はてなキーワード: 海岸線とは
海岸線をぐるっと回ったのか。どのくらい日数が掛かったんだろう。
大阪生まれ大阪育ちの若者が田舎に転勤になってもなんやかんや楽しくやってる話
https://anond.hatelabo.jp/20201202220347
東京生まれ東京育ちの地方転勤エントリー書いた作者本人だけど、俺のエントリーがバズってこのエントリーがバズらない理由を失礼ながら考察してる。
多分この日記もバズりが多少は欲しくて書いたんだろうから田舎でヒマしてるワイが添削してあげるで
これは読みやすさ的な話なんだけど、文章全部つながってると読みづらいのよ。
頭がメモリ不足になって文章が溢れてきちゃって追いつけなくなる。
ステージ区切って書いてほしい。段落ごとにスペース3行か4行あけるとわかりやすくなると思う。区切る方がその段落で言いたいことがまとまるし、書く方も読むほうもすっきりするはず。
はてな記法一覧ってリンクがあるから、そこ読んで文章の整形の仕方をちょっと覚えてほしい。
ざっと一通り読んでみたけど、地方転勤で苦しんでる東京育ちの某若者と違って私は適応力が高かった、とダメなアイツと意外とできちゃう私を比較して自分が気持ちよくなってるだけに見える。
多分親から褒められて育った良い性格の良いお嬢さんなんだろうなとは思うんだが、控えめに遠回りに自画自賛してる長文を読んでも他人はハァとしか感じない。
中二病こじらせたようなめちゃくちゃ痛い自画自賛するとかの方向で振り切れば多少は注目されたかもしれないけど、どこか遠慮がちに守りに入っちゃってるのが読んですぐわかる。
ブログってのは、興味ある話題と全くない話題あるもんなんだけど、遠慮がちな自慢ほど興味湧かないものはないわけよ。
このタイトルで長文書くんだったらどういう読者に向けて書くのかそれを頭の片隅にでも意識しておくべきだった。
まあ、もしかしたら親兄弟友人を念頭に書いたものなのかもしれないけどね。
蛇足だけど、女ってのは文頭に書いといた方がよかったな。突然文章の真ん中あたりで女であることを明かされて、一気に文章の印象が変わって俺は混乱した。
ってか関西女ってキャラで書いてくれれば嬉しかったな。当方東京育ちなので、関西の女性の生態というか世界の見え方ってめっちゃ興味あるし。東京育ちの俺よりはたくましそうだってところは伝わってきたが。
俺が転勤した田舎はエントリーにも書いたように新幹線の車窓から見える退屈な田んぼにポツンと位置する工場なわけなんだけど、
増田ちゃんが転勤した長崎の田舎の情景についてもう少しどういう風に増田ちゃんには見えたのか知りたかったな。
俺は九州行ったことないし、長崎の田舎が一体どんなものなのか個人的にはすごく興味があるわけで、そこを教えてほしかった。あったかくて車の窓開けながら海岸線沿いの田舎道を走ってたら潮の匂いがしてきた、みたいな。
俺の日記と違ってところどころに他人とのかかわりが出てくるのはよかったとは思う。だけど人間出すならもうちょっとキャラを強調、まあ匿名だし誇張してほしかった。
いや、これほんと頼むわ。田舎は意外に住めるし楽しいし適応できる、とか途中まで書いておいて結局都会で車が必要ない暮らししたいってどういうこと!?ってなった。
エンタメがあるから?車の運転めんどくさいから?結婚できないから?
ここが重要なのに、どういうこと?
そりゃ田舎がキツイって気持ちはめちゃくちゃわかる。だけど全然適応できて割と楽しめるようなこと書いてるわけじゃん。あれはつまり嘘だったってこと?自分を偽ってたってこと?
人生を先に動かしたいとか書いてるけど長崎の現地の男と結婚して長崎で生活するって選択肢はナシって判断なわけ?
それとも田舎を褒めつつ、今流行りのNot for meでやんわり田舎はやっぱ田舎だって拒否してるの?
