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はてなキーワード: 飛鳥時代とは

2021-07-16

近衛家は、古い公家五摂家ひとつといわれている。鎌倉時代には、自らの荘官氏族である島津氏薩摩国支配させた。

戦国時代には、豊臣秀吉親族にしたと思えば、その翌年には薩摩島津(近衛)が豊後大友氏の領地放火して回っている。ところが大友軍は援軍を求め、豊臣秀吉(近衛)の傘下に入るのだ。やむない話だと言うこともできるだろう。

ところが調べてみると、大友軍の領地でも特に被害を蒙ったのは、飛鳥時代公家だった豊後大神氏末裔の城だった。大友軍が大神軍を居城から呼び出し、大友軍の城を護らせたかである大友氏はそれまでにも大神氏の城の近くに同名の城を建てたりして、敬意のなさを見せていた。

近衛文麿首相(近衛)もまた、大神氏には敬意がない。第二次世界大戦中の国策で、大神氏末裔民間水力電力会社数社を今の九州電力接収した。

ところで天皇家とほぼ同等の近衛家赤十字社とも関係が深く、外資軍需産業外資金融産業との繫がりもあるはずである。なぜその辺の資料が少ないのかね?…と、頑張った大神氏末裔は、思わないのかなあ。

2021-05-29

anond:20210524165855

古代ってどのへん? 万葉集時代には平仮名ないよ。飛鳥時代奈良時代もそれなりにちがうけど、平安のまんなかの国風文化時代とは一緒にできないよ。

2021-03-02

日本建築空間』における建築百選

anond:20210301191826

 

増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。

同種の百選としては2005年新建築臨時増刊『日本建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。

https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/

2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。

 

古代 592-1180

法隆寺西院伽藍飛鳥時代奈良
新薬寺本奈良時代末期 奈良
山寺八角763年奈良
平等院鳳凰堂 1053年 京都
浄瑠璃寺本堂 1107年 京都
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) 平安時代後期 鳥取
高蔵寺阿弥陀堂 1177年 宮城

中世 1180-1543

浄土寺浄土 1194年 兵庫
東大寺南大門 1199年 奈良
長寿寺本鎌倉時代初期 滋賀
西明寺本堂 鎌倉時代初期 滋賀
熊野神社長床 鎌倉時代初期 福島
法界寺阿弥陀堂鎌倉時代初期 京都
厳島神社社殿 1241年 広島
永保寺開山堂 1352年 岐阜
東福寺龍吟庵方丈 1387年 京都
正福寺地蔵堂 1407年 東京
吉備津神社本殿拝殿 1425年 岡山
慈照寺東求堂 1485年 京都

近世 1543-1853

妙喜庵待庵 1581年 京都
園城寺勧学院客殿 1600年 滋賀
園城寺光浄院客殿 1601年 滋賀
妙法院庫裏 1604年 京都
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 1607年 宮城
三渓園聴秋閣 1623年 神奈川
二条城二の丸御殿 1626年 京都
西本願寺飛雲閣 1628年 京都
西本願寺書院 1633年 京都
延暦寺根本中堂 1640年(再建) 滋賀
三渓園臨春閣 1649年 神奈川
曼殊院書院 1656年 京都
桂離宮 1663年 京都
慈光院書院 1672年奈良
江川住宅江戸時代前期 静岡
閑谷学校講堂 1701年岡山
東大寺大仏殿(東大寺金堂) 1705年(再建) 奈良
大峰山寺本 1706年奈良
大国住宅 1760年岡山
岡山後楽園流店 江戸時代後期 岡山
栗林公園掬月亭 江戸時代後期 香川
角屋 1787年京都
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) 1796年福島
大徳寺孤篷庵忘筌 1799年京都
渡邉住宅 1817年 新潟
羽黒山三神合祭殿 1818年 山形
高野住宅江戸時代後期 山梨
金比羅大芝居(金丸座) 1835年 香川
岩根沢山神社本殿庫裏 1841年 山形

近代 1853-1945 ※は現存しないもの

柏倉家住宅座敷蔵 1866年山形
旧大明寺聖パウロ教会堂1879年愛知 ブレル、大渡伊勢吉(棟梁)
宝山寺獅子1882年奈良吉村太郎(棟梁)
風間住宅1896年山形
武徳殿 1899年京都 松室重光
花田家番屋 1905年北海道
吉島住宅1907年岐阜西田伊三郎ほか(棟梁)
古谿荘 1909年静岡
高松城披雲閣 1917年香川清水
住友ビルディング1926年大阪住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造)
聴竹居1927年京都藤井厚二
大倉精神文化研究所本館 1932年神奈川長野宇平治
軽井沢 夏の家 1933年長野 アントニン・レーモンド
※両関第二工場酒蔵 1933年秋田
日向別邸 1936年静岡ブルーノ・タウト
近江神宮1940年滋賀 角南隆、谷重雄
前川國男1941年東京前川國男
吉田五十八1944年神奈川吉田五十八

現代 1945-2005 ※は現存しないもの

神奈川県立近代美術館 1951年神奈川坂倉準三
斎藤助教授の家 1952年東京清家清
コアのあるH氏のすまい 1953年東京 増沢洵
南台の家(吉村順三邸) 1957年東京吉村順三
八幡浜市立日土小学校1956年愛媛松村正恒
香川県庁舎 1958年香川丹下健三
スカイハウス(菊竹清訓邸) 1958年東京菊竹清訓
ホテルオークラのメインロビー1962年東京谷口吉郎
日本生命日比谷ビル(日生劇場) 1963年東京村野藤吾
国立屋内総合競技1964年東京丹下健三
大学セミナーハウス1965年東京 吉阪隆正
千代田生命本社ビル1966年東京村野藤吾
白の家 1966年東京篠原一男
塔の家(東孝光邸) 1966年東京東孝光
※虚白庵(白井晟一邸) 1970年東京白井晟一
KIH7004 1970年東京鈴木
中銀カプセルタワービル1972年東京黒川紀章
大分県医師会新館 1972年大分磯崎新
プロジェクトマグネット1973年店舗模型倉俣史朗
阿部勤邸 1974年埼玉阿部
北九州市中央図書館1974年福岡磯崎新
幻庵 1975年愛知石山修武
上原通りの住宅1976年東京篠原一男
中野本町の家 1976年東京伊東豊雄
小篠邸 1981年兵庫安藤忠雄
弘前市斎場1984年青森前川國男
SPIRAL 1985年東京槇文彦
バーオブローモフ1989年福岡倉俣史朗
海の博物館1992年三重内藤廣
豊田市美術館1995年愛知谷口吉生
ウィークエンドハウス1998年群馬西沢立衛
せんだいメディアテーク2000年宮城伊東豊雄
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル2002年神奈川アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ
金沢21世紀美術館2004年石川妹島和世西沢立衛

2020-07-23

anond:20200723214620

日本飛鳥時代まで文字を持たなかった国なので、、、日中に挟まれ韓国が影響を受けてると言うよりは、韓国(当時は百済)が日本に与えた影響じゃないかなと。

2020-04-22

見ずして死ねない日本の伝統建築10

友人と旅行すると,興味ない人には日本の伝統建築って全部同じに見えてるんだろうなーって思うことが多い.つまり,「見えて」いても「見えてない」んだな.解像度が低い.だから,その深み凄みを紹介するために10建築を選んでみた.

