1人がさみしいから?飲み会が好きだから不安を感じにくい?先読みをしない?よく眠れるから子供いるから?大人から

社会生活の大抵がハードルが高すぎるし結果よりもストレスが勝ってしまう。人の気持ちが慮れず大人になれない自分が一番クズってことはこれまで生きてきて嫌という程わかっているのでこれ以上自覚したくない。

自然に人に優しくできる人と話していると思考回路が全く違うことに驚かされる。社会性の有無や性格の8割は生まれながらの素質で決まるのだと思う。自分は小さなから一人遊びの割合が多かった。

脳の過剰な働きを弱める薬とかあるのだろうか。でもそんなもの飲んでたら働けないし。どうしたらいいのかわからない。

進んでも引いても地獄

早く消えたい

2018-09-06

人生疲れた感がある(21歳・大学生

院試もなんとか乗り越え、研究も一息つき、爆睡してたら走馬灯のような夢を見た。

今頭がぼーっとしているが、眠くない。顔をあげるとPCが転がっている。

そんな状況で適当に頭の中を出力してみる。



実家では姉が癇癪持ち、母は他人に無関心なくせに過干渉父親ネガティブ性格で、認知症気味で、鬱で自殺首吊り死体も見た。

大学に行くと言ったら両親が猛反対、勉強できない姉が大学行くことに対して嫉妬勉強してこなかったお前が悪い)、

受験3ヶ月前に父親自殺、同時に自分メンタル崩壊し、毎日のように頭痛が止まらなくなり、生きてることへの現実味が何もなくなり、

実家を抜け出したいと思いながら不登校になり、家に引きこもる。

頭がいっぱいになりながら試験を受け、奇跡的(?)に国立理系大学に受かる。

一人暮らしを始めるが、高校までの嫌な記憶でいろんな記憶で頭が一杯になり、同じく死んだような顔で過ごす。

時間はあるが鬱屈しかない、サークルに通ったが、まあ、変な言動をして、

幼児的万能感丸出しメンヘラ男に執着され、更にメンタルを悪くする。

大学勉強はやればできるが、やったらできただけだとしか思えなくて、あんな家庭に生まれなければという18年間への後悔、

これからも死んだように引きずりながら生きていくしか無いと思った。

どうせ死ぬのになぜこんなことをしているんだと絶望感を引きずりながら死んだように布団にくるまる。

いつからだったか忘れたが、バイトサークルも辞め、

人間関係を一切断ち切り、映画小説マンガ歴史、心の病気の本、とにかくなんでも読み漁った。

ネルギッシュなもの、鬱になるもの哲学的思考を揺さぶられるもの

自然科学や、それが工学に応用されていること、哲学的思考は誰でもすること、世の中そんなにきれいにはできていないこと、大体の人は自分のことで精一杯で、他人に興味がないこと。

幼児的万能感は誰でも持っているもので、年齡と言うよりは、いろんな物事経験量によるもの

絶対他人自体観測できないことは、改めて考えると、普遍的で非自明ものと思う。(いや自明だろ)

自分学校や家庭で感じていた違和感が解消された気がした。

自分がこんな環境で育ったことなんて他人は知る由もないし、自分もまた他人の家庭環境なんて知りえない。

結局観測できることなんて限られていて、どれが地雷かなんてわからない。

血がつながっていたとしても自分以外は他人しかなく、それがよくわからないものである

そんな自分以外の他人がいる中で生きてきたし、今もこれからも生きていくしか無い。

死なない理由死ぬ理由がないからじゃないかなあ。

結局自分は何も知らない、ただ視界の狭い、家の人間となんとなく入った運動部のような人間しか見ず、

視野が粗野で、卑屈で、思い込みが激しい、ただ一人の、長い歴史のなかの一般人であって、結局はその事実しか存在しない。

ということが、ようやくわかった。

いまは漫画小説が好きな新しい友人ができ、学業も以前より面白く感じてきて、研究も(考えるのは)楽しくて、

ようやく正常に戻った、いや人生の中で一番頭ゴミが少ないような気がする。

こう書いてみると人の過去なんて文章しかならないし、そんなもんだなーと思える。

ボーッとした頭でも今読み返すと、こいつ将来に対する漠然とした不安にめちゃくちゃ苛まれているなーと思う。(今は昔よりまし)

ここで書いていることは、後悔というよりは反省にはなっている(といいな)。

なんだかなーこれからどーしよっかなー、やっとモラトリアムの始まりか??

