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2021-06-10

インターネットはもう池袋の超絶雑語りをやるのをやめろ

以下元増パクリの尻馬雑学開陳です。

引用URLは無い。ネットとかTVでの池袋の扱い全般への反駁&雑語りと思ってくれい

池袋の名の由来は西口南方にある弦巻川源流の袋池から

これ嘘だから!元池袋史跡公園っていうのを豊島区がこしらえちゃってるけどこれ嘘だから

あのさ、駅周辺のこの辺が池袋になったのって日本鉄道池袋駅を開設してからの事なんだけど?

それまで池袋っていうのは東上線二駅目の下板橋駅周辺が池袋だったの。今でもこの辺は「池袋本町」って地名でこれは池袋本村、池袋村のメインの集落だった所なのよ。

「袋」っていう地名は川が湾曲してその内側の土地の事を指すのな。江戸袋とか大袋とか色々あるがみんなそう。

今は暗渠化された谷端川っていう川が屈曲しててその内側の高台池袋本町(村)。池やら沼があったんじゃないかと言われているが記録が残ってないので池が付いた理由不明だ。

そもそもこの元池袋史跡公園がある場所っていうのは昔は雑司ヶ谷村だったのな。池袋村と雑司ヶ谷村の境界は大体今の池袋駅南通路の辺り。

それなのに遥か数キロも離れた池袋村の名の由来になるはず無いだろ。豊島区は誤解の元だからあの公園撤去するか説明書書き換えろってーの。

 

余談だが山の手台地の上で井戸を7~10m程掘ると水が出てくるんだが、それって粘土関東ローム層の下に砂礫層があるから。だからこの谷端川がそれだけ谷を刻んだ下流では小石だらけになる。なので下流小石川って呼ばれて地名にもなってる。

もう一つの理由農業水利権問題

東京山の手って山あり谷ありって言われるけど、そうじゃなくて谷だけがある地形なんだな。富士山伊豆の山が噴火した火山灰が積み重なって西高東低のかなり緩い勾配のまっ平らな台地ができた。

ここに多数の小河川が切り込みを入れた地形になっている。だから尾根の部分はほぼまっ平らな訳です。これは国道246の赤坂渋谷手前とか国道254の春日池袋六差路とかを走れば判る。この二つは尾根道の街道車道化したものでとにかくまっ平ら。

因みに上野赤羽等の線で台地がきっぱり切れ落ちて下町になってるのは海進時にそこからが海だったから。

というか、台地もっと東に伸びていたが波に削られて海食崖が後退したと考える方が自然上野赤羽って京浜東北線に乗れば判るが崖が真っすぐでしょう?これって海食崖の特徴ですわ。

あと、陸地が角になっている所って波の入射方向、角の先に真っすぐな海岸線が延長されるように砂嘴砂州が出来るけど、上野赤羽の角地形の先には砂嘴痕跡がありますよ。上野場合根岸砂州というのがあり微高地になっていてこの上に日光街道千住宿が作られていた。赤羽の方は名前不詳なれど川口戸田の喜沢の辺りに筋状の微高地がある。

 

脱線したがこういう地形だから山の手ではまっ平らな尾根部分では水を引けない。だから水田は出来ない。水利は限られたもので貴重だった。

農村である雑司ヶ谷村の水源だけ池袋村に属してる訳無いし(トラブルの元だ)、遥か離れた他村の水源地の名前に因んで池袋村名が決まる訳ないやろ。

から駅周辺が池袋になったのは駅が出来て以後の事なのだ。因みに古典落語でも池袋結構出てくるんだけど、当然それは下板橋駅周辺の事ですよ。

WEロードという汚いガードが池袋駅の設置場所を決定した

駅にはそこに至る道路があるのが当たり前。でもそれは今の事であって日本鉄道って鉄道官営鉄道1本しか無い時代鉄道を敷いた道なき道を行くパイオニアだった訳。だから日本鉄道側が既存街道に面して駅を作らなきゃいけない。