自分の実体験が一切入ってないチープな妄想だからだからこんな意味不明な文章になったのだろうか。それとも文章力が壊滅的に低いからだろうか。
東京戻ってきて思ったのは、東京って行こうと思えばすぐに、海、山、湖、川、都心、港、渓谷、果ては島にすら日帰りで気軽に行けちゃうっていう、人が多くて買い物し放題なだけじゃなくて東京近郊でアウトドアレジャーも超簡単に楽しめちゃう最高の地域だってこと。
箱根や富士五湖、横浜の港、アクアラインで千葉に行ってマザー牧場とか海岸線ドライブとか、狭山とか五日市の秋川、高尾山も超気軽に行ける。調布飛行場行けば日帰りで伊豆大島にすら行ける。井の頭公園、代々木公園、新宿御苑みたいな緑にあふれたところもさくっと行って帰ってこれる。つまり東京に住んでれば自然も楽しめるし都会も楽しめるし、文化、芸術、スポーツも最高に楽しめる。
東京で不足する要素が本当に見当たらないのだ。
東京来てこれは思ったな。地方の観光名所って、半径30km以内にせいぜい壮観な観光地が1つ程度あるだけで、一回そこに行ったら半年は行く気にならない。
一回行っても二回行ってもな~んにも変わらないしね。
だけど東京だと半径30km以内に生涯かけても回り切れないほどのラーメン屋や旨そうな店、美術館、博物館、スタジアム、神社、寺、海岸、空港、なんでもある。
しかもある程度回って数年後にまた行ってみても何かしら変化があったりして割と短期間に何度でも楽しめる施設が数百以上ある。
しかも以外に東京って自然がかなり豊かだしね。高尾山とか、秋川渓谷、箱根だって新宿から電車一本だし。箱根で満喫する秋の紅葉は田舎の自然より全然良かった
当方20代後半、都下(いわゆる23区外の多摩)に生まれ、22歳で都内の大学の文系学部を卒業し、ストレートに大手メーカーに総合職として就職。配属は社内情シス。
転勤先は東海道新幹線のとある駅まで数kmの田舎の工場で、工場情シスということで仕事の内容自体は東京の本社とあまり変わらない。サポートデスク的なあまり難しくない仕事だ。
が、転勤して半年ほどたって耐えられなくなってきた。本当につらいし、地方転勤を心の底から舐めていた。東京で生活できることのすばらしさを舐めていた。住環境というものを過小評価していた。
就活してる時に戻れるなら、地方転勤があり得るメーカーなんて絶対に受けない。なまじ偏差値高い大学だったため、同期も大手企業にバンバン内定を決めていることが焦りにつながり、俺もブランド重視で大手メーカーを選んでしまったが激しく後悔している。面接で「地方転勤もあるかもしれないけど、いい?」と聞かれ、都会の生活に飽きが来ていたと思っていた自分は「地方の生活も経験してみたい、東京以外の生活も面白そうだ」というぼんやりした理由で承諾してしまった。今は転職エージェントを使って全力で転職活動している。
俺と同じように実家も東京でずっと東京で生活していて地方の生活も悪くないかもと考えている都内の大学生は多いと思う。そいつらに全力で警告したい。
・東京の生活に飽きたから地方で生活してみたい、は絶対後悔する
・そもそも地方転勤がある会社を受けるな。もし受けるなら40歳平均年収が1000万円以上のところだけにしておけ。平均年収600万円程度の会社で地方転勤させられたら都内勤務で平均年収600万円の会社に絶対勝てないし自分の愚かさを心の底から呪う羽目になる。
・地方転勤は年収換算マイナス300~500万円くらいだと覚えておけ。つまり年収300万円上乗せするから地方に転勤してくれない?と言われて初めてフェアな交渉になるという意味だ。給料据え置きで地方転勤を打診されたら速攻で転職活動しろ。
これを読んでいる都内在住の人は、新幹線に乗って遠出したことが一度はあると思う。東京から新幹線に乗車し、富士山を眺めつつ、新大阪や名古屋に到着し、旅行を楽しむ。ありふれた旅行の一つだ。
都会から都会を結ぶ線路の途中でふと窓の外を見ることもあると思う。眠くなるような代り映えのない田んぼだらけの景色。
想像できるだろうか、新幹線の窓辺から見える田舎の工場で働く人の生活を。俺はまともに想像もしていなかったのに安易に転勤を受け入れてしまった。
地方転勤の想像と現実のギャップやありがちな勘違いを、東京育ちの若者目線でつらつら書き残しておく。
23区外に住んでいると、しばしば「ここは田舎だから」と自虐を宣う人を良く見かける。
こんなのは嘘だ。本当の田舎を知らないから言える虚言そのものだ。
駅までせいぜいバスや自転車、徒歩で心理的負担なく気軽に出かけられて、駅周りの喫茶店やカラオケ、ネカフェ、松屋吉野家なんでもありの活気がある場所にすぐ行ける。
この「心理的負担なく気軽に」行けるかどうかの違いは東京の郊外と、本当の地方の田舎じゃ天と地との差がある。
地方に住んでいると、駅までちょっと出かける、というのは遠足みたいな準備と気合が必要になってくる。
明日は何時に家出て駅まで行って、そこから~時の電車に乗ってでかける、といったようにだ。
東京に住んでいたら、休日に時間を気にする必要なんて全くと言っていいほどない。終電逃しても最悪タクシーがすぐに拾えるし、どんな時間にバス停や駅につこうがすぐに乗車できるからだ。
東京の場合は、財布とケータイだけもって適当にぶらぶら歩きつつ思いのままに東京タワー行ったり新宿で買い物したり美味しいラーメン屋とか書店で思う存分休日を楽しめる。
コンビニも近いからちょっとビール飲みたいなと思ったら思ってすぐに家出て買いに行ける。
それが田舎では全くできない。
田舎に住んでいると、外出するのにかなり気合が必要になる。というか、外出する目的が必要になる。東京に住んでいる時には外に出る理由なんて一切必要なかった。外に行きたいから行く。これだけで十分だった。
だが田舎は違う。目的も無しに玄関出て外に出たところで、何も起こらないのだ。田んぼだらけの道をふらふら歩いてコンビニまで30分かけて行って弁当や飲み物買って帰ってくるくらいだ。田んぼの田園風景は引っ越し初日で飽きる。何にも面白いものなんてない。だって変化がないんだもの。当たり前。
俺は思いっきりこの勘違いにハマっていた。もともと友達もあまりいないし、ネットサーフィンしたりPCでネトゲやったり読書したりとインドアな趣味が多かったので、東京に住もうが田舎に住もうが大した変わりは無いと思っていた。むしろ田舎の方が光回線の帯域を占有できるからネットのスピードに関しては東京より快適だった。
だけど、田舎の周りが田んぼだらけのアパートの一室でゲームやったりネットサーフィンやっていると、孤独感が本当に半端ない。東京に居たときとレベルが違う。東京の外で生活したことがなかった俺は、これが一番堪えた。逆に、東京にただ住んでいるだけで孤独感がほとんど無かったというのは新しい発見だった。実家が近いとか、地元の友人にすぐ会えるからとかじゃなくて、人が多いところにただ住んでいるというだけでこれほどまで孤独を感じないものなのかと再発見した。日中に玄関から出れば東京だと絶対人間に出くわす。ママチャリで買い物してる奥さん、学校帰りの子供、スーツ着たサラリーマン、作業服した作業者、とにかく人間がいる。
対して田舎は本当に人がいない。外に出ても出なくても人がいない。部屋の中で心臓痛くなって倒れても助けは呼べないだろう。俺はアパート住まいだが、隣の部屋は空き室で、数室離れたところによくわからん人が住んでるという感じだ。俺がゲーム中にくらっと来て倒れても誰も気にかけちゃくれないだろう。地方の田舎の、新幹線から見える工場に勤めてる若造が、周りが田んぼのアパートの一室で倒れて苦しんでるなんて、誰にとってもどうでもいいことに違いない。そういう絶望的な孤独を、田舎では強烈に実感することができる。それはインターネットやアマゾンでは全く埋め合わせることができない。
アマゾンは確かに配達される。だけど物欲自体が無くなるわけよ、田舎に住んでると。だって自慢したい相手がいないんだもの。いくら高価なグラボを買ってTwitterで自慢しようにも、自分が惨めな田舎のアパートぐらしってだけで気持ちが強烈に萎える。
で、これ。
住めば都って言うじゃん。どんな田舎でも何年か暮らしてみたらそこが故郷になるって話。あれは絶対嘘。まあ実家がもともと他の田舎にあって田舎→田舎の転勤ならそうなるかもしれない。
だけど東京育ちの若者が田舎に何年住んだって絶対都になんかならない。人がほどんどいない無人の都なんてあるか?何年たっても田舎は田舎だし、人は増えない。当然都にふさわしい店や活気、おしゃれな建築物なんて絶対に作られない。都なんかになるわけがない。