とりあえず今は研究読書かなあ。生きやすくしたい。

やっぱ眠いしねるわ。悔いはない、と思う。

2018-08-15

大学時代に書いたうつ日記の終わり頃が出てきたので貼る

なんというか、自分自身が感じる現実に対する現実味が、実際の現実にあわなかっただけなんだ。

人間、産まれから死ぬまで、自分が持つ現実味を、実際の現実と折り合いつけながら、生きいていくことしかしていない。

ただ考えすぎるだけじゃ生きていけない。

考えてどう活かすなんて、どう納得していくかなんて、一人ひとり思っていることが違って、

勝手に生まれ勝手死ぬ自分は一人の人間しかない。

いい折り合い方の傾向を、自分感覚で、うまく掴みながら生きていく。

考え込んでしま自分もまた多様性の一部とすれば、そう合ったっていいじゃないか

ただ自分不快感情を消化して、楽しいことをして死ぬ

大学に入って、自分の窮屈さを知るため、適当読書したり、派遣バイトをいくつかやってみたりしてみた。

結果どうやらこう考えて生きる人は少ないらしい。

いてもおおっぴらにしてないだけ、こっそり生きいている。

親しくなった人も、ごく一部を除き、

普通に生きてる人らしく、相談しても聞く耳を持たなかった。


なんかもう最近は吹っ切れてきた。

どうせ死ぬ自分存在なんてさっさと振り切るべきだ。というのはちょっと言葉足らずで、

そう認識する自分はどう生きたらいいか考えるんだ。

それを解決していく暇つぶし。それ以上でも、それ以下でもない。それでいいじゃないか

もう結論は出たし、なんかやってみよう。






今思えばしイテテテテと思うが当時は必死だった。

若さゆえの思い込みすぎというか、観覧車でプルプル震えてることしかできなかったという感じかなあ。

よく死ななかったなあと思った。

もともと考え込む性格だったけど、

親がが癇癪持ちかつ自殺たからね。

余計に不安の方向に行ってしまったと思う。

もっとマシな方向見ろよと言いたいが、

過ぎたるはなんとやら。しょうがいね

とかく今は元気(?)にやってます(誰あてだよ)


まだ若いので楽しく生きることを忘れないようにしたいと思います

2018-08-12

好きだけど嫌いなものってある?