この増田で,日本建築のどこをみればいいかが少しでも理解してもらえればいいな,と思っている.あくま日本建築を楽しむための「入り口」として,もしくは旅行の楽しみを一つ増やすためのお手軽ツール(やや自嘲をこめてるよ,これ)として,読んでくれると嬉しい.

法隆寺中門~回廊(奈良県生駒郡飛鳥時代

 法隆寺は誰もが行ったことがあるだろう.しかし,一般人教科書に載っている五重塔と金堂があるなーって思って,終わりなんじゃないだろうか.違うのよ本当に.中門なんだ.中門から回廊にかけての柱.伊東忠太エンタシスと呼んだ,胴張りの柱.この列柱をみて,何も感じない人間は,おそらく建築に対するセンスを持ち合わせていないのだろうから,これ以降この増田は読まなくてもよろしい.建築は細部に宿るのだ.その原初的プロポーションは,日本にも偉大なる古典クラシック)があったという証なのだ

東大寺法華堂(奈良県奈良市奈良時代

東大寺に行くと,一般人大仏殿で満足して帰る.ちょっと詳しい人は,二月堂まで登って景色を楽しんで帰る.じゃあ玄人は?その横の法華堂だ.しかも,入り口ではなく,裏側からまずその建築美を楽しむ.この風景こそが,まさに創建時代東大寺からだ.実はこのお堂は,左半分が奈良時代仏堂であり,鎌倉時代に右半分の礼堂を増築している.だから側面からみるとチグハグな印象を受ける.なぜこんな事になっているか原初的には,仏像は外から拝むものなのだ.お堂の中は仏の領域であり,そこに人が入ることはなかった.しかし,日本は雨が多いため,実用的な理由で,仏堂に並び建つ形で礼堂という,人が入って拝むためのお堂が作られるようになる.そして,その後この仏堂と礼堂を一つの大きな屋根で覆うようになったのが,日本の最も一般的正方形に近いお堂の形だ.なぜ奥行きがあるのか,それは二つのお堂を包摂してるから.そして,内部を内陣(仏の領域)と外陣(人の領域)に分けている.

 とまあ,東大寺法華堂だけで日本建築史が語れるんだけど,法華堂自体価値とは,その仏堂と礼堂の処理の過渡期的な建築であることはもちろん,何よりも,天平建築天平彫刻がそのままの形で残っていることだ.奈良時代日本はやっと中国・唐から最新の様式を導入できるようになった.そしてそれは王者建築なんだな.力強く,おおらかで溌剌とした建築.柱と梁によるシンプルで強い建築.その素のままの美しさでは,天平建築にその後の建築は敵うはずがないのだ.

富貴寺大堂(大分県豊後高田市平安時代

平安時代建築って,数も少ないし奈良時代以前の建築に比べて,それほど素晴らしいとは思えない.よくも悪くも日本ナイズされて,よく言えば品のある住宅風の,悪く言えば構造ダイナミズムが弱い建築が作られた.平安時代,人は仏堂の中に入り,座って祈りを捧げるようになった.それゆえ,天井は低く,落ち着いた空間が好まれるようになった(卵が先か鶏が先かはわからないが).軽く高床にして,床下の風通しをよくしているのも日本化のひとつ.これらの日本的要素を建築史的には和様と呼ぶ.平等院鳳凰堂和様代表みたいに言われているけど,あれはまあ,例外的な派手派手金持ち建築なわけで,一般的仏堂というのは,この富貴寺大堂のような三間四方(柱が4本で間が3つの正方形型)の阿弥陀堂だろう.これがよい.実に素朴で,柔らかい建築.人と仏像距離がちょうどよくて,いつまでも中に入って祈りを捧げられるような,そんな自然体の空間.こういう空間は,奈良時代ダイナミックな,ところせましと仏像が建ち並ぶ空間とは異なり,ほっとするんだな,日本人なら.とはいえ,この富貴寺は大分のド田舎にあるので,さすがに東京から行くにはマニアじゃないと無理かな.東日本なら,福島県いわき市にある白水阿弥陀堂も同様の建築でよい(らしい.東国はいまいち詳しくない).さらに,平安時代に由来する浄土庭園の中にあるので,こちらの方が平安時代的でよいかもしれない.

東大寺南大門奈良県奈良市鎌倉時代

日本建築史上の最大のトピックといえば,鎌倉時代東大寺再建に関わった僧,重源の大仏である.先述したように,平安時代には天井を低く住宅風の落ち着いた仏堂が好まれたが,重源が宋からもたらした建築は,その真逆をいくエポックメイキングものだった.天井は貼らず,屋根裏まで高く伸びる柱.縦横無尽に頭上を飛び交う貫(ぬき,柱と柱をつなぐ水平の補強材).そんな規格外建築東大寺大仏殿という世界最大級木造建築を作るためには,従来の和様建築では構造的に不可能であった.それゆえ,より合理的ダイナミックな中国・宋由来の建築が取り入れられた.日本建築史上最も巨大な,今見られる大仏殿の3倍にもなる内部空間.それはパンテオンにも劣らぬ迫力のものであったろう.そんな鎌倉大仏殿を今,見ることはできない.戦国時代田舎侍が燃やしてしまたから.しかし,東大寺南大門は当時のまま残っている.東大寺南大門をくぐる時は,ふと上を見上げてみよう.そして,圧倒的な上昇感に震えてみろ.

金剛三昧院多宝塔(和歌山県高野町鎌倉時代

多宝塔って知っているだろうか?下層が方形,上層が円形の平面を持つ,ちょっと変な建築だ.空海に由来するため,真言宗系の寺院によく見られる.これ,塔がそもそもインドストゥーパ釈迦の遺骨を納めた仏教最初期の半球系の建造物)に由来していることをあらわしている.先祖帰りの建築だ。中国にも存在しない、日本オリジナル奇形建築木造建造物としては,かなり無理矢理な形をしていることから,よほどの宗教的意味があったのだろうと思う.今は15mほどの小型のものが多いが,そのオリジナル高野山のコアである根本大塔だ.しかしあれは無理があったのか,燃えては再建を繰り返し,今ではもう鉄筋コンクリートだ.そんな中,金剛三昧院の多宝塔は本場高野山にありながら,鎌倉時代のもので,有名な石山寺多宝塔と並んで最も古く美しい形をなしている.どっちでもいいんだけどね,やっぱり本場の多宝塔を見た方がよいかな,と思うわけだ.