でも江戸時代には道路というのは軍事施設でもあった。だから数少ない街道以外は道らしきものはない。勝手に道を普請して罰せられたケースは数多くあり、その殆ど死刑だった。

それで、品川線(現山手線赤羽線)から新規開業する土浦線(現常磐線 当初の始発駅は田端)に繋げたい日本鉄道目白分岐としたかったが、雑司ヶ谷村に難色を示され更に巣鴨村に建設予定の近代監獄巣鴨拘置所、現サンシャイン)に重なると政府ダメ出しされてしまう。

そこで目白北側のまっ平らな辺りで分岐する事にした。ここまではよく説明される事だ。

問題はここからで、雑木林しかない、集落すらない場所乗客が駅に来れる様にするにはどうすればよいか

中山道板橋宿平尾追分から川越街道(現首都高中央環状線JCT大山サンロードハッピーロード)が分岐し、そこから直ぐに分岐して雑司ヶ谷を抜けて早稲田に至る雑司ヶ谷道という道があった。これは金井窪~ローソンストア100池袋本町1丁目店を右折して平和通り~WEロード明治通り鬼子母神電停前~と続く現存する道だ。

この道と日本鉄道線路が交わる所は踏切になっていた。駅を設置するならここしか無い。他に適当街道に接近するところがないからね。

って事で今のP'パルコ左側に駅が作られることになったのだ。WEロード正式名称雑司が谷隧道だ。線路が増えすぎて踏切では危ないのでガードになったのだな。

Wikipedia池袋駅の項には日本鉄道時代の駅の写真が貼られている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E8%A2%8B%E9%A7%85#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ikebukuro_Station_in_Meiji_era.JPG

これはWEロード前身踏切から撮られたもんだ。場所はP’パルコの裏手。

なのでこの汚いガード(の前身踏切)は池袋の全ての始まりなんであるのよ。

埼玉植民地化と洋菓子店タカセ

サンシャイン前身巣鴨プリズンで有名だがそれは東京裁判が決する迄の一時期で、東京拘置所だった。

東京拘置所を小菅移転して跡地の再開発の話になった時に周囲の地権者縁故者を集めて合意形成の場が開かれることになった。

ここで特に問題になったのが池袋駅直通地下街の建造で、強硬な反対派が居てその筆頭が東口洋菓子店タカセだった。当時タカセ小売店の有力な顔役だった。地下道ができたら当然人の流れは変わり地面店は売上激減する。

その為に駅直結地下道の話は流れてしまい。東急ハンズからの短い地下道東池袋駅アクセスルートとなる中途半端な形になってしまった。

この地下道建設流れで当時タカセ地元での評判はかなり低下したらしい。

しかしその後の埼玉植民地化=池袋駅~ハンズ学生向けの店舗の隆盛を見れば反対して正解だったとしか思えない。通路を兼ねた地下街なんてどうせ碌な集客力がない。そもそもハンズ前の道には丸の内線が埋まっているか地下街の幅は取れないんである

なので学生向け店舗経営者は出退勤の途上に今はやや寂れた感のあるタカセ前で一礼すべきである。若年向けのP’パルコだって地下道があったら出来てなかっただろう。P' のテナント一同もタカセ参りはすべきである

西武百貨店搬入口だけの為の信号機不思議

ここなんだけど、池袋行く人でここのおかしさに気づく人ってどれだけいるだろう?

https://goo.gl/maps/UQN2f86tQk8xXQPv5

逆を向いてほしい。西武搬入口だけがある。なのに信号機管制されている。何故だろうか?