俺の場合映画なんだけど、男はつらいよ釣りバカ日誌

男はつらいよは、寅さん人情あふれるなんちゃら~で有名だけど、実際にあの作品を見てみると寅さん人情あふれるというか

自分のやりたいことをやった挙げ句に癇癪をおこして周りに迷惑を振りまいて歩いているだけだった。でも、最後はいものテーマソングが流れていい感じに終わる。

そんな寅さんの周囲を考えない迷惑な癇癪が嫌い。普段はいい人だったりするんだけど、ほとんど自分から問題を起こしてるというのが駄目だった。

でも、男はつらいよ自体は好き。

釣りバカ日誌は、ハマちゃんスーさんと一緒に釣りを楽しんだりして、時には社内、時には出張先で色々なアクシデントにあったりするわけなんだけど

これもやっぱりハマちゃん自体がとんでもなくだらしなくて、周りの迷惑を考えないでやりたい放題やってるという寅さんと似たような感じ。

ハマちゃん自体癇癪持ちでも無くて、めったに怒らないし穏やかな方なんだけど、会社では素行不良、仕事しにいってるのか遊びに行っているのかわからない人で

見た目はただのオッサン愛妻家。これだけならいい人だよねーで終わるんだろうけど、とにかく釣りができる地域にいくと何もかも忘れて釣りに没頭。

大事イベントがあっても釣り、友人関係問題が起こっても釣り。とにかく釣り

自分勝手にやりたい放題やってる姿がなぜか最後はい雰囲気で終わるという謎進行で、おいそいつはとんでもなく大迷惑なやろうだ気づけ!と言いたくなるほど。

とにかく嫌い。

でも、釣りバカ日誌自体は好き。

そういう感じで好きなんだけど嫌いっていう。

TV映画に限らず、なんかこう好きなんだけど嫌いなんだよなって思うものって増田もある?

2018-07-05

anond:20180705082946

横だけど癇癪持ちの二歳児の親の自分には零歳児の泣き声は鈴の音だよ

どうも我が子がその年齢を過ぎると平気になるみたいで、五歳児親は金切り声とイヤイヤイヤしか言わない二歳児の声が全然平気らしい

から子供いない人の周りだけ避ければいいんじゃないかなーと思う

2018-06-23

あなたは三年間耐えられますか?

あなたには今から三年間 Aさんと二人きりで暮らしてもらいます

 

Aさんは外国人です。つまり言葉は通じません。

Aさんは癇癪持ちです。

Aさんは体が不自由です。

Aさんは極度の寂しがり屋です。

ですので、

食事風呂トイレの個室の中まで付いてきますし、こちらが食事風呂トイレその他の世話をします。

ついでに、体を鍛えるためにダンベ10キロを常に背負っています

給料は1円も出ません。

あなたは三年間耐えられますか?

****************

母親になって一年。ずっと息子と二人きり。

一年ぶりの一人外食。

欲しいものなんて見つからず、結局見るのは家族へのプレゼントばかり。

夫に預けた息子が心配で、いつも使わないタクシー家路を急いだ。

帰りのタクシーで言われた言葉あなたは一人になれないんじゃなくて、一人になっちゃいけないんですよ」

あなたは耐えられるのだろうか。

幼稚園に入るまでの三年間、一瞬も一人になれない辛さを。

排便すらゆっくり出来ない辛さを。

男性は飲みに行って朝帰りしてもとがめられない。

男性は妻に子供を「預け」て外出なんて言わない。

女性家事をやっても「手伝ったよ」なんて言わない。褒められもしない。

いい加減おかしくないか

女だけに子供押し付けること。

どんなにかわいい我が子でも発狂しかける。

どうして人間の長い歴史で、まだそれが分からないの?

2018-06-05

anond:20180605141745

難アリ過ぎる息子を

ずっと放置してたからこういう事になったんやろ。

なんで息子も増田被害者ヅラしてんだよ。

部活は続けさせてくれ」とか調子いいこと言ってさ。

癇癪持ちの息子が部活動出来なくなっても自業自得


増田は、そのバカ息子とどう向き合うかを考えるべき。

認知症うつ自殺父、人の足元見る母、さら癇癪持ちの姉

そして鬱で高校休学してた俺

実家を出て数年、喧嘩が絶えなかった家庭で強固に捻じ曲がった性格最近治ってきた。

自己肯定感ってやつが足りてなかった。本当に。これは家出ないと気づけなかった。

時間返せやと思ったが、戻ってこないんだなあ

大変なものを盗んでいきました ってこういう時に使うんだな。

だがしかし自殺した父の記憶は根強い!

