はてなキーワード: たぬきとは
追記4:
湘南ライフタウンは藤沢市が人外魔境の原野につくった5万人の都市。イタチやたぬきしか住んでない原野な上にどこの駅からも5km以上離れているまともな感性があるひとなら絶対購入しない土地。限界ニュータウンゼロである。
「モノレールの建設予定がある」そういう流言をまことしやかに流したのである。ただの噂ではない。藤沢市がモノレール建設のためと思わせぶりな土地の買収を実行。また、アクセス道路にいかにもモノレールのための用地に見えるようなスペースを設定。アクセス道路のトンネルにはモノレールが通れるスペースを設定。
いやこれ、ぜったいモノレール開通するでしょ。モノレールが開通しない理由が見当たらない。
モノレールと東海道線1本で東京に通勤できる!!そんな期待をともない格安な住宅街は飛ぶように売れた。
後に藤沢市はモノレールの計画などない。検討したこともない。と公式に表明。
藤沢のようなクソ地方都市にはもったいないものすごい策士がいるんだよな。
いや。それでも藤沢はクソだけど。
うっせーたぬき汁にすっぞ。
20数年ほど前の高校時代に、修学旅行でニュージーランドへ行くことになった。
インドア派かつ、特に海外にもニュージーランドにも興味のなかった自分だが、事前学習ということで色々資料を調べさせられた。
ラグビーが盛んで、キウイという鳥がおり、フィッシュ&チップスという食べ物があるらしいことが分かった。
修学旅行当日。人生初の飛行機に乗り、人生初の海外へ向けて出発した。
乗り物酔いがひどい体質だったが、幸いトラベルミンが効いてくれた。
ニュージーランドに降り立ち、何かサービスエリアのようなところでホーキーポーキーというアイスを食べたりしながら初日は終了。
翌日はチームでの行動だった。友人同士でチームを組んでいたので気安い旅だった。
博物館を見たり、DVD売り場を併設したスーパーらしきところで「おお、SAMURAI Xだ」「YU-GI-OHもあるぞ」などと言いながら街を散策した。
TRPGなどで使うメタルフィギュア専門店らしきところにも入ったりした。
一旦集合時刻となり、全生徒がOK(大橋巨泉)ショップに集合した。
そこで1~2時間ほどの自由時間のち、ホテルへ移動というスケジュールだったと思う。
その時ふと、街中で見かけたフィッシュ&チップス屋が気になった。徒歩で15分ほどの距離だったので、今なら十分に間に合うだろう。
大橋巨泉グッズを購入する友人達に「ちょっとフィッシュ&チップス行ってくる」と言い残して、出発した。
微妙な記憶を頼りに到着し、写真を指しながら「フィッシュ&チップス プリーズ」とカタコトですらない英語で伝え、無事にゲットした。魚フライとポテトの味だった。
目的も果たしたので大橋巨泉の元へ帰ろうとしたが、自分がどちらの方向から来たのかが分からなくなってしまった。
確かこっちだったはず…と歩き出すが、周りの風景に見覚えがない。そもそも元来た道自体に見覚えがないので、あっているのか間違っているのかすら分からない。
兎に角進んでみるしかないと歩き続けるが、大橋巨泉の巨の字も見えてこない。
集合時刻までに大橋巨泉ショップに帰らなければ、警察などに連絡されて最終的には合流できるだろうが、その時の教師や友人や同級生達にどんな目で見られるか、想像するとゾッとした。
こんなことになるなら、ニュージーランドに来たのだからと惑わされたりせず、自分も友人と大橋巨泉グッズを物色しておけばよかった。
魚フライとポテトなど、スーパーのお惣菜コーナーで買っておけばよかったのだ。
旅のしおり的なものに簡易な地図はあったが、英語も碌に話せないので、道行くニュージーランドの人々に道を聞くこともままならない、絶望的な気分だった。
神は死んだと思った。
しかしその瞬間、目の端に見慣れた言語が見えた。日本語だ。「居酒屋たぬき」と書いてある。
藁にも縋る思いで店内に駆け込み、「すみません!客じゃないんですがいいでしょうか!?」と泣きついた。
幸い店員さんは日本人で、日本語が通じたため、自分が持っていた簡易な地図を見て今がどの辺りか、どちらの方向に行けばよいか、を教えてくださった。
何度も礼をして、教えられた方向に進み続けると、大橋巨泉ショップが見えた。無事に帰ってこれたのだ。集合時刻にも間に合っている。
何食わぬ顔で友人と合流し、「いやー、ちょっと迷っちゃってさー」などと言いながら、その後の日程も無事に過ごすことができた。
小さい頃はまだ闇市が主流でね、物心ついた時には姉と一緒に焼いた豚の鼻なんかを食べたりしていた。
生まれは田舎で、たぬきがとことこ歩く姿をよく見かけたりしながら小学校へと登校したもんだ。
人里離れた村だったけど学校は立派な木造で、生徒の数もそれなりに居たんだよ。
当時はまあ大した娯楽もなかったのだし、子供の数が多いのが普通だったんだ。
中学、高校と実家暮らしで、大学入学と共に上京することに決めた。
懐かしいなぁ。あのとき母さんと姉ちゃんが駅まで迎えに来てさ、汽笛が鳴ってゆっくり動き出すと二人とも映画みたいに走ってさ、泣きながら「がんばれ!」って声をかけてくれた。
俺もおんおん泣いて「頑張るから!」と姿の見えなくなった二人にも聞こえるように必死に叫んだ。
だから死ぬ気で勉強をして、大学の頃はあまり遊ばなかったなぁ。
少しでもいい会社に入りたい。それで、ちゃんと仕送りして、恩返しがしたい。
そんな思いでいっぱいだった。
努力の甲斐もあって名の通った一流企業に就職してからすぐバブルになった。
新入社員でも給料はうなぎ上りで、毎晩先輩や同僚と夜の街に繰り出しったけ。
すべてが眩かった。
大学時代、特に想い出がなかったせいもあって、そうした思いは顕著だった。
その後、バブルは本物の泡のようにあっけなく弾けた。
翌日、出社すると他の皆が思いのほか落ち込んでもいなかったのが印象的で、仕事終わりにはいつものように飲みに言った。
でも、少しだけ口数が少なかった気がする。沈黙は雄弁だった。
その後PCが一般家庭にも流通するようになり、俺は95を買った。
家に来た初めてのパソコンがそれで、今では考えられないくらいモニターは分厚かった。キーボードも深い。
時代の流れというのは時に緩やかで、時に激しい。
それは俺の幼少時代と社会人時代を対比させているようであり、技術の進歩は目まぐるしかった。
30手前の頃、PS2が発売され、それでも俺はドリームキャストを買った。
先見の明があるから、と当時はそう語ったが、今にして思えば単に傾いていたかったのだろう。
それでも初めてKanonをプレイしたときの衝撃は今でも覚えているし、だからDCを選んだことに悔いはない。
30も半ばになると今度はVRと来たもんだ。
時代の変化は早いものだなと感心し、ファーストペンギンのつもりで飛び込んだ。
実際PS4のVRは凄かったし、最初は本当にサメに食われるんじゃないかって冷や汗を搔いたほどだ。
あの時の背中の冷たさは今でもはっきり憶えている。でも、VRは思ったより流行らなかったな…。