そのわけは南のびっくりガードの途中にある。

https://goo.gl/maps/BR5VUwN7iYPUv5Zx5

ここから入るとJR線路と西武線の間の空き地に出る(入っちゃダメよ)。実は当初のびっくりガードはここを上がってから西武線を踏切で渡って明治通りに出るというルートだった。

この坂の上はJR用地で昔は国鉄貨物駅だった。つまり初代びっくりガードは国鉄をガードで潜って直角に折れて急坂を上り国鉄貨物駅の中を通り西武線を踏切で渡る。そして出てきた先がさっきの搬入口前の交叉点だったって訳。

 

現在中央東口っていうのは元は西武線の改札だった所で、西武運営するデパート武蔵野デパートエルメスがあるあたりにちょこんとあった。

西武はこれを増床したい。そこで改札の上にデパートを作った。

しかし当時の西武社長貪欲堤康次郎堤義明もっともっと増床だ!でも駅が邪魔だ!ならば線路を縮めて駅を向こうに追っ払えばいいじゃん。

という事で駅をずらすのに邪魔踏切廃止。その代わりに国鉄ガードの延長にガードを作った。そして踏切跡はデパート搬入口に転用

井の頭線渋谷駅や世田谷線三軒茶屋駅とか、商業ビル建てるために駅をその向こうに追いやって客はその分歩けっていう工事するのがあるじゃないすか。あれムカつきますよね。

あれを最初にやったのが西武って事ですわ。

こういう訳で「西武デパート搬入口だけの為に信号がある」状態が生まれた。一見それに見えなかったものトマソンである事を発見するとその由来が見えてくるって事ですわ。そしてびっくりガードなんて間抜け名前公的使用されてる事の方がびっくりだわ。

池袋 古いビルが多い

昭和29年地下鉄丸の内線が開通することになりそれに合わせて建築されたビル結構残っている。LABI建物代表格でここは元三越。今も所有者は三越な筈。

昭和28年頃の完成なので今でも売り場の裏は非常~に古い。客用エレベータもエレガ時代は真鍮蛇腹式だった。それでは客がセルフオペ出来ないのでかごは替えられてしまった(着床位置も手動ハンドルで調整する方式だった)。

LABIの裏にマックがあるがここは三越が所有していて地下にLABI搬入通路がある。マックの裏の建物LABI搬入口になっている。

新しそうなパルコ昭和32年竣工東京丸物デパートの居抜き。

いけふくろうの事の起こりは国鉄マンオヤジギャグ

昔は携帯電話が無かったから待ち合わせ場所を家の電話で打ち合わせておく必要があった。新宿駅東京駅には待ち合わせ場所としてアルプス広場銀の鈴があるが池袋駅には無かった。

そこで末期の国鉄の人らが考えて作ったのがいけふくろう。いけぶくろだからいけふくろう

国鉄はそれまでの親方日の丸体質ではダメな状況に至り、色々とサービスアップの為の試行錯誤をしていた。現在JRより熱心だったが如何せんセンスダサい

いけふくろうもかなりの失笑を買ったと言われているがその後豊島区などがフクロウの里などの歴史修正主義を始め定着するに至った。

いけふくろう像があるのは北通路階段付近という半端な場所だがこれはパルコ土地ぎりぎりのJR土地であるからいけふくろうダジャレを考えた国鉄マンの同定をしなくていいのだろうか?疑問である

サンシャインの地下に変電所

サンシャインの地下駐車場のそのまた下には地域暖房施設があって付近ビクトリアスポーツや東池袋駅ハンズビルなどに熱供給を行っている。

これは触れている本やサイト番組が多いが、実はその下に東電変電所がある。これはサンシャインで働く人も知らない秘密なのだが、数年前にあった新座でのケーブル火災による東京停電での停電地域によって変電所場所割れしまった。

城北線豊島変電所というのがここで、終端変電所内幸町東電本社の地下である

https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/hoan_shohi/denryoku_anzen/pdf/014_06_00.pdf

平和通り戦争状態

雑司ヶ谷道の駅北側戦後商店街となって平和通りと名付けられた。だがどういう訳だかヤクザ事務所がこの道路沿いに林立するようになり、やがて抗争が勃発、殺し合いまで始まった。