俺が高3の時、二人でいる時に母親スカーフで首吊って裏庭で死んでて、それの第1発見者になった。

今でも思い出す。書きながら思い出してる。ていうか思い出したから書いた。

見つけた時は、あんなに自分不快な思いをさせてきた父親がいなくなったって思った。

あーダメだ今はもうかけない頭がめちゃくちゃ痛い



大学入ってから小説とか哲学書とかを読み漁ったけど、

誰もが大衆の一人の人間っていうのが結論で、それを自分の頭で噛み砕けたのは、良い経験だった。

だいぶ心も楽になった。あの家族も一人一人、一人の人間しかないってことがようやくわかった。

いや、一人の人間しかないのに、家族という一番近い関係なのに

なんでそんな横柄なのという疑問は昔からあった。誰も相談相手がいなかった。

あーこれも続きが書けない。

でもさあ、生理的ダメ経験(トラウマ)っていうのはさあ、なかなか消えないんだよなあ。

3年以上たってもさあ、思い浮かんじゃうんだよなあ。

調子がいい時に書き起こすことを続けたら、やる前よりも楽になったけどさあ。

うなっちゃってんの俺の頭。

どうすれば良かったんや…(´・ω・`)

いや、どうすればいいんだ…(´・ω・`)

2018-04-29

からしかけんなって言ったろ!(追記あり)

癇癪持ちである

一応、メンクリにも通っている。

はいえ、癇癪持ちと気づいたのはほんの数時間前で医者とも話せていない。

何故、癇癪持ちと気づかなかったかというと、我慢していたからで、また、普段は怒るということがないため何かおかしい、なにか嫌な気分だと思っていたからだ。

周りのちょっとしたことボルテージが上がっていくのが分かり、奥歯を噛み締めているのが分かる。口を開けば唇が震えている。いつ「あぁ!?」とキレるか分からない(キレたことはない)

とにかく、今は怒り(今までは嫌な気分と思っていた)を抑えることに必死スマホを見たりして気を逸らそうとしている。

今日は昼間から妻と出かけていて、癇癪スイッチ夕方から入ってしまった。

からまりしかけないで欲しいと言ったのだが、妻はケンカになるような事を言わなければ済むと思っているのか食事ときも、一緒にいるとき普通にしかけてくる。

内容は全くトゲのない普通の内容なのだけど、自分はいちいちシャクに触り、怒りのボルテージがガンガンに上がるのが分かる。

すでにこの状態になって6時間、家に帰るまであと1時間

誰か助けてくれ

(追記)