軽くさわりだけなのに,予想以上に長くなってしまった.まだ鎌倉までしか進んでいない.この増田反響があったなら,あとの5つも書いてもいいかな.


消えてたのでキャッシュからリカバリー

2020-03-18

これからすごく下品で罰当たりなことを言います、ごめんなさい

昔は女性器のことをホトと呼んだそうです。古事記では秀処という漢字を当てています。くぼんだ土地にホトとついているのは、それが語源だとされることもあるそうです。東海道保土ヶ谷も、そうした説があります

それはそれで構わないのですが、仏ということばは「ホト」に「ケ」で陰毛という意味になってしまうのではないでしょうか。大変罰当たりで申し訳がないのですが、仏教を受容した飛鳥時代日本人は、どうして「ブッダ」を「ほとけ」と訳したのでしょうか。

ブッダ」と「ほとけ」は音が似ていなくもない気がするのですが、当時の日本人は、「ほとけ」という言葉を聞いて、淫猥意味に聞こえなかったのでしょうか。上代特殊仮名遣いか何かで、別の音だったのでしょうか。

たいそう罰当たりで恐縮なのですが、仏教古代日本語に詳しい方に、お尋ねしたく思います

本当に下品で罰当たりでごめんなさい。でも気になっているんです。

2019-12-11

anond:20191211230729

アイヌ人「うわ~」

沖縄県人「いまさらそんなこといってるのヒクわ~」

飛鳥時代に多く来ていた帰化人とその子孫「ほんまやわ~」

2019-08-16

Wikipediaってどこまで信用していいの

なんかさー韓国フランスの間の国交っていつからあるのって言われて調べようとして色々やってたら「第6共和国」なる記述に行きついてさ。

第二次世界大戦後、6つ目の国なのね今の韓国韓国(6)なわけ。今の俺たちに換算すると日本(6)大日本帝国(5)江戸幕府(4)室町幕府(3)鎌倉幕府(2)平安京(1)か。

そりゃあ、昔の国が結んだ条約なんて知らねーよってなるわ。へー。李氏朝鮮なんて韓国(-1)だから飛鳥時代相当だもんな。そのころ国を大日本帝国に売り飛ばしましたよねって言われても確かに知るかボケってなるわな。

うわーショックだわ。知れば知るほど眉間にしわが寄るわ。なんだこの国。

2019-04-25

日本時代区分を考える

日本史時代区分表 - Wikipedia

縄文時代

弥生時代

どうせ土器が二種類ありました卑弥呼がいましたくらいしか習わへんし

ここらへんはまとめて「土器時代」でええやろ。

土器が普及してから大和王権が成立するまで」の先史時代的な定義で。

古墳時代

飛鳥時代

研究者的にはいろいろあるみたいやけど

大和王権が成立してから大宝律令が制定されるまで」と定義して、

大和時代」に呼称を戻してええんちゃう

奈良時代

平安時代

大宝律令の制定からその終焉まで」ってことにしよか。

いわゆる「律令時代」ってやつやな。

飛鳥時代律令時代に含まれるんかもしれんけど。

平安時代

で、そのあとは王朝国家体制期という意味での「王朝時代」なんかな、よくわからんけど。

仮に朱雀天皇即位および藤原忠平摂政就任区切りとすると930年か。

で、鎌倉幕府が成立するまでと定義しよか。

鎌倉時代

まあ「鎌倉幕府の成立から鎌倉幕府の滅亡まで」でええやろ。

建武の新政めんどいから鎌倉時代に含めるっちゅうことで。

てことは実質的に「室町幕府の成立まで」か。

南北朝時代

室町時代に吸収されてええんちゃうか。

室町時代

とりあえず「室町幕府の成立から室町幕府の滅亡まで」で。

安土桃山時代

ここは短すぎるんよなあ。

明応の政変から安土桃山時代までを「戦国時代」として独立させるほうがええかもしれんね。

江戸時代

これは「江戸幕府の成立から明治政府の成立まで」でええやろ。

明治時代

大正時代

昭和時代

一世一元やからって時代区分にする必要もないやろ。

明治政府の成立から太平洋戦争敗戦まで」でまとめようや。

名前は「帝国時代」とかでええんちゃう

昭和時代

平成時代

太平洋戦争敗戦から現在まで」と定義して、

またなんか大きな変化があるまでひと括りでええんちゃうの。

昭和平成・令和から取りつつ憲法にも引っ掛けて「平和時代」とかどうやろ。

そうすると次に戦争が起きたとき平和時代終焉かな。

まとめ

土器時代3世紀
大和時代3世紀701年
律令時代701年〜930年
王朝時代930年〜1185年
鎌倉時代1185年〜1336年
室町時代1336年〜1493年
戦国時代1493年〜1603年
江戸時代1603年〜1868年
帝国時代1868年1945年
平和時代1945年

どやろ?

2019-01-19

時代劇ならぬ古代劇のようなものはないのかね。

時代劇ならぬ古代劇のようなものはないのかね。

飛鳥時代とか。

2019-01-11

anond:20190110134005

せっかくなので次の元号について統計的アプローチ予測したいと思う

飛鳥時代の大化から平成まで元号は248種類あるが使われた漢字は72種類しかない

一覧にするとこんな感じ

大化白雉朱鳥宝慶雲和銅霊亀養老天平感勝字護景応延暦弘仁長承嘉祥寿斎衡

貞観元寛昌泰喜徳康保禄永祚正治万久文建福禎乾亨中武興国授至明享吉政昭成

そして室町時代の文安(1444年)から大正(1926年)までの500年弱の間、

寛政」を除く全ての元号が今まで元号で使われてきた漢字の中から選ばれている一方で

「昭」と言う漢字昭和まで「成」と言う漢字平成まで使われたことがなかった

このため、「大正」までは前に倣えの姿勢元号を決めてきたが

昭和」以降は既存漢字だけでは組み合わせがそのうち枯渇するため

新しい漢字を入れていこうとしたのではないかと推測できる

一方で「平」は今までに12回、「和」は今までに19回元号使用されたことがある

参考までに元号に使われた回数の多い漢字ランキングも貼っておく

1位 永   29回

2位 天、元 27回

4位 治   21回

5位 応   20

これを踏まえると新しい元号も、「今まで元号10回以上使った事のある漢字

使った事のない漢字から文字ずつ取るのではないか」と素人ながら予測できる

これに加え、イニシャルが被らないとか画数が多すぎないとかの条件を踏まえて

過去落選候補を見ると新しい元号はほぼ絞られてくる


まり、新しい元号

「 光 文 」 で す ! ! !