90年代後半になるまで路上駐車というのはルーズに見逃されておりその辺にとめるドライバーが多かったが、事情を知らぬ者は平和通りの組事務所前にとめてしまう。

玄関前塞いで車止められたら誰でもいい気分はしないが組となればメンツ問題でもある。戻ってきたドライバーはそのまま事務所にお持ち帰りとなって凄まれ絞られ少なくない詫び賃を置いていく羽目になる者もいた。

お巡りさんに泣きついても「こんな通りに駐車したら身の危険になるのは当たり前でしょ」と説諭される始末。平和通りなのに。

やがて銃撃事件などが相次ぎ非常線で封鎖される事もしばしばとなった。シャブ錯乱したヤクザが突然暴行を加えたり物を破壊したり自分を刺して血だらけで歩いていたり警察保護具で簀巻きにされている所がみられる事もあった。結構な高頻度で。北口レンタルビデオ店G〇〇が入居するマンションなどは上がほぼすべて893となってしまった事で有名だった。

暴力団新法の施行ヤクザは激減してこれらの風物詩過去のものとなった。

飯塚上級国民事故付近事故が多い

あの事故のあった道路はほぼ直線なのだがどういう訳か事故が多い。飯塚のは運動能力問題だろうがスピードを出しすぎる車&Jウオークする歩行者両方に問題があるケースが多い。見通しが良すぎて油断するのだろう。

過去の事例では130km/hで邁進するフェアレディZUターン中の1Boxカーに衝撃して1Boxの助手席女性が死亡するという事故があったが、普通Uターン側にも責任が問われる所、相手の速度が速すぎて予見不能として1Box運転者無罪判決が出るという事件があった。

10年近く争っての事だが異例な判決である。その後も事故が続くので信号機を増やしたりしたのだがあんな予見困難な大事故が起きてしまった。

10年位の命だった国鉄駅舎があった

池袋にいわゆる駅ビルみたいなものはなくてデパートばかりだが、戦争で駅舎が燃えしまったので戦後に鉄筋コンクリート国鉄駅舎というのを作った…のだが直後に民間資本建物を誘致する民衆ビル構想が立ち上がったので駅ビル解体され丸物(現パルコ)や西武デパートが建つ事になった。計画性無さすぎである。いや勢いがあったのか。

東に西武で西東武だが…

開通当時は武蔵野鉄道(買収)→西武東上鉄道(買収)→東武だったか最初は変じゃなかったよってのが定番豆知識記事だが、「東に東武」もあった。

サンシャイン手前~飯塚事故現場辺りの一帯は戦前東武鉄道根津嘉一郎が所有しており根津山と呼ばれていた。雑木林だらけの池袋駅~護国寺道路都電を通す事になり全部手放したのである

赤尾由美見た事ない

池袋東側の住人なら赤尾敏は誰でも知ってるけど日ころとか朝生かに出てるらしい赤尾由美見た事ある人いない。だってあん道場に居なかったじゃんよ。何赤尾敏赤尾敏って名前使ってるの?

小池百合子お祭りによく来る

お祭りには欠かさず来るね。で、それだけで「地元の人」って認知受けちゃう。贅六の落下傘なんだけどな。

以上、長々と書いたが結局池袋歴史ってあんまないのよな。だって鉄道来るまで下板橋池袋だったんだから

そういう事で池袋愛溢れる増田から最後に言いたいのは

雑司ヶ谷の方が渋くて古いものがあって面白い

2020-11-29

anond:20201129082817

サンプル1人の話でドヤられても気の毒な感じしかしないんだがw

俺もパナソニックというか元三洋のエネループはいまも買うけど、モバイルバッテリーはとっくに撤退してんじゃん

販売ブランド国内のだけのメイドインチャイナ製品を盲信してる情弱中年には気の毒なことだね

2019-10-08

anond:20191008094808

最上級国民複数国籍を持つ場合も多い、日本国外にも潤沢な資産を持つ、名家当主や、財閥銀行などの大株主党三役元三の子供など、天皇家武家海外の有力家との血縁などがある場合が多い。