無事、帰宅

すぐにシャワーを浴びて、ルネスタロラゼパムカルシウムを飲んでベッドにいる。

多分、目が覚めたらこの気分も楽になると思う。

皆様、お騒がせしました。

2018-04-23

書きたかっただけ

自分も含めて酷い家族だな

DVがあるわけでも、とても悲しい事件があったとかではないんだけど、人として駄目な家族

私も全然大人になれない。

小さい頃から家族容姿や頭の悪さを馬鹿にされてきたから、未だに自分に自信が持てない。

兄が出来る子だから比較されてきた。

可愛がられてきた記憶もあるけど、物心つく前から両親はギャンブルに出掛けて、その間はフラストレーションの溜まった兄から軽度だけど暴力振るわれる毎日

母に言えども子供解決しろと言われ続けた。

小学校中学年辺りから晩御飯も用意されなくなって、両親が深夜に帰宅してからのご飯が殆ど我慢出来ない場合カップ麺を食べろと言われていた。

母は共働きをし始めてから殆ど家事と片付けをしなくなった。

働き始めてからは半ゴミ屋敷みたいな家で暮らしてた。

そんな状況の中育った私はとても捻くれた。心もいつだってスギスしてる。

生きていく内に多少成長は出来た。昔は誰かと一緒じゃないと行動出来なかったけど、今は一人で外食出来るまでになった。

常に誰かに馬鹿にされてるんじゃないか気持ち悪いんじゃないかと思って、人の目線を気にしていたけど、今は人の目線を余り気にしなくなった。

外見も髪を伸ばし続けて顔を見られない様にしてたけど、前髪も短くしてオシャレもする様になった。

友達も沢山ではないけど、両手以上には出来た。

それでも肝心の精神面が全然成長しない。

心を広く持てない。短期癇癪持ち

自己顕示欲の塊。すぐに怠ける。

人前では出さない様にしてるけど、心の中でイライラしてる。

こんな自分が本当に嫌。

なんでイライラするんだろう。なんで嫌な気持ちになるんだろう。なんで広い心を持てないんだろう。

それを全部家の所為にして逃げ続けてる。

全部じゃない。全部じゃないし、自分が成長する努力を怠っているからだというのもわかってる。

でも今から性格ってどう変えればいいの?どうやったらイライラしなくなるの?常識モラル理解して自分価値観は変えられても、心を明るくする方法がわからないよ。

知り合いに裕福な家庭でずっと褒めらて育った子がいるけど、とてもポジティブで心が健やかなんだなって感じる。性格もさっぱりしてるし、人生楽しそう。

対する私。今更嫉妬はしないけど、良いな。って思ってしまう。

褒められる事って良いな。自分肯定してもらえるのって羨ましい。

全部じゃないかもしれない、でも、本当に、親からの影響って多少はあるんだよ。

同じ状況の中でも私と違ってしっかり前向いて進んでる人もいると思う。

それでも、少なからず傷付いてるよ。

こんな自分からこそ、子供に同じ様な事をするのが怖いから。一生子供を産む気にはなれない。

母親を出来る気がしない。

ずっと、ずっと思ってるけど早く死にたい

社会ゴミみたいな自分が年老いても幸せになれる気がしないから早く死にたい

今がね、一番幸せなんだよ。幸せピークって言っても良いかもしれない。

からその間に死にたいね。

自ら死ぬ勇気も無い臆病者だから、早く死ねる事をずっと祈ってるよ。

どこかにずっと吐露たかった。

全然成長してないけど、それでも死ぬ迄に内面は難しくても、社会的な成長出来るように頑張ろう。

文書力無いから全く纏まらなかった。

2018-03-28

anond:20180328015747

お前が自分のことしか考えてないだけで、

母親否定して自分が正しいって言いたかっただけだろ?

自分癇癪持ちであることを。ちゃん自覚して、自制してほしかった。許せない範囲を変えることは難しい。パチンコ屋でバイトするのが許せないのはもうしょうがないと思う。でもそれにかこつけて罵詈雑言浴びせるのは違う。

例えば?

この話をするのは正直怖かった。攻めたい訳でもないし、過去を謝ってほしい訳でもない。でもそう受け止められてしま可能性が高かった。親の性格から嫌でも分かる。そうなって自分を責めないでほしいと思った。思い詰めて自殺されたら嫌だ。だってお母さんは充分頑張っている。幸せになる権利がある。

結果とても悲しんでいた。死にたいという類いのことも仄めかされた。

お母さん毒親だよ。みたいなことでも言ったんだろうか。

可哀想。こんなんだから子育てなんかしたくないんだ。

謝ってほしいわけでもない、ただ自分が言いたいだけの自己満足で傷つけられたお母さん可哀想すぎる。

してはいけなかったかなあ

親に毒親だと告げた。

絶縁したかったわけではない。し、する必要はないと思う。性的暴行があるわけでもアル中なわけでもないし。なんならこれから仲良くやっていきたいと思っている。だからこそ告げた。

親、といっても母親、いわゆるシングルマザーで娘2人育てた。私が高校生の時離婚した。そして院まで出してもらっている。立派すぎて尊敬する。

ただし妹は典型的にグレてしまった。現在家に寄り付かなくなってしまっている。

客観的に見てグレた原因は離婚しかも妹は離婚するなんて思ってなかったっぽいからそれはそれは泣いていたことを覚えている。私はついにか、と思っていたことも覚えている。別れた原因は全く分からないし、聞ける雰囲気もない。お母さんはいつか家を特定されるのではないかと今も怯えている。

お母さんは短気で癇癪持ちだった。何かあるとすぐ怒る、いやキレるが正しい。お母さんの中の「正しい」を抜けると拒絶反応を示して罵詈雑言が止まらなかった。でもシングルマザー仕事福祉)をしながらで仕方なかった部分もあると思う。今だからそう思うことができる。でもお母さんはこのことに自覚がなかった。