2018-12-12

私は小中高と学校に通学している間、歴史には全く興味が持てなかった。

理由としては、私は生まれも育ちも札幌なのだが、私が興味というか憧れるのは戦国時代だとか飛鳥時代平安時代といった時代

基本的幕末辺りから北海道日本史に食い込んでくるわけだが、上記の様な歴史として面白い時代基本的本州九州を中心とした土地舞台となる。

となると、そういう何百年、何千年の歴史を身近に感じ取れれば少しは歴史に興味持ったであろうと思うが、北海道は基本アイヌがメインとなる。

もしくは、江戸時代幕末辺りで松前とかそこら辺ぐらいしかないわけだけども、松前函館道民としてはそこまで惹かれないし、幕末にはあまり興味ないので尚更見向きもしなかった。

そういう経緯もあってか、まともに歴史に興味を持ち出したのは20代になってからだった。

歴史好きから見れば賛否両論あるようだが、歴史初心者としてはNHKタイムスクープハンターとか歴史秘話ヒストリアはとても面白かったし、これが切っ掛けで日本史に興味持った。

今でこそ日本史に興味持ち出して、なんならここ最近ゴールデンカムイ等の影響もあってアイヌ文化にも興味も出てきたから、今更になってアイヌ文化が身近に触れられる道民で助かったと思う。

ただでもやっぱり、少年時代には序盤にも書いたような時代に縁のある土地や、神社や寺などに触れてみたかったと憧れる。

そういう意味では京都奈良まれの人は羨ましかった。

歴史好きからしてみれば「北海道蝦夷)にまつわる歴史なんて○○あるじゃん」って思う人もいるかもしれないが、そこはまだ歴史興味持ち始めたばかりの若輩者という事でご容赦願いたい。

2018-06-10

お金って凄い

酔が冷めても思う。

物々交換じゃ欲しい物が一致しない場合があるから、じゃあそれと同じ価値がある共通の物即ち「お金」を作って

それでやり取りしようって考えた奴すげーよ。そして広めたやつも。

だって今よりもっともっと狭いコミュニティだったり、スマホも無い中で物々交換をしていた中でさ、

お金ってのがあるらしくてさ」

なんて村一の情報から聞いてもさ、

「いやいや!じゃあそのお金価値を誰が決めて安定させるんだ?!そんなもん信用ならん!」

って最初は疑うに決まってるじゃん?

でも、

A村

B村

C村

Z村

の中で他所物々交換に行っている奴らはずーっと考えていただろうね。

物々交換ってちょっとあれだよな」

って。

からお金の話を聞いた時直ぐにそのシステム理解して賛同する人が多かったのではないかと思う。

その半面反対する人も多かったのかな。だって価値保証してくれる奴は誰なんだって思うでしょ。

だってA~Z村の中でお金を作っても、また別の地域では別のお金存在する。

これをまとめた奴すげーよ。

貨幣っていうのは同時多発的(物々交換限界に気付いて)色々な地域で生まれたのか、それとも

国を統率していた奴が一気に広めたのか。

駄目だ。泥酔状態なのでよくわからん

でも、自分で作った物を物々交換にしていたらその限界に直ぐに行き着くだろうし、

お金というシステムを聞いた時に反対する奴はやっぱりそんなにいなそう。

ただ繰り返しになるけど、その価値保証してくれるのか?ってのが一番のネックだよね。

やっぱりそうなると、全国各地で色々なお金があったんだろうなぁ。

中国は貝だっけ?

それを最終的に共通貨幣にするまでの話って記録に残ってないのかな。

凄い面白そう。

パソコンスマホも無い中で誰が全国に広めてお金の信用を勝ち取ったのか。

そいつ営業力というかマネジメンというか、ひとつ言葉を間違えればぶっ殺される時代に、

いやぁたいしたもんだ。

だってさ、

農家「おう」

漁師「おう」

農家今日はおまえの魚を3匹欲しいんだが……」

漁師「おう」

農家「俺がいつも持ってくる大根3本ではなく……このお金ってやつだ」

漁師「……貝殻だけどな」

農家「だけど、これ3枚で」

漁師「おう。魚3匹と交換だ」

農家「本当にいいのか?」

漁師「いいんだよ」

農家「そうか」

意味わからん

漁師はその貝殻3枚をどうするんだ?

その貝殻はどこから発行されるんだ?村長

不思議だよな。今まで捨てる程の貝殻に急に意味を持たしてお金にするんだもん。

最初どうやって分配したんだろう。

ということを考えると初めて全国に流通した貨幣が和同開珎というのがあまり

信用ならん。富本銭とかあるらしいけど、もっとあったんじゃないの?

700年までずっと物々交換だったの?それはそれで遅すぎな気がするし。

飛鳥時代営業へたれだったのかな?

2018-04-09

anond:20180409150550

無尽頼母子というのは、

一説には飛鳥時代から存在したという日本古来の相互扶助の仕組みで、

もともとの頼母子は利子なしで金を積み立てるものだっただが、

次第に利子をつける頼母子も出てきたことで、

質屋一種であった「無尽」と区別がつかなくなり、同一視されていったらしい。

戦前には銀行と並ぶほどの巨大な無尽組織存在していたこともあったが、

現代では山梨沖縄模合と呼ばれる)くらいにしか残っていないようだ。

2017-10-18

anond:20171018164200

素人考えだけど、飛鳥時代から平安時代にかけて、貴族との婚姻関係を作りまくったことと、神事代表者としての権威があったからだろうか?(メリットがないと、周りももり立てないよね。)

2017-06-27

東京こわい

東京こわい

東京って冬にも雪が積もらないらしい

まり冬でも自転車に乗れるし

冬でもスニーカーを履けるし

冬でもタイヤを変えないらしい

除雪器具持ってないらしい

夜中に除雪車の音で起きないらしい

こわい

冬の東京には半ズボンで登校する小学生がいると聞いて

強いwwwとか笑ってたけど

そもそもスキーウェアで登校しないらしい

テレビ雑誌と同じように季節が進むらしい

入学式で桜が咲くらしい

センター試験吹雪にならないどころか雪が無いらしい

夏服を売り出した頃に夏服が着れるらしい

梅雨とか言って結局こっちと同じように6月に雨が多いだけらしい

白樺の木がないらしい

ハワイみたいな木が生えてるらしい

寿司は安い回転寿司か超高級な寿司しかないらしい

安い回転寿司→ちゃんとした回転寿司→高い回らない寿司

みたいな三段階が無いらしい

イカの足を当然のように引っこ抜ける人が少ないらしい

ここまではまだ半分くらいは信じてたけどここからがすごい

なんと

東京から

富士山

見えるらしい

みんな富士山を観に静岡県に行くんじゃないらしい

東京から富士山みえるらしい

しか浮世絵と同じ橋とかあるらしい

歌舞伎とかそのまま残ってるらしい

なにそれ江戸じゃんとか思ってたら

飛鳥時代だかにできた寺があるらしい

飛鳥時代とか教科書の中の世界

東京の人はこっちの地名が読めないとか

難読とか言ってるからつい調子に乗りそうになるけど

東京は全く読めない地名だらけらしい

江東区とか御徒町とか等々力とかあるらしい

えひがしくでもごとちょうでもとうとうりきでもないらしい

方言もないらしい

おじいちゃんおばあちゃんでも標準語を話すらしい

怒っても標準語のままらしい

東京こわい

しかもそんな富士山とかスカイツリーとか江戸とかをクールジャパンなんて言って持ち上げてるらしい

どう考えてもただのクールトーキョー

しろ東京けがジャパン

ジャパンこわい

ジャパン旅行行きたいな

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

2016-04-11

JavaScript時代分類

・旧石器~飛鳥時代

 「とほほ」などを見てscriptタグjsを直書きしている。ライブラリは使えない。全体の10%ぐらい。

 ( ´∀`) < ボタンクリックしたらテキストの色が変わるようにしたwww。

奈良時代室町時代

 ライブラリを使ってやりたいことがやれれば満足。プログラムはよくわからない。全体の50%ぐらい。

 (,,゚Д゚) < jQueryが使えればそれでよくね?