だから、上昇志向のある人間は必然的により良い環境へのクラスチェンジというか移住が目標になる。田舎の工場で工場長や支社長になったって、多分東京で平社員やってる方が圧倒的にQOL高いよ。
田舎のトップになるより、東京の底辺の方が100万倍マシ。なぜなら優秀な人はみんな都会を目指すわけで、田舎で昇進を重ねて偉くなろうが、部下になる奴は救いの無い田舎者とか上昇志向の無い現状維持の変化を嫌う奴らだけ。優秀な奴は結局東京みたいな都会を目指すわけよ。
だから、田舎で昇進して成り上がるなんて人生の目標になるわけがない。偉くなれば東京に上がれるかも、って希望だけが向上心の持っていき場になる。
偉くなって、東京に行くんだ、ってなるくらいなら、最初から東京の会社でキャリア積んだ方が100,000,000倍マシ。地方転勤は本当に虚無。
お盆休みに実家に一週間ばかり帰ったが、田舎暮らしには何の意味もないことをさらに実感することになる。
UberEatsとか、なんだよこの便利なサービスは。外出しなくてもレストランのメニュー注文できて自宅で食えるとか神かよ。
図書館はそこら中にあるし、本屋もまだまだたくさんある。ふらっと気軽に家から出て本屋で立ち読みしたり気に入った本を買って喫茶店で3時間くらいコーヒー飲みながら読書したりとか、最高かよ!!
映画館も多くて、プロスポーツ観戦もちょっと気が向いたらすぐに行ける。ラーメン屋も地方と違ってめちゃくちゃレベルが高い。
「生き物のようにぐにゃぐにゃ生きて動いている街」のど真ん中に自分がいるということがどれだけ楽しく活気に満ち溢れている状態なのかとても強く実感する。
東京戻ってきて思ったのは、東京って行こうと思えばすぐに、海、山、湖、川、都心、港、渓谷、果ては島にすら日帰りで気軽に行けちゃうっていう、人が多くて買い物し放題なだけじゃなくて東京近郊でアウトドアレジャーも超簡単に楽しめちゃう最高の地域だってこと。
箱根や富士五湖、横浜の港、アクアラインで千葉に行ってマザー牧場とか海岸線ドライブとか、狭山とか五日市の秋川、高尾山も超気軽に行ける。調布飛行場行けば日帰りで伊豆大島にすら行ける。井の頭公園、代々木公園、新宿御苑みたいな緑にあふれたところもさくっと行って帰ってこれる。つまり東京に住んでれば自然も楽しめるし都会も楽しめるし、文化、芸術、スポーツも最高に楽しめる。
東京で不足する要素が本当に見当たらないのだ。
お盆が終わり、誰も待っていない田舎のアパートに戻ると半端ない孤独感が波のように押し寄せてくる。同じ大学の同期で東京勤務の奴は、田舎暮らしの辛さなんかこれっぽっちも知らないんだろうなあ、と思い心底うらやましく感じる。都会のおしゃれな店で貴重な20代を合コンや会社の先輩とかとの飲み会で楽しんでる中、自分は音のしない孤独なアパートの一室でやることはネットサーフィンやネトゲだけ。
大手企業だから20代なのに残業代込みで500万円近くもらえてはいるのだが、ぶっちゃけ20代なんて年収300万円の都会住まいで全然十分だし、早くこの地獄から脱出したくてたまらない。。。
年収600万円での地方生活 = 年収300万円の東京生活だ。
地方転勤命令なんて人権無視の非人道的行為そのものだ。好きなところに住む権利は基本的人権の一つだ。
転勤命令を出すなら、最低でも年収300万円は上乗せしないとフェアじゃない。それを会社側の負担がせいぜい数十万円の引っ越し代でほぼノーリスクで転勤命令出せるなんてありえない。
俺と同じ無知による悲劇はもう起こってほしくないし、何よりノーリスクで転勤命令出そうとするクソ企業を心底呪っているので、転勤ありの会社に新卒が全く集まらないような社会になってほしい。
転勤ありの会社は地元から社員を募集するか、年収300万円以上給料上げて募集しないと人が集められない、そういう社会になってほしいと思ってこのエントリーを書いている。
だっておかしくないか?企業は企業で土地代の安い田舎に工場や事業所を作るわけだから、土地の負担額は数十億円単位でセーブできているわけだ。だったらそのセーブした分を人件費に積みかえることで地域が活性化してお金が地方にも回るのに、都会で人を集めといてそのまま地方にぶん投げる、こんなのありえないだろ。せめて金銭的に地方に行ったら得になるようなインセンティブを出せよと。
どうか、人の人生をなんとも思っていないクソ企業にまともに人が集まらず、人事が苦しんで苦しみ抜いてバッタバッタと倒産しまくりますように。
コメント拝読させていただいております。賛否両論あるようで、共感いただけるかた、いただけないかた様々なようです。いくつか共通する提案や質問があったので回答させていただきます。
■車を買ってはどうか
この質問とても多かったですね。ですが、車を買ってしまうと少なくとも数年は田舎に居住することを自分の中で追認してしまう気がして買っていません。
なので、転勤の引っ越し先も工場から徒歩30分ほどの場所にアパート借りています。なお東京に住んでいる時は親の車を借りたりレンタカー使ったりしていました。免許自体は持っています。
田舎で数か月勤務して東京の実家に戻った時の衝撃があまりにも強く、「これ以上田舎で生活するのは無理だ」と白旗を上げたので車は今後も買う気はありません。
すみません、訂正させてください。一番近い新幹線駅に繋がっている最寄り駅まで数kmですね。
新幹線駅までの距離はちゃんと測っていないですが、20km離れているほどではないので数km~十数kmの間です。
地方の田舎、という言葉が聞く人によってだいぶイメージが違うんだなと実感しています。観光でしか行ったことはありませんが大阪、名古屋、仙台あたりの地方都市に住んでいれば
今回みたいな田舎の絶望は無かったと思います。少なくともそれらの地方都市は東京郊外に匹敵する人の往来や活発さがあると思うので。
新幹線に乗って、田んぼだらけの眠くなる景色にたま~に見える工場、そこに自分が勤めるとしたらどういう生活になるだろう、というのをイメージしていただければと思います。
ずっと東京に住んでいた身としては、首都以外の都市は全て地方都市だという認識でした。
改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下は護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。
ここにその輝かしい業績を記したい。
WWII以後も熱戦の時代は続き、世界は民族自決、植民地独立、冷戦下での大国介入に伴う戦争を経験してきたが、敗戦で武装解除された日本は関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。
その冷戦下で9条の改正を目指すのが自民党、護憲が革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党は改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線が固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者の戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新で護憲派だった。
ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり現憲法は良いものだから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである。
その為護憲=お花畑、空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦の終結により日本の立場は流動的となった。
そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本は戦争への協力を求められる事になり、世論は右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界観である。多国籍軍は国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。
湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動に自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジアの民主選挙の監視である。