からせめて分かって欲しかった。自分癇癪持ちであることを。ちゃん自覚して、自制してほしかった。許せない範囲を変えることは難しい。パチンコ屋でバイトするのが許せないのはもうしょうがないと思う。でもそれにかこつけて罵詈雑言浴びせるのは違う。すぐ金の話で脅すのは違う。それを理解してほしかった。

この話をするのは正直怖かった。攻めたい訳でもないし、過去を謝ってほしい訳でもない。でもそう受け止められてしま可能性が高かった。親の性格から嫌でも分かる。そうなって自分を責めないでほしいと思った。思い詰めて自殺されたら嫌だ。だってお母さんは充分頑張っている。幸せになる権利がある。

結果とても悲しんでいた。死にたいという類いのことも仄めかされた。

私は後悔した。

やっぱり言うべきじゃなかったのかなあ。

でもやっぱりお母さんが自覚しない限り妹は帰ってこないと思う。いや、自覚しても帰ってこないかもしれない。でも会って話をしてくれるくらいにはなるんじゃないかなあ。今の状況からしたら大進歩だよ。

お母さんはみんなで楽しく暮らしたかったんだって。そのためにマンション買ったんだよ。シングルマザーだよ。すごくない?すごいんだようちのお母さん。自慢だよ。

かに子育て失敗したかもね。こんなに捻くれちゃったもん。でもうち幸せだよ。ちゃん幸せになる方法見つけたよ。だから間違えたなんて言って欲しくないよ。

お母さんほんと自分のことばっか。でもそれでいいんだよ。こんなに苦労したんだよ。もう子どもに囚われて不幸せになるのやめようよ。やめていいんだよ。なんのために離婚したの。

あと一年は頑張るとか、折角買ったけどマンション売ろうとか、身辺整理してるとか、やめてよ。いくら大人になっても人が死ぬの受け入れられないよ。やっとジョンヒョンさんのことちゃんと沁みてきたところなのに。お母さんは知らないかあ。