>> プラグラマとデザイナの壁 <<

江戸時代明治時代

 はやりのツールを使うことに優越感を感じている。プログラムをどう書くかにまで頭がまわらない。全体の30%ぐらい

 ( ・∀・)< React + Redux + react-router …

大正昭和

 プログラミングのものが好き。実務には興味がない(できない)。全体の9%ぐらい。

 < `∀´> < async…いいよね…

平成

 仕様を決めている。ブラウザ実装している。頭おかしい。残りの1%

 (*゚ー゚) < 1010101011101101001110010101

 

2015-06-13

聖徳太子

飛鳥時代だっけ。

10人相手に全部聞けたという伝説の。

戦時中の御前会議で焼き増しして沖縄戦なっちまったじゃねえか…なにやってんだよ昭和

2013-09-16

男尊女卑社会になった理由は宗教観だけではないと思う

女性の方が男性よりも賢明で利口だからだと思う。

これは歴史を見ても明らかで邪馬台国でも飛鳥時代推古天皇治世下でも分かる事だけど、

この前後に立った男の大王では争いが絶えなかった。

これを仲裁したのが女の大王だった。

実際、彼女らが統治した社会では、様々な良い法律施行されていった事からも明らかだ。

こうした賢い女性が上に立つのを良しとしないミソジニー仏教伝来と共に男尊女卑社会を明らかにしたのだと思われる。

そこには女性への劣等感嫉妬の念が垣間見られ、その後戦争状態が延々続く事になった。

今、日本戦争しないのは女性社会進出が許され顕著に増加したためだ。

男尊女卑社会が如何に愚かな事かは、未だ差別社会の続く韓国中東イスラム圏を見れば大いに同意して頂けるものと信じている。

2011-06-27

BLと在日

注:加筆修正しました

最近商業BL作品ばっかり読んでるから、たまにはネット同人作品も読もうかなと思い立って、某ジャンルのサーチから二次創作サイト巡りをしていたときのこと。リンクを辿っていった先に、管理人韓国人であることを明記しているBL小説サイトがあった。日本語ネイティブじゃないとこれはムリだろと思わせる豊かな語彙の小説や日記・掲示板の内容から判断するに留学生やニューカマーなどではなくて、日本で生まれ育った在日韓国人の方であるようだった。

なんかね、これちょっとびっくりしたんですよ。在日の人もBL書くんだなぁって。

いや、こんなにもアニメ漫画の氾濫する日本社会で生きている以上、日本人だろうが外国人だろうがオタク趣味に染まる人は染まるのが当然だろうし、中にはヤオイ二次創作に興味を持って腐女子腐男子になる在日コリアンがいるってのも理性では理解しているんだけど。実際目にしてみると、なんかこう、感慨深いものがありましてね。

そうかー、在日のBL好きってのもやっぱりいるもんなんだなー、っていうか他にもいるけど明かしてないんだろうなー、としみじみしてたんですが、途中でふと思い出した。あれ、ちょっと待てよ?よく考えてみれば、数少ないながら今までにも在日韓国人が登場するBLがあったりするし、在日朝鮮人のBL作家というのもいたりするんじゃないの?そういえば私、そういうの読んだことあったような……、と。

というわけで、今回はBLと在日と私というテーマで今まで読んだ作品を振り返ってみようと思う。長いよー。私が以下で言及している作品には18禁のものもありますのでお気をつけください。




倉科るり=金蓮花   在日のBL小説家

倉科るりというペンネームで、商業誌からBLを出版している小説家がいる。正確にはいた、と言うべきかもしれない。著作の中には絶版になっているものも多く、また1996年の『王様夏休み』を最後に10年以上発刊はしていないようだから公式サイトにも「倉科るりの商業活動は諸々の事情から不可能だと思います時間がないのです。」と書いてあるので、今後も商業誌でBL作品を発表する可能性は限りなく低いと思う。

けれど、在日とBLというテーマを語るなら、彼女を外すことはできない。

実はこの作家さんは、コバルト文庫金蓮花という名義で少女小説も書いている。むしろ金蓮花(きんれんか)というペンネームの方が世間的には通りがいいだろう。私も残念ながら倉科るり名義の本は読んだことがないけれど、金蓮花名義の本は小中学生の頃にわりと読んでいる。『銀葉亭茶話』、『水の都物語』、『月の系譜』は何度も読み返すくらい好きだった。私が金蓮花=倉科るりというのを知ったのは大学生になってからだったけれど、BL読者やコバルト読者には結構有名な情報だったようで、ネット検索するとペンネームを使い分けるようになった経緯や、その他もろもろの噂が出てくる。それらの噂がどこまで本当かわからないのでここでは紹介しない。

さて、金蓮花は1962年生まれの在日朝鮮人3世である東京に生まれ育ち、大学も都内の小平市にある朝鮮大学師範教育学部美術科を卒業した。作家デビューは1994年、『銀葉亭茶話-金剛山綺譚-』で集英社の第23回コバルトノベル大賞を受賞したのがきっかけだった。この『銀葉亭茶話』シリーズは、朝鮮半島舞台仙人精霊、竜や虎、人間たちが織り成す恋愛を描いた朝鮮ファンタジー小説で、仙境にある一軒の茶屋銀葉亭にさまざまな客が訪れ、店主の李月流(り・うぉるりゅ)に身の上話を打ち明ける、という趣向になっている。

金剛山綺譚』の金剛山は、もちろん朝鮮半島に実在する景勝地金剛山をさす。韓国人外国人北朝鮮国内金剛山観光地区に観光をしに行くニュースを見たことのある人は多いはずだ。『銀葉亭茶話』シリーズ物語に登場する実在の固有名詞は地名だけではない。例えば『蕾姫綺譚』では重要なキャラクターとして李氏朝鮮建国の王李成桂が登場するし、『舞姫打鈴』のヒーロー新羅英雄金庚信である