また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である。
先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。
憲法も法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学に接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権の自由主義的な思想的意味が延々とこね回されたりする。
国民主権の主権は元は絶対王政の国家の正統性の為のフィクションであって、統治権、外交権、交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権が思想的に称揚されるばかりだったりする。
例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権は国家に対する対外的権力だ。
統治の問題は主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATOの軍事介入の理由に人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。
コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。
改憲問題でエポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである。
西部は改憲派のテーブルに座り「憲法9条や前文の精神が日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神が浄化され理想的市民や国民が出来ると言う考えだ。
それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。
これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。
それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃんと改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。
当初から戦争の理由は疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISISが勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。
これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線を留保すべきという流れになるのは当然だ。しかも国連の影響を抑える為の政策を米国はしまくった。この為に国連路線を旨としていた日本の国際貢献もイマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である。
改憲の旗艦となった彼は新右翼の学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。
彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。
すると2007年にコバセツは自民党の憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである。
ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いでリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。
例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。
日本会議の中枢に居るような新右翼の学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。
吉田茂は後に吉田ドクトリンは撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本の海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本が重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。
徴兵は海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識が希薄な若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為だから戦争に従事させろというだけだ。
またいつのまにやら立憲主義は否定されて憲法は国民が守るべき事柄になっていった。
コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである。
何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである。機械ばらして直せなくなるガキかよ。
それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである。
つまり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。
これは左翼神学的で実学に接続しないので憲法学者が微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。
そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通の立法プロセスが付いていないのである。
こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺は朝日新聞の捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似のコンテンツとなってしまった、
南スーダンの情勢が悪化し自衛隊がPKO活動をしている地域が危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。
今回は撤収するにしろしないにしろ「国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りでPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法とPKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である。
なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである。現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったから自衛隊と憲法の問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田口閣下が前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。
更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。
だが隠蔽の責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。
つまり自衛隊に後ろから刺されたのである。制服軍人をスーツの政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家は破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。
だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。
しかも自衛隊の活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。
だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民の意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。
ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族は大事とか良い事が書いてある憲法を朗読しましょう」という流れは保護された。
アイドルのような還暦女性にポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子でロリポップを舐め続けることができた。
だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議を国民に投げかける事はしなかった。
2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末に靖国神社を参拝したところ、日米関係は戦後最大の冷え込みとなった。
太平洋地域の戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである。靖国参拝は英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんである。バカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。
因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義の右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタ・ポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。
こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である。
米議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本の憲法を改正させて米国の戦争をサポートさせるというのは共和民主問わず共同認識になっていたのだ。
集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法で合法としてしまったのだから改憲のカードは無くなった事になる。
PKOの歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本が軍事的な国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。
尚、日本は民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権を承認していた。あの虐殺で国民の半分近くを殺しまくったポルポトを国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。
こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。
護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派の憲法学者も全て護憲派に寝返った。
一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。
そんな情況の空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味が判らんかった聖帝閣下は友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達の稲田防衛大臣は制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。
自分は、DSのおいでよ、3DSのとびだせとプレイしてきた程度の、シリーズではまだまだ新参プレイヤーだ。
2作とも猿のようにプレイしたものの、通年プレイは一度も達成していないので、元々飽きっぽい性格だとは思う。
それでも、あつ森の発売はめちゃめちゃ楽しみにしていたのだ。
発売日当日、Amazonから届いたソフトを本体に差し込み、ワクワクしながら起動した。
そして、その一ヶ月後には既に飽きてしまっていた。
我ながらかなりショックで、シリーズ最速で飽きた原因は何だろう……と、今に至るまでダラダラと考え続けていた。
一時は、あつ森の広告やCMを見るだけで「童心を忘れたつまんねぇ大人になりやがって」と言われている気がして辛くなる程だった。
幸い考えがある程度まとまってきたので、しょーもない罪悪感を吹っ切るべく、あつ森のどこが自分に合わなかったのか、3つの主な理由を述べたいと思う。
これは自分がいかにあつ森と相性が悪かったかを延々語る記事です。
ゲームを一方的にdisってるつもりはないですが、特に誉めたりもしてません。
当たり前だけど、今もあつ森楽しくプレイしてるよ!って人は読まない方がいいです。
理由の90%がこれ。堪え性の無い大人になってしまい申し訳ない……。
だが正直、仕事で疲れて帰ってきて、寝るまで1時間くらいやるか〜って思った時に、のっけからロードで1分以上持っていかれるのは辛い。
待ってる間に歯磨きすっか〜→戻ってきて朝の放送をA連打、またロード……もしんどい。
ロードを待つ間にやれることといえば、真っ暗になったSwitchのツヤッツヤの画面に映る、ツヤなんて欠片も無い自分のフケ顔を眺めるだけ。現実を突き付けてくるのやめて。
しゃーないからスマホでツイッターとかしつつ待ってると、今度はそっちに夢中になっちゃって、ロードが終わってもゲームに戻れない。
てかアッチちょこちょこコッチちょこちょこって、どっちにも集中できなくて逆にストレス溜まる。頼むからもっとどう森の世界に没入させて。フローさせて。
DS時代は朝起きて真っ先にどう森を起動し、早朝の穏やかなBGMに包まれてプレイしながら、徐々に脳に血流を送るのが習慣だったこともあったが、あつ森でコレやろうとしたらロード中に二度寝してしまい無理だった。
どうぶつの森の要素で何が一番好きか?と聞かれたら、自分は「魚釣りです!」と即答する。
慎重に海岸線を歩き、ルアーを投げ入れ、心を落ち着けて音に集中し、ここだ!と引き上げる。そしてまた海岸を往復し……気付けば持ち物がいっぱいで、店に売りに行き……そうやって無心になれる時間が大好きだ。
あつ森は釣りで無心になれない。なぜなら魚が全然出てこないからだ。
外に家具を置くために描画数の上限が厳しいのか?それともマップが広くなり魚が全体に散らばってしまっているのか?素人には分からない。
とにかく、片方の海岸線を端から端まで歩いて、一匹しか釣れなかったということもザラにある。
魚釣りの時間の大部分は、暗い夜の海に目を凝らし、必死に魚を探している時間だ。
丸一日パソコンの画面とニラメッコして酷使した、私の眼精疲労にトドメを刺すのはやめてくれ……。
撒き餌?徒労感が激しすぎるので勘弁してください……。作るのにあんなに時間かかって使い切るのは一瞬って、まるで無課金のソシャゲガチャじゃないですか……。海岸に家具置き始めるとアサリ掘り辛い罠もあるし。
そんなこんなで、予想以上にあつ森に飽きるのが早くて焦っていた4月末。
発売されたら猿のようにプレイして、今度こそどう森の世界に精神移住完遂するつもりだったのに……!これはマズい。外部からの刺激でモチベを回復せねば。
そこで、島クリに本気出してる人達のツイ垢を片っ端からフォローすることにした。
だって、島クリエイター自分でやろうと思ったら凄まじい労力がかかるんだもの……。
最初から完成形がある程度頭に浮かんで、その通りにモリモリ作っていけるタイプの人なら、あの作業はなかなか中毒性があって楽しいかもしれない。
しかし自分のように、チラ裏の設計図を試行錯誤で一つずつゲーム画面で試しては崩し……をひたすら繰り返すタイプの人間には、あの高度な操作性を要求される島クリの作業は8割方苦行でしかない。
そうやって何となく形になったかな〜と思った作品を、SNSのハイセンスな人々は容易く飛び越えていく。
じゃあ、そっち見てた方が、楽しいじゃん!
カントリー島、和風島、ヨーロピアン島、都会島、日本の田舎島、廃墟島……一人のプレイヤーでは到底全ては実現できない、あらゆるアイディアが形になった島を日々大量に見られるSNS。最高。
なに?加工しまくりの画像一枚じゃゲームの楽しさは全然伝わらないだって?