この話はやっぱりお母さんの傷を深くしてしまっただけなのかな。そうなんだろうな。泣けてきた。

でもちゃんと考えてくれるって信じてるよ。信じないとやってけないだけだけど。渡した本ちゃんと読んでくれるといいなあ。

明日は妹と会う。何年振りだろう。

2018-01-13

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven Beethoven.jpg 基本情報 別名 楽聖 生誕 1770年12月16日頃 出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン 死没 1827年3月26日(56歳没) オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン ジャンル 古典派音楽 活動期間 1792 - 1827 ベートーヴェンのサイン ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 目次 [非表示] 1 生涯 2 作風 2.1 初期 2.2 中期 2.3 後期 3 後世の音楽家への影響と評価 4 芸術観 5 思想 6 人物 6.1 名前 6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー 7 死因また健康について 7.1 聴覚障害について 8 親族 9 弟子 10 代表作 10.1 交響曲(全9曲) 10.2 管弦楽曲 10.3 協奏曲、協奏的作品 10.4 室内楽曲 10.5 ピアノ曲 10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 10.7 宗教曲 10.8 歌曲 11 著作 12 伝記 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 16.1 録音ファイル 16.2 伝記 生涯 ベートーヴェン(1803年) 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。 1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。 20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。 作風 初期 作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。 中期 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 後期 1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。 後世の音楽家への影響と評価 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想 ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。 また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。 政治思想的には自由主義者であり、リベラル進歩的政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。 その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 人物 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。 基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。 名前 原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。 vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンフリーメイソンリー 詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照 死因また健康について 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。 ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。 1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 聴覚障害について 難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。 耳硬化症説 伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。 又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。 先天性梅毒説 「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 鉛中毒説 上載の死因また健康についてを参照。 メッテルニヒ政権説 ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。 有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。 デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。 完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。 親族 祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版) フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。 祖母:マリア・ヨゼファ 父:ヨハン 母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 弟:カスパール・アントンカール 甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。 弟:ニコラウス・ヨーハン 同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。 弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子 カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。 フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。 ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。 アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。 代表作 詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照 交響曲(全9曲) 第1番 ハ長調 op.21 第2番 ニ長調 op.36 第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13] 第4番 変ロ長調 op.60 第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13] 第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12] 第7番 イ長調 op.92 第8番 ヘ長調 op.93 第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13] 管弦楽曲 『レオノーレ』序曲第1番 op.138 『レオノーレ』序曲第3番 op.72b 序曲『コリオラン』ハ短調 op.62 交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91 『命名祝日』序曲 op.115 『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113 『献堂式』序曲 ハ長調op.124 協奏曲、協奏的作品 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12] ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 ロマンス第1番 ト長調 op.40 ロマンス第2番 ヘ長調 op.50 三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56 合唱幻想曲 ハ短調 op.80 室内楽曲 弦楽四重奏曲(全16曲) 第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1 第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2 第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3 第10番 変ホ長調(ハープ) op.74 第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95 第12番 変ホ長調 op.127 第13番 変ロ長調 op.130 大フーガ 変ロ長調 op.133 第14番 嬰ハ短調 op.131 第15番 イ短調 op.132 第16番 ヘ長調 op.135 弦楽五重奏曲 (全3曲) ヴァイオリンソナタ(全10曲) 第5番 ヘ長調 『春』 op.24 第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47 チェロソナタ(全5曲) ピアノ三重奏曲(全7曲) 第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1 第7番 変ロ長調『大公』 op.97 その他の室内楽曲 ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17 六重奏曲 op.81b 七重奏曲 変ホ長調 op.20 管楽八重奏曲 op.103 ピアノ曲 ピアノソナタ(全32曲)   第8番 ハ短調『悲愴』 op.13 第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13] 第15番 ニ長調 『田園』 第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2 第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53 第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13] 第26番 変ホ長調『告別』 op.81a 第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106 第30番 ホ長調 op.109 第31番 変イ長調 op.110 第32番 ハ短調 op.111 その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等) 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76 ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57 幻想曲 op.77 ポロネーズ ハ長調 op.89 7つのバガテル op.33 11の新しいバガテル op.119 6つのバガテル op.126 バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 歌劇『フィデリオ』 op.72c 劇付随音楽『エグモント』op.84 劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113 バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43 オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85 カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112 別れの歌 皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87 宗教曲 ミサ曲 ハ長調 op.86 ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]  修道僧の歌 歌曲 アデライーデ op.46 汝を愛す 鶉の鳴き声 新しい愛、新しい生 口づけ 追憶 懺悔の歌 モルモット(旅芸人) 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 op.98 曇りのち、快晴 著作 『ベートホーヴェンの手紙』 外山楢夫訳、新しき村出版部、1926年。 『ベートーヷンの手紙』 中西武夫訳、啓明社、1928年。 『ベートーヷン書翰集』 中西武夫訳、啓明社、1930年。 『ベートーヴェンの手紙』第1編、鈴木賢之進訳、音楽世界社〈楽聖書簡叢書〉、1936年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫 2579-2581〉、1940年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎選訳、岩波書店岩波文庫〉、1950年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫〉、1957年、改訂増補版。 - 附:

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

Beethoven.jpg

基本情報

別名 楽聖

生誕 1770年12月16日

出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン

死没 1827年3月26日(56歳没)

オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン

ジャンル 古典派音楽

活動期間 1792 - 1827

ベートーヴェンのサイン

ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次 [非表示]

1 生涯

2 作風

2.1 初期

2.2 中期

2.3 後期

3 後世の音楽家への影響と評価

4 芸術観

5 思想

6 人物

6.1 名前

6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー

7 死因また健康について

7.1 聴覚障害について

8 親族

9 弟子

10 代表作

10.1 交響曲(全9曲)