ところで、学校で歴史を習う前に本シリーズを読んだ影響で、私は現在でも「新羅」という単語を見ると反射的に「しらぎ」ではなく「しるら」と読んでしまうし、「李成桂」を見ると「りせいけい」ではなく「りそんげ」と読んでしまう。私にとって、このシリーズこそが生まれて初めて触れた‘朝鮮文化’なのだった。馬鹿子供だったので現役読者だった小学生の頃は朝鮮半島というのがどこにあるのか知らなかったし(私は当時本気で外国=アメリカであり、世界には日本アメリカの二国しかないのだと思っていた)、儒教文化だとか在日朝鮮人だとかさっぱり理解できない上に興味もなかったので読み飛ばしていたけれど、雪華(そら)や明蘭(みょんらん)という美しい漢字と不思議な響きの名前、美味しそうなチヂミ、ふわりとチョゴリを広げて鞦韆をこぐ明朗な少女、霊山の天辺に位置する天池(ちょんじ)の聖水……どこか好奇心を刺激する異国のイメージの数々を私は大いに楽しんだのだった。特に金剛山の壮大な瀑布や峰々が鮮やかに染まる絢爛豪華な秋の描写などは、幼心にうっとりするような綺麗な文章だなぁとドキドキしながら読んでいた。金蓮花という作家のおかげで、私は隣国と幸福な出会い方をしたのではないかと思っている。そういう意味で、『銀葉亭茶話』は私にとって印象深いお話なのだった。

金蓮花自身にとっても、作家として第一歩を踏み出したシリーズであると同時に、祖国を舞台にしたロマンスであることを考えれば、『銀葉亭茶話』はやはり特別思い入れの深い作品なんじゃないだろうか。

彼女の著作のあとがきでは、自らのルーツを意識した話題が多い。北朝鮮に観光に行って金剛山の絶景に感動した話、伯母が北朝鮮に帰国した話、親戚が日本北朝鮮と中国に住んでいるという話、子どもたちの通う朝鮮学校お祭りのためPTAとして準備に奔走する話など。

そんな彼女がBL小説を書くときは、金蓮花ではなく倉科るりというペンネームを用いた。倉科るり名義の本では特に朝鮮半島と関連のある物語を書いたりはしていないようだ。少女小説コバルト作家としての自分とをきっちり分けたかったのかもしれないし、儒教を尊ぶ在日コミュニティ価値観からするとさすがにBLを在日朝鮮人と明かしている金蓮花名義で出すのは難しかったのかもしれない。少女小説家としてデビューする際も家族からかなり強硬に反対されたと聞く。少女小説を書いているのがバレて家族会議土下座までしたそうな。ましてやBLをや。

まぁ、BLを書くときと少女小説ラノベや一般漫画を書くときでペンネームを変えるのはbasso秋月こお榎田尤利もやっていることで、金蓮花に限った話ではないけれど、少女小説では在日ネタをふんだんに出していた人がBLではそれを一切出さないというのも興味深い話ではある。

ちなみに金蓮花名義の本に一切男性同士の恋愛や性愛が出てこないか、というとそういうわけでもない。

ここでちょっと萌え語りをさせてもらうと、『銀葉亭茶話』シリーズで私が一番好きなキャラクターは長白君(ちゃんべつくん)だった。彼は、朝鮮半島の付け根、北朝鮮と中国の国境にまたがる山(朝鮮語では白頭山中国語では長白山)の守護仙人精霊だったかもしれない)で、シリーズ通してのキーパーソンである李氏(注:男性)に想いを寄せている男性である。李氏に冷たく拒絶されたり、周囲の神仙たちに揶揄されたりしつつも、変わらず李氏に暖かい真心を捧げ続けている好漢なのだ。李氏には他に想い人がいるのでまず間違いなく長白君の恋が成就することはないのだろうが、私は彼の男らしい包容力にときめいたのでぜひ幸せになってもらいたいと思っている。別に相手は李氏じゃなくてもいいから。というか長白君には楓英とか緋鯉の精みたいな豪胆で誠実な男性とか似合うと思うんだよね。




高城響、鷹匠早紀    在日の攻め

studio may-beを結成して仕事をしている高城響と鷹匠早紀は、BLゲーム乙女ゲームシナリオライターとして活動している他に、連名でBL小説を書いて出版したり、漫画原作をしたりしている。音楽業界を舞台にしたBL小説『たぶん、きみが好き』『いつか、翼を広げて』『きっと、空も飛べる』という3冊がマイクロマガジン社から発行されたのは2004年のことだった。この3作は天才指揮者と男性アイドルカップルを描いたお話なのだが、実は高城響と鷹匠早紀がやっているサイトに長年連載していた大長編小説『KT』を手直しして発表したものだという。

そのサイト大長編(まだ完結していないらしい)には、脇役として若手の指揮者同士のカップルが登場する。彼らを主人公にした話もサイトには掲載されており、出会い恋人になるまでを描く『'O sole mio』、体の関係を持つまでに至る続編『hard day's night』、いちゃいちゃらぶらぶしてる『jealous guy』などがある。珍しいことにこのカップルの攻めは在日コリアンである

『'O sole mio』と『jealous guy』では、攻めが在日であることはストーリーの主軸にはほとんど絡んでこない。民族が違うということよりも同じ夢を抱く音楽家同士であることの方が、この物語の中では圧倒的に比重が大きいのだ。

しかし、『hard day's night』の中ではそれらしいエピソードが挿入されている。演奏会の予定が突如キャンセルされてしまった攻め。晴れがましい仕事を一つ失った原因を、受けに問われた攻めはしぶしぶこう語るのだった。「オレ、在日やん」。BLで、差別に直面する在日の姿が描かれているのは大変珍しい。そもそも在日としてのアイデンティティを持ったキャラクターが登場するBL自体ほとんど見かけないんだけどね。

ところで、この物語の攻めは、大阪出身関西弁を喋る陽気な男性だ。大らかで人懐っこい。阪神タイガースファン。長身ガタイが良くて、美男子ではないけれど、受けから見れば十分に魅力的な容貌をしている。そして新進気鋭の指揮者である。実際、読んでいて、彼は魅力的な人物として描かれているように思った。なんとなく関東生まれ関東育ちな自分からすると良い意味で典型的関西人という印象を受けた。

神経質で繊細、あまり感情表現が得意ではない日本人の受けは、自分と正反対の気質の攻めに惹かれていく。自分にないものを持っている相手を反発心を抱きながらも愛してしまパターンというのはわりと恋愛物の王道だが、受けが攻めの才能に嫉妬をして苦悩したり、振り切ってもついてくる攻めに苛立ったり、励まされたりと感情をぶつけ合ううちに自分の恋心を認めざるを得ない展開になるというのは微笑ましくて良かった。




檜原まり子   日韓ハーフの受け

BL小説家檜原まり子の作品の一つに『マリンブルーは密やかに』という小説がある。2008年、講談社X文庫ホワイトハートから発行された。舞台アジアオセアニアクルーズ中の豪華客船。そこに乗り込んだ保険会社から委託を受けた調査員の受けと、元自衛官の攻めのラブストーリーだ。