住民との面白い会話、ダイジェストで気持ちよくまとまった日々の作業風景、そして苦労して完成した島の一区画を歩き回る喜び。
それがコンパクトに、ストレスフルな場面は適度にカットされて、見やすくまとまっている。
やれることの範囲が狭いので、皆1日のルーティンは大体同じだし、
プレイヤーの個性を出しやすい家具のレイアウトも、家具が少ないから大体似通った感じにしかならないし、
「自分でもやってみたい!」という気持ちになりにくいんだよね……。
以上が、自分なりに考えたあつ森に早々に飽きてしまった理由だ。
自分の現在の楽しみ方は「あつ森を楽しくプレイしている人々ありき」のものなので、あつ森自体を貶めたり、今も楽しくプレイしている方々を馬鹿にする気持ちは毛頭ない。
あつ森、いいゲームだと思います。プレイヤーの皆様、本当に尊敬しています。いつもありがとうございます。
こうやってお気持ち供養することで、「ものの一ヶ月でドロップアウトしちまった……自分はもうダメだ……」とかいう意味不明な罪悪感から解放されて、アプデなんかをキッカケに軽い気持ちで「ちょっと久々に起動してみるかな〜」って思えるといいな……と、期待している。
おしまい。
日本人が知るアメリカというのは海岸線に近い一部の地域(サンフランシスコとかニューヨークとか)で内陸部のことは知らないことが多いというのは定番ネタだろう
更に言えばネトウヨから出羽守なんて言われている人たちが思想的影響を受けているのは西海岸の一部の地域であることが多いのも定番ネタか
しかしそんな出羽守も実際のところ北米西海岸のリベラリズムをよく理解せず、なんだかんだで日本文化の尺度で北米西海岸のリベラリズムを解釈してはガチ勢にツッコミ入れられてしまうということが繰り返されてきた
何故そのようなことが起きるのか?
理由は単純で北米西海岸のリベラリズムの正体が「努力し続けることによって自分自身を磨き上げ人間レベルを上げようというマッチョな思想」であるということを理解していないからだ
北米西海岸のリベラリズムは個人が置かれている環境の影響によって努力することすらできない者のために努力できる環境を作り上げるということはする
これは言うなれば「スポーツジムが存在しないのであれば高性能なマシンが完備されているスポーツジムを用意する」というやり方であり、当然ながらそのジムでマシンを動かして筋力や心肺機能を高めるのは個人自身の努力によって行われなければ"ならない"のだ
口を開けていれば降ってくる恩恵なんていうものは北米西海岸のリベラリズムからすると資本主義をリードするステイツの敵である共産主義でありアカなのである
一緒に努力しよう!努力するアナタは素晴らしい!より一層努力することでアナタの人生は豊かになる!
四肢が欠損していようが、遺伝子異常を抱えてようが、難病に罹患してようが、アナタ自身が今できる努力をしてレベルアップしよう!努力するための環境サポートは任せろ!
もちろんその様子はテレビで放映し努力しようとする仲間たちに伝える!アナタは多くの人から称賛を得て名誉を獲得する!(北米の)社会に認められるんだ!
これはスタートに過ぎない、明日はもっと高いレベルへ挑戦しよう!!!
北米西海岸のリベラリズムは大真面目にこのようなことを考えており、自分の努力の結果をFacebookやInstagramで公開するのである
だからこそ鍛え上げられた引き締まったボディを高く評価し、そこには男女のエロシチズムすら内包する美しさがなければならないし、北米で活躍する俳優やモデルはそういう人物が選ばれる
北米西海岸のリベラリズムの表層に感化された日本の出羽守がいくら男女平等や人種差別反対を訴えようとも表層しか理解していないので(北米西海岸のリベラリズム的に)おかしなことを言い始めるわけだ
BLMだってシンプルに考えたら良い。白人が黒人の努力する権利を奪うなである
なぜ死刑反対なのか?死んだら努力できないからである。それ以上のレベルアップが見込めないからである
北米西海岸のリベラリズムは努力しない怠惰な者は想定されていない。それは共産主義だからだ
北米西海岸のリベラリズムへシンパシーを感じるのであれば、アナタは日本社会へ様々な分野のスポーツジムをたくさん作る訴えをし続け、アナタはそのスポーツジムで鍛え続けなければならない
もう凄まじい岸念慮。
あれ休日中にポンといけるところじゃないでしょ?
ああいうところって都市の入れないところじゃないけど、普通に人生では入れないわけ。
関係者以外は立ち入れない。
しめ縄があるところなんて岸というより絶壁なんだけど、無人島、あれね。
あれはずるい。未開なんですよ。2020年なのに。
人がいない。人が住めない。インフラがない。
ところが普通の人生を送っていたらあの無人島の岸にはたどり着けんのよ。
普通にどこの海岸からでも見えるそこら辺に点在する無人島に一度も入らずに人生を終える。
こんなことありますか?
そこにあるのによ?