上級国民最上級国民に対して一定以上の貢献をした人間警察政治への影響力を持つ大資産

中級国民起業大成功組、中央官庁役職持ちや大企業の重役など

下級国民リスクのあることをしない一般国民

最下級国民ー知性や学のない国民、身の丈以上の借金のある国民

2018-10-07

元三住友信託銀行員だけど 炎上ブロガーさんにちょいと言いたい

自分と同じ会社で働いていた若者ブログ(銀行員を辞めたい銀行員へ!僕は三井住友信託銀行を辞めた)を書き、良くも悪くもバズっていた。

メガバンクと違い、普段ほとんどメディアに取り上げられない会社なのでびっくりしてしまった。

自分も彼と同じ会社で働いていたが、「そんなに悪い会社じゃないよ!!楽しかったよ!!」と言いたいので匿名記事を書きたいと思います

簡単プロフィール

 リーマン後に入社

 支店勤務

 本部部署2か所

 転職して1年くらい ←いまここ

なんで入ったの?

 ・どこでもよかった。反省はしていない。

  大学時代やりたいことがなく、

  「そもそもいたことないのに働きたい会社なんてわかんないよな。とりあえず3-5年一生懸命頑張って天職見つけて転職しよう」と適当に考えていた。

  大手外資コンサル商社デベ海運に入るスペックはなかった。

  実家貧乏で余裕はなかったし景気も悪かったしストレス耐性には自信あったのでとりあえず給料もらえて安定的大手金融に行こうと。

  適当就活頑張って、ここ以外にもメガ2つと生損保1つずつ、ついでにインフラ企業に受かって、一番キャラクターが合いそうなところに入った。

 ・居心地がよくて5年以上いてしまったが、後悔はしていない

どんな会社? 

 ・一言には言えない。メガバンクやりそにゃより小さい癖に、それ以上に会社内でカラーバラバラすぎる印象

 ・明らかに風通しは良い。若手(20代)が部次長意見しても全然怒られない(一部部署は除く)

 ・ジェネラリストよりもスペシャリスト優遇する雰囲気があると感じた。しっかり勉強してバリューだせやと。

  ちなみに資格取得は最低限で良い。1年目で全部取れて、2年目以降は自分勉強ができる

 ・30代以上は銀行員らしくない、変わった人が多い印象。合併して就活世界でもプレゼンスが出て、

  良くも悪くも普通な人が年々増えていった印象がある。

  

なんで辞めたの?

 ・やりたいことが見つかった

 ・そのやりたいことは、この銀行でも実現できることだったが、会社まるごと移ったほうが良さそう(総合判断の結果)

 ・そもそもいつか辞めると決めていた

他の銀行と比べて労働環境はどうか

 ・労働時間の長さ、内容の高度さはメガ以上と思われる。労働強度が高い。

 ・その割に給料は据え置き。メガと同じ。悲しみ。

 ・その代わり、クソみたいな仕事は少ないし裁量が与えられる。やってみなはれの精神

 ・(直接関係ないけど)そもそも、今の若手銀行員がつらいのって、下記あたりが原因かな。

  ①ファイナンスの高度化が進み、メインバンク制がなくなって、銀行が他企業に対して出来ることが減った

  ②合併リストラにより本部セクターの席が減り分業も進んだ結果、若い人はソルジャーと化し、クソみたいな商品を売りつけることだけが仕事となった

辞めていく若手銀行員全般に対して思うこと

 ・辞めることは別にいいと思うけど、パワハラノルマキツイっていうのが退職理由場合

  なんで就活の時にちゃんと調べなかったんでしょかね。いくらでも情報転がっているだろうに。自信あったのかな

  (地方場合は、ほかに良い就職先がないという切実な理由があるから仕方ないところはある)