正直なところ、この物語の一番興味深いところは、ストーリーなどよりも受けの両親だと思う。

受けの母親日本人医師だった。そして父親は在日韓国人の寿司職人。両親が渡米して、一家がカリフォルニアにいたとき受けは生まれた。医師免許が認められなかった母親は畑違いの仕事をして受けを育ててくれたらしい。後に離婚したようだが、受けの両親の話こそ読んでみたいと思った。寿司職人と女医さん夫婦米国滞在記なんていろいろ波乱万丈なドラマがあって面白そうじゃん。

というわけで、本作の受けは間違いなく在日韓国人の血をひいているのだが、特に在日とか韓国に関するエピソードは出てこない。受けが韓国語を喋ったりキムチを食べるシーンがあるわけでもない。彼が民族的なコミュニティ朝鮮半島に思いを巡らすシーンがあるわけでもない。冒頭、地の文でさらりと受けの生い立ちが説明されているだけで、その後はとくに彼が韓国系であることには触れないまま物語は終わるのだ。

なら別に受けが在日の血を引くキャラクターである意味ってないのでは?と思わないでもないけれど、まぁ深い意味がなきゃ在日がBLに出てはいけないってこともないし、これはこれでいいのかもしれない。なんと言ってもこの作品の舞台はいろいろな国籍のクルーが働く豪華客船なのだから。南太平洋を悠々と航海する船上のキャラクターにちょっとしたマージナルな要素を付与したいと作者が思うのもわかる気がする。船長の喜屋武も、受けと同様にマージナルな人物である米軍勤務の軍人を父に持つ沖縄出身の男性で、金髪碧眼という日本人離れした容姿だが自らを日本人だと主張する。とても珍しい韓国系の受けや、沖縄と米軍というデリケートバックグラウンドを持つキャラクターが登場するという点において、このお話はなかなか印象深かった。




タカヒサ亨 渡来人カップル

『うつしみの花』は、幻冬舎リンクスロマンスから2008年に出版された全2巻のBL漫画である。作者はタカヒサ亨。舞台飛鳥時代日本で、有名どころでは葛城皇子中大兄皇子)、皇極天皇、間人皇女などが登場する歴史ロマンBLである。ちなみに中大兄皇子と受けがキスする場面もあったりする。

主人公(受け)は、百済から渡来人で金工職人である実父を持つ美少年。攻めは、受けの父親の弟弟子で、乃楽山(ならやま)の麓に住む百済系渡来人であり以前は都随一と呼ばれた腕を持つ金工職人だった。受けが攻めの弟子となるので職人師弟ものBLであると同時に、渡来人渡来人の子孫が出会って恋に落ちる物語なのである

職人の村で修行をする受けは、師匠であり恋人である攻め以外の渡来系の職人たちとも交流を持つようになり、技術を磨いていく。いつか攻めの故郷である百済に帰還することを夢見るようになるし、自分たちの存在は発展させ続けていく技術に拠って立つのだという強い自負心を持つに至る。彼らのアイデンティティは明確に百済系渡来人であることにあり、ヤマトにはないんだなーと読んでいて思った。

日本舞台なのにあえて渡来人カップルを描くなんて随分通好み(?)だなと思う。こういうのは珍しくて面白い試みだ。同時に、ちょっと私の中の日本人としての感覚が一抹の寂しさというか疎外感を感じなくもなかったような……。この記事のテーマである在日と古代日本渡来人はちょっと違う存在なのでこの作品には簡単に触れるだけにとどめるけれど、思いがけずヤオイを読んでいて自らのナショナリズムが浮上したという点で本作は印象深い作品だった。私が気にしすぎなだけだけなんだろうけれどさ。

もちろん、健気で頑張り屋な受けとクールで格好良い攻めは萌えたし楽しめた。

ところで、作者のタカヒサ亨は、角髪(みずら)に萌えてこのお話を描いたらしい。わかるわー私もみずら萌えです。特に青年の下げみずら姿は可愛くて良い。不評でなかなか描かせてもらえなかったとのことだが、残念だ。もっと見たかったよー。






コメント返し

ハテブやツイッター増田2ちゃんねるコメント下さった方ありがとう。せっかくだし嬉しかったので、いくつかのコメントにお返事します。


興味深い記事/勉強になった。/ほう。/おもしろい。

恐縮です。ありがとう

なんでこんな興味深い記事が増田なんかで書かれるんだ……いやまぁ理由は明確に推測できるんだけど。

自分のブログではこういう記事を出したことがないのでうまく書けるかわからなかったし、書いたとしてもこの記事だけ場違い感がぷんぷんして浮き上がってしまうだろうと考え増田しました。悲しいことですが、BLも在日も荒れやすい話題ですから

金蓮花くらいしか思いつかなかった。/金蓮花さんは有名だよね。/ 金蓮花は私がコバルトを熟読してた時代の後の人で懐かしい。/金蓮花の作品なら子供の頃読んだことあるな。/金蓮花さんなつかしい

私は金蓮花の初期の作品が好きでここ7~8年の著作は読んでないのですが、作品だけじゃなくて作家自身も本当に興味深いなと思ってその動向は注目していますラノベ界でも稀な在日外国人であることを明かしている作家さんですよね。まして日本と関係が良好でない国を祖国に持つ人ですから日本社会で生きる彼女自身、悲しみや自負心を含め複雑な感情はあったんじゃないかなと想像しています。日朝首脳会談が開かれ拉致問題が発覚した2002年、この年に発売された『伽椰琴打鈴』を最後に、彼女の著作の中で一番‘朝鮮’を押し出している銀葉亭茶話シリーズが発行されていないというのは、偶然かもしれないけれどなんとなく象徴的に見えたり……。

違う文化がベースから、私から見たらよく分からないのかもねと当時は思ってた。アメリカ人日本とか中国に感じてるオリエントな感じってこういうのを言うのかなーと中学生の私には興味深かった。/舞台設定もそうだけど、登場人物たちの価値観や倫理観が自分の知っているものと異なる面もあって、それはそれで興味深かった。

確かに文化が違う、価値観や倫理観が異なっている、と強く感じる点はいくつかありましたね。面白いなと好ましく思う相違もあれば、モヤモヤする思いを抱える相違もありました。私の場合女性の描かれ方や女性の置かれた立場というのが結構気になりました。『蝶々姫綺譚』で、女性が子を成さずに死ぬのは罪である、罰として死後の世界で償わなければならないという設定には、儒教ベースにしたファンタジーだとこうなっちゃうのか、とびっくりしたなぁ。日本日本よりフェミニズムの強い欧米発のファンタジーじゃそういう設定ってないでしょう。まぁ、当時の価値観を反映させた設定であることが良いという考えもあるとは思いますが、現代女性としてはファンタジーとはいえその世界の女性は生き辛そうだなという感じたのも事実でした。

「オレ、在日やん」。か。読んでみたい。/記事中の作品をどれも読んでみたい。

ネットで読める作品もるし書店図書館に置いてある作品もあります。個人的に、興味や関心の度合いが在日>BLという人よりは、BL>在日の人の方が楽しめるとは思いますが。

日本では掛け算、欧米では×ではなく/(スラッシュ)なので割り算。

全然関係ないけど、最近アメリカスラッシュ翻訳されて日本書店の店頭に並び始めましたよね。日本語海外スラッシュが読める日が来ようとは思わなかった。嬉しい。

「「新羅」という単語を見ると反射的に「しらぎ」ではなく「しるら」と読んでしまうし、「李成桂」を見ると「りせいけい」ではなく「りそんげ」」あるあるwww

お仲間発見。やっぱり他にも同じ経験のある方がいるんですね。

この語り口、既視感が。/この特徴的な文体Twitterのどこかでみたような?