あるのにょ。
岸念慮。
あとは湾になってるところね。
あの岸もなかなか。
普通に車なんかで向こう側に行くといいです。
向こう側の人は向かって左側とか向かって右側とかになっちゃう。
急に鏡の住人みたいになる。それがいつの間にか起こる。
望遠鏡で覗いてよおく念慮してみてよ。
見え方が違うんだなもう。
あれなによ。
あれなんにょ。
岸念慮。
たびたび北海道のローカル線の廃線や使われていない道路などの議論がネット上ではあり、
無駄な公共投資の削減、コンパクトシティ化の促進、計画的撤退などの議論がなされます。
日本がこれから人口減少を迎えるにあたって、日本が小さな政府を目指すか、北欧型の福祉国家を目指すか、
さて、どちらを目指すにしろ、つまり、皆さんの思想がどちら側であるにしろ、
どちらも最低限の国家の機能として「安全保障」と「治安維持」は必要不可欠です。
100年以上前に夜警国家論がラッサールに批判されたときですら、
関東近郊、たとえば群馬、栃木や静岡あたりまで含めた地域に、日本国民全体を集めて住まわせることは
東京と同程度の人口密度をキープすれば可能でしょう。超コンパクト国家です。
では、我々が廃棄したエリア、つまり人が住んでいない四国や北海道、東北、沖縄あたりをどうしましょうか?
人が住んでいないので、公共サービスを提供する必要はないですよね?水も道路も電気もいらない。
放置しておきましょうか。
すると、何が起こりますか?
超過密の東京国の生活に合わなかった人たちが抜け出し、スラムをつくるでしょう。警察もいないですから、無法地帯ですね。
捨てた北海道や沖縄はどうなりますか?沖縄はアメリカが欲しがるかもしれません。
北海道はロシアや北朝鮮に占領されちゃうかもですね。それでよいのでしょうか?
つまり、小さな政府であれ、福祉国家であれ、日本が現在の日本の領土の「安全保障」と「治安維持」を
実現するには、国の中に交通ネットワークを引き、警察や軍隊に類似するものを配置し、
川や山、海岸線を維持管理する必要があるんですよ。もし人が東京近郊にしか住んでないとしても。
これは北海道のローカル線の廃線うんぬんの話ではないです。ネオリベな人たちが赤字路線を廃線したいならすればよいと思います。
しかし、ローカル線を廃線し、辺境の民をすべて東京に移住させたとしてもなお、
我々は国境線を維持する必要があるんですよ。そのコストのことをどう考えていますか?
どっちみちそのコストが必要ならば、その周辺に住みたい人に住んでもらって、維持管理コストの一部を負担してもらってもいいんじゃないですか?
こういう考え方が、地方や辺境の維持管理が必要な理由の一つだと思います。
※追記
誤解されると困るので、「だから、地方や辺境の維持管理が必要です。非効率のように見えても、地方に人が住んでも良いのです」と言いたいわけではなくて、
非効率な居住形態を縮小しましょう、みんな大都市近郊に住みましょう、と言っている人たちが
「安全保障」と「治安維持」の維持管理コストをどのように考えているのか知りたい、というのが本稿の目的です。
大都市圏に集中して住んでも、日本の現在の国境線と山、川などの国土を管理しようとすると、
どちらにしても膨大なコストがかかるわけで、人がいなくなればそれだけコストが増大します。
たとえば維持管理のための基地への道路ネットワーク、食料、生活必需品はどうしましょうか?全部空輸しますか?
東京都市圏に甚大な影響を与えるであろう川やダムは放置しますか?維持管理しますか?
特定のエリアに住むことを諦めたとしても、川や土地は繋がっていますからね。上流の影響は下流(=都市圏)にくることは不可避です。
すべてのサーバを関東に置きますか?地震がきたらどうしましょう?クラウドで米国か第三国に置きますか?
でも、それなら、縮退後にこれらのコストがかかったときに、「こんなはずじゃなかった!」というのはやめてほしいのですよ。
そんなの五輪で十分です。
コストカットのために縮退して、日本国民全体で東京に移住したのに、実はさらにお金がかかるような国土構造になってしまった、なんてのはまっぴらごめんです。
だって、そうでしょう。効率性のために、居住の自由を制限し、冗長性も失い、ある種の人権を放棄するわけです。目の前の効率性のために。
そして、結果として効率的じゃなかっただなんて、愚の骨頂でしょう。
これらのコストも踏まえたうえで、それらを含んでも日本は縮退を目指すべきだ、と言ってほしい。
もしくは、これらのコストは膨大なので、日本は一部国土を切り捨てて、四国や九州、沖縄は放棄する、とちゃんと言ってほしい。
そうして、やっと議論ができると思うのです。
仙台と九州あたりの海岸線沿いにあるという「牡蠣焼き小屋(生もあるでよ)」に旅行にいって
https://anond.hatelabo.jp/20191001025606
読ませてもらった。活発な、Ingressのいちばん濃い部分を味わい尽くしたエージェントが執筆したものと見受けた。位置情報ゲームを遊ぶ者は全員情報産業の奴隷だといわれればそれまでだが、奴隷の鎖をきらめかせてみせるそのスタンスには共感しなかった。
が、それは大したことではない。自分には共感できないスタンスや哲学を持っているエージェント(プレイヤー)がいるのがIngressというゲームだ。失礼、「Ingressはゲームではありません」のだったっけ。
ポータルを占拠し、ポータルとポータルの間にリンクを繋ぎ、リンクを三角形に結んでコントロールフィールドを青く染める。基本ルールはシンプルなのに、いや、シンプルだからこそプレイスタイルに幅があった。
いろいろなエージェントを私は見かけた。
エージェントAは海岸線と山岳地帯に出没しては大きなコントロールフィールドを作り、凄い勢いで人々を洗脳していた。このエージェントには「お得意の場所」が何か所かあるらしく、飽きずに何度もコントロールフィールドを作っていた。ガソリン代は無限の様子だった。