10.2 管弦楽曲

10.3 協奏曲、協奏的作品

10.4 室内楽曲

10.5 ピアノ曲

10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

10.7 宗教曲

10.8 歌曲

11 著作

12 伝記

13 脚注

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

16.1 録音ファイル

16.2 伝記

生涯

ベートーヴェン(1803年)

1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

作風

初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。

中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。

後期

1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

芸術観

同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。

ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。

思想

ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。

人物

身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。

当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。

潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。

ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。

聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。

これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。

メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。

彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。

パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。

コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。

名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。

日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

ベートーヴェンフリーメイソンリー

詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照

死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。

1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

聴覚障害について

難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。

耳硬化症説

伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説

「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

上載の死因また健康についてを参照。

メッテルニヒ政権説

ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。

有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。

デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。

完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。

親族

祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版)

フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。

祖母:マリア・ヨゼファ

父:ヨハン

母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。

弟:カスパール・アントンカール

甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。

弟:ニコラウス・ヨーハン

同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。

カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。

弟子

カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。

フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。

ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。

ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。

アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。

代表作

詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照

交響曲(全9曲)

第1番 ハ長調 op.21

第2番 ニ長調 op.36

第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]

第4番 変ロ長調 op.60

第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]

第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]

第7番 イ長調 op.92

第8番 ヘ長調 op.93

第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]

管弦楽曲

『レオノーレ』序曲第1番 op.138

『レオノーレ』序曲第3番 op.72b

序曲『コリオラン』ハ短調 op.62

交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91

『命名祝日』序曲 op.115

『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113

『献堂式』序曲 ハ長調op.124

協奏曲、協奏的作品

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61

ロマンス第1番 ト長調 op.40

ロマンス第2番 ヘ長調 op.50

三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56

合唱幻想曲 ハ短調 op.80

室内楽曲

弦楽四重奏曲(全16曲)

第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1

第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2

第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3

第10番 変ホ長調(ハープ) op.74

第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95

第12番 変ホ長調 op.127

第13番 変ロ長調 op.130

大フーガ 変ロ長調 op.133

第14番 嬰ハ短調 op.131

第15番 イ短調 op.132

第16番 ヘ長調 op.135

弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)

第5番 ヘ長調 『春』 op.24

第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47

チェロソナタ(全5曲)

ピアノ三重奏曲(全7曲)

第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1

第7番 変ロ長調『大公』 op.97

その他の室内楽曲

ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17

六重奏曲 op.81b

七重奏曲 変ホ長調 op.20

管楽八重奏曲 op.103

ピアノ曲

ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 op.13

第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13]

第15番 ニ長調 『田園』

第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53

第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]

第26番 変ホ長調『告別』 op.81a

第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106

第30番 ホ長調 op.109

第31番 変イ長調 op.110

第32番 ハ短調 op.111

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34

創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35

『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78

ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79

創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80

創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76

ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120

アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57

幻想曲 op.77

ポロネーズ ハ長調 op.89

7つのバガテル op.33

11の新しいバガテル op.119

6つのバガテル op.126

バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。

オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

歌劇『フィデリオ』 op.72c

劇付随音楽『エグモント』op.84

劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113

バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85

カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112

別れの歌

皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87

宗教曲

ミサ曲 ハ長調 op.86

ミサ・ソレムニス ニ長調 [12] 

修道僧の歌

歌曲

アデライーデ op.46

汝を愛す

鶉の鳴き声

新しい愛、新しい生

口づけ

追憶

懺悔の歌

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2017-12-28

anond:20171228214641

その病気直してから子供作ろう

そりゃあ二つも一気に提案してるんだから癇癪持ちじゃなくても戸惑うと思うんだがなあとりあえずさよなら

anond:20171228214641

癇癪持ちは治らないよ

そのとき反省するけど、また繰り返す

どんな人を傷つけても、治らない

逃げた方がいいと思うけどね

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