 ・仕事頑張って、「面白い仕事やらせろ!」ってアピールして、叶わなかったら辞める、くらいでよいと思う

  いまは景気いいし、構造的にも転職やすくなったしね

銀行あるある100」で気になったこ

 ブロガーの彼がリテール営業だったと仮定して書きます

 自分場合、ここのあるあるの2,3割は納得できるものでした。

 最近、同じように銀行信金を辞めた人と会うことが多いが、銀行カルチャーSMTBは控えめな気がする

 「自分はマシだったんだな」って思うことが非常に多い。

 1:自分らしく生きれるようになった

 銀行員を辞めたことで、仕事中に人の評価を気にすることはなくなりました。『人の評価』を気にすることは予想以上に、心に負担をかけます

 ⇒どこの会社でも人事評価は気になるのでは、、、そして、SMTBの人事評価なんて自分コントロールやすいほうだろうに

  ていうか人事評価が気になったら自分らしく生きられないんですかね。まじめな人なんですね。

 3:無駄なことに時間を費やすことが減った

  事務手続き毎日6時間無駄会議無駄勉強会、使わない資格勉強規定を読む時間上司との飲み会などいくらでもあります

 ⇒事務手続に6時間。どんなブラック支店部署だろう。18時に営業から帰ってきて2時間事務やってかえるよね普通

  規定を読む時間無駄と思うのはよくわからない。

  上司との飲み会はほどほどでいいのは合意自分は3か月に1回くらいしか会社飲み会なかったけど

 6:失敗を恐れずに何事にも挑戦できるようになった

  銀行員時代はとにかく新しいことに挑戦することが嫌いでした。だって『失敗したら評価が下がる』からです。<<

 ⇒上司イマイチだったんだなあ、かわいそうとしか

  失敗したら評価下がるなんてどこの会社だよ。みんな失敗ばっかでしょ

 7:自分の『価値』を感じられるようになった 

  銀行員になって感じたのは「お客さんは銀行看板に魅力や安心感を感じ、商品を買う」ということでした。

  そこに「僕の価値ほとんどない」です。銀行員を辞めて『自分能力知識』で勝負し、仕事がうまくいった時に感じられる喜びは大きいです。

 ⇒じゃあなんであんなに社員間で成績に差がつくんですかね、、、

  看板がないとお客さんが話聞いてくれないとは感じたけど、商品を買ってくれるかどうかは個人の頑張りだと思っていました。

 15:紙で事務作業をすることがなくなった

   紙なんかに時間を費やすほど無駄なことはないです。

 ⇒分かる。紙と印鑑はどんどんなくすべき。実際に本部セクターは紙文化は目に見えて減っていった。

 43:強制参加の支店旅行に参加する必要がなくなった

   どの銀行でもある強制参加の『支店旅行』です。この制度を生み出したやつをグーで殴りたいです。

 ⇒支店旅行はクソなので排除すべきだが、SMTBで今でもやっているのは某西日本の2,3支店しか知らない。

  制度があるまでは言えないのでは 

 48:業務日誌を手書きで書く必要がなくなった

   これも西野カナばりに震えが止まらなかったです。毎日業務日誌を全て手書きです。

   しかも、1文字でも間違えれば最初から書き直し。新人時代は日誌を書くのに毎日1時間以上かかっていました。

 ⇒自分新人の時はまだ手書き日誌があったが、2015年以降なくなったはずでは・・・

  もし、支店オリジナルの日誌がある、とかなら可哀そうとしか

63:達成しなければならないノルマから解放されました  

  融資案件定期預金の預かり残高、投資信託生命保険医療保険、平準払い保険住宅ローン、贈与関連商品教育ローン、クーレジットカード遺言不動産などのノルマ20種類以上あります