皆さんがどなたをイメージしているのか興味あるなー。私は弱小ブログを書いてますが、Twitterはやっていないんですよ。

韓国人って恋愛もの入れ込むよね。日本人もだけど、なんかより情熱的っていうか

韓国人日本人よりも情熱的、確かにそういうイメージありますよね。こんな記事書いといて言うのもなんですが、家族友人知人に韓国人や在日の人っていないんで実際そうなのかはよく知らないけれど。

しかし、作者や登場人物が在日だろうとハーフだろうと、作品に影響なければ関係ないのでは?/BLを前にしたら作者が在日とかどうでもいいんだけど、気になる人もいるんだ

確かに作品が面白ければ作家は関係ないというのは仰る通り。私も普段は書き手には興味がないんですが、今回は冒頭で書いた某サイトにはなんだか妙に感慨深くなってしまいまして。

在日コリアンに限らずこういう風に創作の中に登場するマイノリティを振り返ってみるというのは興味深いよね。/こういう考察もあるのだねー。/いわゆる『キャラ属性』のフレーバー要素として、在日コリアン・その他を入れるか等。ただ、ふらっと使おうにも"実はよく知らない"事が多いのも、また事実。/彼も特にエスニシティ面で特筆されるような描写はないが、魅力的。

創作の中のマイノリティ、本当に興味深いですよね。読み専なので創作の苦しみは知らないのですが、創作物にマイノリティを登場させる際書き手さんはやっぱり慎重になるんだろうなぁ。セクシュアル・マイノリティが登場するBLは殊にそういう姿勢を求められているジャンルですし。常に政治的に正しいお行儀のよいBLである必要はないと思うけれど、読者が引くような差別的な描写が垂れ流しにされてるBLは読みたくないと思います。私はまだガチでがっつり民族問題を盛り込んだBLというのは読んだことがありません。今後もそんな作品は出ないんじゃないかなと思うし、たとえ出版されたとしても読みたいとは思わないかも、と考えています。娯楽作品には悲惨な差別とか貧困とかの要素は求めていない性質で、どちらかというとイチャイチャ、ドキドキ、ワクワク、エロエロアマアマラブラブって感じのノリの方が好きなんですよ。なのでフレーバー的な登場のさせ方や特筆されるような描写がなくても私はOKなんですが、作家がまったくその問題の背景に無知ではキャラクターの魅力的な属性にはできないわけですしね。作家は10調べたことのうち1を書く(100調べたことのうち1を書く、だったかもしれない)と聞いたことがあります。BLを愛する者の一人として、そういうBL作家さんが今まで以上にたくさん出てくれるといいなぁと願っています

2010-03-06

http://anond.hatelabo.jp/20100305133620

元増田です。回答ありがとうございます。

http://anond.hatelabo.jp/20100305170734

寝る、本読む、立派な遊び。

遊び、人生をいろどる活力剤。

遊びのために生きるって明言するのがはばかられる空気がある気がするのですが、それって私の妄想ですかね。

http://anond.hatelabo.jp/20100305173002

ご存知かどうか分かりませんが、

たとえば「十年泥になって働け」って経営者が明言しちゃったり、

この前のえがちゃんの「労働をすべてに優先すべき」みたいなエントリーがあります。

あと「仕事なんてクソだろ?」と言う海外ニートさんとか。

で、彼らのエントリがみなホッテントリになって、労働に重きを置く人と置かない人での争いが勃発しているのを見ると、

なぜお互いがお互いを「攻撃」しているのか、私にはさっぱり分からないのです。

だって、どちらも生きかたや価値観の違いであって、優劣や正誤を競うものでもないはずなのに。

両者の間には埋めようのない断絶があるように見えるんです。

なぜお互いを認められないんだろう、さらにいえば、なぜ自らの状況に疑問を持たないのだろう、と。

私自身が迫害されてるとは思ってません。ただ、まさかこのままでいいと思ってないよね? という周囲のプレッシャーは暗に明に感じます。

わかりづらい書き方ですみません

きっと、争いを起こすのは人間本能原理なのでしょうね。

戦争も、きっかけはわすかな価値観の違いですものね。

これについては「利己的な遺伝子」でも読み返してみます。

人類に貢献した人間がなぜ尊敬され丁重に扱われるのか?

現実的な話として、今の人類は、技術的にも政治的にも、「労働は尊いものだ」という価値観を完全否定できるまでにはなっていないのではないかなあ。もちろん、将来的には可能かも知れないし、現在でも、技術の組み合わせ次第で可能かも知れないが、適切な仕掛けがまだ見つかっていない、あるいは政治上の都合でまだその段階まで進めていないのではないか。

裏返しで考えると明白ですね。たしかに尊敬され丁重に扱われてしかるべきと私も思います。

そして「労働=尊い」という価値観を否定するのは、現代日本ではまだマイノリティなのは間違いないでしょう。

ただ、大昔から国民すべてが労働に従事する必要性はなかったように思います。飛鳥時代くらいにはすでにニートらしき精神なり姿勢はあったんじゃないでしょうか。「駄目人間の話」は昔話にも出てきますしね。

つまり、なくなってもそれに関わる人以外だれも困らない仕事はけっこうあるのではないか、ということです。

リーマンショックなんて「ための仕事」という屈折のもたらした不自然さの結果ではないでしょうか。

成長を求める気持ちは個人を進歩させますが、集合体、器としての社会に「成長」を望むするのはとてもいびつなもののように私は見ています。

変化や進化なら、あるかもしれませんが。ただこのへんは言葉遊びですね。

(追記)

自分が思っているよりも、現代人にとって「こうなったらよりよいのに」という欲求、言い換えると利便性向上を願う気持ちってかなり強いのかもしれませんね。

利便を得るにも努力や苦労は必要ですしね。ただし、そうした人の希望を利用したやりがい搾取とかブラック企業は滅びればいいのに。 

しかし、てっきり「氏ね」の嵐だと思っていましたが、そもそも何が言いたいのか、なにが疑問なのかを説明できてなかったですねwww

いま一番わたしに必要なのはことばの伝え方だということだけはよーくわかりましたwwwwww 増田のみなさんに感謝します。

引き続きご意見あれば聞かせてください。「人生舐めるなクズが」という方の意見を期待しております。

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