エージェントBは妨害者だった。いつもいつもエンライテンド(緑)陣営の補給エリアに現れては補給の妨害をしていた。街じゅうに無意味なリンクを貼り、とにかく、邪魔をするのが大好きのようだった。Ingressには邪魔なリンクを特別にありがたがる人々があると聞いたが、彼はその一派のようだった。
エージェントCは旅をするのが趣味らしく、国内外のさまざまな街からミッションメダルを集めていた。かと思えばエージェントDは自分の街から出たことがない様子で、半径3kmほどの小さな世界でIngressを遊んでいた。エージェントEはおそらく専業主婦で、子どもを連れて公園に来るたびポータルを占拠して小さなコントロールフィールドを作って帰っていくが、ときどき都内のミッションメダルを集めていた。
ハングアウトに参加しているエージェントもいれば参加していないエージェントもいた。さまざまな人々が参加している以上、そしてシンプルなルール以外に束縛するものの少ない位置情報ゲームである以上、ときにはトラブルもあり、心無い発言をするエージェントや不正行為を働いてアカウントをBANされるエージェントも見かけた。どんなプレイをするのかがエージェント個人個人に委ねられているから、それは仕方のないことだったのかもしれない。むしろIngressというゲームの人口規模の小ささと地味なインターフェースのおかげで、最小限のトラブルや諍いで済んでいたのだろうと思う。ポケモンGOの人口規模にIngressと同等の遊びの幅を提供していたら大変な騒動になっていたに違いない。道交法違反、公妨、放火、殺人、あらゆる犯罪が発生して位置情報ゲームの心の闇がまことしやかに語られたに違いない。
Ingressはプレイヤー総数では後発の位置情報ゲームにかなわないが、シンプルなルールのうえにエージェントがそれぞれのプレイスタイルを貫く自由度の高さでは負けてはいない。
「位置情報ゲームを遊ぶ時はね、誰にも邪魔されず 自由でなんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……。」
ハングアウトで繋がってもいいし繋がらなくてもいい、なんなら全国のポータルキー集めだけをしても構わないのだ、Ingressというゲームは。
増田はIngress-Prime以前のUIを「旧スキャナのUIはお世辞にも良いものではなかった」と述懐しているが私はそう思わない。IngressのUIは最高水準だったと思う。キーロッカーで指定したポータルキーが手持ちのポータルキーのソートに反映される仕様は、そこらのクソなゲームのUIに爪の垢を煎じて呑ませたくなる。エージェントがポータルに埋められる8つのレゾネータのレベルが8,7,6,6,5,5,4,4なのも素晴らしいアイデアだ。ゲームデザインの最も基礎的な次元で、エージェント同士が協力するコンセプトがはっきりと示されている。
バッテリーへの負担が少なく、目にもやさしく、必要時には片手でも操作できるUIは、過酷な天候や地形にも対応できるタフなアプリだった。それでいて青や緑に輝くコントロールフィールドやポータルは美しかった。個人的には、このUIのおかげでA16までIngressを遊びきれた。他の位置情報ゲームに比べて地味だが、目や手によく馴染むUIだった。
新しいUI「Ingress-Prime」が実装されたので一週間ほど触ってみたが、あのタフなUIにはまだ見劣りする。これからのアップデートをお祈り申し上げる。だが新しいUIになってもIngressの本質は失われていない。commやIngress-Intel越しにみえるエージェントの挙動は変わっていない。誰もが自由でそれぞれのIngress人生を遊んでいるということだ。私は位置情報ゲームには自由な遊びであって欲しいと願うから、これからのIngressも自由な遊びであって欲しい。
私はもう現役のエージェントとは言えないが装備一式は揃えてある。いつかシェイパーによる地球侵略が始まった時には、レジスタンスの仲間と、いやエンライテンドのエージェントとも轡を並べて戦うつもりだ。予備役召集の日がやってきたら、エージェントとしての責務をまっとうするよ。
夢見悪…
昨日別にウォーキング・デッドもリゼロも見てたわけでもないのになぜかその2つをかけ合わせたような夢を見てた。ぶっちゃけ言えば夢にゾンビ出てきた。しかも大量に。
冬、高い崖の上みたいなとこに尖塔が建ってて、ゾンビが来ることは時間の問題。
夢の中でリトライ繰り返してて詰み状態からどう安楽死するかにうつるのが喫緊の課題になってた。正直逃げ切ることなんて諦めていた。
夢の中の自分がもうこれしかないみたいに、ぎりぎりまで引っ張って高度差を利用して飛び降りるのが楽と激しく頷いていて。
リトライ中、下まで行って、海岸線を歩いて小屋まで行って閉じこもって激しく叩かれるドアを見ながら餓死したり、日和って上まで戻ろうとしてエレベーターで追いつかれたり、生きながら食べられるのはグロかったな。嫌だった。高度差が足りなくて即死できないこともあって辛かったな。雪がクッションになってた。岩肌が硬いのに。
寝具替えたら悪夢である。起きたら腰いてえ。いやでももしかしたらどこかの世界線の自分が今ももがき苦しんでいるところに結線しちゃったのかも。あれはほんとに辛いな。。。
消されてもいいように増拓しとくね
やってみたら自分に向いてるのか苦にならない。
だけど別の意味で苦。
どうしたらいいのだろう、、。
隊長のスナイプスキルがあれば安心してアタックはできるけど、5ランク上の敵は侮れない。
灯台を隊長が陣取れれば必ず勝てるけど、まず最初に敵の大砲のようなスナイプで灯台は破壊されるだろうな。
そしてすばっしっこい敵のアタッカーに私が耐えられるか、うまく私が気を引いてるうちに隊長がスナイプしてくれればいいのだけど、、。
海岸線は射線が通り過ぎてスナイパーの狩場になるな。
あー!考えれば考えるほどうまくいかない!