  全てのノルマを達成できるくらい優秀なら、あなたそもそも銀行入社してないので安心してください。早く転職しましょう。

 ⇒全部達成しなくても評価されてたけどね。で、全て達成して今でもSMTBで頑張ってる人います

 もっと突っ込みたいけど、こんなものかな。

 いろいろ思うことはあるけど、一度同じ会社に入った仲間だし、どんな人かは気になる。会ってみたいもんよね。

 今後とも頑張ってほしい。終わり。

2016-08-12

引いたおみくじ漢文を調べてみた。

おみくじ漢詩

仙鶴立高枝 せんかくこうしにたつ

防他暗箭虧 たをふせいであんぜんかく

井畔剛刀利 せいばんごうとうとし

戸内更防危 こないさらにあやうきをふせげ

解釈をググり探したところによると「家の問題に注意せよ」や「出る杭は打たれる」の意味だとか。

……本当に?

おかしいと思いませんか。

鶴の話が、家(戸内)の話になるなんて。

と、いうことで調べました。どうやら元になった故事があるらしい。

故事和訳

 唐の天宝年中、河南「糸侯」子県の仙鶴観には常に七十余人の道士が住んでいた。いずれも専ら修道を怠らない人びとで、未熟の者はここに入ることが出来なかった。

 ここに修業の道士は、毎年九月三日の夜をもって、一人は登仙することを得るという旧例があった。

 夜が明ければ、その姓名をしるして届け出るのである。勿論、誰が登仙し得るか判らないので、毎年その夜になると、すべての道士らはみな戸を閉じず、思い思いに独り歩きをして、天の迎いを待つのであった。

 張竭忠がここの県令となった時、その事あるを信じなかった。そこで、九月三日の夜二人の勇者に命じて、武器をたずさえて窺わせると、宵のあいだは何事もなかったが、夜も三更に至る頃、一匹の黒い虎が寺内へ入り来たって、一人の道士をくわえて出た。それと見て二人は矢を射かけたが中らなかった。しかも虎は道士を捨てて走り去った。

 夜が明けて調べると、昨夜は誰も仙人になった者はなかった。二人はそれを張に報告すると、張は更に府に申し立てて、弓矢の人数をあつめ、仙鶴観に近い太子陵の東にある石穴のなかを猟ると、ここに幾匹の虎を獲た。穴の奥には道士の衣冠や金簡のたぐい、人の毛髪や骨のたぐいがたくさんに残っていた。これがすなわち毎年仙人になったという道士の身の果てであった。

 その以来、仙鶴観に住む道士も次第に絶えて、今は陵を守る役人らの住居となっている。

引用元青空文庫中国怪奇小説集岡本綺堂http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1301_11897.html


教訓を得るなら「迷信に殺されるな」。

鶴や家の話ではありませんでした。

訳してみた。

・仙鶴⇒仙鶴観(場所名前

・他⇒彼、ある男

・箭⇒矢

・虧⇒欠ける、損なう

・利⇒鋭利

・更⇒(この場合は)三更⇒夜になって6時間後、夜更け

仙鶴観で木の上から虎へ矢を射かけたが当たらなかった。

井戸状の石穴の辺りで虎を探し、鋭利な剛刀で仕留めた。

こうして、仙鶴観は深夜に侵入する黒虎の危険を防ぐことができた。

漢文門外漢ゆえ多少の間違いはお目こぼし下さい。)

元三大師御籤

元三大師御籤絵鈔 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko06/bunko06_00249/index.html

おみくじ三十番 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko06/bunko06_00249/bunko06_00249_p0020.jpg

これによると、元三大師作成した時からこの解釈を取っているらしい。


張竭忠さんのように調べてみて初めて本当の意味が判明するおみくじ

個人的には故事メタでなぞる物語構造面白いと思いました。

しかし、なぜ全然違う解釈おみくじに?

 
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